0:34 レイジ34フン [DVD]0:34 レイジ34フン [DVD]
(2006/07/19)
フランカ・ポテンテヴァス・ブラックウッド

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異邦人 (新潮文庫)異邦人 (新潮文庫)
(1954/09)
カミュ

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 夕方、マリイが誘いに来ると、自分と結婚したいかと尋ねた。私は、それはどっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいいといった。すると、あなたは私を愛しているか、ときいてきた。前にいっぺんいったとおり、それには何の意味もないが、恐らくは君を愛してはいないだろう、と答えた。
                                  ――カミュ/異邦人


 3年ぶりくらいで読んでいる。「空が緑色だった」とかわけのわからないことがいっぱい書いてあって楽しいけれど、あんまり好きじゃないかもしれない、と思った。
 今日は朝までホラー映画を見ていた。「猟奇島」は狩りが好きすぎてうっかり人間を狩りはじめちゃった伯爵のお話。おもしろい。「0:34」は数年前のイギリスの映画。原題「CREEP」。この邦題とあらすじだけ見ると心霊ものとしか思えないけれど、ぜんぜん! ちがう! 鼠が犯人だと思って見ていたけれどそうじゃなくてよかった。ラスト、地下を逃げまわっていたヒロインがようやく犯人をやっつけて、地下鉄の駅まで出てくるシーンがある。彼女は犯人との戦いで泥だらけだ。もう朝だ。地下鉄にはスーツ姿の男のひとがいて、男のひとはヒロインをホームレスだとかんちがいして小銭を投げてやる。それで彼女が笑って、エンドロール。特におもしろくない映画だけれど、かっこうよかった。
 いったん眠って、それから電車に乗って新宿まで行き、平山素子「Life Casting」を見てきた。すごくきれい。会場が同じだったから、どうしても勅使川原三郎「鏡と音楽」と比べてしまう。「鏡と音楽」はこれ以上ないほどあたしの好みどまんなかの作品だったので好きで好きで好きで、これと比べたらある意味酷なのだけれど、「鏡と音楽」のほうがずっとよかった。もちろんそれは性質の違いで、「鏡と音楽」が西洋のほうに接近していくならば「Life Casting」はどちらかというとアジアンテイストだったと思う。作家で言えば「鏡と音楽」は村上春樹やポール・オースター(というよりもタルコフスキーの映画がいちばん近い)のイメージで、「Life Casting」は金井美恵子やジャン・ジュネのようだと思った。「鏡と音楽」では身体から出発し精神にたどりつくけれど、「Life Casting」は身体から出発して身体にたどりつこうとしていた。「鏡と音楽」ではダンサー同士が積極的にからむことはなかった。でも平山素子はどんどんからむ。おたがいの肉がからまりあってぐねぐね動く。だから「鏡と音楽」よりもよっぽど肉感的で、官能的だ。
 空間の使いかたにしても、「Life Casting」ではたとえば退場からしてやりづらくなっていた。舞台と舞台袖を仕切る隙間が数十センチしか開いていないので、ダンサーは退場するときはすべるようにしてでていかないといけなかった。そういう演出はとてもすてきだと思った。
「鏡と音楽」はけっきょく空間の芸術だったんだと思う。ダンサーの身体が明らかに空間をつくりあげていたけれど、平山素子の場合は空間を通してダンサーの身体をつくりあげようとしていたと思う。そのちがいかもしれない。でも、たぶん、あたしは衣装が好きじゃなかったのだと思うのであるよ。
 二部構成になっていて、二部が平山素子のソロだった。ソロと言うよりも、彫刻と一緒に踊るデュオだと言ったほうが正確かもしれないけれど。朝まで映画を見ていたせいでろくに眠らずに行ったら眠ってしまった。岩壁を思わせる背景に隙間ができ、その向こうからぱあっと光が漏れていた。その隙間のなかで平山素子は隙間に足をかけながらのぼり、踊っていた。すごく、すごく、信じられないくらいきれいだった、ので寝た。寝不足で、会場が暗くて、音楽がミニマルミュージックの極致みたいなものだったので、しかたがない。くそう。あたしのせいじゃない。ダンスが楽しい。

   ◇◇◇

 これ以降しばらく楽しいイベントがないので、悲しい。次は16日、20日、22日にダンスと演劇。24日からはフランス(あたしもう学校行く気ないわ)。16日まで生きればもう楽しいことしかない。12月も上旬にダンスがふたつ、12日には吉祥寺で友川カズキのライブ。うーん12月までは生きていたい。でも1月は七尾旅人と後藤まりこのライブだし、2月にもダンスがいっこある。死ぬなら3月になってから会社に入る前に死のう。
 次の土曜日から一週間、高田馬場の早稲田松竹という映画館で、人類史上もっともかわいい女の子だと俺のなかでもっぱらの噂であるアナ・トレント主演「ミツバチのささやき」が上映されるので、まだ見ていないひとは、みんな、間違ってでも見にいってください。

   ◇◇◇

 平山素子って北京オリンピックでシンクロのふりつけ協力をしていた、すごい人だったらしい。あと、クロード・レヴィ=ストロースが死んだ。レヴィ=ストロースがまだ生きていたことにびっくりした。「悲しき熱帯」が買ってからもう1年くらいうちの本棚に眠りっぱなしなので、そろそろ読みたい。

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マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)
(1990/10)
吉本 隆明

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 すごい。ぜんぜん日記を書きたくない。ということが、うれしい。

   ◇◇◇

おれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ
おれが賛辞と富とを獲たら捨ててくれ
もしも おれが呼んだら花輪をもって遺言をきいてくれ
もしも おれが死んだら世界は和解してくれ
もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ
                       ――吉本隆明/恋唄


 吉本隆明の講演を聞いたことがある。何を言っているのかわからなかった。司会の瀬尾育生さんが何か問いかけをひとつ発すると、その答えになっていないことをえんえんとしゃべりつづけていた。車椅子だった。戦後最大の思想家と呼ばれたひとは西行をリスペクトし、昨今の不況の原因はアメリカの金融危機ではないと言っていた。吉本隆明は昔24時間ぶっつづけてトークショーをやっていた。瀬尾さんはあの講演が終わったあと、「あと数時間しゃべらせつづけないと吉本さんの本当のところは出てこない」と言っていたらしい。

   ◇◇◇

「続・高橋睦郎詩集」を読んだ。彼の詩のよさはさっぱりわからなかったけれど、解説で澁澤龍彦の言っていることがおもしろい。

 かつてジャン・コクトーは「詩人はオリジナリテを警戒すべきだ」と言った――中略――詩は無名の祈りのように、いたるところで本質的に同一でなければならないという、当節ではまったく顧みられていない非個性の詩、普遍的な詩という観念を、そもそも彼はどこで手に入れたのだろうか。

 この解説で書かれていることから意図的に遠く離れて言いたいことを言うと、ひとに必要なのはオリジナリティよりも歴史だと思う。誰かをまねすることでしか生きることをうまくできないのなら、そのひとが書くものはまねでいいと思う。本当に唯一になりたいひとがいるなんて信じられない。あたしはあたしのなかにきれいなものがあるなんて信じていないけれど、あたしはあたしのそとにきれいなものがあるとは信じているから、それらをよせあつめて、肉としてくっつけている。それの何がわるいんだろう。もし唯一のものしか愛せないのだとしたら、それは対象をとらえるやりかたが著しく歪んでいるか、自分の感情を誤解しているかのどちらかだと思う。20世紀の最高の小説と言われるものがパロディでしかないことを思えばいい。「作品にはオリジナリティがたいせつ」と言うことは「読書をすれば想像力がつく」と言うことと同じだと思う。少なくとも、「作品にはオリジナリティがたいせつだ」という言葉にオリジナリティのかけらもないことは誰だってわかるのに、どうしてそんな言葉を信じようとするんだろう。あたしはあたしの好きなひとがある作品にたいして「この作品はオリジナリティにあふれている!」なんて言って褒めているのを聞いたことがない。たとえば、映画なんて現実を断片にしてそれから適当につなぎあわせているだけじゃないか。そして映画のひとはそれを「編集」と呼んでいる。それだけだ。オリジナルな映画なんてひとつもなかった。映画の歴史上、たったひとつも。「誰かのかわりになる」ということはすてきなことだと思った。少なくとも、誰のかわりにもならないという絶望よりはほんの少しだけましだ。

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紙ピアノ紙ピアノ
(2006/01)
伊津野 重美岡田 敦

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 今日は吉祥寺のSTAR PINE'S CAFEまで行き、伊津野重美さんの朗読ライブ「フォルテピアニシモ vol.4 〜笹井宏之に捧ぐ〜」を見てきた。なんかみんな号泣してた。朗読を見るのは、「詩手帖50年祭」と「俊読」に続いて3回目だと思う。それで、朗読を見るたびに「ききかたがわからん」と思う。それでも「言葉はすごいな」と思った。
 あたしはほんとうには好きなものはなんにもないのかもしれないと思った。小説も、詩も、短歌も、朗読も、ダンスも、演劇も、音楽も、絵も、写真も、パフォーマンスも、他人も、ほんとうはぜんぜん好きではなくて、ただどうでもいいものでしかなくて、とてもむりしてそれらを好きになっているのかもしれないと思う。ただ、何かをむりに好きになることでしかありあまる時間を消化することができないのだとしたら、べつにそれでいいと思う。何かを好きになることでしか何かを好きになれないとしたら、あたしはとても醜いかもしれない。だからきれいになりたい。
 伊津野重美さんの朗読を聴くと、「もっと詩や短歌を好きになりたい」と思えた。そういうふうなことをわざわざ思わせてくれるものは、とても少ないから、ちょっとうれしい。
 伊津野さんは世界征服ぐらいできそうだった。チェロを弾いていたmori-shigeというおっさんはとてもかっこうよかった。

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ウルトラミラクルラブストーリー [DVD]ウルトラミラクルラブストーリー [DVD]
(2009/11/27)
松山ケンイチ麻生久美子

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 部屋を探していた。わたしは本当に部屋なんかどうでもいいのでものすごく安い部屋を探していたら、親に「そんなところではひとを呼べやしない。社会人になったら着ているものや住んでいる場所で多くの印象を持たれるんだから…」と至極まっとうなことをぼそりと言われてへこむ。ここ1年くらいのあいだで2番目くらいにへこむ台詞だ。けれどあたしはそういった価値観から解放されようとしてきたんじゃなかったのか。だいたい、あたしのうちには誰も来ないじゃないか。それがある種の逃亡であることを知りながら蝋燭のようにそっとつぶやけばいい。「俺は5000円も高いところに住むくらいだったら1回でも多くのダンスを見にいきたいんだよ」。社会人になってもまったくお金がたまらなそうに思っているあたしの想像は妄想なのか。どうして社会人があんなにお金を持っているのかさっぱりわからない。この歳になるとひとはいったい何を楽しみに生きているのかということを考えるし、考えたところで、けっきょくはなんにもわからない。何よりも社会人になんてなりたくなかった。ちっとも。だいぶ、人生を舐めていた。けれどあたしはこれからも、どんどん、人生を舐めたい。

   ◇◇◇

 昨日はTNと東京に行った。TNは「俺今日お金ないんだけど」と言っていたので、「なんで?」と訊ねると「パチンコで2万すった」と言った。「初めて行くやつはみんな出るはずなんだよ!」と何回も言っていたけれど、それはすでに脳が何かわからないものに犯されている。「おまえも行こうよ!」と何故かぜんぜん懲りていないようで執拗に誘われた。「誰がお金を出すの?」と訊いたら「おまえ」と言われた。でもあたしは2万円をどぶに捨てたくない。「おまえがお金を出すのなら行ってもいいな!」と言ったら、TNは「もし俺が出たら玉をわけてあげる」と言う。でも出るわけがないので、それはありえないのだった。

   ◇◇◇

 早稲田松竹に行って、横浜聡子監督「ジャーマン+雨」と「ウルトラミラクルラブストーリー」を見た。
「ジャーマン+雨」を見る前に、横浜監督がトークショーをやっていた。あたしはロビーで聞いていただけなのだけれど、「今後の夢というか野望は?」と訊かれて「映画だけで食べていけるようになりたい」と言っているのが聞こえた。「せちがらい世の中だ」と言っていた。「ウルトラミラクルラブストーリー」はとても人気だったと思うけれど、「あれだけ人気でも映画だけで食べていけないんだ〜」と思ってびっくりした。
「ジャーマン+雨」は本谷有希子のつまらない版みたいな感じだった。ゴリラーマンはイタい女みたいな感じだけれど、その痛さは本当にどこにも行かない。本谷有希子はどこかへ行ける。見ていていらいらしちゃった。こういう設定で撮ればおもしろいように思えるけれど、やっぱり映画を撮るのは難しいらしい。たとえば是枝監督「空気人形」などはやっぱりちゃんと撮っているんだなあとべつなことを考えていた。
 「ウルトラミラクルラブストーリー」は最初の3、40分くらいをうっかり寝てしまったのだけれど、「ジャーマン+雨」とは比べものにならないくらいにいい映画だと思った。松山ケンイチはけっこう好きだし、麻生久美子は声と仕草がとてもかわいい。松山ケンイチが農薬を浴びるシーン、麻生久美子と一緒に夕暮れの道や子供たちが花火をしている背景を歩くシーンはとてもていねいにとられていて好感が持てた。特に花火のシーンはすごくいいと思った。らぶずっきゅんだと思った。ARATAが出てくるシーンは「やられた!」と思った。あれは、ずるい。ずるいから、とてもすてきだ。「空気人形」や「シェイディーグローブ」などを見たかぎり、ARATAはとてもいいと思う。「ウルトラミラクルラブストーリー」は農薬を頭からかぶったり、熊が脳味噌をぐちゃぐちゃ食べたり、意外にグロテスクな映画だと思う。横浜監督はたぶん変態だと思う。「瓶詰めされた脳味噌を使って遊ぶ幼稚園児とその先生」というシチュエーションを平気で持ってこれるひとは、なかなかいないと思う。ぜんぜん意味のわからないラストもよかった。「ジャーマン+雨」からその手のグロテスクさはあったけれど、「ウルトラミラクルラブストーリー」はそれをすごく上手に消化していると思う。気持ちのわるいグロテスクと気持ちのいいグロテスクがあって、「ウルトラ〜」はぎりぎり気持ちのいいほうにふれていた。
 TNに「男性俳優の99パーセントはどうでもいい」と言ったら同意された。松山ケンイチやARATAや浅野忠信はいいと思う。あとは知らない。TNは「麻生久美子の好感度が上がった」と言っていた。「今の女優のなかでいちばんいい」。この前まで長澤まさみがどうのって言っていたのに。最近長澤まさみを見ない。からだにぴーす。

   ◇◇◇

 そのあと、池袋の東京芸術劇場まで移動して五反田団「生きてるものはいないのか」を見た。ひとが次々死んでいくだけの作品だった。何故死ぬのかは、最初地下鉄サリン事件のようなものを連想するのだけれど、後半になってもその謎は解かれず、最初から最後までひとがえんえん死んでいく。死んでいくにはネタが必要で、ほとんどコメディなのだけれど、ひとが苦しそうにばたばたもがいているなかで、ほかの生きているひとはちぐはぐなやりとりをくりかえし、観客はそれに思わず笑ってしまう。舞台というのが観客全部巻きこんで成立するものならば、そこに生じる精神的グロテスクな感覚が気持ちよかった。
 陳腐な回答をつけるならば、この演劇の主人公は「死体(たち)」なのだと思う。最初に死んだナナという女の子は、たぶん1時間以上死につづけている。「死につづけている」という言葉は詩で使う表現だけれど、舞台の上では詩という特別な表現をなすことなく、それがデフォルトになっている。死体になったら舞台から退場することができない。生きているひとは退場できるのに、死んだらもう退場できないのなら、舞台上において生と死の感覚は完璧に逆転している。時間経過にしたがって舞台の上を埋めつくしていく死体たちの光景は圧巻だと思う。生と死のどちらがまともな状態なのかなんて言えない。生と死のまともさなんてたとえば多数決で決めればいい程度のものだけれど、死体は手をあげることができない。死体が手をあげることができないから、生というのは自動的に肯定されている。「ひとはいつか死ぬんだから、死ぬことは悲しいことじゃない」と言ったひとがいた。生というのはその程度のものでしかないのかもしれない。べつにその程度の生でもあたしは生きていられるけれども。
 最後まで生きのこったあのひとは、得体の知れない物音に怯えていた。この舞台の主役は死体と物音だった。最後まで生きのこったあのひとは「ひとりはいやだ」と言った。彼は主役でもなんでもなく最後までなんの価値もない脇役だったけれど、最後まで生きていた。「ウルトラミラクルラブストーリー」のなかで、麻生久美子は「ひとは恐怖を感じるから進化してきたんじゃないかな。自然を破壊し、恐怖をとりのぞいた今、もうひとは進化できないんじゃないかな」と言っていた。もちろんあたしなら「進化しなくちゃいけない」と思うその思想自体がまちがっている、と言う。弱いままでいい。「ひとりはいやだ」と言えばいい。

   ◇◇◇

 パスタとピザを食べた。たまごがのったピザは美味しいけれど食べづらいことがよくわかった。いけず。

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ハレグゥ 8 (ガンガンコミックス)ハレグゥ 8 (ガンガンコミックス)
(2008/07/22)
金田一 蓮十郎

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・ぶくおふで金田一蓮十郎のマンガと滝本竜彦「超人計画」を持って意気揚々とレジに行こうとしたとき、「あ、これじゃおたくまるだしだ!」と気づいて夏目漱石「漱石文明論」もいっしょに買った。生きかたじょうず。

・ちっともおもしろくないようにしか見えない小説や詩しか書けないことは人生で4番目くらいには苦しい。

・「ハレグゥ8巻」が強烈におもしろくて爆笑した。グプタとハレがだいぶおもしろい。ウイグルも。

・「言葉がなければ可能性はない―SpokenWordsConpilation2009―」は本当にいいCDだから買いましょう。わたしは99%お世辞は言わない、おもしろい作品にふれたときはおもしろいと言うかもしれないし、つまらない作品にふれたときはつまらないと言うかもしれない、そしてだいたいの場合何にも言わないのだけれど、このCDはとてもいいCDだから買いましょう。せんえんです。「ちがあかビーバップ」と「世界征服やめた」を聴きまくってぼろぼろ泣いています。もちろんわたしは目に塵が入ったとき以外はいっさい泣かないので「ぼろぼろ泣いた」のはうそなのですけれど、ぼろぼろ泣いています。

・世界は女の子と言葉でできている。

・僕はきみに話しかけたかった。でもきみがそこにいるのかどうかわからなかった。ひとりとひとりがしゃべることを「会話」と呼んでいるひとはひとり残らず死ねばいいと思っていた。すべての言葉は届かないと思った。届かないくせにまるで風にふれられたようにこっちを向いてくるきみはいったいなんだろうと思っていた。僕がきみに話しかけるために必要なものは言葉だと信じてたけれど、そうじゃなく、僕がきみに話しかけるために必要なのはきみだった。でもきみが存在していることを確認するために僕が用いることができるのは言葉だけだった。だから僕はいつまでたってもきみの存在を確認することができなかった。いつまでたっても。

・生まれてから今まで三角みづ紀と後藤まりこのライヴしか誘ってもらったことがありません。そのふたりというのがだいぶあれで気持ちわるい。

・何か言おうとしたことだけを、言わない。

・かわいい女の子はたぶんmixiなどのトップ画像をかわいい猫の画像にしているはずだから俺も猫の画像にしたらいいじゃんと思った。

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