人生におけるゆたかさの総量

2012.05.14(00:28)

 5月7日(月)
 
 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。


 5月8日(火)

 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。


 5月9日(水)

 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。


 5月10日(木)

 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。


 5月11日(金)

 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。
 去年の12月もやっぱりいそがしくて、毎日10時とか11時とか12時とかまでのこっていたけれど、それは納期が12月末で主担当もわたしだったからこれは終わらないと死んでしまうと思った。そのときに比べれば今回の仕事の納期は9月末だから気持ち的にはらくだと思う。それと同時に9月末の納期の仕事をなんでいまからこんなにのこってやらなくちゃいけないのとも思う。
 朝8時くらいに起きて、9時に会社について、それから夜中の11時くらいまで仕事をして、ファミリーマートでごはんを買って家に帰ってそれを食べて、パソコンをつけてぼうっとしてシャワーを浴びて、カフカ「審判」をちょろちょろと読みながら1時とか2時に眠る。そういう生活をこの1週間していて、今週だけじゃなく、仕事がいそがしい時期はそういう生活をしていて、そういう時間はわたしにとってなにになるんだろうと思う。今回は要件からかかわっているからいそがしくなるのはあたりまえで、そういう時間が増えれば増えるほどシステムにはくわしくなっていくけれど、そうやってえられたくわしさが今後なにになるんだろう。そんなに会社を愛しているわけじゃないのに。この1週間がわたしの人生においてまったくなかったものになったとして、わたしの人生のゆたかさの総量はいくらかでもちがったものになるんだろうか。けれど、かりにわたしがこの1週間仕事をしないで本を読んだり映画や舞台を見たりしたりしたとして、それがわたしの人生のゆたかさの総量を増すことになるんだろうか。わたしにはよくわからない。たぶん、ここになにかまちがいがあるとしたら、人生について考えているということ、あるいは人生の価値をゆたかさではかろうとしていることだと思う。「書物そのものは不変であり、いっぽう、ひとびとの意見はそれにたいする絶望の表現でしかない」。カフカの「審判」において、大聖堂で僧は書物に書かれた物語の意味を解きあかそうとするKにこう告げている。それが本であっても、わたしの人生であっても、なにも変わらないと思う。たぶんわたしたちは決して最初から絶望してはいない。ものごとをなにかではかろうとする瞬間に絶望してしまう。そして、ほんとうのところではそれを知りながら、あいもかわらず絶望を追いもとめてばかりいるんだろう。


 5月12日(土)

 朝11時にせっせと起きて、受けつけ終了5分まえに病院に飛びこんだらひとがあふれていた。1時間待ちですよと言われてそうですかーと言ったけれど実際は2時間近く待っていた。でも他人のちいさなこどもがぎゃーんとか言ったりどったんばったりしている以外はカフカ「審判」を読んでいたからたのしかった。
 それからドトールにすこしだけよって、北千住のシネマブルースタジオでテオ・アンゲロプロス「アレクサンダー大王」を見た。4時間近くある長い映画だけれど、体感時間としては6時間を超えていたと思う。見ても見ても終わらないようと思った。「アレクサンダー大王」はたぶん「旅芸人の記録」や「狩人」よりはだいぶ物語がわかりやすく、見やすいと思う。そして、この映画はアンゲロプロスのなかではわりあい毛色がちがうと思う。あるいはアンゲロプロス的というよりはホドロフスキー的だとわたしは思った。おもしろかった。色彩全体がセピア色っぽくなっていて、「こういう色なの?」と思ったけれど、たぶんちがってフィルムが劣化しているだけだと思う。いままで見たどんなフィルムよりも劣化していた。どんな映画にしたとしても、見られないよりも見られるほうがぜったいにすばらしいことだ、とは思うし、どんなに「劣化していますよ!」とアピールされたとしてもわたしはいっただろうけれど、「劣化していますよ!」となんでひとことでもいいから書いておいてくれないんだろうかと思う。それに、なにがいけないのかわからないけれど、スクリーンに黒い線みたいなよごれがいっぱいうつっていてめだってしまうのもなんとかしてほしいと思う。いちばんなんとかしてほしいのは宣伝で、あいもかわらずお客さんが5人程度しかいなかった。新文芸座でアンゲロプロスの特集上映をやったときには満席だったんだからいくらなんでも5人はないんじゃないのかなあと思う。たぶんやる気がないんだろう。
 カフカ「審判」を読みおえた。あらゆる小説のなかでいちばんおもしろい小説だなあと思った。「審判」ではものともの、ひととひととの距離感が物理的、精神的に破壊されていると思う。近代文学というものの発生が遠近法の発生に影響を受けている、というのは、文学史においては常識らしくて、それを真に受けるなら、作家たちはものともの、ひととひととの距離感をただしく書こうとしてきたはずだ。ルネサンス期の絵画において、風景はすくなくともわたしたちが見るようには描かれていない。あれはただの木や岩や机というだけで、わたしたちの視線がつくりだしたものではない。それはただのオブジェとしてあって、たぶん、わたしたちの視線がなくてもそこに描かれたものだろうと思う。ルネサンス期の絵画が持っていたちからづよさというものはたぶんそこにあったと思う。彼らの絵画に根本的ににんげんの視線というものは必要とされていないように思う。わたしたちが小学生くらいのときに習う、「遠くのものはちいさく書いて、近くのものはおおきく書きましょう」というのは絵画を描くうえでの鉄則ではぜんぜんない。そういう描きかたが常識的とされるようになったのはたかだかここ数百年の話になるんだと思う。小説における、一人称とか、三人称というのは、たぶん、遠近法以降の考えかただと思う。いまあるふつうの小説にではだいたいの場合人称というものが設定されていて、その視線から見て遠くにあるものの細部はふつう描かないし、近くにあるものの細部はぎゃくに描くことができる。そこから小説における「風景」というものの考えかたが生まれたし、さかのぼれば、「にんげんの内面」というものも発生した。ここに書いた話は柄谷行人「日本近代文学の起源」にそのまま書いてあるからもう書かない。ふつう、一人称の小説ではその視線をつむいでいるにんげん以外の気持ちは書かれない。それは、遠近法に由来しているはずだと思う。遠近法において、「そう見える」ように描くということで、ひとりのにんげんには他者のこころのなかは「見えない」から「書かない」ということにもなるんだろう。複数のにんげんのこころを好きなように書く視点の持ちかたは「神様視点」というふうに言われるけれど、それも、たぶん偶然ではない。ルネサンス期の絵画で問題にされていたのは神だからだ。主体が神からにんげんにうつっていく過程において遠近法は生まれ、そこから近代文学が生みだされて、「神様視点」は排除されていった。
 カフカ「審判」において、わたしには遠近法が適用されていないとは言えない。ただ、ものごとの距離感は明らかに狂っている。ふつうの部屋のとなりに裁判所があって、部屋は2歩も歩けないほどちいさく、彼らはたがいに身動きができないほどの近さで会話を交わす。部屋は暗すぎて、その隅ににんげんがいたとしてもKは気づくことができない。Kは空気のわるい部屋にいるだけですぐ身動きできないほどに疲れてしまい、商人は弁護士に家畜のようにつかえ、レーニとKは出会ったとたん恋愛関係におちいる。ここに描かれているのは遠近法が適用されていながらすでにただしい距離感を失ったひとびとだと思う。彼らは極端から極端に動いてしまう。しかも、それはきわめて明確できわめて論理的な動きでなされてしまう。
 それがどういうことなのか、わたしにはうまくわかることができない。だから、今日はもうこれ以上カフカについては書かない。けれど、かりにだれかが書いた小説がへたくそだとしたら、そこにはにんげんの内面が書かれていないからだと思う。「僕は悔しいと感じた」という文章ににんげんの内面は描かれていない。それはうそだからだ。だれかがなにかをしゃべり、なにかをして、そして次のシーンにうつってしまうとしたら、そこには物語しかない。そして物語は小説ではない。いくら小説のように書かれていたとしても、そこににんげんの内面が描かれていないとしたらそれは小説ではない。そして「にんげんの内面を描く」ということは「『僕は彼女のことを愛おしく思った』と書くこと」ではない。にんげんの内面がそのにんげんに見えるものごとを描くことから生まれたとしたら、にんげんの内面はそのにんげんにとってものごとがどう見えるのかといったところしか生まれえない。だから、それを描かないひとはにんげんの内面には興味がないんだろうとしか思えないし、そんなものを読みたいとは思わない。
 あとヘンリー・ジェイムス「ねじの回転」を読みおえた。ものすごくおもしろかった。


 5月13日(日)

 朝11時に目覚ましをかけて起きたけれど、だるいーと思いながらごろごろしていたら17時だった。18時間くらいは眠っていたということだった。
 松屋にごはんを食べにいって、ドトールで日記を書いた。そのあとモスバーガーにいって小説を書いた。あとはなにもしていない。




リュカ.「天使たち」@王子小劇場、「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」@Bunkamura ザ・ミュージアム、「Keith Jarrett Solo 2012」@オーチャードホール

2012.05.07(01:24)

漱石文明論集 (岩波文庫)漱石文明論集 (岩波文庫)
(1986/10/16)
夏目 漱石

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 5月5日(土)

 朝起きて、ひさしぶりに車を運転してぶっくおふまでいったけれどなにもおもしろくはなかった。そのあとユニクロでパンツと靴下とシャツばかりを買いこんで珈琲館でひたすら日記を書きつづけていた。
 うえの姉さんが帰ってきていたからすこしだけ話をした。知らないあいだに大企業に就職していた。
 岩淵弘樹「サマーセール」について、もうちょっと考えてみたい。夏目漱石「漱石文明論集」のなかの「文芸と道徳」という講演で、漱石は「むかしの武士なんかがいた時代には社会が要請する徳の高さみたいなもんがめっちゃ高かったから文学のほうだってそれに見あったものを書かなくちゃいけなくって、それが浪漫主義というもので、いまはもう戦争もないし平穏だから個々人に要請される徳の高さも低くなって自分の弱点とかも冗談みたいに言えるようになったじゃん、その流れがあるから浪漫主義というのはもう流行らなくて自然主義がでてきたんだよー」というようなことを言っている。その流れは太宰治までつづいていて、わたしの感じかたとしては、太宰治は文学を書く作者の自意識について徹底的に書いている。文学を書いているひとはたぶんみんな「文学を書いてる俺ってかっこいい」と思っているはずだとわたしは思う。その自意識の対抗のやりかたはたぶん正統な文学の流れ、あるいは文学史としてなんら見つかってはいないように見える。ここまで書いて、岩淵弘樹「サマーセール」は「ここにうつされたどんな映像も『映画を撮ってる俺ってかっこういい』という感覚に収束されていく」という理由でこれまでにない作品にしあげっているように見える、と書こうと思ったけれど、それは書かないことにしたい。もうなにも言わない。文学にはもうそんなやりかたでなにかを表現するためのやりかたはきわめてまずしいやりかたでしかのこされていないんだろう。


 5月6日(日)

 朝起きて、王子小劇場でリュカ.「天使たち」を見た。演劇を見にいったのに、ちょっといい話を聞かされて帰らされたような感覚だけがのこされた。ゴダールは「自分の1日をカメラで撮ってみたらいい。そしてそれが映画になっているかどうか見てみたらいい」と言った。演技ができる俳優がいて、舞台があって、それなりの脚本があって、けれどそれで演劇になるわけではないのかもしれないとあらためて思った。サキヒナタが演じているアオイという女の子はカメラマンだけれど、たぶん彼女はそこそこ技術があるにしろ「なにかがたりない」と言われて次のステップへの踏んぎりがつかめないでいる。「なにかがたりない」というのはほんとうに陳腐なものの見方で、わたしはこういうことだけはぜったいに言わないようにしようと思う。「なにかがたりない」と言うのはたとえば「オリジナリティがたりない」と言うのとおなじことで、たぶん、もっともくだらない言いかたのひとつだと思う。ほんとうにはいろいろあるはずだと思う。わたしは、「天使たち」において天使たちがにんげんによりそいながらじつのところいったいなにをしているのかよくわからなかったし、「だれかがいつでもあなたを見守っていますよ」というメッセージをつよくかんたんに押しだしすぎるようのはどうなのと思ったし、コーヒーをいれにいってから実際にもってくるまで15秒くらいしかかかっていないのはどういうわけなのと思った。いま書いたところをなおしたりべつのやりかたにしたりすれば、すくなくともわたしにとってはよりおもしろい作品になるだろうと思う。でもわたしはきっともうそれを見ないし、わたしはリュカ.ではない。だから、ここでわたしが書いたことはいったいなんなんだろう。
 渋谷までいってBunkamura ザ・ミュージアムで「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」を見た。ダ・ヴィンチじゃないひとが書いた「モナ・リザ」がいっぱいあってびっくりした。すばらしい絵がいっぱいあった。けれどわたしは絵についてはうまく書くことはできない。彼女たちの服がもうもうとうなっている感じについて、その圧倒的なすばらしさについて、わたしはうまく書くことはできない。
 そのあとオーチャードホールで「Keith Jarrett Solo 2012」を見た。ダ・ヴィンチの絵とおなじように、わたしにはキースのピアノの音についてうまく書くことはできない。なんの感想もない。よくわからないけれど、音がひとつの波動みたいになって、そこには、たとえば太宰治もドストエフスキーも関係ないように思った。その関係のなさこそがもっとも美しいものかもしれないと思った。泣きたくなるようなピアノの音があった。だからそれは音があったということだ。そして「音があった」ということを書くための文章を、すくなくともわたしは持ちえない。そのためにはたぶんわたしはピアノで文章を書かなければいけないだろうけれど、ざんねんながら、わたしはピアノを知らない。




「ユベール・ロベール―時間の庭」@国立西洋美術館

2012.05.07(01:22)

PINKPINK
(2012/04/15)
大森靖子

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 5月2日(木)

 会社にいった。みんな5時すぎにだばだば帰っていったけれど、わたしひとりだけ昨日さぼったので8時くらいまでだばだば仕事をしていた。帰りがAHくんといっしょになって、エレベータにのっておりはじめたところで「傘持ってきてないの?」と訊いたら「えーこのタイミングで言うの!?」と言われた。とりあえずそとまでいってみたらどしゃどしゃ降っていた。Oくんもやってきて「すげえ雨だな」と言った。「傘持ってないの?」と訊くと「逆に訊くけどさ、なんで持ってんの?」と言われた。AHくんに「見なよ、この上級者っぷりを!」と言うと、AHくんは「僕は初心者だからうえいって傘とってくるよ」と言って消えていった。


 5月3日(金)

 朝起きて、まっさきに実家に帰る予定だったけれど、そんなことができるはずもなく、ニコニコ動画で「タクティクスオウガ」の魔法縛りのプレイ動画を見ていた。死者の宮殿をつきすすんでいく動画をずっと見ていた。べつにたいしておもしろくないと言えばたいしておもしろくもない気がするけれど、とにかく夜の8時くらいまで、8時間くらいずっと見ていた。
 そのあと実家に帰った。


 5月4日(土)

 TNが帰ってきているということだったので、とにかく上野までいった。雨が降るとみんな知っているはずなのにTNは傘を持っていなくて、上野のキオスクで小学生なんかが買うかわいいぱんだ柄の傘を買っていた。「これは意外にだめなような気がする」とTNは言って「いやだいじょうぶだと思うよ」とわたしは言った。TNは「インカ帝国展」が見たいと言っていたけれど、ふつうに70分待ちだったし、わたしはちっとも見たくなかったので、西洋美術館で「ユベール・ロベール展」を見た。ユベール・ロベールじたいはふつうにすばらしかったけれど、ちゃんと色を塗った絵画がすくなくて、スケッチ的なものばっかりあって、だまされたと思った。
 TNが「イカセンターいきたい! 王様のブランチでやってたやつ」と血まよって言いだしたので、とりあえず総本店がある新宿までいった。すまーとふおんのちからを借りてイカセンターまでたどりついたけれど、40分待ちだった。TNは待ってもいいと言ったけれど、わたしがうっかり「じゃあいいです…」と言ってしまった。お店をでたあとで「待ってもいいんじゃね」ということになったけれど、もういっかいもどって「やっぱ待ちます」という勇気はなかったのでしかたなく新宿をぶらぶらして、てきとうな地下にもぐっていってごはんを食べたりお酒を飲んだりした。
 そのあと、新宿でなにか映画を見ようということになって、なにがいいのか探しあるいた。武蔵野館でカリウスマキの「ル・アーヴルの靴みがき」がやっていると思いこんでいったけれど、やっていなくて、やっていたのはマーガレット・サッチャーの映画だった。わたしはべつにマーガレット・サッチャーの映画なんかとくに見たくはなかったから、K'sシネマにいって3本だてを見た。1本めが岩淵弘樹のおそらくは最新作の「サマーセール」という映画で、わたしはこれは今年の最高傑作かもしれないと思った。「遭難フリーター」のときは、わりあいオブラートにつつまれていたけれど、「サマーセール」という映画では岩淵弘樹というひとりのにんげんのだめっぷりがこれでもかというくらいにあらわれていた。端的にいえば、岩淵弘樹というにんげんはほとんどくずで、大森靖子という女性を撮るはずなのに、岩淵弘樹は大森靖子につらくあたり、「俺のことひとりの男としてどう思う?」とか、痛々しい発言をくりかえしてしてやまない。そして、その自らの行為を字幕の文章でほとんど弁解的に記述している。こういってよければ、岩淵弘樹というにんげんはみずからの撮った映像をみずからの文章で徹底的に陵辱しているように見える。もっと踏みこんで文学的なかたちでそれを表現すれば、岩淵弘樹は彼自身の自我を大森靖子の映像をとおして陵辱しているように見える。もっとも、こんなふうに言いかたを変えて書きつづけることに意味はないと思う。それは、けっきょくのところ言いかたの問題にすぎないからだ。以前、わたしはロベール・ブレッソン「ラルジャン」を見たとき、「この映画はいまあるどんな文学よりも文学的だ」と言ったことがあった。「ラルジャン」という映画がたぶんわたしにとってよくわからないものであったなら、それはわたしがその映画を既存の映画文法のなかにあてはめて見ようとしているからで、かりにこれを映画ではぜんぜんなくて文学として見たならば、わたしにはよりすっきりするように感じられた。映像を文学として見るということが実際の行為としてどのようにたちあらわれてくるかわからない以上、それはほとんど予感めいたものにとどまっているけれど、とにかく、わたしはそう思った。そして、岩淵弘樹も「サマーセール」において、ブレッソンと同様、しかも、日本の明治時代の文学にまでほとんどさかのぼったうえで、大森靖子の映像を万年筆と原稿用紙として文学を書いているようにわたしは見える。そうやってつくられたこの映画は、ほとんどくずと呼んでいいとわたしは思う。字幕の端々に岩淵弘樹の青くさい、なかば精液くさい未成熟な感覚がとりついていて、映画でなかったならば、たぶん、わたしにはこの文学を読むに耐えなかっただろうと思う。「大森靖子のPVを撮る」と言って、岩淵弘樹と大森靖子はラブホテルにこもる。岩淵弘樹はそのとき1円もださない。映画の終盤、岩淵弘樹は大森靖子にお金を返し、たぶんその足でいっしょにラーメンを食べにいって、なかよくラーメンを食べている様子をカメラで撮影する。ふつうの神経であれば、たぶん、こんな映像は撮らない。すくなくともわたしにはこんなやりかたで自分の恥部をさらすことはできない。缶コーヒーを大森靖子に買いにいかせて(たぶん自分のお金じゃない)、そのあと字幕で「大森さんは僕が頼んだことをなんでも笑顔でやってくれる」みたいな文章が挿入される。岩淵弘樹はまったく自然にくずのようにわたしには見える。その姿は、なんとなく、「罪と罰」におけるソーニャにたいしてのラスコーリニコフ、あるいは「地下室の手記」で主人公がリーザにたいしての主人公と似ているようにすら見える。
 ここで挿入されている字幕はすべて、ほとんどなんの留保もなく、「文学的」だと思う。そして、わたしたちが文学を語るときにもっともつかわない言葉こそが「文学的」という言葉だとわたしは思う。ひとびとは「『エヴァ』はへたな文学よりも文学的だよ」とか「タルコフスキーの映像は詩的だね」とかは言うけれど、文学にたいして「文学的」とは言わないように見える。「文学的」という言葉は、ほとんど必ず文学ではないものに文学みたいな要素が混ざっているときにつかわれるように思える。もしもかりにそうなら、文学のなかには「文学的」な要素はなにひとつないということになる。そして、それはたぶん、ただしい。文学はこの200年間で「文学的」なものを失いつづけてきた。そして、わたしたちが見失った「文学的」なものは、たとえば岩淵弘樹の映画のなかに見ることができる。だからこそ、岩淵弘樹の撮った「サマーセール」という映画はいま書かれているほかの文学よりもよっぽど正統な文学だと思う。すくなくとも、わたしは岩淵弘樹の字幕のようなやりかたで文学を書くことはできない。文学は、すくなくともここ数十年のあいだ、わたしの考えでは、その生きのこりに際して岩淵弘樹の字幕のようなことを書かないことだけを熱心にやりつづけてきたからだ。岩淵弘樹の字幕のようなことを書いた文学はほとんどくず同然にあつかわれるようにわたしは思う。高橋源一郎は「スタージョンは『SFの90%はくずだ」と言った。表現の自由とは、その作品がくずであることの自由なのだ。それがわからないのならば、そのひとは表現の自由にかんして口をだすべきではない」と言った。くずであることをやめるように願ってきた文学にとって、くずへと回帰する願望がたぶんありつづけていて、高橋現一郎や佐藤友哉はその願望を作品としてかたちにしているように見える。高橋源一郎はともかく、すくなくとも佐藤友哉の作品は文字どおりくずすぎてわたしにはうまく読むことができない。なぜ彼は彼をねたにすることしかできないのか、なぜ彼の文章はあんなにもへたくそなのか、おそらく、わたしのこころは脆弱すぎてその事実にうまく耐えることができないんだと思う。わたしには岩淵弘樹のこの作品は、ひとつの憧れの頂点だと思う。それほどまでにこの作品は、くずだ。
 2本めの内藤瑛亮「お兄ちゃんに近づくな、ブスども!」はB級映画で、監督の頭がわるすぎるのかわざとそうやって撮っているのかわからないところがおもしろかったけれど、それ以外はとくに見ることもなかったように思う。
 3本めの今泉力哉「nico」はまえのふたつにくらべてやっていることも映像表現も高度すぎて、なんでこの監督がもっと評価されないのかよくわからなかった。たとえば「にんげんの顔をうつす」ということひとつとってもそこにあらわれているうつされかたがほかの映画とはまるでレベルがちがうように見えた。だからこの映画はすばらしかった。五反田団の宮部純子が映画にうつっているのをわたしははじめて見た。宮部純子のすばらしさについて、わたしはうまく言うことはできない。けれど、青柳いづみとか野津あおいとかと、だいたいおんなじようなものだと思ってもらえばいいと思う。
 3本をまとめて見て、わたしはこの3本が3本とも監督たちの自慰的な作品のように感じられた。エズミール・フィーリョ「名前のない少年、脚のない少女」を見たとき、わたしはあんまりにも不愉快で「自慰は家でやるものであって映画館のスクリーンのなかでやるものじゃない」と言ったことがあった。そして、ゴダールは「もしもある映画のできがわるいとしたら、それは、その映画が見られるべきところではない場所で見られているということです。30人に見られるべき映画もあれば、100万人に見られるべき映画もあります。いまの映画の世界にわるいところがあるとすれば、それはあらゆる映画がすべてのひとに見せようと思ってつくられていることです」と言った。岩淵弘樹「サマーセール」はもはや自慰しかない、「お兄ちゃん〜」は映画館でわざわざ上映するようなものでもない、映画としてかなり高度な技術と映像でつくられている「nico」にしても監督自らが登場し、ラストシーンでは監督が眠っている横で北村早樹子が歌をうたうというきわめて自慰的なありかたで終わってしまう。3本が3本とも自慰的な映画だということについて、わたしにはこれ以上なにか言う元気はないけれど、とにかく、わたしはそう思った。
 帰りの電車のなかで、TNがふつうに寝はじめたので、わたしはこそこそカフカ「審判」を読んでいた。ふだんはわたしがぜったいに文章で書かない言葉をあえてつかってまで言うけれど、「笞刑吏」の章がやばすぎる。この章でKは監視人のヴィレムとフランツを助けることをあきらめてしまうけれど、そこにいたるまでのKの思考をわたしは論理的だと思う。それは、つねに非論理的であやふやな感情での見方でもって文章をつむいできたほかの小説とは真逆のようにすら見える。カミュ「異邦人」において、主人公は「太陽がまぶしかった」という理由で他人を殺し、処刑を目前にして「俺はしあわせだ」ということを実感する。それは論理的でじゃない。けれど、すくなくともそこに生じる感覚にたいする憧れめいたものが文学にはあった。そこにある思考と行為はふつうのやりかたをするかぎり論理で結びつけることができない。カフカの小説が異常なのは、Kはまったく論理にしたがっているにもかかわらず、その行為がすべて、異常さと結びついてしまうてんだと思う。Kの論理はその意味でわたしたちの現実とは隔絶された孤独な論理かもしれない。けれど、わたしたちが従うべき論理に正解なんてあるだろうか。たとえば法律は国民すべての論理を規定している。けれどそれに従う理由はすくなくともわたしたちにはひとつもない。Kがまったく孤独なのは外界の論理を知らないがゆえに自らの論理に従いつづけなくてはいけないからで、それは、ほんとうのことをいえば、ある種の良心のようにすら思える。Kはその良心に従いつづけ、そして最後には犬のように殺される。そして、すくなくともわたしたちはK以上に外界の論理を知っているとはかぎらない。だからこそ、カフカの小説はおそろしい。わたしにはKがやったようなやりかたではないやりかたを選ぶことができるんだろうか。わたしにはよくわからない。わからないから、わたしも犬のように殺されてしまうかもしれない。




朝弘佳央理×入江淳子×中村友紀「蟹のぬけがら」@シアター・バビロンの流れのほとりにて

2012.05.07(01:20)

審判 (新潮文庫 カ 1-3)審判 (新潮文庫 カ 1-3)
(1971/07)
フランツ・カフカ

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 4月30日(月)

 朝起きて、クリーニング屋さんにいったり、髪を切りにいったりした。前回クリーニングにだしたのは3月8日だったからびっくりした。いいかげんにしないと会社の入口とかでおまえくさいぞって言われちゃうなあと思った。
 そのあと、ドトールにいってずっと日記を書いた。それからドトールが閉まったからでて、モスバーガーにいってずっと小説を書いた。わたしは、これまでわたしが書いてきたものとはぜんぜんちがう種類のものを書いてきたけれど、ここまできて似かよってきたように思った。それはつまりわたしがなにを書けばいいのかわからないということだと思う。なにを書けばいいのかわからないけれどわたしはなにかを書いて、そうやっているうちに、いままで書いてきたことだけがくりかえされて、すりきれていく。進歩がない。書きなおせばいいけれど、わたしにはもうほとんどなにかを書きなおすということをやめているし、やめたいと思っている。わたしは書きなおすにたる小説はいままでひとつたりとも書いてこなかった。そして、わたしは、書きなおすなら、それはもう、まったくべつの小説として書きなおしたいとしか思わない。
 さいたま新都心をゆっくりと散歩した。おおきい郵便局のほとりを歩いた。ところどころに点在する窓から明かりが漏れていて、そのなかでは幽霊みたいな郵便職員がたくさんの郵便物をしわけしていた。新都心駅までつづく道までは淡い光ばかりしかなくて、ひとはだれもいなかった。いたとしたらそれはきっと幽霊だと思った。駅の反対側までいっててきとうに歩いていたら迷子になった。右に曲がりたいけれど、ひろい区画がずっと工事中でまがれなかった。なにをつくっているのか知れなかったし、とくに知りたくもなかった。家にたどりついたとき12時をまわっていた。


 5月1日(水)

 会社にいって労働をした。そのあと、いろいろな仕事をぽぽーいと放りなげて帰りまーすと言いながら帰って、シアター・バビロンの流れのほとりにてまでいって朝弘佳央理×入江淳子×中村友紀「蟹のぬけがら」を見た。流れのほとりにてはいくのがはじめてで、地図にそっていくとまったくなにもなくなり、あきらかに民家だらけになって「こんなところにあるわけないよ! だまされた!」と思うあたりのところにあった。あってよかった。
「蟹のぬけがら」はまんなかくらいからずっと眠っていたのでわたしにはちょっとよくわからなかったけれど、だばだばだばだば言いながらお花をかぶったひとがぺたぺたやってきたところは起きていて、すくなくともそこはすばらしかった。かぶりものというと、わたしがすぐに思いつくことができるのはBATIK「花は流れて時は固まる」と酒井幸菜「In her, F major」で、「花は流れて時は固まる」では舞台のセットのミニチュアをかぶったひとが登場していたし、「In her, F major」で酒井幸菜はばけつをかぶって登場していた。やっぱり思うのは、BATIKはかぶりものをすることでグロテスクな方面へ向かうのに、この作品では酒井幸菜と同様美しい方面へ向かうということだ。
 ゴールデンウィークだからそれはゴールデンで、だから藤野さんに遊ぼうよと声をかけていたけれど、なんだかだめになってざんねんだった。「お皿洗い妖精が…」とか「チーズが…」とか「飲むヨーグルトが…」とかよくわからないことを言っていたけれどだめになったことはかろうじてわかった。




サンプル「自慢の息子」@アゴラ劇場

2012.04.30(00:42)

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]
(2002/09/06)
ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーヴン・トラスク 他

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 4月22日(日)

 オーディトリウム渋谷までいってゴダールの映画を3本見にいかなければいけないはずの日だったけれど、眠っていたのでぜんぜんむりだった。後悔して、ニコニコ動画で「セガガガ!」のプレイ動画を最後まで見て、それはたぶんゴダールの映画よりもおもしろかったけれど、後悔した。


 4月23日(月)

 会社にいって11時くらいまで仕事をした。


 4月24日(火)

 会社にいって11時くらいまで仕事をした。


 4月25日(水)

 会社にいって11時くらいまで仕事をした。

 
 4月26日(木)

 会社にいって11時くらいまで仕事をした。
 朝から夜の8時くらいまでずっとうちあわせばっかりしていて、それから自分の個人的にしあげなければいけない仕事にとりかかるという、末期的な状況におちいっているような気がする。

 
 4月27日(金)

 会社にいって12時くらいまで仕事をした。
 MKさんにいつもうちあわせでいないことをつっこまれて、「もういったら帰ってこねーんじゃないかと思ってる」と言われた。
 ひとつの仕事をKYさんのチームといっしょにしていて、会議の資料もKYさんのところと合同でつくっている。わたしはわたしのところはおまけだと思っているから、会議の際の資料も全部KYさんに読んでもらってわたしはだんまりを決めこんでいたけれど、わたしが書いたところが誤字・脱字ばっかりで、KYさんもそのまんま棒読みするつもりだったから超あたふたしててごめんと思った。謝らなかったけれど。
 仕事が終わったあと、SYさんとMTさんとラーメンを食べにいった。涙の味がした。SYさんは土曜日にもきて仕事をするはずだったと言った。でもむりだった。労働時間が会社の規定をこえてしまうからだった。涙の味がした。


 4月28日(土)

 朝ちょうがんばって起きて、アゴラ劇場でサンプル「自慢の息子」を見た。たぶん、わたしがサンプルをそこまで好きじゃない理由は、ここで起きることが舞台装置的なものから発生しているからだと思う。「自慢の息子」はどこかおかしいひとたちがおかしいひとたちだけでよりあつまって、そのおかしさとそれにともなう気持ちを極限まで高めた結果としてグロテスクな場所まで飛んでいってしまう。「女王の器」で髪を盛りすぎてしまった女の子的な場所だと思う。わたしが見たかぎり、サンプルの舞台装置はとっちらかっていって、役者たちはそのとっちらかったなかに潜りこんでいっておかしさをつのらせていく。それは、あたかも役者たちが舞台装置にとりこまれていく過程に見えた。たとえば、地点の演劇はわたしが見たかぎりだと役者たちを動作する装置、発声する機械にまで落としているように見える。それは、ひとによってはまったく逆に、あれこそがにんげんの発声だ、というひともいるかもしれないけれど、わたしはあれをにんげんの発声だとは思わない。あれは一種の装置だと考えたほうがずっとすっきりすると思う。「自慢の息子」はにんげんがおかしさをつのらせた結果超にんげん的になり、最後には彼らは舞台装置となってしまう。舞台装置となってしまった彼らはすでに語る対象ではなく、グロテスクさを抱えこんだまま語られる対象でしかなくなってしまう。サンプルの舞台装置のつかいかたはかなり積極的で、それは演劇としてかなり高度なものだとわたしにも思える。けれどそれでもわたしがサンプルをどこか好きになれない理由は、たぶん、わたしが演劇を言語的に見すぎているからだと思う。たとえば冒頭の羽場睦子とものを食べながらの古屋隆太の会話は、わたしにはほとんど見るに耐えない。そこには底意地のわるいあざとさみたいなものがあって、わたしにはどうして好きになれない。おかしさとグロテスクさをつのらせていく過程に、言語的なものがどうしてもからんでいかないように思えてしまう。それがいいことなのかどうなのか、わたしにはわからないけれど。
「ゲヘナにて」でも「女王の器」でもそうだったけれど、古舘寛治という男はあまりにも存在がつよすぎて気になってしまう。だから、彼が人形を愛でる様子にはそこまでグロテスクさが生じてこない。それは、古舘寛治という男の存在がすでにこの舞台においてグロテスクだからだろうと思う。一見なんでもないところから生じたほうがグロテスクさはつよまるだろう。古舘寛治という男を見るときわたしはそこに演技している男を見る。そこには演技というものがはっきりとあらわれているように見える。それは、たとえば野津あおいがおこなっている演技よりもかなりつよい演技としてあらわれてしまう。わたしは古舘寛治が舞台挨拶でしゃべっているのを見たことがあるけれど、だいたいああいう感じだった。舞台後、野津あおいがほかのひととしゃべっているのをたまたま近くで見ることができたけれど、だいたいああいう感じだった。あるいは役者たちはわたしたちが思うほど演技っぽい演技をしていないのかもしれない。それでも、古舘寛治だけはどうしても演技をしているようにはわたしには見えてしまう。
 野津あおいについては、「女王の器」よりも遥かによかったと思う。ままごと「スイング・バイ」で見たときの彼女がさいこうだったとわたしはいまでも思っているけれど、あるいは、サンプルでやるときは、足をがばっとひろげてしまうような、あるいはタクシーの運転手役のような、野暮ったい感じを持っているときのほうがいいように思う。
 そのあとシネマヴェーラまでいって、ジョン・キャメロン・ミッチェル「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」とロジャー・コーマン「女囚大脱走」を見た。「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」はこのひとがのちに「ラビット・ホール」を撮ったとは思えないほどおもしろくてほくほくした。「女囚大脱走」もおもしろかった。こんなタイトルなのに脱走部分は最初の5分くらいで終わって、あとはなぜか捕まるまえに隠したダイヤを回収するために女の子4人でジャングルを冒険していた。ふつうに鰐とか蛇とかと白熱した闘争をくりかえしていてちょっと意味がわからなかった。ジャングルのなかにダイヤモンドを隠す意味なんかないだろと256回くらいこころのなかでつっこんでいた。
 そのあと、オーディトリウム渋谷でゴダール「ウィークエンド」を見た。この映画はゴダールにしてはかなりおもしろい映画だとすなおに思うから、わたしは大好きだった。フィルムじゃなくてブルーレイ(かわからないけれど、デジタルになったもの)上映で、フィルムにくらべると全体的に色素が薄くなっているように見えた。画面の迫力とどぎつさみたいなものがすこし消えて、たとえばクラクションばかり鳴っているシーンも見やすくなったように思う。これはこれでいいように思った。


 4月29日(日)

 朝起きて、クリーニング屋さんにいったり、髪を切りにいったりしなければいけなかったのに、起きたら2時30分をすぎていたからむりだった。それで、しかたないから電車にのって北千住までいって、ブルースタジオでテオ・アンゲロプロス「狩人」を見た。わからないといえばこれくらいわからない映画もないと思った。わたしには画面になにかがうつっていてだれかがなにかをやっているということしかわからなかった。この映画にでてくるひとたちがどんな名前で、どういう立場のひとで、なにをしようとしているのか、なんでいきなり怒鳴っているのか、なにに怒っているのか、なにをかなしんでいるのか、なにひとつわからなかった。映画が終わったあと、はってあったポスターに書いてあるあらすじを見て、こういう話だったんだーと思った。でもそのあらすじは映画の最初の10分くらいの部分しか書いていなかったから、のこりの2時間50分くらいの話はやっぱりわかることができなかった。それは難解な映画なんだろうか。たぶん、難解なんだと思う。けれど、その難解さはたとえばピカソの絵を見て「難解だ」と言うこととは意味がちがうと思う。ピカソの難解さは「そこになにが描かれているかわからない」とにおおくの部分が由来していると思う。そして、だいたいの場合、絵について「わかる」とか「わからない」と言うとき、そこには「なにが描かれているかわかる」と「なにが描かれているかわからない」ということしかない。だいたいの場合、ひとは印象派の画家が空にピンク色を混ぜているとき「どうしてこのひとは空をピンク色に塗ったんだろうか。フランスの空はピンク色なんだろうか。それともこの画家は目がおかしかったんだろうか。わたしにはよくわからない」とは言わない。それは、わたしたちがそれは空で、そこにピンク色が混ざることだってあるということをなんとなく了解しているからだと思う。アンゲロプロス「狩人」のなかのひとたちはきちんとひとのかたちをしている。わたしには、彼らが政治についてなにかをしゃべったり、歩いたり、歌ったり踊ったり、セックスをしたり、パーティみたいなことをやったりしているのがわかる。けれど、わたしには彼らがなにを話しているのかわからなかったし、どうして彼らがパーティみたいなことをやっているのかわからなかった。「旅芸人の記録」では、演劇の最中、ひとがやってきて、舞台のうえのひとをいきなり撃ち殺してしまう。そのとき、たとえばわたしは彼らが演劇をやっていることはわかる、ひとがやってきたこともわかる、だれかが撃ち殺されたのもわかる、けれどどうしてそのひとが撃ち殺されたのかはよくわからなかった。アンゲロプロスはそういう撮りかたをしている。逆に言えば、それがわかるというのはどういうことなんだろう。それがわかるということは、たぶん、できごととできごとのあいだにつながりを持たせているからだろう。そして、ふつうわたしたちはできごととできごとのあいだのつながりの総体を物語と呼ぶ。だから、こう言ってよければアンゲロプロスは物語を徹底的に排除している。それは、たとえば「なんにも起こらない」とも言われる柴崎友香の小説よりもよほど物語を排除しているように見える。けれど事実、アンゲロプロスの映画では柴崎友香の小説よりも2000倍くらいはいろいろなことが起こっているだろう。


 大半の人たちは――「ぼくは、あることを主張したい、でもその主張がどういうものなのか読者にわからないといけないから、物語で説明しよう」とか「わたしは、愛の虚妄について――あるいは、市民社会の不条理について、あるいは、自分が抱えているトラウマについて……――表現したい、でもそのことがなになのか読者にわからないといけないから物語で説明することにしよう」と思い、まさにそのことをしています。というのも、わたしたちの社会では、なにかをいうということは「そのことについて読者が――聴衆が、あるいは観客が、あるいは……――わからないといけないから物語で説明する」ということになっているからです。
                      ――高橋源一郎「『正義』について」


 高橋源一郎が書いたとおりに書かれた小説や映画が実際にあって、わたしはときどきそのできのわるさにうんざりしてしまう。たとえば一人称で書かれた小説があって、主人公がはじめてヒロインに会ったとき、「僕は田中です」と言ったり「わたしは斉藤です」と言ったりすることはどういうことなんだろうと思う。それは、書いているひとが読んでいるひとに、その主人公が田中だということをわからせないといけない、あるいはそのヒロインが斉藤だということをわからせないといけない以外にどんな意味があるのかわたしにはわからない。それに、書いているひとは「これは一人称小説だから、主人公は斉藤と出会うまえには彼女の名前を知らないということだ。知らないのに、いきなり地の文で『斉藤は明るく笑った』と書くわけにはいかないから、『その子は明るく笑った』とか『彼女は明るく笑った』とか書かなくてはいけない。けれどそんなふうに書きつづけるわけにはいかないから出会ったときにまずおたがいの自己紹介をさせよう。そうすれば読んでいるひとには彼と彼女の名前がわかるからちょうどいいや」とかそういうことを考えているように思う。そして、わたしにはそれはあんまりにもひどいんじゃないかと思う。それは、たとえ底辺であっても技法と呼ばれるものかもしれない。けれどわたしはその会話は三人称で置きかえれば「彼の名前は田中である」とか「彼女の名前は斉藤である」と書いているのとおなじことだと思う。ちょっとでも文章を書こうと思うひとはそんな文章は小説のなかに書かない。へたくそすぎるとみんなに思われてしまうからだ。けれど一人称やあるいは事実上ひとりのにんげんの一人称の三人称小説ではそういうふうに書かれた小説は、たぶんたくさんあると思う。あるいは、映画のクローズアップもおなじことをしていると思う。アンゲロプロスの「狩人」はほぼ全編にわたってクローズアップというものがない。ゴダールの「ウィークエンド」では終盤の解放戦線のメンバーの顔はほとんどクローズアップでうつされない。だから、わたしはいつまでたっても人物の見わけがつかなくて、だれがどういうひとでなにをやっているのかよくわからない。逆にいえば、それとは逆におおくの映画では主要な人物の顔がときどきクローズアップでうつされる。それは、たぶんその映画をつくっているひとが「このひとはこの映画の主要な登場人物で、見ているひとにそれがわからなくてはいけない。だから、顔をクローズアップでうつしてなにかをしゃべってもらおう。クローズアップでうつすことによって見ているひとはそのひとの顔も覚えられるわけだ。それに、この人物を演じているのは宮崎あおいで、この映画を見にくるひとたちはだいたい宮崎あおいの顔を知っているはずだし、宮崎あおいがこの人物を演じていることを知っているはずだ。場合によっては宮崎あおいを見たくてこの映画を見にくるひともいるかもしれない。だから、クローズアップでうつすことで宮崎あおいが画面にうつっているということをはっきりと見ているひとにわからせないといけいし、宮崎あおいがこの人物を演じているということをはっきりとわからせないといけない。青山慎治『EUREKA』みたいに宮崎あおいの顔がちっちゃくしかうつらなかったら、観客や所属事務所が『もっと宮崎あおいをうつせ』と文句を言うかもしれないからな」と思っているからだと思う。よくわからないけれど、だから一人称における人物たちの自己紹介も、映画におけるクローズアップも、わたしは物語なんだと思う。できごととできごとのあいだのつながりをだすために、そのできごとを起こしているひとがだれかわからないといけないと思っているひとたちがいて、そういうひとたちにとって、クローズアップは、物語の一要素なんだと思う。それがそうなっている、ということだけで、非難する理由はなにもない。けれどわたしは、ときどきそういうものを見るとひどくむなしい気持ちになってしまう。
 帰りの電車のなかで夏目漱石「漱石文明論集」とフランツ・カフカ「審判」を読んでいた。今週、わたしはずっと夜の10時すぎまで仕事をしていたから当然疲れているけれど、疲れているときに読むカフカにはへんてこな癒しがあると思う。カフカの「審判」にはわたしたちの絶望がとても直接的に描かれているように思う。それは、だれだれがこういう状態におちいっていて、こういう気持ちになって、だからその状態は絶望だ、ということとはまったくちがっているように思う。カフカの描いている絶望は断絶によってなされていて、この小説のはじまりはそれまで絶望とはいっさい縁のなかったKがいきなり逮捕されることからはじまる。けれど、その逮捕はKにとっての直接的な絶望になってはいなくて、絶望は、Kがなにかをしたり、なにかをしゃべったりする瞬間に発生しているように見える。けれどKはなにかをしなければいけないし、なにかをしゃべらなければいけない。Kはなにかをしたりなにかをしゃべったりすることが絶望を生みだすことだとたぶん気づいていない。そして、それとおなじようにわたしたちだってなにかをしたりなにかをしゃべったりすることが絶望を生みだすことに気づいていないんだと思う。わたしたちがなにかをしたりなにかをしゃべったりするということは、わたしたちがおおかたなにかをしたいと思ったりなにかをしゃべったりしたいと思っているからだと思う。わたしたちはにんげんだから、そうありたい。けれどそれはそのまま絶望の発生だ。そして、わたしたちはそうやってでも生きていかなくてはいけない。Kは犬のように殺されたけれど、わたしたちは生きているし、生きていかなくてはいけないんだと思う。


「まあ、見て!」、と彼女は叫んだ、「わたしの写真が本当にごちゃごちゃにされてるわ。なんてことを。それじゃやっぱりだれかが不当にもわたしの部屋に入ってきたのね。」
 Kはうなずいて、ひそかに行員のカミナーを呪った、これは空虚で無意味なはしゃぎ方をどうしても抑えられぬ男だったのだ。
「奇妙だこと」、とビュルストナーは言った、「わたしがあなたにあることを禁じるように強いられるなんて。本来ならあなたがご自分で禁じなければいけないことなのに。わたしの留守中にわたしの部屋に入りこむなんて。」
                         ――フランツ・カフカ「審判」