田紳有楽;空気頭 (講談社文芸文庫)田紳有楽;空気頭 (講談社文芸文庫)
(1990/06)
藤枝 静男

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 肋骨を五本切りとられた妻は、沈んだ土気色の顔と青黒く変色した爪を持った身体を担架に横たえて、病室にもどってきた。鼻孔から酸素吸入用のゴム管をたらし、足の甲の静脈に輸血用の針を刺しこまれ、何かの残骸のようになっていた。
                           ――藤枝静男/空気頭
                        
 22日は川崎市アートセンターまで佐東利穂子のソロダンス(勅使川原三郎ディレクション)「SHE ― 彼女」を見にいった。泣きそうだった。でも、わたしがダンスを見て泣きそうになるわけがないから、凝視しすぎて、目が疲れて涙がでちゃったにちがいない。「夜中に鏡を覗くことをおすすめするわ」から始まる一連の台詞がエンドレスで流れていて、そのあいだ、佐東利穂子は後ろにかかっている暗幕とからみあいながら、でたり、はいったり、しながら踊っていた。とてもすごかった。勅使川原三郎のディレクションは音楽がいいと思う。というよりも、何回も言っても申しわけないけれど、勅使川原三郎の趣味はわたしの趣味の直球どまんなかなので、だいすきだった。最初は全身白い服だった。でも、最後だけ黒コートを着ながら踊っていた。スーツっぽい黒コートがかっこういいと思うのは、まちがいなく「FF7」のタークスの影響に決まっているけれど、ほんとうにかっこうよかった。かっこうよすぎて、死にたかった。あと、冒頭の映像が終わった直後の激しいダンス、ひとはひとりで十分くらいのあいだあんなに激しく踊れるのかと思って、そのとき、すでに泣きたいと思っていた。ふりつけがないようにしか見えないところがすごいと思う。音楽と照明のかねあいがあるからふりつけはそれはあるのだと思うのだけれど、あんな適当に動いているようにしか見えないダンスにふりつけがあるって、ちょっと、驚異的なことだと思った。「ひとの身体があんなにきれいに動くなんて!」とすなおに思えるダンスが、やっぱりいちばん好き。
 佐東利穂子は横浜トリエンナーレで、ガラスの上で5時間ぶっつづけで踊っていた。たまにそういう話を聞くと、うっかり、感動してしまう。吉本隆明は昔24時間ぶっつづけのトークショーをやっていた。すごいひとを、ちゃんとすごいって思って、好きなひとを、ちゃんと好きって、思いたい。
「ソロ、1時間公演で4000円は高い!」と思っていたけれど、価値はあった。席はけっこう空いていた。わたしはいちばん前で見ていたから、とてもよかった。わたしは基本的にソロダンスが苦手だけれど、すごく、すごくよかった。勅使川原三郎の新作「オブセッション」は来年5月、今度は Bunkamuraで。7000円と、だんだん値段あがっているような気がするけれど、わたし、負けない。ぜったい、いく。

   ◇◇◇

 現代詩手帖の12月号にはだいたいの詩人の住所(と電話番号)が載っている。こういうのを見ると、詩人とそれをとりまく環境って何なんだろうと思う。高橋源一郎の家にクッキーを持って尋ねていけというんだろうか。りんりん電話のべルを鳴らせというんだろうか。思潮社はいまどきホームページすらない。「現代詩手帖50年祭」のとき、あのひとたちは誰も終了時間のこととか、時間がおしてることとか、まったく気にしていないように見えた。頭がおかしい。

   ◇◇◇

 藤枝静男「田紳有楽 空気頭」を読んだ。「自由すぎだろ!」と思った。ぶっとびすぎてもう何が起こっているのかさっぱりわからなかったけれど、たぶんもう二度と読まないけれど、楽しい。登場人物が焼き物(しかも贋物)とか金魚のC子とか。しかもそれが私小説とか。以下は、鳥葬のシーン。「私」はお皿だと思って読んでくれればいいと思う。

 やがて伜が、刃渡り七十センチばかり、そのわりに巾の広い、重そうな刀を振りかぶって死骸を刻みはじめた。首、腕、脚を切りはなしておいてから、ひとつひとつを棍棒か何かで叩くようにして力まかせに根気よく刻む。腹は裂いて内臓をつかみ出す。あまり鳥が啄み易いようなふうに根気よくやるのである。主人の方は沢庵石くらいの大きなゴロタ石をかかえてきて、岩を敷いた婆さんの頭の上へ何度何度も落として頭蓋骨を砕いて、脳味噌を突つきいいように按配する。二時間近く手間をかけてやっている。この時分になると集まった禿鷹は昂奮して周囲を滑走してまわり、隙をねらっては翼を半開きにしたまま二人の間を走り抜けていたりしていた。二人の服の胸から脚には肉切れや脂が撥ねかえって点々とはりついていた。――ようやく作業を終えたところで飯になり、二人はパンパンと両手を打ち合わせて掌にこびりついた脂や肉を払ってから、伜は銀鉢、主人は私の腹のなかに弁当用の麦焦し粉とバターを入れ、私のかぶった肉片脂もろとも指でよく煉り合わせてうまそうに食った。

「あまり鳥が啄み易いようなふうに根気よくやるのである。」なんて普通の言語意識では書けるわけがないし、書けたとしても推敲段階でこんな文章は直してしまうので、やっぱり、文章がうまいとかへたとか、もうそういうものを見ている場合じゃない、と思う。わたしが読みながしているせいだけれど、ほとんどのシーンで文章が流れすぎていて、何言っているのかぜんぜんわからないし、わかるよう書こうとしてすら、いない。

   ◇◇◇ 

 そろそろフランスに行きます。24日午前4時くらいまでは家にいるので、おみやげ買ってきてほしいひとは一声かけてくれれば、誰彼かまわず、買ってくるよ! 「わいん!」とか「くっきぃ!」とか「ちよこれえと!」とか「ぐりこ!」とか「ぱいなつぷる!」とかリクエストしないと、フランス産の葉っぱとか、フランス産の石とか、フランス産の土とか、フランス産の生水とか、正真正銘フランスでしか手に入らないものになるから、気をつけてね!

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金井直詩集 (現代詩文庫 第 1期34)金井直詩集 (現代詩文庫 第 1期34)
(1970/01)
金井 直

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人は死なない
人は何ものかの手で首をしめられるのだ
そのとき 人は人の形に憎悪のくぼみを残す
そのとき 人は愛をめぐらす
透明な花を咲かせる
そのとき 私はみるだろう
その現実を支えているものの姿を
眼の高さにある太陽を
             ――金井直/病舎で


 いきようようと、ユーロスペースまで行き、受付のかわいいお姉さんに「カネフスキーおねがいしますっ!」と言ったら、「…昨日で終わっています」と言われた。「すみません」と言われた。すみません。「ぼくら20世紀の子供たち」がどうしても見たかったのだけれど、見られない。フランスに行かなければレイトショーで見られるけれど、行くので、見られない。
 しかたないからBunkamuraまでロートレックを見にいった。ロートレックの絵のよさがよくわからないことがわかった。「初めての聖体拝領」がいちばんよかった気がする。子供の顔がこわくてすてき。「衣装を直す空中ブランコ乗り」もよかった。あとは、たんじゅんにロートレック以外の絵がよかった。横浜美術館で見たばっかりだけれどコルモン「海を見る少女」(横浜美術館にいっしょに行ったひとが「あれは少女じゃない」と言っていたけれど、たしかに少女じゃない。肉感的すぎるんだろう)、ポール・セリュジエ「森の中の焚き火」、ジャン=ルイ・フォラン「お目見え」、それにミュシャの絵があった! はじめて実際に見た。みゅしゃみゅしゃしていてきれいだった。裸の絵がいい。
 それから、雪ノ下さん主催の小説新人賞を獲るための勉強会的なものへ。わたしは今回作品を提出していた。たぶん、「なんでこんなわけのわからないものを最後まで読まされなければいけないんだ!」的なことを言われるだろうと思っていたので意外に褒められて、とてもうれしかった。
 最近ずっと思っていることだけれど、小説を書いているひとが相手をしなければいけないのは、漫画を書いているひとや、映画を撮っているひとや、歌をうたっているひとや、踊りをおどっているひとや、絵を描いているひとや、そして銃を持ってひとを殺しているひとだ。踊りをおどってるひとは5歳くらいからみんな熱心に踊っている。音楽をやっているひとも、そういうひとが多いと思う。小説のひとはそういうことをしないし、そういうことをしなくてもいいという幻想しかない。彼女が5歳の頃から踊りをおどっていて、そしてわたしがかりに言葉を使って何かを表現したいと思うならば、わたしはそれに何か応えるべきだった。でもわたしは何も応えなかった。何故なら、彼女は踊りをおどっていて、わたしは文章を書いているからだ。前提としてのずれを前にして、わたしたちは目をそらしている。でも、小説を書いているひとが相手にしなければいけないのは、まさしく彼女だった。彼女とわたしは「ずれ」という一点だけで同じになれる。「ずれ」ということがおそらく唯一の共通認識だった。彼女が踊るならば、兵士は銃を撃ってひとを殺す。その行為は行為という意味では何も変わらない。レバノン戦争の際、ファランジスト民兵がパレスチナ人にたいして「俺たちはやつらを殺して、その娘と妻を犯しにいくんだ」と言った。1000年前のことではなくて、たった数十年前のことだ。それが言葉なら、何よりも文学が扱うべき問題だった。この言葉よりも上等な文学というのは書かれたことがないのかもしれない。それは、とても好きなひとから「愛しているよ」と言われる以上には文学は存在できないということだった。書くということにほとんど意味はない。書いたものが多くのひとに読まれることにも、ほとんど意味はない。片岡義男はオオカミ少女の例をあげて「人間は言葉がなければコップから水を飲むことすらできない」と言った。それは「人間は言葉を持っていたとしてもせいぜいコップから水を飲むくらいのことしかできない」と何がちがうんだろう。わたしは今まで言葉を使い、コップから水を飲む以上のことを何かしたんだろうか。コップから水を飲みつづけることしかできないならば、そのひとは他人に何をしてあげることができるんだろう。文学はコップと水を持ったひとが次にどうするかというだけの話だ。くだらない話だ。でも、それがわたしにとってはせつじつな問題だ。たぶんきみはコップと水をわたしの手からは受けとってくれないだろう。たぶんきみは、わたしにコップと水をわたしてはくれないだろう。それがわたしが思う問題だ。そしてたぶん、わたしがイスラエル兵にコップと水をわたしたとしても、彼は「ありがとう」と言ってひとを殺しにいくだろう。

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 4時48分、絶望がやってきて、おまえは首を吊る。
                              ――サラ・ケイン


 TNが「H.I.Sに相談しに行こうぜ」と言うから「えー」と言って、相談しにいった。3時半に駅で待ちあわせだったのだけれど、駅まで20分かかるのだけれど、わたしが家をでたのは3時20分だった。3時30分にTNから電話かかってきて、「俺まだ家なんだけど」と言われた。「早く来いよ」と言った。意味がわからなかった。相談する内容をまったく決めずに言ったのでまるでぐだぐだだった。とりあえず、当日朝は高速バスで空港まで行くことが決まったので、よしとした。
 TNとさよならをして、そのまま電車に乗って池袋まで「4.48サイコシス」(演出:飴屋法水、原作:サラ・ケイン)を見にいった。サラ・ケインについては谷賢一が書いたこのページに処女作「Blasted」のあらすじが載っている。楽しいので読もう。「4.48 サイコシス」はサラ・ケインの遺作で、あらすじはなく、全編つぶやきのような台詞とよくわからない文章で埋めつくされている戯曲らしく、彼女はこれを書いたあとに自殺した。
 とても楽しみにして行ったのだけれど、後半の一時間くらいは「そういうことじゃないだろう」、「おしり痛い。足痛い」とずっと思っていた。こういう演劇を見ると、「これは詩じゃないか!」と言いだすひとがいるに決まっている。もちろんわたしだ。詩と演劇は等価ではない、というのが今のところの認識だけれど、少なくとも、詩と演劇が等価になっているように見えるものというのは見ていおいたほうがいいと思う。パラジャーノフ「ざくろの色」を見たことは、やっぱり映画や詩(や小説)を考える上でひとつの大きな土台になった。「4.48 サイコシス」も、見ないで見たいと思っているよりも、見てがっかりするほうがましなので、見ておいてよかったと思う。舞台装置の圧倒的な美しさがあった。舞台が観客席になり、わたしたちは舞台裏から観客席を見るかたちになっていた。冒頭、キリストみたいなひとが天井から吊るされ、よくわからない台詞が飛びかい、背後ではドラム(?)がぼーんぼーんと鳴りつづけ、その迫力に鳥肌がたった。でも、そこがいちばんおもしろかった。あとはあまりおもしろくなかった。長いと思った。たぶん、原作の戯曲にかなり忠実につくっているのだと思うけれど、長い。台詞も冒頭に比べてぜんぜん届いてこない。カタルシスもない。どうしてこういうことになってしまうのか、よくわからなかった。こういう作品にたいして、どういう反応をしたらいいのか、よくわからなくなっている。ひとが真横に並んで、数字を延々とつぶやいているだけのシーンを見て、わたしは本当にそれをおもしろいと思うんだろうか。その裏に隠された心的な対称性を見なければいけないんだろか。内的なものと外的なもの、他者と自分との関係性について考えなくちゃいけないんだろうか。芸術とはそういうことだったんだろうか。もちろん、そういうことだろう。芸術とはそういうことだ。それを包括した上で芸術は成りたつと、わたしは思っている。サラのつぶやきはおもしろい。でもおもしろいものをおもしろいと感じるのかはわからない。わたしにはよくわからなかった。だからわたしは「そういうことではない」と思った。ラストはよかった。でも、よいシーンがおもしろいとは限らない。
 わたしはこれなら「serial experiments lain」のほうがおもしろいと思った。サラ・ケインは「lain」を見ていないんだろうか。
 サラ・ケインというひとはとても気になるので、次は普通にあらすじがある戯曲が見たいと思った。

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カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)
(1978/07)
ジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリ

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 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
                          ――太宰治/葉


   ◇◇◇

 日本橋ヨヲコ「G線上ヘブンズドア」を何年かぶりで読みかえしているけれど、とってもおもしろい。意外に熱血漫画だと思う。「プロは、才能とか、画力とか、もうそういう次元にはいねえ」なんて、すごくかっこうよくて、熱い。
 けれど、たとえば、こういう漫画を読んでいて思うのは、作中の漫画を読めないことの意味だ。鉄男がかつて描いた漫画は読むことはできないし、読むことができないからこそ、それは伝説になることができる。「1Q84」の「空気さなぎ」と同じ問題で、わたしたちがかりに「空気さなぎ」を読むことができたならば「なんだこんなの!」と言うことができるけれど、読むことができないから、言えない。作品は、読まれてしまったら終わってしまう。伝説や天才とは、わたしたちがふれえないもの場所のことだと思う。
 話はずれるけれど、加藤典洋が村上春樹について、高橋源一郎と比較して「1973年のピンボール」が転換期だったと言っていた。あの作品ではっきり春樹は「物語」のほうにシフトし、一方、高橋源一郎は「言葉」のほうに残りつづけた。「1Q84」の「空気さなぎ」を天吾たちは「文章はひどいけれどこの物語には圧倒的な何かがある」というようなことを言って褒めている。問題は、あたしが文章がひどい小説をたとえどんなによい物語としてでも認めるかということで、少なくともあたしは認めないようにしてきた。そういう方向に自分をもってきた。「1Q84」でいちばんはじめにひっかかった場所はそこかもしれない。もちろん、村上春樹は意識的に物語を用いて世界の構造とコミットメントしようとする稀有な作家だと思うし、もうそれをまちがっていると言うつもりもないけれど、「空気さなぎ」が読めない作品である以上、あたしときみはそれを警戒する必要があると思う。

   ◇◇◇

「一発屋芸人」を最近、よくテレビで見る。ムーディ勝山とか長州小力とかだけれど、彼らを見ていて思うのは、つまり、お客さんはそれがおもしろいから笑うんじゃなくて、それがおもしろいというこを知っているから笑っているのかもしれない、ということだった。テレビでよく見て知っているひとが何か芸をするのがおもしろいのであって、芸自体はおもしろくもなんともないのかもしれない。その芸がおもしろいかどうかはお客さんが笑うかどうかとは関係ない、というのは言いすぎだし、だいたいテレビでよく見て知られるようになったのは彼らの力なのだからそこを否定することはできないけれど、ある程度以上の受けというのは、おもしろさとはもうあんまり関係ないように見える。だから人気がなくなったひとが新しい芸をやって受けないのは、それがただ新しいからだけなんだと思う。新しい芸だから、お客さんは笑っていいのかどうかわからないだけなんじゃないかと思う。だから、芸人はお客さんに「これからわたしがする芸は、声をあげて笑っていい芸ですよ」と教えてあげればいい。芸人の仕事というのはお客さんにそう教えてあげることだと思う。
 ムーディ勝山は最初からつまらなかった。「仕事をすべて流されるようになった」と言うときだけ、彼はおもしろくなった。でも、そういうおもしろさではテレビにはでられないみたいだ。
 あと、「一発屋芸人ブーム」というものがあるとするならば、それはメタ構造だ。だからなんだというわけではないけれど。

   ◇◇◇

 日本で現代本当に重要な小説家というのは、村上春樹、高橋源一郎、舞城王太郎、中原昌也しかいないんじゃないか、と思った。

   ◇◇◇

 われわれは、想像的でも象徴的でもないカフカの政治学しか信じない。われわれは、構造でも妄想でもないカフカのひとつの機械またはいくつかの機械しか信じない。われわれは、解釈も意味産出もしないカフカの実験作用しか信じない。信じられるのは、カフカの経験の報告だけである。

 これは詩に見える。ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「カフカ」を初めて読んでいるけれど、何が書いてあるのかまったくわからない。でも、わたしは批評家になりたいわけではない。なので、ぎりぎりわかるような気がする場所だけをぬきとり、自分の頭のなかで楽しく転がすことが、楽しい。

 作家とは作家としての人間なのではなく、政治的人間であり、それは機械としての人間であり、実験的人間である。

 機械のなかに入ること、機械から出ること、機械のなかに存在すること、機械に沿っていくこと、機械に近づくこと――それらがさらに機械の部分になっている。それらは、あらゆる解釈に左右されない、欲求の諸状態である。

 問題は自由になることではなく、ひとつの出口または入口、あるいはひとつの側面・廊下・隣接するものなどを見つけることである。


 カフカの小説の構造は全体が見えないことだと思っていた。保坂和志もこれは指摘していた。葉のとなりには葉しかない。カフカは作者だけれど、カフカは作品全体の構造を把握しているとはどうしても思えなかった。だから、「城」や「審判」において作品の設定となるようなことがらは地の文ではなく、登場人物の台詞として語られている(はずだと思うけれど読みかえしてないので知らない)。カフカが何をしているのかと言えば、それは、目の前で起こったことを報告しているだけだ。それが報告であれば、それが現実だった。どんなに荒唐無稽なものが起こっていたとしても、報告さえしてしまえば、それが現実だった。つまり、カフカはCGを使わないで映画を撮っていただけだった。わたしも映画を撮りたいと思う。カフカの構造は村上春樹、柴崎友香にすっかり受けつがれているように見える。わたしはふたりがだいすきなので、カフカもだいすきだ。みんなだいすきだ。

   ◇◇◇

 目の前で何か起こったら、たぶん、それは現実だろう。それをカメラで撮って、どこかで映せば、もうそれは「映画」などと呼ばれて、フィクションとして扱われてしまう。つまり、どこかで現実からフィクションになる瞬間があったはずだけれど、その瞬間がどこなのか、わたしは知りたい。そしてかりにホームビデオを撮りそれを10年後に見たとしても、見たひとは「これはフィクションだ。こんなひとは本当にいなかった」と言わないだろう。それはどうしてだろう。つまり、映画として撮られた映像とホームビデオとして撮られた映像に本質的な差異はないはずなのに、どうして一方を現実と呼んで、一方をフィクションと呼ぶんだろう。

  ◇◇◇

 そして彼女には文章を書く必然性があった。でも、わたしにはなかった。それが絶望だ。それでもわたしは書くし、書くならば、それは絶望ではなかった。きみを好きでいること、きみを好きなふりをしつづけること、それがわたしの持てる唯一のプライドだった。

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花影 (講談社文芸文庫)花影 (講談社文芸文庫)
(2006/05/11)
大岡 昇平

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拾った子みたいなものだから、お墓に入れてくれない方が、うれしいな。無縁仏にして、東京のどっかのお寺へころがしておいてくれる方が、うれしいな。
                                ――大岡昇平/花影


 月曜日は朝から電車に乗り、ユーロスペースまで行ってヴィターリー・カネフスキー「動くな、死ね、甦れ!」と「ひとりで生きる」を見てきた。
「動くな〜」はひとが動く動く。これでもかというくらいに動く。しゃべるしゃべる。これでもかというくらいにみんなしゃべる。ので、ほとんどノイズのかたまりみたいな映画になっているけれど、それが不愉快にならず、見ていてすごく楽しい。特に、ラスト、女の子のお母さんが発狂して、全裸で箒にまたがって走りまわるシーンはフィリップ・ガレルみたいですごかった。このシーンだけでも見ておいて損はないと思った。このシーン、監督の声みたいなものが入って(発狂した)彼女を映しつづけろと言うのだけれど、カメラはそれを追いかけず、子供たちの顔をアップで映しつづけてしまう。その悲哀! その意味のわからなさ!
「動くな〜」がすでにおもしろいのだけれど、その続きの「ひとりで生きる」はもっとおもしろい。見ないと絶対わからない類のすごさなので、もどかしい気持ちでいっぱいだ。たとえば、主人公の男の子が家に帰ってきて、母親に「ごはんはない?」と訊くシーン。母親は病気で寝ていて返事をしない。いきなり扉が開いて、男が数人入ってきて、ベッドの上の母親をぼこぼこに殴る。そのあいだ、男の子はまったく反応しないし、カメラにも映されない。何も言わない。殴られおわったあと、母親はゆっくりベッドにもどって、また毛布にくるまる。男の子はベッドのすぐわきに座ったまま何も言わず、シーンは終わってしまう。悪夢のような現実感を、温度の低いままに撮りつづける技術というものがある。わたしの知っているかぎり、それを歴史上初めてやったのがカフカだと思う。その脈がここまできちんと伝わっているのなら、とてもうれしいと思う。もしかしたら、この監督はフィクションと現実との境目をほとんど消すようにものごとを見ているのかもしれない。普通の映画監督がかりに何か現実を映して編集することによって映画をつくろうとしているのならば、カネフスキーは何かを編集して映画をつくることによってそれを現実にしようとしているように見える。ちがう。たぶんぜんぜんちがう。この世界に(残念ながら)現実しかないのならば、カネフスキーは現実を撮ることによって現実をつくった。でもほかのほとんどの映画監督は現実を撮ることによってそれをフィクションにしてしまう。その編集のやりかた、カメラワーク、演技のさせかた、そのすべてが現実に耐えられるような強度を持てないからだ。フィクションは現実のできそこないにすぎないと思う。すべてのフィクションは失敗作だと思う。まったく本編と関係ない(としか思えない)のに、突然挿入される子供が気狂いの男をいじめるシーンも現実だった。ラスト近く、火を放たれた鼠が燃えながら地面を走るシーンはとても美しかった。それから、小屋のまわりを裸で犬のように走りまわっているふたりの男。そのすべてが立体的で、それらの奇異を奇異だと見えないものと同じ温度で映すことができることは、やさしさだと思う。平等な視線だ。ものごとをやさしく、けれど力強く見つめることができるひとは、好きだ。わたしは本当はこういうことをやりたい。そういうことのなかでしか現実を構成することができず、そういうことのなかでしかものが言えないとしたら、わたしはこういうことがやりたい。
 カネフスキーの映画にいちばん近いのは、わたしが知っているなかではブレッソン「たぶん悪魔が」、次がテンギス・アブラゼ「懺悔」、そのあとがスコリモフスキ、あとはゴダールとかアンゲロプロスとかパラジャーノフとかガレルとかを適当にあげておけばいいと思う。ブレッソン「たぶん悪魔が」はいくらなんでも意味がわからなすぎたので眠ったけれど、「ひとりで生きる」は基本がサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(!)なのでとても見やすいし、おもしろい。三部作のラスト「ぼくら、20世紀の子供たち」(ドキュメンタリー!)も、ぜったい、見る!
 ユーロスペースは今後「バグダット・カフェ」や「ジャック・ロジエ特集」と垂涎もののプログラムで、どんどん行きたい。空気の読める映画館ぶらぼ。あとBunkamuraでやっている「パリ・オペラ座のすべて」がワイズマンの監督作品だとようやく気づいたので(だからユーロスペースで特集してたのか…)、超見にいきたい。でも、連日満員みたい。がんばる。

   ◇◇◇

 喫茶店で本をえんえんと読んで、それから西巣鴨まで行ってBATIK(黒田育世)「花は流れて時は固まる」を見た。
 まさかの(ロリ?)エログロホラーで、好みははずれるのだけれど、それでも、とてもおもしろかった。わたしはこれは「エヴァ旧劇場版」だと思った。そして、「女の子の身体ってぐろいんだな」と思った。途中、ストリップショーのパロディみたいな下品なことが行われていたし、舞台の色、そして水の存在の華やかさと裏腹に、使われている音楽はレトロ感覚がつきまとっている。最初、女の子が側転や飛びこみ前転など、(たぶん全部)小学校の体育の時間に習う運動をやっているのだけれど、その反転として、後半にはどんどんダンスが肉感的になっている。筋肉を誇示するような男性的なふりつけが入っていて、水を口にふくんではびしゃびしゃ吐きだすし、ついには鎖を口にくわえてぶるんぶるん振りだしてしまう。床を踏みつける足の力強さ、それから手拍子。手拍子を聴くと、わたしの脳みそはピストルズの「Holidays In The Sun」やクイーン「We Will Rock You」などを思いだしてしまうたんじゅんな構造をしているので、ますます男性的だと思った。少女的なものと男性的・肉感的なものが同居していて、それがすごくグロテスクなものになっていたと思う。誤解を怖れないで言うと、わたしは舞台の上で踊っているひとが全員畸形に見えた。それくらい、すごいことになっているように見えた。
 グロテスクさの裏側には耽美なものがあった。花びらを口にくわえこんで、「うおおお」と絶叫している女の子を見たら悲しくなった。「ねえ、ねえ!」と声を発するけれど、その呼びかけにこたえてあげられず、自分で自分の首を絞め、水のなかでのたうちまわっている女の子たちがいた。何故その呼びかけにこたえられないんだろうか。それは「ジャンルがコンテンポラリーダンスだから」というだけのものでしかないかもしれないけれど、その答えはすこし悲しい。「コンテンポラリーだから『ねえ、ねえ!』という呼びかけにこたえられない」のか、「『ねえ、ねえ!』という呼びかけにこたえられないという前提において別個の表現を模索するのがコンテンポラリー」なのか、その区別は難しい。後者になるための強度はどこから得るのか、たぶん、みんなそれがわからなくて苦しんで、嫉妬している。わたしは、「このダンスには台詞があってもいいんじゃないのかな」と途中で思っていた。そのダンスは痛みの放出に見えた。3メートルくらいの梯子をのぼり、そこから落下する。落ちても、落ちても、まだのぼり、そして落ちる。黒田育世(だと思われるひと)がまんなかで踊り、痛みを放出しきったように仰向けで倒れて終わった。痛みを放出すればそれは希望だろうか。それは救いだろうか。それはわからないけれど、そしてわたしはひとの痛みのかけらもわからないにんげんだけれど、見ていると、ひとの痛みの少しくらいはわかるようになるんじゃないかな、と思えるような、いいダンスだった。関係ないけれど、舞台のミニチュアを頭からかぶったひとがひとりいた。最後深く礼をするとそれが落ちるらしく、すごく控えめに礼をしていた動作が、超かわいかった。

   ◇◇◇

 BATIKやカネフスキーみたいなとびきりよいものにふれると、うっかり就職する気がなくなるので怖い。「何を思いあがっているんだ?」と言われてもいいけれど、こんないい映画やダンスを見にいかないで会社に行っているひとたちはいったい何なのかと思う。そういう世界構造も。これはただの働きたくないだめにんげんの愚痴だけれど。革命が起きて働かなくていいようにならないかな。

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