人類の最後の夜

2019.07.01(00:22)

 彼が彼女に言いたいと思いながら言えなかったことを抱えたままとても長い月日がたっていた。だから彼女は自分のことを彼が言いたいと思いつづけていたことを言われたあとの自分であるように思えていた。もうずっとそうだった。
 俺がこれを言ってもおまえはきっと俺のことを軽蔑しないと思うから俺はこのことをおまえに言うんだけれど、俺はずっとまえから世界のすべてのにんげんを殺しつづけてきたんだ、もうたくさんのにんげんを殺してきた、おまえに気づかれないように世界のうらがわからすこしずつ、何千人も、何万人も、何億人も殺しつづけてきたんだ。
 その夜、彼はそう言った。薄暗く、ちいさな部屋だった。部屋のかたすみの台所から蜜色の光が放たれ、その部屋のまんなかあたりでゆっくりととだえつづけていた。台所と正反対の場所におおきな寝台がおかれていた。その横に窓があった。わずかにひらかれたカーテンの隙間から青白い月の光が射しこみ、それも部屋のまんなかあたりでゆっくりととだえつづけていた。ふたつの光はその部屋のまんなかあたりで溶けあい、けれど完全にはまざりあってしまわないような色あいをつくりあげていた。そのあたらしくありつづける光はやさしくくだかれ、部屋のなかのすべての空間に薄く充満していた。
 彼女はそのちいさな部屋の台所のまえにたち、彼は彼女のうしろにたってその頭部を彼女の首すじになすりつけていた。彼の髪の毛はすっかりおとろえ、彼女の首すじにあたるたびにたやすくたわんでまるまった。季節は冬だった。ふたりの部屋の温度は絶え間なく、けれどとてもゆるやかにさがりつづけていた。寒いとふたりが意識をした一瞬よりもそのあと寒いとふたりが意識したまたべつの一瞬のほうがずっとずっと低かった。ふたりの身体のまわりには凍てついた夜気がまとわりつき、ふたりの頬には青白くときどき黴びたにおいのする霜がおりていた。ふたりは震え、ぬくもりを求めていた。言葉を交わすたびにくちもとから真っ白な吐息が漏れ、それは部屋の天井に到達するまで消えなかった。
 でも、おまえはそれでも俺のことを軽蔑なんてしないだろう、と彼は言った。
 よくわからないよ、と彼女は言った。もしかしたら、ふつうのひとにとってはそれは軽蔑するべきことなのかもしれないけれど。
 ふつうのひとの話なんてしていないよ、俺はいつだっておまえのことを気にしているんだよ、だって、この部屋には俺とおまえのふたりだけしかないんだから。
 彼がしゃべるたびに彼女の首すじで彼の唇が濡れ、彼の吐息が彼女の皮膚のそのこまかな場所までをうちつらぬいていた。彼は彼女が皮膚に感じるものをいまの瞬間においてはこばんではいないということを知っていた。
 どうして、わたしを責めるんだろう。
 責めているわけじゃないよ、俺は知りたいだけだよ、おまえがそのことで俺を軽蔑するのか、しないのか。
 なんだかこわいよ。
 なにが。
 わたしの気持ちが。
 彼のなかに部屋の空気がすこしだけ吸いこまれ、ちいさな音が響いた。彼女の耳のなかにその音がすこしだけのこった。
 なんだか、わたしがあなたを軽蔑するとか軽蔑しないとかじゃなくて、あなたのなかではもう、わたしがあなたを軽蔑するということが決まりおわってしまっているみたいに感じてしまう。
 どうしてだよ、と彼は言った。さっきも言ったけれど、俺はおまえが俺のことを軽蔑なんてしないって思っているよ。
 思っていればそんなことを言わなくてもすんだはずなのに、ねえ、はじめにわたしがあなたのことを軽蔑しないってあなたが言うのなら、それはきっとほんとうにはあなたがわたしがあなたを軽蔑するって思っていたっていうことのように思う、わたしは、あなたがそんなふうに思っているって思ってしまうわたしの気持ちが、とてもいやしいもののように感じてしまう、あなたはいまその可能性によってなにかを言おうとしているように見えてしまう、まるであなたはその可能性を実現するためにいまあなたが言おうとしていることを言おうとしているみたいに。
 彼はすこしだけ沈黙をして、彼女の身体をそっと抱きしめた。彼の手が彼女の胸の真下でとても複雑なかたちでくみあわされた。彼女は彼の腕そのものの感触をとてもやわらかいと感じていたけれど、彼の手はとてもいびつでかたかった。彼の手のなかにはそのところどころに細い骨がはいっていた。彼のそれぞれの指からほそい毛がいくつかのびていた。彼の指がこまかく動くたびにその毛は彼のほかの指から生えている毛とぶつかりあい、からまりあった。彼女はその毛の動きを見つめていた。
 わかってくれよ、と彼は言った。俺はおまえを愛しているんだよ。
 そういうことはわたしにもわかると思う、と彼女は言った。
 きっとおまえはわかっていないよ、わかっているのなら、おまえはいまの俺の気持ちにたいしてそんなふうには言わないはずだ。
 ちがうよ、わたしはいまあなたになにもかもがうまく言えないだけで、ほんとうにそれだけなんだよ。
 それなら、そんな状態のままで俺を軽蔑するなよ。
 わたしはあなたを軽蔑するとか軽蔑しないとか、そんなふうには言っていないよ、それを言えたらいいのかもしれないけれど、わたしはあなたを軽蔑する気持ちも軽蔑しない気持ちにもなることができない、あなたが言ったことについてわたしがなんらかの気持ちを抱いていることはたしかだと思うんだけれど、わたしの気持ちがあなたを軽蔑している気持ちなのか、軽蔑していない気持ちなのか、あるいはそのどちらにより近い気持ちなのか、わたし自身にもよくわからないんだよ。
 それはわからないんじゃないんだよ、ただおまえの気持ちが俺の言ったことにたいする気持ちにまで移行していないだけだ、それはつまり、おまえが俺のことをもうすっかり軽蔑しきっているっていうことだよ。
 あなたが言っていることはおかしいよ、わたしはあなたのことを軽蔑しているなんてひとことも言っていない。
 おまえが言っていることとおまえが思っていることはちがうだろう。
 あなたはわたしがうそをついているって思っているのかな。
 そうじゃない、おまえがおまえ自身の気持ちがわかっていないのなら、おまえが抱くどんな感情もどんな気持ちもそれはもううそじゃない、うそじゃないけれど、それはもうそれだけでじゅうぶんに痛々しいんだ、その痛々しさはいまのおまえにとってただしいありかたなのかもしれないけれど、でも、俺たちはずっとそのままじゃいられない、俺が言いたいことは、そういうことをふくんだいっさいを否定するなよっていうことだよ。
 否定なんかしていない。
 でも、こわがっているんだろう。
 わたしはあなたをこわがっているわけじゃない、ちがうんだよ、どう言ったらいいのかな、ねえ、もうすこしわかりやすく話してよ、あなたのなかでわたしはあなたになにを言おうとしているんだろう。
 きっと、ほんとうにはおまえはなにかを言おうとしてなんかいないんだろう、おまえはこれまでだって俺になにかを言おうとしたことなんていちどだってなかった、いまだってそうだ、おまえは俺になにも言おうとしていない。
 そうなのかな、それは、あなたにそうとられてもしかたがないって思える部分はあるけれど、でも、わたしだってわたしなりの方法であなたにいつもなにかを言おうとしていたんだよ。
 それなら、それを言ってみなよ。
 彼の指先たちが動きはじめ、すこしずつ彼女の洋服をまくりあげた。彼女は彼の指先たちのうえに彼女の手をかさねた。彼の手は凍りついてしまったようにかたく、すこしだけ震えていた。ちいさな針でさされたような痛みが彼女の手の表面でちりちりと走り、それでも彼女はすこしずつちからをこめて彼女の身体から彼の手をひきはがした。彼女の身体にふれているのはこれでまた彼の頭部だけになった。それでも彼の唇からもれでる吐息が彼女の首すじをいまだ湿らせつづけていた。
 俺はいつもおまえになにかを言おうとしていたんだ、と彼は言った。いつも、いつもだ、俺はいつもおまえになにかを言おうとしていた、けれど、俺がおまえになにかを言おうとするそのことだけでおまえはもう俺のことを軽蔑しているんだ、俺はずっとおまえに俺がひとを殺したことを言おうとしていた、それはおまえだって気づいていただろう、気づいていて、そして軽蔑していたんだ、おまえは俺がなにを言おうとしているのかすら知らなかったくせにそんな俺を軽蔑しつづけていた、おまえは俺が言おうとしていることに興味を抱いたことなんてなかった、俺たちはこんなにもながいあいだいっしょに暮らしているのに。
 それはちがうよ、わたしはただあなたがわたしになにかを言って、そのことがわたしとあなたのあいだの関係とか空間とか時間とかになにかおおきな影響をあたえるかもしれないっていうことがよくわからないだけだよ、あなたはあなたがわたしになにかを言うことをおそれていて、わたしはそのことをおそれていない、わたしのなかにあるのはおそれとはなにかべつのことで、それはあなたのものとはちがう、ねえ、けれど、それはただそれだけのことなんだよ、わたしがあなたを軽蔑しているとか軽蔑していないとか、これは、そういう話じゃないんだよ。
 おまえがそんなふうに言えるっていうことが、そのことこそがおまえが俺を軽蔑しきっているっていうことなんだよ。
 彼女の目には台所のちいさなあかりだけが見えていた。それは彼女にとても近く、そしてまぶしかった。すこしだけ視線をさげたところにまな板があった。まな板のうえにははんぶんにきられたりんごとそれをきった包丁がころがっていた。りんごの中心は色が濃く、その中心からほんのりと色づいた蜜がすこしだけたれながれかけていた。包丁は濡れていた。きっさきについた蜜が台所の光に照らされてぬらぬらと光りかがやいていて美しく、そこから放たれた濃い光の反射が包丁のわきにおかれたマグカップからたちのぼる湯気のなかできらめいた。
 俺が仕事をやめたときも、おまえはなにも言わなかった、と彼は言った。
 彼は彼女の身体をつよく回転させた。彼女の視界からりんごも包丁も消えさり、そのかわりに彼の顔があらわれてそれが彼女にぐんと近づいた。腐葉土みたいなにおいがした。流れさっていく彼女の時間のなかのそのときどきで彼の顔の細部がかわるがわる浮かびあがっていくのに、彼の顔のかたちの全体が彼女にははっきりしなかった。彼の顔面のうちがわの骨から肉が盛りあがっていた。それは弾性のある液体のように上下に、そして左右にひろがって彼の顔をおおっていた。首から頬にかけて赤黒い贅肉がついていた。目のしたの皺は深く、髪の毛は炎で炙られたように光りかがやいていた。
 言いたいって思っていた、と彼女は言った。でも、なにも言えなかった。
 なにを言いたいって思ったんだよ。
 これからのわたしたちの生活のこと。
 仕事をやめても俺は以前となにも変わらないままにおまえを愛しつづけることができるって、俺はそう言っただろう。
 そういうことじゃないんだ、もっと、べつのこと。
 なんだよ。
 わたしは、わたしたちがわたしたちの生活をつづけていくための要素がこれからすこしずつそこなわれていくんじゃないかって、そう思った、そのことについてあなたがどう思っているのか、わたしは訊きたかった。
 要素ってなんだよ。
 たとえば、わたしたちが生きていくために必要な物資や資産について。
 それは俺たちのいとなみにとって本質的なことじゃないよ、重要なことは俺たちが俺たちの生活をつづけていくうえでおがたいのことをちゃんと愛しあえるかどうか、そのありかたが継続されていくかどうかだろう、物資や資産なければそこなわれてしまうような愛なんてもうそれは愛じゃないよ、俺はおまえがそんなありかたの愛しか持っていないなんて思っていない、おまえだってまえに物資や資産なんていらないって言っていたじゃないか、つつましくてもしあわせに暮らすことができればそれでいいって言っていたじゃないか。
 たしかにわたしはそう言ったけれど、でも、それと仕事をやめることはちがうことだと思う。
 それはぴったりとかさなりあわないかもしれないけれど、おまえが言ったことのうちにそのことだってじゅうぶんにふくまれているんだよ。
 そうかもしれないけれど、と彼女は言って黙りこんだ。黙りこむと、彼女はすこしだけせつない気持ちになった。
 ねえ、わたしはあなたの奴隷じゃないんだよ、と彼女は言った。
 わかっているよ、と彼は言った。俺はおまえのことをそんなふうに思ったことはいちどだってないよ。
 けれど、あなたはわたしがかつて言ったことを武器にしてわたしの気持ちを否定してしまう、わたしはあなたに仕事をやめてほしいって思って物資や資産なんていらないって言ったんじゃない、わたしが言ったことにはわたしの気持ちが、それは言葉の表面には直接的にあらわれないかもしれないけれど、とにかくわたしの気持ちがこめられていて、でもあなたはわたしの言葉の表面だけでわたしの気持ちを勝手に了解してしまう、わたしが物資や資産なんていらないって言ったのは、それを言うことであなたにつたえようって思ったのは物資や資産ががいらないっていうことじゃなかったはずなのに、でもあなたは仕事をやめてしまっていて、そしてわたしがそれになにかを言うと物資や資産なんていらないっていうわたしの言葉を利用してわたしの気持ちまであなたは否定する、ねえ、わたしの言葉はあなたの行為を正当化するためにあるわけじゃないんだよ。
 わかっているよ、おまえが物資や資産なんていらないって言うことで俺になにをつたえようとしたのか、俺にだってじゅうぶんにわかっているつもりだ、だからおまえに仕事なんて関係ないって言ったんだよ、だから、おまえがそれを否定するっていうことは俺が言ったことそのことじたいを否定するっていうことになるんだよ。
 彼の腕がのびて彼女の髪の毛をそっとなでた。指先たちがかわいた頭皮のすれすれにふれる感覚が彼女にはすこしだけ気持ちがよく感じられた。彼の目はすこしだけたるんでいた。眼球がいつもよりもふくれあがっているように見えた。その白色の部分を走る血管の赤色のすじがなまなましく浮きでていた。
 あなたは、俺はおまえをこんなにまで愛してやっているんだという欲望につきうごかされて動いているように見えてしまう、と彼女は言った。でも、それはあんまりだよ。
 おまえはなにを言っているんだよ、これは欲望なんかじゃない、俺が言っていることは愛についてのたいせつなことだよ、どうしておまえにはそれがわからないんだよ。
 あなたがそれをわたしにわからせようとしていないんだよ、ねえ、こうやってあなたの顔を見つめていると、あなたの顔の部分部分からあなたの欲望が糸をひいてたれさがっているように思えてしかたがないんだ、あなたはその欲望の糸にからめとられてもがきながらあなたの愛をただしいものにしようとしているみたいだ、ねえ、わたしを愛することがあなたにとって究極的にただしくなければあなたはわたしを愛することはできないのかな、わたしはただあなたの愛のただしさを証明するためにだけ愛されているのかな、そんな愛しかたなんて、わたしにとってはもう暴力でしかないんだよ、あなたがわたしを愛しているそのかたち以外にもたくさんの愛のありかたがあるはずなのに、あなたはただあなたのなかにあるたったひとつの愛のありかたを正当化するためだけにわたしのなかにあるたくさんの愛のありかたを踏みにじって、そして傷つけている、ねえ、わたしはあなたの愛のただしさを証明するために存在する奴隷じゃない、いまのあなたは、まるで、わたしに知恵を持たせないために生きているみたいだ、わたしが知恵を持つとあなたというにんげんの一部がそこなわれて、その欠けた部分を暴力で埋めあわせなくてはいけない、あなたはそう思っているようにわたしには見えてしまう、あなたがそう思っているとしたらそれはとてもひどいことで、そんなふうになってしまったわたしたちのおたがいの思いかたもまたとてもひどいものだよ。
 彼女は彼の顔を見つめていることがうまくできなくなり、そっとかたほうの目をつむった。彼女が目をつむったのを見て彼は舌のさきで彼女のまぶたのうらがわを舐めた。彼の舌の表面に彼女のまつげのふれ、それは彼がこどものころにいたずらで食べた蝶の感触に似ていた。彼女はまぶたのうらがわに濡れた灰をおしつけられたような感触を覚えた。彼は気持ちがよかった。彼の舌のさきと彼女のまぶたのうらがわを唾液の糸がいっぽんだけつたい、そのところどころに糸よりほんのすこしだけおおきな泡が浮いた。彼女はかたほうの目をひらいたままでいた。はばのせまい彼女の視界にはそのおおきな泡がはっきりとうつりこんでいた。彼はりょうほうの目をつむっていた。彼女の目にうつる舌をつきだしている彼のおおきな顔面は病気でくたびれた犬の身体のようだった。彼の舌はふとく、その表面に白いものがたくさん浮いていた。そのところどころに紫色のほそい血管みたいなものも見えていた。彼は彼の病気を彼女の深い場所にそっとうつしているようだった。
 俺はおまえを愛しているんだよ、と彼は言った。そして、たぶんおまえも俺を愛しているんだ。
 そうだと思う、と彼女は言った。
 俺だってそれはわかっているんだ、でももうそれではたりないんだよ、ときどき、おまえを愛しているということについて考えながら俺はおまえを愛することができればいいのにって思うことがあるんだよ、俺はおまえを愛しながらおまえを愛したいって思いつづけているんだよ、なあ、おまえにこういうことってわかるか。
 わたしにはわからないよ。
 俺はまえにこどもができたらすぐにでも結婚しようって言ったことがあったけれど、俺はあのときほんとうにそうするつもりだったんだよ、こどもができたら俺は俺がたいせつだと思うことのすべてをこどもに教え、そのことがたいせつだということもまたしんから教えようと思っていた、こどもに俺がたいせつだと思うことをおしつけるんじゃなく、こども自身がたいせつだと思っていると思いこませるようなやりかたで俺がたいせつだと思うことをたいせつだと思うようにしてやりたいと思っていた。
 こどもは、あなたじゃないよ。
 そうかもしれない、でも、俺はそれでも俺のこどもを俺のもうひとつの若い肉体のように育てたいと思っていた、俺がたいせつに思ったり俺が愛したりしていることを、俺とまったくおなじやりかたでたいせつに思ったり愛したりできるようにしてやりたかった、俺はきっと自分でも見たことも感じたこともない愛を俺のこどもにそそいだだろう、そして、俺は俺のこどもにおまえのことを愛させてやっただろう、おまえを母親として愛するんじゃない、俺がおまえを愛するやりかたとまったくおなじやりかたでおまえを愛するようにさせたかった、俺はたったひとつの俺の人生のなかでくりかえしおまえを愛したかった。
 彼がすこしだけ下半身を動かすと彼女の膝が彼の下半身にふれた。遠い場所で救急車が走っている音がふたりに聞こえた。その透明な音と音のあいだに野良犬が星に向かって吠える声が響いた。彼女は台所のあかりが彼の顔の皮膚を照らしだしているのを見ていた。あかりはその表面でめくれて剥がれかけた皮膚の黄ばんだ色や黒い点滅を浮きたたせていた。
 おまえ、ただ生きているだけで自分の身体と魂の薄皮を剥がされているって感じたことはないか。
 あると思う。
 それが、自分が愛しているひとやものによって剥がされているって感じたことはあるか。
 ない、と思う。
 ほんとうにそう言えるか。
 どうしてそんなことを言うんだろう、ねえ、わたしにはわからないよ。
 おまえ、俺がおまえの魂と身体の薄皮を剥いでいるって感じたことはないか、俺じゃなくてもいい、おまえがこどものころ、おまえの家族はおまえの薄皮を剥いでいかなかったか、夜、おまえがねむっているとき、おまえの両親はおまえの寝室にやってきておまえの身体にふれてはいかなかったか、あるいは家族でいっしょに食事をしているとき、おまえの両親はテーブルにならべられた食事ではなくおまえのことをなにか興奮したような目で見つめていたことはなかったか、学校ではどうだった、友達はおまえにやさしくしてくれたか、そのやさしさのうらがわになにかいやしい目的はほんとうになかったか、おまえにかける言葉は表面上やさしかったかもしれないけれど、そのときおまえの友達はいったいどんな目をしていたか覚えているか。
 やめてよ。
 俺はときどきそんなふうに感じてきたよ、と彼は言った。だれかが俺の身体と魂の薄皮を剥いでいくんだ、見えているにんげんが剥いでいくと思ったこともあったし、見えていないにんげんが剥いでいくと思ったこともあった、そのたびに俺の身体と魂はすこしずつけれど確実によわっていって、気づくと、俺の身体と魂は薄くたよりないものに変わっているように思った、俺は俺の身体と魂から剥がれて俺の足もとに堆積した薄皮の枚数をかぞえて、思うんだ、はたして、俺の身体と魂にはあといったい何枚の薄皮がのこっているんだろう。
 彼の頬に赤みがかった光がたまり、その表面ですんだ海のなかをおよぐくらげのようにやさしくたゆたっていた。光のたまりはその周縁を絶え間なくぐにゃぐにゃとゆがませつづけていた。まるで光が彼を食べようとしているようだった。彼の目は言葉をつづけながらちいさくまるまり、彼の頬は光をうけておだやかであかるくなっていったけれど、彼の眼球はそのはんたいに濃く黒く染まっていった。
 このままだと俺は俺のすべての薄皮を剥かれおわって、どこにもいなくなってしまうんだよ、と彼は言った。
 ねえ、どうしてそう思うんだろう、と彼女は言った。
 どうしてって。
 どうして、あなたの薄皮を剥ききったそのなかになにもないって思ってしまうんだろう、あなたのいくつもの薄皮のなかにも、まだちゃんとしたあなたがいるかもしれないのに。
 彼はすこしだけ笑った。それはとてもおだやかな微笑だったのに彼女は蔑まれているように感じた。
 おまえの言うとおり、最後の薄皮のなかにもまだちゃんとした俺がいるのかもしれない、と彼は言った。でも、それはもうまったく孤立してしまった、どんなかたちであれ他者とかかわりあうことすらできない俺にすぎないんだよ、なあ、俺が言っている薄皮がなんのことかおまえにわかるか。
 わからないよ、と彼女は言った。
 それは愛だったんだよ、と彼は言った。にんげんはそういうかたちをしている、俺たちの身体と魂のかたちをたもっているのは愛なんだよ、そして俺たちは俺たちが知らないあいだにその愛の一部を他人にあたえつづけながら生きているんだ、でもそれはおかしな話だろう、だって俺が愛したいのはおまえだけで、ほかのにんげんなんてどうだっていいんだ、俺たちは俺たちが保有している愛を俺たちが愛したくもないにんげんに剥ぎとられながら生きているんだよ、俺にはそんなありかたは耐えられない。
 でも、それならどうしたらいいんだろう。
 彼女は彼の目を見つめた。彼の目にほのかなあかりが反射していた。彼女にはそれが絶え間ないやさしさのように見えた。
 彼はゆっくりと部屋のまんなかまで移動した。彼女はすこしだけ遠いところに移動していく彼の姿を見つめ、身体を震わせた。寒さが彼女だけをおそった。彼の舌がふれたまぶたの表面の温度だけが彼女の身体のうちですこしだけ低く、そこにこびりついていたにおいが空気中に溶けだして彼女のまわりをどろどろとただよった。彼は微笑みを浮かべながらしばらく部屋のなかをぐるぐるとまわった。ちいさく、やわらかな沈黙が部屋のなかにゆっくりと降りつもった。
 このままだと、きっと、おまえは俺の言っていることが永遠にわからないだろう、と彼は言った。
 彼女はしばらくのあいだ沈黙をした。彼は冷蔵庫をひらいて牛乳をとりだした。彼女は彼にマグカップをわたし、彼はそれに牛乳をそそいで電子レンジにかけた。電子レンジから放たれた光が部屋のまんなかで揺らいだ。彼はあたためた牛乳と戸棚からとりだしたパンを持って寝台のうえに座った。彼女はなにかを言わなくてはいけないと思いつづけていた。けれど、彼女はすでにその直前に彼からなにを言われたのかすらわかっていなかった。
 彼はパンをこまかくちぎり、あたためた牛乳にひたして食べはじめた。牛乳の表面には白い膜ができあがっていて、その端の一部がマグカップにへばりついてとろけていた。膜と膜のやぶれめから糸のような湯気がゆるやかにたちのぼり、彼の頬をすりぬけて薄暗い天井のなかに溶けこんでいった。パンのちぎれたところの、その繊維の先端からしずくがぽたぽたとたれて牛乳の表面で繊細に跳ねた。パンからこぼれおちたこまかなかけらがマグカップのなかの牛乳の表面で孤独なひとのように浮かび、それはパンをひたしたときにたったわずかなさざなみのなかをただよいながらゆっくりとその場所を移動していた。牛乳のしずくは彼の指先にもつたっていた。しずくはしずくどうしでたがいにまざりあい、すこしだけまとまった分量になるとその重さで彼の手首まで流れた。
 台所のふちにのったマグカップのなかから薄い湯気がかすかにわきたっていた。彼女はマグカップを両手に持ち、それからひとつ呼吸をおいて唇とおなじの高さにまで持ちあげた。コーヒーの熱はマグカップをとおしてもじゅうぶんにつたわってきたけれど、その熱は痛みに似すぎていて彼女にはうまく区別をつけることはできなかった。ちいさく身体をちぢこめて、彼女は湯気のたつコーヒーの表面にやさしく息をふきかけた。湯気はすぐにぐしゃぐしゃになってかたちを壊して彼女の眼球にふれ、彼女の視界をくもらせた。眼球は手のひらほども熱や痛みを感じなかったけれど、それでも彼女ははすこしだけの時間を目をつむってその熱をやりすごした。そして、彼女はその時間のなかでマグカップをとおしてふたつの手のひらにつたわる熱に意識を集中させた。
 ねえ、わたしはあなたを愛していて、あなたはわたしを愛しているんだよ、と彼女は言った。それなら、もうそれでいいでしょう。
 おまえはいましあわせだろうか、と彼は言った。
 しあわせだと思う。
 だったら、おまえはほんとうには俺のことを愛していないんだよ。
 どうして。
 だって、俺はいまのおまえといてもまるでしあわせじゃないから。
 彼女はすこしだけ沈黙した。
 おまえは俺と出会ってから俺に愛されるためのなんらかの行為をたったいちどでもしたことがあるのかよ。
 彼女はまたすこしだけ沈黙した。
 おまえはかんちがいをしているんじゃないのか、おまえ、おまえがおまえっていうだけでだれかから無条件に愛される権利があるって、そんなふうに思っているんじゃないのか、たとえばおまえが餓死しかけて街をさまよいあるいていたとして、そのとき、おまえにひとかけらのパンをめぐんでくれるひとがひとりくらいはいるだろうって思っているんじゃないのか、もしもそう思っているのなら言っておくけれど、それはかんちがいだよ、おまえにパンをめぐんでくれるにんげんなんてこの世界のどこを探したってひとりもいないよ。
 あなたは、わたしにパンをめぐんでくれないのかな。
 めぐまないだろう、と彼は言った。かりにこの部屋のなかでおまえが餓死しかけていたとしたら、俺はきっとおまえにできるかぎりのことをするだろう、パンでもスープでもなんでもめぐむだろう、けれどおまえが俺からはなれ、俺とはちがう場所へいってしまったとしたら、そしてそのあと、俺が街のなかで餓死しかけているおまえをたまたま見かけたとしても、きっと俺はおまえにたったひとかけらのパンもたったひとしずくのスープもめぐみはしないだろう。
 それは、かなしいよ。
 それなら、俺がおまえのもとをはなれ、そして餓死しかけていたとき、おまえは俺にパンをめぐむのか。
 彼女は沈黙をした。
 おまえだって俺にパンをめぐみはしないだろう、いっしょに暮らして、おたがいに愛しあっていて、そしておたがいにそれを認識しあっていたとしても、俺はおまえにパンをめぐまないし、おまえは俺にパンをめぐまない、俺がずっと言っているのはこの問題なんだよ、俺はおまえにパンをめぐむために、そしておまえが俺にパンをめぐむために、俺は俺とおまえ以外のすべてのにんげんを殺すことにしたんだよ。
 目を閉じたままの彼女の暗闇のなかにぼんやりとした蜜色の光が浮かんでいた。光はどんなにつよく目を閉じてもその暗闇のなかにありつづけた。その光と暗闇のなかで聴く彼の声は巨人の腕のようだった。
 ねえ、だめだよ、と彼女は言った。そんなことを言ってはだめだよ、ねえ、わたしはあなたを愛しているんだよ、だから、あなたはそんなことをしなくてもいいんだ。
 そうじゃないよ、だって、だれかを愛するっていうことは一方向的なものではけっしてありはしないだろう、愛されることよりも愛するほうがずっとずっとむずかしいんだ、問題はおまえが俺を愛していて、俺がおまえが愛していて、そして俺がおまえを愛したいって思っているっていうことなんだよ、おまえは、おまえはどうなんだよ、おまえは俺を愛していると言うけれど、そしてそれはほんとうにそうなのかもしれないけれど、俺はときどきそんなおまえのことをこわいって思ってしまうくらいだよ、どうしておまえはそんな程度の俺を愛しているっていうありかたで俺を愛しているって思えてしまうんだよ、だっておまえは俺を軽蔑していて、俺を醜いって思っているじゃないか、それなのにおまえは俺たちがいましている生活を望ましいものと考えて、それを継続しようとしていて、そうしながら俺を愛しつづけてしまうんだよ、そんな愛のありかたがまともなわけがないだろう、おまえは俺のことを愛してくれているのかもしれない、でも、そんなものはまともじゃないんだ、おまえが俺を愛しているって思っているその感情の内容は俺にとってとてもどろどろしていて、見つめつづけることさえできないようなものなんだよ、それでもなおおまえは俺を愛しているんだ、俺が許せないのはつまりそういうことなんだよ。
 彼女は目をひらいて舌をだし、そっとコーヒーの表面にそれを這わせた。熱くはなかった。台所の蛍光灯の光はにぶく、質のわるい油膜のようだった。夏のあいだにたまった羽虫たちの死骸が黒くいびつなまるい影となってそのうちがわに透けて見えた。彼女の手のこうは乾ききって荒れはて、砂漠にうちすてられた獣の骨に似ていた。
 今夜が人類の最後の夜なんだよ、と彼は言った。おまえはずっとこの部屋のなかに閉じこもってばかりだから知らないだろうけれど、もう世界にはほとんどにんげんはのこっていないんだよ、世界のあちこちで花のかたちをした魂がゆらゆらと空のうえへとのぼっていくんだ、まばゆい月と星の光にうたれながら、やすらかな呼び声をあげて。
 光がマグカップのなかのコーヒーの表面で薄ぼんやりとした三日月のかたちに溶け、たゆたっていた。彼女がかすかに震えるたびにそのはしばしがにじみかたちをくずし、それでいてなおもときどきせつないほどのきらめきを放った。
 俺は今夜、俺たち以外のすべてのにんげんを殺しおえるんだ、と彼は言った。もうすこしなんだ、もうすこしで最後なんだよ、そうすればきっと俺はおまえを愛することができるし、おまえも俺を愛することができる、だから、もうちょっと待っていてくれよ。
 ねえ、と彼女は言って、それからしばらくの時間なにも言わなかった。彼は寝台のうえから彼女を見つめた。窓から射しこみつづけている青白い光が彼の背中をふたつにやさしくきりさいていた。
 ねえ、お風呂にはいってきていいかな。
 どうしてだよ、さっきはいったばかりじゃないか。
 すこしひとりになりたいんだよ、ひとりになって、それからあなたが言ったことを考えてみたい、あなたが言っていることの意味とか、あなたが言おうとしている言葉のかたまりとか、わたしにはまだそういうことがまだよくわからないから。
 考える必要なんかどこにもないよ、俺は俺が言いたいと思っていることをまだじゅうぶんにおまえに話すことができていないんだ、それに、俺たちはまだじゅうぶんに会話をしたとはとても言えないだろう。
 でも、わたしはもういまの状態であなたの言っていることがわからないんだよ、そんな状態でこれ以上あなたになにかを言われてもわたしはなにをしたらいいのか、なにを思ったらいいのかわからないままだよ、それに、きっとあなたにもなにも言えない、あなたがわたしには求めているかもしれない言葉や感情をいまのままではあなたに向けることができないんだよ。
 だからといって、いまの状態でおまえがひとりで考えたってそれでどうにかなるわけじゃないだろう、だって、俺はまだおまえに言いたいと思っていることのすべてを言いおえてはいないんだから。
 だからわたしはいまの状態でいちどわたしのなかであなたが言っていることについてちゃんと考えたいって思っているんだよ、ねえ、わたしの言っていることっておかしいかな、わたしはいまの状態ですでにあなたが言っていることがわからなくて、だからいまのあなたの言っていることをわかりたいって思っているだけなんだよ。
 だから、俺がまだおまえに言いたいって思っていることのすべてを言いおえていないんだから、そのいまの状態でおまえがひとりで考えてもしかたがないって言っているんだよ、そんな状態でおまえがひとりで考えても、おまえは俺が言ったことをじゅうぶんにわかることができるはずがないんだよ、おまえはおまえがわかることができない部分をおまえが勝手に想像して、それでおまえはおまえが想像していることだけをわかろうとうするんだよ、でもそのときおまえがわかろうとしているのはもう俺じゃないんだよ。
 だって、わたしがわからなかったら、わたしはこれからあなたが言おうとしていることをどううけとめたらいいんだろう。
 おまえはわかっていないんだけれど、おまえがそう言うことがつまり俺の言いたいことをわかっていないっていうことなんだよ、おまえはいまの状態で俺の言いたいことをわかる必要なんてないんだよ、いまはわからなくても最後にはすっかりわかるんだから。
 最後って、どういうことなんだろう。
 だから、俺がおまえ以外のすべてのにんげんを殺しおわったあとだよ、俺がしようとしていることはそういうことなんだよ。
 それまで、わたしにはわからないままなのかな。
 わかることもあるかもしれない、でもいまはわからなくてもいいんだ。
 ねえ、あなたは、と彼女は言った。そしてコーヒーをながしに捨てた。
 あなたは、わたしにあなたが言っていることを理解させるためだけにわたしに話しかけているのかな。
 彼は彼女の姿を見つめた。蜜色の光が彼女の髪の毛の周縁だけをおなじ色に染めていた。彼には彼女の姿が聖堂に設置された美しい彫刻のようにしか見えなかった。
 いいよ、そんなに考えたいのなら考えてくればいい。
 もういいよ。話のつづきがあるなら、つづけてよ。
 なにを意地になっているんだよ。
 いいんだよ、いまわたしがお風呂にいったなら、あなたはわたしがあなたを拒絶したって思うから。
 拒絶しているんじゃないのか。
 していないよ、だって、わたしはあなたを愛しているんだから。
 彼は彼の膝のうえにぽろぽろところがりおちていたパンくずを指でつまんでひろいあげた。そして、高価な宝石でものぞくかのようにそのパンのかけらにじっと目を近づけた。パンのかけらは青白い月と星の光をうけてその周縁を光らせていた。やがて、彼はそれをくちのなかに放りこんでゆっくりと飲みこんだ。
 おまえがいないとき、この部屋にひとりの女のひとがたずねてきた、と彼は言った。扉をたたく音はよわよわしく、けれど執拗だった、俺は無視しようかと思っていたけれど、扉はたたかれつづけた、思いきって扉をあけると、まだ若い女のひとがたっていた、彼女の服はすりきれてぼろぼろだった、さけて糸みたいになったほそい布が彼女の足もとまでたれさがっていた、顔もうすよごれていたけれど、唇は桃色で、あごのほそいひとだった、なんでしょうか、と俺は訊ねた、わたしは巡礼をしています、と彼女は言った、あなたにわたしの話を聞いていただきたいんです、その声は病気で痩せおとろえた犬の舌のように痛々しかった、俺と目をあわせた瞬間から彼女はすでに震えていた、巡礼のひとがどうしてこんなところにいるんでしょうか、と俺は言った、この部屋は聖地なんかじゃないですよ、わたしにとってはあらゆるにんげんが聖地なんです、と彼女は言った、俺はよくあるなにかの宗教の勧誘だと思って彼女を追いかえそうとした、けれど彼女はかたくなに帰ろうとしなかった、俺が彼女に帰ってほしいと告げたその瞬間にはもう彼女の瞳は濡れ、ちいさな涙がときどき頬につたっていた、俺は大声をだそうかと思った、でもうまくできなかった、おおきな声をだせば彼女は声をあげて泣くだろうと俺には思えた、それからあるいはとなりのひとたちがでてきてくれるかもしれない、さわぎになってもいい、でも、俺はおそらくは羞恥心からそれができなかった、俺はそれでもけっしてちいさくはない声で彼女に帰ってくれと言いつづけた、彼女はとうとう俺のまえにひざまずき、俺の足をそのふたつの手でつかんだ、やめてくれ、と言おうとした瞬間、足のこうになにかつめたいものがふれた、彼女は、俺の足に接吻していた、その感触のうえに彼女の涙がこぼれた、わたしはあなたの足の小指いっぽんほどの価値もないにんげんです、と彼女は言った、わたしはあなたになにをするつもりもありません、ただ、わたしの話を聞いていただければそれでいいんです、俺はひざまずいた彼女の背中を見つめた、彼女は黒く、けっしておおきくはない十字架のかたちをした木箱をせおっていた、それも貧相でぼろぼろだった、彼女のほそい髪の毛がその木箱のうえで水のように流れていた、なにをせおっているんですか、と俺は訊いた、棺です、と彼女は答えた、このなかにはわたしのたいせつなひとの死体がおさめられています、あなたはそれをせおいながら巡礼をしているんですか、そうです、いったいどうして、ですから、すっかり話します、わたしはそのことについて話を聞いていただきたいと思っているんです、わかりました、と俺は言った、けれど玄関で話してください、部屋にはあげない、扉も閉めない、と俺は最初に言った、でも、けっきょく俺は話の途中で彼女を部屋にあげた、彼女の話はとても長く、すべてを聞きおえるまで真昼から夕暮れまでかかった。
 彼女は高い山のふもとのけっしておおきくはない村のなかで生まれた、と彼はつづけた。彼女が生まれるまえ、その村のひとびとはとても平穏に暮らしていた、家畜を飼い、畑を耕し、収穫期には荷馬車に白菜やにんじんをのせ、あかるい森をぬけて近くの街までそれを売りにいった、村のひとびとはたがいに愛しあい、週にいちどは村はずれのちいさな教会につどって祈りをささげ、おたがいのことを熱心に話しあっていた、彼女が生まれたとき、彼女の母が死んだ、彼女は村のひとびとによってこの世界に生まれでたことを祝福されたけれど、彼女の父親だけは彼女を祝福しなかった、おまえが俺の最愛のひとを殺したんだ、と彼女の父親はさけび、それからはほとんど狂ったようになった、畑の手いれもやめ、自分の家畜を殺してその肉を食べた、彼は家を捨てた、わずかばかりの食料とお酒を持って森のなかにはいり、おおきな木のねもとでそれらを食べ、飲み、そしてねむった、彼のまえをとおりかかるひとがいると彼はそのひとたちを怒鳴りつけた、おまえたちはにんげんのくずだ、おまえたちばかりではない、どうして世界にはくずのようなにんげんしかいないんだ、どうしてなんだ! 村のひとびとはねっしんに彼に語りかけた、この世界はすでにあらかじめ祝福されたものとしてあります、あなたはいま深いかなしみにつつまれきっているために世界を満たすその祝福が見えていないだけなんです、さあ、涙を拭いなさい、死んでしまった妻をあなたがかつてこのうえなく愛し、そしていまも愛しつづけているように、あなたの娘を愛しなさい、あなたの隣人を愛しなさい、彼は村人たちに唾を吐きかけ、そしてまた酒を飲んだ。
 彼女の父親が森のなかにこもっているあいだ、彼女はとなりの家で育てられた、父親によって生まれながらに侮蔑をさずけられた彼女はその家のかたすみで時間をすごした、壁に背中をおしつけて座り、ふるい家具がたてるきしみの数をかぞえてすごした、それが彼女のいちにちのすべてだった、食事をしなさいと言われれば食事をとり、手を洗いなさいと言われれば手を洗った、けれど彼女は家のそとにはいっぽもでなかった、彼女は身のまわりのすべてのものにおびえ、その魂を震わせていた、その魂は傷つき、すこしずつそこなわれていった、けれど、ある日、貧しい孤児院からひきとられた女の子がその家にやってきた、女の子は部屋のかたすみでじっとうずくまる彼女を興味深そうにながめ、彼女にいったいなにをしているのかと訊ねた、彼女は答えなかった、女の子は彼女のことを見つめつづけ、そして家具がきしむたびの彼女の頬と肩がすこしだけ震えることに気づいた、女の子は彼女に訊ねた、その椅子からはどんな音がするんだろう、悲鳴、と彼女は答えた、わたしの魂の悲鳴がこの椅子から聞こえる、彼女がそう言うと、その女の子は椅子にぴたりと耳をよせた、ほんとうだ、とその女の子は言った、でも、あなたの声はとてもきれいだね。
 ふたりはすぐになかよくなった、なにをするにもいっしょだった、いっしょに食事をとり、おなじ毛布のなかにくるまってねむった、家畜小屋のまえにならんで座り、羊たちのつぶらな瞳をねっしんにながめた、靴を脱いでつめたい川のなかにその足首をさしいれ、美しくけれどやわらかな水の流れを感じた、彼女たちの足首に銀色のひれを持った魚がまとわりつき、その身体をおしつけて彼女たちの足首をくすぐった、野原を走りまわり、見つけた花々のその青色や赤色の色あいの美しさをしんけんな口調で語りあい、花輪をつくりあっておたがいの頭にささげた、走りまわってつかれると彼女たちは草のうえにねころび、広大な空をながめた、真っ青な空は透きとおったように美しく、ときどき白く薄い雲が遠いだれかが描いたなにかのしるしのようにそこに浮かんでいるのが見えた、空とおなじ色をした真っ青な鳥が群れになって高い場所を飛び、鳥の群れが雲のしたにさしかかるときだけ彼女たちにはそのかたちをみとめることができた、空のなかには自分たちのかつての魂がちりばめられているんだと彼女たちは語りあった、わたしたちの魂は空からきたんだよ、と彼女たちは言いあった、わたしたちは空から魂をあたえられて、そして日々空と魂を交換しあっているんだ、わたしたちが日々を生きるなかでわたしたちの魂の一部は剥がれ、そしてゆっくりと空にのぼっていくんだよ、でも、それはきたない部分が剥がれて捨てられていくっていうことじゃなくて、わたしたちの魂のいちばんきれいな部分が剥がれて空にのぼっていくんだ、わたしたちはわたしたちの思い出や気持ちもふくめて、それを空にかえしているんだよ、だって、わたしたちの魂が思い出や気持ちをつくりだすことができたのも、それをつくりだすためのだいじな、ぜったいに必要なものを空があたえてくれたからなんだ、だから、わたしたちはそれをすこしずつ空にかえしていくんだ、空はわたしたちからかえされたものでその色を青く透きとおったものに変えて、それからまたあたらしい魂をちいさな雨のようにわたしたちにあたえるんだよ、そしていつかわたしたちはその部分もを空にかえしていくんだ、世界はそうやって浄化されていくんだよ、それは彼女たちがつくりあげたちいさな物語だったけれど、彼女たちは彼女たちにとってのその世界のありかたを知ったことがうれしく、村のすべてのひとびとにその話を語って聞かせた、村のひとたちは彼女たちの話にうなずき、そして彼女たちのことをやさしく見つめた。
 そのころ、彼女の父親が森から村に帰ってくるようになった、父親は3日を森ですごし、4日を教会ですごした、父親は教会で森のなかで放ったほかのひとへの、そして世界のすべてへの悪態を懺悔した、父親は森のなかで自身がおこなった世界とにんげんへの侮蔑のすべてを覚えていた、そしてそのすべてにたいして懺悔した、彼は3日かけておこなったすべての侮蔑への懺悔を4日かけておこなった、懺悔がすむと、父親はまた酒と食料をたずさえて森のなかへこもり、世界とすべてのにんげんを侮蔑しはじめた、彼女たちがその村のなかで話をしていないのはもう彼女の父親だけだった、そこである日、彼女たちは森のなかの父親に会いにいった、父親はおおきな木のねもとで泥だらけですりきれた外套をにくるまってねむりこみ、いびきをかいていた、顔も手先も泥と木くずにまみれ、靴にはおおきな穴があいていた、近づくとむっとしたにおいがただよい、髭のまんなかでひらいているおおきなくちからはよだれとお酒がまざりあったものがだらだらとたれおちつづけていた、彼女たちは父親が目を覚ますのをふざけあいながら待った、緑色の木漏れ陽が彼女たちと父親をあかるく照らしだしていた、やがて、父親が目を覚ました、ひさしぶりだな、と父親は言った、俺をむかえにきたのか、いい子たちだな、心配しなくても、もうそろそろ俺もうちに帰るよ、そしておまえたちのために働くよ、いつまでもこんなことをやってはいられない、俺だってそれくらいわかっているんだ、いつかだれかが言ってくれたように、俺が俺の妻を愛したのとおなじように、俺もおまえたちを愛さなくてはいけないんだ、彼女たちはうれしくなり、そして得意になってあの話を語って聞かせた、父親はその話をおしまいまで黙って聞き、そして、彼女たちが話しおえるとすぐにくちをひらいた、おまえたちはばかだな、それはつまり、世界が世界そのものを浄化するためにおまえたちを食いものにしているっていうことじゃないか、おまえたちはだまされているんだよ、俺はおまえたちの話を信じるよ、ほかの村人たちはおまえたちの話をうれしがるふりをしてそのこころのうちではまるきり信じてはいなかっただろうけれど、俺はおまえたちの話を信じるよ、でも、それはおまえたちが信じているような信じかたじゃない、おまえたちが言うとおり、世界はおまえたちに魂をあたえるだろう、けれどそれはおまえたちが世界そのものに食いものにされているっていう意味でだよ、世界は俺たちをとうといものだなんて思っていやしないんだよ、いいか、にんげんなんて世界を浄化するための装置にすぎないんだよ、おまえたちだけじゃない、にんげんすべてがそうなんだ、世界は自分さえよければそれでいいんだよ、世界はおまえたちのことなんてかけらも考えていやしないんだ、そう言うと、父親は彼女たちをおいてひとりで家に帰った。
 父親が村に帰ったところで、彼女の生活がなにか変わるわけではなかった、父親は家のなかで食べものを食べ、お酒を飲み、世界とすべてのひとびとにたいして侮蔑を投げかけつづけ、それからしばらくするとまた教会にいって懺悔をした、けっきょくのところ、それは父親のいる場所が森から村のなかに変わっただけのことだった、父親は彼女にたびたび用事を言いつけた、酒を買ってこい、食べものを買ってこい、家のなかの掃除をしろ、俺の身体を石鹸で洗え、彼女はそのたびに父親の言いつけにしたがった、村のひとびとはそんな彼女のことを思いやったけれど、おまえは俺が言いつけることをいやがりながらやっているのか、と父親が言うと、彼女はそれからそのすべてを笑顔でおこなうようになり、その笑顔があまりにも美しかったために村のひとたちは彼女もその仕事をうれしく思っているんだろうと思って安心した、父親は彼女を教会につれこみ、いっしょに懺悔させた、父親が家のなかでくりかえしたありとあらゆる侮蔑について懺悔しているあいだ、彼女は父親の言いつけどおりに彼女の母親について懺悔しつづけた、お母さん、わたしの愛おしいお母さん、わたしが生まれるためだけにあなたを殺してしまったことはすべてわたしの罪です、わたしはあなたの小指のかけらほどの値うちのないにんげんなのに、わたしが生まれるためだけにあなたを殺してしまったことはおおいなる罪です、あなたにたいしての罪というだけでなく、これは世界にたいしての罪です、どうかわたしをお許しください、あなたの小指のかけらほどの価値も持たないわたしを憐れみください、父親は彼女に彼女の友達と会うことを禁止した、おまえの身体も魂もおおいなる罪を抱いている、と父親は言った、そんなおまえが他者とふれあうことはおまえの罪をやたらとふりまくことにしかならない、おまえはまずはおまえの罪を償うことからはじめなくてはならない、なぜなら、おまえが罪にまみれているあいだはだれかを愛することすらできないからだ、罪にまみれたおまえがだれかに向ける愛は愛ではなく、それは罪でしかないんだ、けれど、安心しろ、俺がおまえの罪をいっしょにせおってやる、なあ、俺がうちに帰ってきたのはおまえを愛するためなんだ、俺はおまえの罪を償わせるためにおまえにたくさんの言いつけをしているんだ、おまえはまずは俺に奉仕をしておまえの罪を償うんだ、それには途方もない時間がかかるかもしれない、けれどおまえが俺のためにこころをつくせばきっとやりとげることができるだろう、そして、それが終わったならおまえは世界にたいして罪を償わなければいけない、なぜなら、世界はおまえの母親をおまえに奪われたことによって許しがたいほどのにくしみをおまえに抱いているからだ、彼女は父親の言いつけにしたがった、友達が彼女を誘いにきても、彼女は父親の言いつけどおりにことわった、父親の手前、彼女は彼女の友達の誘いをことわりつづけた、それでも、父親の言いつけで彼女が村のなかへ買いものにでるときにはときどき彼女とすれちがうこともあった、週末の教会で父親と彼女がねっしんに懺悔をつづけているとき、彼女の友達がそのとなりで祈っていることさえあった、はじめ、ふたりはしたしい目配せを交わしあい、ときにはふたことみこと会話を交わしたこともあった、けれど、彼女は父親への奉仕と絶え間ない懺悔であまりにもつかれすぎていて、父親のいないところでも彼女の友達とほとんどまともに会話を交わすことはできなくなった、彼女の友達もそのうちに素っ気なくなり、村のどこかですれちがったときにも彼女の近づいてくることはほとんどなくなった。
 ある夜ふけ、彼女の家の窓がたたかれた、彼女がいってみると、窓の向こうに彼女の友達がたっていて彼女にちょっとそとにでようと言った、彼女はすこしだけとまどったけれど、ふりかえって父親がぐっすりとねむりこんでいるのを見て、そっと家をでた、ふたりはかつてふたりがいつもしていたように野原のなかに座りこんだ、彼女の友達は、あなたの顔はとてもやつれている、まるでなにも食べていないみたい、と彼女に言った、食べる時間がないから、と彼女は言った、それに、わたしが食べるよりもお父さんに食べてもらったほうがいいように思うから、彼女の友達は星あかりに照らしだされた彼女の横顔をじっと見つめ、ポケットからパンをとりだして彼女にさしだした、ここならお父さんがいないから安心して食べることができるでしょう、彼女はしばらくそのパンを見つめ、やがておずおずとパンをその手にとってかぶりついた、しっとりとしていてやわらかく、粉砂糖がかかっていてあまいパンだった、彼女が食べおえるのを待って、彼女の友達はその野原のうえでねころがった、それを見て彼女もおなじようにねころがった、彼女はとまどっていたけれど、彼女の友達はかつて彼女と会話を交わしていたのとまったくおなじようなやりかたで彼女に話しかけた、彼女の緊張もとまどいもすぐに溶けて流れ、ふたりはいつもそうしていたように会話を交わし、そして夜の静謐な空気のなかで無邪気に笑いあった、はりつめた空気がここちよく、星空は広大だった、背の高くない草がふたりの頬にふれ、その表面をやさしくくすぐった、草は夜露に濡れ、ふたりが笑って身体をよじるたびにそのちいさな水滴がぽたぽたと彼女たちの身体に降りかかった、喉も顔も痛くなるくらい笑ったあとで、彼女の友達がふいに、あなたのお父さんが言ったことはまちがっているよ、と言った、彼女は黙りこんだ、彼女のすぐわきの草についた水滴の表面に広大な星空がうつしこまれていた、まるでその水滴のなかにこの空からつながる宇宙のすべてがつつみこまれているようだった、あなたのお父さんはすべてのにんげんは世界の食いものにされているって言ったけれど、わたしはそれはまちがっていると思う、わたしはあなたのお父さんにそんなふうに言われてからずっとこのことについて考えていたんだけれど、たしかに、お父さんの言うとおりそとがわから見ればわたしたちは世界の食いものにされているのかもしれない、でも、わたしたちはぜんぜんそんなふうには感じられなかったはずだよ、だいじなのはそのことなんだよ、だって、わたしたちはたしかにあのとき世界から愛されていたように感じられていたでしょう、その気持ちはうそじゃなくて、だから、わたしたちにとってはそれがほんとうのことなんだ、世界のしくみがどうであったとしても、わたしたちはそのしくみのなかでなにかを考えたり感じたりできるんだよ、ねえ、この星空を見てよ、わたしはこの星空をとてもきれいだと思う、わたしはこの世界がわたしたちを食いものにしているなんてやっぱりかけらも思わないんだよ、彼女は友達の話を聞きながら星空を見つめていた、友達が言ったとおり、その星空はたしかに美しかった、彼女は友達にわたしもそうだと思うと言いたかった、言いたくて、なんども言いかけたけれど、彼女の胸のなかに熱くとがったものがつきささってうまくくちをひらくことができなかった、彼女の友達は彼女の横顔を見ようと思って顔をかたむけかけたけれど、思いなおしてやめた、星の光がふたりと、ふたりをつつみこむその空間にゆっくりとやさしく降りそそいでいた、空気はあたたかく濡れ、遠い場所から犬たちのあまい遠吠えがとぎれとぎれに聞こえていた、でも、わたしはこの世界によって罰せられているんだよ、とやがて彼女は言った、わたしにはこの星空を美しいと思う資格なんてないんだ、この星の光はあなたにとって世界からの祝福なのかもしれないけれど、わたしにとってはちがう、だって、わたしには世界にたいしての罪があるんだから、星空をそのうちにつつみこんだ夜露がしずくとなってたれ、彼女の頬に落ちた、ねえ、あなたのお父さんはあなたがあなたのお母さんを殺したんだって言うけれど、わたしはそれはちがうと思う、と彼女の友達は言った、だって、あなたにはそんなつもりはぜんぜんなかったんだから、そのとき、彼女の瞳からそっと涙が流れた、それはすでに頬に落ちていた夜露とまざりあって彼女の頬を流れつづけた、ちがうんだよ、と彼女は言った、それはわかっているんだよ、わたしがお母さんを殺したんじゃないって、わたしにだってわかっているんだ、わたしがわたしの罪だと思っていることはそうじゃなくて、わたしがお母さんを愛しているって思えたことがいちどもないっていうことなんだよ、わたしはお母さんに会いたいって思ったこともない、わたしを生んでくれてありがとうって思ったこともない、だめなんだよ、なんどもなんどもお母さんを愛そうって思った、わたしを生んでくれたひとなんだから、お父さんがあんなに愛したひとなんだから、きっとまだおなかのなかにいるわたしのことを、ただわたしがわたしだけっていうだけで愛してくれたはずなんだからって、でも、わたしはどうしてもお母さんのことを愛することができなかった、彼女の友達はじっと彼女のことを見つめた、彼女の顔は痙攣したように震えつづけていた、ひとつ言葉をあげるごとに彼女ははげしくしゃくりあげ、そのたびにきよらかな涙がうちすてられた土地をうるおすかのようにぱらぱらと降った、それはなにもわるいことじゃないよ、と彼女の友達は言って彼女の頭をなでた、見たことも話したこともないひとを愛することはとてもむずかしいことだよ、たとえ、それがあなたを生んだひとで、あなたを愛してくれたひとであったとしても、それはもう、そういうものなんだよ、それがどうしてあなたの罪になるんだろう、彼女の友達はやさしくそう言ってゆっくりとほそい指で彼女の頬をぬぐった、彼女の唇にはりついていたちいさなパンのかけらが剥がれ、草のうえに落ちていくのが見えた、でも、それならわたしはどうやってこれからひとを愛していけばいいんだろう、ただわたしがわたしだけっていうだけで愛してくれたひとを愛せないなら、わたしはこれからいったいだれをどんなふうに愛していけるんだろう、彼女の友達は草のうえに落ちたパンのかけらを指先でなで、それからくちをひらいた、それなら、あなたはわたしのことも愛してはくれないのかな、と彼女の友達は言った、あなたのことは大好きだよ、と彼女は言った、ほんとうだよ、ずっとあなただけだったから、それなら、わたしがあなたを愛しているからあなたはわたしのことが大好きなのかな、ねえ、あなたがわたしを大好きだと言ってくれるには、そんな理由が必要なのかな、ちがう、と彼女は言った、ちがうよ、わたしはただあなたのことが大好きなだけだ、それなら、約束をしてほしい、と彼女の友達は言った、ねえ、いま言ったことを覚えておいて、あなたがわたしを大好きだって言ったことをこころのよりどころにしておいてほしい、ねえ、あなたを愛してくれるひとをあなたが愛せなかったとしても、それはなにもわるいことじゃない、わたしは自分が愛したひとだけを愛したいって思う、わたしはそれができればじゅうぶんだって思う、だから、あなたがわたしを愛してくれたとしたら、それはもうそれだけでじゅうぶんなんだよ、彼女は彼女の友達の手をとり、彼女の手に自分の頬をおしつけた、彼女の涙が彼女の友達の指先につたい、それはやさしくゆるやかに流れおちていった、ごめん、ごめんなさい、と彼女は言った、なにもあやまることはないよ、と彼女の友達は言った、その顔は、けれどすこしだけさびしそうだった。
 彼女と友達が会話を交わしたその夜からまた何日がすぎさったころ、その村で泥棒さわぎが持ちあがった、その村のある商人が村長に自分の店から金貨が盗まれていると訴えた、店のおくの小部屋で金貨をかぞえおわったときだった、彼は妻に用事を言いつけるために店のほうにでた、たまたまきていた客としばらく談笑し、金貨がおいてある部屋にもどった、小部屋の勝手口がひらいていた、けれど彼は気にすることなくもういちど金貨をかぞえた、なんどかぞえてもあわなかった、彼は青くなって妻にもういちどかぞえさせた、やはりあわなかった、彼は店を飛びだして近所のひとにその時間に勝手口から出入りしたひとはいなかっただろうかと訊ねてまわった、だれも、なにも見ていなかった、彼はそれからも聞きこみをくりかえし、なんの手がかりもつかめないことがわかるとすっかりうろたえて村長のもとにかけこんだ、村長はほんとうにお金がなくなっていたのかを念入りに訊ねた、その村で泥棒がでたことなんていままでいちどもなかったからだった、商人はまちがいなくお金がなくなっていたと言った、部屋からでるまえになんどかかぞえ、帳簿とぴったりとあっていることを確認した、部屋からもどってきたときにもういちどかぞえたのはほんとうに最後の確認をしただけだ、商人は早口でそうならべたてた、村長は神父といっしょに村のすべての民家をまわりはじめ、さも挨拶にうかがってすこし世間話をしたいだけだというふうに装って商人の金貨について注意ぶかく訊ねた、村長と神父の心証ではたしかに泥棒をしたと思えるひとも、あるいはしたかもしれないとすこしでも思えるひともだれもいなかった、のこるは彼女と彼女の父親だけだった、けれど彼女の父親は村長と神父の訪問をかたくなに拒否した、商人は盗んだのは彼女の父親にちがいないと決めつけ、その話を村中にひろめてまわった、あの男は酒代欲しさにとうとう他人の金に手をつけたんだと商人はさわぎたてた、村のひとびとも村長も神父も、くちでは否定をしながらそうなのかもしれないと内心では思っていた、彼女の父親への疑惑は重苦しい重圧となって村のなかでよどみ、村人たちはいつもどことなく不機嫌になるようになった、だれかれとなく、彼女の父親を蔑む言葉がささやかれはじめた、村長と神父はもうひくことはできないというこころもちで彼女の父親をたずねた、彼女の父親も今度は彼らをなかにいれ、この家のすみずみまでしらべてみろよ、と彼らに言った、金貨いちまいだってでてくるはずがない、事実、そうだった、村長と神父は村のひとびとに手伝ってもらいながらその家のあちこちをしらべてまわったけれど、たしかに金貨はでてこなかった、彼女の父親は最後には自分の服を脱ぎすてて真っ裸になり、俺の服のなかに金貨が隠されていないかしらべろ、と言った、村長たちはそのとおりにした、父親はひざまずき、彼らにおしりの穴のなかまで見せびらかした、金貨はもちろんなかった、父親は彼らへの侮蔑を隠そうとしないで、だが、俺の娘が隠しているかもしれないな、と思わしげに言った、彼女はそのあいだ部屋のかたすみにうずくまってじっと震えつづけていた、村長たちはそのとりしらべをおこなうことを拒否した、あの子がそんなことをするはずがない、と彼らは言った、父親はいきりたち、しらべろ、しらべろ、と彼らに迫った、おまえたちは俺を疑ったんだ、俺を侮蔑したんだ、最後までしらべきらないかぎりおまえたちもあの商人もどこか巧妙な場所に金貨を隠したんだと言って俺を疑いつづけるだろう、もうおまえたちだってあとにはひけないはずだ、おまえたちには俺たちをしらべる義務があるし、俺たちにはおまえたちに身の潔白をしめす義務があるんだよ、けれど村長たちはかたくなにとりしらべをすることを拒否した、彼らにとってあの子の洋服を、あの子の身体をまさぐるなんて考えただけでおぞましく、恥ずかしいことだった、もうあんたたちの潔白はわかった、あんたたちを疑ってすまなかった、あの商人をここにつれてきてあんたを疑ったことを謝罪させる、村長たちがそう言うと彼の父親はふざけるなと彼らに怒鳴りつけ、見ろ、そこでよく見ていろ、とさけんで娘に飛びかかり彼女の服をひきさいた、彼女は泣きわめき、逃れようとした、父親は彼女の顔面を殴りつけ、息をさせないようにした、そして服のきれはしを村長たちのほうに投げつけ、それをしらべろ、金貨がおりこまれているかもしれないからな、と言った、村長たちはのろのろとその服のきれはしをひろいあげ、なにもないよ、あるはずがないんだ、とぶつぶつとつぶやいた、けれど、父親はぐずぐずと泣く彼女をひざまずかせ、彼女のおしりの穴と膣を村長たちに向かっておしひらいていた、ほら、ないだろう、と父親は言ってにやりと笑った、ないだろう、ないだろう! 彼女は羞恥に顔を赤く染め、そして最後にはすっかり蒼白になり、なにかを吐きだすように泣きつづけていた。
 その事件後、村人たちはすっかり泥棒探しをあきらめたように見えた、けれど、そのこころのうちではだれもが彼女の父親が犯人だと決めてかかっていた、あんなことをしでかす男なら良心の呵責にさいなまれることなく金貨を盗むことができるだろうと思っていた、金貨は見つからなかったけれど、それはあの男が土のなかに埋めるかどうかしてどこか巧妙な場所に隠したからにすぎないだろう、それに、彼の家のどこからも金貨は見つからなかったという事実がありながら彼はいまだに働くことなく酒を買いつづけている、そのお金がなによりの証拠だろう、それでも、村人たちはもうだれも彼女の父親を問いつめようとはしなかった、村は不穏な空気につつまれながらもいちおうの平穏をとりもどしたかのようだった、村長と神父は村人たちを疑いながらまわりくどい質問をしなくてすむようになり、村人たちは畑のかたすみでもうあの泥棒さわぎのことはわすれようと言いあうことができた、けれど、ある日、金貨を盗んだ男を知っていると村長のもとに密告があった、名指しされたのはこの村から街の大学へかようただひとりの学生だった、密告の手紙にはその学生がちょうど金貨がなくなった時間に商人の家の勝手口に出入りしているのを見たと書かれていた、自分はずっとそれを知っていたが、密告者に多大な親愛をよせるものだからずっと黙っていた、しかし、あわれな少女があんなひどいしうちをうけたという事態にもう黙っていられなくなった、手紙にはそう書かれていた、学生は盗みを否定したけれど、疑惑が晴れるまでは、ということで村長の家の一室にしばらくのあいだ監禁され、村長たちはその密告のうらづけをとるために村のなかをせっせとまわっていた、そして、そのあいだに商人が学生を殺した、商人の言いぶんでは故意ではなかった、いまだにまわりくどい方法で事件をしらべつづける村長たちにいらいらし、ひとりでその学生を問いつめるために村長の家にいった、ひとはみんなではらっていた、彼は学生を問いつめたけれど、学生はかたくなに認めようとはしなかった、口論になり、ついいきおいのあまり殺してしまった、商人はそう証言した、つぎの日、今度はその商人が死体となって見つかった、商人を殺したのは学生の恋人だった、そのつぎの日には商人の妻がその学生の恋人を殺し、その次の日には学生の恋人の母親が商人の妻を殺した、そして、その殺人はやむことなくくりかえされた、村は混乱した、だれもが疑心暗鬼にかかり、つぎには自分が殺されると思いこみ、そしてつぎに殺すのは自分かもしれないと思いこんでいた、村人たちは家のなかにとじこもり、わずかにひらいた窓から村の様子を見わたした、すると、ちょうど向かいの家からのぞくふたつの目とまっこうからぶつかり、おたがいが、あいつは俺のことを殺そうとしている、と思いこみ、そしてそのうちにほんとうにどちらかが相手を殺した、その村のだれもがだれかを殺したいわけではなく、ただおびえているだけだった、村の緊張はたかまり、畑は荒れはて、家畜は死にたえ、食料は枯渇した、小雨が屋根にあたる音のひとつひとつ、家なりの音のひとつひとつに彼らは発狂しそうになってかたちをなしえない言葉をさけんだ、そして、あまりにもしずかなその村のまんなかの道を彼女の父親だけがどうどうと歩き、店に放置された食料やお酒を黙って持ちかえって家のなかでそれを飲み食いしていた、いい気分だよ、おまえもいちど家のそとにでてみるといい、彼女の父親はもはやおびえきって自分の部屋からすらそとにでられなくなった彼女にそう言った、世界を静寂が支配しているんだ、犬の鳴き声も鳥の声すらも聞こえない、世界のすべてが死にたえてしまったかのようだよ、そんな世界のなかでこの村でいちばんひろい道をたったひとりきりで歩く気持ちを想像してみろよ、この村のすべてがあたらしく、どこか神々しいものに見えるんだ、神の息吹がこの村の要素のひとつひとつに染みわたったようじゃないか、陽の光はあたたかくそしてやわらかく、風は俺の身体をその胸のうちに抱いてくれる、大地は俺の足にすっかり根づき、道のうえで食べるパンは俺の舌のうえであまくとろける、俺は道のまんなかで泣きくずれ、いちどはその大地に接吻しそうになったくらいだよ、彼女の父親はそう言うとにっこりと笑って彼女の頭をそっとなでた、彼女はもう泣いていた、目のおくそこにひどい痛みが走るくらいに泣き、それでも涙はとめどなく流れおち、その身体は震えつづけていた、ごめんな、と彼女の父親は言った、彼女の父親は、そのとき、妻が死んでから見たなかでいちばんしあわせそうな顔をしていた。
 きっかけがなんだったのか、すくなくとも彼女にはわからなかった、犬の鳴き声がやけにたくさん聞こえる夜だった、その夜、彼女の家の扉がはげしくたたかれた、彼女は肩をびくりと震わせただけで動こうとしなかった、扉はいっそうはげしくたたかれ、その音のあいまに彼女の名前を呼ぶ彼女の友達の声が聞こえた、彼女は顔をあげ、しばらく逡巡したあとに飛んでいって扉をあけた、彼女の友達は蒼白な顔をしていた、その彼女の背後に骨のように青く光る月が見えた、村のひとたちがみんな殺しあっている、と彼女の友達は言った、その瞬間、遠くからまた犬の鳴き声が聞こえた、また犬たちが吠えている、こわい、と彼女は震えながら言った、あれは犬の声じゃない、と彼女の友達は言った、村のひとびとがたがいに殺しあうときの声と殺されかけたひとがたてる悲痛なさけび声がまざりあった音だ、彼女は床のうえにくずれおちた、身体のすべてが震え、たっていられなかった、たって、と彼女の友達は言った、わたしたちも逃げないと、友達は彼女の腕をひいた、お父さんも、お父さんもつれていかなくちゃ、と彼女はさけんだ、でも、彼女の父親は寝台のなかにもいなかった、その家のなかのどこにもいなかった、はやく、と彼女の友達がさけんだ、あのひとを探しているひまなんてないよ、わたしたちも殺されちゃうよ、彼女の友達は彼女の腕をつかんで家からひっぱりだした、彼女はなにもかもがわからないまま、混乱しきった頭で、ただ彼女の友達においていかれたくないいっしんで走りだした、はやく、はやく、彼女の友達は青白い顔でくりかえした。
 月の光はその村のすべての大地に染みいるように濃密で、なまぬるかった、彼女は走っているあいだにその目のはしばしにおおきな影を見つめた、その影のかたわらにももうひとつのおおきな影が横たわっているようだった、いくつもの影が村のなかにあふれていた、影たちは濡れ、その部分部分からぽたぽたと水をたらしていた、ある影はたがいにまざりあい、溶けあい、ひとつになったかと思った瞬間にはなれ、それぞれべつべつの場所に向かってすばやく散っていった、彼女は村がひとつの静寂にとらわれているように思った、彼女が部屋にこもっていたどんな瞬間よりもその夜はしずかだった、犬の鳴き声は絶え間なく聞こえつづけていたけれど、その鳴き声もひとつの静寂の要素として村のすべてをつつみこむ不気味な静寂のなかにふくみこまれていた、彼女が視線をあちこちにそらしていると、まえを走る彼女の友達が見ちゃだめとさけんだ、彼女はそのたびにまえを走る彼女の友達のあまりに美しい横顔を見た、彼女はもう自分の手をひく彼女の友達の手だけを見つめて走った、彼女の手は月の光と、そして遠く響きわたる犬の鳴き声とおなじ色をしていた、そのほそく長い指先、月の光よりもほんのすこしの差違だけ青白いその血の管に彼女は絶え間ない接吻をあたえたかった、その手はとがっていて石膏でできているようなのに、その表面にはあたたかくつよい生命だけが宿すことができるたしかなぬくもりがあった、その手をはなさないように、その手に導かれるためだけに、彼女は走った、彼女はそのときその手に導かれるためだけに生きてきたような気がした、気がついたとき、彼女たちは教会にたどりついていた、ふたりはあえぎながら教会の重々しい扉をあけた、教会のまんなか、磔にされた男を背景にしてなにか黒いものが天井からぶらさがっていた、彼女はそれを見てふらふらとまえにすすみでた、ステンドグラスから射しこむ月の光が斜めからつよく彼女を射していた、つぎの瞬間、彼女は絶叫した、彼女の父親が死んでいた。
 彼女は頭に両手をあててくちをおおきくあけた、絶叫は断続的だった、喉のおくから声がでる瞬間とでない瞬間が不規則な時間をおいてくりかえされた、でないときのほうがこころが痛かった、涙が教会の絨毯のうえに飛びちり、髪の毛が中空で揺れた、やめて、と彼女の友達は言って彼女を抱きしめた、彼女の頭は熱いほどの腕に抱きこまれ、彼女の顔は彼女の友達の胸におしつけられた、それでも彼女は絶叫をつづけた、悲痛な、たとえようもないほど痛ましい声がその胸のなかでこぼれつづけた、彼女の友達は彼女を座らせ、それから彼女の顔のあちこちに接吻を降らせた、彼女がさけび声をあげようとするたびに彼女の友達は接吻をあたえ、彼女のさけび声を、彼女の発狂をおしとどめた、そしてその接吻と接吻のあいまに愛と憐れみに満ちた言葉で彼女に語りかけた、あのひとはあれでよかった、あれでよかったんだ、と彼女の友達は言った、だって、あのひとは自分で死んだんだから、あのひとはあのひとの罪を悔いたんだよ、だから死んだんだよ、あのひとはもう最後にはすっかりわかったんだよ、もうすっかり、だから死んだんだよ、ねえ、わかるかな、それはいいことなんだよ、あのひとはあのひとのために死んだんだ、それも、あなたを愛したから、あなたを愛することができたから、だから死んだんだよ、彼女が泣きやむのに、一夜がかかった、彼女の友達は彼女が泣きさけぼうとするたびに接吻をあたえ、そのあいまにまったくおなじ言葉をくりかえした、そして彼女がすこしでも落ちつくと、わたしはあなたを愛している、と彼女に呼びかけ、あなたはわたしを愛しているかな、と彼女に訊ねた、愛している、愛しているよ、彼女はまた絶叫しようとして、彼女の友達の接吻におしとどめられた、ふたりは一晩中抱きあっていた、朝になる頃には犬の鳴き声もやんでいた、ふと、つよい風が吹いて教会の扉がひらいた、気がつくとあたりはすっかりあかるくなり、恩寵のような光が教会のなかを照らしだしていた、扉の向こうも光であふれていた、あまりもまぶしくて、彼女たちにはその光景の向こう側を見ることができなかった、彼女はたちあがり、光に誘われるようにふらふらとその扉に向かって歩いていった、彼女の友達は彼女を呼びとめようとするしぐさを見せたけれど、つよく唇を噛み、彼女のあとにつづいた。
 大地はけがされていた、もとのかたちをたもっているものはそこにはひとつもなかった、あまりにもおおく流れでた血は川となってその村のまんなかをゆっくりと流れていた、その川のなかをにんげんの頭が、腕が、足が、胴体が、それぞればらばらに、彼らが武器としてつかっただろう鎌や鍬などの農具、そして大量の金貨といっしょに流れていた、あたたかな陽の光がその血の川のうえに降りそそぎ、その表面で赤い閃光となってちらちらと輝いていた、彼女はその血の川のまえにひざまずき、大地に額をつけ、その場所に接吻をした、長い時間そうしたあと、彼女はゆっくりと顔をあげた、彼女の唇は大地に染みこんだ血でよごれていた、ばかだよ、と彼女の友達は言った、こんなことってないよ、あんまりにもばかだ、ばかげているよ、泥棒なんて最初からいなかったのに、あのひとがお金をかぞえまちがっただけに決まっているのに、その瞬間、彼女はふたたび顔を地面につけた、彼女の友達は彼女がまた大地に接吻しようとしているんだと思い、自分もそうしたい、ぜひそうすべきだと思った、血の川をまえにして大地に接吻する彼女はすべての神聖なるものをよせあつめてつくりあげられたもののようにあまりに美しく完全だった、彼女の友達は彼女の横にひざまずき、ちらと彼女の顔を見た、けれど、彼女は大地に接吻しようとしていたのではなく、身体を痙攣させ、胃のなかのものをそこに吐きだしていた、彼女の友達はあわてて彼女の背中をさすった、ねえ、だいじょうぶ、血のにおいもこの光景もつらいのなら、すこし、この場所をはなれよう、彼女の友達がそう言ったとき、彼女はよりはげしくえずき、舌をおおきくまえにつきだした、かたい音がした、彼女のくちのなかからいくつかの金貨が吐きだされ、大地のうえにちゃりちゃりと落ちていった、彼女の友達ははっとくちに手をあて、それからその手を震わせて彼女の背中からはなした、彼女は泣いていた、とめどなく涙を流していた、彼女の友達は彼女になにか言葉をかけようしたけれど、そのとき、言葉は深い土のそこに埋もれしまったかのように失われていた、ちがうんだ、と彼女は低い声で言った、彼女の友達はその痛々しさに胸をうたれ、それでもはっきりとした声で、どうして、と言った、あなたのお父さんがあなたに盗めって言ったのかな、ちがう、と彼女はさけんだ、それなら、どうしてだろう、あなたには言いたくない、と彼女は言った、あなたに言うくらいなら、このまま死んだほうがいい、言いなさい、と彼女の友達は言った、そしてうつむいたままの彼女の顔をその手ではさみこみ、むりやりに目をあわせた、彼女の瞳のなかのこまかな血管がちぎれ、彼女の目はもう血でにごりきっていた、彼女の友達は心臓のおくがぎゅっと痛んだ、それでも目をそらさなかった、言いなさい、言わないと、わたしはあなたを一生許さない、いやだ、と彼女は言った、ぜったいにいやだ、言いなさい、と彼女の友達は言った、その声は怒りではない感情で震えていた、言ってくれないと、わたしはあなたを一生愛せなくなってしまう、それがなんだっていうんだ、と彼女は言った、もうわたしはあなたに愛されることなんてないんだよ、彼女は彼女から目をそらし、そしてその手をふりはらった、放っておいて、あなたも、わたしを軽蔑したでしょう、わたしはもうあなたのその瞳には耐えられない、わたしは言わない、あなたには言わない、そして彼女はまた大地にひざまずいた、彼女の友達はつよく唇をむすび、まるでなにかに耐えているようにそこにたたずんだ、彼女はながいあいだひざまずき、接吻をつづけた、彼女の友達は瞳のなかにあふれそうになった涙を指先で乱暴に拭い、彼女からはなれたところに座り、そこから彼女をながめた、そして、夜がふけた、彼女はそのあいだずっと大地にひざまずいていた、彼女の友達はねむっているんだろうかと思って彼女のかたわらまで近よったけれど、彼女のくちからはぶつぶつとなにか不明瞭な言葉が放たれつづけていた、夜があけ、陽がのぼり、また夜がやってきた、そしてそれがなんどかくりかえされた、ふたりは一睡もせず、ひとかけらの食べものも食べることなくそこにありつづけた、そこを流れていた死体は血の川からつづく川へ流れこみ、おおいなる海に流れさっていった、血の川も干上がり、赤く染まった大地がむきだしになった、彼女の友達がついにたちあがってどこかへ歩きさっていたとき、彼女は気を失った。
 つぎに目を覚ましたとき、彼女は彼女の友達に抱きかかえられていた、彼女の友達は彼女にひとかけらのパンとコップにわずかいっぱいの美しい水をあたえた、ごめん、これだけしか見つけられなかった、彼女の友達はそう言って笑った、彼女はそのパンと水を食いいるように見つめた、水のなかにあたたかな陽が射し、そこからこぼれおちた光がパンを照らしていた、パンと水の向こうには彼女の友達の顔があり、それはとてもまぶしかった、彼女は彼女の友達のまえにひざまずき、彼女の友達の足に接吻をした、彼女の顔は涙で壊れかけていた、彼女の友達はなにも言わなかった、あなたのために盗んだんだ、と彼女はさけんだ、あなたのために、あなたはわたしにやさしくしてくれたから! 世界であなただけだったから! あなたのためにわたしはなにかをあたえたかったから! わたしにはなにもないから、わたしはお父さんのことも愛していなかった、村のひとも、わたしはみんなみんな愛していなかった! だから、わたしはきっとあなたのことも愛していなかった、ずっとずっと、わたしはあなただけは愛していると思っていた、でもちがった、わたしはあなたを愛していたわけじゃなかった、わたしはあなたがわたしだから愛していたんだ、わたしはあなたのうちのわたしのひとしい部分だけを愛していて、だから、あなたをわたし以外のひととして愛したことはいちどもなかった、たったいちども愛さなかった、でも、わたしはあなたを愛してはいなくて、でも愛したかった、わたしはあなたを愛したかったんだよ、ただそれだけなんだよ、どうしてあなたはわたしにこんなにやさしくしてくれるんだろう、どうしてわたしをこんなにも愛してくれるんだろう、わたしはあなたの小指のかけらほどの価値もないにんげんなのに、どうして、ねえ、どうしてなんだろう、わたしはあの夜にあなたがくれたパンの味がわすれられないんだ、あのときあなたの言った言葉がとてもやさしくて、やさしすぎて、わたしのこころはそのときにとろけてぐずぐずになっちゃったんだよ、あの夜のことを、むかしあなたといっしょに遊んでいたときのことを、野原にねころがってふたりで青空を見あげていたあのときのことを、ねえ、あなたとの思い出はわたしにとっては悪夢みたいなんだよ、ねむっているあいだにあなたといっしょにいるときのことを夢に見るんだ、それで汗をびっしょりかいて飛びおきて、こころのなかにのこったあまい痺れがわたしには痛くて痛くてたまらないんだよ!
 彼女の友達は彼女の顔をそっと持ちあげ、その瞳から流れる血がまじりあった涙をそっとぬぐった、それから彼女に水をわたし、ゆっくりとうなずいた、彼女は水をそっとひとくち飲み、それからむさぼるように飲みほした、そしてパンにかじりついた、あごが震えてちからがはいらなくて、うまく噛むこともできなかった、わたしはもうだめなんだ、と彼女はやがて言った、いろいろなところがだめなんだと思う、けれど、あまりにだめな部分がおおすぎて、どこがだめなのかももうよくわからないくらいなんだ、彼女の友達はそっと彼女の頭をなでた、あなたが自分のことをだめだと言うその気持ちはよくわかるように思う、と彼女の友達は言った、でも、あなたがだめだというだけで、あなたのことを愛せなくなるわけじゃない、彼女はもうなにも言わなかった、彼女の友達は村のまんなかの道で流れそこなったいた鍬をひろいあげ、そっと彼女にさしだした、鍬は村人たちの血を吸って柄も刃もまったくおなじ色あいで赤く染まっていた、わたしを殺しなさい、と彼女の友達は言った、あなたはわたしのために罪を犯した、だから、あなたの泥棒の罪はわたしがすべてをうけおう、それをきっかけにして村のひとたちのすべてがたがいを殺しあってしまった罪もわたしがすべてうけおう、あなたは、これからわたしを殺した罪だけをうけおえばいい、でも、それはけっしておおきな罪じゃない、だって、あなたはわたしににくしみなんて抱いていないんだから、だから、それはあなたひとりでせおっていけるはずだ、彼女はその鍬を手にとってたちあがった、彼女の友達は彼女のまえにひざまずき、その足につよく唇をおしあてた、愛しているよ、と彼女の友達は言って、泣いた、彼女はその鍬を彼女の友達の頭に思いきりふりおろした、大地に、この地上で最後の血が流れた。
 彼は寝台からたちあがった。部屋のまんなかのテーブルのうえにおかれたティッシュボックスからティッシュをぬきとり、それで鼻をかんだ。彼はすこしだけ泣いていた。彼女は泣いている彼の顔を見つめていた。彼はつかいおわったティッシュをごみ箱のなかに放りこんだ。いちどまるまったティッシュがごみ箱のまんなかでゆっくりとひらいていき、そのまんなかに鼻水が月の光をうけながら糸をひいていた。彼はふたたび寝台のうえに座り、かたわらにおかれたパンのかけらを手にとってしばらくながめた。
 それから彼女は彼女の巡礼をはじめた、と彼は言った。世界中のひとにこの話を語って聞かせた、彼女はそれが自分のいちばんたいせつなひとを殺した罪の償いだって言っていた、どうしてそれが罪の償いになるんだろうと俺は訊いた、わかりません、と彼女は答えた、ただひとつ理解していただきたいことは、わたしがあなたにわたしの友達の女の子のとうとさを知らしめるために話したのではないということです、そのときにはもう夕暮れだった、いま月の光が射しこんでいるのとおなじように、あのときも夕暮れの光が射しこんでいた、俺の背中はその光で真っ赤に染まり、彼女の瞳もそのおなじ色をうけて燃えるように輝いていた、彼女はそっとたちあがり、俺に向かって深々と頭をさげて部屋をでていこうとした、俺は最後に、あなたはいままでいったい何人くらいのひとにこの話を聞かせてきたんでしょうか、と訊いた、あなたでちょうど60億人めです、と彼女は答えた、そこで彼女はすこしだけたちどまった、まだこのことをつづけていくんでしょうか、と俺は訊いた、つづけていきます、と彼女は答えた、まだわたしの罪は償われてはいないんです、あなたはそれをつらいと思ったことはないでしょうか、と俺は言った、つらいです、と彼女は答えた、ときどき、どうしてあの子はわたしといっしょに生きてくれなかったんだろうかと思うことがあります、わたしはあの子を殺すべきではありませんでした、あの子もわたしに自分を殺してくれと言うべきではありませんでした、わたしたちはできるならともに生きるべきでした、すくなくとも、あのときその可能性を模索すべきでした、もしかしたら、あの子はほんとうにはわたしを許していなかったのかもしれません、あるいは、わたしがあの子の愛にむくいるために、あの子を愛するために村のひとすべてを殺しあわせてしまったのとおなじ意味で、あの子もわたしを愛するためにわたしに殺されたいと思ったのかもしれません、でも、わたしたちの気持ちがどうであれ、あの子を殺した罪は、わたしにとっては泥棒をしたことよりも、村中のにんげんを殺しあわせてしまったことよりも、ずっと重いもののように思えます、わたしにはもうわかりません、わたしはあの子と話しあうことすらできません、ある神父にこの話をしたとき、そのひとはわたしにあなたはこの巡礼の旅を終えれば天国にいけるでしょうとおっしゃってくださいました、ですから、そのときからときどき、あの子は天国にいるだろうか、地獄にいるだろうか、と考えることがあります、あの子はわたしの罪をせおって死んでいきました、その償いをすることなくあの子は死にました、だから、わたしはあの子が地獄にいるんじゃないだろうかと考えます、この巡礼の旅を終えたときほんとうにわたしが天国にいけるとしたら、わたしはあの子に会うことができません、そう思うと、わたしの巡礼はいったいなんのためのものなんだろうかと思うことがあります、でも、わたしにはわたしの巡礼をやめることはできません、わたしが地獄に落ちてきたことをあの子が知れば、あの子は、わたしをもうほんとうに許してはくれないでしょうから、彼女はそう言って部屋をでていった。
 彼女はポケットから煙草をとりだし、マッチをすって火をつけた。換気扇をまわすと、部屋のなかに洞窟に閉じこめられたひとびとのうなり声のような音が響いた。煙は彼女の髪の毛をかすめて空中を回転しながらゆっくりとのぼっていた。煙草を持つ彼女の手は震えていた。その指先がせわしなく煙草の背をたたき、煙草の先端から白い灰のかたまりが落ちた。灰のかたまりは排水口のとなりに落ち、ぱっとくだけた。その灰を台所の蜜色の光が染めていた。
 煙草なんてもうやめていたと思っていたけれど、と彼は言った。
 やめていたよ、でもいつも持っていた、と彼女は言った。
 彼女はすこしだけ咳こんだ。それは薄暗い部屋のなかで痛々しかった。
 俺の話はおまえをいらいらさせたんだろうか。
 そういうわけじゃないよ。
 彼はすこしのあいだ沈黙をした。
 なあ、だれからも愛されていないにんげんに罪はあると思うか、と彼は言った。かりに世界のだれからも愛されていないにんげんがいたとして、そのにんげんが泥棒でも殺人でもなんでもいいけれど、なにかわるいことをしたとして、それが罪になるとおまえは思うか。
 わからないよ。
 罪の前提には愛を必要とするんだよ、愛されているから罪を感じるんだ。
 彼女は沈黙をした。
 もうすぐ俺は世界で最後のにんげんを殺しおえる、でも俺はおまえと生きつづけるよ、俺はおまえを殺さない、だからおまえも俺が世界のすべてのにんげんを殺した罪によって俺を殺さないでくれ、罪は俺たちがほんとうに愛しあったあとにやってくるんだ、俺たちはこれからも世界のすべてのにんげんを殺した罪を抱えたまま生きていくんだよ、そして俺たちも俺たちの巡礼をはじめるんだ、俺ひとりでじゃない、ふたりでいっしょにいくんだ、俺たちはこれから人類が死にたえた道をふたりでどこまでも歩いていくんだよ。
 あなたは、あのひとに感化されたんだね。
 彼女は煙草をほんのふたくちかみくち吸っただけだった。彼女はじっと煙草の煙を見つめながら彼と話していた。彼女の目のまえで灰の塔が建築され、それがねもとから折れていった。
 あるひとがにんげんには表現の自由なんてものはなく、あるいのは感化する自由だけだって言っていたよ、と彼は言った。収容所のユダヤ人ですら自分の苦痛をじゅうぶんに表現できる、どんな状況であれひとには表現の自由はすでに所与のものとしてあり、その権利にとやかく言う必要なんてない、けれど、感化するということはユダヤ人が看守に拷問をやめさせるための唯一の手段であるにもかかわらず、そのユダヤ人は看守を感化することだけはけっしてできない。
 この部屋は収容所じゃないよ。
 そうだよ、けれど、おまえは俺を感化できているだろうか、そして俺はおまえを感化できているだろうか、俺はどんなかたちであれ俺を表現できる、おまえもそうだ、おまえは俺にたいして、あるいは世界にたいしておまえをうまく表現できないと思っているのかもしれない、でもそんなおまえですらじゅうぶんにおまえを表現できているんだよ、でも、もうそれじゃだめなんだよ、俺の表現はもうおまえになにもあたえない、おなじようにおまえの表現ももう俺にはなにもあたえないんだよ、だから俺は彼女の話をしたんだ、なあ、あんな女の子が60億のにんげんに話を聞かせるために世界中を歩いているんだ、彼女は裸足だった、泥で真っ黒によごれ、爪は割れ、足のうらには血がにじんでいた、彼女が部屋にあがったとき、俺は彼女がよごした場所を拭いもしなかったよ、しかも、彼女は彼女の巡礼がただしいことだとすら思っていないんだ。
 そのひとはわたしのところにもきたよ、と彼女は言った。
 彼は彼女の顔を見つめた。彼女はながしに煙草をおしつけていた。消えのこりの火は彼女の視界のなかで血のようだった。
 おなじようにあなたがいないときだった、あのひとはとても強引で、わたしの部屋にはいってきて、そして、あなたがしてくれた話とおなじ話をわたしにした、わたしはあのひとの目的がわからなくて、ずっとどきどきしていた、帰ってくださいってなんども言ったんだけれど、あのひとは帰ってくれなかった、気がついたときには部屋のなかにはいりこんできていて、おなじようにわたしたちの部屋をよごしていた、話を終えたあと、そのひとはわたしに金貨をくださいって言った、旅をつづけなければいけない、船にのってこの国ではないべつの国にいかなければいけない、紛争中の国にもいかなくてもいけない、飢えたこどもたちのまえでこの話をしなくてはいけない、そう言って、わたしに金貨を求めた、ねえ、あのひとはあなたにもおなじように金貨を求めたんでしょう。
 彼はしばらく沈黙して、そうだよ、と言った。
 どうしてそれを言わなかったんだろう。
 それは些末なことだからだよ、彼女の話の本質には関係ない。
 でも、あなたはあのひとに金貨をあたえたんでしょう。
 あたえたよ、と彼は言った。おそらくは彼女が望んだよりも、ずっとずっとおおくの金貨をあたえた。
 そうしただろうと思ったよ。
 おまえは、彼女に金貨をあたえたのか。
 あたえなかった、あのひとが金貨をくださいって言ったとき、ほんとうにこわくなって、それで追いかえしてしまった、ずっとずっとこわかったから、わたしはそうしてしまった、なかなか帰ってくれなかったから、彼女をぶって、あなたは頭がおかしいんだって言って、怒鳴って、そうまでして、わたしはようやくあのひとを追いかえすことができた、わたしはあのひとが帰ったあと、すぐにあのひとがよごした床を拭いた、かたく絞った雑巾で、あのひとがこの部屋に持ちこんだ泥のあとをひとかけらものこさないように。
 おまえは彼女が言ったことがすべてうそだとか、あるいは妄想だとか、そんなふうに思っているんだろう。
 わたしにはよくわからないよ、わたしにはあのひとの様子はわたしをだまそうとしている感じには見えなかったけれど、彼女がわたしに金貨を求めたのは事実だから、わたしは、彼女の感情がどうであれ、その事実によりすがることしかできないよ。
 たいせつなことは事実や論理なんかじゃないよ、と彼は言った。そうじゃなくて、俺たちがもっともたいせつにしなければいけないものは感情なんだよ、それなら、おまえは俺が彼女に金貨をあたえたこともおなじように理解することはできないだろう。
 できないよ、と彼女は言った。あのひとは、きっと、頭がおかしいひとだったんだよ。
 こういう話がある、と彼は言った。ある精神病院に誇大妄想患者が入院していた、医師はその患者の回復が良好だと判断して、患者を退院させられるかどうかを決めるテストをこころみた、患者に嘘発見器がとりつけられ、医師は患者にこう訊いた、あなたはナポレオンですか、患者はいいえと答えた、その瞬間、うそ発見器の針は限界までふれきった、医師はその患者を退院させることを断念した。
 彼女は沈黙をした。
 おまえはどう思う、つまり、医師はその患者を退院させるべきだったのか、させるべきじゃなかったのか。
 わからないよ、でも退院させられなくてもしかたがないと思う。
 医師がその患者を退院させなかったのは、その患者がナポレオンではぜったいにありえないことを知っていたからだよ、でも、俺たちはその患者がナポレオンではないというありかたでだれかがだれかではないということを知っているわけじゃない、おまえは想像したことがあるか、自分に嘘発見器をとりつけられて、あなたはあなたですかと、だれかに、たとえば自分がいちばん愛しているだれかにそう訊かれることを、なあ、おまえはそのときに針を揺らさない自信があるか。
 ねえ、わたしにはわからないよ、あなたはいったいなにを言おうとしているんだろう。
 事実にすがろうとするなよ、と彼は言った。事実にすがろうとするからおまえはそれを判断しようとするんだよ、それがほんとうなのかうそなのか、それがただしいのかまちがっているのか、俺たちが愛しあっているのか愛しあっていないのか、なあ、俺はときどきそういうものに耐えられなくなるんだよ、そんなものはすべてくだらないことなんだよ。
 わたしは事実にすがっているわけじゃないよ、だって、事実なんていつもたよりないもので、それがわたしたちにとっての現実に耐えられるほどの水準で証明されることもないことだってわかっている、わたしがあのひとを追いだしたことだってまちがっているかもしれない、でも、わたしにはそうすることしかできなかったんだよ、だって、わたしはそうしたくてまらなかったんだ、あのひとをはやく、いっこくもはやくこの部屋から追いだしたくてたまらなかったんだよ。
 つまり、それがおまえの事実だよ、と彼は言った。
 彼女は沈黙した。
 おまえ、俺が狂ったと思っているんだろう。
 そんなことはないよ。
 そんなことはない、ということにしておきたいんだよ、おまえがそうしておきたいんだ、おまえは俺が狂ったと思っていて、でもそれがいやだから、おまえは彼女を侮蔑するんだよ、でも安心しろよ、俺は狂ってはいない、それに彼女もおまえが考えているようなひとじゃない。
 あなたは、わたしの言うことよりもあのひとの言うことのほうを信じているんだね。
 ちがうよ、俺は俺の感情を信じているだけだ、その感情で、おまえを愛したいと思っているだけだよ。
 指先が牛乳でよごれている、と彼女は言った。
 彼はそっと手をあげ、その指先を見つめた。指紋のかたちをした白い膜がそこに薄くはりついていた。
 そこから見えるはずがないだろう、と彼は言った。
 ずっと気になっていた、あなたはそれを拭おうとも舐めとろうともしないから。
 彼女は透明なコップに水をそそぎ、それを持ったまま彼の寝台のとなりに座った。カーテンの隙間から射す月の光がコップの水のなかで美しくまるまり、彼女の手のなかでかすかに震えるたびにそれがゆっくりと回転をした。彼女は彼の手をとり、指先をそっとコップの水のなかにつけた。美しい楕円のかたちをつくっていた月の光がやぶけ、そのやぶれめに彼の指先に付着していた牛乳が溶けてひろがった。牛乳は月の光と二重の円を描きながらゆっくりと回転をした。彼女も指先をコップのなかにさしいれ、しごくように彼の指先を洗った。とてもやさしく、ていねいな手つきだった。
 コップの水面で彼と彼女の指先は切断されているように見えた。水面をさかいに、指先たちは水のなかで肥大していた。それらがひとつづきのもののように彼女には思えなかった。そしておなじように、彼にもそう思えなかった。彼の指は彼女が思っていたよりもずっとやわらかく、つよくしごきあげるとやぶれてしまいそうに思えた。彼女は彼の太腿のうえにおかれたパンをながめた。彼女は、彼の指がそのパンとおなじものでできているように思えた。つよく爪できれめをいれればたやすくやぶけ、そのなかから無数の小麦粉があふれてくるように思えた。
 彼は彼女のそのしぐさをせつじつな目で見つめていた。彼女の頬に月の光がふれ、青白く染めていた。泣いているようだった。
 おまえの横顔は世界を爆撃しているようだよ、と彼は言った。
 すこしふとったかな、と彼女が訊いた。
 なにが。
 指が。
 指は、ふとらないだろう。
 わたしはこの部屋のなかであなたといるだけでしあわせを感じることができていた、と彼女は言った。この部屋のテーブルにならべたパンのことを思いだしながらあなたの話を聞いていた、わたしが焼いたかりかりのトーストのこと、バターを塗ればそれがつやめきながら溶けてトーストの表面をゆっくりとたゆたっていた、いっぽうにわたしがいて、もういっぽうにあなたがいた、光のまぶしい朝だった、あけはなった窓からつよい光が射しこんでいた、わたしは窓に向かって座っていたからその光はまぶしかった、でもカーテンはしめなかった、そのころは、あなたと暮らしはじめたころは、わたしは光が好きだった、まぶたが痛くなるほどにうちつらぬかれても、それでもわたしは光を好んでいた、あなたと暮らしはじめてから、わたしは、この部屋のなかにいるわたしたちをだれかが見たらいったいどんなふうに見えるんだろうと考えていた、へんなことなのかもしれないけれど、どうしてかそう考えないではいられなかった、わたしたちは家族に見えるんだろうかってときどき考えていた、わたしが実家にいて、わたしの家族と暮らしていたときはそんなふうには考えたことなんていちどもなかったのに、わたしはあなたと暮らしはじめてからときどきそんなふうに考えていた、だれかから見たとき、わたしたちは家族に、あるいは恋人どうしにちゃんと見えるんだろうか、ひとりとひとりがいるとか、動物とにんげんがいるとか、あるいは奴隷と主人がいるとか、そんなふうに見えてはいないだろうか、だれかがこの部屋でふたりきりで暮らしているわたしたちを見たとき、そのだれかは、わたしたちがこころのなかでしあわせを感じているだろうとかんたんに確信することができるんだろうか、わたしたちがとても長い時間を暮らしてきたこの部屋はわたしたちの体温でぬくもっていて、わたしたちの吐息で湿っている、わたしたちの体液でところどころが濡れていて、わたしたちの手垢でところどころが錆びついていて、そして、わたしたちのこころでやさしく満たされている、その部屋のなかで、わたしたちの身体は安心を安心で塗りかさねたような身体つきに変わっていった、さっきあなたは戸棚から勝手にパンをとって食べていたけれど、わたしたちが暮らしはじめた最初のころはあなたはそんなふうにはしなかった、いちいち、これを食べていいかなってわたしにことわってから食べていた、わたしはそういうあなたがおかしかった、うまく言うことができないけれど、わたしはそういうあなたがとてもおかしかった、あなたはいつからかわたしにことわらないでこの部屋のなかにあるパンを食べるようになっていた、でも、あなたはこの部屋のなかできっと安心したんだと思う、それは権力でも暴力でもなく、もっとべつのあたたかなものとしてわたしにはうけいれることができた、わたしは、それをこころのおくそこできっとよろこんでいた、この部屋のなかで、わたしたちはおたがいがほんとうには傷つかないようなやりかたでおたがいのこころを傷つけあってきて、それがむなしさを呼ばないままにずっと暮らしてきていた、ねえ、でもわたしはそれをしあわせだと呼んで愛せるように思う、わたしは、わたしたちの生活のやりかたとか、わたしたちのお金をかせぐやりかたとか、わたしたちのおたがいの愛しかたとか、そういうものがふじゅうぶんであっても、わたしたちのありかたそのものがどうしようもなくふじゅうぶんであっても、わたしはそれを愛せるかもしれないって思ったんだ、最初は不安だった、わたしは、わたしたちの知らないだれかがやってきて、あなたたちはとてもしあわせだって、そう言ってくれるのをずっと待っていたように思う、そう言われないと、わたしはわたしたちをしあわせだと思えないのかもしれないって思っていた、でも、あるときそうじゃないって思った、だれかがあなたたちはしあわせだってそう言ってくれるのをずっと待ちつづけている時間、その時間だってわたしたちはしあわせと呼べるんじゃないかって、わたしはそう思った。
 どうして、と彼は言った。どうして、いまそんな話をするんだよ。
 コップのなかで彼の指先が震え、とてもちいさなおだやかなさざなみがその表面にたった。彼女は指先につよくちからをこめ、その震えをとめようとした。でも震えはとまらなかった。彼女もまた震えていた。月の光と牛乳が水のなかでちいさなかけらにくだけていき、コップのなかでやわらかくばらばらに散っていった。
 ずっと言えなかった、と彼女は言った。でも、わたしはこのことをあなたに言おうとしていた、あなたがあのひとの話をしようとするずっとまえから、わたしはこのことを言おうとしていた、わたしのほうが、あなたがなにかを言おうとしているわたしのことを軽蔑しているように思えていた、でも、ほんとうはきっと恥ずかしかっただけだった、わたしはあなたにわたしが思っていることのたったひとつさえもうまく言えたと思ったことなくて、だから、わたしはあなたになにかを言うことさえ、ずっとずっと恥ずかしかった。
 おそいよ、と彼は言った。でも、もうおそいんだ、俺はさっきこの世界の最後のにんげんを殺してしまった、もうこの世界にはほかににんげんはいないんだよ、だから、もうだめなんだよ。
 もういいんだ、と彼女は言った。あなたはわたしを愛するためだけに世界のすべてのにんげんを殺してしまった、だからそれはわたしの罪でもあるんだ、あなたがそれをしたいと思ったのならもうそれでいい、でも、あなたが言ったように、わたしはあなたを殺さない、そしてあなたもわたしを殺してはいけない。
 彼はそっとコップから指先をぬいた。指先からしたたった水がぽたぽたと床のうえに落ちた。水滴は床のうえでまるまり、すこしだけ震えた。彼は寝台から降り彼女のまえにひざまずき、その足をふたつの手でとった。
 やめて、と彼女は言った。
 彼は身体をひときわつよく震わせた。そして、その震えをまとったまま彼女の足を見つめていた。白い足だった。その白さのなかを薄い青色をした血管が走り、そこをあたたかな血潮がゆるやかに流れていた。つめはまるくととのえられていた。彼の視界はにじんでいた。彼にはその足がパンに見えていた。
 やめて、と彼女はもういちど言った。
 俺はおまえがこわいんだよ、と彼は言った。
 それでもやめて、と彼女は言った。もしわたしの足に接吻をしたら、きっとわたしはもうあなたを愛せない。
 彼女の足にいくつかの涙がしたたった。彼の手の震えが彼女の足にもつたわり、彼の涙は足のこうのうえをすべり、そして指のあいだから床のうえに音もなく降りそそいでいった。彼は彼女の足をはなし、涙をぬぐった。
 俺は俺の巡礼にいくよ、と彼は言った。たってくれ。
 彼女は寝台からたちあがり、彼は寝台の毛布をいきおいよくめくった。そこには無数の花束が敷きつめられていた。夜があけていた。カーテンの隙間からまばゆいひとすじの光が射し、部屋をまっぷたつにきりさいていた。彼は光の向こう側に、彼女は光のこちら側にいた。しめきられたカーテンが吸収しきれなかった朝陽でぼんやりと光っていた。花々は朝の光をうけて色づきはじめていた。濃いかおりがただよい、ふたりはその部屋のなかでむせかえった。
 俺はこれからおまえのこころのなかに俺が殺したすべてのにんげんの墓をつくるよ、だから、おまえにはすべてのにんげんの墓をおまえのこころのなかにつくることを許してほしい、俺はおまえを愛しながらおまえのこころのなかのひとつひとつの墓のまえにひざまずき、そして祈りをささげるんだ。
 彼はその花束をひとつ持ちあげ、彼女にわたした。
 この花束はおまえにあげるよ、と彼は言った。おまえに、たのみがあるんだ、きっと、俺はこれからこの世界のすべてのにんげんを殺した罪をせおい、その重圧にくずれおちていくだろう、でも、そのことを、俺が罪によってくずれおちていくそのことをけっしてかなしいことだと思わないでくれ、俺はおまえだけにはそう思ってほしくはないんだ。
 どうして、と彼女は言った。
 だって、そのとき俺はほんとうにおまえを愛しているんだから、と彼は言った。
 彼は部屋をでていこうとした。
 どこへいくんだろう、と彼女が訊ねた。
 花束を買いにいくんだ、市場のかたすみの花屋の花をのこらず買ってきたけれど、それだけではたりないから、と彼は言った。世界中の花束を買いしめるんだ、世界のすべてのにんげんの墓にそなえるための花束を買いにいくんだよ。
 待って、と彼女は言った。
 わたしも、いっしょにいく。



 数千年後、彼は世界のまんなかの道を歩きつづけていた。夜を失った世界はおだやかな陽の光を彼にあたえつづけていた。彼はやわらかなパンを右手に、おおきな花束を左手に抱えていた。ふりむくとそこには彼女がいた。彼女はいつでも彼のうしろにいた。彼は道にくずれおちた。歩きつかれ、足はもう動かなかった。彼女は彼にそっと近より、そのかたわらにしゃがみこんだ。世界にはだれもいなかった。花は枯れ、パンは石に変わっていた。彼は大地を見つめていた。彼はその大地に接吻したいという誘惑にかられていた。そこに接吻をすれば、彼にとってのすべてが完全になるような気がした。でも彼は接吻をしなかった。大地から目をそらし、よわよわしい視線で彼女の顔を見つめた。彼女はふところからちいさなパンをとりだし、彼にわたした。彼はそのパンを手にとり、数千年ぶりの涙を流した。彼女のなかに、すべての人類がやすらかにねむっていた。
                                ―了―







愛について僕たちが知らないすべてのこと

2019.06.30(16:34)

 だれかが指先をにぎってくれていたような気がした。自分の指先をにぎってくれていたかもしれないだれかの手を求めるためだけに目を覚ましたような気がした。けれど、目を覚ましたときの時間と感覚をただまちがえてしまっただけのような気もおなじくらいにしていた。その日の朝に目を覚ましたんじゃなくて、昨日の朝に目をさましてしまったような気がした。昨日の朝に目をさましてしまったのに、あたりまえのようにその日の朝に横たわっている身体がいびつな不具合を抱えているような気がした。寝台の薄い毛布に顔をこすりつけるとけばが頬をくすぐった。夏の光のなかでおさないころからずっと抱えこんでいたたいせつなものを失ってしまったような気がして、靴子は指先をにぎっていてくれたかもしれないだれかを求めて毛布のあたたかみのなかで手を這わせた。けれど求めているのはそのだれかなんかじゃなくて携帯電話だということを靴子は知ってしまっていた。そして、それはその日の朝に知ったことじゃなくて、ゆるやかな糸でむすばれた朝と夜の切断面の感触のいちいちでそれをすこしずつ知っていったということも知ってしまっていたような気がした。昨日の夜に枕のとなりにほうったままねむってしまったはずだからどこかにあるはずなのに、手と指先をどんなかたちに動かしてもふれるのは体温とおなじ固形の蜜みたいなあたたかみだけで、携帯電話のひややかな感触にはぜんぜんぶつかってはくれなかった。そういうやりかたではいろいろなことがうまくいかないような気がして、ひらいているのかとじているのかその瞬間まではわかっていなかったまぶたをこすると、かたまりとなった目やにがこすげおちていく感触がごりごりという質量を持った音として聞こえることが気持ちよかった。いまおきている、と靴子が認識した瞬間からもうとても長い時間が頭のうらがわの場所に流れさっていってしまったような感覚があったけれど、いま自分が生きているこの時間が朝のまだはやい時間のような気もじゅうぶんにしていた。ねむたくてねむたくてしかたがなかった。ずっとこすっていると目やにはもうとれなくなって、指先でまつげにふれてもそこにひっかかるものはなにもなくなった。それでもまだもうすこしだけそういう行為をつづけたあと、靴子はもういちど携帯電話を探すために寝台のあちこちに手を這わせはじめた。思いきって、さっきのばした場所とはまるでちがう場所、そんなところには携帯電話はぜったいにないだろうなと靴子がしっかりと思えていた場所に手をのばすと、指先の第1関節までの表面が生身の肉にぺたりとふれた。にんげんの肉の感触だった。靴子はとっさに指先をその肉からはなそうとしたけれど、指先は靴子の気持ちをつめたく無視して汗ばんだその肉のなかにずぶずぶと埋まりつづけていった。目は毛布のなかの視界のありかたにすこしずつなれてきていた。靴子にはもう自分が目をひらいているんだということもわかることができた。ふれたのは花びらの肉だった。花びらは靴子の寝間着にくるまっていた。ねむっているあいだにすこしだけめくりあがっていたらしくその寝間着と寝間着のあいだから花びらの背中が見え、靴子の指先はその背中の肉のなかに埋まっていた。花びらのふたつの足が交尾中の動物たちみたいにもぞもぞと動き、ただ動いているだけなのにその背中はあたりまえのように靴子の指先から遠ざかっていってしまった。靴子は自分がなにをしたいのかをうまく理解することはできていなかったけれど、それでも指先をのばしてその背中を追いかけた。薄い毛布を透かして青色の光が靴子のむきだしの指と花びらのひらいた背中を楕円のかたちに浮かびあがらせるようにやわらかく射しこみ、それをその瞬間に見ていた靴子だけがその光景の神聖さにこころの敏感な部分をうたれていた。花びらちゃん、もうおきようよ、と靴子は言って、毛布をはねのけて身体のはんぶんをおこした。髪の毛と腕に隠されて花びらの顔は穴ぐらのなかで光る陶器のかけらみたいにしか見えなかったけれど、それ以外の花びらの全景はちゃんと見まわすことができた。花びらはふたつの足をくの字にまげてちいさくまるまってねむっていた。上半身はちっとも動いてはいないのに足だけがちいさな空間のなかでもぞもぞと動きつづけていた。その足の動きにあわせて顔についたくちから湿った吐息がもれ、それに感応した髪の毛がふわりと浮かびあがり、そのつぎの瞬間にゆっくりとおりていった。ひらいたままの窓からはたまごの黄身と白身をすこしずつまぜあわせたような色の光がたばになって射しこみ、部屋のなかのすみずみまでもきらきらと輝かせていた。靴子は寝台に膝からしたの部分をつけたまま身体を回転させ、薄い土色でときどきよごれた窓枠に両腕をかさねてそのうえにあごをおいた。額がいちばんつよく光をうけていたけれど、腕の肉とあごの肉がたがいに愛を交換しあうようなやりかたで熱をつたえあい、そのふたつの部分の肉の表面にも汗がじんわりとにじんでいた。髪の毛が汗でべとついて目の横にはりつき、靴子の肌のうえにほそく頼りない痛みをちくちくとあたえていた。薄青色にきれいにすみわたった空には昨日死んだ子供たちの魂が薄く透きとおるように浮かんでいた。魂たちはたがいに融合して、そして別離して、さまざまなかたちでその芯を交わしあいながらとてもゆっくりと西へ移動していた。つよい光に照らされた魂たちはときどきぞっとするほど薄くかすれて、そのたびにとても高い周波数でただただひろがりつづけている青い空に向かって呼び声をあげ、そしてその呼び声にこたえるように空のあちこちで真っ青な鳥たちがあたらしい声で鳴いた。真っ青な鳥たちは魂たちとおなじように西をめがけて飛びつづけていた。その過程でたときどき魂たちの身体にぶつかって魂たちはそのたびに身体の部分がばらばらになっていったけれど、そんなふうにばらばらにされた魂たちの身体もちゃんとまた融合して、それから、ただしいやりかたでまた別離していった。それはほんとうに美しい光景だったけれど、その光景は同時に夏よりもすこしだけ低い温度のかなしみをたんじゅんな実体としてともなっていた。靴子はその光景を見つめながらねむたいふりをしてこっそりと涙を流した。魂たちと真っ青な鳥たちのそのふれあいかたを花びらが見ていたかどうかが気になって靴子は顔を部屋のなかにもどしたけれど、花びらは靴子の涙にまるで気がつかないままちいさな灯台をまもりつづけるようようなやりかたでまるまりつづけていた。靴子はそういう花びらを見ていると、花びらがその光景をけっして見てはいないことをあらかじめちゃんとわかっていたような気がした。ねえ、今日、学校にいこうよ、と靴子は花びらに言った。花びらはすこしだけ息を吐いて無視をした。譲くんと隆春くんも呼ぶから。靴子に向けられた花びらのおしりが携帯電話のかたちにふくらんでいることに気づいて靴子はそっと花びらの寝間着のなかに手をさしいれた。手首のはばだけできた空間の隙間から花びらの白い下着が見え、それがすこしだけすこしだけずりさがっていたせいで花びらのおしりの上端のわれめもすこしだけ見えていた。寝間着も下着も靴子のもので、そのなかにつつまれている花びらのおしりの表面も、望めば靴子のものになるかもしれないとその瞬間にだけ思えて、そしてすぐにわすれた。携帯電話のひやりとした感触を予想して、それにふれる瞬間のこころのありようをあらかじめおしつぶしておくようなやりかたで指先を寝間着と下着のあいだの空間にどんどんさしいれていったけれど、ようやくふれることができたその携帯電話は花びらのおしりの体温であたためられていた。それはほとんど花びらのおしりの部分みたいだった。靴子は花びらの寝間着の隙間から手をひきぬいて携帯電話を手のひらのうえにのせ、やわらかい枝のかたちによく似たその指先たちでその周縁をおおった。それは靴子の携帯電話じゃなくて花びらの携帯電話だったけれど、携帯電話に指先がふれたその最初の瞬間からもしかしたら花びらちゃんの携帯電話なのかもしれないという予感みたいなものがあった。電話をかけると譲はすぐにでた。ねえ、わたしがだれだかわかるかな、と靴子は言った。靴子、と譲は言った。どうしてすぐにわかるんだろう、わたし、いま花びらちゃんの声をまねしたつもりだったんだけれど。わかるよ、どうして靴子が花びらの携帯電話で電話をかけてくるんだよ。わたしの携帯電話はどこかにいっちゃったんだよ。なに。なにが。なにか用事があって電話をしてきたんだろう。うん、ねえ、譲くんはいまなにをしていたんだろう。ねむっていたよ。そのわりにはすぐに電話にでたような気がする、声も、とてもさえているように聞こえる。ねむっていたよ、電話の鳴る音が聞こえたんだ、それで、反射的に手がのびてしまっただけだよ、名前を見たら花びらだった、だから、とてもおどろいて目が覚めた。ねえ、もしも、譲くんの携帯電話に表示されていた名前がわたしの名前だったら、譲くんはどうしていたんだろう。でなかったかもしれない。ひどいね、譲くん、ねえ、それはとてもかなしいな。ひどくないよ、すくなくても、昨日、靴子が隆春にしたことよりはひどくない。ごめんね。でも、わるいと思っていないんだろう。思っていないのかもしれない、ごめんね、わたしもおきたばかりで、まだ頭がぼうっとしているのかもしれない、光が、まぶしい。ねむれよ。もう、おきてしまったから、すぐにはねむることができそうにはないんだよ。そこに花びらはいるのか。いるよ。花びらがいるときに電話をしてくるなよ。だいじょうぶだよ、花びらちゃんはわたしのとなりでねむっているよ。おきるかもしれないだろう。靴子は花びらの身体のすべての部分を視界におさめながら電話をつづけていたけれど、花びらがねむっているのか、それともおきて動かないでいるだけなのか、よくわからなかった。だいじょうぶだよ、ぐっすりとねむっているから。ふうん。ねえ、今日、学校にいこうよ、わたしと花びらちゃん、それから譲くんと隆春くんで。なにをしにいくんだよ。なにをしにいくわけでもないよ、ただ会って、話をしようよ。どうして。理由がないとだめなのかな。そういうわけじゃないけれど。ねえ、譲くん、そとの風景を見ることができるかな。できるよ、俺はいま窓のすぐそばにいるから。さっき、子供たちの魂が飛んでいたんだ、今日はすごくきれいに見える、だから、譲くんも見たほうがいいよ。見つからないよ、いま俺も窓のそとを見ているけれど、あるのはただ空だけだ、たまに真っ青な鳥が飛んでいる、でも、靴子が言うような魂は見えないよ。そうなんだ、ざんねんだな、ほんとうにきれいだったのに。いいよ、魂くらいいつだって見られるから。今日の魂はほんとうにきれいだったんだ、いまわたしのいる場所からももう見えないけれど、さっきはほんとうに見えたんだ、ほんとうにきれいだったんだよ。わるかったよ。どうしてあやまるんだろう。靴子が俺に見てほしいと思ったものを、俺が見ることができなかったから。靴子は携帯電話をかたほうの手からもうかたほうの手に持ちかえて、それから、またすぐにもとの手のなかにもどした。携帯電話は靴子の手の熱やくちからもれる吐息でさっきよりももっとあたためられているような気がした。この携帯電話がわたしの携帯電話だったらいいのにと靴子はなんとなく思ったけれど、それはこの携帯電話をとおして放たれてきた言葉たちやその送話口になんどもふきかけられてきた吐息にたいしての純粋な欲望なのかもしれなかった。その携帯電話が花びらの携帯電話だということが、靴子の頭のなかに拡大しつづけているその意識が、靴子のこころの表面のぬかるんだ部分にふとい指先に似たものをおしつけていてすこしだけおなかのなかをじゅんとさせた。ねえ、学校にいこうよ、と靴子はもういちど言った。いまになって真夏の光がとても平等に照らしだしているその空の青色や建物たちの白さがまぶしくて、すこしだけ目をほそめた。学校からだったらきれいな魂が見えるかもしれないよ、昨日の地震でたくさんの子供たちが死んじゃったから、きっと、たくさんのきれいな魂が見られると思うよ。夏休みなんだから学校はあいていないだろう、と譲は言った。どうにでもなるよ。でも隆春はいきたくないって言うと思う、いま隆春と花びらが会っても気まずいだけだよ。でも、夏休みが終わったら教室でまた会うんだよ、さきのばしにしたら、きっともっと気まずくなるだけだよ。花びらはなんて言っているんだよ。なんにも言っていないよ、だって、まだねむっているから。おこして訊いてみろよ、それはちゃんと訊かないとだめなことだ。おきたらちゃんと言うよ、いまわたしが譲くんに言ったこととおなじことを、ちゃんと言うよ。わかったよ、それなら俺も隆春に訊いてみるよ。うん、ありがとう。いくとしたら何時にいけばいいんだろう。わからない、まだなにも決めていないから、それに、花びらちゃんにもちゃんと話さなくちゃいけないから、ねえ、あとでメールをしてよ、電話でもいい、わたしたちはてきとうな時間にいっているから、学校で会おう。花びらが寝台のうえでころがってそのはじっこから床に落ちて、とてもにぶい音が聞こえた。靴子がふりかえると花びらがたてた膝のせんたんだけが見えて、窓から射す陽のなかだけをこまかな粒子がちらちらと降っていた。痛い、と花びらはつぶやくように言ったけれど、その声はかすれていてまるでこれからほんとうに死んでいくようで、靴子はすこしだけ笑った。いまね、花びらちゃんが寝台から落ちたよ、とその笑いをひきずったまま靴子は譲に言ったけれど、譲にとってそんなことはいまはどうでもよくて、ただ花びらがほんとうに靴子が言ったいたとおりにねむっていたらしいということがわかってすこしだけ安心することができたことがうれしいだけだった。携帯電話をにぎりしめている譲の手はじっとりと汗ばんでいた。おなじ部屋のなかでは隆春が昨日ふたりで砂浜からひろってきた流木の皮をていねいな手つきで剥きながら譲の言葉を聞いていたけれど、譲のその声とか言っていることとかからなにか言葉として放ちたいと思うことをはっきりと思いうかべられたわけではなかった。隆春は本棚のまえに座りこんで背中をつよく本棚におしつけていた。乱雑につめこまれていたせいで本棚からは一部の本がわくをこえてはみだしていて隆春は本のはしっこをおりつぶしてしまっていたけれど、その感覚はにぶく、そのことには気づいてはいなかった。隆春は流木の下端を腿のあいだにはさみこんでいた。ところどころに生えた枝に顔を傷つけられないように角度を調整し、その上端を右肩におしつけて流木の身体すべてを抱きしめるようにしてその皮を剥いていた。隆春と流木はその夏のなかでやさしく性交しているように見えた。流木は長く病気をしたにんげんの肌のような色をしていた。つめでどこかいってんをこりこりとこするとその箇所の繊維はほつれ、その繊維をひっぱるとそれは糸のようなほそさをたもったままするするとほどけていった。まるで自分の身体の皮を剥いでいるような気持ちがした。譲は部屋の床に流木の皮が堆積していくことにすこしだけいやな気持ちを抱いていたけれど、そのいやさの程度はわざわざくちにだして言うほどのものではなかった。そして、靴子と電話をしているあいだにそれをさえぎってまで隆春になにかを言うこともとてもいやだった。譲は隆春がとなりにいてこの会話を聞いていることを靴子には知られたくなかったけれど、花びらにならそれを知られてもいいような気がした。そしてそれはむしろ知ってほしいことなのかもしれないとも思ったけれど、それはただ譲が花びらになにか言いたいことがあるということでしかないのかもしれなかった。花びらはけがをしていないかな、と譲は靴子に言って、同時に隆春がいる空間に視線を向けた。なやんだとすくなくとも自分ではみとめることができるような気持ちがしたぐらいの時間をかけて考えてあえて花びらの名前をくちにしたけれど、それが隆春の気持ちに変質をもたらすかもしれないなんらかの要素をあたえてしまうことになるのかということまできちんと考えていたわけではなかった。花びらの名前をくちにだしたときには後悔することも後悔がやってくるような気配すらもなかったのに、隆春のほうを見たそのときにはもうすでに譲ははっきりと後悔していた。隆春は譲のほうに目を向けることなくうつむいていっしんに流木の皮を剥いていた。花びらの名前をくちにだすまえからずっと隆春のことを見ていたわけではないからその名前をくちにだすまえに隆春がどんな様子をしていたかはわからなかったけれど、譲はその瞬間の隆春を見てとてもかわいそうだと思った。でも、それは譲がそう思いたかったからそう思っただけのことなのかもしれなくて、譲にはほんとうに隆春がかわいそうなのかどうかはほんとうにはまるでわかっていなかった。隆春はそんなふうに譲がくりかえし自分のことを見ていることに気づいていた。そして、そのやさしさめいたやりかたにすこしだけいらだちを感じはじめてもいた。それでも隆春はかたくなに譲のほうを見かえしはしないまま流木の皮を剥きつづけていた。隆春は譲のそのありかたがやさしさだということを理解しようとしていた。けれど、それは理解しようとした瞬間になにかべつのものにかたちに変え、そのべつのなにかがやさしさではけっしてありえないという感覚だけがどうしてようもなくつづいてもいた。けがはしていないと思うよ、と靴子が携帯電話の向こうがわから言った。でも、痛い、痛いって言っているよ、それでも、ほんとうはそんなに言うほど痛くないんだと思う、だって、わたしの寝台はそんなに高くはないから。電話口から花びらの声が聞こえたように譲は思った。でもそれはそう思っただけのことで、ほんとうにそれが花びらの声なのかどうかうまくわかることはできなかった。さようなら、と靴子がつづけて言った。学校で。うん。譲は電話をきって携帯電話を寝台のうえに放りなげた。なんだって、と隆春が訊いた。花びらが靴子の寝台から落ちたらしいよ、と譲は言った。ねむっていて、ころがって落ちたんだと思う、痛い痛いって言っているって靴子は言うんだ、でも、ほんとうはそんなに痛くないらしいよ。死んでいればいいのに。そういうことを言うのはよくないと思う。わかっているよ、言ってみただけだ、なあ、花びらはけっきょく靴子の家に泊まっていったのかな。そうみたいだ、でも、昨日、花びらが自分でそう言っていたんだろう。俺が花びらに告白をしたから、花びらは靴子の家には泊まらないで自分の家に帰ったんじゃないかなって思ったんだよ。おまえが告白をしたことと花びらが靴子の家に泊まることは関係がないだろう。でも、花びらは俺に告白をされるまえから昨日靴子の家に泊まることを約束していたんだ。だから、それがどうしたんだよ。どうして花びらは靴子の家に泊まっていったんだろう。おまえはなにを言っているんだよ。小学校のころ、俺、おまえの家に遊びにいく約束をしていたのにけっきょくいかなかったことがあるだろう。覚えていない。あったんだよ、おまえが覚えていなくても俺はちゃんと覚えている、おまえの家に遊びにいく途中、車にひかれた黒猫を見つけたんだ、黒猫はすっかりかわいて干からびかけていた、何度も何度も車がその黒猫のうえをとおりすぎていったんだろう、すっかりぺしゃんこになって黒猫はほとんど道路とひとつになって溶けあっていた、かすかな風がふいてそのぺしゃんこのかたまりから生えたわずかな体毛がさやさやと揺れていた、自転車からおりて真上から見おろすと、まえの足の部分、うしろの足の部分、しっぽの部分、顔の部分がちゃんとわかった、その黒猫がかつてそうであったよりもずっとひらたく、すこしだけ面積がひろかった、顔の中心にはつぶれてまるくひろがった眼球があった、白目の部分も、黒目の部分も、真上からきれいにおしつぶされたかのように道路にへばりついていた、そのふたつのまるい目が真上からのぞきこんだ俺を見かえしていた、それはまるで悪意を持っただれかが描いた絵のようだった、でもそれはちゃんと黒猫の死体だった、俺はそのころはおまえの家に遊びにいくために何度も何度もその道をとおっていたんだ、思いかえしてみれば、俺はその道をとおるたびにその黒猫の死体を見ていたんだ、その体毛が風にふかれて揺れる光景をずっと見ていた、俺はほんとうにはずっとまえからそれが黒猫の死体だと気づいていたんだ、でも、俺はそれをほんとうに意識できたことはなかった、俺はどうしていままでその黒猫の死体を見すごすことができていたんだろうと思った、でもわからなかった、そして俺はその日にかぎってどうしてその黒猫の死体を見すごすことができなかったのかもまたわからなかった、俺は黒猫の死体を見おろしつづけていた、赤い服と赤い帽子をかぶった何人かの老人がやってきた、老人たちは俺のかたわらでたちどまり、やがてなにも言わないでさっていった、俺は黒猫の眼球を見つめつづけ、黒猫の眼球もまた俺を見つめつづけていた、今日の俺はこの黒猫の死体を意識できるほどに昨日の俺とは変わってしまったんだろうかと俺は考えた、でもわからなかった、黒猫の眼球はそんなふうに考える俺をけっして許しはしないようなやりかたで俺の眼球を見つめていた、俺は俺の身体もまたこの黒猫とおなじようにたいらになってはいないだろうかと考えて不安になった、俺はふたつの手をこすりあわせ指でおたがいの手をまさぐりあっては手のひらの厚みをたしかめた、そして顔を両手でこすりつけて顔のふくらみをたしかめた、俺は正常だった、でも俺の不安は拭いきれなかった、俺はそのときの俺がおそらくは正常だろうということが不安だったんだと思う、もしもそのときの俺が正常であるなら、そのとき以前の、黒猫の死体にたいしてなにも意識することができなかった時間をすごしていたときの俺はほんとうに正常だったんだろうか、そう考えると俺のこころのなかに現実の部分としての発狂の可能性が浮かびあがった、空気が砂のようにざらつき、陽の光のかげりもなんらかの兆候のように俺の耳を射していた、それはおさない俺がはじめてふれたにんげんの暗部だったんだ、ねばついた、にんげんの内臓そのままのかたちをした俺のこころのうらがわだった、俺は必死に言いわけを探していた、もしもかりに黒猫の死体にたいしてなにも意識することができなかったときの俺が異常だったとしてもなんの心配もいらないんだと俺は俺に言いきかせた、だって、もしもそうであるならいまの俺はまったく正常になることができたんだから、けれど、黒猫の眼球はそんな俺の考えをあきらかに許していなかった、黒猫の眼球はそのかたちをかけらも変えることなくただただ俺の眼球を見つめつづけていた、黒猫が許すことができなかったのは、けっきょくのところ、そんなふうに俺を正常な場所におしとどめようとする俺のこころの機能なんだと俺は気づいてしまっていた。話をしながら隆春は自分の頬をなでるようなやりかたで流木をなでつづけていた。けれど、それはほんとうにはなでているのではなくてただ皮を剥くことにいちいち失敗をしてそう見えているだけで、そして皮を剥くことに失敗していることに気づいているのは隆春だけだった。それで、と譲は言った。こわくなっておまえの家にいくのをやめて家に帰ったよ、と隆春は言った。それで、おまえは正常だったんだろうか。正常だよ、あたりまえだろう、黒猫の死体なんてほんとうには俺にはどうでもいいことだったんだよ、それでも、それは俺にとってとくべつなできごとだったんだ。それがなんだよ、おまえはけっきょく正常だったんだよ、いまだってそうだ、それならもうそれでいいじゃないか。俺が言いたいことはそういうことじゃないよ、なあ、俺はそのとき俺の暗部にふれたんだよ、だから花びらだって俺の告白によって花びらの暗部にふれたってよかったはずなんだ、わかるだろう、俺が俺の暗部にふれたことでおまえの家にいかなかったように、花びらだって靴子の家にそのまま泊まっていかなくてもよかったはずなんだよ、俺はせめて俺の告白が花びらがそれまでしようとしていたことができなくなってしまうようなものであってほしいと思うんだよ。やめろよ、告白の価値なんて決めようとするなよ。そうじゃないよ、俺が求めたいのは俺の告白の価値じゃなく、俺の告白が花びらにあたえた要素の価値なんだよ、なあ、俺にはわからないんだよ、俺に告白された以後も日常をたやすくいとなみつづけてしまう花びらの存在のしかたが俺にはほんとうにわからないんだ、俺がいやなのは俺の告白が花びらにとっての日常の一部としてたやすく吸収されていってしまうことなんだよ、たとえ花びらが俺が花びらに抱く感情をうけいれなかったとしても、俺は俺の告白が花びらにとってとくべつなことであってほしいと思うんだよ。譲はすこしだけ目をほそめた。首すじからたれた汗が乳首のあいだを通過してへそのなかまで流れおちていくのを感じたけれど、それはくちにだすようなことではなかった。カーテンの隙間からはいりこむふくらみをまとった光がすじとなって譲の目のまえの空間を照射し、隆春が抱えこんだままはなさない流木から隆春の右頬をよぎって天井までの空間をひきさいていた。どうして、と隆春は言った。どうしてにんげんは他人の気持ちを知ることがこんなにもあたりまえにできないんだろう。他人の気持ちを知ってしまったら、生きることがとてもむずかしくなってしまうからだよ、と譲は言った。そうだろうか。きっとそうだよ、俺は、かりにおまえが告白をするまえに花びらの気持ちを知っていたとしたら、おまえは花びらに告白をしなかっただろうと思うよ。そうかもしれない、でもそれは、そう言ったところで隆春は服をつまんで胸の部分から浮かせて服と身体のあいだに風をいれた。その風をうけて身体の表面にたまとなってとどまっていた汗がまたいくすじか流れた。なんだよ、と譲は言った。それは、でも、やさしさじゃないか、と隆春は言った。相手の気持ちを理解することができれば俺たちはあやまってだれかを傷つけてしまうことがなくなるじゃないか、相手の気持ちを理解することができれば俺たちは論理的な手続きの積みかさねによってだれも傷つけない手段をえることができるじゃないか。でも、それはただの理想だよ、気持ちは行為じゃない、それに行為は気持ちじゃないよ、おまえが相手の気持ちを理解して相手を思いやってやった行為が相手を傷つけることだってきっとふつうにあるんだよ、そして、その行為がおまえ自身を傷つけることだってきっとふつうにあるんだよ。たとえそうだとしても、そのときの俺の行為はやさしさにつつまれているんだよ、やさしさにつつまれた行為によってつけられた傷がそのあとに生きる時間のなかで致命的な傷としてのこりつづけるだろうか。のこるよ、そうやってつけられた傷は相手をにくむことで消えはしないんだ。俺はただやさしくありたいだけだ、すくなくとも俺は俺が好きなにんげんを傷つけたくないだけなんだよ。花びらはおまえの告白によって傷ついているわけじゃないと思う。どうしてそう言いきれるんだよ。言いきっているわけじゃないよ、俺はおまえがかたくなにおまえの告白によって花びらが傷ついていると想像しつづけることがよくわからないだけだ、きっとおまえはおまえの告白にとくべつさを求めすぎているんだよ、おまえはほんとうはおまえの感情を花びらがうけいれられなかったことで花びらが傷つくことを求めているんだよ。そうじゃない、そうじゃないよ、俺はただ俺たちにとって問題となっていることを必死に考えようとしているだけだ、おまえだって花びらが傷ついていないとは言いきれないって言っただろう、俺に必要なのはあらゆる可能性を考えてみることなんだよ、俺が、花びらに告白をした俺がそれをやっていったいなにがわるいんだよ。なあ、ひとがだれかをとくべつに思ったとしても、そのだれかにたいしてとくべつなふるまいをすることを無条件で許されるわけじゃない、花びらへの告白とその結果についてあらゆる可能性を考えることがおまえのやすらぎとなりえることは想像できるよ、でも、おまえは世界を代表しているわけじゃない、その問題だっておまえがつくりだしたものかもしれないだろう、花びらはそれを問題だと思っていないかもしれない。でも問題だと思っているかもしれない。それは、もういちど花びらと会って会話をしてたしかめるしかないよ、靴子だってそう言っているんだ、さっき電話でその話をしたんだよ、靴子は学校にいこうって言ったんだ、俺とおまえと、靴子と花びらで。なにをしにいくんだよ。会話をしようって言っていた、それから、昨日の地震で死んだ子供たちの魂を見ようって言っていた、靴子はおまえに気をつかっているんだよ、花びらは昨日おまえにこれからもちゃんと友達でいてほしいって言ったんだろう、夏休みのあいだおまえと花びらがずっと会わなかったらそういうこともむずかしくなってしまうだろうって靴子は思っているんだよ。それはただの靴子の願望にすぎないよ、靴子はただ昨日のことで俺たちの関係がいままでと変わってしまうことがいやなだけだよ、俺や花びらのことを思ってのことじゃない。おまえ、それはほかの場所で言わないほうがいいよ。どうしてだよ。だって、それはきっと最低なことだから。隆春は顔をあげて譲の顔を見つめ、それから剥きおわった皮を床のうえにやさしく放って右手で右頬をゆっくりとなでた。譲が隆春に最低だと言ったことはきっとはじめてだった。そのことで譲は傷ついていた。だからなにか言葉をかえしてほしくてそれを待った。隆春の眼球のなかにこまかい光がちらつき、部屋の空気や気配がかすかに揺れうごくたびにその光の個数やつよさはうつりかわっていた。譲は隆春が泣くのかもしれないと思った。でも隆春は泣かなかった。譲は右頬をゆっくりとなでつづけている隆春の顔を見ていると隆春が泣くかもしれないと思ったことじたいが自分のうすぎたない欲望だったように思えてきた。譲が隆春を最低だと思ったことはほんとうだったけれど、それは譲のなかでも知らないひとにたいしても抱けるような感情でしかなかったはずで、しかもそれは隆春の言葉にたいして言っただけのことだったのになんだか隆春のにんげんとしての存在すべてにたいしてそう言ってしまったように思えていた。隆春が泣くのかもしれないと思ったことも、昨日の夜の隆春の告白のせいではなくてただたんじゅんに最低だと言った自分の言葉のみに反応して泣いてほしいという欲求がこころのそこにあるような気がした。そういうありかたをしてしまった自分をとてもさみしい虫けらのように感じた。俺は、とすこしだけの沈黙のあとに隆春が言った。俺は、きっと、おまえが靴子を好きなほどに靴子を好きなわけじゃないんだよ。それは、おまえが昨日の夜に靴子が言ったことを許すことができていないからだよ、俺が靴子を好きかどうかなんて関係ないよ。ちがうよ、昨日の夜に靴子が花びらから携帯電話を奪いとって俺に花びらを好きって言ったことをとりけしてって言ったとき、俺の感情はただたんに俺の欲望だと言ったとき、おまえだって怒っていた、おまえだって靴子にそれは靴子の傲慢さだって言ったじゃないか、でも、あとになって靴子の言ったことを許せるとしたら、それはおまえが靴子にたいして抱いている感情がそうさせているからなんだよ、靴子がそう言ったとしてもおまえは靴子がかつてそう言ったという事実をうけとめながらなおこれからも靴子となかよくしていきたいって思っているんだよ。でもそれはふつうのことだろう、だって俺たちはこれまでそうやっていっしょの時間をすごしてきたんだよ、よく考えろよ、たったひとつやふたつの言葉がそういう時間のすべてをうちけすわけじゃないだろう。言葉の問題じゃないよ、なあ、俺だって靴子の言ったことなら許せるかもしれないって思うよ、俺は靴子の言葉なら許すことができるかもしれない、でも、それを言った靴子というにんげんそのものをほんとうに許すことはできないように思うんだよ、他人を許すっていうのはそういうことだろう、靴子が謝罪をするのであれば靴子は靴子というにんげんについて謝罪しなくちゃいけないんだよ、言葉じゃない、俺は靴子の言葉を許すんじゃなくて靴子というにんげんを許さなくちゃいけないって思うだけだよ、そして、靴子というにんげんを許せるかどうかということはけっきょくは俺が靴子というにんげんにどれだけ親愛を抱いているかという問題にしかならないんだよ。おまえの言っていることはたぶんわかると思うよ、でも、おまえはいったいどうしたいんだよ。俺だって靴子を許したいよ、でも、靴子はわるいとも思っていないんだろう。そうだと思う、さっき、電話でそう言っていた。そうだろうね。隆春は手をのばして流木のいちばんうえに生えた枝にふれて指先でそっとなでた。その枝は流木のなかでもっともふとく美しかった。先端には薄緑色の葉が生え、そこにちいさな黄色い果実がなっていた。果実は潮にやられて腐り、黒い染みをあちこちにつけていた。食べられるかな、と隆春は言って果実をもいだ。おまえは靴子が言ったことが原因で花びらがおまえの感情をうけいれなかったと思っているんだろう、と譲は言った。靴子がよけいなことを言わなければすべてうまくいったかもしれないって、そう思っているんだろう。そんなことはないよ、俺はそこまでばかじゃない、それに花びらだってそんなにばかじゃない。隆春が指先にちからをこめると果実は皺をよせてへこみ、それから皮の一部がやぶれてこまかな顆粒をふくみながらも白くて粘度の高い液体が顔まで飛んた。液体はなまあたたく、額から鼻すじをとおりぬけて唇のはしまでとろとろとつたいつづけていた。目にも直接かかり、隆春はかたほうの目だけをひらいたまますこしのあいだ動かなかった。舐めないほうがいいよ、腐っているから、とやがて譲が言った。顔をしたに向けると目のうえにかかった液体がぽたぽたと床に落ちてすこしだけまぶたに空気が感じられた。すこしの隙間だけ目をひらくとうすぼんやりとした不安に似た白い膜がそこにはられていた。隆春は洋服をひっぱって顔を拭い、気持ちがわるい、とつぶやいた。その指先にはまだつぶしたままの果実がにぎられつづけていた。液体をふきだした果実のやぶれめからは白くこまかな虫が無数にあふれだしつづけていた。譲がティッシュを何枚かわたし、隆春は指をそれにこすりつけてから果実をそのなかにおしこめてまるめて、顔、虫がついていないかな、と言った。手と顔を洗ってきたほうがいい、と譲は言った。隆春はうなずいたけれど、流木を床に寝かせてたちあがり新しいティッシュをひきぬいて顔を何度も拭っただけで部屋のそとにはでていこうとはしなかった。唾を吐きたいな。だから、洗面所にいってこいよ。隆春はごみ箱をひきよせてそのなかに何度か唾を吐いた。うまく飛ばなかった唾液がしたの唇から短く糸をひいてたれ、その先端には光をうけたこまかな泡がうごめいていた。隆春は唾を吐きながら床にころがっていたペットボトルをひろいあげてキャップをはずし、それを斜めにかたむけてなかの水でティッシュを濡らして唇を拭い、顔をふきはじめた。何度もくりかえしているせいでやがてティッシュはばらばらにほどけ、こまかくまるまったそのかけらが隆春の顔にてんてんとつきはじめていた。俺はおまえに靴子のことを許してほしいと思うんだよ、と譲は言った。けれど、おまえにそう言われたからってすぐに許すよっていうことにはならないだろう、と隆春は言った。わかっているよ、いまのは俺の気持ちをただしゃべっただけだよ、なあ、俺は靴子が言ったことがよくわかるような気がするんだよ。おまえも俺が花びらに告白をしなければよかったと思っているんだろう。ちがうよ、そうじゃない、靴子は俺たちの関係が変わってしまうことがいやだって、それがこわいって言ったんだろう、俺も靴子がおまえに告白をとりけせって言ったのはたしかにひどいと思うよ、でも、靴子がそう言ったことのそのうらにある感情は俺にもわかるような気がするんだ。俺にだってそれはわかるよ、でもその感情を俺に攻撃的に投げかけることが許されるわけじゃない。靴子はおまえが好きなんだよ。てきとうなことを言うなよ。てきとうに言っているわけじゃない、それが恋愛感情であるかどうかはべつとして、すくなくとも、靴子はおまえにたいして好意的な気持ちを抱いているんだよ、だからおまえの告白にたいして怒ったんだ。ちがうよ、靴子が愛しているのはおたがいになかがいいにんげんがそこにあつまったときに生まれる空間で、そこにあつまったにんげんを個々のにんげんとして愛しているわけじゃないんだ、だから俺にあんなことを言うことができるんだよ、そういう空間だけを愛しているにんげんにとって俺が花びらに抱いた気持ちはただの欲望としてかたづけられてしまうんだよ。譲はすぐにはなにも言わないで寝台からおりて本棚に近より、隆春によってわずかにおりまげられた本たちをひとつずつぬきとって手のひらにのせ、それからもうかたほうの手のひらでつよくこすりつけてゆがみをなおそうとした。隆春は濡れたティッシュを顔にこすりつけながら横目でそれを見ていたけれど、その本たちをゆがませたのが自分だとはいまだに気づいていなかった。隆春が言ったことについて、譲はもしかしたらそうなのかもしれないと思いはじめていた。思いはじめてしまったそのことをうちけすことはむずかしかったけれど、それでも、うちけしたい、うちけさなくてはいけない、という思いだけは焦りにも似てつもりはじめていた。けれど譲はなにも言えなかった。言葉はこころのおくそこでかたちをなしえないままに黒くかたまり、澱となってねばつきながらこころのうらがわにはりついてとれなくなっていた。その過程のなかで思いおこされるのは直前の隆春の言葉ではなく、直前よりずっとまえの、おまえが靴子を好きなほどに靴子を好きなわけじゃないんだよ、という言葉だった。隆春の言うとおりなのかもしれないと譲は思った。俺はきっと隆春が靴子を思う気持ちにくらべるとずっとずっと靴子を好きで、そして、ほんとうには俺はそのことをみとめたくないだけなのかもしれないと思った。でもそれを隆春に言う気持ちにはならなかった。それをくちにだしたら隆春は自分にたいしてつよいにくしみを抱くように思えた。そうだとしても、と譲はようやくくちにだした。譲の手のひらにはゆがんだ本がひとつぶの麦のようなありかたでのせられていた。そうだとしても、個々のにんげんよりもそのにんげんがあつまった空間を愛することができる女の子を俺たちは軽蔑できるんだろうか。ぱらぱらと銃弾が降りつもったような音がそとから聞こえた。譲が動くよりもさきに隆春がティッシュをごみ箱に捨てて動きだすほうがはやく、それを見て譲は動きだすのをやめた。隆春が寝台に膝のりになってカーテンをあけると、窓には子供たちの魂がくだけたあとがべったりとついていた。方角を見失った魂たちはそれから時間をおいて何度も何度もその部屋の窓にあたり、その身を砕きつづけた。窓をしめておいてよかった、と隆春が譲をふりかえって言った。譲はそれには答えないで砕かれた魂たちの身体からあふれだした透明な鮮血な気配をただ見つめていた。気持ちがわるいな、と譲は言った。けれど、ほんとうにはそう言うほどに気持ちがわるいと思っているわけではなかった。それで、けっきょく、靴子の誘いはどうするんだよ、と譲が言った。いくよ、と隆春は言った。ちゃんといくよ。それなら、メールを返しておくよ。譲は靴子が携帯電話をなくしたと言っていることをわすれて靴子の携帯電話にメールを送った。メールはゆるやかに基地局を経由して進み、やがて靴子の携帯電話にとどいてその身体を震わせた。寝台のうえにのったまま真っ青な鳥たちのつらなりの遠いかたちを見つめつづけていた靴子の耳にその震えはちゃんととどき、靴子は寝台のうえから頭をさかさまにして寝台のしたをのぞきこんだ。髪の毛がたれさがってそれが靴子の視界をすこしだけふさいだけれど、その髪の毛の隙間からでも靴子はきちんと寝台のしたの光景を目にうつすことができた。携帯電話はちょうど震えることをやめたところだった。汗で濡れた髪の毛たちはこまかくゆがみ、ときどきかすかにおれまざりながら靴子の柔肌にはりついてその場所をかすかに赤く染めていた。靴子は寝台からおり、花びらちゃん、どいて、と言って床に落ちてからずっと死んだふりをしていた花びらの身体をころがして寝台のしたの空間のなかに手をさしいれた。靴子の視界にほそく暗い色をした手があらわれ、その手ははじめはとてもおおきかったけれど、携帯電話へのびるたびにすこしずつちいさくなっていった。皮膚のうえにたしかにきざまれていたかすかな皺も、浮きでていた骨のかたちも、薄暗い曖昧さのなかに溶けていって見えなくなった。手がちいさくなるにつれてそれが自分とは別個のいきものみたいに思える感覚はつよくなっていったけれど、肩と腕の筋肉や繊維のきりきりとした痛みのおかげで手はただ靴子の身体の一部として延長していくだけにとどまっていた。携帯電話は花びらのそれをさわったときとはちがいつめたい感触をのこしつづけていて、靴子がふれたとき、一瞬だけその指先が手のひらから剥離したように感じられた。靴子はのばしていた腕をたぐりよせて携帯電話をひらき、そのなかに書きこまれた言葉をぼんやりとながめた。それは譲が書いた言葉とおなじ言葉だったけれど、譲がその言葉を書いていたときとおなじ気持ちをそのときの靴子が抱くことができたわけではなかった。譲くんと隆春くん、学校にくるって、と靴子は言ってふりかえって床にころがっている花びらを見つめた。ふたりの距離は靴子が思っていたよりも近く、上半身をいっぱいにひねったそのときに花びらの顔がほとんど自分の真下にあったことが靴子には新鮮に感じられた。むぞうさに投げだされた花びらの腕からのびた指先のいくつかが靴子のおしりの肉にあたっていた。靴子はそのことにうすうす気づいていたけれど、その事実や感触が靴子にふたりの肉体の距離の近さについてなにかを思わせるわけではなかった。花びらの顔には花びらの髪の毛がほつれながらもからみついていて、髪の毛の隙間からは皮膚が見えていた。皮膚のうえにはときどき顔面の部位が見えた。ひらかれた窓からはいる音のない風が花びらの髪の毛を線としてこまやかに揺らし、同時に靴子の髪の毛もおなじやりかたで揺らしていた。でも靴子が見ることができたものは花びらの髪の毛だけで、それとおなじやりかたで自分の髪の毛が揺れていることにはどうしても気づくことはできなかった。花びらは目をつむっていた。唇は水分をたっぷりとふくみ、光をうけてわずかに銀色に輝きながら微細にその照りかえしかたを変えていた。息はしていなかった。あるいは、靴子にはそう感じられた。靴子はしっかりと身体を回転させて花びらの亡骸のような肉体を見つめた。白い首すじと、わずかにはだけた寝間着の隙間から見える鎖骨がもりあがった場所の皮膚のうえにすこしだけのふくらみを持った汗のたまができていた。靴子は花びらのかたほうの手首をつかんでその腕をゆっくりと持ちあげた。そのままの空間のかたちで時間が流れた。手首のなかには血が流れつづけていた。手首をにぎっているあいだ靴子は一瞬だけふくれあがる血管の動きを感じつづけていたけれど、たとえば、死んだばかりのひとの身体のなかで血の流れはすぐにとまるものなのかどうか靴子は知らなかった。花びらの腕にはまるでちからがはいっていなかった。そのぶんだけほそく感じられて、それはたいせつな骨のいくつかがこっそりぬけおちてしまったかのようなほそさだった。そうやって他人の手首をにぎりつづけ、そこに感じられる無感覚めいたものを手のひらのなかであたためている時間のなかで、靴子は花びらの手首がそうあるいっぽうでたしかに生きてたくさんのものを感覚しているだろう自分の手首はどういう状態にあるんだろうと考えた。それははっきりとした答えがでるような問いかけではもちろんなかったけれど、そんなふうに頭のなかであったとしても言葉として問いかけてみると、自分の手首の状態と花びらの手首の状態はかなしいほどにひとしいように思えた。それはまるで死んだ花びらの手首がそのままそっくりのりうつってきたような自分の手首の状態だった。靴子は指先をひとつずつひらいていった。小指まですべてひらいたところで花びらの腕はたやすく落ちて床にぶつかり、そのうえでくたりとなった。暑いね、と目をひらいて花びらは言った。その腕がやがてまがりはじめ、その指先が水のはいったペットボトルをつかんた。花びらの上半身がゆっくりと持ちあげられ、ペットボトルのキャップがくるくると回転をはじめ、その飲みくちが花びらの唇にそっとおしつけられた。その水、だいじょうぶかな、まだ飲めるかな、と靴子は言った。へいきだと思うよ、と花びらは言った。でも、見てよ、光がよくあたる場所で見ればよくわかるけれど、なかに白い澱のようなものが浮いているよ。たいてい浮くよ、くちをつけて飲めば、飲むたびにわたしたちのくちのこまかな部分が剥がれてなかに落ちていくから、注意して見たことがないから気づかないだけで、たいてい、途中まで飲んだ飲みもののなかにはそういう部分たちがまざっているんだよ。何度か飲みくちをつけたりはなしたりしながら花びらは水を飲みつづけていた。そのたびにへっているはずのペットボトルのなかの水量は靴子の目にはぜんぜん変わらないように見えた。飲むふりをしているだけかもしれないと靴子は思ったけれど、花びらの喉の突起はたしかに揺れていたから飲んではいるんだろうと理解はしていた。暑いね、と花びらはもういちどおなじことを言った。うん、と靴子は言った。シャワーを貸してよ、ねえ、わたしたちは何時に学校にいけばいいんだろう。てきとうにいけばいいんだよ、時間について、なにかを約束したわけじゃないから。約束をしておけばよかったね、靴子ちゃんが誘ったんだから、その靴子ちゃんが譲くんたちを待たせたらわるいよ。でも、譲くんはそのことにとくに反対をしたわけじゃないんだよ、だからきっとだいじょうぶなんだよ、それに、わたしたちが待つ可能性だってあるよ、そして、かりに譲くんたちを待たせてしまったとしても、譲くんたちはふたりいるんだから、わたしたちを待っているあいだにそんなに退屈はしないと思う。うん、わたしもおおむね靴子ちゃんの言うとおりだと思うよ、けれど、待たせるということはそれでもあぶないことだから。そうなのかな。靴子ちゃんは国境で恋人を待ちつづけた男のひとの話を知っているかな。知らないと思う。その男のひとと女のひとはとなりあった家でおなじ日に生まれたんだ、と花びらは言った。ふたりはちいさなころからなかよしだった、男のひとは女のひとを半身のように思い、女のひとも男のひとを半身のように思っていた、ふたりはなにをするにもいっしょだった、おなじものを食べ、おなじ風景をながめ、おなじ毛布のなかでねむり、おなじ夢を見ていた、ふたりのなかのよさをからかういじわるな子供たちもいたけれど、ふたりはへいきだった、ふたりにとってふたりでいるということはあたりまえのことで、生まれついての生態のようですらあった、なかがいいこと、たがいに愛しあいやさしくしあうこと、それらのことがどうして悪意を向けられる要因になりえるのか、ふたりにはほんとうに理解できなかった、そしてそれを理解できないことへの不安すらなかった、ふたりにとっておたがいが世界のすべてだった、周囲の大人たちはそんなふたりのありかたを祝福していた、ふたりはやがて結婚し、しあわせな家庭をつくり、そして死ぬまでなかよく暮らすことができるだろうとすべての大人たちは思っていた、でも、やがて戦争がはじまった、となりの国がふたりの国に侵攻をはじめ、主要な都市は次々と占領されていった、家屋は焼かれ、男のひとは拷問にかけられ、女のひとは犯され、子供たちは身体をまっぷたつに切断されていった、都市機能は麻痺してねずみたちが街なかを這いまわるようになった、村のなかでは火を放たれた鶏たちが羽をばたばたと動かしながら焼け死んでいった、国境は週がわりでひかれなおされていった、そのかたちのままありつづけるだろうと思いこんでいたものがやわらかな草木のようにそのかたちを変えていった、やがて、女のひとの家族は国を捨てることに決めた、女のひとの両親はとなりの国からやってきた移民だったから、望めば、となりの国にいる祖父母を頼り、となりの国に移住し、となりの国の民族として、先勝国の民族として生きることができた、でも、もともとその国の民族だった男のひとの家族にはそんなことはできなかった、女のひとは言った、彼がいっしょでなければわたしはとなりの国にはいかない、彼女の両親は言った、彼の一家はちがう民族なんだ、われわれといっしょにいくことはできない、それでも彼女は譲らなかった、こまりはてた彼女の両親は祖父母に手紙を送った、彼を自分の息子だと偽ってその国にともに移住させることはできないだろうか、祖父母はそんなことができるわけがないと返事をかえした、うすぎたない民族の男をわたしたちの家にまねきいれることはできないとさえ祖父母は手紙に書いていた、彼女はその手紙を読んで激怒し、いっそうかたくなに移住を拒むようになった、ある夜、彼は彼女に声をかけた、ふたりは屋根のうえにのぼり、いまだ遠い戦火をながめた、ここちいい春の夜風がふたりの身体をやさしくなでて流れさっていった、見てごらんよ、と彼は言った、あの戦火はまだ遠いところにある、けれど、1週間まえはもっと遠いところにあった、2週間まえはもっともっと遠くにあった、だから、1週間後には僕たちにもっと近いところで戦火があがるだろう、2週間後には僕たちにもっともっと近いところで戦火があがるだろう、そしてあの戦火はやがて僕たちの身体を焼きにやってくるだろう、彼女はなにも言わないで彼の腕をとり、その身体に彼女の身体をおしつけた、彼女の瞳のなかに遠い戦火が照りかえっていた、こまかくふきあげられた火の粉が彼女の瞳のその中心でもおなじやりかたで舞っていた、彼女は素足だった、白く長くのびた足は屋根の表面につよくおしつけられ、足のうらについたいびつなかたまりとなった土は彼女が足を動かすたびにぱらぱらと音をたてて剥がれて屋根のうえをころがりおちていった、あかるい星空だった、煙突からふきでた煙がよく煮こまれた肉のかおりをただよわせ、かなしい犬が遠い山を背景としてつらなって吠えていた、彼女はこのとき生まれてはじめてやさしさというものを理解したような気持ちになっていた、彼女はつぎに彼がなにを言うのかすらも理解していた、それは彼女がけっして言われたくない言葉だった、けれど、それをおしとどめる気持ちにはまるでならなかった、それは彼女がけっして言われたくない言葉であるとともに彼に言わせてしまわなければいけない言葉であるように思えた、きみはとなりの国にいったほうがいい、と彼は言った、僕はきみとずっといっしょにいたい、僕が生まれたときからきみはとなりにいてくれた、だからいまの僕をかたちづくっている要素のおおくはきみがかたちづくってくれたものだ、きみがいなくなってしまうことできっと僕はいまの僕とはちがう僕になってしまうだろう、あるいは、すぐにそうならないとしても、やがて、きみとはなれて生きるうちにきみからかたちづくられるはずだった要素がべつのもので構成され、僕がなるはずだった僕とはまるでちがう僕になっていくだろう、けれど、それはしかたがないことだ、僕は僕がほんらいあるはずのものではない要素によってかたちづくられてしまうより、たとえほんの一部分であろうと、きみがあの戦火によって焼かれてしまうことのほうがよほど耐えられないんだ、彼女はしばらく黙りこんで遠くの戦火をながめていた、火はすこしだけよわまり、それにあわせて星の光も薄らいだように感じられた、それでも、たとえ戦火に焼かれたとしても、わたしはあなたといっしょにいたい、と彼女は言った、やがて死ぬのならわたしはあなたといっしょに死にたい、彼もまたおなじように戦火をながめていた、すこしの時間だけなにかを考え、やがて、唇を震わせながら、それなら、いまここでいっしょに死のうか、と言った、彼女はゆっくりとうなずいた。話しているあいだ、花びらはペットボトルから水を飲むことをやめていて、その青色のキャップを指先でつまんでひねるように動かしつづけていた。ペットボトルの表面にあたった陽の光が反射して花びらの頬に窓のかたちをした輝く部分をつくりこみ、それが水面のようにうごめくのを靴子は見つめつづけていた。汗のようなしずくがペットボトルの飲みくちからたれおち、破れかけたラベルにしたたってその上部に陰影をつくりつづけていた。靴子が手をのばしてペットボトルの飲みくちを手のひらでつつんでその角度を変えると光もたやすく角度を変え、花びらの頬とその背後の壁の部分をいったりきたりした。ときどき、その光は花びらの目のなかに直接うつりこむことがあった。そのたびに花びらはぎゅっと目をつぶったけれど、靴子はペットボトルの飲みくちをつつみこむ自分の手のかたちばかりを見つめていたからそれに気づくことはできなかった。花びらが目をつむったあとも光はまぶたのうらがわにすこしだけのこっていてまぶしく、けれどそのまぶしさもほんの一瞬の時間をおいて暗闇のなかにあっさりと吸いこまれていってしまうばかりで、それを何度かくりかえしているうちに、目をつぶっているときに見ている光がたしかにまぶたのうらがわにのこされた光の現実としての残滓なのか、あるいは自分がつくりだしている光の幻想なのかがわからなくなった。花びらがそのことを考えている時間は花びらの体感としては一瞬で、靴子の体感としては花びらが感じた一瞬をいくつも積みかさねたそのかたまりの厚みだった。けれど、実際に流れた世界の時間はそのどちらとも微妙にちがっていた。花びらが体感している時間のなかで、光の現実と光の幻想は愛のようなものにつきうごかされて高速でいれかわっているように感じられたけれど、それはほんとうには花びらにとってどうでもいいことで、そのときまぶたのうらがわにあったものはそれをどうでもいいこととはしたくない花びらのはかない意志のかたまりだけだった。彼はポケットからちいさな小瓶をさしだした、と花びらは言った。小瓶はほのかな星明かりのなかで青色をしていた、薄くとがった針のようなふたがしてあって、なかには薄緑色の液体がすこしだけはいっていた、毒だよ、と彼は言った、父さんが倉庫にしまいこんでいたものを盗んだんだ、これを何百倍にも希釈してチーズのなかに注入して倉庫のかたすみにおいておくんだ、においも刺激もほとんどない、この毒に気づかないねずみはチーズをがりがりと食べて血を吐いて死んでしまう、原液のまま飲めばにんげんだって死ぬことができる、すこし苦しいかもしれない、でも苦しみは一瞬だ、強力な毒だから、これを飲めば僕たちはすぐに死ぬことができる、彼女はその小瓶を手にとり、そっと目の高さまで持ちあげた、透明な小瓶をとおして見ると彼女の顔はゆがみ、壊れていた、指先のこまかな震えによりそうように毒は小瓶のなかでその表面の形態を変え、それでもなお透きとおりつづけていた、僕が最初に飲むよ、彼はそう言って彼女の手にその手をかさねた、彼女の指と指のあいだに彼の指がさしこまれ、彼のつめが小瓶の表面をこつこつとたたいた、だめだよ、と彼女はつぶやくように言った、彼も彼女もその小瓶を、小瓶をつつみこむふたつの手を見つめていた、あなたはひとりで死ぬ気だ、あなたにさきに飲ませたらあなたはきっとわたしのぶんをのこすことなくこの毒を飲みきってしまうと思う、どうして僕がそんなことをしなければいけないんだろう、だって、あなたが死ねばわたしがこの国にのこる理由はなにもなくなってしまう、あなたはあなたを死なせることによってわたしをとなりの国に移住させようとしているんだよ、ほんとうはそれがいいんだ、と彼は言った、ふたりがいっしょに死ぬよりも、きみだけが生きてとなりの国であたらしく生きなおすほうがずっといい、でも、わたしはそうしたくはない、わたしはわたしだけが生きてしまうよりも、ふたりともがいっしょに死んでしまうほうがわたしたちにとってまともなことであるような気がするよ、彼女は混乱していた、彼女はこのとき彼女が望んでいたことがけっきょくのところ彼の死でしかないということに気づいてすらいなかった、けれど、ほんとうはそうではなくて、彼女はそのことに気づいていたのかもしれなかった、気づいていて、そう気づいてしまったということじたいが彼女を深く傷つけてしまうことだったから、彼女はただそれに気づかないふりをしていただけのことなのかもしれなかった、あるいは、ほんとうには彼女には生きるということがわかっていなかったのかもしれなかった、彼女にとって生きるということは彼が生きているということへの過敏な反応やそれによってもたらされる気持ちのありかただけだったのかもしれなかった、でも彼女はそれをまちがいだと思うことはできなかった、彼にしてもそれがまちがいだと指摘することをていねいなやりかたでもって避けてきていた、彼が彼女のまちがいかもしれない部分に、あるいは世界にはまちがいがあるかもしれないということに気づいたのは戦争がはじまったあとだった、そして、戦時下にあっては、まちがいも、まちがいではないことも、彼や彼女が生きたり死んだりすることになにか関係があるものだとはうまく思えなかった、わたしがさきに飲むよ、とやがて彼女は言った、あなたにさきに飲ませることはできない、あなたはやさしいから、わたしよりもずっとずっとやさしいから、あなたはぜったいにわたしのぶんの毒をのこすことなく毒を飲みほしてしまう、けれど、わたしがさきに毒を飲めば、あなたはそのやさしさでもってぜったいにわたしがのこしたはんぶんの毒をのこさず飲んでくれると思う、それはけれど、僕にたいする信頼の気持ちがきみに欠けているということのひとつの要素にはならないだろうか、僕はきみにはんぶんの毒をのこすと約束したのならきみにはんぶんの毒をのこすよ、ちがうよ、と彼女は言った、わたしはあなたを信頼していないわけじゃない、わたしはただあなたのやさしさを信頼しているだけだ、そのあなたのやさしさがあなたの気持ちと言葉を乖離させることがあったとしても、わたしはそれをうらぎりだとはとらえないよ、わたしはその乖離をもふくめたあなたの存在にひとしいほどのそのやさしさをただただ信頼しているだけだよ、きみはかんちがいをしている、もしも僕がきみの僕への思いかたに耐えられるほどにほんとうにやさしいにんげんだったとしたらきみに毒をさしだしたりはしない、きみを深く傷つけることになったとしても、むりやりにでもきみをとなりの国に移住させるだろう、それはもういいんだ、と彼女は言った、わたしはそんなにも長いあいだ生きつづけたいわけじゃない、彼は彼女の手をつつみこんでいた手をはなした、彼の手はその時間のなかで彼女の手をずっとあたためつづけていた愛おしい手だった、わかったよ、と彼は言った、きみがはんぶんをさきに飲めばいい、僕はきみがのこしたもうはんぶんをすぐに飲むよ、彼女は針のかたちをしたふたをひねりながらとり、そっと指をひらいた、指と指のあいだからこぼれおちた針のかたちをしたふたはかわいた音をたてて屋根のうえに落ちてころがり、すぐに見えなくなった、ふたりはけれどそのゆくえを追ってはいなかった、彼女はひどくほそい小瓶の穴をのぞきこんだ、そこには薄緑色の膜がひろがり、膜の表面では星々の光をうけて輝く小瓶の青色がちらついていた、小瓶のなかからは彼女のかたほうの瞳だけが見えていた、彼女の瞳は空にまちがって生みおとされてしまった病巣を思わせた、瞳の表面には薄い緑と青のこまかな光が秘密の通信のように点灯していた、やがて、彼女は小瓶のくちに唇をつけた、死ぬことはこわくはなかった、その小瓶を上方にゆっくりとかたむけはじめてからかたむけおわるまでの、そしてなかの毒が小瓶のうちがわをゆっくりと流れおちて彼女の唇にふれるまでの、そのはじまりから終わりまでの時間のなかで、彼女はこの毒をわたしひとりですべて飲みきってしまおうとこころに決めた、それは、ほんとうにそうだった、でもけっきょくのところ彼女が飲んだのはそのはんぶんだけだった、唇にふれた液体はひややかだった、彼女は小瓶を彼にわたして、屋根のうえでゆっくりと横になって目をとじた、目をとじてしまったから彼がのこされた毒を飲んでいるのかどうかはよくわからなかった、まぶたにさえぎられて星の光はもうとどいてはくれなかった、ほんとうに遠いところから犬の鳴き声が聞こえた、彼がなにかを言っているような気がした、彼は犬よりも彼女に近いところにいるはずなのに、その声は犬よりも遠い場所から放たれているように彼女には感じられた、やがて彼女は深くねむりこんだ、彼は彼女の唇に指先をあてて湿った吐息をたしかめた、唇の表面が薄く緑色に光っていた、彼はひとりで屋根をおり、茂みをあさってふたを見つけだしてしっかりと小瓶にさしこんだ、そして隣家まで歩いていき、そこで彼を待っていた彼女の父親と母親に声をかけた、彼と彼女の両親は協力して彼女を屋根からおろして毛布でその身体をつつみこんだ、はやくいってください、と彼は彼女の両親に言った、つよい睡眠薬です、24時間は目を覚まさないでしょう、彼女がねむっているあいだに国境を越えてください、彼女がおきたとしても彼女が飲んだ薬が睡眠薬だということは黙っていてください、僕は彼女にいっしょに死のうと言ったんです、彼女はそれを毒だと思いこんで飲んだんです、彼女は彼女が飲んだあとに僕もその毒を飲んですぐに死ぬだろうと信じて毒を飲んだんです、でも僕はそれを飲まなかった、彼女にははんぶんでは量がすくなすぎたんだろうとつたえてください、そして、僕はきみが毒を飲んだあとにこわくなってその毒を飲むことができなかったとつたえてください、僕はきみを愛することができなかった、ほんとうは僕はきみのことがだいきらいだった、きみを愛するふりをしていただけだ、きみを愛するふりによって僕は僕を気持ちよくしていただけだ、きみにはもう会いたくない、彼女にそうつたえてください、彼女の両親はうなずき、車にのってさっていった、彼はその車を見送ったあとも彼の家の庭のなかにしばらくたたずんでいた、彼の両親が家にはいりなさいと言ってもなにも聞こえないふりをしていた、彼はポケットのなかの小瓶をいじくりつづけ、星の光をながめつづけた、庭の茂みの葉の表面に光が反射しているのがわかった、彼のこころのなかを水が流れていく音が聞こえた、泥にまみれたこまかな羽虫が彼の靴のうえを横断していった、それはひとつの足が欠けたかなしい羽虫だった、彼の足のなかには骨がはいっていた、そして、彼の頭蓋骨のなかには脳味噌がはいっていた、けれど、それはそれだけのことだった、明けがたに彼は家のなかにもどった、靄が家のなかにまではいりこんできていた、それが彼と彼らがすごした時間の神聖さをたもっていた、彼はテーブルのうえにおいてあった手紙を見つけた、手紙のわきには花瓶が、花瓶には赤い花がいけられていた、手紙の表面には花のかたちをした薄い染みがついていた、手紙は徴兵通知だった、彼はその手紙を最初から最後までていねいに読み、最後まで読みきるとまた最初から読みなおした、長い時間をかけてそのくりかえしをつづけた、やがて彼は手紙をテーブルのうえに放り、ポケットから小瓶をとりだして針のかたちをしたふたで自分のかたほうの目をついた。靴子がペットボトルをたおした。すぐに手をのばしてもういちどたちあげたけれど、飲みくちからはいくつかの水滴が飛びちってしまったあとだった。飲みくち近くにはもっともひろく水がこぼれてしまっていた。靴子が手をのばしてこぼれた水の表面にのせるとそ手がおしつけられた場所以外の水かさが一瞬だけ高くなってすぐに壊れ、そしてひろがった。その水は靴子のまるくととのえられたつめのあいだにもはいりこんできていた。その水はその場所を靴子の身体のなかでもっともつめたい場所に変えた。舌でくちのなかのいろいろなところを舐めまわすと、それがふれるすべての場所にそれぞれちがう違和感を覚えた。舐めまわしているうちに手は水のうえから自然とはなれていって、空中に浮かんだその手のひらからいくつかの時間と空間の間隔をおきながら水滴がぽつぽつとたれた。花びらが何枚かのティッシュをかさねてこぼれた水のうえにのせていった。ティッシュは壊れていく過程そのもののように灰色ににごり縮んでいった。吸いきれないぶんをおぎなうために靴子がそのうえに何枚ものティッシュをかさねた。うえにあったティッシュにはぽつぽつと穴のような染みがつくだけで、もう、そのすべてがよごれきってしまうことはなかった。それからいくらかの時間がすぎた、と花びらは話をつづけた。彼は徴兵されることなく毎日をすごした、屋根にのぼってかたほうの目で遠い場所で燃えあがっている炎をながめてばかりいた、炎はだんだんと彼のいる場所へ近づいてきていた、けれど、炎が自分のもとへ近づけば近づくほど彼女が住んでいる場所から危険がとりのぞかれていくんだと思うとあまり恐怖は感じなかった、僕はいつか戦争の炎に焼かれて死ぬだろうと彼は考えていた、でも僕が死んでしまうことになんの意味もないだろうと彼は考えていた、そして屋根の表面を、かつて針のかたちをした小瓶のふたがころがりおちていったその場所をながめた、死ぬこと、あるいは生きることに意味があるだろうと思っていたときが僕のなかにあっただろうかと彼は思った、でもそんなものはなかった、すくなくともそのときの彼が思いおこした彼の過去にはそんなものはなかった、そうだとしたら、さっき僕が考えた僕の死の意味の有無についての希求にも似たその感慨はいったいどこからたちあらわれたものなんだろうか、彼はとても静かに混乱していた、彼女をだまして睡眠薬を飲ませたときよりもよほど複雑な気持ちになっていた、そのときの彼が抱いていた気持ちは彼が持つことができなかった過去のどこからかやってきたように感じられて、そのいっぽうで、過去のどこかでたしかに抱くことができていたように思う気持ちはそのときの彼が故意につくりだしたもののように思えた、ある日、彼女から手紙がきた、手紙にはあなたがわたしにしたことをわたしはうらぎりだとは思っていませんと書かれていた、あの夜のあの屋根のうえで、わたしはあなたにあなたの存在にひとしいほどのあなたのやさしさを信頼していると言いました、わたしはあなたがしたことはわたしへのやさしさだったと思っています、けれど、そのこととはべつにわたしはあなたを許すことができません、目が覚めたとき、わたしは国境を越える汽車のなかにいました、わたしの目のまえには両親の顔がありました、とてもよく似たふたつの顔でした、わたしもまたみっつめの顔としてこのふたつの顔のまえにいるということを思うと、すべてがいやらしく、けがれたもののように思えました、両親の顔の向こうには電灯が見えました、電灯から発されている光は薄暗く、質のわるい油のように感じられました、両親は魚に語りかけるようなやりかたでわたしになにかを話しかけていました、そのふたつの顔には笑顔がはりついていました、両親はいるのに、そこにあなたはいませんでした、その時間のなかのわたしの気持ちをあなたは想像することができるでしょうか、あるいは、あなたならとてもていねいにわたしの気持ちを想像することができるかもしれません、けれど、わたしの気持ちを想像してくれるあなたはそこにはいませんでした、だから、わたしはあなたをどうしても許すことができません、それでも、わたしはあなたに怒りを感じたりにくしみを感じたりしているわけではありません、わたしはただあなたのやさしさを許すことができないというだけのことです、わたしはやさしさの許しかたを知りません、それは、とてもとてもかなしいことだと思います、いままで生きてきたなかで、わたしはだれかのやさしさを許そうと思ったことがいちどもありませんでした、いまわたしはあなたのやさしさを許したいという気持ちでひどく傷つき、混乱しています、わたしはもういちどあなたに会いたいと思っています、わたしの傷や混乱があなたとの関係のなかで生まれたということをわたしは信じたいと思っています、そして、そうである以上、わたしはわたしの傷や混乱をあなたと関係のない場所で回復させようとは思いません、つぎの日曜日、先日またあたらしくなった国境でわたしはあなたを待っています、わたしたちが子供のころによく木の実をひろいにいった森のなかでわたしはあなたを待っています、子供のころ、わたしたちはとてもたくさんの木の実がなるおおきな木を見つけました、あなたは覚えているでしょうか、その木のほとりにはちいさな川が流れていました、美しく透きとおり、川底の小石まではっきりと見ることができるちいさな川でした、いまはあのちいさな川がわたしの国とあなたの国をわかつ国境です、この手紙があなたにいつとどくことになるのかわたしにはわかりません、だから、わたしは毎週日曜日にそこであなたを待ちつづけます、彼は時間をかけてその手紙を何度も何度も読みかえした、読みはじめたそのときから彼の頭のうちがわに白く薄い膜がはりつき、その膜は読みおえるまでの時間のなかですこしずつ厚みをましていった、彼がもういちどその手紙を最初から読みはじめるには頭のなかの白い膜が晴れていくのを待たなければいけなかった、彼は混乱していた、長いあいだだれかから自分の行動をうながされたことがなかった彼の身体は硬直していた、彼の身体は冷えきり、彼の吐息には腐りかけた死のにおいがまじった、彼は彼女の言葉を理解することができなかった、彼が理解できたことはただ彼女がつぎの日曜日に森のなかで彼を待っているということだけだった、彼女が書いたほかのことを理解するためにはあらかじめ彼女のなかに存在している諸要素をすべて理解しつくしていなければならないように感じられた、彼のなかでおさないころは理解できていたはずの彼女のすべての言葉が不透明なものになっていた、そしてその事実が彼を深く傷つけ、混乱させていた、彼女をだましてとなりの国に送りだしてしまうまえならこれらの言葉をたやすく理解しうけとめることができていたような気がした、手紙は薄い紙に書かれていた、けれどそれは国境を通過してきたたしかな重さをはらんでいた、これは彼女からの復讐なんだと彼は思った、それは彼が理論や推論をかさねて呼びおこしたものではなく、ただその手紙を読んだときに発生した彼のなかの質量に彼がつけた名前だった、彼の失われた目のおくそこがちりちりと痛んだ、僕がこの目で見ている手紙はほんとうに存在しているんだろうかと彼は思った、彼はできることならいまひらかれている目ではなく失われたもうかたほうの目でこの手紙を読みなおしたいと思った、そのとき、彼はこの手紙がほんとうには存在していないことに気づくかもしれなかった、あるいは、ほんとうにこの手紙が存在していたとしても、そのときにはまったくべつの文面がそこに浮かびあがるだろうという気持ちがどうしようもなくした、僕はいったいなにをしているんだろうと彼は考えた、彼は両手で彼の身体をかきいだいた、失われた目を中心とした顔面の一部が自分の身体からごっそりとぬけおちてしまったように感じられていた、つぎの日曜日、彼は朝はやくから森にでかけた、彼女がやってくるまで何時間でも待つつもりだった、彼は彼女に会ったときに彼女にどんな言葉をかければいいのかを考えつづけていた、けれど、彼には確固とした言葉を見つけることはできなかった、彼はちいさな川をはさんで向かいあった彼と彼女の姿を思いえがくことができた、その想像のなかで彼と彼女はあたたかみに満ちた微笑を浮かべおだやかでいながらも親密なことがらを話しあっていた、けれど、その想像のなかでは音だけがすっぽりとぬけおちていた、彼には彼女が言っていることも彼が言っていることも聞きとることができなかった、彼に聞こえるのはちいさな川のせせらぎや小鳥たちの鳴き声、あるいは風が葉を震わせる微細な音だけだった、その想像のなかで彼と彼女はたがいを許しあい和解しあっているように見えていた、あたたかな陽だまりが彼と彼女を、そしてふたりのあいだを流れるちいさな川をつつみこんでいた、彼は頭のなかでその光景をつくりだすたびにものがなしい気持ちになった、光景のなかのふたりをつつみこむものは祝福であるはずなのに、彼だけが祝福のそとがわにはじかれていってしまったように感じられた、決定的なのは、そのときの光景のなかにたっていた彼はかたほうの目を失っていないままの彼だということだった、彼にとって彼の想像の光景のなかのふたりは過去を持たないまま出会いなおしたふたりのように見えていた、彼が彼女をうらぎった過去も、彼女が彼によって傷つけられた過去も、光景のなかのふたりにとって歴史としても物語としても存在していなかった、それにもかかわらずふたりは和解しあっていた、ふたりがなしえたのは人類にたいする和解なんだと彼は思った、けれど僕はそこにはいない、森は彼と彼女が子供のころに遊びにやってきたときの風景をそのままのこしていた、踏みしめる土の湿りぐあいも、濃い緑色の空気も、葉と葉のあいだからまだらに射しこんでくる光のあたたかさやかたちも子供のころとまるでおなじだった、森のなかを歩いていると、彼がさっきまで抱いていた残酷な光景は暗闇のおくそこの穴へと吸いこまれていき、彼は彼の魂が静かに回復されていくのを感じた、彼は彼が子供のころにもどったように感じてすらいた、彼の脳味噌のなかに彼の子供のころの夢のきらめきがよみがえり、彼は彼のとなりをかつて歩いていた彼女の残滓を感じとることができるような気がした、彼は彼がそのときにぎりしめていた彼女の手のあたたかみのことを思った、あれは僕を救済するためのあたたかみだったんだと彼は思い、そしてせつない気持ちになった、やがて、彼は待ちあわせのちいさな川のほとりにたどりついた、彼女の姿は見えなかった、やってくるのがはやすぎたのかもしれないと彼は思った、川のほとりに生えた樹も彼が子供のころとまったく変わっていないように思えた、彼がその幹に手をあてるとそこに生きづいた命脈を手のひらすべてで感じとることができた、彼はふとくもりあがった木の根のうえに座りこみ、川の向こう側から彼女がやってくるのをじっと待つことにした、おだやかな時間が彼をつつみこんだ、朝靄の残滓がかすかにあたりをただよい、光はその隙間をぬうようにやさしくたゆたっていた、銀色の背びれを持ったちいさな魚が川のなかを泳ぎ、ときどき思いついたように音をたてて跳ねた、真っ青な鳥がなめらかに川面におりたっては舞いあがり、遠くの空に消えていった、羽虫たちが彼の身体のかたすみでざわめき、ゆるやかな風に白い花が揺れていた、戦争すらも誇りたかいだれかの腕で遠い秘密の場所へとしまいこまれてしまったようだった、彼は家から持ってきた塩クッキーをかじり、ときどき川の水をすくって喉の渇きを癒した、小石をひろいあげては樹の枝に向かって投げ、落ちてきた果実を食べた、果実はまだ酸っぱかったけれど新鮮でみずみすしかった、そして光がいつでも彼の顔面を照らしていた、彼はそうやって彼女を待ちつづけた、けれど、陽の光の角度が変わり川面がよりいっそうつよく輝くころになっても彼女はあらわれなかった、彼のこころのなかに薄皮につつまれた不安がゆっくりと降りつもっていった、彼は彼女からの手紙を読みかえした、手紙に待ちあわせの時間は書いてはいなかった、ただ日曜日にあなたを待っていますと書かれているだけだった、だから彼女がまだこの時間にやってきていないのはなにも不自然なことではないんだと彼は思った、彼はただしかった、けれどそれで彼の不安が消えさるわけではなかった、彼がまず考えたのは今日はほんとうに日曜日だろうかということだった、けれどそれはまちがいないことだった、彼は彼女の手紙をうけとってからずっとこの日を待っていた、暦を見つめ、彼女と会うことになるまでの時間を指おりかぞえた、彼がまちがえているはずがなかった、それならこの場所はただしいだろうか、彼は彼のかたわらの樹をゆっくりとなでまわした、僕の記憶のなかでは僕たちの思い出の樹はたしかにこの樹だった、この樹は僕たちのあいだの共通事項だった、僕たちがあの樹と言えばそれはこの樹をさししめしていたはずだ、彼は彼の記憶を激しく掘りかえして彼と彼女の樹を探しもとめた、けれど彼のこころのなかに浮かびあがるのはたったひとつの樹でしかなく、その樹の様相はいま彼が見つめ手をふれているその樹とぴったりと一致していた、でも、一致していることはほんとうにただしいだろうか、記憶のなかのその樹といま僕が見ている樹がなにからなにまで一致しているなんてほんとうにありえるだろうか、もしかしたら、僕が思いおこしている記憶のなかの樹はいま僕が見つめているこの樹からかたちづくられ遠い記憶に向けて照射された影にすぎないんじゃないだろうか、僕と彼女が子供のころに親しくした樹はこれとはべつの樹なんじゃないだろうか、彼はたちあがり、彼のまわりをとりかこむ風景を見わたした、たしかめなくてはいけないと彼は思った、けれどたしかめる方法はなかった、その樹はすでに彼と彼女の思い出のなかにしかなく、その思い出をとりだすことももはや不可能だった、それでも彼はたしかめないわけにはいかなかった、彼と彼女が親しくした樹が川のほとりに生えているのはまちがいないことだった、それなら、たとえ彼と彼女が親しくしていた樹がその樹ではなくても川のほとりを歩きつづけていけばいずれはめぐりあえるはずだった、彼は川にそって上流へ向けてゆっくりと歩きはじめた、けれど歩きだしてすぐに見たこともない風景がひろがるのをはっきりと感じた、ここにはきたことがないと彼はやがて確信し、彼は彼がもともといた場所までひきかえして今度は下流に向かって歩きだした、けれど、そこでもまた見たことがない場所だという確信が生まれた、彼はしばらくとまどい、川の上流と下流をあてどもなくながめ、そしてちからなくもとの樹までもどった、けっきょくのところ、彼にとってはその場所こそが唯一存在しつづけることを許された場所だった、僕たちはまだ子供だったんだと彼は思った、子供が森のなかを自由に動きまわることができるはずがない、僕たちは迷いこんでしまわないように見知った道を歩きつづけていた、僕たちの両親もそう僕たちに教えこんでいた、けっしてあの森の知らない道に踏みこんではいけない、あの森には飢えた野人が住んでいて、見知った道以外の道に踏みこむとたちまち襲われて食べられてしまう、僕たちの両親は僕たちにそう教えこんでいた、僕が今日この場所までたどりつくことができたのはそれは僕がよく見知った道だったからだ、僕はこの森のこの道以外の道についてはなにひとつ知ってすらいない、だから、僕はけっしてまちがえてこの場所までたどりついたわけじゃない、僕は僕のこころと身体、そして僕たちの記憶によってこの場所に必然的にたどりついたんだ、彼は空を見あげて太陽の位置をたしかめた、まだまだ夕暮れまではじゅうぶんな時間があった、それならなにもあせる必要はない、彼はふたたびその樹の根のうえに三角のかたちになって座り、そして、彼女がやってくるだろう川の向こう側をただただながめつづけた、汗が彼の身体の表面に浮かびあがり、額から頬を流れた、その汗を拭うためにときどき彼の腕があらかじめ壊されていた機械のように動いた、やがて風はつめたさをまとい、彼の身体を冷やし、彼の身体の熱は汗に吸いとられて消えていった、彼は身体を震わせた、あたりは明示的な段階をおびながらゆっくりと薄暗くなっていった、川面はきらめきを失い、血色の夕暮れが彼と彼のまわりの空間をつつみこんだ、けれど、それは一瞬のことで、やがて夕暮れはかなしい音楽のようにやさしく溶けていった、黒く不鮮明な雨にも似た暗闇が彼の身体のまわりにたちこめ、川のせせらぎや虫の羽音が鮮明に聞こえはじめた、森の気配は彼の知っている気配から彼の知らない気配へと音もなくうつりかわっていった、獣が争いたがいの身体を食いあう音が遠くから聞こえた、喉もとから血がたれおちて湿った土のなかに染みこんでいく音も聞こえた、そのなかで川面だけが星々の光をうけて淡くせつない輝きをかすかに放ちつづけていた、かたい木の根のうえに座りつづけたせいでおしりが痛んだ、それでも彼は動かなかった、ただ彼女がやってくるのをずっと待ちつづけた、重い沈黙が彼のこころのなかに降りつもり、星々の光が彼の頭上を照らし、そしてとぎれた、こまかな雨の降る音が耳のまわりで旋回をはじめ川がざわめいた、凍てついた夜気は彼の身体をたよりない手つきで傷つけていった、やがて、夜が明けた、彼はゆっくりとたちあがり、やってきた道をひきかえしていった、歩いていても、まだあの場所に座りつづけているような気がした。花びらは水を吸ったティッシュをひろいあげてごみ箱のなかに投げいれ、ペットボトルに青いふたをつけなおして中空を見つめた。中空にはすくなくとも靴子がそこになにかがあるんだろうと思えるものはなにもなかったけれど、花びらが見つめているだけでその場所に自分に似たものができあがっていくような気だけはしていた。花びらはゆっくりと上半身をかたむけて床のうえにたおれこみ、頬を床におしつけ、ひんやりしている、と言った。シャワーを浴びにいくんじゃなかったのかな、と靴子は言った。そういうつもりだったんだけれど、なんだか、うまく動くことができないんだよ、ねむたいというわけではないけれど、でも、あえてねむたくなるようにしむけるような気配がわたしのなかにあるような気が、今朝はずっとする。花びらちゃん、ほんとうは学校にいきたくなかったのかな。どうだろう、よくわからないよ、いきたいような気もするけれど、いきたくない気持ちがそれよりもおおきいように思う、でも、それは学校にいきたいと思っている靴子ちゃんの気持ちをそこなってしまうほどおおきいものじゃないよ。わたしが勝手に決めたことだから、むりをしなくてもいいんだよ、わたし、ちゃんと譲くんと隆春くんにことわることもできるよ。靴子ちゃんがそれをできないって思っているわけじゃないよ、それに、靴子ちゃんにそうさせないようにってむりをしているわけでもないんだよ、夏だからね、わたしは、夏はいつもけだるいんだ、夏休みの光はほんとうにけだるいと思う、ねむっていられるだけの時間のすべてをねむりつくさなくちゃいけないような、そういう感触をうけてしまう。靴子もおなじように身体をゆっくりと横にかたむけて床に頬をつけた。目のまえに花びらの顔があった。近くて、そんなふうに床に頬をつければ彼女の顔が間近にきてしまうことをわかっていたはずなのに、実際にそうなってから靴子はおどろき、そしてその距離の近さを恥ずかしく思った。花びらは長いあいだまばたきをしなかった。そのうちに瞳がすこしずつ溶けていくようにゆがみ、やがて涙があふれて彼女のこめかみをつたい床まで流れた。そのときになって花びらははじめてまばたきをしたけれど、靴子はその行為についてなにかの気持ちをうまく抱くことができなかった。さっきの話はあれで終わりなのかな、と靴子は言った。終わりじゃないよ、どうしてそんなことを訊くんだろう。だって、花びらちゃんがまるで終わりみたいなそぶりをするから。していないよ、わたしはただ話すのをやめただけだ、言いかたがわるいかもしれないけれど、それはただ靴子ちゃんがそんなふうにうけとったというだけのことだよ、あるいは靴子ちゃんがそんなふうにうけとることを意志したというだけで、それは、ほんとうにそれだけのことなんだよ。つづきを話して。靴子の足が羽虫のように動いてその足の指先が花びらの足のこうにふれたけれど、すぐに靴子の足はその場所から遠いところにいってしまった。花びらは靴子の足の動きを見ていたわけではなかったからいま一瞬だけふれてきたその足がいまどこへいってしまってどんなかたちをしていたのかを想像することすらむずかしかった。この話はもうやめようか、と花びらは言った。どうして。意味がないような気がしてきたから。たいせつな意味があるようなことを言おうとして、花びらちゃんはその話をはじめたのかな。そうじゃないんだよ、わたしはただわたしたちがこの場所でぐずぐずしているあいだに譲くんと隆春くんがさきに学校にたどりてしまって、それから、ふたりでなにも話さないでただわたしたちのことを待ちつづけてしまっている光景を思いうかべちゃっただけだよ、わたしはただ譲くんと隆春くんとわたしたちとの関係、あるいはわたしが思いうかべてしまった光景とわたしたちとの関係のひとつとしてこの話をはじめたんだ、けれど、わたしが関係のひとつだと思ったそれは、この話が譲くんと隆春くんの待ちかたのなんらかの要素を意味づけたり、あるいは譲くんと隆春くんの待ちかたによってこの話の内実やわたしたちがいつまでも学校に向かわないそのありかたのなんらかの要素が意味づけられたり、そういった関係性でむすばれているわけではぜんぜんないんだよ。それなら、どうして意味がないような気がしてきたなんて言うんだろう。話しているうちに、この話が譲くんと隆春くんにこれからおとずれるかもしれないわたしたちの待ちかたを意味づけてしまうような気がしたんだ。それはわるいことなのかな。すくなくとも、それはわたしの意志じゃない。花びらちゃんのなかにある花びらちゃんの意志ではないその意志はわるいものなのかな。わるいよ、と花びらは言った。それは、わたしというひとりのにんげんのなかに巣食った、権力だから。そうなのかな。そうだよ。でも、わたしは、わたしのなかにあるわたしのものではない意志を、ときどきだけれど、とうといと思うよ。花びらはきゅうに身体をおこして靴子の足を見つめた。靴子の足はくの字におれまがり、ふたりのにんげんのようにたがいによりそいおりかさなっていた。もう、ほんとうに準備をしようよ、と花びらは言ってたちあがった。たちあがると靴子の身体のすべてをひとつの視野のなかにおさめることができたけれど、靴子が足をすっとのばすとその先端だけが切断されてしまったように視界のそとがわへととぎれていってしまった。靴子の足のすぐわきにはペットボトルがあった。靴子がもうすこし足を動かせばそれをたおしてしまいそうだったけれど、花びらはそのことについて靴子になにも言わなかった。ペットボトルのふたは花びらによってきつくしめられてしまったあとで、たおれたとしてももうなかの水がさっきみたいにこぼれてしまうことはなく、そうなってしまったあとのペットボトルからこぼれていく水の光景を想像することすらもむずかしくなっていた。靴子がねころがったまま両手をのばして花びらのかたほうの足首をきつくしめつけ、花びらはしめつけられていないほうの足のうらを靴子のおなかのうえにそっとのせた。ふたりともちからをこめなかった。ただふたりの身体のかたちがそうなっているというだけのふたりの身体のありかただった。ふたりはなにも言わなかった。花びらは靴子の鼻さきに濡れた髪の毛が落ちていることに気づいたけれど、それは靴子の眼球にあまりにも近すぎるせいで靴子の視界にははいっていなかった。花びらは靴子の眼球にすぐそばの髪の毛がうつりこんでいないことで靴子がその濡れた髪の毛に気づいていないことに気づいた。床に落ちてほこりにまみれた髪の毛は羽虫の身体から剥がれおちた長い足のように見えた。そのいっぽうで、髪の毛がうつりこんでいないほうの靴子の眼球は水分をたっぷりとふくんで孤独な月を思わせるほどには美しかった。けれど、その眼球も靴子ちゃんの顔面からこぼれおちてしまえばわたしはそれをすぐにきたないごみのようなものだと思うんだろう。花びらの心臓のうちがわに黒いよどみが水音をたててひろがり、すこしのあいだ息をうまく吐くことができなかった。自分のなかに潜んでいるだろう黒いものが唾液のようにたれおちて靴子の顔面に降りつもってしまうことがとてもいやらしいことのように感じられ、脳味噌のおくそこにあまい痛みがひろがるような気持ちがした。やがて靴子が足首から手をはなし、それをきっかけとして花びらも靴子のおなかのうえにのせていた足をべつの場所に移動させた。靴子は床に手をついてその身体をゆっくりと花びらとおなじ高さまで持ちあげた。そうなったあと、ふたりはその部屋のなかでならんでいた。溶けかけた夏のけだるさがふたりの身体をつつみこみ、ふたりに気づかれないようにその身体の表面に付着したふたりの記憶や体温、そして感覚までをふくめた諸要素をすこしずつ溶かしていた。それが溶けるときの熱はその瞬間の空間のごくせまいに放射され、靴子の部分が溶けかけたときそれは花びらの部分にふれ、花びらの部分が溶けかけたときそれは靴子の部分にふれ、その他愛のない熱のやりとりがふたりの心臓をことことと動かしつづけていた。
 靴子が靴子の部屋のドアノブに手をかけた。銀色をしたドアノブはつめたそうに思えたけれど、そうはっきりとつめたさを感じとることができるほどのつめたさではなかった。部屋をでるとすぐ右手が階段で、その場所は光がほとんどあたらないせいで暗く湿っていた。くもり硝子が四角のかたちに光をうちがわにためこんでいて聖的な絵画のように見えた。階下はしずまりかえり、湿った足のうらの皮膚が一瞬だけ階段とくっついてそしてまた剥がれるときのくちゃくちゃした音だけがその空間に響いた。おうちのひとはもういないのかな、と花びらは言った。いないと思うよ、と靴子は言った。それなら、わたしはすぐにシャワーを借りたい。うん、バスタオルをお風呂場のまえにおいておくから。花びらは階段をおりてすぐに浴室に向かい、靴子は居間の戸棚をあけてバスタオルを探しはじめた。いまつかっているものを買ったときに捨てないでおいたバスタオルがどこかにあるはずだったのに、なかった。つかっていないタオルや冬に着る洋服はでてくるのに、ぜったいそこにあるはずだったバスタオルはなかった。遠く水音が聞こえた。聞こえはじめたそのときは鮮明だったけれどそれはすぐに部屋の空気と溶けあって消え、その音を聞いているとおきてきてしまったことや譲に学校にいこうと言ってしまったことそのすべてがばかみたいなことに思えた。靴子はバスタオルを探すことをあきらめて居間のソファに座りこんだ。目のまえのテーブルにはお皿があって、そのうえにかたちのわるいパンくずたちが散らばっていた。お皿のはしにはマーガリンののこりがついていたけれどそれは溶けかけていて、盗賊が老人を殺してあつめた蜜のようになっていた。お皿のとなりにはマグカップがあって、そのおくそこにはわずかに飲みのこされたコーヒーがたまっていた。ミルクがはいっていなかったから色は黒く、真上からのぞくとその表面にゆがんだ靴子の顔がうつりこんだ。靴子はそれらを流しに持っていこうと思ってたちあがったけれど、それらを手に持たないまま歩きだしてしまっていた。台所は居間とくらべて薄暗く、足を踏みいれたとき、居間との落差ですこしだけめまいがしたような気がした。台所のかたすみに色を失いかけた冷蔵庫があって、あけるとほんとうにつめたいと思える冷気が流れだしてきて気持ちがよかった。冷蔵庫のなかは暗くて影のかたまりみたいに食べものたちのかたちばかりがくっきりと浮かんでいた。そのおくそこから放たれている薄橙色の光は薄暗い台所の床にやわらかい水のように染みだしていた。靴子はパックのオレンジジュースをとりだして冷蔵庫をしめ、そこにたったままひとくち飲んだ。ひといきに飲みこんだせいで喉のおくに痛みにも似た感覚がつんとさしたのが気持ちがよかった。オレンジジュースを持ったまま居間にもどり、テレビをつけてまたソファに座りこみ、窓をあけようか冷房をつけようかすこしのあいだまよってけっきょく冷房をいれた。それから、またたちあがって部屋のすみにあった扇風機をつけ、羽をうえにかたむけて首をまわした。テレビには昨日の夜に遠い場所でおこった地震の映像がうつしだされていた。ひとの目線ぐらいの高さから地面をとらえた映像だった。街は平坦ながれきだらけになっていた。道路だった場所も家屋だった場所も区別がつかなくなっていた。まるでその場所にかつて存在していたものやひとを空のうえからおおきな手のひらでおしつぶしててできた空間にべつの場所から持ってきたがれきをばらまいたみたいだった。地震の震度や死んだにんげんの数を告げる声が映像のそとから聴こえた。それをしゃべっているひとは男のひとだった。とても低い声をしていた。しいて感情をこめないようなしゃべりかたをしているように最初は思えたのに、ずっと聞いているとこめられなかった感情の隙間からかすかな感情をあえてほとぼらさせようとしているようなしゃべりかたにも思えて、でもそれは同時にひどくいやらしいしゃべりかたのようにも感じられた。靴子はテーブルのうえにおいたオレンジジュースに手をふれて持ちあげようとちからをこめたけれど、それはしないでかわりにテレビの音を消した。男のひとの声もあたりまえに消えていったけれど、それは空耳としてしばらくのあいだ聞こえつづけていた。そしてそうやって聞こえつづけてしまううその音や声がそのがれきたちのかたちを鮮明にしていた。がれきをうつしているカメラはゆっくりと移動をはじめていた。映像の下のほうにうつしだされていたがれきは画面の下端のただの線の向こう側に吸いこまれ、画面のうえのほうから上端の線からおしだされてきたがれきが流れこんできていた。あたらしくうつしだされたがれきはそれまでうつしだされたがれきとはちがうあたらしいがれきなのに、あるいはそうでなければいけないはずなのに、靴子にはそれがほかのがれきとどうちがうのかうまくわかることができなかった。音のない映像をずっと見つめていると、がれきをうつだしているカメラが動いているのかがれきじたいが流れるように移動しているのかが曖昧になってきた。頭ではカメラが動いているだけだとちゃんとわかっているのに、がれきじたいが動いているんだという気持ちをつよく抱きながら見ればがれきじたいが動いているようにたやすく見えてしまった。下端の線の向こう側に消えてしまったがれきが上端の線の向こう側からあたらしくやってきたように見えてしまうような見かたをすることもまたかんたんだった。映像はとても長いあいだがれきをうつしだしつづけていた。退屈だった。でもそれは靴子をねむたくさせるような退屈さではなく、退屈だと感じてしまう靴子にたいする個人的な罰であるかのような退屈さだった。その退屈さを克服するにはきっと音楽が必要だと靴子は思ったけれど、それはほんとうには退屈さを解消するためのやりかたではなく、ただその退屈さをべつの性質を持つ退屈さに表面の部分においてのみ塗りかえてしまうようなやりかただということも同時にわかっていた。そんなふうに退屈に思えてしまうことの要因はわたしのなかにあるんだろうか、あるいは、この映像そのものにあるんだろうか。撮りようによってにんげんのこころにたんじゅんで直接的な衝撃をあたえるようにも、あるいはつよい恐怖感をいだかせるようにも撮れるかもしれないのに、映像は臨場感に欠け、色あいにとぼしく、音や声のあるなしに関係なく静けさをまとい、どことなく古代の遺跡を見ているような感じがした。この映像を撮ったひとや編集をしたひとがあえてそういうふうに見えるように撮ったり編集をしたのかもしれないと思ったけれど、そうだしたらそのとき感じたむなしさにも似た無気力さはそのひとたちに向けられたかなしみに接近してしまうような気がした。でも、そうじゃなくて、もしかしたらこれは撮られた映像を編集したものではなくていまこの瞬間の映像なのかもしれないと靴子は思った。いまわたしがこの映像を見ているのとおなじ時間、べつの場所で、だれか孤独なひとがひとつのちいさなカメラを手に持ってゆっくりとがれきになった街を歩いているのかもしれない。そのひとの歩く街の空は建物がくずれおちたかわりにひろく、そして高く、薄い青色をしているんだろう。真っ青な鳥たちが雲のあいだを飛び、つよい太陽の光があたりを絶え間なく照射しているんだろう。彼はただひたすらにがれきを踏みしめ、ときどき水筒にはいった水を飲み、汗を拭い、そのがれきのうえを荒野の旅人のように歩きつづけているんだろう。死体はどこにあるんだろうと靴子は思った。そんなふうに歩きつづけていたら、いつかそのひとは死体を見つけてしまうんじゃないだろうか。全身でないとしても、がれきのしたからつきだしている手や足のさき、あるいはそれを思わせる濃い血のあとはこの映像にうつりこむことはないんだろうか。靴子はすこしだけ身をのりだして映像を見つめた。その映像にうつされているがれきはほんとうにすべてがれきなんだろうか、にんげんの肉片や血のあとがどこかにうつりこんでいるんじゃないだろうか。でも、どんなに見つめてもそれはただのがれきで、なにかの金属の破片で、やぶれたビニール袋でしかなかった。ちいさな靴ががれきの隙間から飛びだしていた金属の棒にひっかかってぶらさがっていた。もともとは白かったはずのその靴は泥でよごれ、靴ひもはほどけて先端がちぎれていた。血がついているかもしれないと思ったけれど、靴がうつりこんだのは一瞬だけで確認することはできなくて、その靴を履いていたはずの子供の死体もあたりまえになかった。それでも、その子供はどこかにいるはずだった。その靴のすぐしたのがれきを掘りかえせばその子供の死体があらわれるのかもしれない、もっとべつの場所のがれきのしたでいまもなお死につづけているのかもしれない、あるいは、ちゃんと生きていて、どこかの避難所で母親のとなりに座って湿ったビスケットを食べ、笑ったり泣いたりしているのかもしれない。どうしてこの映像はわたしにその靴のことはつたえるのに、その靴を履いていたはずの子供のことはなにもつたえないんだろう。でも、あるいは、この映像を撮っているひとはもうその子供の死体を見つけてしまったあとなのかもしれない。そのひとの視線がカメラよりもさきに死体を見つけて、わたしに気をつかって死体がけっしてうつらないように歩く方向を変えてしまったあとなのかもしれない。そのがれきのしたにわたしはあたりまえの感覚として死体はきっとないだろうと思っていたけれど、そうじゃなくて、そのがれきのしたは死体だらけなんじゃないだろうか。この映像を撮っているひとは死体のかわりとしてがれきを撮っているんじゃないだろうか。うつすことができない死体のかわりに、うつすことができるがれきをたんなるその代替として撮りつづけているんじゃないだろうか。靴子はすこしだけ目をほそめてそのがれきの映像の表面に暗闇を呼びよせ、それからそっと目を落とした。たいしたことじゃない、と靴子は思った。ひとがたくさん死ぬことは、がれきのしたに無数の死体があるというその事実のありかたは、けれど、わたしたちが思うほどわたしにとってたいしたことじゃない。目を落としたときの視線のさきにはかたづけられることをわすれらさられたお皿とマグカップがあった。それは食べかすや飲みのこしがこびりついたいやらしいものだったけれど、すくなくともがれきよりはそのかたちをととのえていた。これをかたづけなかったわたしに地震で死んでいったひとたちのことをやさしく思うことはできない、靴子はそう思ってかなしくなった。鼻のおくそこにつんとした痺れが走り、瞳が微細に揺れはじめているのがわかった。わたしは泣こうとしているんだ、と靴子は鮮明に理解していた。顔の温度がこわいくらいにあがりはじめ、喉のおくそこまで震えはじめた。靴子ちゃん、と遠くで花びらが呼びかけているのが聞こえた。それは霧がかかったような遠い声だった。でたよ、靴子ちゃん、バスタオルはどこにおいておいてくれたんだろう。靴子はその声にほとんどおびえていた。どうしてわたしが花びらちゃんの声におびえなくちゃいけないんだろうと思いながら、なんらかの返事をその場所からかえそうとしてくちをひらいたけれど、靴子には花びらに言うべきことがなにもないことがわかっていた。花びらちゃんが求めているのはただのバスタオルだ、わたしが花びらちゃんにいまこの時間この場所でしてあげられる唯一のことはいまからでもバスタオルを探して持っていってあげることだ、と靴子は思った。それでも、靴子はバスタオルを探しはじめることができなかった。そうでないなら靴子はバスタオルのかわりに花びらにさしだすことができる言葉を探したかった。わたしはいまこの瞬間にいったいなにを優先すべきなんだろうか、もしもいまこの瞬間にこれからわたしがおこなうだろう行為がわたしのなかに潜在しているやさしさを代表するものになるとしたら、わたしはこの瞬間においてふさわしいものを理性的にであれ感情的にであれきちんと選びとることができるだろうか。花びらの声はくぐもりながらも断続的に靴子のいる部屋に響きわたり、それが靴子の身体をやさしく締めつけていた。でたよ、靴子ちゃん、でたよ、と花びらは言いつづけていた。でちゃいけない、と靴子は思った。でたら、きっとだれかに殺されてしまうから。でも、靴子はそれを言うことがやさしさになるだろうとはどうしても思えないままでいた。手の震えがさっていってしまうのを、そして熱を持ったこめかみの温度が耐えられるぐらいにさがってくれるのをただひたすらに待ちつづけていたけれど、そういう瞬間はいつまでたってもやってきてはくれなかった。靴子はゆっくりとたちあがってすこしだけ息を吸い、待っていてね、と言おうとした。声はまだでなかった。靴子はそれでもくちを何度かひらきかけながらも震える手でテーブルのうえのお皿とマグカップをつかみ、流しにはこんで蛇口をひねった。ところどころが白く染められた透明な水がマグカップのなかにたまり、のこっていたコーヒーの色とまざりあってよごれた。水はすぐにマグカップいっぱいになってあふれ、排水口へと流れさり、それからもうもどってはこなかった。靴子は時間とともに自分のなかのたいせつなものがするすると流れさっていってしまうのを感じていた。そのことがとても痛かったけれど、どうして痛いのかもよくわからなかった。どうしてこんななんでもない瞬間にさえもなにかたいせつなものが失われていくのかがわからなかった。泣きたくなった。涙がでてしまえばそれでどうにかなるかもしれなかった。目と鼻のあいだの顔のなかの空間も月夜の蛾のように震えているのに、けれど、どうしても涙はでてはくれなかった。靴子は目のしたを指先でそっとなで、そこにかすかについたずいぶん薄い水滴を指先をこすりあわせて肌のなかに染みこませ、それから、蛇口をとめて浴室に向かった。浴室の扉はわずかな隙間だけひらいていた。そこから花びらの首のほんのすこしの部分と顔面が生えてつきだしていた。花びらの見せているいまの表情がどういう感情を表現しているのか靴子にはわからなかった。けれど、わたしはたったいちどでもいいから他人の表情を見てそのもっと奥ふかくにねむる感情をたぐりあてることができたことがあったんだろうか。浴室のくもり硝子にゆがんだ花びらの肌色が染みだし、その色彩がは花びらの裸の身体を表現していた。浴室の背後の窓から射しこむ光によって硝子はつよく光っていてまぶしかった。扉の隙間に浮かんだ花びらの唇は濡れていた。髪の毛はたがいにからみあいながらもいくつかのたばとなってぶらさがり、その先端からかなしい雨のように水滴をたらしていた。花びらの顔面のしたに虹が浮かびあがり、そのうちの光のいくつかが直接靴子の顔面にあたって輝いていたけれど、靴子は自分の顔面に微細な光が射していることに気づいていなかった。それでも靴子は花びらが笑っていることにだけは気づいていた。バスタオルがなかったんだ、と靴子は言った。そうなんだ、と花びらは言った。靴子はその場所でひざまずいた。泣くことができるような気がした。靴子ちゃん、だいじょうぶ、と花びらが訊いた。泣きたいという感情を相手につたえるにはどうしたらいいんだろうと思っているうちに涙がこぼれた。なにかがうまくいっていないんだ、そしてそれはきっと永遠にうまくいかないままなんだ、という感触が靴子のこころのなかでゆるやかに回転をはじめていた。くもり硝子の向こうの花びらの肌色がかすかに揺れて靴子の視界に花びらの足首があらわれた。水滴がいくつもいくつもついていて、水滴の向こうの肌が拡大されて見えていた。隆春くんは地震がおきたから花びらちゃんに告白をしたんだよ、と靴子は言った。うん、と言う花びらの言葉が靴子の身体にふれ、おなじ瞬間に靴子の流した涙の向こう側に花びらの髪の毛の先端から生まれた水滴が落ちた。ねえ、隆春くんはただ愛そうと思っただけなんだよ、と靴子は言った。ただ愛そうと思っただけで、隆春くんはきっとただ花びらちゃんを愛したいと思って、そう思って、そして、それをくちにしただけなんだよ、そのことのいったいどこに軽蔑される要素があるんだろう、どうしてわたしはそれを軽蔑してしまったんだろう、どうしてわたしはそれを欲望だなんて言ってしまったんだろう、もしも欲望だったとしても、それはほんとうにとうとい欲望だったのに、どうしてわたしはそれをうすぎたないものだと見なしてしまったんだろう。浴室の扉がひらいて花びらの手がさしだされ、靴子の頭部がそのうちがわに音もなくおさめられていった。なまぬるい腕の肉の感覚が耳をとじ、その部分から流れた水滴がゆっくりと耳のおくそこにまで流れこんで髪の毛がすこしだけひっぱられた。そしてその時間からすこしだけ遅れて頬に肉体がふれた。花びらちゃんの鎖骨だ、と靴子は思った。靴子の頭のうえにすこしずつ水滴が落ちていって、そして無数の髪の毛のうちがわの空間のなかでひとつに溶けていった。花びらの皮膚が靴子の世界で拡大し、その皮膚からつながるすこしだけふくらんだ花びらの乳首が見えた。乳首のすぐうえに浮かんでいる水滴に靴子の瞳がうつりこんでいた。水滴に浮かんだ靴子の瞳は花びらの胸につよくおしつけられてもうとぎれがちになってしまった靴子の瞳を、もうすこしだけでもいいから涙を流したいと思いつづけるせつなさをたっぷりと表現した顔面のかたちを、そのうちがわに鮮明にうつしだしていた。靴子が床についたままの手を動かすと花びらの膝にふれ、指先だけがせつなさにも似たなまぬるい体温を感じた。わたしはからっぽなんだよ、と靴子は言った。だれかの言葉をひとつ否定するたび、わたしのなかにあったわたしであったはずの成分が溶けて、流れていっちゃうんだよ。うん、と花びらは言った。でもその声は靴子には聞こえていなかった。わたしはそんなに長いあいだ生きてきたわけじゃないのに、わたしのなかのかつてはわたしだったはずの成分はもうすっかり溶けて、消えてしまっていて、だから、わたしのなかにのこっているものなんて、ほんとうにたったひとつもないんだよ。うん、と花びらは言った。花びらが見ているのは靴子の頭部の中心だった。髪の毛の生えぎわが銀色につやめいて光りかがやき、そのまんなかに花びらの髪の毛からもたらされたいくつもの水滴がたまっていた。わたしは生きているよ、と花びらは言った。靴子ちゃん、わたしも靴子ちゃんも、ちゃんといまここで生きているから、だいじょうぶなんだよ。それから、ふたりをかたちづくるやさしい時間がふたりのあいだをゆっくりと流れはじめた。その時間は靴子にとってとても長い時間だったけれど、同時にひとしく流れていたはずの花びらの時間はいつも靴子に流れた時間よりもすこしだけ長い時間でありえていた。その時間のなかで靴子は何度もくちをひらこうとしていた。わたしは生きてすらいないんだよ、と靴子は言いたいと思いつづけていた。花びらちゃんは生きているからわからないと思うけれど、わたしは生きてすらいないんだよ。靴子は靴子が言いたいと思った言葉とそれとは微妙な範囲で言いまわしを変えた言葉をこころのなかで回転させながら花びらの肉体のあたたかみを感じつづけていた。そしてその肉体のあたたかみを意識するたびに花びらのやさしさをうらぎっているように思えて言葉を失った。花びらはもうなにも言わないでただ靴子の頭を抱きしめ、靴子の頭のうえに降りかかる水滴とそのかたちと位置の変遷をながめていた。靴子は言いたいことを言うことのむなしさに傷つきつづけていた。でも、その傷は言いたいことを言ってしまうほどに耐えられないほどの傷ではなく、自分のなかのその傷と言葉の関係に耐えられてしまう自分をつよくにくんだ。それでも、それがなにもかもを滅ぼしてしまうわけではなかった。靴子はもう涙が流れないだろうと確信してしまうまで時間が流れさっていくのを待ち、ゆっくりと花びらの胸もとから頭をはなした。そうやってやっと見えた花びらの顔は笑っていた。でも靴子は花びらが靴子を抱きしめているあいだずっとそういう顔をつづけていたことに気づいてはいなくて、だから、そのときの花びらのとうとさを知ることはそれからもずっとできないままだった。わたし、バスタオルをとってくるよ、と靴子は言った。わたしのものだけれど、いいかな。いいよ、と花びらが言った。靴子はたちあがろうとしたけれど、足がまだすこしだけ震えていた。ずっとおなじ姿勢でいたから足の内部に熱がたまって痺れかけていることがわかっていて、その痺れがたちがったあとに泡のように身体のいろいろな部分へとひろがっていくだろうこともわかっていた。それでも靴子は花びらの肩に両手をおいてたちあがり、痺れた足をぎこちなく動かして部屋にもどっていった。花びらは靴子がふれた肩にふれた。肩の表面に自分のものではない濡れたあたたかみがのこっていることをこころとつながりえるものとして感じとりたいと思ったけれど、その感触は曖昧なままだった。それから花びらはゆっくりとたちあがり、浴室のなかにもどって扉をしめた。もう全身はほとんどかわいてしまっていた。濡れているのは髪の毛と、それからタイルを踏みしめたときにあらためて濡れた足のうらだけだった。浴室のなかは光に満たされ、扉と真向かいにあるくもり硝子が陽の光をうけてあたらしい正方形の輝きをかたちづくっていた。白いシャワーヘッドの中心から水がすこしだけ滴りおちつづけていた。花びらはしばらくのあいだその水が落ちていく瞬間瞬間のかたちを見つめつづけていたけれど、やがて蛇口をつよくひねって水をとめた。身体のあちこちを左手と右手で、べつべつの場所を、べつべつのやりかたでこすった。首のしたには鎖骨があった。鎖骨のしたにはすこしふくらみかけた胸と乳首があった。そしてあばら骨の感触が手ざわりとしてあった。性器と、そしてその横からのびる足のつけねにそって手を動かした。ごくごつした硬い膝頭があった。先端に向けてその肉体はゆるやかにほそくなっていった。異形だ、という気がした。そなえつけられた鏡のなかを見ると顔のはんぶんだけが輝いている花びらの顔がうつっていた。その顔はもう笑ってはいなかった。鏡の向こうの自分の背後に髪を洗っているときに髪の毛をひっぱる幽霊がいるような気がしてすこしだけこわくなり、鏡から目をそらしてくもり硝子の正方形の光のかたちを見つめた。そのかたちと光度は子供たちの魂の悲鳴に似ているような気がした。バスタオルをおいておくね、と扉の向こうで靴子が言った。扉にゆがんだにんげんの影がうつりこんでいて、影はそれじたいにふたしかに着色したようにいびつだったけれど、花びらがなにも言わないうちにその影はゆらいで消えた。扉をあけるとバスタオルはマットのうえにおりたたまれておいてあって、ところどころしわになっていた。光のような色をしていた。花びらはバスタオルのうえに両足をのせて足のうらの水分を拭い、それからバスタオルのうえにおりてそれを指先でつまみ、もうすっかりかわいてしまった身体をそれでもひととおりは拭いた。目をつむり、髪の毛をくしゃくしゃにしながら拭いた。バスタオルの先端に楕円のかたちをした薄いよごれがついていた。血だ、と思ったけれど、それ以上のことをうまく思えたわけではなかった。もともと着ていた寝間着をもういちど着て花びらは部屋にもどった。テレビは消えていて静かで、冷房が稼働している音や靴子が台所でていねいに食器を洗っている音が空間そのもののようにその部屋のなかに充満をしていた。ドライヤーを借りるよと花びらは言って洗面台にいくためにまたすぐに部屋からでていってしまった。靴子はそのあいだにひとつのお皿を洗いつづけていた。お皿のうらがわにこびりついている、黴だ、と靴子が思っている青黒いよごれをとってしまいたくてちからをこめてこすりつづけたけれど、それはどうしてもとれなかった。絶え間なく流れつづける水音がちいさな台所のなかでこまかく反射をしていた。靴子の目のまえでそれは流れているはずなのにうしろからもかすかに聞こえていた。水音はひとのかたちをとってそっと靴子のうしろ髪をひいたけれど、それは皮膚をひっぱるほどのつよさではなく、うまくそれに気づくことができなかった。花びらがもどってきたとき、靴子はそのよごれを落とすことをあきらめた。それでも、そのお皿を洗いおわったということにはしたくはなくて、流しにおいたままにしてスポンジと手についた泡を水ですすぎおとし、寝間着で水分を拭ってから居間にもどった。花びらはその部屋のまんなかで稼働をつづけている冷房を見つめていた。後頭部がかたむき、あごがこころもちあがっていた。そのおかげで靴子は花びらを見つめることができた。見つめながらつぎになにを言おうかと考えることもできた。なにかを食べてから学校にいったほうがいいかな、と靴子は言った。なにがあるんだろう、と花びらは言った。たいしたものはなにもないと思うけれど。ねえ、わたし、さきに着替えてくるね、靴子ちゃんはシャワーを浴びないのかな。わたしはいい、顔だけを洗うよ。花びらは階段をのぼっていき、靴子は洗面所にいくまえに冷蔵庫をあけた。かたすみに深めのお皿にラップをかけて保存してあった煮物があった。だいこんと、にんじんと、さといもと、れんこんの煮物だった。それはおいしそうに見えた。靴子は煮物をとりだして冷蔵庫をしめ、それから電子レンジにいれてあたためはじめた。暗い窓のなかに蜜色の光がともり、お皿がゆっくりと回転をはじめた。あたためおわるまでその場所で待っていようかとも思ったけれど、時間は長くまのびしてしまったようにゆっくりとしか流れてはくれなかった。電子レンジが放っている音はとても機械的でいやらしく、そのそばでたたずんでいると耳のうちがわのかすかな表皮がすこしずつけずれていくような気がした。靴子はその場所やその音にひとりきりではうまく耐えることができなくて洗面所まで歩いた。洗面台はかわききっていた。そのかたすみに髪の毛がいっぽんだけ流されないままにへばりついていた。手をのばしてとろうと思ったけれど、それはきっととても気持ちがわるいものなんだと思いなおして水で流した。夏の水はなまぬるく、水圧が低いとねばついているように感じられてしまうのがいやで蛇口をいっぱいにひねった。いきおいがある水はこまかな水泡で白くにごりきっていたけれど、そうなったぶんだけきちんとつめたく感じることができた。薄緑色の石鹸を両手でつつんでおだやかに泡をたてた。石鹸はさんかい、手からすべりおちていった。前髪が濡れても気にしないことにして、靴子はそのまま顔面をたおやかな手つきで洗いはじめた。頬を洗っているときの頬の肉が骨からわずかにはずれてくりくりとこねまわされているような感覚が好きで、気持ちがよくて、頬ばかりを洗った。水ですすいでタオルで顔を拭い、ドライヤーで濡れた部分の髪の毛をかわかし、それから寝癖がついているような気がする部分をあらためて濡らしてまたドライヤーでかわかした。髪の毛がじゅうぶんにかわくと靴子はトイレにはいって下着をおろして便座に座りこみ、顔をりょうほうの手でおおって目をつむった。顔をおおっている手がわたしの手ではなくてだれかの手であったらいいと思ったけれど、それはいつまでたっても靴子の手でありつづけていた。便器のおくそこからそれぞれの部品たちがたがいにからみあってたてるいびつな機械音が連続して聞こえつづけていた。薄く目をひらくといくつかの指たちが深い森のなかの風景のように見えた。自分の手のはずなのに、自分の手からつたわるたいせつな感触なはずなのに、靴子にはどの指がどの指のまえにあってそしてうしろにあるのか、その指たちのかさなりかたがまるでわからなかった。そして、それをわかることすらできない自分がにせもののにんげんのように思えた。手をおろして腿のうえにおき、腿の肉をかるくつまみながら放尿をした。股間のあいだからおしっこがふきだされて、それが水面にあたって跳ねかえり、そしてそのうちのいくつかが腿のうらがわにあたっているのが感じられた。放尿を終えたあとも靴子はまだ下着をおろしたまま便座のうえにとどまっていた。トイレのなかの熱とどこから射しているのかもわからないような光が人工的にその空間を構築しているように感じられ、なにかがすっかり変わってしまったような気持ちがあるのに、そのなにかをはっきりとさししめすことはできなかった。やがて、靴子の腕が動きだしてトイレットペーパーをまきとって股間を拭った。もうかたほうの手はそれとはべつに動きだし、便座カバーの桃色のけばのあらくなった部分をかるくひっぱっていた。そのそれぞれの腕の動きを感覚として統合させることが靴子にはできなかった。それにもかかわらず、それぞれの腕が靴子にとってふさわしい動きをしていることが不思議だった。やがて靴子は水を流してトイレからでて、洗面台の蛇口をひねって手をていねいに何度も洗った。居間にもどったとき、花びらは制服に着がえおわってすでにその部屋のなかに存在していた。制服の表面にはときどき薄いすじが走っていて、光そのものを吸収したかのようにその色は褪せていた。花びらは制服のなかにいた。ソファのなかに膝をたてて座り、ねむたそうな目でテレビにうつしだされたがれきを見つめていた。どうして音がでないんだろう、と花びらが言った。わたしがさっき音を消したから、と靴子は言った。これ、どれをおしたら音がでるようになるんだろう、と言って花びらはリモコンを手にとってじっと見つめた。靴子は花びらのかたわらまで近づいて手をのばし、これ、と言ってひとつのボタンを指先でしめした。花びらはなにも言わないでボタンをおした。映像に音がまとわりつくと映像そのものがおおくなったように一瞬思えたけれど、それは錯覚で、すぐつぎの瞬間には映像は音がなかったときとおなじ感触をとりもどしていた。遠くを飛んでいるヘリコプターのかすかな羽音とがれきを踏みしめて歩く痛々しい足音が傷つけられた心臟の鼓動のように濃く部屋のなかにひろがり、靴子はその音で花びらがすこしだけ傷ついたのかもしれないと思った。けれど花びらはなにも言わないでその映像を見つめつづけていた。靴子もその視線とからみあわせるようにおなじ映像を見つめつづけていたけれど、やがて花びらの横顔を一瞬だけ見つめてから台所にいって電子レンジから煮物をとりだした。サランラップのうらがわにびっしりと水滴がこびりついてなかが見えなかった。靴子はそのまま部屋までもどり、煮物のお皿を胸もとにひかえめに持ったまま、煮物を食べるかな、と訊いた。煮物、と花びらはくりかえした。いらないかな。食べるよ。靴子は煮物をテーブルにおき、台所にもどって自分の箸と花びらのための割り箸をとってきた。ふたりはすこしだけ空間の隙間をあけた場所にならんで座った。靴子がサランラップをとりのぞきはじめたところで、なにか飲みものはあるかな、と花びらが訊いた。麦茶ならあるよ。飲みたい。靴子はもういちどたちあがって台所にいき、冷蔵庫をあけて麦茶をとりだし、コップをふたつ指にひっかけるようにして持ってもどってきた。氷もいれたほうがいいかな。いれてくれたらうれしい。靴子は氷をとりに台所にいった。夏なのに煮物なんておかしいね、と花びらがおおきめの声で言った。へんかな、と靴子もぴったりおなじおおきさの声で言った。わからないけれど、へんなような気がすこしだけした。靴子は氷をりょうほうの手のひらにたっぷりとのせてどってきて、つめたい、と言いながら手のひらをかたむけてコップのなかに氷を落とした。ひとつだけ手の皮にくっついてどうしてもとれない氷があったけれど、手のひらをしたに向けてずっと待っていると、それもそのうちにコップのなかへと落ちていった。靴子はさっきよりもすこしだけ距離をつめて花びらのとなりに座った。煮物のお皿のサランラップはまだ靴子が剥きかけたときとおなじ形状をたもっていた。もうすでに剥かれてしまった部分がまだ剥かれていない部分にかさねあわされていたけれど、サランラップの透明度はまだそこなわれてはいなかった。剥かれた部分の中空をとおして煮物の形状がすっかり見えていた。剥かれていない部分からも靴子が電子レンジからとりだしてからテーブルのうえにおくまでの一連の過程のなかの振動でうらの水滴がすっかり落ちて煮物のかたちがそれなりにくっきり見えていた。サランラップを剥かれた部分の中空をとおしてわずかな湯気がたちのぼり、煮物のお皿におおいかぶさるようにサランラップを剥いていた靴子の鼻先をかすめてもっと高いところまでのぼって消えていった。靴子がだいこんに箸をいれた。だいこんはとてもやわらかく煮こまれていて、すこしだけちからをこめただけでその部分をささくれのようにもりあげて煮汁をあふれさせ、そしてたやすくさかれていった。靴子はちいさな破片となったそれをくちにふくんでゆっくりと噛みくだいた。ちょうどいいあたたかさだった。噛みくだくたびに気持ちがいいあまみが濃くくちのなかにひろがった。花びらも割り箸をわり、いただきます、と言ってれんこんをとってはんぶんだけかじった。おいしいね、と花びらが言った。ありがとう。靴子ちゃんがつくったんだ。うん。すごいね。すごくないよ、だって、煮るだけだよ。そうかもしれないけれど、しなくてもわたしたちの生活において致命的とはならないかもしれないことをするのは、やっぱりすごいことだよ。そうなのかな。花びらは麦茶をコップにそそぎ、はんぶんくらいをひといきに飲んだ。コップの、唇がついたあたりが白くなっていた。いろいろなことを考えすぎないほうがいいんだと思う、と花びらは言った。いろいろなことって、たとえばどんなことだろう、と靴子は言った。たとえば、靴子ちゃんが隆春くんに言ったことについて。隆春くんはきっとわたしを許さないと思うよ。でも、わたしは靴子ちゃんの言ったことがわかると思うよ、靴子ちゃんの気持ちのすべてをわかっているわけではもちろんないけれど、靴子ちゃんが隆春くんに言ったことの感触みたいなものは、わかるような気がする。うん。それに、わたしは靴子ちゃんがあんなふうに言ったから隆春くんの感情をうけいれなかったわけじゃないからね。そうかもしれないけれど、わたしは花びらちゃんのためにそう言ったわけじゃないんだ。わたしはそのことがわるいことだとは思わないけれど。でも、わたしはわたしのためにそれを言ったんだよ、隆春くんが花びらちゃんに言ったことにたいして、わたしはわたしのことだけを考えてわたしの言いたいことを言っちゃったんだよ、ほんとうは、わたしはそのとき隆春くんのことも花びらちゃんのこともちゃんと考えるべきだった。そうだとしたら、それは隆春くんにつたえたほうがいいよ。花びらちゃんは、ほんとうは、わたしのことを怒っているんじゃないかな。どうして。だって、わたしはほんとうに花びらちゃんのことをなんにも考えていなかったんだよ、たとえ、花びらちゃんが隆春くんの感情をうけいれなかったことの原因がわたしの言葉や気持ちになかったとしても、わたしが隆春くんにその告白をとりけしてって言ったとき、そのときにありえたはずのたくさんの可能性が壊れてしまったんだ、それがけっきょく花びらちゃんが選ばなかっただろう可能性だったとしても、わたしはそれを壊してしまったんだ、だから、わたしは花びらちゃんのなかのいくつかのものをそこなわせてしまったんだよ。わたしはそんなふうには思ってはいないよ、わたしは、ほんとうに靴子ちゃんにたいして怒りやにくしみを感じてなんかいない、靴子ちゃんが言った言葉やそのとき靴子ちゃんが抱いていた気持ちはたしかにそのときわたしと隆春くんのなかにあったかもしれないたくさんの可能性を壊してしまったかもしれない、でも、同時に、靴子ちゃんの言葉や気持ちによってあたらしい、靴子ちゃんがなにも言ってくれないかぎりけっして生まれることもなかった可能性だってそのときに生まれたかもしれないんだよ。それでも、わたしが花びらちゃんのなかのいくつかのものをそこなわせてしまったという事実はなにも変わらないよ、そこなわせたぶんを埋めあわせれば、それだけでそこなわせたことが許されるわけじゃないよ。靴子ちゃんは、だれに、なにを許されたいんだろう。わたしは、花びらちゃんに、花びらちゃんのこころのなかのものをそこなわせてしまったことを、許してもらいたいんだ。ねえ、それはむずかしいことだよ、だって、わたしは靴子ちゃんにたいして怒りもにくしみも抱いていないんだよ、だから、わたしは靴子ちゃんを許すも許さないもないんだ、靴子ちゃんがわたしにおわせてしまったと思っているその傷は、わたしのなかに、いままでも、そしてこれからも、けっしてありはしないんだよ、ねえ、たとえばわたしはうそをついて靴子ちゃんを許すよと言ってもいい、わたしはそれを言いたくないけれど言ってもいい、たとえば靴子ちゃんがわたしがうそをついていることを知らないままその言葉をしんからうけいられるというのなら、わたしは何度うそをついたっていいんだ。ちがうんだよ、きっと、そういうことじゃないんだよ、わたしがほしいのはきっと言葉じゃないんだ、それに、わたしはきっと罰を求めているわけでもないんだ。靴子はだいこんをぐじぐじといじりまわして分解して、ときどきちいさくなったかけらをくちにはこんだ。ほかのかけらは煮汁の表面をただよい、花びらが箸をのばしたことをきっかけにしてお皿の周縁にまでゆっくりと移動していった。花びらは靴子の箸をよけてれんこんばかりを食べていた。お皿のうえからくちもとまでれんこんが移動するそのいくつかの時間のなかで、煮汁が数滴たれおちてテーブルのうえに薄い楕円をつくった。それなら、わたしは隆春くんにわたしの許しをたくすことにするよ、と花びらは言った。隆春くんが靴子ちゃんも許すのであれば、わたしも靴子ちゃんを許したということにする。花びらちゃん、それはへんだよ。どうして。だって、隆春くんの許しは隆春くんの許しで、花びらちゃんの許しじゃないんだよ。でも、わたしの許しなんてほんとうにはないんだよ、わたしの許しなんて靴子ちゃんが見ている幽霊みたいなもので、ほんとうにはないんだ、だから、わたしの許しは隆春くんの許しに幽霊みたいにとりついてしまったんだって、そう思ってよ。そんなふうに思えるかな。思えるよ、わたしのなかに靴子ちゃんにたいする許しがあると靴子ちゃんに思えるのなら、わたしの言ったことも、おなじようにちゃんと思ってほしい。靴子は花びらがテーブルに落とした煮汁を拭いとりたくてティッシュを探した。でもどこにもなかった。ないはずはないからどこかにあるはずだけれど、このとき靴子が見わたすことができた視界のなかにはなく、かりにあったとしても靴子はそれを認識できなかった。花びらも煮汁に気づいていた。そして靴子がティッシュを探していることにも気づいていたけれど、それを言いだす瞬間のいちいちを失いつづけ、けっきょくはなにも言えないままだった。それに、そんなものはほんとうにはしんそこどうでもいいものだった。でも、隆春くんはきっとわたしを許さないよ、と靴子は言った。どうして。わたしは、わたしが隆春くんに告白をとりけしてって言ったときのわたしのありかたについてはいやだと思っていて、そして、わたしがそれを言ったこともまちがったことだと思っているけれど、それでも、わたしはきっと隆春くんのことを肯定できないと思うんだ、ねえ、わたしは、もしもいまの記憶や気持ちを抱えたまま昨日の夜のあの時間にもどれたとしても、きっと、隆春くんにおなじことを言うと思う。でも、そうしてしまったら、隆春くんも、靴子ちゃん自身も、傷ついてしまうよ。わたしはわたしや他人が傷ついてもいいからわたしたちがわたしたちでいられる時間が好きなんだよ、わかるかな、花びらちゃん、隆春くんの言ったことはわたしにとっての地震だったんだよ、でもきっとそれとおなじくらい、隆春くんにとって、花びらちゃんになにも言わないことじたいが昨日の夜の隆春くんにとっての地震だったんだよ。ねえ、わたしたちはわたしたちがいっしょにいようと思えばいっしょにいられるんだよ、もしもわたしが隆春くんの感情をうけいれて隆春くんと恋人どうしになったとしても、わたしは靴子ちゃんの友達のままでいるよ、譲くんの友達のままでいるよ、わたしたち、ふたりだけでどこかべつべつの場所、べつべつの時間のなかにいってしまうなんてこと、ないよ。わかっているよ、わかっているんだけれど、それでも、わたしたちの関係の内実なんてたやすく変わってしまうようなもろいものなんだよ、でも、そのもろさは繊細さでもあって、だから、わたしたちはちゃんとそれをいつくしむように生きて、行為しないといけないんだよ、花びらちゃんがいま言ったのはわたしたちの関係性につけられた名前だよ、花びらちゃんとわたしは友達だよ、それはわかっているんだ、でも、たとえば花びらちゃんと隆春くんがおたがいを意識的に愛しはじめてしまったとしたら、いままでわたしと花びらちゃんがそうであった関係はべつのものにこっそりといれかわってしまうんだよ、変わったのは関係性につけられた名前だけなのに、でもわたしたちは名前しか見ることができないから、名前をつけて安心しているしかないから、そうやってごまかして、戦争をして、でも、そのうちに傷ついて、ばらばらになってしまうんだよ。ねえ、靴子ちゃん、時間をとめることはできないんだよ、時間はだれかからわたしたちに降りそそいで、そしてわたしたちの内実の部分をこそぎおとしてわたしたちの知らない場所へと流れさっていくんだよ、それはもうそういうものなんだよ、けれど、それを悲劇的だと考える理由はなにもないんだ。わかっているよ、でも、わたしはだれかにわたしを変えられたくはないんだよ、このままでいいと思っているわけじゃない、それでも、わたしが変わるとしたら、だれかとだれかの関係性のなかで変わるんじゃなくて、わたしの単独性のなかで変わりたいんだ。それはむりだよ。花びらはそう言って割り箸をおいた。麦茶のコップのまわりに虫のたまごにも似た水滴がびっしりとついていた。それはふたりをかこむ時間と空間の振動にあわせてひとつぶずつゆっくりとテーブルまで流れおちていった。花びらがコップの表面に指先でふれるとその指先そのままのかたちに水滴が剥がれ、その内側がすっかり透けて見えた。氷はちいさくなっていた。麦茶の色ははかなく薄くなっていた。ティーバッグからこぼれおちたかもしれない濃い葉のかけらが氷と氷のあいだでばらばらになってしまったひとのようにたゆたっていた。靴子ちゃん、それはむりだよ。どうして。だって、それは気持ちのすべてを否定するということだよ、そういう価値観のなかではだれも靴子ちゃんを愛することはできないし、靴子ちゃんもだれも愛することはできないよ。花びらちゃんは気持ちと時間をいっしょにしているだけだ。そうかもしれない、でも、それはほんとうにちがうものなのかな。わからないけれど、ちがうと思う。ふうん。花びらは麦茶を飲んだ。なかにはいっていた葉もいっしょにくちのなかにはいりこんできたけれど、花びらはそれに気づかなかった。靴子もおなじように麦茶も飲み、それからすこしだけ目をほそめてぐじぐじになっただいこんのかけらを食べつづけた。ねえ、もうそろそろ学校にいこうよ、と花びらが言った。うん、わたし、着がえてくるよ、のこった煮物はぜんぶ食べてしまってもいいよ。ありがとう。靴子がたちあがったとき、花びらの顔に靴子の身体の影がかかり視界がすこしだけ暗くなった。靴子は階段をのぼりはじめ、花びらは割り箸をもういちど手にとってゆっくりと煮物を食べはじめた。煮物はもうなまぬるく、煮汁には油膜がところどころ浮きはじめていた。割り箸で煮汁の表面をなぞるようにおだやかにかきまぜていると煮汁のおくそこから糸こんにゃくのかけらがゆっくりと浮かびあがってくるのが見え、花びらはそれをとってくちにふくみ、それからのこっていたさといもとにんじんを食べきり、靴子がぐずぐずにしたままのだいこんのかけらを食べはじめた。甘みが消えさり、からみだけがおもてにでてきてしまっていた。やがて、靴子が制服に着がえて鞄を持っておりてきた。煮物、食べおわったかな、と靴子は言った。だいこんだけのこっているよ、と花びらは言った。お皿のはしにのせられた靴子の箸の先端は油膜におおわれてにぶく光っていた。靴子はその箸でだいこんのかけらをすくうようにしてつまんで食べきり、お皿とコップを流しまではこんで水につけた。さっきメールを送ったんだけれど、譲くんと隆春くんはまだ学校にいっていないって、と靴子は言った。なにをしていたんだろう。わからないけれど。花びらも鞄を持ってたちあがり、冷房とテレビをきった。鍵はどこだろう、と靴子が言った。花びらはたったまま靴子のうしろ姿を見つめていた。部屋の温度がすぐにあがりはじめるのが感じられ、花びらはさきに玄関にいって靴を履いた。玄関まえには姿見がしつらえられていた。そこに花びらの全身がすこしだけ肥大してうつりこんでいた。空間はぼんやりとしていて薄暗く、しけった紙のようなにおいがかすかにたちこめ、それが近くの浴室からわずかに流れてくるどことなくこもったようなにおいとまざりあっていた。そのうち、鏡にうつっていた花びらの姿が靴子の身体によってほとんどさえぎられた。靴子の顔には暗い光線があたっていた。花びらちゃんは、と靴子が花びらの顔をまっすぐに見つめて言った。花びらちゃんはわたしに怒らないことで、隆春くんにもうしわけないような気持ちにならないのかな。鏡は靴子によってほとんど花びらの視界から隠されてしまったけれど、鏡のいちばん右側の部分に靴子の背面がうつっていた。頭部は肩までのびた髪の毛によっておおわれた黒い球体でしかなく、そのしたにつながる制服の生地が薄暗い光を浴びて湿った苔のように輝いていた。
 花びらが玄関の扉をおしひらいた。真っ白な光が目のまえの歩道と向かいの家、そして電信柱を染めあげていた。それらの光景は粒子は鮮明なのに全体としてはぼやけているように見えてふたりの目をかすかに痛めつけた。歩道は活発なねずみをおしつぶしたような色をしていた。そのうえにときどき薄くとぎれがちなおおきな白い文字が書かれていた。向かいの家のずっと向こうに子供たちの魂の残滓が浮かんでいた。それに見とれた花びらの髪の毛に靴子のあたたかい吐息がすこしだけふれ、熱線にうたれてすぐに溶けた。傘はいるかな、と靴子が言った。いちおう、持っていったほうがいいと思う、と花びらは言った。ゆうだちになるかもしれないよ、わたしは折りたたみ傘を持っているからいいけれど、ちいさいから靴子ちゃんとふたりははいりきらないよ。そうなんだ。靴子は玄関の扉をもういちどあけ、あけはなしたままなかにはんぶんだけ身体をさしこんで傘をとった。そして、鍵をしめてふたりは歩きだした。ふたりはほとんどならんで歩いた。靴子がすこしだけ花びらのさきを歩いた。暑さはけだるさと似ていた。そのせいで身体がうまく動かないように思えた。光で顔と腕が照らされている感覚がとてもつよくありつづけ、ふたりはときどき腕をあげて光をさえぎった。顔のうえはんぶんが腕の影によって黒く染まり、そうやって歩きつづけたけれど、持ちあげたにの腕の部分に疲れがたまっていく感覚がとてもつらくてすぐにさげてしまった。背中とうなじが汗で湿っていくのがわかった。光は道路のうえの空気をゆがませていた。風はなかった。ふたりが空を見あげると電線にきりきざまれた青く美しい空がひろがり、こまかな薄い雲がところどころ電線のあいだを流れていた。家々はふたりが歩く道の両端にほとんど隙間なくしきつめられ、そのどれもがおなじかたちをしていた。どの家のなかにもおなじかたちをした靴子と花びらがいるように思えた。遠くからまだちゃんと生きている子供たちの高い声が聞こえたけれど、その子供たちの声も家と家のあいだに吸いこまれてすぐに消えていった。もうひとが住んでいない家の窓はほこりでよごれ、表札はとりさられ、赤錆みたいなものが浮いていた。屋根には子供たちの魂が落下してつぶれてできた赤茶けた膜がこびりついていた。真っ青な小鳥たちがその屋根のうえに降りたってはこきざみに首を動かしながらそのあとをくちばしでつついていた。わたし、隆春くんにもうしわけないとは思わないよ、と花びらは言った。そうなんだ、と靴子は言った。でも、隆春くんは、わたしが告白をとりけせって言ったせいで、花びらちゃんが隆春くんの感情をうけいれなかったと思っているかもしれないんだよ。ちゃんと説明をすればいいよ。花びらちゃん、学校にいって隆春くんに会ったら、昨日のことをもういちど話すのかな。わたしから隆春くんにそのことで話したいと思うことはもうないよ、隆春くんがなにかを言いたいのであればわたしがそれにたいして考えてなにかを言って、もうそれでいい。気になっていて、訊けなかったことがあるんだけれど。うん。花びらちゃんはどうして隆春くんの感情をうけいれなかったのかな。わたし、きっと、そうあれるほどに隆春くんのことを好きなわけではないんだよ。そう言ったとしたら、隆春くんはきっと傷ついてしまうね。だから、昨日の夜、言わなかったんだ。もしも隆春くんが訊いてきたら、なんて答えるんだろう。そのまま言うだけだよ。それを言いたくないと思うかな。言いたくないよ、ねえ、わたしはうそをつくこともできるよ、ほかに好きなひとがいるって言ってもいい、でも、それを言って隆春くんのこころについてしまうだろう傷をいっときでもやわらげることにわたしはあんまり積極的になれないんだよ。わたしだったら、きっと、それは言えない。それは靴子ちゃんがわたしたちの関係性を壊したくないとつよく思っているからだよ。そうかもしれない。靴子ちゃんは、だれかに抱いている気持ちが親愛の気持ちから恋愛としての愛情に変わるということがありえると思うかな。それは、ふつうにあるんじゃないかな。でも、どうやってその気持ちを規定すればいいんだろう、隆春くんはどうして隆春くんの気持ちを恋愛としての愛情だってわかることができたんだろう。それは、わからないといけないものなのかな。そうだとは言わないよ、でも、わたしは隆春くんはわたしのことがきっと好きなんだろうと思っていたよ、他愛のないことだけれど、どこかに遊びにいくとき、隆春くんはわたしがいるときには必ずきていたし、おりにふれてわたしの手や髪の毛にさわったりわたしの背中をたたいたりしていた、わたしはそういうことにたいして嫌悪の気持ちを抱いていたわけじゃないけれど、でも、隆春くんの言葉や行為にわたしへの愛情が透けて見えるようになると、わたしはそのときどきにとてもうちのめされたように感じられた、むかしはそういうことをしてこなかったのに、気がついたとき隆春くんはそういうことをしてくるようになっていて、考えたんだけれど、そこには明確なきっかけはなかったように思えた、もしかしたら隆春くんにはわたしへ向けていた親愛の気持ちが恋愛としての愛情に変わる特定の瞬間や瞬間の連続があったのかもしれないけれど、わたしにはそれはわからなかった、わかりたいって思ったんだけれど、わからなかったんだ、本人にも訊けなかった。どうして訊けなかったんだろう、訊けば、もっとらくになったかもしれないんだよ。ちがうんだよ、わたしは隆春くんにそういう気持ちを抱かれることがつらかったというわけじゃないんだよ、ただ、わたしはそこになんらかの不具合があるように思ってすこしだけ落ちつかない気持ちになっただけなんだ、ほんとうはそうであるべきものがとても自然なやりかたでそうではないかたちではっきりと存在してしまっているような、そういう気持ちになったんだよ、それは、けれど隆春くんがなんらかの欠陥を抱えているわけではないと思うんだ、かといってそれはわたしの欠陥でもきっとなくて、にんげんと、にんげんがしめる空間と、そこへ流れこんでやがては消えていく時間の流れの欠陥のように思えたんだ。でも、それは隆春くんのせいじゃないよ。わかっているよ、わかっているけれど、でも、わたしから見ればそれは隆春くんが存在している場所からわたしのところにやってきた欠陥なんだよ。花びらちゃんが隆春くんをつきあうほどに愛していないって言ったのはその欠陥が原因なのかな。そうじゃないよ、そうじゃないとわたしは思う、それとこれとは関係ないと思う、けれど、関係ないとはつよく言いきれないよ。隆春くんがもっとちがうにんげんだったら、もしも、隆春くんのにんげんとしてつきあうほどには愛せない部分を隆春くんがにんげんとして改善することができたとしたら、花びらちゃんは隆春くんとつきあうのかな。わたしは隆春くんにもっとこうなってほしいって思ったことはいちどもないよ、隆春くんは隆春くんというにんげんで、わたしのために存在しているわけじゃない、わたしが隆春くんをつきあうほどには愛することができないって思うのは、きっと、隆春くんの問題じゃなくてわたしの問題なんだよ。なにがだめなんだろう。きっと、わたしはだれかとつきあうほどの愛情のありかたというものをほんとうには信じていないんだよ、ねえ、わたしにはほんとうにわからないんだ、だって、告白するっていうことはわたしとつきあうという約束をしたいって思ったっていうことだよ、隆春くんはわたしを恋人だと約束して、わたしは隆春くんを恋人だと約束をするんだよ、けれど、わたしと隆春くんは約束をして友達になったわけじゃない、靴子ちゃんも譲くんもそうだよ、わたしたちは友達になろうよって約束をしあったわけじゃないんだよ、それなのにどうして恋人どうしになるときにはちゃんと約束をしないといけないんだろう、わたしが言いたいのは、その約束をするために必要なものはなんなんだろうっていうことだよ。それは愛だよ、と靴子は言った。花びらちゃん、みんなはそれを愛って呼んでいるんだよ。そうだと思うよ、わたしもそれは知っている、けれど、どうしてそれが愛なんだろう、どうしてみんなはその感情のことを戦争とか地震じゃなくて愛だって呼んでいるんだろう、靴子ちゃんも言ったよね、隆春くんが告白したときの言葉はわたしにとって地震だったって、それなのにどうしてわたしたちはそれが愛だとたやすく信じてしまえるんだろう、それは愛と名づけられた地震なのかもしれないし、それは愛と名づけられた戦争なのかもしれないんだよ。きっと、みんなそう信じたいんだよ。靴子はそう言ってたちどまり、傘の先端で道ばたに生えた草の根もとをつきさした。住宅街をぬけて、ふたりはちいさな川にそった頼りない道にでていた。その道のずっと向こうに学校が見えていて、学校からは道のうえに生えたふたりの姿が見えていた。熱はその道の表面を溶かしつづけ、薄色の気体がふたりにそれと気づかれないやりかたでふたりの身体のかたわらをとおりぬけて空へとのぼりつづけていた。ふたりの背後にひろがる住宅街の背景にはほんのわずかな量の子供たちの魂が流れていた。魂たちの身体は光にうたれて薄く透きとおり、ときどき拡散した光が虹をつくりだしていた。花びらはたちどまって靴子がつきさしている草を見つめた。草は靴子の傘にさされておれまがり、先端がちぎれて土にまみれていた。草の向こうにひらたくまるみをおびた石にかこまれたちいさな川があって、そのなかを銀色の背中をつけた魚がゆっくりと泳いでいた。陽の光をつよくうけて川は輝き、光そのものがあふれて流れていくようで、魚はその光の川のなかにおいては光の微細な加減の部分としてしかなかった。靴子はしゃがみこんで草をひっこぬこうとしたけれど、かわききった土はかたく、ちからをこめると草は根もとからちぎれた。靴子のスカートのしたはすぐ影になっていた。光が真上から降りそそいでいたせいでその影はどこにものびないでただ地面につめたい生命のようにはりついているだけだった。花びらが自分の額にかるくふれ、指先を目のまえに持ってきてそのかたちをものとして見つめた。ひとさし指となか指につぶになった汗がついていた。手の、そのほかの部分はかわいていた。その汗だけが指先で輝きをおびていて、けれどそれは成分のよくない油みたいに思えた。花びらは鼻を鳴らし、それからもっとおおくの指の部分で額にふれた。前髪のいくつかがぺたりと額にはりつき、頬はちりちりと焼かれつづけていて、くちのなかだけがなまぬるさをたもちちづけていた。草はいつもいやなにおいがするね、と靴子が言った。靴子は草を捨て花びらのすぐちかくまでやってきて、右手を花びらの目のまえにかざした。なか指とくすり指のわきに薄緑色の草の汁が浮きあがるようにはりついていて、薄茶色によごれた土のあともかすかにとのこっていた。花びらはその手に鼻を近づけて目をつむった。靴子の手はにんげんのにおいがした。わたし、と花びらが目をひらいて言った。わたし、隆春くんに告白をされたとき、隆春くんはただわたしを愛するために告白をしたんだなって思ってしまった、愛しているから告白をしてきたんじゃない、愛するために告白をしてきたんだって。うん。靴子はなにかを期待するかのように花びらから視線をそらして自分の手を顔に近づけ、その手のすみずみを見つめた。手のひらを走るおおきな線を、指の間接にきざまれた線を、そして薄緑をした草の汁の色を、見つめた。こんなに近いのに、夏の光がつよすぎてうまく見えていないような気がして手をゆっくりと瞳に近づけたけれど、鮮明さがつよくなるいっぽうでその手にはほんとうはもっとべつのかたちがあるように思えた。それはまちがった告白のやりかたなのかな、と靴子は訊きたいと思った。でも、ただしい告白のやりかたを知っていたわけではなくて、それはただ靴子が思う愛のかたちをいやしいやりかたで浮きぼりにするだけのように感じられて、けっきょく、なにも言えなかった。それに、花びらに訊いたとしても花びらはきっと知らないと言うように思えた。問題は告白のただしさなんかじゃないんだろうと思った。魚をとろうか、と花びらは言ってゆっくりと流れている光の群れのふちまで歩いた。靴子はその場所から動かないで花びらの髪の毛のわきから生えている耳を見つめていた。どうして。とって、学校で焼いて食べたらたのしいかもしれないよ。やめたほうがいいよ、このあたりの魚も放射能に汚染されているんだって。それはただのうわさだよ。そうかもしれないけれど。このあたりの魚が汚染されているんだったら、わたしたちだってとっくに汚染されているよ。でも、どうやってとるんだろう。裸足になって川のなかにはいって、手づかみでとればいい。寄生虫がいるよ。そうなのかな。お母さんが言っていたよ、むかし、この川でとった魚を食べて身体が虫だらけになって死んでしまったひとがいるんだって、ひどいって言っていたよ、虫たちは脳味噌にまではいってくるんだって、脳味噌のたいせつな部位を食べられて、記憶もなくなって、発狂して、そのひとはまわりのすべてが虫のかたまりに見えるようになってしまったんだって、にんげんも、機械も、食べものも、ぜんぶぜんぶ虫のかたまりに見えるんだって、そして最後にふとんのなかで手首を切って自殺したんだ。靴子ちゃん。なに。魚をとりたくないんだね。うん、じつはぜんぜんとりたくない、わたしは川がこわいんだよ、ちいさいころ、川で遊んでいたら、すべってころんで石に頭をぶつけてしまったことがあるんだ、痛い、と思って手をあてたら、頭に穴があいていて、そこにぬるっと指先がはいっていったんだ、血はほそい糸みたいに指先にからみついていて、川の水にひたすとそれがするするとほどけて流れていった、ほんとうはそんなにたいしたけがじゃなかったんだけれど、そのときの血のかたちとか、なまぐさいにおいとか、頭のうちがわに指先がはいってしまったときの感覚とか、それをいまでも覚えているから、わたしは川でとった魚を食べられないんだよ。いやならいやって言ってくれればいいのに。でも、放射能の話も、寄生虫の話も、ほんとうの話だよ、だからこの川の魚はみんなには食べてほしくないよ。それなら、いこうよ。花びらがそう言って歩きだすと、靴子もそのうしろをついて歩きはじめた。花びらはそれでもときどき道のかたわらの川のほうに目をやっていた。川面に反射していくつものかけらに分散された光の部分が花びらの顔の表面をきらめかせていて、靴子はそれを見つめていた。花びらの顔のうえで光はひらたくまるまり、その表面のなかにさらにこまかい白い光の膜を浮きたたせていた。譲くんと隆春くんはもういいかげん学校についているんじゃないかな、と花びらが言った。そうかな、と靴子が言った。電話をしてみてよ。花びらちゃんはしないのかな。わたしがするよりも靴子ちゃんがしてくれたほうがいいな、譲くんにだったら電話をかけることができるんじゃないかな。うん。ごめんね。あやまることなんてないよ。傘を持っているよ。靴子は花びらに傘をわたして、鞄から携帯電話をとりだして歩きながら譲に電話をかけた。耳ざわりのわるくないへいたんな機械音がそのうちがわで響きつづけ、それがずっと長くつづいてふいに息が苦しくなった。でないのかな、と花びらが言った。でない。でも、そう言ったとき譲の声が聞こえた。でたよ、と靴子は花びらに言った。なにが、と譲が言った。いまのは譲くんに言ったんじゃないよ、花びらちゃんに言ったんだよ。ふうん。ねえ、もう学校についたかな。まだついていないよ。おそいね。靴子と花びらはもうついたかな。ついていないよ。そっちだっておそいじゃないか。わたしたちはいろいろしたくがあったから。花びらが靴子のかたわらによりそって左の耳を携帯電話によせたけれど、靴子は歩くのをやめなかった。花びらも靴子に歩くのはやめてとは言わなかった。花びらの肩から腕にかけての身体の部分が靴子のそれにつよくおしつけられ、ふたりの歩く速度がすこしだけおそくなった。靴子は携帯電話をにぎりしめた手のこうに花びらの湿った頬がおしつけられるのを感じていた。花びらのくちから漏れでる吐息が指先をかすめて湿らせていき、髪の毛がときどき首にふれてすこしだけちくちくしてこそばゆかった。譲くんと隆春くんはいまどこにいるんだろう、と靴子は言った。海だよ、と譲は言った。どうしてそんなところにいるんだろう。流木を捨てにいっていたんだ。花びらは靴子の動きにあわせるように動いていた。けれど、花びらが思うようにその動きが靴子の動きとぴったりと一致することはなく、どうしてもその時間の瞬間瞬間に花びらの耳から携帯電話ははなれていった。携帯電話のうらがわに這わされている靴子の指に耳をあえておしつけるつもりはなかったけれど、はなれていった携帯電話をつよく追いもとめるとどうしても耳は靴子の指にふれ、肩と腕は靴子の肩と腕にふれた。靴子がそれをどう思っているのかは花びらにはわからなかった。それでも、靴子がいやがるそぶりは見せないでいてくれていることも、そして花びらが耳を携帯電話に近づけやすいようにゆっくりと歩いてくれていることも、ちゃんとわかっていた。携帯電話から漏れきこえてくる譲の声は断続的で、それぞれの意味は花びらの脳味噌のおくそこをうつまえにばらばらにほどけてしまっていたけれど、そのとき花びらは譲の声をひろってその内容を理解したいと思ってそうしていたわけではなくてただ譲の声をたんじゅんな音のかさなりとしてうけとりたいだけだった。譲の声を、あるいはもしかしたら聞こえてくるかもしれない隆春の声を、花びらはせつじつに聞きたいと思った。それが花びらにとってなんらかの価値をもたらすようなものではなくてもよかった。ただ花びらは靴子のとなりにいる自分の身体を、靴子のとなりにいてその身体の部分にたいして熱を持ってくっついていく粘着性のある自分の身体を、どこかべつのつめたい幽霊みたいな場所までひっぱっていってくれるようなものがほしいような気持ちになっていただけだった。どうして流木なんかを捨てにいっているんだろう、と靴子は言った。昨日、俺と隆春でひろいにいったんだよ、と譲は言った。でも、もういらなくなったから捨てるんだ。流木をひろうのが好きなのかな。ちがうよ、昨日、隆春がひろいにいきたいって言ったんだ、俺は流木なんか好きじゃないよ。そうなんだ。もうちょっと待っていてくれよ、流木は流したんだけれど、隆春がそれが海の向こうまでちゃんと流れていくのを待っているんだ。隆春くんは近くにいるのかな。いるよ、隆春は砂浜に座ってずっと遠くまでいってしまった流木をながめている、俺がいまいる場所からはあいつの背中しか見えない、もうずっとあいつは砂のうえに座りつづけている、光がつよくて、あいつの白い服のうえに光が反射していてまぶしい、ときどきつよい風がふいて、あいつの服も髪の毛もばたばたとはためている、でも、あいつはそれも気にしないんだ、ときどき、砂をにぎりしめて、指の隙間からそれがこぼれおちるのをじっと見ていることがあるんだ、砂はひとところに落ちて、あいつのかたわらにちいさな砂の山ができている、波はとてもおだやかだ、ときどきあいつの足もとまでやってくるけれど、あいつの足先を濡らすことなく静かにひいていく、あいつ以外、砂浜にはだれもいない、だれかがのりすてていった赤い自転車がはなれたところにころがっている、前輪が砂のなかにめりこんでいて、自転車は途中でおれまがっていて、後輪のタイヤははずれてしまっている。ねえ、隆春くんはもうそこから動かないんじゃないかな、ちゃんと学校にきてくれるかな。いくよ。隆春くんをちゃんとつれてきてね。わかっているよ。ねえ、隆春くんから目をはなしちゃだめだよ、隆春くんを死なせちゃだめだよ。靴子、これはそういう話じゃないよ。それならいいけれど。さきに学校にいっていてくれよ。うん、ばいばい。うん。靴子が電話をきったとき、靴子の指先が震えるように動いて花びらの眼球にふれた。花びらが目をつむると鮮明だった光景が暗闇にぬりかわり、その黒色のなかに油膜のようにうすぼんやりした白色のにごりがいくつかまたたいた。目のおくそこにほそい痛みがかすかに走っていたけれど、まぶたをぎゅっととじればその痛みはまぶたがかさねあわされる重みのある感触にまぎれてすぐにわからなくなった。ごめん、と言う靴子の声が聞こえ、まぶたのうらがわにあたたかい肉を感じた。靴子の指先がとじられたまぶたの表面をなぞり、それから、やさしく何度もこすりあげられた。靴子の指先はほんのすこしだけ濡れていてあたたかくて、けれど、花びらにはそれが自分の眼球にはいったときの涙なのか、それともただの汗なのか、あるいは靴子の唾液なのか、まるでわからなかった。だいじょうぶ、へいきだよ、と花びらは言って靴子の指先がはなれていってしまうのを待った。花びらがその言葉をくちにだしてからも靴子の指先は何度もまぶたのうらがわをさすっていたけれど、やがて糸をひく愛おしさをのこしてゆっくりとはなれていった。花びらが目をあけるとすこしだけ視界は痺れていた。光景は水面から見あげたようにりんかくをゆがませていた。靴子の顔面もその周縁の一部が靴子のうしろの風景とまじりあっていて、その肌のなかを草の緑色と空の青色が不完全なかたちでただよっていた。ほんとうにごめんね、と靴子は言った。靴子ちゃんはわるくないよ、わたしが顔を近づけすぎたのがいけないだけだよ。ごめんね。隆春くん、自殺をしようとしているのかな。ちがうよ、そうじゃなかったみたい、あれはわたしのかんちがいだったんだよ、花びらちゃんにはわたしと譲くんの会話が聞こえていたんじゃなかったのかな。ほんとうは、ほとんどなにも聞こえていなかったんだよ。譲くん、さきに学校にいっていてって言っていたよ。そうなんだ、それなら、いこうか。うん。花びらは靴子の傘を持ったまま歩きはじめたけれど、靴子はわたしが持つよと言って花びらの手からそれをぬきとって花びらのとなりにならんだ。花びらは歩きながらもまだときどき目をこすっていて、もう痛いわけではないのに、それでもなんとなく痛いような気だけがしていた。そうやってこすりつづけていることで靴子のこころを傷つけてしまうかもしれないとわかっていたけれど、唾液に似た欲望が指先とまぶたのあいだにぐずぐずとわいてきてどうしてもとめられなかった。靴子はまぶたをこすっているそのひとさし指となか指の肉のふくらみを見つめていた。その指たちがわたしの器官だったらいいのにと思った。けれど、それらが靴子の指になりかわってしまうことはあたりまえになくて、そして、そう思うことは気持ちわるいことなのかもしれないとも思った。彼が家に帰りついて数日後、彼女から手紙がとどいた、と花びらは言った。靴子は花びらの指たちの向こうで光っている花びらのもうひとつの瞳を見つめた。瞳は複雑な様相をしていて、中心の黒色をかこむ薄い茶色の部分のけばのようなものが靴子の視界のなかにうつりこみ、それらをおおう美しい表面に靴子の顔といくつかの風景がうつりこんでいた。その瞳がすっとほそくなって目じりにこまかい皺がきざまれた。靴子はその微笑みにたいしてすこしだけ微笑むことができた。先日の日曜日、あなたはわたしを見つけることができませんでした、と彼女は手紙に書いていた、わたしはあのとき、あのちいさな川の向かい側にいました、わたしはずっとあなたを見つめ、あなたの名前を呼んでいました、うそではありません、わたしはあなたがかたほうの目に包帯をまいていることも、あなたが塩クッキーをかじり、川の水を飲み、木の実を落として食べていたことも知っています、あなたがわたしを求めて川のほとりをいったりきたりしていたことも知っています、わたしは、ずっとあなたを見つめ、あなたの名前を呼んでいました、けれど、あなたはわたしの姿を見ることも、わたしの呼び声を聞くことも、わたしの存在に気づくこともできませんでした、あなたがわたしの存在に気づくことができなかった理由はわたしにもはっきりとわかることはできません、けれど、きっと、あなたはあなたのかたほうの目を失ってはいけなかったんだと思います、あなたにのこった目はあなたを見つめるための目です、そして、あなたが失った目はわたしを見つめるための目でした、それを失ったいま、あなたはわたしを見つめることができないんだと思います、わたしの姿も、わたしの声も、わたしの存在すらもいまのあなたにはとどきません、あなたとわかたれたわたしはわたしの存在を抜け殻のように感じています、わたしの魂はわたしの身体から剥離し、この国と、そしてあなたの国の空をふわふわとただよっています、わたしはあなたに会いたいと思っています、たとえ不完全なかたちであれ、わたしたちは再会し、そしていままでとはちがう、けれど、まったくあたらしいありかたを獲得して生きていけるはずだと信じています、わたしはあなたを待ちつづけています、彼はそれから毎週日曜日に約束の場所まででかけていった、約束の場所までたどりつくと彼は川の向こう側に目をこらし、そこにいるだろう彼女の存在を感じとろうとした、けれど、彼の目にうつるのは陽の光を浴びてきらきらと輝く川とその背後にひろがる鬱蒼とした森だけだった、彼は川の向こう側に向かって幾度となく語りかけた、僕はきみを愛している、きみに会うためにここにやってきたんだ、きみの身体から魂がぬけだしてしまったのならかわりに僕の魂のはんぶんをそこにそそごう、片翼の鳥たちのように僕たちはよりそって生きていけるはずだ、けれど彼女の返事はなかった、彼の声は森のなかのひとつの成分のように樹々たちのあいだにこだまし、ふたたび彼の耳のなかにもどってくるばかりだった、彼が聞く彼の声はどことなく生気を欠いているように聞こえた、ずっとまえに死んでしまった彼がいつか遺言としてのこしたただただ美しいだけの言葉がただしい時間の流れからこぼれおちて聞こえてくるかのようだった、そして、それからも彼女からの手紙は毎週のようにとどいた、あなたはわたしと再会することがよいことだとほんとうに思っているでしょうか、と彼女は書いていた、わたしたちはわたしたちの過去をすべて捨てさり、べつべつのにんげんとして、べつべつの場所で、べつべつの時間を生きていくべきでしょうか、あなたはいったいなにを望んでわたしとの再会の場所までやってきたんでしょうか、あなたはあなたが言った言葉にあなたのこころがくっきりとうつしだされていることを信じているでしょうか、彼は彼女からの手紙を小箱にしまい、たいせつに保管した、そしてねむるまえにその手紙を、その筆跡のひとつひとつをなぞるように読みかえした、日曜日に約束の場所までやってくると、彼は手紙の返事を川の向こう側に向かって投げかけた、信じているよ、と彼は言った、僕をこころのしんからきみを愛しきっている、国を捨て、家族を捨て、僕たちは僕たちだけで生きていけるよ、難民にまぎれ、べつの国へと旅にでよう、ちいさな小屋をつくり、羊を飼い、畑をつくり、静かに、ゆっくりと生きていこう、彼は彼が想像できるすべてのあたらしい生活のことをそこにいるだろう彼女に語りかけた、彼と彼女がかつて共有した光にあふれたあたたかな過去について語り、その過去のなかでかつてふたりがいかにおたがいをいつくしみあい、そして愛しあうことができていたかを語った、彼の言葉は輝かしい希望とやさしさに満ちあふれていた、彼女がそれをうけいれることができれば、彼はふたりでその希望とやさしさにすがり遠い国まで逃げていけるような気がした、けれど、彼が彼女に語りかければ語りかけるほど彼女の手紙は重い絶望にあふれていくようだった、かつてのわたしたちにいつくしみや愛はあったでしょうか、と彼女は手紙に書いた、いまになってみると、あのときわたしたちが感じていたいつくしみや愛はだれかによってあたえられたものだったように思います、そして、それはきっとただの幸運のようなものでした、わたしたちはわたしたちにあらかじめあたえられたいつくしみや愛をただただ消費するように日々を生きてきてしまったように思います、けれど、わたしたちがしなければいけなかったことはいつくしみや愛を消費することではなく、いつくしみや愛をつくりだすことでした、わたしたちはあらかじめあたえられたもののなかで生きるのではなく、わたしたちがつくりだしたもののなかで生きるべきでした、けれど、それはもうとりかえしがつかないことです、あなたとはなれてしまったわたしにとって、あなたも、あなたがいる世界も、すべてが茫漠とした砂漠のように感じられます、日曜日ごとに約束の場所まできてくれることを、そして、あなたにとってもう存在しないだろうわたしに言葉をかけてくれることを、わたしはとてもうれしく、ありがたく思っています、けれど、ときどきわたしはこわくなります、あなたがあの場所にいて、わたしに声をかけてくれているのをわたしはいつも見ているのに、わたしはときどきあなたがそこにいるのにあなたがそこにいないように感じることがあります、夜、たくさんの汗をかいて目を覚まします、空気はひんやりとしていて、窓からは星が見えます、美しい夜空です、けれど、部屋の空気にも、美しい夜空にも、戦争がまざりこんでいます、わたしたちの世界のあちこちに霧のようにひろがった戦争の粒子を吸いこんでわたしの身体はすこしずつそこなわれ、傷んでいきます、わたしは日曜日ごとに約束の場所にでかけ、あなたを見つめています、あなたが投げかけてくれた言葉にたいして、わたしはいくつもの言葉を投げかえしています、声を枯らし、わたしはあなたに向かって呼びかけています、けれど、そのいずれの言葉も、かたほうの目を失ってしまったいまのあなたにはもうとどきません、あなたはそのことについて、ほんとうにはどんな気持ちを抱いているでしょうか、彼女の手紙を読むたびに彼のこころはほそい金属の糸ですこしずつ締めつけられ、果汁のように繊細な血を流した、失われた目が彼に向かって呼び声をあげていた、徴兵され、兵士となり、そしてとなりの国に彼女を殺しにいったほうが僕と彼女にとってよほど自然なことだったんじゃないだろうかとすら彼には思えた、それはばかげたことだった、彼のほんとうの気持ちではたしかになかった、けれど、彼の頭のなかでは兵士となった彼が彼女に銃弾を撃ちこんでいた、彼女の頭はもげ、手足はちぎれ、なまぐさい血があふれ、彼女のうちがわの肉がばらばらにほどけてはじけていた、彼はけっきょくのところ彼女が言ったことを信じていなかった、彼が目をつぶしたのは彼女のためだった、すくなくとも彼が目をつぶしたときに考えたのは戦争で彼女を殺したくないということだけだった、彼女が目をつぶしたのはまちがいだと言ったことは彼女の思いちがいでしかなく、彼にとって彼女の姿を見ることができないのは彼と彼女の愛情のありかたに由来していた、彼は彼女の愛を疑っていた、彼女が彼の愛をうけいれれば彼は彼女の姿を見ることができるだろうと信じていた、彼には彼が彼女の姿を見ることができないのではなく、彼女が彼女の愛のありかたによって彼から姿を隠しているように思えていた、けれど、それでも彼は彼女のために目をつぶしたんだということを彼女には言えなかった、目をつぶさなければ兵士となってわたしを殺すんだろうかと彼女に思われるのがただこわかった、彼女に彼が戦争で彼女を殺すというありかたの気配すらも感じさせたくはなかった、彼は彼女が信じてはいないものだけを信じていた、わたしはここにいます、と彼女は手紙に書いた、けれど、あなたはいつまでたってもわたしの姿を見ることができません、あなたはもうかたほうの目であなた自身を見ています、あなたが見ているのはあなた自身だけです、彼は約束の場所でたたずんでいた、濃い森のかおりがあたりをつつみこみ、川はちいさなせせらぎを放ちながらおだやかに流れつづけ、ゆるやかな風があたりを湿らすようになでていった、その空間のなかで彼のくちは重くかたまっていた、彼がその日に川の向こう側に語りかけた言葉は、愛している、というひとことだけだった、そのひとことは彼がこの場所でもっともおおく投げかけた言葉だった、その言葉はすっかりすりきれてぼろぼろになり、彼のこころの表面からそぎおとされた薄皮にまみれていた、その言葉がほんらい持っていたはずの輝きは失われ、あとにのこっているのはただかつて意味であったはずのたよりない手つきだけだった、彼は樹の根もとに座り、ぬかるんだ目で川の向こう側を見つめていた、視界にはいっているのは淡い光景だけで、陽の光はするどさを失いあたりを薄霧の感触でたおやかにつつみこんでいた、川の向こう側にほんとうに彼女はいるんだろうかと彼はふと思った、僕はいったいだれに、なにを語りかけてきたんだろう、でも彼にはわからなかった、彼はそれについて考え、彼がかたほうの目を失ってからこの瞬間まで語りかけつづけてきた言葉のひとつひとつにたいせつな意味や比重のたかい価値をふくませたかった、けれど、そう思えば思うほど彼女を愛し、そしてふれあいたいという彼の思いは錆びつき、動かなくなっていった、そのとき、森のおくから4人の兵士たちがやってきた、なにをしているんだ、と兵士たちは彼に訊ねた、恋人を待っているんです、と彼は言った、恋人はとなりの国のにんげんだろうか、と兵士たちは言った、そうです、と彼は答えた、きみの姿は何度か見かけた、以前見かけたとき、きみは川の向こう側に向かってなにかを必死で語りかけていた、でも、俺たちが見たかぎり川の向こう側にはだれもいなかった、きみはいったいだれになにを語りかけていたんだろう、彼はすこし考え、練習をしていたんですよ、と言った、彼女に再会したときに言いたかったことを言いつづけていたんです、そうか、と兵士たちは言って彼のまわりをとりまいた、彼は兵士たちに目を向けることなく川の向こう側の淡い風景を見つめつづけていた、はじめは気狂いかと思っていたけれど、そうではないようだ、と兵士たちは言った、僕は気狂いではありません、と彼は言った、そうだとすると、問題があるな、と兵士たちは言った、この川の向こう側はもうとなりの国で、俺たちはその国と戦争をしている、しかし、さいきん、となりの国に俺たちの国の情報を売りつけているにんげんがいて、国境の警備をふやしているんだよ、ひどい話ですね、と彼は言った、まったくひどい話だよ、と兵士たちは言った、だから俺たちはそういう犬たちを処刑しないといけないんだよ、売国奴なんて生きていてもしかたがないからね、まったくです、と彼は言った、ところで、と兵士たちは言った、きみはずっとまえから定期的にここにきている、きみは恋人を待っていると言うが、俺たちが見たかぎり、恋人はいつまでたってもやってこない、きみの家にはとなりの国から定期的に手紙が配達されている、きみはだれもいない場所に向かってなにやら長々と語りかけている、非常にもうしわけないが、俺たちのように国境を警備しているにんげんたちからすると、きみはこの場所でとなりの国になにかをつたえようとしているようにしか見えないんだよ、僕は愛していると言っただけです、と彼は言った、僕がつたえようとしたのはそれだけです、それが暗号である可能性もある、と兵士たちは言った、彼はそのときはじめて兵士たちの顔を見つめた、無機質で凡庸な顔をしていた、4人の兵士が4人ともまったくおなじ顔をしているように見えた、肩にかけられた銃が4つ、薄く黒く、そして高く光っていた、暗号であったならばよかったのにと彼は思った、愛しているという言葉にそれ以外のもっともっとべつの意味をこめることができていればよかったのに、けれど、彼は樹の根もとの土のなかにそっと指をさしいれただけでなにも言わなかった、きみの恋人はいったいいつやってくるんだろうか、と兵士たちは言った、わかりません、と彼は言った、僕はほんとうに恋人を待っていただけです、俺たちはきみの言葉を信じたいよ、と兵士たちは言った、1週間後にこの場所にきみの恋人をつれてくるんだ、そうすればきみの釈明を聞こう、そして兵士たちはさっていった、彼はしばらくその場所に座りつづけていた、そして彼女がいるだろう場所を見つめつづけた、夕暮れになり、ようやく彼はたちあがった、川の色は血のようだった、彼はちからのない声で彼女のいるだろう場所に向けて、さようなら、と言った、彼が家に帰ると、手紙がとどいていた、それは彼女からの手紙ではなく、彼女の両親からの手紙だった、彼女は病気で死んだ、と手紙には書かれていた、それでも娘をこの国まで逃してくれる手伝いをしてくれることにはとても感謝している、私たちはよりおおくの時間を娘とともにすごせたことをうれしく思う、きみが森のなかで娘と会い、話をしてくれていたこともうれしく思う、娘は日曜日がくるのをとてもたのしみにしていた、すっかり身体がよわくなってほとんど寝たきりだった娘も日曜日だけは気丈にふるまいでかけていった、日曜日だけ、娘はとてもしあわせそうだった、彼はその手紙を暖炉のなかに投げいれて燃やした、そしていままでもらった彼女の手紙のすべてを小箱からとりだしてじゅんばんに燃やしていった、炎はあたらしい寄生先を見つけたかのように嬉々として手紙にのりうつった、手紙は灰となってこぼれおち、いくつかのかけらが部屋のなかを舞い、もっとすくない数のかけらが彼のくちのなかにはいりこんだ、えぐみのある熱さが彼の舌のうえにひろがり、彼はそっと涙を流した、つぎの日曜日、彼は約束の場所にでかけた、約束の場所には4人の兵士たちがいた、彼女はきません、と彼は兵士たちに言った、すべてあなたたちの考えたとおりです、僕はこの場所で愛をつたえるふりをしてこの国をとなりの国に売っていました、兵士たちは無言で彼に銃口を向け、彼の頭を撃ちぬいた。学校は小高い山のうえにたっていて、ふたりはそこへ到達するための坂道を歩きつづけていた。坂道のある部分はまわりをとりかこむ樹々の影でうすく緑色に染まり、そうでない部分はもともとの褪せた色をぬりつぶすかのようなあかるい光で輝いてまぶしかった。ときどき葉が落ちていたけれど、それはまだ深い緑色をたたえながらつよい陽射しにうちつらぬかれていた。樹々のおくから蝉たちの鳴き声がたがいにかさなりあるように響きわたり、近くにある養鶏場のにおいがかすかに風にのって流れてきていた。かつて自動車たちがとおりすぎた土のよごれがあって、溶けかけたゴムのにおいがそこからたちのぼっているようにすら感じられた。ねえ、訊いていいかな、と靴子は言った。うん、と花びらは言った。彼が彼女を見るためにはほんとうにはどうすればよかったんだろう。それはわたしにもわからないよ、ねえ、靴子ちゃんはさっきの話が悲劇的でかなしい話だと思うかな。思うよ、だって、ふたりともが救われていないから、花びらちゃんはそうは思わないのかな。わたしもそう思うよ、思うけれど、わたしたちは悲劇的でかなしい話を聞くと、もっとこうすればよかったのにとか、あんなことを言ってあげられればよかったのにとか、いつもそんなふうに思ってしまうような気がする、でも、ほんとうにはそんなものはないのかもしれない、こうすればよかったとか、ああ言えばよかったとか、そんなふうに後悔してしまうけれど、わたしたちは実際それをしたあととかそれを言ったあととかのことをうまく想像することすらできないように思う、だからきっと、こうすればよかったとか、ああ言えばよかったとか、わたしたちがどうにかしたいと思っていたそれは、それそのものは、きっとどこにもないんだよ。でも、やっぱりかわいそうだよ。かわいそうなのかな、だって、もうできごとはおこりおわってしまったあとなんだよ、あとになってもっとべつのやりかたや言葉があったはずだと思ったとしても、もうそれは終わってしまったあとなんだよ、ねえ、わたしたちは過去についてのあかるい可能性を考えてもしかたがないんだよ。でも、その男のひとがかたほうの目をつぶしてしまわなければ彼女の姿を見ることだってできたかもしれないんだよ、そうしたら、男のひとが言っていたとおり、ほんとうにふたりで遠い国に逃げることもできたかもしれない。そうだね、そう思うよ、でも、靴子ちゃん、いつだって可能性はいっぱいあるんだよ、かたほうの目をつぶしたことが原因だって言ったのは彼女だけだよ、それがほんとうなのかどうか、目をつぶした現実と目をつぶさなかった現実をともに実現されたものとして比較することができないわたしたちにはけっして知ることはできないんだよ、それに、かたほうの目をつぶしていなかったら、男のひとはほんとうに兵士になって、ほんとうにとなりの国に侵攻して彼女を殺していたのかもしれないんだよ、それだけじゃない、すべてがうそだったという可能性もあるんだ、あの森のあの川の向こう側に彼女はほんとうにいなかったのかもしれないんだ、彼女が書いていた手紙も彼女の両親が書いていたもので、彼女はもうずっとまえに死んでいたのかもしれない、そうたとしたら彼もだまされていたのかもしれないんだよ、彼は川の向こう側にいると思いこんでしまった彼女に向けて彼の国のあらゆる事情をたくさんしゃべってしまっていたのかもしれない、そして、それを川の向こう側の森のなかに隠れただれかが聞いていたのかもしれない、だから、彼は彼が知らないだけでほんとうにとなりの国に情報を売っていたのかもしれないんだよ、ただしかったのはあの兵士たちだったのかもしれないんだ、わたしたちはなんだって言えるんだよ、彼は情報を売ってはいなかったかもしれない、でも、彼の国は彼の故意の徴兵逃れをほんとうには許していなかったのかもしれない、兵士たちは売国奴のぬれぎぬをかぶせて殺したのかもしれない、彼女も彼の徴兵逃れへの罰として殺されてしまったのかもしれない、ほんとうにわたしたちはなんだって言えるんだよ、たとえば、彼女は幽霊として川の向こう側にほんとうにいたのかもしれない、彼女が望んでいたことが彼が死んでくれることだったとしたらどうだろう、彼もいっしょに幽霊になればふたりは天国で再会できると彼女が思っていたらどうだろう、兵士に彼がとなりの国に情報を売っていると錯覚させたのは彼女だったのかもしれないよ、それでも、彼は殺されたことでほんとうに彼女といっしょになることができたかもしれないんだよ、ねえ、彼の愛しているという言葉はほんとうにはとどいていたかもしれないんだよ、そして、とどいていたからこそ彼は殺されたかもしれないんだ、彼は愛していると言っただけだけれど、その愛しているという気持ちによってただしく殺されたのかもしれないんだ。ねえ、花びらちゃんはこの話でなかでほんとうにはなにがおこっていたのかをちゃんと知っているんじゃないのかな。わたしも知らないんだ、ねえ、靴子ちゃん、まえに読んだ小説に、聖堂で僧侶のひとから話を聞かされた男のひとのことが書かれていたんだ、その男のひともわたしたちみたいに話の解釈をめぐって僧侶のひとに、あれはこういうことだったんじゃないのかとか、あれはこういう意味だったんじゃないのかとか、いろいろと言うんだけれど、僧侶のひとは男のひとにこう言うんだ、本そのものは不変であって、いっぽう、ひとびとの意見はそれにたいする絶望の表現にすぎないって、ねえ、靴子ちゃん、わかるかな、わたしたちが言っていることはどれもこれも絶望の表現でしかないんだよ、わたしたちがなにを言ったとしても、この話のなかでおこったことはなにも変わらないんだよ、この話のなかで彼は死につづけていて、彼女だって死につづけているんだ、そしてこの話をしたわたしは彼と彼女とはべつに生きつづけていて、この話を聞いた靴子ちゃんもまた生きつづけているんだよ。それでも、そのふたりはわたしたちなんかよりずっとずっとかわいそうだよ。わたしたちはかわいそうじゃないのかな。どういう意味だろう。どうしてわたしたちはかわいそうじゃないんだろう。だって、わたしたちにはすくなくともその話みたいにひどいことはおきていないよ、それに、きっとこれからもおこることはないよ。そうかもしれないけれど、わたしはときどきわたしたちはなんてかわいそうなんだろうって思うことがあるよ、なにもおきないことが悲劇的なんだって言いたいわけじゃなくて、ただ、わたしたちがこんなふうにふつうに生きて、そして死んでいくことはなんてかわいそうなんだろうって、ときどき思って、わたしはとてもさみしい気持ちになってしまう。花びらちゃん、ねえ、わたしたちはきっとぜんぜんかわいそうじゃないよ、だから、だいじょうぶだよ。もうこの話はやめよう、と花びらは言った。わたしたちが語ることができるわたしたちの生きかたや愛しかたも、わたしたちの生きかたや愛しかたにたいする絶望の表現でしかないんだから。
 坂道をのぼりきったところで学校の校門が見えた。花びらがさきに校門に足をかけ、靴子は花びらのおしりをつよくおしあげて花びらが校門を越えていくのを助けた。校門のうえにまたがったときに花びらの身体は一瞬だけ静止した。とても高いところにひとりきりできてしまったみたいにこころのなかの景色が遠のき、心臟のなかにつめたい空気があふれ、そして、濡れた瞳が西の方角を見つめた。靴子の目のまえには花びらの足首と靴がいつまでもぶらさがっていて、その肌の白さはおさないころに感じたとてもつめたい冬のようだった。花びらちゃん、と靴子は声をかけた。花びらはそれにはこたえないで校門がきしむたんじゅんな音を響かせながら校門の向こう側にゆっくりとおりたっていった。ぶあつい校門の枠の隙間をとおしてふたりの目がぴったりとあった。花びらの顔にはさみしそうな笑顔がはりついていた。靴子は笑っているつもりだったけれど、花びらが見ているその顔はけっして笑ってなんていなかった。靴子が花びらの荷物を放りあげ、花びらは校門の向こうでそれをちゃんとうけとめた。それから靴子も校門に足をかけて、花びらは校門の向こう側から手をさしいれて靴子の足をつかんでうえにおしあげようとしたけれど、姿勢がわるいせいで花びらの手は靴子の身体をおしあげる手助けにはまるでなっていなくて、けっきょく、靴子はほとんどひとりだけで校門を越えていった。ふたりの目のまえにひろがった校庭は洗礼者たちの荒野に似ていて、校庭の向こう側にたっている校舎はどことなく聖堂に見えた。蝉の声がいっそうおおきく複雑にからまりあって聞こえはじめていて、そのなかをふたりは祝福をうけるようなやりかたで校舎まで歩いていった。靴子は昇降口の扉をひいてみたけれど、校舎内に響く深い音がわずかにしただけでひらかなかった。どこかに窓があいている場所があるかもしれないと花びらが言って、ふたりは校舎をまわるように歩きだした。校舎のうらがわは陽あたりがわるくてどことなく湿っていた。花壇になっている部分にはいくらかの草が茂り、濃い赤色の花がときどき葉を枯らしながらも咲いていた。土に花の名前をしめすプレートがさしてあったけれど、それはかたむいて泥にまみれていた。花壇ははんぶんほどがもうつかわれてはいなくて、花と草は中途半端な場所からとぎれてその向こうからは濃い色をした土がへいたんにしきつめてあるだけだった。花には油虫がはりついてせかせかと動きまわり、ちいさな蛞蝓が何匹か花壇のそとにまで這いだしてきていて、そこでつぶれてひらたくなった蛙のうえに群がってかたまっていた。ふたりは鍵がかかっていない窓を求めてそのひとつひとつにあてもなく手をふれていった。窓の外側の表面はきちんと掃除されてはいなくて、ふれると、ふれた部分にほのかな綿のようなかわいた土のよごれがついて、窓にはふたりがふれた手の部分そのままのあとがくっきりとついていた。日陰になっていたせいでその場所はすずしくかった。窓もその部分に水のようにひんやりとしていた感触をのこしていてふれると気持ちがよかった。ふたりがふれつづけたいくつめかの窓がひらいて、やった、と花びらがすこしだけはしゃいで言った。でも窓枠がきたないね、と靴子が言った。窓枠にはかわいた土ぼこりがたくさんついていて、そこに手をかければそのままのかたちでくっきりとよごれがついてしまうように思った。もういいよ、さっき校門を越えたときにわたしたちの服はよごれてしまっているから。花びらはそう言って腕をのばして鞄を窓の向こう側でぶらさげ、それから、腕をぎりぎりまでのばして手を話して鞄を廊下に落とした。窓枠に手をかけ、ゆっくりと身体を持ちあげてかたほうの足を窓枠にかけると、紺色のスカートのはしがゆっくりとせりあがっていって太腿のつけねのが見えた。つけねに近いほどに色は白くなっていて、そのところどころに線虫のような血管の色が透けていた。靴のままだ、どうしよう、と花びらが言って靴子のほうをふりかえろうとしたけれど、体勢がきついせいでじゅうぶんにふりかえりきることはできなくて、靴子が見ることができたのは花びらの顔面のはんぶんだけだった。窓のおくの薄暗い廊下の壁を背景として中空にくっきりとした鼻すじが浮かびあがっていて、その向こうにかすかにうつっているかたほうの目はまだすこしだけ充血のあとをのこしていた。そのままはいってすぐに脱げばだいじょうぶだよ、と靴子はちいさな声で言った。そうだね、と花びらは言って、もうかたほうの足もすばやく窓枠のうえにまで持ちあげ、そのうえで一瞬だけ座りこんだ姿勢になって、えい、と声をあげて向こう側に跳んだ。廊下に着地したときにでたのはかるく短い音だったけれど、それは左右にのびている廊下に反響しあいながら長くのびつづけ、かすかにその空間じたいが振動しているように感じられた。花びらがふりかえって荷物をちょうだいと靴子に言った。靴子は自分の鞄をわたし、それから傘もわたした。花びらは花びらの鞄とあわせてそれらの荷物を持ったまま壁際までさがり、孤児をむかえいれるときのようなあたたかな表情をつくった。靴子も花びらとおなじ姿勢で窓枠にのり、すこしだけ迷ってから花びらとおなじように跳びおりた。着地したときの音は窓のそとで聞いていたときよりもおおきくのびやかに聞こえた。直接に光が射していない廊下のその部分は暗く、空気がこもっていたせいで蒸しているような暑さだった。ずっと遠くはなれているように思える廊下の曲がり角に南向きの窓から光が射していた。その光はきれいなはばひろな三角をかたちづくり、そのうちがわにだけこまかなほこりが粒子のようにちらちらと舞っていた。花びらは制服のおなかのあたりに横一直線についた土よごれを拭おうと手でたたいた。たたくたびにその土はぱっと飛びちってはいるけれど、そのせいで土よごれは薄くその範囲をひろげていた。あきらめよう、それはもうとれないよ、と言いながら靴子もおなじように服をたたいた。もういいんだけれどね、と花びらは言って、それでも、しばらくたたきつづけた。制服の白のうえにふたりの指のかたちをしたよごれがくっきりとついてしまっていて、それでふたりは服をたたくのはやめて窓をしめて鍵をかけた。靴子はかたほうの足を靴からぬきとろうとして身をかがめ、かかとに指先をかけて、廊下、きたないね、とつぶやいた。廊下には長い髪の毛やまるく黒ずんでかたまった染みやはちいさな虫の足のかけらがその表面に浮きだしたようにべったりとはりついていて、間近で見るとにんげんの皮膚にとても似ていた。うわばきをとりにいこうか、と花びらは言って、昇降口まで靴のままで歩きだした。廊下の薄暗さはどことなく明けがたのそれに似ていた。はいりこんだときに感じた蒸したような暑さもなれてくるとどことなくひんやりとした空気にも感じられ、火照って汗ばみひりひりとした痛みすらも感じていた頬から熱と痛みが空気中へとすこしずつ拡散していった。昇降口もぼんやりとした薄暗さをたもったままだったけれど、昇降口の扉についた窓からささやかなあかるい光が射しこみ、中央の靴箱とそのまえに敷かれたすのこの木目を輝かせていた。ふたりは靴を脱いですのこのうえにあがり、花びらが最初に靴箱の扉をひらいた。手紙みたいなものがはいっている、と花びらは言ってかたほうの手でそれをつかんで靴子のまえに見せた。ちいさな封筒で、おもて側の中心はまるい白地で宛名として花びらの名前が書かれていた。へ、の文字のはしっこにふたつ短い線がささっていて、白地のまわりを淡い緑色の植物を連想させる色彩がかこんでいた。愛の告白かな、と靴子は言った。なんだか、すごくそんな感じがするね、と花びらは言った。光に照らされたすのこの熱で足のうらがあたたかさを感じはじめていた。花びらは靴を放って封筒をうらがえし、ろうだよ、これ、ろうで封をしてある、とさけんだ。貴族かもしれない、と靴子が言った。あけてみなよ。でも、もしも隆春くんからだったら、わたしたちはすごくいたたまれない気持ちになるね。隆春くんのはずがないよ、隆春くんは昨日の夜に告白をしたんだから手紙をおかないよ。ほんとうは、夏休みあけにわたしが靴箱をあけたときにこの手紙で告白をするつもりだったけれど、我慢ができなくて、昨日の夜、わたしに告白をしてしまったのかもしれないよ、あるいは、ふたりが海にいっているなんてうそで、じつは今日わたしたちがここにくるまえにもうきていて、さっきこの手紙をいれたのかもしれない、ものすごく感動的な手紙で、もういちど告白をするのかもしれない。ないよ、と言って靴子は笑った。ねえ、あけてみてよ、ねえ。うん、でも、このろう、すごくしっかりつけてあるよ。花びらはろうでとめられた箇所を何度かひっぱったけれど、ろうはどうしてもとれなかった。しかたなくきたなくやぶりとり、やぶけちゃった、とわざとのふりをして言った。だれからだろう。隆春くん。うそ、と靴子はさけんだ。うそだよ。なんだ、ほんとうにびっくりしちゃった。春日井くんだ。それで。僕はあなたを愛しています、と花びらが手紙を読みあげた。わあ、と靴子はおおきな声で言った。僕は、ときどき、ふつうの女の子も、僕たち男の子も、世界についての言葉を信じすぎているように思えます、世界とはただ僕たちがいる場所にすぎません、僕たちは世界について、日常が退屈だとか、学校にいきたくないとか、あの子のことがきらいだとか、そういうことをいつもくちにだしがちです、けれど、そのたびごとに僕たちとしての個人と世界との境界は曖昧になっていくように感じます、僕たちが日常を退屈だと言えば僕たちは日常を退屈だと感じているように感じられます、そのとき、僕たちはそのときどきで僕たちを革命しています、けれど、僕たちが革命しているのは僕たちであって、けっして世界ではありません、僕たちが日常を退屈だと感じているのであれば、僕たちは世界にそう思わされているにすぎません、世界にそう思わされている要因は僕たちが世界に向けて放った言葉たちです、世界に向けた放たれた言葉たちはやがてこだまとなって僕たちに返却されます、けれど、そのとき僕たちはそれをただの体感としてうけとるだけで、それがかつて僕たち自身が世界に向けて放った言葉たちだとはけっして気がつくことはできません、世界がそういう作用のみを持ったものだと仮定すれば、それはただの透明な壁です、僕たちは世界にかこまれ、永遠の個人として、やがて空気を吸いつくして死んでいきます、僕があなたを愛するのはあなたがほかのだれよりも気高いからです、僕たちが個人として生き、個人として死んでいくのなら、僕たちは世界にたいして矜持を持つべきだと思います、なぜなら、僕たちがまったく個人として存在するのであれば、世界もまた僕たち個人にすべてを依存したかたちでしかあることができないからです、あなたは僕が知るかぎり、世界にたいしていつも無関係だという顔をしています、あなたは世界をにくんでいるのではなく、ひとをにくんでいるように見えます、あなたはあなた自身の気高さに気づいていないのかもしれません、あなたの言葉は世界を貫通して他者のもとへと向かっていきます、それは、あなたがあなたの言葉をほんとうには信じていないからです、あなたはいつもあなたをうらぎりつづけています、僕はそれがあなたの気高さだと思っています、僕はあなたを愛しています、僕はあなたの気高さをとても美しく思います、僕があなたになにをしてあげられるのか、いまの僕にはまだわかることができません、けれど、僕は世界という名の透明な壁をとおしてあなたを見つめていました、あなたは、あなたの言葉に守られていないぶんだけ無防備なんだと思います、やがて、世界以外のなにかがきっとあなたのこころと身体を犯すでしょう、僕は世界にとじこめられた無力な男にすぎません、その僕にとって、あなたのいる場所は目がくらむほどに遠いように思います、けれど、それでも僕はあなたにふれたいと思います、あなたを守り、あなたをいつくしみたいと思います、僕はあなたの騎士になりたい、あなたのそばで、あなたを犯すあなた以外の存在のまえで剣と盾を持ちたい、僕はあなたの騎士になれるでしょうか、お返事をお待ちしています。なんだか、ほんとうに貴族みたいだったね、と靴子は言った。そうだね、と花びらはつぶやいて手紙を封筒にしまった。靴箱からうわばきをとりだしてすのこのうえに放ると、高く、それでいてどことなく砂漠を思わせる音が響き、かたほうのうわばきは横向きにころがった。うらがわに褪せた黄土色のよごれがついていて、それがつよい光に照らされてその存在をくっくりと浮きたたせていた。花びらはつまさきをのばし、足のおや指とひとさし指のあいだでうわばきの側面をつまんで持ちあげた。光につつまれた中空で花びらの足の指先は微細な震動をつづけていて、その震動のさきにうわばきがぶらさがっていた。やがて花びらは足をゆっくりとおろしてうわばきをちゃんとしたかたちですのこにのせ、その足をうわばきのなかにさしいれた。靴子の靴箱は花びらの靴箱のすぐしただったから花びらがそこにたっているかぎり靴子は自分の靴箱をひらくことができなかったけれど、花びらの動きはいつもよりもひどくゆっくりとしていて、その身体は夏そのもののようにけだるげだった。花びらが靴をひろいあげようとしたとき、靴子は花びらの身体と靴箱のあいだにそっと手をさしいれて靴箱の取っ手に手をかけた。そこは光があたっていない場所で、薄いねずみ色をした金属としてのその靴箱ははっきりとつめたかった。靴子がのばした腕のうらがわが花びらの背中にかすかにあたったりはなれたりしていて、花びらはその腕にあたらないようにすのこの先端まで動いたけれど、すのこの幅はせまく、ふれないように意識はしているのに靴子の腕のうらがわはあいかわらず花びらの背中にときどきはふれつづけていた。靴子の靴箱のなかにはだれからの手紙もはいっていなかった。でも、靴子はそのことにたいして予想や期待をしていたわけではなくて、だれからの手紙もはいっていなかったという事実は事実としての重みと意味をまったく失い、失ったまま靴箱のなかから校舎のなかの空気のなかへだれの目にもふれないままに拡散していった。靴子が靴箱からうわばきをとりだしてすのこのうえに落としたときをみはからって花びらは靴を靴箱のなかにしまい、すばやくその扉をしめた。そのまま花びらは靴子に場所を譲るように移動して靴子に背を向け、昇降口の窓をとおして存在する風景を見つめた。向かいの校舎には来客用の玄関があって、職員室の壁が見えていた。そのわきにはおおきなふたつの樹があって、風はないはずなのにその樹の高い部分の葉はかすかに揺れているように見えていた。靴子の足もとのすのこには花びらの身体のかたちをした影ができていた。光は花びらの身体の側面を通過して靴子の身体までとどいていた。靴子には花びらの背中しか見ることができなかったけれど、花びらはそのとき唇につよくちからをこめていた。薄桃色の唇はすこしずつ色を失ってつめたくなっていって、そのいっぽうで廊下にいるときに薄れていた額や頬のわずかな火照りがつよい光をうけてあたらしく生まれはじめていた。わすれかけていた汗が顔の表面に浮きたって背中をつたうのを感じて、その背中からいままでとはちがうべつの時間が流れだしていくようなそんな気がした。花びらの右手のおや指とひとさし指のあいだには手紙が斜めになってにぎられていて、手紙の角は真下に向けられていた。ねえ、春日井くんとつきあうのかな、と靴子は言った。つきあわないよ、と花びらは言った。教室にいこうよ。うん、でも、昇降口の鍵をあけておいてあげないと、譲くんと隆春くんがはいれないよ。そうか、ふたりのことをすっかりわすれていた。花びらは昇降口の扉に近づいて鍵をまわして扉をすこしだけひらいた。そとの空気がすこしだけ流れこんできて花びらの顔面にあたったけれど、花びらはその空気と校舎のなかの空気との区別をうまくつけることができなかった。靴子が上履きのなかに足をさしいれて靴を靴箱のなかにしまい、その扉をしめた。それからふたりは廊下を歩きはじめた。しめきられた校舎のなかでは蝉が鳴く声も透明な膜にはばまれているかのようにかすかにしか聞こえなくて、鳴いているということにつよく意識を向けないと聞きとることもむずかしかった。それ以外の音はそのほとんどが消えさり、あいかわらず靴子が持ちつづけている傘の先端が廊下をたたくこつこつとした音が単調な時間差をおいて聞こえるだけだった。ひとがまるでいない校舎のなかを歩いた経験はふたりともあったけれど、そういうとき、いつも夕暮れだった。記憶のなかの廊下は青色が染みこんだ薄暗さに満たされていて、そのときどきに夕陽がつくりだすほのかな蜜色がまざりあっていた。靴子は花びらではないほかの女の子と、花びらは靴子ではないほかの男の子といっしょに廊下を歩いていたはずなのに、そして、その廊下もいまふたりが歩いている廊下ではなくてどこかべつの廊下のはずだったのに、記憶はたやすく書きかえられ、靴子は花びらと、花びらは靴子と、いつかいっしょに夕暮れの廊下を歩きながら親密でいてたいせつな会話をゆっくりと交わしていたような気がした。いままでそうだと思っていた廊下は白色の光に満たされてそうではなかった部分をたやすく露呈していて、その物質のそれぞれの角度がみんなすこしずつまるみをおびているように見えた。まるで深い水底に沈みこんでしまった場所のように思えるのに、そのいっぽうで、廊下の壁のうらがわには黒色や赤色の砂漠の虫たちがびっしりと潜んでいるようにも思えた。廊下にはいつも知覚できるよりもたくさんのほこりが落ちていた。一定以上のおおきさにまでかたまったほこりにはかならずふたつ以上の髪の毛がからみあっていて、そのどの髪の毛もみんな長かった。壁にはられた掲示物のすみにささっているがびょうは浅い範囲でとどまって斜めにかたむいていた。掲示物のなかにひとつだけ紙のはしがやぶけてひどい病気の皮膚みたいにべろんとたれさがっているものがあって、それがどこか胸をうつ痛々しさを放っていた。ふたりはくちをきかないままに階段をのぼりはじめた。靴子は花びらちゃんはいったいなにを考えているんだろうと思っていて、花びらは靴子ちゃんはいったいなにを考えているんだろうと思っていた。それでいてふたりともが相手のことをとくべつに思いやっているというわけでもなくて、緊張をしているというわけでもなかった。階段の踊り場の高い場所にだけちいさな窓がそなえられていて、階段の途中にくらべて踊り場のほうがわずかな感覚としてあかるくなっていた。足のなかにすこしずつ熱がたまりはじめていて、時間とともにその熱は愛おしさに似ていった。階段の途中の壁は白色をしていたけれど、全体的に薄い黄色をまじえていて、そのときどきに青みをおびたまるいよごれをつけていた。ひびわれみたいに見える黒い線もいくつか走っていたけれど、それがほんとうにひびわれなのか、あるいはだれかがえんぴつで書きつけたよごれなのか、さわってみたとしてもうまくわかることはできなかった。隆春くんたちはいったいいつごろくるんだろう、と花びらは言った。すぐにくると思うよ、と靴子は言った。ねえ、花びらちゃんはどうして春日井くんとつきあおうとしないんだろう。だって、わたしがそうしたら隆春くんにわるいよ。もしも、隆春くんが花びらちゃんに告白をしないままに夏休みがあけて、そしてそのときはじめて花びらちゃんが春日井くんの手紙を見つけて読んだとしたら、どうだったんだろう。おなじだよ、けっきょく、わたしはつきあおうと思うほどに春日井くんのことが好きじゃないんだよ。そうなんだ。ねえ、靴子ちゃんは隆春くんにそうしたように、春日井くんにたいしては怒らないのかな。怒らないよ。どうして。だって、春日井くんは友達じゃないから。
 ふたりはふたりの教室の扉をひらいた。扉の向かいはいちめん窓になっていて、その向こうに青空だけが見えていた。窓から射しこむ光はふたりの足もとにまで到達していて、ちょうどつまさきのところにくっきりとした光と影を区分けする線ができていた。ところどころにいびつにならべられたたくさんの机の表面はまぶしいくらいに輝き、金属の足にあたって反射した光はそのなかでもとくべつにつよい光をふたりに向けて照射していた。床には机と椅子によってかたちづくられた影たちが複雑な模様をつくりだしていて、それは古代のにんげんたちがふたりにつたえつつある言葉の残滓のようにすら見えた。ふたりがその光のなかに踏みこむと身体に感じることができる夏の熱のありかたがいっぺんに変質するのがわかった。熱はむきだしの顔面や腕や指先にひとしくそそがれていて、同時にどことなくかわいた濃いにおいがあたりにただよっているのが意識されて、まるで空気そのものがそれとわからないやりかたで発酵しているようだった。ふたりはてきとうな机のうえに荷物をおいて手わけして窓をあけはなちはじめた。窓のそばからそとをながめれば空だけでなくそこにひろがっている街を見ることができた。ひとつの視界にきりとられた、ちぎりとられて投げすてられてしまったような街だった。すべての家々は白色の壁に濃くたんじゅんな赤色の屋根をつけていた。白色の壁の中心にはおおきな窓があって、そのまえには芝生がひろがっていた。芝生のうえにはひもにひっかけられた洗濯物があって、芝生のかたすみには犬小屋があった。犬小屋のまえには鎖でつながれたちいさな犬がいた。犬はその身体のほとんどすべてを失いかけながら世界のりんかくの曖昧さを抱えこんでしまったかのようなやりかたでうずくまっていて、ときどき顔を持ちあげては黄色の餌皿をまえの足でいじくっていた。ひとつひとつの家屋の区別をつけることはむずかしかったけれど、あえて区別をしようという気持ちにはまるでならなくて、個々の家のなかにだれかがいてそのひとりひとりが生活をしている、というより、その家々のなかにだれかがだれかとして複数で生活をしているという感じがして、ただそれだけでその光景たちは夏のなかのささやかな幸福をその気配としてつくりあげていた。家々のあいだをぬうようにねずみ色の道が走っていた。そのかたわらには電柱がたっていて、電柱どうしは奴隷のようにそれぞれの身体を電線でむすばれていた。街の向こうには海があった。街にさえぎられて砂浜の部分はほとんど見えなかったけれど、海は街の遠くの場所からはじまってもっともっと遠いところまでつづいていて、その果ては空へつづいていた。海は空とおなじ薄い青色をしていて、どの部分もいちようにおなじ色あいをたもっていた。海と空をへだてる境界の線をふたりがひくことはできなくて、あきらかに空だろうと想像する部分すらも溶けかけた水でできているように見えた。雲はひとつも見えなかった。窓硝子にはだれかがつけた手のひらのあとがいくつもいくつもついていて、ふたりにはその指紋までもはっきりと見ることができた。その指紋とおなじ高さに目線をあわせて空を見ると、空そのものにその薄白色の指紋がきざみこまれているように見えた。窓をあけると教室のなかにこもっていたにおいがふっとやわらいだ。光のつよさは変わらないはずなのに、それだけで身体がすこしだけ曖昧になったような気持ちになることができた。いつもそうだとはかぎらないけれど、この瞬間のふたりにはその気持ちをとてもうれしく感じられた。すべての窓をあけよう、と花びらが言った。ふたりは教室の廊下側の窓と扉をすべてあけはなち、それから廊下にでて廊下の窓もすべてあけはなった。身体をまとっていたものがひとつの段階で薄くなり、かわりに蝉の声がよりつよく響いた。平和だね、と花びらは言った。うん、と靴子は答えた。もうふたりにはなにもすることはなかった。靴子は鞄のなかから携帯電話だけをとりだして窓際の机のうえに直接座り、足を高くあげてうわばきを脱いだ。うわばきはそのまま床にまでまっすぐに落ちてすこしだけころがって、すぐに静止した。靴子は素足をのばしてまたべつのだれかの机のうえにのせた。花びらは教壇のうえに座っておなじようにうわばきを脱ぎすて、教壇のすぐまえの机のうえに足をのせた。おだやかな空気だった。ときどきゆるい風がふいてその空気をほんのすこしだけ震わせたけれど、それはただそれだけのことだった。靴子はつよく光があたる右半身にひどい暑さを感じていて、その激しい陽射しはおさないころに見た夢そのものをすべて吸収してしまったかのようだった。それでも、そのうちのいくらかはたやすくけだるさに変わり、すぐに耐えられないほどではなくなった。自分の、白い足のこうがいやにまぶしく感じられた。ねえ、話をしてもいいかな、と靴子は言った。いいよ、と花びらは言った。でも、どうしてそんなことを訊くんだろう。そんなことって。どうして、靴子ちゃんはわたしに靴子ちゃんが話をする許可を求めたんだろう。なんとなく、花びらちゃんが怒っているような気がしたから。わたしは怒っていないよ、それに、たとえわたしが怒っていたとしても、わたしに話しかける許可をわたしに求めなくてもいいんだよ、いつだって、好きなときにわたしに話しかけてくれればいいんだ。うん。靴子ちゃんはいったいなんの話をしたいんだろう。わからない。どうしてわからないんだろう、だって、靴子ちゃんはいまわたしとなにか話をしようとしたんじゃないのかな。わたしもそう思っていたんだ、花びらちゃんに声をかけるその直前まで、わたしはなにかの話を花びらちゃんにしようって思っていたような気がする、けれど、花びらちゃんに話しかけたときに、わたしはわたしがしようとしていた話をわすれてしまったんだ。けれど、それでも会話をすることはできると思うよ。したい話がなにもなくても、できるのかな。できると思うよ。うん。でも靴子はそのあとの言葉をつづけることがうまくできなかった。顔をすこしずつかたむけて足のこうの光のあたりかたについてのたいせつなことを求めたけれど、そんなものは足のこうにはありはしなかった。やがてあきらめて靴子はゆっくりと花びらのほうに顔を向けた。でも花びらはなにも言わなかった。なにかを言う気配すらなかった。靴子はすこしだけこわくなって反対側を向いた。ひらかれた窓の向こうには校門があって、その校門を隆春がのりこえていた。譲もすでに校門のうちがわにたっていて、おしりをこちらに向けて飛びおりようとしている隆春の姿を見つめていた。隆春の場所は高くて、譲はとてもまぶしそうだった。靴子の頬にささやかな風があたって気持ちがよかった。隆春が校門のうちがわにおりたつと、ふたりはあかるく光る校庭をゆっくりとわたりはじめた。靴子から見たふたりは実際のふたりよりもずいぶんちいさく、ひっぱりあげるような感覚で腕を持ちあげて視界のまえに手のひらをかかげて指のおおきさとそのふたりのおおきさをくらべた。ふたりのおおきさは靴子の指先よりもちいさかった。その姿も鮮明ではなく、ただくっきりとした良質な色を混ぜあわせてぐちゃぐちゃにしただけのものに見えた。ふたりは靴子のひとさし指となか指のあいだの空間をゆっくりと斜めに歩いていて、靴子はふたりが靴子のひとさし指にぶつかってしまわないようにふたりの歩みにあわせて微細なやりかたでその手を横にずらしつづけた。靴子のその手はほんのすこしだけ震えて、意識してその震えをとめようと思うのにどうしてもとまってくれなかった。やがて、隆春が歩くことをやめた。譲はしたを向いたままそれに気づかないで歩きつづけていた。譲の動きにあわせて手をずらしつづけていたから隆春の姿はやがて靴子のなか指のうらに隠れてしまって、その瞬間からいくつかの時間のあと、ゆっくりとなか指とくすり指のあいだから姿をあらわして、そそしてそれをちょうどおなじ瞬間、譲がたちどまってうしろを向いた。そのとき靴子はもう手をひっこめてしまっていて、くるぶしを指のはらでゆっくりとさすった。ふたりはそれから動かなかった。花びらの場所からはふたりの姿は見えていなかったけれど、靴子は花びらにはなにも言わなかった。やがて、靴子はかたわらの携帯電話を手にとって譲に電話をかけた。靴子の視界のなかで良質の色のかたまりみたいに見える譲が虫みたいに動きつづけていて、靴子のやわらかな耳もとではやさしい音が携帯電話の向こう側でくりかえされていた。譲くんにかけているのかな、と花びらが言った。うん、と靴子は言った。靴子はふたりを見つめつづけながら、わたしが見ているふたりは譲くんと隆春くんじゃないのかもしれない、とふたりの姿を見つめはじめてからはじめて思った。でも、その直後に携帯電話から譲の声が聞こえた。譲くん、いまどこにいるんだろう、と靴子は言った。靴子はどこにいるんだろう、と譲は言った。もう学校についているよ、花びらちゃんもいっしょにいる、ねえ、譲くんたちはいまどこにいるんだろう。もうすこしで学校につくよ、わるいけれど、もうちょっと待っていてくれよ。だいじょうぶだよ、ちゃんと待っているよ、昇降口の鍵をあけておいたから、そこからはいってきてね。わかったよ、ありがとう。ねえ、わたしたち、ちゃんと待っているからね。ごめん、わるいと思っているよ。ちがうよ、わたしはわたしたちが待っていることについて怒っているわけじゃないよ、ほんとうだよ、ただ、すこし心配なんだよ、ねえ、譲くんと隆春くんはほんとうにわたしたちの場所までくることができるのかな。なにを言っているんだよ、ちゃんといくって言ったじゃないか、俺たちは俺たちの気持ちを変えてなんかいないよ、ねえ、ほんとうにもうすぐなんだよ、すこし時間がかかっているけれど、ほんとうにもうすぐ靴子と花びらの場所までいくことができるんだ、だから、靴子が心配することなんてなにもないんだよ。わかった、待っているね。うん、ごめん。待っているね、と靴子はもういちど言って電話をきった。花びらは靴子の髪の毛をずっと見つめていた。つよい光を浴びて銀色に輝いている髪の毛の部分がとても美しかった。譲はそう言ったのに、すぐにきてくれるはずなのに、靴子のたよりない視界のなかで隆春と譲は並木道のまんなかでいまだにたちどまりつづけていた。そして靴子はそんなふたりをじっと見つめつづけていた。ふたりはなにかを話しているような気がした。けれど、その声は靴子にとってはあまりにちいさくてまるで聞こえなかった。それでも、その視界のなかで実際には靴子が待っているんだよと譲が隆春に言っていた。わかっているよ、と隆春は答えていた。靴子はもう校舎のなかにいるんだよ、こんな場所でいつまでもたっていたら靴子たちに俺たちの姿を見られてしまうかもしれない、そうしたら靴子によけいな誤解をあたえてしまうかもしれないだろう。誤解ってなんだよ。たとえば、俺やおまえがほんとうには学校にいきたくないって、靴子たちに会いたくはないって、そう思っているって靴子に思われるかもしれない。それは誤解じゃないよ、だって、俺はほんとうには学校にいきたくはなかったんだから、それに、靴子にも花びらに会いたくはなかった。それなら、最初からそう言えばよかったんだ、俺は靴子にいくって言ったんだよ、いまさらそれをとりけすのはおまえの勝手だけれど、そうすることで靴子はきっと傷ついてしまう。どうして俺がそこまで靴子の気持ちを思いやらなくちゃいけないんだよ、おまえが靴子のことを思うのはいいよ、俺はそれをわるいことだとは思わない、でも、俺はすくなからず昨日の夜に靴子を憎んだんだ、次に会ったとき、ほんとうに殴り殺してやりたいって思ったんだ。おまえがいくら靴子を憎んだとしても、おまえに靴子を傷つける権利があるということにはならないよ。わかっているよ、俺は権利の話なんかしていない、俺はただ俺の話をしているだけだよ。隆春は校庭のまんなかでゆっくりとしゃがみこんだ。もうだれもいないような気持ちがした。足もとをおおきな蟻が這っていた。蟻が歩いているさきに指をつけると、蟻は指を這いあがってきて手のこうのうえを気が狂ったみたいにまわりつづけた。譲がすこしだけ近づいてきて、隆春の手のこうのうえにその影がかかった。どうしておまえはそこまで靴子を許すことができないんだよ、と譲は言った。靴子がなにを言ったとしても、なにも言わなかったとしても、おまえの告白の結果は変わらなかったかもしれないじゃないか、そのことはおまえにももうわかっているはずだろう、おまえはけっきょく怒りを向ける対象を探しているだけだよ、靴子がなにも言わなかったとしたら、おまえはおまえの思いがかなわなかったそのかなしみや怒りを花びらに向けてしまうんだよ。おまえはいつもただしいよ、と隆春は言った。手のこうにのった蟻をもうかたほうの指のさきにのせ、それからすばやく土のうえにおしつけてつぶした。蟻の身体から体液がでて隆春の指をすこしだけ湿らせて、指をどけると、その身体の部分たちがたがいにまざりあっていた。風が熱をまとっていて暑かった。やめろよ、と譲が言った。なあ、と隆春はうつむいたまま言った。俺は靴子に会って靴子に俺の怒りをぶつけてしまうことよりも、花びらに会って花びらに俺の怒りをぶつけてしまうことのほうがよっぽどこわくて、いやなんだよ。それはわかるけれど。今日、おまえがシャワーを浴びているとき、俺はひとりでテレビを見ていたんだ、地震の映像がうつっていた、街がまるごとひとつがれきになっていた、映像はなんの音声もともなうことなく執拗にそのがれきをうつしつづけていた、がれき以外はなにもうつされていなかった、俺は死体がうつるんじゃないかと思ってずっと待っていた、何万人ものひとが死んだんだ、ただただがれきばかりがおりかさなった広大な場所だ、そのなかに死体がひとつも見えないほうが不自然じゃないかと俺は思った、だから、俺は死体がうつしだされるのを待ちつづけた、それでも死体はその映像のなかにはあらわれなかった、映像はゆっくりとなめらかにがれきのうえを移動していくのに死体はあらわれなかったんだ、けれど、ほんとうは俺は死体を見ていたのかもしれなかった、俺が死体を死体だと認識していなかっただけで、俺が死体をがれきととりまちがえていただけで、そこにはほんとうにはおびただしい数の死体がうつしだされていたんじゃないかって思った、俺は想像したんだ、この無数にひろがるがれきの群れがほんとうはがれきじゃなくて死体だったらどうだろうか、そのとき俺はその死体たちをきちんと直視することができるだろうか、そしてそのとき、俺はがれきの群れをただ見つめていたときとはちがうなんらかの気持ちを抱くことができるだろうか、でも俺にはわからなかった、俺はそのときがれきの群れを見ると同時に俺の頭のなかに降りつもった死体の群れを見つめていた、けれど、俺のこころのなかにはそれにふさわしい気持ちはちっともわいてこなかったんだ、俺はなにも感じなかった、俺の頭のなかに降りつもった死体の群れはやがてやわらかい手でそっととりのけられ、そのかわりに淡くねばついた光がうっすらと射しこんでいた。花びらは死んでいないよ、と譲は言った。花びらは死んでなんかいない、俺たちはみんな生きているんだよ。わかっているよ、と隆春は言った。俺だってそれはわかっているんだ、でも、昨日の夜に地震のことを知ったとき、俺は花びらのぐちゃぐちゃにつぶれた死体をすぐに思いうかべたんだ、花びらがぶじだということはわかりきっていたのに、俺の頭のなかに浮かんだのは花びらの死体だったんだ、それ以外のことはなにも浮かばなかった、俺はだれかの身体やだれかのこころをなにひとつ心配しなかった、たとえば、俺の従兄弟は地震がおきた街に住んでいていまも連絡がとれていないけれど、俺は彼のことを心配していない、きっとこれから心配することもないだろう、俺は彼の死体を想像すらしなかった、けれど、それは俺が彼がぶじなんだと根拠のない確信めいたものを抱いているからじゃない、俺はただたんに彼の死体を想像することができないだけで、そして、連絡がとれない彼のことを心配していないというだけのことなんだよ、俺がほんとうに、ほんとうの意味で死体を思いうかべて、そしてそれにたいしてせつじつな思いを抱くことができたのは、花びらだけだったんだよ。隆春は指についた蟻の死体の部分を見つめていた。墨汁にすら似た黒いかたまりはすこしだけいびつなまるみをのこしたまま指のはらのうえにとどまりつづけていたけれど、やがて、隆春は指をかたい土の表面につけて何度かごしごしとこすった。蟻の死体の部分は指からこそげおとされてかわいた砂とまざりあい、土の表面にかすれながらのびていった。俺はきっとほんとうには花びらのことが好きじゃなかったんだと思う、と隆春は言った。俺は地震がおこったときにただひとり花びらの死体を思いうかべて、そして、それをとくべつなことだと思いこんでしまったけれど、じつはそれにはたいした意味なんかなかったんじゃないだろうかって昨日からずっと考えつづけていたんだよ、俺が花びらの死体を思いうかべたことと俺が花びらを好きだということにいったいどんな関係があるだろうかってずっと考えつづけてきたんだ、俺はたんじゅんに俺が花びらのことが好きだから花びらの死体を思いうかべることができたんだって思っていた、でも、実際はそうじゃなかったかもしれない、俺は花びらのことが好きだから花びらの死体を思いうかべることができたわけじゃなくて、花びらの死体を思いうかべたから花びらのことを好きなように思っただけなのかもしれない、そう考えると、俺にはなにもかもがどうでもいい、くだらないものに思えてくるんだよ、この世界のすべてのものが、この社会のすべてのものが、学校も、友達も、季節も、恋愛も、貧困も、友情も、不平等も、家族も、社会も、思い出も、病気も、未来も、おまえも、靴子も、そして花びらも、俺にはすべてくだらないどうでもいいようなものに思えてくるような気がしてしかたがないんだよ、俺はそれがこわいんだ、俺はほんとうは教室にいって花びらに俺の感情をうけいれなかった怒りをぶつけてしまうのがこわいんじゃない、俺は俺の怒りをぶつけてなおそのことにたいしてどうでもいいことだってどこかで思ってしまいそうな俺がこわいんだよ、このまま教室にいって、靴子と花びらに再会して、そしてそのふたりのことをきちんと考えることができるか、これからもずっと考えつづけていけるかどうか不安になってしまうのがこわいんだよ、なあ、俺はほんとうは俺のまわりのすべてのものがきらいなんだよ、だいきらいなんだよ、ときどきまわりのものすべてに吐き気がするんだ、まわりのすべてのにんげんがうすぎたない虫に見えてどうしようもないんだよ、でも、俺はそのだいきらいなものにかこまれてなおそれなりに満足して日々を生きていけてしまうような気がするんだ、そのことにたいして疑問を抱きつつ、それでもなんとなしに日々を生きていけてしまうような俺のありかたを俺はしているんだよ、けっきょくのところ、俺がこの世界でいちばんきらいなものはそんなふうなありかたをつづけていってしまうだろう俺なんだよ。譲はかたほうの足をあげ、ゆっくりと土の表面にはりついた蟻の死体の部分のうえにのせた。隆春の視界のなかのいままで蟻の死体があった場所に譲の靴があらわれた。白墨に似た真っ白な、おろしたてのきれいな靴だった。その靴が蟻の死体のうえですこしだけ回転するようにひねられて、蟻の死体をなおもつぶした。とても長いあいだつぶしつづけた。譲はその靴のうらにあるだろう蟻の死体の感触をひとつも感じることができなかった。靴のうらに蟻の死体があってそれをなおもつぶしつづけている、という意識や感覚すらもしだいに薄れていって、ただ、靴を回転させるようにひねりつづけている奇妙な感覚の余韻だけが連続して発生しては消えていった。俺にはおまえのその思いを解決することはできない、と譲は言った。わかっているよ、おまえになんとかしてもらおうと思っているわけじゃない、と隆春は言った。でも、俺はおまえのその思いがおまえに固有のものだとも思っていない。そうだとしても、俺のこの思いがほかのにんげんも、たとえばおまえも抱いているものだとしても、そんなふうにだれでも抱いてしまう普遍的で凡庸なものだしても、それで俺のこの思いが解決されるわけじゃない。わかっているよ、俺はただおまえに思いちがいをしてほしくないって思っただけだよ。思いちがいってなんだよ。それでも、おまえの抱いているその思いが花びらにたいする愛情じゃないっていうことにはならないっていうことだよ。こんなものが愛情だっていうのなら、俺はいらないよ。どこかにほんとうの愛情があると思っているのなら、それはたぶんまちがっているよ、ほんとうの愛情なんてどこにもないんだよ、俺たちはもう、だれかを愛そうと思ったのなら俺たちがあらかじめ感じている感情を愛と名づけなおすくらいしかできないんだよ、けれど、それは悲劇的だっていうわけじゃない。俺にはおまえが言っていることがわからないよ。うん、たぶん俺にもわかっていないんだろう。そうか。うん。隆春は座りこんだまま譲の腕をぐっとつかんだ。それは譲の右の腕のひじよりもすこしだけうえの部分で、譲はちょうど手のかたちとおなじ水死体の感触に似たつめたさをそのとき感じた。譲は蟻の死体をつぶすのはやめて靴をそこからどけたけれど、隆春も譲もあえてその結果を見ようとはしなかった。隆春はちからをこめて譲の腕をひっぱるようにしてゆっくりとたちあがった。足がすこしだけ痺れていて、その痺れの中心にはおしつぶされつづけてできた熱さと痛みがすこしずつまざりあったような感触がのこされていた。隆春はその熱さと痛みがなにかべつのものに変わってしまうまで譲の顔を見つめないようにしながらじっと待ちつづけた。校庭の砂はときどき真っ白に発光していて、結晶のように複雑で幾何学的なかたちをした光がちかちかと隆春の目をうっていた。砂にはときどき蟻の身体がまじっていて、きちんと生きて動いている個体もいたけれど、それとまったくひとしい数だけもう死んでばらばらになってしまっている個体もいた。そして自分の足もまたそうやって形成されたひとつの物質のように感じられた。やがて、隆春は譲の腕をはなし、靴子と花びらのところにいこうかと言った。いかなくてもいいよ、俺はもうどうでもよくなってきた、と譲は言った。いくよ、俺もどうでもよくなってきたから。そうか。けれど、ふたりはそこから歩きだそうとはしなかった。夏の光をうけて輝いている校庭に目をやり、なにか意味のあるものがそこにおりたつのを待っているかのようなやりかたでその場所のすべてを見つめた。校庭は荒野に似ていた。蝉の声が校庭のなかに響きわたってはところどころ砕けてはぼろぼろになっていった。おまえはひとつだけかんちがいをしているよ、と譲が言った。なにがだよ。おまえが見ていた地震の映像を俺もシャワーを浴びおわったあとにすこしだけいっしょに見ていただろう、俺はあの映像を見たことがあるよ、おまえはあの映像を昨日の地震の映像だとかんちがいしていたけれど、ほんとうはそうじゃない、あれは遠いむかしにべつの街を襲ったべつの地震の映像だよ。隆春の身体のなかに埋めこまれていた心臓がごとりと音をたてた。手のひらをこえるくらいのおおきさの石を湿った土のうえに落としたようないびつな音だった。そうか、と隆春は言った。あらゆる言葉がもとからなかったような気がした。心臓の音は隆春の頭のなかでくりかえし鳴りつづけていた。それは性欲にも似た奇妙な興奮で、でもなにが自分のこころをそうさせるのか自分でもわからなかった。俺はまえにその映像を見たときに感じたことをよく覚えている、と譲は言った。かなしい映像だった、俺はそのときその地震でたくさんのにんげんが死んでしまったという事実よりもその映像そのもののかなしさを思っていた、俺はその映像をまえにして死んでいってしまったひとたちを救いたいとは思えなかった、けれど、俺はその映像を救いたいと思った、映像にうつされてはいない死体たちよりも、その映像を救いたいとしんから思ったんだ。譲のその言葉はあたりまえに靴子までとどくことはなかったけれど、かりに靴子が譲が言ったことを聞くことができたとしたら、靴子はそのことでなんらかの気持ちを抱くことができたかもしれなかった。でも、そのとき教室にいる靴子が聞いたのは譲の声ではなくて、ただ生命をけずりとるようなやりかたで鳴きつづける蝉の声だけだった。靴子は譲と隆春が校庭のまんなかでなにかをおたがいに言いあっているその姿を見つめつづけていた。靴子が見ていたのはただの光景だった。その光景は夏の光につつまれて愛おしく美しかったけれど、その光景のなかでなお譲と隆春の姿はくっきりとした良質な色がぐちゃぐちゃにまざりあったふたつのかたまりだった。それをかなしいことだと思うことも靴子にはできたはずで、でも靴子はそれをかなしいことだとは思いたくはなかった。かなしいことだと規定することもいやだった。校庭にはふたりがいるだけで、ほかにはなにもなくて、なにもないということが靴子になんらかの気持ちをもたらすということですらないなにもないありかたをしていた。靴子は唇のはしっこをすこしだけ噛み、唇の肉の厚みをたしかめた。唇が肉であるということが重大な不具合だというような気がすこしだけしたけれど、それもすぐにわすれた。ねえ、花びらちゃん、と靴子は言った。なにかな、と花びらは言ってすこしだけ靴子のほうを見たけれど、それからすぐに視線を自分の足もとにもどした。靴子も自分の足の指先を見つめた。光を浴びて、それぞれのつめのあいだが薄い赤色に光っていた。夏休みがあけて春日井くんに会ったら、春日井になんて言うつもりなんだろう。なにも言わないよ。でも、春日井くんはお返事をお待ちしていますって書いていたよ。わたしはなにも言わないよ、ずっと黙っている、手紙なんてもらっていないふりをする、でも、もしも春日井くんがわたしじゃなくて靴子ちゃんに手紙のことをなにか訊いてきたら、正直に話してもいいんだよ。それだと、靴子ちゃんが手紙をもらっておきながらずっと返事をかえさなかったっていうことが春日井くんにわかっちゃうよ。いいんだよ。でも、わすれていたふりをしていても、それだけではきっとなにもなかったことにはならないよ、春日井くんはきっと花びらちゃんのところにそのうちやってくると思うよ、そして、きっともういちど告白をすると思うよ。そうしたら、わたしはあなたとつきあうほどにあなたを愛しているわけじゃないって言うよ。それは、隆春くんに言おうとしているのとおなじ言葉だね。そうだね。花びらちゃんにとって、隆春くんと春日井くんに向けられている気持ちは、愛情のありかたという意味において、おなじなのかな。どういう意味だろう。ただなんとなくそう思っただけだよ、隆春くんと春日井くんはちがうにんげんなのに、ふたりに愛情をつたえられたときにどうしておなじ言葉でかえそうとしてしまうんだろう。靴子はつまさきをぴんとたて、右手をのばして足の指をいじりつづけながらときどき花びらのほうを見つめていた。指と指のあいだには黒いかたまりがいくつかこびりついていて、靴やうわばきをずっと履きつづけていたせいでその部位は湿っていた。黒いかたまりをとってしまいたかったけれど、そうすることで指がくさくなってしまうことがいやでただ軽く指先にふれつづけているだけだった。花びらは腿のうえに頬をぴたりとつけた姿勢をつづけていて動かなかった。顔は廊下側のほうに向けられていて、靴子からは髪の毛の隙間から飛びだしている耳たぶがちいさな丘のように見えていた。花びらはなにも言わないまましばらくその姿勢をつづけていたけれど、やがてゆっくりと顔を持ちあげて靴子の顔を見つめた。でも、靴子はつまさきばかりを見ていたせいで花びらが顔をあげたことに気づくことができなかった。花びらの左頬はつよく腿におしつけられていたせいでほのかに赤みをおびていた。その頬のうえに浮遊しているようについている目が一瞬だけきゅっとほそくなったけれど、それはたとえ靴子がそれを見たとしてもどういう感情を表現しているのかわからないかたちだった。花びらは黙ったままかたわらにおいておいた封筒から手紙をとりだしていちまいずつちぎりはじめた。紙質はとてもやわらかくて、すこしちからをいれるだけでたやすくやぶれ、そのやぶれめからはけばのような紙の繊維が触手のように飛びだしていた。夏それじたいを追悼するように花びらはとてもていねいなやりかたでそれをこまかくちぎりつづけた。靴子はそのときにはもう手紙をちぎる花びらがふくまれている光景を見つめていた。なにか言葉を放とうと思ったけれど、靴子は自分が放とうとしていた言葉が花びらの行為をとめようとする言葉だということに直前で気づいて、それをやめた。靴子のくちはその時間のあいだに声をだそうとしてひらかれていた。ひらかれたときに見えたうえの前歯としたの前歯のあいだに細い唾液の糸がひいてすぐにとぎれ、それから、ゆっくりと上唇と下唇があわさっていった。花びらは手紙をちぎるそばからそのかけらを手放していて、手紙のかけらは空中でくるくると回転をしながらゆっくりと落ちていった。靴子は花びらの姿や顔を見ることをやめて次々と落ちていく手紙のかけらを見つめた。手紙のかけらは回転をするたびに薄い残像をのこしていて、それはひとつのまるいかたまりのように見えた。そのかたまりはほとんど透けていたけれど、白さだけは一定の薄さでありつづけていて、同時にその白さのなかにほんのすこしだけの黒みをふくんでいた。その黒みは春日井が書いた文字の一部で、靴子にはそれが虫に見えた。ねえ、靴子ちゃん、と花びらは手紙をちぎりつづけながら言った。言葉はほんとうにはわたしの気持ちをなにも表現しないよ、わたしが隆春くんにも春日井くんにもおなじ言葉をかえしてしまうことができるのは、きっと、わたしがわたしの言葉についてなにも信じていないからだよ、わたしは、隆春くんにも、春日井くんにも、もちろん靴子ちゃんにも譲くんにも、ちゃんといろいろな気持ちや感情を抱いているよ、すくなくとも、わたしはそう思っている、けれど、わたしはそれを言葉で表現できるとは思っていない、言葉で表現したいとすら、きっと思っていないんだよ、言葉なんてわたしの気持ちや感情のなにも規定しないよ。でも、それではきっとほかのひとに誤解をあたえてしまうよ、ほかのひとは花びらちゃんのことをつめたいひとだって思っちゃうかもしれないよ。ねえ、靴子ちゃん、わたしはきっとつめたいにんげんなんだよ、こころのなかでどんなあたたかな気持ちやいたわりの気持ちを抱いていたしても、そのこころのなかの気持ちはにんげんのこころのつめたさとなにも関係しないと思うよ、にんげんのこころのつめたさはただそのひとの言葉や態度によって決められるものなんだと思うよ。花びらちゃんはつめたくなんてないよ、わたしは花びらちゃんがほんとうはやさしい女の子なんだってちゃんと知っているよ、すくなくともわたしはほんとうにそう思っているよ。ありがとう、うれしい、でも、それでも、靴子ちゃんがそんなふうに言ってくれるのは、きっといつか、わたしが靴子ちゃんに靴子ちゃんにとってやさしさだとうつる言葉を言ったり行為をしたりしたからだよ。そうだとしても、わたしはちゃんとそのやさしさを知っているよ、そのやさしさが本質なんだってちゃんと知っているよ。本質なんてないよ、ねえ、ひとのこころの本質なんてどうやって決めればいいんだろう、わたしは春日井くんにとってわたしがつめたいとうつる言葉を放ったり行為をしたりすることができるよ、同時に、靴子ちゃんにとってわたしがやさしいとうつる言葉を放ったり行為をしたりすることも、きっとできるんだと思う、でも、そのどちらもきっと春日井くんや靴子ちゃんにとってとても現実的なこととしてあるんだよ、だから、そのどちらかを本質だっていってさだめることなんてできないんだよ、それでも靴子ちゃんがわたしの本質がやさしさだと言うのであれば、それは靴子ちゃんがつめたさよりもやさしさのほうを好きだからというだけのことにすぎないんだと思う。ごめんね、わたしはただ。けれど、靴子はそのあとの言葉をつづけることはできなかった。きっとそうじゃないよ、と靴子は思っていた。きっとそうじゃなくて、わたしはただ花びらちゃんのことが好きなだけなんだ。ごめんね、と靴子はもういちど言った。あやまらないでよ、靴子ちゃんはなにもわるくないよ、わたしを傷つけるようなこともなにも言っていないよ、わたしのほうがわるかったんだよ、ごめんね、わたしはただ、わたしがやさしくはないということを言いたかっただけなんだよ。花びらは退屈そうに手紙をちぎりつづけていて、その胸のまえできゅっとすぼめられたふたつの指先は芯のようにかたそうだった。どうしてそんなふうに言うんだろう、と靴子は言った。花びらちゃんの言うことはわかるよ、花びらちゃんが言ったとおり、きっと、わたしはつめたさよりもやさしさのほうが好きなんだと思う、わたしはやさしくはないから、きっと、やさしさに憧れているんだと思う、ねえ、でも、花びらちゃんはにんげんのこころの本質なんて決められないって言ったけれど、それならどうして花びらちゃんは自分のことをつめたいにんげんだって言うんだろう。それは、靴子ちゃんがつめたさよりもやさしさのほうが好きなように、わたしがやさしさよりもつめたさのほうが好きだからだよ。どうして。他人につめたくしないと、生きていける気がしないんだ。花びらはそのとき手紙をちぎりおえていた。最後の手紙のかけらを手のひらにのせて濡れた瞳でしばらくそれを見つめていたけれど、やがて、ゆっくりと手のひらをかたむけていった。手のひらがすっかりしたに向けられてしまったあとも手紙のかけらは湿った花びらの手のひらにしばらくの時間のあいだくっついたままで、靴子はその手紙のかけらの、その表面に書かれているはずの文字のかけらを読みとろうとしたけれど、ふたりの距離は靴子がその文字を読みとるにははなれすぎてしまっていた。やがて、なんのまえぶれもなく手紙のかけらは花びらの手のひらをはなれてゆっくりと舞いおちていった。花びらはごみくずを見るのとおなじやりかたでそれを見ていて、靴子は、わたしはいまいったいどういう顔でその手紙のかけらを見つめているんだろうと思った。たとえば、と花びらは言った。いまこの場所に隆春くんがやってきてわたしにやぶりすてられたこの手紙を見たら、隆春くんはきっと傷ついてしまうだろうと思う、わたしがほかのひとからもらった、すくなくともそのひとにとってはせつじつな手紙をたやすくやぶりすててしまうようなにんげんだと意識したら、隆春くんはきっとそのことで傷つくだろうと思う、同時に、わたしがほかのだれかから告白をされたことを知ったら、それだけできっと隆春くんはいやな気持ちになってしまうと思う、そして、隆春くんのそういう気持ちを想像することができてなお、わたしはこのやぶりすてられた手紙を隆春くんに見せつけることができると思う、こんなごみくずみたいな手紙をもらったんだよって隆春くんに笑顔で言うことができると思う、そして、たとえそうしたところで、わたしはなにひとつ傷つかないと思う。花びらちゃん、それはつらいよ。なにがだろう、なにがつらいんだろう。世界がだよ。花びらは左手の指先を唇のしたにあて、くちをひらいて前歯をその指におしあてた。いいんだよ、と花びらは言った。世界がつらくても、わたしがつらいわけじゃない、わたしたちは世界がつらくてもそういうこととはまるで関係なしにちゃんと生きのびていかなくちゃいけないって思ったんだ、だからわたしは他人につめたくあろうとしているんだよ。ねえ、わたしは他人にやさしくしても生きていくことができると思うよ。花びらは左の手の指先から前歯をはなした。光がその指先にあたってうっすらとはりついた唾液の表面できらきらと輝いた。ねえ、靴子ちゃんが覚えている、いちばん古い記憶はなにかな、と花びらは言った。なんだろうな、わからないよ、ちいさいころの記憶は色彩も声も感触も、どろどろに溶けて、まざりあってしまっているから、そのなかからなにかをひっぱりだすのはすぐにはむずかしいよ、ねえ、でもどうしてそんなことを訊くんだろう。わたしは覚えているよ、と花びらは言った。わたしが覚えているいちばん古い記憶は湖の記憶なんだ、とてもひろい湖で、湖のまわりは深い森で、樹々はあざやかに紅葉していた、赤色や黄色となった葉の色そのものが水面にくっきりと浮かびあがっていた、とても静かで、ときどき遠くで犬が淡く吠えているのが聞こえているだけだった、そして、その光景のなかにはわたしがふくまれていた、その光景を見ているのはわたしなんだから、その光景のなかにわたしがふくまれているわけがないんだけれど、その光景を見ているわたしとその光景のなかにふくまれているわたしがその場所には同時に存在していた、わたしは湖のほとりにひとりきりでたっていた、厚い洋服を着てかわいらしい靴を履いて、毛糸の帽子をかぶっていた、頬がすこしだけ赤く染まっていた、わたしの目のまえにひろがる湖面にうつりこんだ紅葉のなかにわたしもまたおなじようにうつりこんでいた、水面にうつりこむわたしの背景には白んだ空があった、空気は息をするのがときどきむずかしくなるほどに濃くて、その成分のなかにはわたしの身体や魂の部分が溶けだしているようだった、足もとの土はやわらかくてふんだんな養分をふくみ、湿っぽい雨のにおいがまじっていた、すこしだけ肌寒くて、でもその感触は湖のほとりにたつわたしが感じていたものだった、わたしは湖のまんなかのどこでもない場所から湖のほとりにたつわたしを見つめ、そのわたしが感じていることを同時に感じていた、湖のほとりにたつわたしはわたしのことをじっと見つめていた、その瞳のなかには淡くけれどかたく芯のある光が浮かんでいた、そして、わたしはそのときのわたしがかたちづくるものに、そのときのわたしをふくんだその光景がかたちづくるものに、ほとんど感動していた、わたしはその光景が世界を生ききったあとの光景だということがわかった、そのときのわたしは世界のうらがわにどんな意味のうらづけを必要とすることなく存在していた、そして、存在することになんの恥辱も感じていなかった、わたしはそれを孤独だと思った、わたしはわたしがだれも愛していないこともだれも必要としていないこともわかった、それはほんとうにつめたい存在のしかただった、身体のおくそこからこころそのものをひっぱりだされてその隙間に凍てついた空気をつめこまれていくのがわかった、わたしはくずれおちてしまいそうだった、わたしの身体の表面についたあらゆるものが剥ぎとられて鍵のかかった部屋のなかへ放りこまれていくように思った、それはただそこにあるだけの光景だった、その光景からはただそこにあるということ以外のすべての価値が奪われていた、けれど、同時にわたしはその光景につよく惹かれているのを感じていた、わたしはできることならその光景の部分としてありたいと思った、その光景のどんな些細な場所でもいい、どんなに薄くめだたない場所でもいい、どういうかたちでもいい、わたしはその光景を見る存在としてではなく、その光景にふくまれた存在としてありたいと思った、それは、わたしがそれまで見てきた、そしてそれから見ることになるあらゆる光景のなかで、もっとも美しい光景だった、ねえ、靴子ちゃん、きっと、わたしの考えていることはほかのひとにはわからないと思う、けれど、わたしは、ほんとうにちいさいころにその光景を見て、見てしまって、それから、だれかを深く傷つけるような生きかたをしたいってずっと思ってきたんだよ、それでいて、わたしだけは深く傷つかないような、そんな生きかたをしたいってずっと思ってきたんだ、だれかを深く傷つければ傷つけるほど、そしてその傷の深さにたいしてわたしが傷つかなければ傷つかないほど、わたしはその光景に近づけるような気がずっとするんだ、ねえ、靴子ちゃん、それでもわたしはすべてをまちがえてきてしまった気がときどきするんだ、夜中に雨降りの音を聴いているとにせものの光景がやってきてわたしのくちをそっとふさいで音もなくわたしの心臟を盗んでいくんだ、そのたびにわたしはとても空虚な気持ちになってしまう、けれど、そういう気持ちになればなるほど、わたしはだれかを深く傷つけてしまいたいって思うんだ、ひとつひとつの吐息のなかにかすかに血と花のにおいを感じて、耳のおくそこでゆっくりと銀色の車輪が回転をはじめて、足の指にほそい血色の糸が結わえられてこきざみにひっぱられて気が狂いそうになってしまう、けれど、そういういっさいも、わたしのなかでつめたくなっていくんだ、まちがえすぎてしまったかもしれないこともすべてふつうのこととして処理されて、なにもかもがなかったことにされて、そして、わたしはほんとうにたいせつなもの以外のすべてのことをわすれてしまう、ねえ、靴子ちゃん、わたしにはわたしのことがよくわからないんだよ、どうしたらわたしは他人をもっと傷つけることができるんだろう、どうしたらわたしは他人に、わたし自身に、もっとつめたくすることができるんだろう、ねえ、靴子ちゃん、わたしは他人をつよく傷つけたいと思ったとき、ほんとうにしっかりとつよく傷つけることができるのかな。靴子はしたを向いて腿の肉をつよくつまんでいた。つままれた肉には皺がよって、ずっとそうしていると白くなって、もう生きている身体ではないように見えた。靴子の脳味噌のなかのたいせつな器官が静かに動きをやめていた。だいじょうぶだよ、花びらちゃん、と靴子はやがて言った。花びらちゃんなら、ちゃんとできるよ、もしも花びらちゃんがわたしを傷つけるなら、わたしは花びらちゃんがわたしを傷つけたぶんだけ、ちゃんと傷つくことができるよ、だから、花びらちゃんはつめたくてもだいじょうぶだよ、わたしがそのぶんやさしくなるよ、わたしが花びらちゃんのぶんまでちゃんとやさしくなるから、だから、花びらちゃんは安心してつめたくなっていいんだよ、だいじょうぶだよ、花びらちゃん、きっとぜんぶうまくいくから、最後にはぜんぶうまくいくから、ぜんぶうまくいくように、わたしがちゃんとやさしくなるから、だいじょうだよ。それから、花びらがゆっくりと首を回転させて教室の入り口のほうに顔を向けた。その場所に隆春がたっていて、その身体におりかさなるように譲の姿がはんぶんだけ見えていた。花びらも靴子も話をしながら隆春と譲が階段をのぼって廊下を歩いてやってくるその足音を意識していたけれど、そのことで会話をやめようというつもりはなかった。でも、隆春と譲が教室の入り口のところにくっきりとその存在をともなって姿をあらわしたことに意識をつよくひっぱられて、もう無視をつづけることもできなくなった。そんなところにたっていないではいっておいでよ、と靴子はしかたなく言った。花びらは暗い瞳でふたりを見つめていた。隆春が揺れるように教室のなかにはいりこんできて、その背中であるようなやりかたで譲もはいってきた。譲は教室の入り口近くの机のうえに座って靴子の姿を見つめたけれど、靴子は隆春の身体を見つめつづけていて、そして隆春は花びらの目のまえまでやってきていた。花びらは隆春がある一定の距離にはいりこんだ瞬間に隆春の顔面を見つめることをやめて、ただ光に照らされたあかるい床とそこにかたちづくられたさまざまな影のかたちを見つめた。話があるんだ、と隆春が言った。うん、いいよ、と花びらは言った。ふたりで話がしたいんだ、べつの場所に移動しよう。いやだよ、動きたくない、ここで言ってよ。いいけれど、それでは傷ついてしまうかもしれないよ。だれが傷つくんだろう。ここにいる、俺たち4人全員がだよ。そのとき、校庭から反射された色素さえも知覚できないような光が教室の窓際に座っていて靴子の目をつよくうって、そしてまったくおなじ瞬間、教室のなかに兵士のひとたちがはいってきて隆春を撃って殺した。兵士のひとたちは靴子と花びらと譲に銃を向け、教室のすみにいけ、と言った。3人はそうした。兵士のひとたちは動くな、そしてしゃべるなと言った。隆春の身体からは血がふきだしつづけていて、血のたまりのうえには隆春の身体からはみだしたほそいえびのようなものがたゆたっていた。靴子と花びらと譲は教室のかたすみに座りこんでいた。土のにおいと鉄錆のにおい、それから自分たちの体臭がいきなり濃さをまして身体のおくそこをえぐっていた。心臓のかたわらにある魂の通り道に寒気を感じて、でも汗だけは顔中にふきだしていた。3人のそれぞれが持っているふたつの手がゆっくりと持ちあがり、しつこく、おたがいにとって満足できる場を求めおえるまでおたがいの身体をまさぐりはじめていた。靴子の服がまさぐられて汗ばんだ手のひらがおへそのまわりをべたべたとのたくったけれど、靴子にはそれがほかのふたりのうちいったいどちらの手だろうと意識することすらもうまくできなかった。靴子は眼球を回転させて自分たちのまわりをおおっているちいさく圧縮された空間のあちこちに目を這わせたけれど、その表面にまっさきにうつしだされたのは靴子の身体の一部ではなく、花びらの露出した太腿とそのつけねからひろがっている白い下着だった。花びらの服を中空に持ちあげている白い手が見えた。その指先からつづいていく皮膚をただろと指のつけねのもりあがりがあって、手のこうにちいさく浮かぶ赤い湿疹があった。そのさきにつながる手首があって、そのもっとさきには靴子の身体のすべてがあった。靴子は自分の身体を見つめることがただしいことなのかわからなかった。けれど、そういうときになにを見るのがただしいことなのかをあらかじめ知っているわけでもなかった。靴子は花火の太ももを見つめた。薄い青色の血管が走っていて、それを逆転してながめてみれば青色の血管を走らせている花びらの太腿は海におおわれた惑星の表面のようだった。ちょうど血管の中心に黒くまるいてんが浮かんでいて、それは花びらが小学生だったころにあやまって太腿にさしてしまったえんぴつの芯のかけらだった。それはほんとうにちょうど花びらの血管の流れを阻害させる場所にめりこまれたまま存在していて、それなのに、その芯の両端から血液はあたりまえに流れているだろうということが靴子にはうまく理解できなかった。血液の流れが阻害されているのなら花びらの足は腐っていってあたりまえなのに、それがもう何年もまえにうちこまれたものだったしたら、その足がいままで腐ってこなかったのはなにか人類が思いつくことすらもできない奇蹟が降りそそぎつづけてきた結果なのかもしれなかった。そして、その奇蹟にはきっといつまでも降りつづけるという保証なんてあたえられてはいないままで、もしかしたらいまこの瞬間が、兵士のひとたちが靴子たちのもとへやってきたこの瞬間こそが、その奇蹟が降りやんでしまう瞬間かもしれなかった。
 4人の兵士たちのうち、ヨハネとマタイが教室にのこっていた。マルコとルカは隆春を撃ち殺したあとにすぐに教室からでていってまだもどってきてはいなかった。マタイはならんでいた机をひとつずつ教室のはしによせてそのなかにひろい空間をつくり、その空間のまんなかにひとつだけ机を設置してその机のうえに座りこんで足を椅子のうえに投げだした。そのまま笑顔を浮かべて靴子たちの姿を見ていたけれど、やがて、目はそらさずに軍靴の靴ひもを荒くぬきとって靴を放り、つづけて靴下を脱ぎとって軍靴とおなじ場所に落とした。マタイは迷彩柄のズボンをまくりあげてたっぷりとしげったすね毛をふとい指先でいじくりながらときどきそこにこびりついたかわいた土のかたまりをつまんでは捨てていた。その時間のなかで約束された瞬間瞬間に顔をあげて靴子たちのほうをながめていてけれど、もう靴子たちへの興味はうせてすね毛いじりにほとんど熱中していた。ヨハネは隆春の両足をわきにかかえて教室の黒板のしたまでひきずっていき、財布をぬきとってなかの貨幣をのこさず教卓のうえにばらまいた。それから煙草をとりだしてマッチで火をつけ、煙を深く吸いこみほそく長く中空に向かって吐きだした。ほとんどすべての机がわきによせられてできた教室の中心は靴子たちがふだん知っているその場所よりもいっそう白く感じられ、南向きの窓から射しこむ陽の光をふんだんに浴びて光るそこは知らない国の海のようだった。淡く褪せた陽の色のカーテンがかすかな風をうけてちいさくふくらみ、そのはしの一部が窓のそとに漏れでてはためいていた。蝉の声が真っ青な鳥の声に似て聞こえた。なんでこんなことになってしまうんだろう、とヨハネが言った。マタイがふりむいてヨハネのほうを見たけれど、なにも言わなかった。この男の子はなにもわるいことはしていないのに、そして、俺たちもなにもわるいことをしていない男の子を殺すために兵士になったわけでもないのに、とヨハネは言った。ヨハネはうつろな目で中空のいってんを、あるいはヨハネが吐きだした煙草の煙が放たれ消えていくまでの連続した時間のありかたを見つめていた。マタイの耳から頬にかけての肉がひきつったように動きはじめていて、靴子たちにはわからなかったけれど、ヨハネはそのことでマタイが声をたてないで笑っているのがわかった。マタイの背後にはヨハネがいて、ヨハネの横顔は黒板の全面に彫像のようにはりついていた。黒板には煙にも似た薄い白色がべったりと塗りつけられて光っていて、それはときどき故意にきざみこまれた傷あとのように見えた。ヨハネは煙草を床に落として軍靴のかかとで踏みつぶした。そして、隆春の死体から携帯電話をぬきとって今度はつよくそれを踏みつぶした。ヨハネがもういちど足をあげたとき、携帯電話のなかからはちいさな部品や導線が露出していた。その狭間からは羽虫がぞろぞろとわきだしていた。ヨハネは羽虫ごと何度も携帯電話を踏んで殺した。携帯電話から漏れだした液体と羽虫からふきだした体液がくすんだ虹色でまざりあい、うずをまいてゆっくりとひろがりはじめた。軍靴のうらと床におなじ色の糸がいくすじがひいて、いくつかの瞬間にぷつりととぎれて消えた。複数の破片にわかれた携帯電話の画面たちが点滅をくりかえし、かつて隆春が撮った写真がつぎつぎとあらわれては消え、ほとんど聞きとれない、かつて隆春が花びらや靴子とたいせつな夜に交わした深いこころのように親密でいていたわりをもった会話がその瞬間に再生された。けれど、それらは携帯電話の部品たちが最後に発狂した結果としてむりやりとりだされたひとつの奇蹟のあらわれでしかなくて、その写真も、その会話も、だれの目にふれられることもなく、だれの耳にもとどくこともなかった。その子供たちの携帯電話も破壊するんだ、とヨハネはマタイに言った。俺にも煙草をくださいよ、とマタイは言った。ヨハネは黙って煙草をいっぽんとりだしてマタイにわたし、マッチをすって火をつけてやった。火をつけるときにふたりの顔が接近して、炎に照らされてふたりのその顔のしたはんぶんが水死体のように白くなった。マタイもまたヨハネとおなじやりかたで煙草を吸った。マタイのふとい指にはさまれたとき、煙草はそのかげんを反映したようにほそくなった。指の背に黒くふとい毛が生えていて、そのあいだにもかわいた土くずがこびりついていた。ほんとうに携帯電話を破壊してしまっていいんですか、とマタイは言った。携帯電話なんかあってもなんの役にもたちはしない、おまえはいったいだれに電話をかけるつもりだ。恋人ですよ、俺の祖国の恋人ですよ。あきらめろ、おまえの恋人はもう死んでしまったよ。そうでしょうね。マタイはたちあがって裸足のまま靴子たちのまえまでやってきた。指先の煙草からたちのぼる煙が海のいきものを思わせるやりかたでマタイの指のひとつひとつにからみあっては空間へぬけていった。でも、俺は俺の恋人を死なせたくなかったんですよ。マタイは花びらのまえに座りこんだ。靴子とマタイの顔の隙間はほとんどなかった。泥でよごれきったマタイの顔は醜く、ぶあつい唇のあいだからのぞく歯はとこどどころ欠けて黒い穴があった。歯はそのすべてが黄色に染めあげられていた。歯と歯のすきまには桃色をしたなにかの繊維がひっかかって揺れ、下唇からあごにかけてが動物の油でにぶく光っていた。死ぬ理由なんてなにもなかったんです、とマタイは言った。死ぬほどいきものとしての価値が低いわけでもなかった、俺の恋人と比較すればこの世界にはほとんど虫けらのようなにんげんばかりですよ。マタイは顔をゆっくりと旋回して靴子たちのむっつの瞳のひとつひとつをていねいにのぞみこみながらヨハネに話しかけていた。靴子たちは黙っていた。ヨハネがなにをしているのか、マタイの身体にはばまれて靴子たちから見ることはできなかった。俺は最後にいちどでもいいから彼女と話をしたかったんです、とマタイは言った。俺が国をはなれて兵士になって、それから彼女と話せたのはたったのいっかいきりでした、うすよごれた病院のなかから電話をかけたんです、電話にたどりつくのに7日もかかかりました、その病院のなかではだれもかれもが電話を待っていました、1階の廊下のいちばんおくにある古い電話です、その廊下から病院の屋上までずっと電話待ちの行列がつづいていました、だれだってそんな行列にならびたくなんてありませんでした、でも、俺たちはそれでもならびました、それも、恋人とか、家族とか、そのだれかにとってたいせつなだれかとほんのふたことみこと話すためだけにです、毛布と枕と水と干肉を皮袋につめこんで俺はただただ行列にならびつづけました、いちにちめとふつかめは屋上でねむりました、行列はぴくりとも動きませんでした、夜、空を幾億もの星たちが流れていました、まぶたをとじていてもその皮のうらがわでちかちかと光っているのがわかりました、まわりには祖国を思って涙を流す兵士たちばかりでした、いちまいだけ看護婦たちがとりこみわすれたシーツがありました、それが夜風にふかれてばたばたと音をたてていました、俺は空腹でした、それにさみしかった、だれかと話したいと思いました、だれでもいいから俺に話しかけてくれと思いました、気がふれそうになりました、俺以外の連中もみんなそう思っていました、でもだれもなにも話そうとはしなかった、連中も、俺も、これからだれかたいせつなひとに電話をかけにいこうとしているのに、そのまえにだれかほかの兵士に話しかけてしまうことがひどいうらぎりだと感じられていました、でも、そんなものはくだらないことでした、そんな貧相な誇りがきっと俺たちを狂わそうとするんです、まるで砂漠か荒野にでもいるような気持ちでした、狼や禿鷹がやってきていつ俺の腐りかけた肉をかじりとっていくんだろうかとほんとうにおびえました、それでも、屋上から病院の建物のなかにはいることができればすこしはましになりました、ぎらぎらとした太陽の光にうたれることはなくなり、遠い夜空からの呼び声を感じることもなくなりました、それに病院の建物なかにはいると、看護婦たちがいろいろと世話をやいてくれるようになりました、きゃべつのスープや砂糖のかけらをさしいれしてくれたり、包帯をとりかえてくれたりしました、床や壁には血のあとがのこっていて清潔とはいえませんでしたけれど、それでも、白色をしていました、白色はそれだけでいいものだと思えました、戦場にいたときには白色を目にすることなんてほとんどなかったことが思いだされました、泥色とか深緑色とか黒色とか暗い色ばかりでした、だから、足を撃たれて病院にいったとき、俺はしばらく目をあけていられませんでした、まぶしくてまぶしくてしかたがありませんでした、でも、俺にとってはたとえうすよごれた白色であったも白色は白色で、うれしかった、まわりの連中と会話をしてもいいだろうっていう考えも生まれてきました、だから俺は俺のまえにならんでいた男にすこしだけ話しかけてみました、おい、あんたはいったいだれに電話をかけようとしているんだ、と俺は言いました、その男はくるりと俺のほうをふりかえって、それからくちをばっくりとあけました、その男にしてみれば笑ったつもりだったかもしれません、けれど、俺からしたらほんとうにくちをばっくりとあけただけのように見えました、唾液に濡れた八重歯がてろてろと光っているのが見えました、まだ若い男でした、顔が薄く、美しい男でした、髭もていねいにそられていて、髪もぜんぶ剃っていました、まるで鳥のたまごみたいな顔をしていました、病院のなかには手足がない男や身体中に包帯をまいた男ばかりがいたのに、その男は頭に包帯をまいていただけでした、だから、その男は比較的に軽傷ですんだんだろうと俺は思いました、すくなくとも、その男の背中からは銃殺にも似た重苦しい空気は感じられませんでした、けれど、その男はふりむいて俺のほうに向かってくちをばっくりとあけて、そして、それだけでした、男はなにも言いませんでした、灰色の瞳も、俺の瞳を見つめているようなふりをしているだけで、ほんとうにはなんにも見てはいませんでした、ただ、俺を透かして、俺がいなければそこにあたりまえにひろがっている光景そのものを見つめようとしているような、そういう見つめかたをしていました、俺はどうしたらいいのかわからなくて、おい、と言いながらその男の肩に手をおきました、俺はやさしくさわりました、いやに熱い肩でした、体温がふつうのにんげんよりも高いことがすぐにわかるような感触をしていました、ひなたにねころがりつづけた猫にあやまってさわってしまったような気がして、俺は思わず手をひきました、でもその男は動きませんでした、視線ひとつ、指先ひとつ、動かしませんでした、そのうち、男の前歯から唾液がすっと流れて男の下唇に落ちました、唾液は下唇のふくらみのうえでこぼれおちることなくまるまりました、それでも男は動きませんでした、そのうちにまた前歯に唾液がたまっていき、またこぼれて下唇のうえにたまっていきました、下唇のうえでまるまった唾液はどんどん増えていくのに、まるで見えない小人たちがまわりからその唾液のたまをおさえつけているようにただただこぼれおちることなく下唇のうえで肥大をつづけていきました、それが透明ないくらそっくりになったとき、俺は、あんた、だいじょうぶか、と言いそうになりました、でも、ぎりぎりのところで俺はその言葉を飲みこみ、もういちど男の肩にのばしかけていた手もひっこめました、そのとき、俺はその男になにかを言うことが戦場で背中から仲間を撃つことくらいまちがったことのように思えました、俺の背中をつめたい汗がつたいました、俺のまえのまえにならんでいた男がふりむき、おもむろにその若い男のあごをさらさらと2回なでました、それに反応して、男の下唇のうえでまるまっていた唾液のたまがぞろりとくちのなかに吸いこまれていきました、ばっくりとひらかれたままだったくちもすぐにとじられ、顔もまえのほうに向きなおりました、俺のまえのまえの男が、気にするなよ、と俺に言いました、その男はしゃべれないのか、と俺は訊きました、しゃべれるよ、それならどうして俺のことを無視したんだよ、無視をしたわけじゃないよ、それならいったいなんなんだよ、ただ、あんたのことをうまく認識することができなかっただけだよ、どういうことだよ、あんたのほうを向いたとたん、なんであんたのほうを向いているのかわからなくなってしまっただけだよ、その男は頭がおかしいのか、ここに弾丸が埋まっているんだよ、と俺のまえのまえの男は言って、頭を指さしました。マタイがつまんでいる煙草の先端はその身を灰に変え長くのびていき、やがてそのときがくると自然に折れて床に落ちていった。灰は床にあたった衝撃で音もなくはじけて散らばった。こまかくわかたれた灰のなかにもときどき黒く醜い部分があって、その中心で消えのこりの炎の赤いてんが救いを求めるようにちかちかと輝いていた。マタイが靴子たちに向かってしゃべりかけているあいだにそれが何度もくりかえされていて、靴子たちはその瞬間にだけマタイの眼球ではなく床に散った煙草の灰を見つめることができた。煙草はもうほとんどフィルタだけになっていたけれど、マタイは吸いくちを舐めまわしてばかりで捨てようとはしなかった。ヨハネが存在するだろう場所から金属と金属がぶつかりあうような音が聞こえつづけていた。それでもその若い男はみんなに好かれていました、とマタイは言った。俺なんかよりもずっと好かれていました、男はひとりではなにもできませんでした、朝と夕方、看護婦がやってきて男の髭を剃っていきました、蒸しタオルで身体を拭ってやり、男の下半身を露出させて溲瓶を性器の先端にあてて尿をとり、おまるを持ってきて排便をさせてやっていました、排尿や排便をすると気持ちがいいのか、男のくちはゴムみたいにゆるんでいました、看護婦たちはその様子がかわいいと思い、汚物を抱えたままその男の頬にくちづけをしてからさっていきました、くちづけをうけると、その男はよりいっそう顔をくずして子供みたいに高い声をだして笑いました、目がぎゅっとつぶれ、くちが横にひろがり、ほんとうのむじゃきさそのもののようにその男は笑いました、俺はその男のうしろにずっとならんでいたから、その男が看護婦たちに、看護婦たちだけでなく、おなじ行列にならびつづけていた兵士たちにいかに愛されていたかということがよくわかりました、病院の階段や廊下でとなりあってねむり、朝、目を覚ましたとき、その男はたいていの場合ほかの兵士の顔をのぞきこんでいました、だから、兵士たちが目をさましたとき、たまたま目のまえにその男の顔面が浮かんでいることもありました、いつも不機嫌がちな兵士たちですらその男にたいしては怒りは見せませんでした、不愉快そうな顔をすることもありませんでした、そればかりかただ目をすこしだけまるくしてくちもとに笑みを浮かべおはようなんて言っていました、そしてその男もにこやかに笑っておはようと言いました、俺には、その光景がどことなくぶきみで、けれど、たとえようもなくおだやかなものに思えました。マタイは吸いくちが濡れてふやけた煙草を床に放り、裸足の足のうらでつよくおしてつぶした。靴子たちはその吸いがらが踏まれ、ねじられ、そしたひらたくなっていく光景を想像した。そしてマタイが実際に足を持ちあげたとき、靴子たちが想像していたものとまったくおなじ吸いがらがそこにあらわれた。そのいちれんの動作のなかでもマタイの瞳は靴子たちに向かってかためられたままだった。靴子たちは吸いがらを、そしてマタイの裸足のその皮膚のいちいちを見つめながらもマタイの視線を執拗に浴びつづけていた。まわりの連中がねむっているその様子を見つめているとき、その男は不思議そうな顔をしていました、とマタイは言った。その男にはほとんど表情の種類はありませんでした、笑っている顔、とてもひどく笑っている顔、笑っていない顔、そして笑うのに失敗した顔、そのくらいしかありませんでした、けれど、それでも微妙な眉毛のよりかたでその男がいまどう感じているかはわかりました、その男はねむっている連中をながめて不思議に思っているにちがいありませんでした、このひとはいったいいまなにをしているんだろう、どうしてこのひとはずっと目をとじているんだろう、どうして何時間もろくに動かないままでいれるんだろう、その男はそんなふうに思っているように見えました、男は頭に弾丸をうけてからは1度もねむってはいないんだと俺は看護婦から聞きました、実際、そうだったかもしれません、俺は夜はねむってしまっていたからわからなかったけれど、俺がねむりにつくときにはいつもその男はおきていました、俺がねむりから目ざめたときもその男はおきていました、夜中、ふとした瞬間に目がさめて薄暗い光が呪いのようにあたりをさまよっている病院を見わたしたときも、その男は廊下のうえをたったひとりのうつろな群衆のように歩きまわりながら床でぐっすりとねむっている兵士たちの顔をひとつひとつのぞきこんでは首をかしげていました、いったい、どういう要因でその男がずっとねむらないままでへいきでいることができたのか、俺にはまるでわかりませんでした、ほかの兵士たちは、あいつは脳味噌をつかっていないから疲れることがなく、ねむる必要もないんだ、と言っていました、あいつは夢をおそれているんだと言う兵士もいました、夢のなかの戦場であいつはもう何度も殺されている、ねむるたびに殺されるんだ、だったらねむらないほうがいい、たとえ死んだようにしか生きられなくなっていくとしても、それでもねむらないほうがいい、あいつはそう思ったんだ、でも、俺たちのなかにそれがまちがいだとはっきりと言うことができるやつはいないよ、その兵士はそう言って俺に笑いかけました、おなじような話を俺はなんども聞きました、そのたびに俺はそうかと納得し、そのいくつかあとの瞬間、そんなはずがないとうちけしました、けっきょく、それはその病院のなかのひとつの伝説のようなものでした、だれもがそれを信じているかのように語り、じつのところだれもがそれを信じてなんていませんでした、兵士たちが語る話にはそのすべてにすこしだけの軽蔑とあわれみがこめられていました、その軽蔑とあわれみはあの男に向けられているように俺には最初感じられ、そういった話を聞くことを不快に思ったこともありました、でも、それはけっきょくのところそうではありませんでした、その話にこめられた軽蔑やあわれみはその話をした兵士自身に向けられた軽蔑やあわれみで、そして男はそういった感情とふれあうこともなく行列にならびつづけ、そして夜な夜なほかの兵士のねむった顔をひとつひとつのぞきこみつづけていました。靴子の腕がゆっくりと上方に向けて動きはじめていた。譲と花びらは震えながら動きつづけるその腕をながめ、とてもかなしい顔をした。マタイの顔面が靴子の腕の先端についたいつつの指先にぐっと近づいてすこしだけそのかたちをくずし、花びらの指先が靴子のおなかの肉にふれてその場所をやさしくなではじめた。そして、それをきっかけにして靴子の腕はすこしずつさがりはじめ、やがてもともとその腕が占有していた空間にもとどおりぴったりとおさまった。弾丸に脳味噌のなかのほんとうにたいせつな器官を記憶ごとけずりとられ、男には記憶はほとんどありませんでした、とマタイは言った。男はあたらしいことも記憶できませんでした、頭のなかにいのこりつづけた弾丸が脳味噌のなかをかけめぐるたいせつな交換を阻害し、その男の記憶の形成を阻害していました、その男は話しかけたつぎの日にはもう俺のことをわすれていました、その男の記憶がたもたれる時間の長さは場合によってまちまちでした、短いときには一瞬でした、どんなに長くてもいちにちだけでした、夜中、ねむっているほかの兵士たちの顔をのぞきこみながらその男の頭のなかではちいさな炎があがっていました、その炎が、灯火にも似た美しい炎が、夜の静けさのなかでちりちりと男の記憶を焼ききっていました、どんなかけらも手がかりものこらないように、そのすべてを、執拗に焼ききっていました、男は自分が愛していた女のことすらもわすれていました、その男も俺とおなじように恋人に電話をかけるためだけに電話待ちの行列にならんでいました、それなのに、男は自分がいったいだれに電話をかけようとしているのかを知りませんでした、そればかりか、男は自分がいったいなんのためにその行列にならんでいるのかすら知りませんでした、毎日、夜があけて朝がやってくるたび、まわりの兵士たちがおまえは電話をかけるためにこの行列にならんでいるんだと男に教えていました、男は恋人の写真を持っていました、モノクロの写真で、ぼろぼろになっていました、すっかり色褪せ、ところどころに白いすりきれがはいっていました、写真のうらには女のものだろう電話番号が手書きの文字で書かれてありました、男はその写真をごみとまちがえて何度も捨てていました、そのたびにまわりの兵士たちがそれをひろいあげて男につよくにぎらせました、しっかりしろよ、とまわりの兵士たちは言いました、この写真はおまえにとってとてもたいせつなものだ、この写真にうつっている女はおまえにとっていちばんたいせつなひとだ、おまえはこの女に電話をかけるためにこんなくそみたいな行列にならんでいるんだよ、あと2、3日のしんぼうだ、そうすればおまえは電話のまえに到達するだろう、それからおまえはここに書かれた電話番号へ電話をかけ、相手に向かって愛していると言うんだ、それがおまえの求めていることなんだよ、そうだ、思いだした、と男は言いました、僕は彼女を愛していて、彼女に僕がぶじでもうすぐ帰ることができるということをつたえたいと思ってこの行列にならびはじめたんだ、そう言って男はにっこり笑いました、でも、俺もまわりの兵士たちもほんとうは気づいていました、その写真の女は有名な映画女優でした、だから、その写真の女がその男の恋人であるはずがありませんでした、その男はただその映画女優が好きだっただけで、その写真のうらに書かれた電話番号もまったくべつのにんげんの電話番号にちがいありませんでした、だれかからある電話番号を教えられたとき、メモがわりにその写真のうらにその電話番号を書いただけだと俺たちは思っていました、それでも行列は進んでいきました、そして、その男が電話に近づいていくにつれてまわりの兵士たちは焦り、恐怖におびえていきました、兵士たちは変わらずにその男に向かっておまえはこの女に電話をかけるんだと言いつづけていました、でも、その顔はだんだんひきつっていきました、その男は兵士たちの顔のひきつりに気づきもしませんでした、とうとう、男にほんとうのことを教えたほうがいい、という主張をはじめた兵士たちがいました、彼らは真実派と呼ばれました、真実派の兵士たちはうそを教えつづける兵士たちを批難しはじめました、おまえたちはただあの男を利用しているだけだ、おまえたちはおまえたちの希望を自分勝手な欲望であの男におしつけているだけだ、それはちがう、と虚偽派の兵士たちは言いました、俺たちはよかれと思ってあの男にうそをついてきたんだ、いまさらあの男にほんとうのことを教えてどうしようと言うんだ、その女はおまえにとって関係のないにんげんだ、その女はおまえのことを知りもしない、おまえ個人のことなんてひとかけらも心配していない、あの男にそれを言うことがどれだけの絶望をあたえるかおまえたちは想像すらできないのか、今度は真実派の兵士たちが反論しました、おまえたちは偽善者だ、そうやってうそにうそをかさねて、あの男はもう明日か明後日にはほんとうにあの電話番号に電話をかけてしまうだろう、そのときにあの男がうける言葉を想像してみろよ、あなたはだれ、と電話の向こうのにんげんは言うだろう、そのときあの男がどれだけ傷ついてしまうかを想像してみろよ、そのときあの男がうけてしまう傷は俺たちとおまえたちが日々つきつづけたうそをふくんだ傷なんだ、俺たちとおまえたちがうそをつきつづけることで俺たちとおまえたちは結果的にあの男がうけると確定している傷をより深く癒しがたいものにしていっているんだよ、虚偽派の兵士たちも興奮して言いかえしました、けれど、あの男がいずれうけるだろう傷の深さをはかることはだれにもできない、それに、これはおまえたちもみとめざるをえないことだろうが、あの男が、頭に弾丸を埋めこまれていつ死ぬかわからないあの男が記憶を失いながらも愛する女に電話をかけるためにこの冗談みたいな行列にならびつづけているそのことが俺たちに希望をあたえているんだ、その光景の美しさが俺たちを感動させつづけているんだ、だから、あの男に真実を告げることは俺たちの希望を奪いとってしまうことでもあるんだよ、たしかに俺たちは俺たちの希望をあの男におしつけているだけなのかもしれない、そのことじたいは醜いことなのかもしれない、許さることではないのかもしれない、でも俺たちはすでにそれをやってしまっているんだ、そして、この行列にならんでいる兵士たちにとってその希望は欠かせないものだ、それをいまになって怖じ気づいてあの男に真実を告げるだなんて、それこそ醜いことではないか、真実派の兵士たちはそれはちがうと言いました、たったひとりの男に俺たちの希望のすべてをおしつけることこそがなによりも醜いことだ、いまになって怖じ気づいて真実を告げることは恥辱ではない、そればかりか、これは俺たちがまみれつづけてきた恥辱から俺たちを救いだす最後の機会かもしれないんだよ、それに、だいいち、あの電話番号の向こう側にいるにんげんがあの男にとってたいせつなにんげんではないという保証はどこにもない、たしかにそのとき電話の向こうにいるにんげんはあの映画女優ではないだろう、けれど、映画女優ではないにしろ、そのにんげんがあの男の恋人やあの男のたいせつなひとであるという可能性はじゅうぶんにあるだろう、真実派の兵士たちがそう言うと、それはそうかもしれないが、と虚偽派の兵士たちも言いよどみました、けっきょくのところ、すぐに事態が動くということはありませんでした、真実派の兵士たちにしても、くちではそうは言いいながら男におまえが電話をかけようとしている相手はその写真の女ではないと言いだすことをずっとためらっていました、そもそもの問題は、その電話番号がいったいだれの電話番号なのか、そしてその電話番号の向こうにいるにんげんがあの男といったいどんな関係にあるのか、それをほんとうにはだれも知らないということでした、真実派の兵士たちも虚偽派の兵士たちも日々の論争につかれ、ぐったりとしていきました、目がうつろになり、頬がこけ、顔は青白さをましていきました、なかには倒れて寝台にもどされていく兵士たちもあらわれました、そして、ついに明日の朝にはその男が電話のまえにたどりつくだろうという夜がやってきました、真実派と虚偽派は話しあいをかさね、あの男が持っている写真のうらに書かれた電話番号に今夜のうちに電話をかけようと決めました、そして、もしも電話の向こうにいるにんげんがあの男にとってたいせつなひとではなかった場合には、あの男に写真のことも電話のことも思いださせるのはやめよう、明日の朝になればあの男は写真のことも電話のこともわすれてしまっているだろう、そうしたら俺たちはおまえはまちがってこの行列にまぎれこんでしまっただけだからはやく自分の寝台にもどって安静にしているんだとあの男に言ってやろう、それで俺たちの物語も終わりにしよう、兵士たちはそう結論をくだしました、その場所につどっていた俺をふくめたすべての兵士たちがかたかたとがらくた機械のようにうなずきました、虚偽派の議長があの男のポケットから写真を盗みとって電話番号をうつしとり、真実派の議長が電話をかけました、おおくの兵士たちがじゅんばんをみだしながら電話のまわりにつどっていました、ただひとりあの男だけが俺たちがなにをやっているのかわからずに電話を中心に幾重にもかさなった半円のいちばんうしろで声をあげずに笑っていました、もしもし、電話にでたのは女でした、おまえはだれだ、と真実派の議長が言いました、女はすこしだけ沈黙したあと、その映画女優の名前を名のりました、真実派の議長が息をのむのがわかりました、俺の脳味噌に血がのぼり、それから一気にひいていきました、身体中の血がすべてぬかれていくような感覚でした、俺は俺たちがたたいてはいけない扉をたたいてしまったような気持ちを抱きました、そして、その場にいた兵士たちのすべてが俺とおなじ気持ちを抱きました、真実派の議長の顔面は蒼白になり、受話器を持つ手が震えはじめました、おまえは映画女優か、そうだけれど、おまえはおまえがその映画女優である証拠を俺にしめすことができるか、ねえ、わたしはいま気持ちがわるいんだけれど、あなたみたいなひとと話していると、わたしはこの電話機がおおきな虫のように思えてしまってたまらないんだ、いいから黙って答えろ、ねえ、いま何時なのかあなたは理解しているのかな、わたしはあなたみたいな変態と会話をするためにこんな時間までおきていたわけじゃない、おまえが映画女優でないならそれでいいんだ、それなら俺も安心してねむることができる、あなたにわたしが映画女優だということを知らしめるつもりはまるでないよ、わたしはわたしがわたしだということを知っている、それに、わたしはわたしがわたしだという証拠を求めるひとはきらいなんだよ、証拠なんてなくてもわたしはわたしだということをちゃんと知っているから、それでいい、おまえは××という男を知っているか、真実派の議長は男の名前を言いました、知らない、と映画女優は答えました、よく思いだすんだ、おまえはその男にこの電話番号を教えたんだ、わたしが電話番号を教えた男はたぶんあなたがいままでたったひとことでも会話を交わしたことのあるにんげんの数より多いと思うよ、ふざけるな、まじめに答えるんだ、まじめに答えているよ、わたしが言ったことがまじめでないと思えるのなら、それはあなたがだれからも追いもとめられたことがないあわれなにんげんだからだよ、だれもあなたを求めない、あなたもだれも求めない、そんな程度のにんげんでしかないからあなたはへいきでわたしに頭のわるい質問を投げかけるんだ、殺すぞ、殺せばいい、そんなに殺したいのならいますぐわたしのもとへやってきてわたしの身体をさせばいい、そうすればあなたもすこしはだれかを追いもとめる気持ちがわかるかもしれない、ねえ、いったいどんな気持ちがするかわかるかな、いらいらしてしかたがない夜にあなたみたいな傲慢な男からの電話をうけて不毛でしかない会話を交わしている、こんなくだらない状況下におかれたわたしの気持ちがあなたにもかけらでもいいからわかるのかな、いいか、淫乱女、おまえは俺の質問におとなしく答えればいいんだ、おまえは××という男を知っているか、知らない、思いだせ、むりだよ、だって、知らないひとのことは思いだせるはずがないんだから、ねえ、それよりあなたはだれなんだろう、わたしはあなたのことも知らない、俺の名前なんてどうでもいい、いいか、おまえは俺がこれから言うことを黙って実行しろ、俺がいま言った男が明日おまえに電話をかける、そのときおまえははその男の恋人だというふりをするんだ、どうしてわたしがそんなことをしなくてはいけないんだろう、それに明日は都合がわるいんだよ、朝からずっと撮影だから電話にはでられない、その男はいま死にかけているんだよ、と真実派の議長は言いました、男の脳味噌のなかには弾丸が埋まっている、戦争にいったんだよ、おまえみたいなにんげんがいる国を守るために戦争にいって脳味噌のなかに弾丸を埋めこまれて帰されてきたんだよ、その男はいまは動いているけれどもう長くはない、なにかのきっかけで頭のなかの弾丸が動いて脳味噌のなかのほんとうにたいせつな器官を傷つけたらもうそれで終わりだ、もう帰れないんだ、この病院のなかで寝台のうえでただ死んでいくだけだ、ねえ、わたしが明日撮影にいかないだけで何人の関係者に迷惑がかかるかあなたはわかっていないんだよ、それに、いくらわたしが女優だからって、わたしはほんとうに彼のことをなんにも知らないなんだから、恋人のふりなんかむりに決まっているよ、その男には記憶がない、脳味噌のなかの弾丸がその男の記憶のほとんどすべてを殺してしまった、ものもうまく考えられない、そんな男がおまえの電話番号つきの写真を持っておまえにもうすぐ帰るからと電話をかけるために何日も何日も電話待ちの行列にならんでいるんだよ、話はてきとうにあわせればいい、おまえはその男がなにを言ってもてきとうにごまかして、愛している、はやく帰ってきて、そうくりかえせばいい、それだけだ、ねえ、むりだよ、わたしはほんとうに、黙れ、明日の撮影はすべてとりけせ、おまえは明日の朝から夜まで電話のまえにじっと座って電話が鳴るのを待っているんだ、ほかの電話がかかってきたらいそがしいからと言ってすぐに切れ、その男が電話をかけたらすぐにとれ、そして男の名前を呼べ、××だ、男の名前をまちがえるな、××だ、いま紙に書け、愛している、はやく帰ってきて、××、必要な言葉はそのみっつだけだ、そのみっつの言葉だけをただただ白痴のようにならべたてろ、ねえ、わたし、やっぱりむりだよ、そんなことはできない、頼むよ、と真実派の議長は言いました、彼は泣いていました、おまえだけなんだよ、おまえだけがあいつの、俺たちの希望のすべてなんだよ、あいつは死ぬんだよ、おまえのいる国を、おまえを守ろうとしてあいつは戦争にいって、そしてただひとりも殺さないままに頭を撃たれてもどってきたんだよ、あいつはもうすぐ死ぬんだ、死ぬんだよ、そんなのあんまりじゃないか、あいつはなんのために戦争にいったんだよ、なんのために頭を撃たれたんだよ、あいつが戦争にいった意味はどうなるんだよ、敵兵の弾丸ひとつ減らすためにあいつは戦争にいったのか、ちがうだろう、あいつはおまえのいる国を、おまえを守るために戦争にいったんだよ、もう俺たちの声はあいつにはとどかないんだ、俺たちの声はあいつの記憶を呼びさましはしない、俺たちの声はあいつの身体のなかにはいりこんであいつの頭のなかにめりこんだままの弾丸のなかに吸いこまれて消えてしまうんだよ、想像してみろよ、あいつの頭のなかにめりこんだままの弾丸を想像してみろよ、その弾丸はすべてのあたたかなものを吸いこんでしまうんだ、弾丸に吸いこまれた記憶や声は俺たちの宇宙のうらがわにいくんだ、真っ黒で静かなつめたい空間だよ、その空間のなかであいつの記憶や俺たちの声が爆散した惑星のかけらのようにうつろにただよっているんだ、あいつの記憶や俺たちの声はときどき青白い光を発しながらかぼそいさけびをあげているんだ、けれどその光もそのさけびもだれの目にもだれの耳にもとどかない、あいつ自身の目と耳にさえも、俺は、俺はこわいんだよ、その空間はほうっておいてはいけないんだよ、その空間はそのうちに俺たちの宇宙に復讐しにやってくるような気がするんだ、その空間は俺たちが気づかないうちに俺たちの宇宙を浸食して俺たちを食いつくすんだ、俺たちのすべてが俺たちが気づかないあいだにその空間をただよいはじめてしまうんだよ、だから、俺たちはその空間を消しさってしまわなければいけない、その空間を消しさるたったひとつのやりかたがあいつを救うことなんだよ、そしてあいつを救うことができるのはあんただけなんだよ、頼むよ、あいつを、あいつを救ってくれよ、あいつを救ってやってくれよ、真実派の議長の涙は彼がひとつ声をあげるごとにやさしい波動が動植物の心臓を揺さぶるようなやりかたでまわりの兵士たちにつたわっていきました、議長のとなりにいた兵士たちの頬に涙がひとすじつたい、そのひとすじのあとにはまたとなりの兵士たちの頬に涙がつたいました、涙は一定の感覚をおいて連鎖してつぎつぎとつたわっていきました、ある瞬間に流れる涙はひとつだけでした、はじめに涙を流した真実派の議長がふたつめの涙を流したのはそのまわりにいた兵士のすべての頬にひととおり涙が流れたあとでした、まるで、けっして自分では泣くことができないとてもおおきなひとつだけの存在が俺たちの身体のひとつひとつをつかって泣いているみたいに思えました、映画女優は真実派の議長がしゃべっているあいだずっと黙りこんでいました、真実派の議長がしゃべりおわったあともまだ黙りこんでいました、薄皮の沈黙が支配しているあいだも俺たちの頬のひとつひとつを涙がつたいつづけていました、遠くで看護婦が走る足音が聞こえ、角部屋の個室のなかでは何人かの兵士たちがひっそりと死んでいきました、偽善だってわかっているんだよ、と真実派の議長はつづけました、あいつを救ってやってくれと俺が言っているのはけっきょくのところ俺たちみんながあいつの弾丸のうらがわにひろがるさみしい宇宙をこわがっているからなんだよ、きっとそれだけなんだ、そのとき、電話の向こうで映画女優がなにかを言うのが聞こえました、それはかぼそい吐息にすぎない、声にもならない声でした、けれど、俺たちの耳にははっきりと聞こえました、真実派の議長にもそれは聞こえていたはずでした、でも、真実派の議長はそれが聞こえなかったように話をつづけました、俺は、俺たちはただ俺たちの自己充足的な欲望にしたがっておまえにあいつを救ってくれと言っているだけだ、それはわかっている、でもそれは醜いことなのか、ほんとうにそうなのか、俺だってあいつを救うことと俺たちの欲望がぴったりと一致すればいいって思うよ、しんからあいつのために、あいつのためだけに俺はあんたにこういうことを言えたならばいいって思うよ、でもそれはむりなんだよ、だから俺たちは戦争をして、あいつは脳味噌に弾丸を撃ちこまれて帰ってきたんだよ、でもそれはもうおこってしまったことなんだ、とりかえしがつかないことなんだよ、だって、あいつは死んでしまうから、でも、俺たちは死にたくない、それにおまえだって死にたくないはずだろう、俺はもうこれ以上この場所たちをひどいことにはしたくないんだよ、わかるだろう、なあ、わかるだろう、わかってくれよ、それからまたしばらく沈黙がつづきました、涙を流した俺たちの身体はその熱に浮かされてあたたまっていきました、身体中が夏になったかのようでした、真実派の議長はその唇を大地にふれふしてくちづけをするかのようにつよく送話口におしつけていました、わかった、約束をする、やがて映画女優はそう言いました、ありがとう、と真実派の議長は言いました。その話のあいだに譲がねむりかけていることに靴子と花びらは気づいていた。ふたりの顔のすぐ左と右で譲の頭はひどくゆっくりしたにたれさがっていて、やがて見えない線にひっかかったようにぴくりと震え、またすぐに高速度で上昇した。ねむってはいけない、ねむったらわたしたちはたちどころに殺されてしまうから、と靴子と花びらはこころのなかでくりかえし思った。花びらが譲の肩に手をのばしかけ、その手のかすかな動きをマタイの視線が蛍のように追った。靴子がそっと手を動かして花びらの手をにぎった。そうやってにぎることで、靴子は花びらが譲に手をのばしたのではなくてただあてもなくだれかの手を求めたということにしてしまいたかった。花びらの手はあたたかく、そして震えていた。ふたりの頭のなかに牛乳にも似た、にぶく、それでいて濃い光が楕円のかたちで射しこむのがわかった。ふたりの脳味噌のなかに質量を持った白いかたまりがあらわれ、その重さでもってふたりの意識を吸いだしはじめていた。ふたりはあやうくそのなかへと身体ごともっていかれそうになった。目のまえが一瞬のうちに暗くなって、おそらくは幻聴だろう醜い鳥のさえずりをいくつか聞ききつづけ、そのあいだ、気を失ってしまわないようにふたりはおたがいの手をきつくにぎりあった。ふたりがそのとき感じとったのはふたりの頭のおくの広大な砂漠にひろがる無限に思えるほどの選択肢だった。わたしたちはずっとまちがえていたのかもしれないとふたりは思った。わたしたちはいまこの兵士のひとたちに殺されないために譲くんのねむりをさましてあげるべきか、そうすべきではないかを考えていたけれど、そうじゃないのかもしれない、わたしたちが生きのこるためにはこの豚のかたちをした兵士のひとの話ににこにことあいづちをうって、そしててきせつな瞬間に話をよりもりあげるための質問をさしいれていくべきなのかもしれない、あるいは、いまこの瞬間にたちあがって向こうの兵士のひとが床においている銃を手にとってふたりの兵士のひとを撃ち殺してしまうのがいちばんなのかもしれない、そうでない可能性だってある、わたしたちが生きのこるためにすべきことはこの兵士のひとに譲くんを殺させることかもしれない、隆春くんに譲くん、ふたりが殺されてしまえば、ちょうどその瞬間にこの兵士のひとは殺人や戦争に嫌気がさしてわたしたちを傷つけないで解放してくれるかもしれない、あるいはわたしたちはこの兵士のひとたちに金貨をさしだすべきなのかもしれない、ふたりが兵士として稼ぎ、そしてこれからも稼いでいくだろう金貨の累計よりもたくさんの量の金貨をふたりに約束すべきなのかもしれない、たしかにわたしたちはいまそんなにたくさんの金貨を持っているわけではないけれど、わたしたちが生きのこるために必要であるならばわたしたちはわたしたちの親から搾取することだってできるだろう、もしもこの兵士のひとたちがわたしたちに銃を貸してくれるのならそれはもっとたやすくなるだろう、けれど、それはほんとうだろうか、わたしたちふたりがそうまでして生きたいと思っているそのことはほんとうにほんとうだろうか、そうではない可能性はないだろうか、死や暴力をまえにしてわたしたちはそれらから身をまもりたいとこころから思っているだろうか、わたしたちはわたしたちが生まれた瞬間からいまのこの瞬間までほんとうに生きているべきだったんだろうか、わたしたちはこの惑星に生まれおちたそのつぎの瞬間にはわたしたちの首を締めてわたしたちを殺してしまうべきだったんじゃないだろうか、それはかなわなかったけれど、それならせめて、いまこの瞬間にほんとうにはわたしたちは殺されるべきなんじゃないだろうか、いったいいつわたしたちはこの惑星のうえで生きていくことを許されたんだろうか、生まれたことそれじたいはそれを肯定するものではないんだろう、それなら、わたしたちはいったいいつあなたたちはこの惑星で生きていていいと言われただろうか、言われていないじゃないか、わたしたちはそんなことはだれからも言われてはいないじゃないか。ふたりはかなしいと思った。でも、それがその兵士のひとが目のまえにいることによってのみ発生しえたかなしさなのかどうかはわからなかった。マタイが右手をすっとのばし、ふといおや指とひとさし指で譲の頬の肉をつねった。指よりも薄い、白っぽい色をした肉がそのふたつの指先の狭間でふくれあがって譲の目がひらいた。マタイの唇のはしがあがっていた。笑っているはずなのに、あまりにも笑っているということがありありとわかってしまうありかただったからほんとうに笑っているのかどうかうまくわかることができなかった。マタイが手をはなしたとき、譲の頬にはさっきまでマタイがすね毛いじりをしていたときに彼の手についた湿ったすね毛がわずかな泥といっしょにへばりついていた。花びらが譲の頬に手をのばしてすね毛を指でつまみ、けれど、それを床に捨ててしまうことはできないで手のなかににぎりしめた。花びらに手をふれられたとき、譲はなかばねむりかけた意識のなかでその指先のつめたさとあまさがどういうかたちであれ死へのきっかけとなるかもしれないと思い、いっぽうで、マタイはそのすね毛をつけてしまったことが意図的ではなかったとはいえそれを頬からとりさったのが譲自身ではなく花びらだったことにすこしだけ興奮をした。花びらの小指と薬指のあいだからちぢれたすね毛がいっぽんだけ飛びだしていた。けっきょく、とマタイは言った。その若い男は電話をかけることなく死にました、俺たちが流した涙は俺たちの生命力まで奪ってしまったようで、俺たちはその夜ぐっすりねむりこんでいました、翌朝、俺たちがおきたとき、その男はだれの顔ものぞきこんでいませんでした、男は俺たちがならんでいたのとは反対側の廊下であおむけになって死んでいました、口から泡をふいていました、その泡の隙間をぬうようにして赤い血が線をたもったまま流れていました、その血は泡にまざらないで血としての形態をたもったまま泡の隙間を流れ、床に薄くちいさなたまりをつくっていました、俺たちはもう、だれも泣くことができませんでした、なかにはむりをして泣こうとしていた兵士もいました、けれど、俺たちはそれがむりだということを知っていました、俺たちが流すことができた涙はそのまえの深夜に電話のまわりで流したものがほんとうの最後でした、それからいままで、俺はほんとうに泣いたことはありません、胸がはりさけそうにかなしいときでも、俺はもう、泣くことができなくなりました。花びらはマタイのすね毛をにぎりこんだ手を背中にまわし、それからいくつかの指のはらでその毛のせんたんをなでつけていた。たよりない感触が指のはらの皮膚の敏感な部分を責めつづけていて、それだけがただもう見えない場所に追いやってしまったそのすね毛の存在を花びらにその瞬間瞬間に知らしめていた。でも、やがてその感覚も気がついたときにはなくなっていて、花びらにはわからなかったけれど、そのときそのすね毛は花びらの手からこぼれおちてほこりにまみれた床のうえに静かに落下していた。やがて、看護婦がやってきて男の死体を担架にのせてはこんでいきました、とマタイは言った。弾丸はどうなるんだ、とだれかが看護婦に訊きました、とりだしますよ、と看護婦は言いました、このまま火葬をしたら炉を痛めてしまうから、午前中いっぱい俺たちは動けませんでした、だれもが座りこんで頭を抱えこんでいました、その男の死に絶望しているようにも、もう自分が泣けない身体になってしまったことに絶望しているようにも見えました、俺もその場所でおなじように座りこんでいました、俺がなにをどう考えていたのか、俺自身にもよくわかりませんでした、俺の頭のなかににぶい白色がひろがっていきました、そして俺にはその過程を精密に感じとることができていました、その白色が俺の脳味噌のどの部分を浸食し、どの記憶を、どの感情をおおい、そして食いつくしていくのか、俺には手にとるようにわかりました、これが弾丸のうらがわにひろがっている俺たちが知っているものとはちがうまたべつの宇宙なんだ、と俺は理解しました、それはほんとうに、ほんとうに、さみしいものでした、まだふれていないうちはあたたかそうにも見えるのに、実際に脳味噌やそのなかの記憶や感情にふれられるとそれがつめたいということがよくわかりました、もっとも、それは氷水のようにしんとつめたいわけではなくて、なまぬるさをたもったままのつめたさでした、そのなまぬるさのなかにたしかにたっぷりとしたつめたさがありました、俺の記憶や感情はそのつめたさによって凍てつき、それからもう、動きだすことはありませんでした。今度は花びらが譲の頬の肉をつまんで譲の目をひらかせた。おまえ、とマタイは花びらを指さした。携帯電話をだせ。花びらは黙って携帯電話をポケットからとりだした。床におけ。花びらはそうした。ほかのふたりの携帯電話もおまえがポケットからとりだすんだ。花びらは靴子と譲のポケットをまさぐって携帯電話をとりだし、花びらの携帯電話とならべておいた。やがて、俺が電話をかけるじゅんばんがやってきた、とマタイは言った。俺にはそのとき祖国にのこしてきた恋人がいた、俺はその恋人に電話をかけるためにずっと電話待ちの行列にならんできた、でも、ついにじゅんばんがまわってきたときに俺がまわした電話番号は俺の恋人へとつながる電話番号ではなかった、俺がまわした電話番号はあの男が持っていた写真のうらがわに書きこまれていた電話番号だった、俺は俺がその電話番号をまわしはじめる直前までたしかに俺の恋人に電話をかけるつもりだった、でも俺はそれをしなかった、電話番号をまわしはじめたそのはじめの瞬間に俺はいったいなにをやっているんだろうと思った、けれど、その電話番号をまわしているあいだに俺の頭のなかに実体のある感触としてあの映画女優の姿が浮かんできた、赤い絨毯が敷かれたひろい部屋でいままさに映画女優はあの男からの電話を待っていた、彼女は身体を清潔に浄めてからバスローブをまとい、黒光りするソファのうえに座っていた、金色の電話器の横にはこまかな書きこみが虫のようにびっしりとわいている台本と赤ワインがはいったグラスがおかれていた、おおきな窓はその中心ですこしだけひらかれ、そこからはいりこんだ風によって薄いカーテンがささやかに揺れ、その中心にそのあたりいったいに降りそそぐ光をいっしんにうけとめていた、彼女は台本を読んでいるふりをしていた、目は文字を追っているけれど、彼女はこれからかかってくるだろう電話のことばかりを考えていた、彼女は自分が台本をきちんと読んでいないということを意識しながらそれでも台本を読むふりをつづけ、それに疲れるとときどき電話のかたちをじっとながめたり窓のそとをながめたりした、窓のそとにはよく手いれをされた春先の芝生がひろがっていた、ひとつひとつの先端が針のようにとがり、虫たちのうごめきにあわせてときどきこまかく揺れていた、芝生のまんなかに赤色のバケツとおなじ色をした長靴が落ちていた、どちらもだれのものなのか彼女も知らなかった、この庭にはいりこんで遊んでいった子供たちがいるのかもしれない、もしもいつかその子供たちがバケツと長靴をとりにきたならば彼女はにっこりと笑ってそれらを返してあげたかった、でも、そのいっぽうで彼女はそのバケツと長靴が子供たちが持ちこんだものではないとも理解していた、庭のさきは森になっていた、樹々のかさなりあう範囲だけが濃い黒色に塗りつぶされ、光の角度のうつりかわりによって濃い黒色がゆっくりとけれど確実に移動していた、彼女はその濃い黒色そのものだけを見つめていたとしても濃い黒色がうつりかわるその瞬間だけはけっしてとらえられないということを深いありかたで理解していたけれど、その森を総体として見つめることに成功したことはいちどもなかった、彼女は金色の電話機の横におかれたワイングラスを手にとり、なかの赤ワインを飲もうとしてグラスをかたむけた、赤ワインはやわらかな固体のようにゆっくりとそのかたちを変え、グラスの表面を這うように進み、彼女の唇に到達しようとした、けれど、唇に到着する直前で彼女によってグラスがもとのかたむきにもどされ、赤ワインはさっきまでのかたちをわすれてしまったかのようにもとのかたちにもどった、その表面にさっきまでは浮いていなかったはずの羽虫が浮いていた、彼女は左手でグラスを持ったまま右手の指先を赤ワインの表面になでつけてその羽虫をすくいとった、羽虫の身体の一部はばらばらになり、彼女の指のはらに薄色となった赤ワインとともにへばりついた、けれど、よく見るとそれは羽虫ではなく文字だった、彼女はグラスを電話機の横にもどしてさっきまで見ていた台本に目をやった、でも、そのどこからも文字は欠けていなかった、まえのページ、うしろのページをめくって欠けた文字を探しだそうとしても、台本も、彼女の書きこみも、そのどの部分も欠けているようには見えなかった、彼女はあきらめてその文字がへばりついたままの指のはらを電話機の表面につよくおしつけた、それから、いくつかの時間が流れた、彼女が指をはなしたとき、文字は彼女の指のはらから電話機の表面に移動していた、そして文字はさっきよりもよりむごたらしいかたちでばらばらになっていた、触手や羽の一部のように見えていた部分もあたらしいちいさな文字となっていて、それはもはやひとつの文字ではなく、いくつかの複合された文字になりかわっていた、そして、その文字のうしろに彼女の指紋がぺたりとのこされていた、指紋は薄い白さをのこしているように見えた、けれど、その白さが金色の電話機を下地にしての見せかけの白さなのか、本質的な白さをやどしているのか、彼女にはわからなかった、指紋の表面を赤ワインがおおっていたけれど、量的な問題によって赤ワインの赤はもう溶けかけてただ液体の周縁をわずかに色づけているにすぎなかった、かなしいと彼女は思った、そう思ってみるとたしかに彼女はいまかなしい気持ちになっているような気がした、そうではなく、生まれてからいままでずっとかなしい気持ちを抱きつづけたまますごしてきたような気がした、彼女の思いかえすどの過去のどの感情にもその瞬間の彼女のかなしみが浸食し、うれしさやしあわせでさえもその表面に薄皮のかなしみをはりつけているように感じられた、彼女はどうしてその過去の瞬間においてそのときのかなしみを感じとることができなかったんだろうと思った、でも同時に、自分が過去のうれしさやしあわせといまこの瞬間のかなしみを混同していることに気づいてもいた、それでも、彼女がうれしさやしあわせの表面にひろがりきったかなしみを指でつまみとっていままでだれも知らなかったやりかたでそれをいつくしみたいと思ったことは彼女のほんとうだった、そのとき、電話が鳴りひびいた、彼女が記憶していた電話の音よりもずっとうつろでいて静かな音だった、彼女の電話が鳴ったのは俺が彼女の電話番号をまわしおえてからほんとうにすぐのことだった、そのとき、俺は俺が彼女を救いたがっていることにすでに気づいていた、俺は彼女を救わなくてはいけないと思っていた、いまこの瞬間に、もう死んでしまった男からの電話をその男が死んでしまったことすら知らないで待ちつづけているその女を、あるいは、自分が撮影にいかないだけで何人のにんげんに迷惑がかかるかということをはじめて話すにんげんにたいして言えてしまうようなその女を、俺は救わなくてはいけなかった、それは、あるいはあの男を救おうとして救えなかったことのたんじゅんな代償としてあったのかもしれない、けれど、俺はそのときそれならそれでかまわないとすら思っていた、けっきょくはどんなにんげんにだって救わないよりも救ったほうがほんのすこしだけまともなことなんだと思った、でも、けっきょく俺の電話は彼女のもとへはつながらなかった、この電話番号は現在つかわれておりませんと機械的な声がくりかえすばかりだった、逃げたんだと俺は思った、でも怒りは覚えなかった、俺が感じたのはわざわざ電話番号をつかえなくしてまであの男からの電話を彼女が拒否していることについてのむなしさがいりまじったかなしみだった、俺はあるいは救いを必要としているのはあの男ではなくて彼女のほうだったのかもしれないと思った、真実派の議長は彼女にあんなことを頼むべきではなかったのかもしれないと思った、彼女に頼むべきだったのは彼女のほうからあの男に電話をしてくれということだったのかもしれないと思った、それが、そのことだけがあの男と彼女、あるいはそのとき電話待ちの行列をかたちづくっていたすべての兵士たちを救うことにつながっていたのかもしれないと思った、でも、もうすべては手遅れだった、俺の頭のなかの光景のなかで、彼女は何度めかの電話の響きをやりすごしてからようやく受話器をとろうとしていた、その手はかすかに震え、指のいっぽんいっぽんから目に見えない糸がすこしずつぬけおちていくようだった、彼女は受話器をとった、もしもし、と彼女は言った、もしもし、俺だよ、XXだよ、と俺は言った、うん、と彼女は言った、俺、もうすぐ帰れるんだよ、戦争には負けたけれど、俺はちゃんと生きて帰ってくることができたんだよ、いまは病院にいる、まだはっきりとしたことは決まっていないけれど、俺はもうすぐ帰るから、帰ったらすぐにおまえのところにいくから、待っていてくれよ、待っている、と彼女は言った、わたし、ずっと待っている、あなたが帰ってくるのを、ずっとずっと待っているから、けれど、女の声はどこかまちがっていた、それは映画女優の声ではなく、俺のほんとうの恋人の声だった、そして俺は俺のまちがいに俺が気づいてしまわないうちにすばやく受話器をおいた。マタイがたちあがったことで、さんにんはマタイの話が終わったことを知った。そして、さんにんがマタイがたちがったことがわかったのはさんにんがそれぞれの瞬間にそれぞれの目をひらいたからだった。最初に目をひらいたのは花びらで、その次が靴子で、最後が譲だった。譲はずっと目をつぶりつづけていたらまたねむりこんでしまうかと思ったけれど、意識的に目をとじているほうが目をひらいているときとくらべてずっとたやすくおきつづけていることができていた。マタイが足をさんかいあげ、その足をさんかいおろした。そのたびにひとつずつ携帯電話が壊されていった。マタイの足のうらにはマタイが携帯電話からあふれた羽虫の身体のかけらといっぽんの煙草がへしゃげてはりついていて、さんにんはそれを見つめていた。
 マルコとルカが本を抱えてもどってきた。そして兵士たちは隆春の死体を焼いて食べはじめた。ルカはヨハネにほかにだれもいませんでしたと言った。それに、食べものもありませんでしたよ。マルコが教室の中央に本をおいてマッチで火をつけ、マタイが隆春の身体をこまかくきりわけていた。けれど、僕もマルコさんもほかにひとがいないかどうかをおもな目的として探していたから、ほんとうに食べものがなかったかどうかはわかりませんよ、とルカは言った。ぜったいにひとがはいれないだろうこまかい場所まですべて調べきったわけじゃないから、もしかしたらこの校舎のなかに食べものはあるのかもしれません、必要なら、今度は僕がひとりで食べものを探してきましょうか、僕は今日はまだあんまり疲れていないから、だいじょうぶですよ、校舎のなかはひろいけれど、さっき、僕とマルコさんが調べたところと調べていないところはすべて覚えているから、さっきよりも効率的に調べることができると思うんです、それに、ほかにひとがいないことは確認できたから、ひとりでいったとしてもなにも危険はないと思うんです。いいから黙ってマタイを手伝っていろよ、とヨハネが言った。マタイは隆春の手の指をきりとってならべ、長い銀色のくしに10本まとめてつきさして火にかざしていた。それから服を脱がせておなかやおしりやふとももの部分と心臓のいくつかもきりわけ、それをルカがくしにさしはじめた。ヨハネは炎のそばに座りこんで炎の中心部と周縁を交互にを見つめたり、くしにさされては炎にかざされていく隆春の部分をじゅんばんに見つめたりしていた。炎はヨハネの顔面のはんぶんを照らし、その瞳にもうつりこんで瞳のなかの水分のありかたを浮きたたせていた。マルコは窓際にたって夕暮れの終わりを見つめていた。風はすこしだけ夜の湿り気をおびはじめていて、靴子と花びらと譲はむきだしの腕にすこしだけ寒さを感じていた。鴉の羽音をたててつよくはためきはじめた薄黄色のカーテンは薄暗さに浸されてすこしだけちいさくなったように見え、ただ先端だけが暗く、炎に照らされて光る中心に近い部分だけがカーテンのもとの色をうつりかわりをともないながらもたもっていた。教室のすみたちは薄暗闇色に変わりつづけ、時間の経過とともにその色の密度はすこしずつましていった。窓からそとをながめているマルコの瞳には遠い街なみの果てに沈んでいく太陽のいちばん上の部分だけがかろうじて見えていた。太陽は蜜色にすっかり染めかえられていて、その前面にひろがり、そして、ひろがりつつある街の屋根と窓硝子をそれとわからないやりかたで照らしだしていた。校庭を足のないいっぴきの犬がよたよたと歩き、そのまんなかでちからつきて倒れ、溶けていった。校庭のすぐわきをとおる歩道のうえを顔のない黒い老人が顔のない黒い子供の手をひいて歩いていた。老人と子供はマルコが見ているあいだずっと歩きつづけていたけれど、いつまでたってもおなじせまい範囲のなかにとどまっているように見えた。街宣車が過去の戦争の話をしながら老人と子供のわきをゆっくりととおりすぎて消えていった。歩道は微細な振動をつづけていたけれど、老人と子供はその揺れに気づくことなくその道をまっすぐに歩きつづけていた。太陽はまだしずみきってはいなかった。隆春の部分たちと本たちがふきだしていく煙が窓のほうにつどっい、マルコはすこしだけ目をぬぐってから焚き火のそばにもどった。炎にさらされた隆春の部分たちは桃色になってふくらんでいて、そして、もっとこまかな部分にまだらに黒色の焦げができたあたりで炎から遠ざけられて兵士たちのくちのなかにはこばれていった。ヨハネはゆるくなった指のつめをぬきとってから指の第1関節までをくちにふくんでくちゃくちゃと噛みはじめた。ヨハネの唇からはみでている指のつけねの部分にそっと唾液がたれおち、唇のあいだからはかぼそい湯気がふきだしていた。ヨハネの唇から指がぬけだしてきたときには第1関節からさきはほとんど骨だけになっていた。骨は唾液で濡れて光り、こまかな食べのこしと繊維、そして魂の一部がわずかにまとわりついていた。マタイとマルコが火のまわりに集まって隆春のそれぞれの部分を食べはじめると、最後にルカが隆春の身体のまだきりわけられていない部分に服をかぶせて火のかたわらに座った。隆春が服をかぶせられると身体の陰になった指先の部分はほんとうの黒色になって、そのときその教室のすべてのにんげんのどの位置からもはっきりと見えなくなった。その暗闇のなかで、隆春は指先以外の部分はどこもきりとられていない、ただ血が流れているだけのひとのようにすら見えた。靴子と花びらと譲は教室のすみから動かないままで、すこしだけの寒さを感じつづけていた。さんにんの目にはマルコの背面とヨハネとルカの横面とマタイの前面が見えていた。炎が揺れていくなかのある瞬間にだけ、さんにんのうちのだれかひとりがその炎のあたたかさのかけらを感じられたような気がしたけれど、さんにんのそれぞれがそれを感じられた気がした瞬間というのはばらばらで、そのばらばらさがさんにんの位置関係による差違によるものなのか、さんにんの感じかたの差違によるものなのか、そういうことだけはさんにんのうちのだれもがわかろうと思うことすらできなかった。あの子たちはかわいそうですよ、とルカが言った。それがどうしたんだよ、とマタイが言った。あの子たちはきっとおなかがすいていると思うんです、そうでなくたって僕たちみたいなにんげんにつかまえられてしまって精神的にすごい苦痛を感じていると思うんです、ちゃんとかまってあげないと死んでしまうかもしれませんよ。死んだら食べればいい。それはあんまりですよ、だって、あの子たちはなにもわるいことはしていないんですよ。おまえがあの子たちを気にかけるのはいいよ、めんどうを見たいのであれば見ればいい、けれど、あの子たちを気にかけないことで俺たちを非情だと思うのはやめろよ。マタイさん、すこしは僕にやさしくしてくれたっていいんじゃないですか、たしかに僕はこのなかではいちばん階級は低いですけれど、なんでもかんでも僕におしつけようとするのはやめてくださいよ、ずっとまえに手榴弾でサッカーをやったことがありますよね、僕はほんとうはすごくいやだったんです、だって、それはほんとうにあぶないことだったんですから、僕はずっとそう思っていて、わかっていて、だから、僕はほんとうはサッカーが得意でもっとうまく蹴ることができたんですけれど、僕はあのとき僕に手榴弾がまわってこないようにって思ってずっとめだたないふりをしていたんですよ、それで、手榴弾はけっきょく爆発をしたじゃないですか、あれで仲間がひとり死んで、そして、マタイさんは僕に中尉に知らせにいかせた、手榴弾でサッカーをやりたいって言ったのはマタイさんですよ、僕はそんなことはやりたくなかった、それに中尉のところにいくこともいやだった。わるかったよ、だって、俺がいくわけにもいかなかっただろう。どうしてですか、僕みたいな階級の低い兵士がいくほうがよっぽどおかしいですよ。だって、俺がいったらきっと中尉のまえで笑ってしまうから。笑わないですよ、だって、おかしなことはひとつもなかったじゃないですか。想像してみろよ、中尉のまえに深刻な顔をつくっていて、そして、うちの部隊のひとりが糞をしに森のなかにはいっていって地雷を踏んでしまいましたって言うことを想像してみろよ、俺にはむりだよ、ぜったいに笑ってしまうよ。それはいくらなんでもひどいですよ、あのひとも最初はそんなにやりたいと思っていたわけではなかったんだ、どちらかというといやがっていたじゃないですか。それは最初だけだよ、あいつが死んだのはあいつが手榴弾がそれでもなお爆弾だということをわすれて夢中で手榴弾を追いかけまわしていたからだよ、おまえも見ただろう、上半身裸になって、汗びっしょりになって子供みたいに手榴弾を追いかけまわしていたあいつの姿を、木漏れ陽があいつのむきだしの腕や背中を照らしてあいつの肌はきらきらと光っていた、あいつはそういうことに夢中になることができてしまうやつだったんだよ、なあ、俺はあいつはあの場所で死んでよかったと思うよ、ああいうやつがほんとうにはいちばん危険なんだよ。意味がわかりません。意味なんて考えるなよ、意味を考えていることがまちがっているんだよ、意味なんか考えたってなんにもなりはしないよ、なあ、俺はあいつをずっと危険なやつだと思っていたんだ。どこかですか、僕にはマタイさんのほうがずっとあぶないひとに見えます。俺はあぶなくないよ、だって、俺はほんとうにまともなにんげんなんだから、でも、おまえにはわからないかもしれないけれど、あのときあの場所にいた兵士のなかでまともなのは俺とマルコくらいだったと思うよ、だって、俺はきっとあのときあの場所で唯一このまま戦争が終わってくれればいいって考えていたんだから。そんなことはないですよ、僕だってまともですよ、マタイさんがいま言ったことくらい、だれだって、僕だってずっと考えていましたよ。おまえのはただの願望だよ。マタイさんのそれとなにがちがうんですか。ありかた、だよ。ヨハネは唇の横にたれながされた脂を拭いとり、それから指のはらについたそれを軍服の胸の部分になすりつけていた。刺繍された紋章は糸がほつれてぼろぼろになっていた。もうとれかけた糸くずはその先端のほうがよりいっそう濃くよごれていた。ヨハネはたちあがって隆春のもとに歩いていってナイフでその肉の部分をきりとり、銀色のくしにさしながらもときどき生のまま口にふくんでくちゃくちゃと噛んでいた。ほんとうにまともなにんげんは戦争が終わってくれればいいのにと思うならばなんらかの行為をおこすべきなんだよ、とマタイは言った。でも、おまえもほかの兵士たちもなにもしなかったじゃないか、交代で見張りにたち、休憩時間に岩のうえにねころがり、祖国や夢や女の話をして、それで戦争が終わればいいだなんて、そんなばかげた話はないよ、おまえたちがいくら願ったとしても戦争は終わらないよ、おまえたちが願っているあいだにあのとき俺たちがいた場所とはちがう戦場で俺たちの仲間や敵が死につづけていたんだ、つめたい星に照らされ、犬と鳥たちにその四肢を食いちらかされながらそれでもなお死につづけていたんだ、おまえたちがその死にたいしていったいなにを思い、なにを悼めたっていうんだよ、なにも思いはしなかったじゃないか、なにも悼めはしなかったじゃないか、なにかを願ったりなにかを祈ったりするのは勝手だよ、でも、おまえたちはただでなにかを願ったりなにかを祈ったりをしすぎているんだよ、願ったり祈ったりすることはただじゃないよ、おまえにはわからないかもしれないけれど、おまえたちがなにかを願ったりなにかを祈ったりするたびにおまえたちとはちがうにんげんがすこしずつ死んでいっているんだよ、おまえたちの願いや祈りのうらがわにはおまえたち以外のだれかの死がかならず存在しているんだよ、だからこその願いや祈りなんだよ、でもおまえたちはそれにまったく無自覚なままじゃないか、俺はときどきそういうことを考えると反吐がでそうになるよ、そんな考えで戦争が終わるはずがないじゃないか。戦争を終わらせるいちばんてっとりばやいやりかたを知っているか、とヨハネがくちをだした。ヨハネは隆春の部分がささったくしを両手に持ってマタイのかたわらまでもどってきていた。知りません、とルカは言った。まず世界中の戦場にいる兵士たちにひとつずつの拳銃と弾丸をわたす、そしてすべての兵士たちが新年の夜明けとともに銃口を自分のこめかみにあて脳味噌を撃ちぬくんだ。僕たちも死んでしまいますよ。そうだよ、けれど、てっとりばやい。僕はそれはいやです。どうして。だって、かなしいから。ルカは隆春の部分を唇につけてそっと口をひらきかけたけれど、口はほんのすこしだけしかひらかれないままだった。唇と唇のあいだから兵士たちのなかではいちばん白い歯がわずかにのぞいていて、その白さは目のまえの炎に照らされて溶けかけているように見えた。前歯のさきがすこしだけ欠け、その欠損の隙間から隆春の脂が糸をひいてのびていた。マタイは隆春の耳をこりこりとかじっていた。僕はその話を知っています、とルカは言った。僕はその光景を見たことがあるんです、いままで秘密にしていたけれど、僕は兵士になるまえは1羽の小鳥だったんです。ルカは唇の近くにあったくしをおろしてうつむき、そしてくしと隆春の部分を見つめた。僕は飛べるようになってすぐに群れからはぐれ、ずっとひとりでした、はじめはすぐに群れにもどれると思っていました、あるいは、もとの群れでなくても、またべつの群れに出会っていままでとおなじようにとはいかないまでもなんとかそこに溶けこめるだろうってへいきで思っていました、でも僕はけっきょくほかの群れとは出会えませんでした、群れだけでなく、ほかのたった1羽の鳥にも出会えませんでした、僕はかなしみにつつまれながら飛んでいました、かなしくてかなしくて、ずっと飛びつづけました、でも地表にひろがっているのは薄灰色の建物や広大な砂漠だけでした、それは僕にとって、どこにも、なんにもないのとおなじことでした、かなしかったけれど、青空と海は好きでした、ずっと飛んでいると、ときどき青空と海の境目が消失する瞬間がたしかにありました、波が空をすこしずつ溶かしているようで、とても美しい光景でした、そういうとき、いま空を飛んでいるのか、海のなかを泳いでいるのか、すぐにはわからなくなりました、それはもうどちらでもおなじだなのかもしれないという気さえしました、僕は夕暮れも好きでした、夕陽はいつもその色を深めてそして肥大していました、西の海に夕陽が沈むとき、ほとんど西の世界のすべてを埋めつくして海上も蜜色に染まりきっていました、僕はそういうときいつも炎のうえを飛んでいるような気持ちになりました、そういうときの海はほんとうに地球の核みたいでした、夕陽がすこしずつ沈んでいくそのありかたと海のさざなみの動きかたの微細なからみあいの瞬間瞬間に、海のうえにほそくやわらかな黄金色の光るすじが走りました、僕はいつもその光のすじのすれすれを飛んでいました、光の実体がときどき僕の下半身にふれ、熱く、痛いくらいでした、僕は西へ西へと飛んでいきました、西へいけばきっとなにかがあるだろうとむじゃきなやりかたで思っていました、あの夕暮れの向こう側にはまだ僕が知らない世界があって、羽くずみたいな僕のことをむかえいれてくれるようななんらかの群れがあるだろうって思っていました、その夕暮れはあまりにも美しくありすぎていて、そのうらがわにそのとき僕が見ていない世界のすべてを内包しているようにすら感じられました、でも、どんなに飛んでも、なにもありはしませんでした、ときどき陸地にいきつくこともありました、そこにもだれもいませんでした、古代の建物とか、森に横たわった機械の亡骸とか、そういうものはたくさんありました、けれど、僕が求めていたのはそういうものではありませんでした、ただ、僕が求めていたのは、僕がそのなかで深く死んでしまってもかわまないと思えるような、やさしい土でした。ルカはそこで話をやめてそっとマタイを見つめた。マタイはなにも言わないでふたつめの耳を食べはじめていた。そのふたつめの耳はひとつめの耳とくらべてほとんどなまであちこちに白い部分がのこっていた。僕にも煙草をください、とルカは言った。ヨハネが煙草の箱をルカに放り、ルカはそれをうけとってなかからいっぽんぬきとってくちにくわえ、それからかたほうの手をのばしてヨハネにかえした。ヨハネはなにも言わななかった。ただ隆春の繊維がわずかにまとわりついた銀色のくしを炎のなかにさしいれて意味もなくあぶっているだけだった。ルカは煙草をくちにくわえて顔をまえにつきだし、煙草の先端を焚き火の炎にかざした。先端が赤色に光り、そこから煙が最初はちいさく、それからふわふわとふくらみはじめていた。心臟はどこですか。ルカは顔を横にずらして焚き火の向こう側をのぞきこもうとした。僕は心臟が好きなんです、食べたいと思ってきりとっておいたんですけれど、どこにおいておいたんだろう、ねえ、だれか知りませんか、もうだれかが食べてしまったんですか。焚き火の向こう側のその場所に隆春の心臟があるのかもしれないとルカは思ったけれど、炎そのものにさえぎられて心臟があるかもしれない場所は見えなくて、心臟があるかもしれない空間ののもっと向こうに座っているマルコの姿もろくに見えなかった。それでもマルコはマルコの目のまえにあったくしを手にとりってそっとルカのほうにさしだした。ルカは見えない場所からのびてきたその手のかたちを見つめ、そこからつきだしたくしの先端とあざやかな色をした隆春の心臓を見つめた。心臓はすでにマルコによって一部がかじりとられたあとで、かじられた部分からはぬけきらなかった血液がじゅくじゅくとあわだちながら流れおちつづけ、そのうちがわでこまかな羽虫が溶けてばらばらになっていた。ルカは血液のなかにそっと手をさしいれて羽虫をつまんで手のこうになすりつけ、そしてそれから心臓をひとくちだけかじった。とてもおいしい、とルカは言った。でもだれもなにも言わなかった。僕はただ死のうと思ったんです、とルカはつづけて言った。だれにも会えない、ひとかけらのしあわせさえ僕のうえには降りそそがない、だったら、生きている意味なんてないじゃないかと思いました、僕は、長く飛びつづけ、疲れすぎていました、目がかすんで、視界のあちこちからにぶく輝く臓物の幽霊がせりだしてきました、ひとつ羽ばたくたび、羽の内部の骨がみしみしと鳴りました、ぬけおちた羽がびっくりするくらいのはやさで僕のうしろへと流れさっていきました、だから、その島にたどりついたとき、僕はもうほとんど死んでいました、気がついたとき、僕はおおきな樹木の枝のうえに倒れていました、嘴のあいだから色のついたくらげのような吐瀉物がどろどろとたれているのが見えました、かたほうの目がなくなっていました、どこかに落としてきたんだと思いました、でも、どこに落としたのか、僕にもよくわかりませんでした、つめたい雨がぽつぽつと降りはじめました、空は真っ黒になって、海面に光が間隔をおいて落ちていくのも見えました、葉と葉の隙間をとおりぬけて雨滴が僕の頭上に落ちてきました、すぐにあたりには激しい霧のような雨が降りそそぎはじめました、雨と雨の隙間にやさしい蒸気があがっているのも見えました、音はあんまりにもこまかすぎて、ひとつひとつの雨音とその総体としての音がそのときの意識のつながり具合によってべつべつに聞こえました、樹のまわりにはたくさんの兵士たちの死体がありました、その手にはかなしい拳銃がにぎられていました、その死体たちのこめかみから流れだした血と脳漿と骨のかけらが雨によってゆるゆると流れていきました、兵士たちの死体は僕の視界のとどく範囲のあらゆる土のうえにころがっていて、顔は土とおなじ色をしていました、兵士たちの死体はその樹を中心にして同心円状にひろがっていました、ひとりの兵士の血と脳漿と骨のかけらが流れ、やがて、となりで死んでいる兵士のこめかみに到達しました、そしてその兵士の血と脳漿と骨のかけらもまたおなじ瞬間にそのまたとなりの兵士のこめかみに到達しました、それが、すべての兵士たちの死体の円で同時多発的におこっていました、やがて、それぞれの血と脳漿と骨のかけらが兵士たちの死体をつなぎました、でも、それはそれだけのことでした、血と脳漿と骨のかけらはただつないだだけで、兵士たちの死体はただつながれただけでした、兵士たちはあいかわらず死につづけていました、僕もまたおなじように死にかけつづけているだけでした、兵士たちをつないだ血と脳漿と骨のかけらは、それから、洗い流され、消えていきました、死ぬとしたらここがいちばんただしい場所なのかもしれないと僕は思いました、けれど、僕が思ったこともやはりそう思っただけのことでした、頭上に降りそそいだ雨のかけらが僕の嘴のなかにはいりこんで喉をうるおしました、もっと高いところになっていたちいさな果実も僕の目のまえに落ちてきて、それが僕になけなしの栄養をあたえました、僕は、だから、自然に生きてしまいました、僕は僕が自然に生きてしまうことはまちがったことだとほんとうには思いました、けれど、僕は雨を飲むことも果実を食べることもうまくやめることができませんでした、やがて僕は僕も知らないままに深くねむりこんでいました、そして、次に目を覚ましたときに僕をつつんでいたのは生きた朝でした、兵士たちの死体は樹のまわりにそのままのこされていました、けれど、血はすべて雨に清められ、兵士たちの死体はもとても美しい顔をしていました、それはただしいことなんだと僕は思いました、死んでしまった兵士たちが美しく、生きのこってしまった僕だけがただ醜いということを、僕はとてもただしいことなんだと思いました、それから、僕はいくらかの時間をその樹の枝のうえですごしました、羽はもうあまり動かなくなっていました、僕は落ちてくるちいさな果実や虫を食べて生きました、僕はそのときにはもう死ぬことができなくなっていました、片目だけでながめる世界はいままで僕が見ていた世界よりもずっとせまくるしく感じました、どんなにあたりを見まわしても目にうつるのは空と土と兵士たちの死体だけでした、だから僕はそのなかで見ていていちばんおもしろい兵士たちの死体をずっと見ていました、でも、僕がかなしかったのはある兵士のひととそのとなりの兵士のひとの見わけがつかなかったことでした、ある兵士の死体をじっと見つめてそうだろうという姿を胸のなかにちゃんときざんだのに、となりの兵士の死体を見るとその兵士の死体はさっきまで見ていた兵士の死体となにも変わらないようにしか見えませんでした、僕は僕が視線がうつりかわるその一瞬にその死体ととなりのひとがいれかわっているんじゃないかと思いました、兵士のひとたちはじつは生きていて、僕の目が追いきれないほどの高速で僕の意識の隙間をついていれかわっているんじゃないかと思いました、でも、そんなことはありえませんでした、兵士のひとたちはどう見たって死んでいました、だから、僕はそのときのなにかがいやだったんだと思うんです、なにがいやだったのかは兵士となってしまったいまの僕にはもう言えないことなんだと思います、でも、僕はほんとうにそのときその場所のなにかがとてもいやだったんです、だから、僕はもういちど飛ぶことを決めました、あるいはそのままそこにとどまっていてもよかったのかもしれません、どんなに死にたくないと思ってしまったとしても、その場所にずっといればどうにもならないちからでやがて僕は死んでしまうだろうと思えました、それに、その場所が僕が死んでいく場所としていちばん僕にぴったりしているというのもほんとうにただしいことでした、けれど見わけのつかない幾億もの兵士のひとたちの死体を見ていると、その場所にいてはいけないような気持ちになってきました、その場所がただしいというありかたが、僕にはもうよくわからなくなっていました、僕は羽をひらきました、羽はだいぶ回復されていて、飛ぶことができるということがとてもうれしく感じられました、僕は飛びました、そして、その島からはなれて、いくつもの島を、大陸をめぐりました、でも、どこにいってもおなじでした、僕がいたあの島のあの樹が世界の中心だったことに僕はようやく気づきました、世界にはもう自殺した兵士たちの死体しかありませんでした、僕が見た樹を中心として同心円状にひろがっている兵士の死体は、あの島だけでなく、円をおおきくしながら世界中にひろがっていました、世界にあるのはほんとうにそれだけでした、どこへいってもあるのは兵士たちの死体だけでした、そして、僕がどこかの兵士の円に達するとその兵士の死体のこめかみからどろりと血が流れてとなりの兵士の死体に向かっていきました、生きているいきものは僕以外だれもいませんでした、世界には僕ひとりだけでした、そして僕はどうしようもなく幾重にも兵士の死体の円にかこまれていました、僕は狂ってしまったんだと僕は思いました、世界がそういうありかたをしているはずがないと思いました、だって、僕が生まれたときにはちゃんとほかの鳥がいて、兵士だって、兵士じゃないふつうのひとだって、ちゃんと生きて動いていたんです、だから、僕はこのまま飛びつづけていれば僕の頭もすっきりして、世界も鮮明になって、いま僕が見ている世界とはまたべつの世界がちゃんと見えてくるはずだと思いました、でも、何ヶ月、何年飛びつづけても、だめだでした、世界はあいかわらずでした、朝、陽がのぼって空と海の色が神の手ざわりをのこしたままゆっくりと色あいを変え、昼間になると光はよりいっそうつよくなって波と波のあいだに光がきらきらと輝き、夕暮れになると太陽は肥大し、生命そのもののように海はおだやかになり、夜になるとまた黒く湿っぽく染まりながらも星々の光を青く反射していく、そのくりかえしのなかを僕は飛びつづけました、動かしつづけた羽はすりきれ、血が流れていました、糞にも血がまじっていました、毛はぬけおちて寒くて寒くてしかたがありませんでした、それでも、僕は飛ぶことをやめることができませんでした、僕が飛ぶことをやめたなら世界はいまある状態を永遠に固着してしまうように思えました、でも、けっきょくのところ、それは僕にとっての世界のほんとうの姿で、僕が飛びつづけたことにもなんの意味もなんの価値もありませんでした。ルカはすこしだけ手をまえにさしだして焚き火の炎がかする空間の直前でとめ、煙草を指先でたたいて灰を落とした。灰は床のうえで赤みのこしながらも虫のようにうごめき、その赤さのなかで焚き火の炎の揺らめきがかすかに反射していた。やがて、僕はあの島に、あの樹にもどってきました、とルカは言った。僕は世界を1周していました、もう何年もたったあとのはずだったのに、兵士の死体は僕が飛びたったときとまったくおなじ姿をしていました、あるいは、僕が飛びたったときの兵士の死体はちゃんと腐って溶けて、そのかわりに、だれかが真新しい自殺した兵士たちの死体をそこにならべたのかもしれません、けれど、僕にはどちらでもおなじことでした、僕は樹の枝のうえにとまり、そこでゆっくりと死んでいきました、もう僕にはその場所がいやな場所だとは思えませんでした、世界が兵士たちの死体でいちように染められているのなら、その中心の場所でこそやはり僕は死ぬべきなんだと思いました、その場所のただしさを僕はすっかりうけいれていました、もうほとんど雨は降りませんでした、僕はもうなにも食べませんでした、ときどき耐えきれなくなると樹の皮を舐めて感情をなでつけました、身体はつねに震えていてねむることもできませんでした、身体のうちがわであちこちの骨が折れていきました、氷を噛みくだいたようなその音が耳もとで聞こえました、いったん死ぬと決めたらちゃんとすぐに死ぬことができるんだということがとてもうれしく感じられました、僕は僕が死んでいく時間を兵士たちの死体を見ることについやしました、首はほとんど動かなくなっていて目もかすんでいたけれど、僕はしっかりと兵士たちの死体を見つめました、そしてそのとき、僕はやっと兵士たちの死体の見わけがつくようになっていました、よくよく見れば兵士たちの死体のそれぞれはまるでちがっていました、見まちがえていたのがうそのようでした、どうして僕にはならんだ兵士たちの見わけがつかなかったのかわけがわからなくなりました、そしてそのうちに兵士たちの顔に血の気がもどっていきました、ぼろぼろだった皮膚がちゃんとくっついて、あたたかみがもどっていって、鼓動すらも回復されていきました、やがて、兵士たちの死体はひとりまたひとりとたちあがっていきました、銃をひろい、こぼれおちた血と脳漿と骨のかけらをひろい、自分のこめかみの穴にこすりつけて、それから、海に向かって歩いていきました、幾億もの兵士たちがいっせいに海に向かって歩いていきました、そして気がついたとき、僕もひとりの兵士になってました、僕も銃を持って背嚢を背負い、どこへいくかもわからない行軍に参加していました、僕はまわりを見まわしました、この兵士たちもほんとうはもともと兵士じゃなかったんだろうと思いました、でも、なにも言いませんでした、僕は彼らにきみたちはみんなもともとはかなしい死体だったんだよとつたえる勇気がありませんでした、けれど、みんなそれを覚えていないだけで、ほんとうはそうなんです、すべての兵士はもともとは兵士たちの死体だったんです、そして、そうなるまえはみんな僕のように1羽の小鳥だったんです、ねえ、僕以外のみんな、ヨハネさんもマタイさんもマルコさんも、自分たちがかつて兵士以外のなにかだったっていうことはわすれてしまっているだけで、ほんとうは兵士なんかじゃなかったんですよ。すくなくとも俺は生まれてからずっと兵士だったよ、とヨハネは言った。ヨハネさんもわすれているだけですよ、ヨハネさんにも兵士じゃなかったころがきっとあるんです。そんなものはおまえの妄想だよ、そうでなければただの夢だ、それに、自分が兵士じゃなかったころの記憶なんてないほうがいい。どうしてですか。かなしくなるからだよ。それは、そうかもしれません、たしかに僕の記憶は僕のこころのなかで深海に降る雪のようにつめたくとどまりつづけています、けれど、僕はそれを捨てさろうとはうまく思えないんです、僕には僕が1羽の小鳥だったころの記憶がはっきりあります、それはつめたくかなしい記憶だけれど、同時にとても美しい記憶でもあるんです、海原に反射した陽の光のきらめきも、西の海に溶けるように沈んでいく太陽の雄大さとせつなさも、狂ったような星空も、そして大地のうえで首から流した血でおたがいをむすびつけあっていた兵士たちの死体も、僕のなかではすでにとても愛おしい思い出なんです、ヨハネさんやマタイさんにはわからないかもしれないけれど、それはこの世界のほんとうの姿なんです、僕はそれをいちど見てきました、でも、それは僕だけじゃなくて、ヨハネさんもマタイさんもマルコさんも見ているはずなんです、ただ覚えていないだけで、ぜったいにそれを見ているはずなんです、だから、ヨハネさんは兵士はみんな新年の夜明けとともに自殺をすればいいなんて言うんです、ねえ、ヨハネさん、それは無意識の回帰願望なんです、母体に還るように、この世界のほんとうの姿に回帰したいという願望なんです、ヨハネさんの魂はヨハネさんも気づかないうちにこの世界のほんとうの姿につよく惹かれつづけているんです、でも、僕はそれはとても危険なことだと思うんです、それは、この世界のほんとうの姿のかなしみがあまりにもただしすぎて、そのただしさに惹かれているだけなんです、いくらそのかなしみがただしいからといっても、それは、けっきょくのところかなしみにすぎないんです、ねえ、ヨハネさん、いまこの世界にいるのは兵士たちだけじゃないんです、ふつうのひともいます、そこの子供たちもちゃんと存在しているんです、だから、いま僕たちが戦争をやめたいって思うならもっとべつのやりかたをしなくてはいけないんですよ。でも、おまえはけっきょくなにもしていないじゃないか、とマタイが言った。なにもしていないことを責められるひとがいますか、いったいだれが、どうすれば、そんな資格をえることができるんですか。俺はおまえを責めることができるよ、資格なんて関係ない。僕はたしかにちからも体力もなくて頭もわるい、けれど、それでも僕は僕なりに平和を願ってきたんです、僕はおりにふれて戦争の意味を、僕たち兵士が存在している意味を問いつづけてきたんです、僕は僕がだれかを殺したことで僕自身を傷つけ、そしてその死を悼んできた、でも、マタイさんははまるでぎゃくじゃないですか、マタイさんはいつだってだれかを傷つけ、殺そうとしている、あるかどうかすらもわからない悪意を喉のおくそこからひっぱりだしてにやにやしながらあえて傷つけ、そして殺そうとしているじゃないですか。俺がいつそんなことをしたんだよ。さっきはそこまで言わなかったけれど、マタイさんが手榴弾でサッカーをしようと言いだしたのは仲間を殺すためですよね。ちがうよ。いまになってもうそをつかなくてもいいじゃないですか、マタイさんはあのひとが手榴弾を蹴って爆死したとき、ぜんぜんかなしんでいなかったじゃないですか、それに、おどろいてもいなかった、マタイさんは最初からねらってあのひとを殺そうとしていたんだ。かりにそうだとしても、手榴弾が爆発したのはたまたまだろう、俺がどうやってあいつをねらって殺すことができるんだよ、たしかに俺はさっきああいうにんげんは死んだほうがいいって言ったよ、それは本心からのことだ、でも、だからといって俺があいつを殺そうとしたことにはならないだろう、おまえは俺の言ったことをおまえの思いつくままにうけとって勝手に誤解をしているだけだよ。マタイさんがねらったのはあのひと個人ではないですよ、マタイさんが殺そうと思ったのは、ほんとうはあのひとじゃなくて、みんなですよ、だから、だれが死んでもよかったんです、たまたまあのひとが死んだだけで、たまたまあのひとが死んだからマタイさんはあのひとが死ねばよかったって言っているだけで、そんなものはあとづけですよ、あのとき死んでいたのは僕だったかもしれないんだ。ちがうよ、俺はただ手榴弾でサッカーをしたかっただけだよ。爆死する危険があるのをわかっていながらですか、そこまでしてやりたいほどのサッカーなんてこの世界にあるはずがないじゃないですか。おまえには理解できないかもしれないけれど、それがあの場所ではあったんだよ、あのとき俺たちはなにかに餓えていたじゃないか、自分たちがいた場所とはちがう場所の要因によって戦況がゆるやかに変わりつつあるその時間のなかで、俺たちはたしかになにかに餓えていたんだよ、おまえには感じとることができなかったかもしれないけれど、その餓えは空気中をただよう微細であたたかな実体としてたしかにあったんだよ、俺にはあいつはこのままだと遠からずだれかを殺すだろうということがわかっていたんだよ、だから俺はサッカーをやろうって言ったんだ、あいつがだれかを殺してしまったらもっとひどいことになっていたはずだ、あいつが爆死したおかげで俺たちのうちのだれかが殺されずにすんだんだよ。どうしてマタイさんにあのひとがだれかを殺すなんてわかるんですか。あのときのあの場所の空気がそうだったからだよ。そうだとしたら、やっぱりマタイさんはあのひとをねらって殺したんですよ。ちがうよ、それは偶然にすぎない。偶然なんてあるはずがないじゃないですか、マタイさん、いったいなにを言っているかわかっているんですか、マタイさんはあのひとがだれかを殺すだろうと思った、だから手榴弾でサッカーをやろうと言った、そしてあのひとが爆死をした、これはそういう話なんですよ、だれがどう考えてもマタイさんがあのひとを殺そうと思ってそして殺したんだっていうことになるじゃないですか。殺してなんかいないよ、俺が言っているのはあいつがあの場所あの時間のなかではそのうちにだれかを殺すだろうという空気を現実にまとっていたということだ、そういう空気をまとってしまったにんげんは実際に殺すんだよ。だから、あのひとがだれかを殺すまえにマタイさんが殺したんじゃないですか。あいつは勝手に死んだんだよ、あいつはべつに死ななくてもよかったんだ。そうですよ、あのひとは死ななくてもよかったんです。おまえはただ俺がおまえにあいつの死を中尉に報告しにいかせたことをうらんでいるだけだよ。それもあります、でも、それだけじゃない、マタイさんは僕にあのひとの家族に向けて手紙を書かせたじゃないですか、もうすぐ帰る、もうすぐ戦争は終わる、だから待っていてくれって、わざわざあのひとがむかし書いてだせなかった手紙をひろってきてその筆跡をまねしてまで。おまえの字はへただったな、あれでは家族は信じなかっただろう。なんで僕にそんなことをさせたんですか。だって、家族がかわいそうじゃないか。だますほうがかわいそうですよ。おまえ、あの手紙をほんとうにだしたのか。だしましたよ、だせって言ったのはマタイさんでしょう。その手紙になんて書いたんだよ。マタイさんが言ったとおりに書きました。俺は、たとえ検閲にひっかかったとしても、あいつの家族にならおまえがほんとうのことを書いて謝罪をするだろうと思ったんだよ。どういう意味ですか。しらをきるなよ、あいつを殺したのはおまえだろう。僕じゃないですよ。だって、最後にあいつに手榴弾をパスしたのはおまえじゃないか。でも、それはたまたまです。あのときすでにピンははずれかかっていたじゃないか、おまえだってそれを知っていたんだろう、おまえはおまえがあいつにパスをすればあいつが爆死すると知っていてあいつに向かってパスをしたんだよ。マタイさん、最低ですよ、ほんとうに最低ですよ。俺はただおまえにあいつの遺族に謝罪する機会をあたえただけだ。くだらない、僕はあのときピンがはずれかかっていることなんて知らなかったんです、気づいていなかったんです、マタイさんはただマタイさんがやった殺人を僕におしつけようとしているだけですよ。おまえがあいつを殺していないなんて、どうして俺に信じることができるんだ、おまえはひとを殺せるにんげんじゃないか、あのときあの戦場でおまえはいったい何人のにんげんを殺したんだよ。だって、あのひとたちは敵ですよ。敵ならば殺していいのかよ。あのひとたちは僕たちを殺そうとしているんですよ。それはおまえが銃を持ってあいつらを殺そうとしているからだよ。僕が銃を持っていなくてもあのひとたちは僕を殺しますよ。おまえだってあいつらが銃を持っていなくてもあいつらを殺すだろう。なにが言いたいんですか。俺はおまえとはちがうよ、なあ、俺はただ俺たちがたがいに銃を持たないようにしようと思っただけだよ、そして俺たちが銃を持たない状態にあるときに俺たちがおたがいに殺しあわないようにしようとしただけだよ、だから俺はサッカーをやろうと言ったんだよ、おまえにはばかみたいに思えるかもしれないけれど、俺たちがサッカーをやって、小鳥みたいな歓喜の声をあげて、そうしたとき、俺は森のおくに潜んでいるだろう敵兵たちが銃を捨ててでてきてまぜてくれと言ってくれる瞬間を待っていたんだよ、そうなったとき、俺はこころから銃を手ばなすことができただろう、もしも俺たちのなかにそうなったときですら銃を捨てないやつがいたら、俺はそのときそいつを殺しただろう。正気じゃないですよ、マタイさん、それは正気じゃない。俺は正気だよ、正気じゃないのはおまえだよ、戦場では相手を殺すことが必要だって思いこんでいるおまえのほうがずっと狂気的じゃないか、俺たちが敵兵を殺す必要がいったいどこにあるんだよ、俺たちは敵兵のことなんてなにひとつ知らないじゃないか、そのにんげんたちが敵兵だと決めたのは俺たちですらないんだよ、だれかがあのにんげんたちが敵兵だと決めただけだ、俺たちはその決定を真にうけて銃をかついでのこのこ戦場まででかけていってしまっただけじゃないか、俺たちは俺たちが戦場にいってしまったことについてなにひとつ自分の頭で考えてなんかいなかったんだよ。なにひとつ自分の頭で考えたことがないのなら、やっぱり銃を捨てて僕たちと敵兵がサッカーをするなんてむりですよ。むりじゃないよ、必要だったら俺たちはサッカーで俺たちかあいつらかどちらが勝ったのかを決めたらよかったんだ、上層部にはうその報告をすればいい、なんなら俺たちは戦争をしたふりだってすることができたはずだ、弾薬を処理し、自分の足を撃ちぬき、必要なら有志やくじびきで犠牲者を募って必要最低限のにんげんを殺せばよかった、そうしたほうがずっとずっとまともだったはずだ、そのとき、たとえ俺たちが自分の足を撃ちぬいたとしても、俺たちが俺たちの仲間の何人かを犠牲にしたとしても、俺たちと敵兵は和解のなかにあるはずだ、なぜそれができない、それができない理由なんてなにひとつないはずだ。くだらないですよ、マタイさんがそんなことを考えていたなんてぜんぜん知らなかった、ねえ、マタイさん、そんなことはマタイさん以外のひとだってふつうに考えていますよ、でもそれは現実じゃない、それは僕たちが見たいと望んでいるただの夢なんです、それをさも自分だけが考えついたとくべつな方法みたいに言うのは恥ずかしいことですよ、ねえ、マタイさんが言っていることはいまも世界中の兵士たちが夜中の笑い話として言いあっていることですよ。それを笑い話としてしか話せないことがおまえたちの限界なんだよ。くだらない、くだらないです。ルカの瞳がほそくのびて、その中心に焚き火の光のあたたかな色が染みだしていた。くちからは激しい息が漏れだし、ルカはりょうほうの手を頭髪にあてていらだたしく髪の毛の根もとから毛さきまでをなでつけはじめていた。マタイはそれをひややかな瞳で見まもりながら手のひらにのせた銀色のくしにときどき目を落としていた。ふたりともが奇妙にやつれ、どことなく獣のにおいを発散させていた。くだらないと言いつづけていればいい、とマタイは言った。やがておまえにもおまえ自身のくだらなさがわかるときがくるだろう。ルカはいきなりたちあがってこぶしをかたくにぎり、そのこぶしで自分の頭部を殴りつけはじめた。喉のおくから高く、けれどかぼそい声がとぎれがちに聞こえた。それは深い湖のそこから最愛のだれかに向けて投げかけられた呼び声のようだった。頭部にこぶしがあたるたびに低くにぶい音が響き、靴子たちの身体のなかに埋められた骨たちはだれも傷つけないやりかたでその音と共鳴をはじめていた。もうやめろ、とヨハネが言った。でもルカはやめなかった。靴子たちの視界のなかでルカの身体はただ黒く巨大な影として見えていた。こぶしがひとつ頭部をうつたび、頭部は湾曲して深いくぼみをつくっていってしまうように、そして、そのくぼみのなかに魂ごと落ちこんでいってしまうようにすら思えた。マルコの身体がおもむろに持ちあがり、まだ脂でまみれたその手のひらががルカの腕をつよくにぎりしめた。ルカはマルコに腕をとられた状態でなおもいちど頭部を殴りつけたけれど、その音はいままでとはちがってとてもかるくてたよりなく、まるで頭のなかのいちばんたいせつな骨をくだきおわってしまったみたいなはかない音だった。ルカの声がいっそう高く響き、靴子たちはそれを聞いてようやくそれが泣き声だと理解した。靴子たちのすりきれかけた意識がゆっくりと回復され、靴子と花びらはたがいに手をつなぎあい、譲は靴子の制服の部分をつよくにぎりしめた。ルカはほとんど絶叫していた。マタイとヨハネは顔をうつむかせ、自分の股間とその周辺にただようなまぬるい空間にけだるげに視線を投げかけていた。ふたりはただただそこにルカがいないふりをしていて、それでもふたりはどこか怒りにうちふるえているように見えた。マルコがルカの腕をねじりあげるとルカの腕は背中のうしろに隠された。ルカのくちから泡があふれてあごをつたって焚き火のなかへ落下していった。焚き火の炎はその泡にふれて色あいを一瞬つよめ、次の瞬間には白い霧をふいてこまかい範囲で空気をにじませていった。ルカの影が炎のうらがわで踊っていた。マルコはその影のうらがわでひらたくなりたいと意志しているようなやりかたでその影をおさえつけていた。ふたつの影がかさなり、また分離して、そしてそれが惑星の回転の数にあわせてくりかえされた。時間が湿り気をおびはじめ、よく肥えた男の厚い手のひらのようにその教室のなかにいたすべてのにんげんをつつみこんだ。ルカはルカの身体のかたちをたもったままその部分たちをいびつにさせ、そのいびつさの代償をマルコに背負わせていた。マルコはルカのかたわらでひとつのものたりない影としてかたちをたもち、その頭部のうちがわで錆びついたねじをこりこりと回転させていた。やがて、ルカは動くことをやめた。ルカの頭のうえにマルコの頭がかさなっていた。マルコはルカの頭部の傷を、そこから流れでる血を、そして、ルカ自身をそうさせたルカのこころのおくそこをやさしい瞳で見つめていた。ルカはうつむき、舌を絶え間なく旋回させてこの世界のあらゆるものについての希求をだれにも聞きとれない声で放っていた。それから、長い時間が流れた。腕をはなしてください、とルカは言った。マルコは言われたとおりにした。ルカはその場所にたちつくしたまま軍服の袖で頬を流れた涙を拭い、顔の火照りが覚めるまでのもっと長い時間を袖を顔面におしつけてすごした。マルコはルカの姿から目をはなさないようにしながらゆっくりとうしろへさがり、やがて焚き火のかたわらに座りこんだ。ルカの顔面を恥辱にも似た熱さがおそっていた。それから逃れようと何度も深呼吸をくりかえしたけれど、ルカには肉と汗がいりまじった不快でねばついた空気しか吸うことができなかった。ルカの頭のなかに白い骨が浮かびあがっていて、その骨が微熱にも似た痺れでとてもこまかな振動をおこしていた。骨の振動はあごにつたわり、なにもしていないのに顔面のしたはんぶんがとてもつかれたような気がした。もう、死んでもいいような気がした。
 やがて、ルカは腕と顔面をひきはなした。鼻から目にかけての部分がひさしぶりに空気にふれ、その場所にたまっていたいかがわしいものがこそげおちていくように感じられた。ヨハネは焚き火のかたわらで横になって目をとじていた。もうねむっているのかもしれないけれど、ルカにほんとうにそうなのかはよくわからなかった。マタイはルカが頭部を殴りつけはじめたときとまるでおなじ姿勢をしていた。うつむいた顔面についた唇から唾液がふとい線となってたれおち、とぎれないままに床までつたっていた。その場所のなかでマルコだけが変わらない瞳でルカを見つめつづけていた。ルカは腰をかがめ、隆春の指たちがささったくしを手にとった。そして、ゆっくりと花びらと靴子と譲のまえまで歩みより、譲のまえに黒く煤けて脂がたれた指をさしだした。食べなよ、とルカは言った。さんにんは身体のおくそこに浮かんでは沈んでいく疲れを意識しないようにしていた。黒煙のせいで教室のなかは暑く、空気はこまかな塵をふくんでいるように感じられ、さんにんは兵士たちに気どられないようにくちをおさえてちいさく咳をしていた。喉のおくに蠅を放りこまれたような違和感を抱えこんでしまっていた。どれだけたがいに背中をさすりあってもそれはとれなくて、胸もとににじんだ汗はおおきくふくらんで下腹部までたれおちてこまかな汗のたまがさんにんの顔面の皮膚の表面で黒くよごれていた。太陽が沈みきってしまったせいでさんにんの目にうつるルカは真っ黒な巨人のように見えていた。背後の焚き火の炎のちらつきにあわせてルカのりんかくは空気ごと揺れ、隆春の指たちとそれをつらぬくくしの銀色が空気中にわずかに溶けだしてルカのりんかくとまざりあっていた。ルカは譲のまえに隆春の指たちをさしだしたまま長い時間かたまっていた。さんにんはただその指たちの黒いかたちををひたすらに見つめつづけていた。そして、その指たちについて言葉をつかってなにかを思おうとしていた。けれど、言葉はその指たちについて語りかけるためのものではなく、ただ生きていたときの隆春にかけるための言葉とちがいはなかった。靴子と譲はこころのなかで、隆春くん、かわいそうに、こんな姿になってしまってほんとうにかわいそうに、と思ってすらいた。それだけでなく、長い時間しゃべっていなかったせいであやうくその言葉を悼みとして口にだしてしゃべってしまいそうになっていた。そして、その瞬間にその言葉を自分たちのこころのなかで生みだしてしまったことに嫌悪を覚えて吐きそうになった。靴子と譲の背中がかすかに痙攣をはじめて、その震えそのものをなぐさめるように花びらはふたつの手をつかってそれぞれの背中をたんねんにさすりはじめた。けれど、ふたりの背中をどんなにやさしくそして美しくなであげることができたとしても、その手のひらにはわたしは偽善者だというこころのかすが執拗にこびりついていて気持ちがわるかった。花びらには偽善者だと思いながらなであげる以外にそのときふたりの背中をなであげるやりかたがまるでわからなかった。偽善者だ偽善者だとつよく思う瞬間にだけ隆春の指たちにかける言葉を見つけられないくせにその代替として生きていたときの隆春に向かって語りかける言葉を生みだしてしまう自分の醜さをそぎおとすことができているような気持ちがした。ふたりの背中をなでる花びらの手はそのうごめきもあわせてその手じたいが花びらの存在としての本体のようだった。そして、そうなってしまったあとの花びらにとって手のひらからのびるいつつの指たちはいずれもそこに付属した無機質な肉でしかないように思えた。ほんとうは、ちゃんとちからをこめて、手のひらとその指のはらのすべてをつかって、よりはばひろい面積でもってふたりの背中をなでてあげたいと思っているのに、指たちにちからをこめることができないままでいた。背中にきちんとふれているのは手のひらの中心だけで、いつつの指はその先端でかるくふれつづけているだけだった。だから、喉と口内の境界線を踏みこえようとしている吐瀉物たちを必死でおしもどそうとしている靴子と譲にとって、そのぎりぎりで感じとることができるのは花びらの手のひらのそのほんとうの中心の肉の厚いやわらかな感覚とそこから発されるやさしい体温だけだった。でも、ふたりはその体温を感じながらもふたりのことだけに夢中で、いま、自分の背中をなでてくれているひとが花びらだということには気づいてはいなかった。譲は自分の背中をなでてくれているひとが靴子だと思っていた。靴子は自分の背中をなでてくれているひとが隆春だと思っていた。そしてふたりともがそのことの矛盾に気づいてすらいなかった。自分が吐こうとしているものが隆春のきりとられた指たちをきっかけにして生みだされたかたまりだということを理解していたのに背中をなでられたその瞬間にはもうわすれてしまっていて、そして、わすれてしまったということを意識しないままわすれてしまったということがもたらす快感のなかで背中をなでてくれる手のひらのやさしいあたたかみにうっとりとしていた。その快感のなかで靴子のこころはしだいにおだやかさを回復させ、なにかをほんとうに吐きだしてしまうほどには気持ちわるくはなってはいないという事実をすこしずつ承認していった。ただ、なにかを吐こうとすることがその瞬間にあっては健全だからなにかを吐こうとしただけだ、靴子は言葉でもって靴子の喉のおくのかたまりにそうやって呼びかけていた。そのかたまりは生きた肉のように靴子には思えた。あるいは、わたしはわたしが知らないあいだに隆春くんの指以外の部位を食べてしまったのかもしれない、と靴子はすこしだけ思った。けれどそれはそう思っただけですぐにうちけされて、そして、すでに胃のおくにおしこまれてしまったそのかたまりはたとえ隆春の指以外の部位だったとしても吐きだしてしまうほどのなにかであるようにはうまく思えなかった。花びらは靴子の背中をなでつづけながらそのうちがわでなにかがうごめいているのを感じていた。靴子の喉のおくのかたまりがすこしずつ縮小され、下端からふたたび胃のなかに向けてゆっくりとずるずる動いていく光景を想像していた。そして、その想像はそのまま靴子のうちがわでおこっていることとひとしいように思えた。けれど、花びらの想像のなかではそのかたまりが喉のおくそこにひっこんだあとでも喉と口の境界にはかたまりのかわりに質量を持った言葉がのこされていた。言葉は隆春の肉に似ていた。花びらは手のひらを背中の下側までゆっくりなでおろした瞬間にそれを意識して、その手をふたたび背中の上側までなであげるのを一瞬ためらった。靴子の背中をなではじめてからはじめて花びらは手をはなした。そのとき手のひらがはっきりとした空気にふれ、さっきまでたしかに感じられていたはずの靴子の制服の生地のその湿った感触とあたたかみをたやすくかきけした。花びらが靴子の背中から手をはなしたときでも、譲の背中をなでているもうひとつの手は絶え間なく動きつづけていた。その一瞬のためらいをきっかけにして、それまで完全な同期をとって動いていたふたつの手はみだれはじめた。空気の感触と湿度は汗ばんだせつなさに似ていた。花びらはすぐにその手を靴子の背中にくっつけてその下側から上側へなであげたけれど、そのとき、もうひとつの手は譲の背中を上側から下側へなでおろしていた。手を背中からはなしていた時間だけ、靴子の背中をなでる手のひらの温度はすこしだけ低かった。その同期がみだれてから数秒のあとに、靴子と譲は同時におたがいを見つめあった。遠くの炎の光の照りかえしが蜜色の粉のようにその瞳のなかでちらついていた。おたがいがおたがいの背中をなであっていた。ふたりはそうやってただしい錯覚をして、でもその錯覚のただしさはあらかじめふたりのこころのなかにあったものだった。ふたりはおたがいの瞳しか見ていなかった。ふたりはおたがいに手を動かしあっているときの肩の揺れ、そして身体のみだれをまるで意識することなくおたがいを見つめあうことができていた。ふたりはそのことをそのことだと知ることができればそれを愛おしさとして生成することもできたかもしれなかった。でもたとえそれができたとしても、それは愛情ではなかった。愛情ではないということが問題になるような瞬間でもなかった。遠い場所でマルコがひまわりの種をごりごりとかじっていた。もっと遠い場所では野蛮な犬たちが自分のしっぽを甘噛みしては快楽を覚えていた。世界は平和だった。そのなかで花びらは孤独を感じていた。譲と靴子たちがあの兵士たちの仲間になってしまったように思えて、この場所で彼らにとらわれているのは自分だけのようにすら思えた。ルカはそのすべての時間を慈愛に満ちた瞳で見まもっていた。そして、いままで譲の目のまえにさしだしていた隆春の肉たちをゆっくりと花びらのまえまで移動させ、ほら、口をひらきなよ、と言った。花びらは靴子と譲の背中をなでるのをやめ、わたしたちは友達は食べない、と言った。わかっているよ、だれだって友達は食べたくないと思う、ごめんね、でも、僕たちがきみたちに食べさせてあげられるものはこんなものしかないんだよ、きみたちはわかっていないかもしれないけれど、きみたちはもしかしたらこれからとても長い時間を僕たちに監禁されたまますごさなくてはいけなくなるかもしれない、そのあいだ、なにも食べないわけにはいかない、だから、ねえ、我慢をして、すこしだけでも食べてくれよ。水、と花びらは言った。水が飲みたい。いいよ、これを食べたら持ってきてあげるよ。おまえさ、と遠くでマタイかヨハネがさけんだ。ばかだよ、はじめからにんげんであることがありありとわかるような部位を食べさせようとするなよ、はじめはにんげんの肉だか動物の肉だかわからないような部位を真っ黒になるまで焼いて持っていってやるんだよ。ルカはちらりとふりかえったけれど、その兵士のひとにはなにも言わないでまた花びらのほうに向きなおってちいさな声で言った。僕はきみたちの味方になりたいんだよ、きみたちはただの民間人だからそもそも僕たちの敵じゃない、だから僕たちもきみたちの敵じゃない、けれど、きみたちは僕たちのことをそんなふうには思えないと思う、僕はそれがいやなんだ、だって、僕たちはきみたちを傷つけたりきみたちを殲滅したりするためにこんなことをしているわけじゃないんだから。でも、あなたたちは隆春くんを殺した。僕たちだって殺したくて殺したわけじゃない、僕たちはただ飢えていただけだ、しかたがなかったんだ、ほかに食べものもなかった。ほかに食べものがないから、しかたがないから、それだけであなたたちがわたしたちの友達を殺すことを許されるのかな。場合によっては。だれに許されると思っているんだろう。だれに、というのはどういう意味だろう。あなたが許されると言うのであれば、どこかにあなたたちを許すにんげんがいるはずだ。きみたちにだよ、僕はきみたちに許されたいんだよ。それはうそだよ、と花びらは言った。あなたはいまわたしたちに許されようとすら思っていないのに場合によっては許されると言った。そんなことはないよ。あなたはうそをついている、あなたがこの学校のなかにほかに食べものがないかを探しにいったのは隆春くんを殺したあとだった、それに、食べものがほしいなら隆春くんを殺すまえにわたしたちに訊けばよかった、わたしたちはあなたたちに食べものをわけてあげられたかもしれない、そうでなくても、あなたたちに銃をつきつけられたらわたしたちは食べものをわけあたえることを拒否することはできなかった、だから、あなたたちは隆春くんを食べるために殺したんじゃない、あなたたちはただ隆春くんを殺しただけだ。きみは僕たちがこわくないんだろうか。こわいよ、わたしがいまどれだけあなたたちをこわがっているか、あなたはまるで理解しようとしていない、身体の震えをおしかくしてこころのなかにぽっかり浮かんだ黒い球体に向かってしゃべりかけるようなやりかたであなたとしゃべっていることを、あなたはまるで理解しようとしていない、わたしの気持ちも靴子ちゃんと譲くんの気持ちも想像しようという意志もないくせに、あなたが兵士というだけのことで、あなたがわたしたちを教室のかたすみに監禁しているというだけのことで、わたしの気持ちをためさないでよ。それなら、僕もこころから話そう、とルカは言った。ねえ、僕はほんとうはきみたちにこわがってほしいんだよ、僕はたしかにきみたちに許してもらおうとは思っていないかもしれない、それでも、僕は僕がやったことはわるいことだとは思っている、それが僕のこころのいまのありかたなんだよ、そのありかたをきみが否定するのはたしかにきみの勝手だよ、でも、きみにしたって、おそらくはきみが思っているよりも僕のこころのなかをうまく想像できているわけじゃない、それは、きみが僕たちの行為の目的や僕たち自身のことをなにも知らないという原因によっているわけじゃない、なぜなら、僕たちもおなじようにきみたちのことをなにも知らないからだ、僕たちだってきみたちとおなじにんげんなんだよ、僕たちが兵士としてここにいるとき、きみたちは民間人としてここにいる、そして、それはその立場の内実が問題とされるようなものでもない、それを問題にするならばいま僕たちはここにいるわけにはいかない、きみたちだけがここにのこったほうがいい、きみたちと、そしてあの男の子の死体だけがのこっていたほうがよほどまともだ、でも、僕たちはその立場の内実を問題にしてこの教室からさっていくことはできない、それは、僕たちがそうするように命令されているからじゃない、それは、僕たちが、そして、おそらくきみたちですらほんとうには僕たちときみたちの立場の内実を問題にすることをこわがっているからだ、ねえ、僕たちは立場の内実を問題にしたくはないんだよ、だから、僕はきみたちに僕たちをこわがってほしいと思っていて、そしてきみたちにきみたちの友達を食べてほしいと思っているんだよ。でも、それはあなたたちがわたしたちの立場をこうだと規定したうえであなたたちの立場の内実を問題にしないためのあなたたちのやりかただよ、あなたはわかっていないかもしれないけれど、それはどれだけ言葉をつくしたところであなたの問題解決のやりかたでもってわたしたちのこころを無効にしてしまうためのただの暴力だよ、あなたたちは隆春くんを銃で撃って、そして、いまわたしたちをべつのものをつかって撃とうとしている、それだけのことだ、あなたは言葉をつくせばあなたたちの暴力が無効化されるとでも思っているんだろうか。きみはなにもわかっていない、きみが言っていることはにんげんとにんげんの関係のきみにとっての理想的なありかただよ、きみの言うことはただしいよ、でも、きみがきみの理想を、あるいはきみのただしさをふりかざしてその傘のしたで僕ときみが話すことそれじたいがまたべつのかたちの暴力でしかありえないんだよ、きみはけっきょくのところきみのやりかたで僕の暴力を無効化しているだけだよ。でも、それはわたしが持つ傘じゃない。そうかもしれない、それでも、それははきみがつくりだしたものだ、きみの傘は美しい、その傘がおおきくなり、やがて国家のうえにうちたてられたとき、それは、かつて資本主義や共産主義と言われたものとおなじようなちからを持つだろう、それがきみがいまここでやっていることの意味だよ、傘がちいさければそれでいいというものじゃないよ。かりにそうだとしても、わたしは黙ってあなたの傘のしたにはいることはできないよ。きみの言うことはわかるよ、でも、おなじように僕もきみの傘のしたにはいるわけにはいかない、ねえ、対話というものはけっきょくのところ傘のしたでなされるものなんだ、傘のそとにでたとたん僕たちは言葉を失う、そして、そのかわりに銃を持って戦争にいくんだ、だから、きみが理想に思うかたちで僕ときみとが対話をしたいと思うなら銃を持って戦争にいくしかないんだよ。わたしはあなたと対話をしたいなんてひとことも言っていない。それなら、きみはいったいどうしたいんだ、僕に黙って撃ち殺されたいのか、それとも、黙って友達を食べるのか。わたしは撃ち殺されたくない、友達も食べたくない、わたしはできることならあなたたち全員を殺したい。むりだよ。できるかどうかなんて関係ない。そうだね、そうかもしれない、きみの言うとおりだ、けれど、きみは僕が思っていたよりもずっと幼稚だよ、きみの幼稚さはきみのなかで、あるいは、きみの友達たちのなかでつよく美しく輝くだろう。花びらはルカを暗い瞳でにらんだ。ルカはひとつだけ笑い、そのままの姿勢でいることにつかれておしりを教室の床につけて三角になって座った。ルカの瞳の高さと花びらの瞳の高さがほとんど一致した。ルカが座りこんでいる時間の流れのなかで花びらの眼球が上方からまんなかにゆっくりとおりていった。いままで見えていなかった眼球の上端が姿をあらわし、そこからこまかな赤い血管のいくつかがのびていた。きみが友達を食べないのなら、僕は彼を殺すよ、ルカはそう言って譲を指さした。ルカの指先は譲の鼻のすぐ前までのばされていて、そのつめの先端は腕がかすかな範囲で揺れうごくたびに譲の鼻の頭にあたったりあたらなかったりしていた。つめと指の肉のあいだには泥と脂がつまっていた。すこしだけ腐臭がした。譲はつめの先端だけを見つめ、そのつめが描く楕円のかたちとそのつめのしたにふくらんだ指の肉のふくらみのことを思った。つめのうらがわにそういうかたちで指の肉があるということをはじめて知ったような気がした。何日かにいちど、夜、寝台のうえでつめをきっていることがとてもあぶなくて痛々しいことのように思った。譲くんが殺されてもわたしは食べない、と花びらは言った。言いおわったとき、靴子が花びらを横から抱きしめてその耳にそっと唇をおしつけた。いままでずっとなにかを言おうとして口をひらきかけて、そしてなにも言えないままなにかを言う準備のためだけにその唇は湿らされていた。吐息があたたかくて、耳の穴のなかにまですこしだけはいりこんできてこそばゆかった。靴子の左腕は花びらの身体の前方からまわされて背中までのびていて、右腕は背中からまわされて花びらの右の胸をつかんでいた。蒸れた汗のにおいを靴子は吸いこんでいたけれど、それは靴子の脳味噌のなかにまで吸いあげられて知覚されるまでにまたべつの汗のにおいを吸いこんでいた。花びらちゃん、もうやめよう、ねえ、それはあんまりだよ、それは、ひどすぎるよ。靴子の瞳のはしから涙がこぼれおちて靴子の唇と花びらの耳のあいだにそっとつたい、そしてその場所からは流れおちることなく耳と唇のあいだにたまっていった。靴子の額が花びらの側頭部におしつけられ、その場所でごりごりと左に右に激しく揺れた。花びらの髪の毛がたわみ、すこしだけまるくかたちづくられ、わずかな時間をおいてぴんとのびていった。靴子の額の動きにあわせて髪の毛の何本かはつよくひっぱられてぬけもしたけれど、花びらはそうやっておしつけられた彼女の額の湿ったやわらかな感触を感じるだけで痛みは感じていなかった。右の胸にのばされた手のひらがまさぐるように動きはじめ、花びらはまるで愛されているようにすら思えてしまった。せつなくて目をつむった。暗闇のなかで靴子の言葉は濡れ、靴子が唇がひらくたびに舌が耳にあたった。花びらは手をのばしかけ、靴子の身体を抱きしめかえそうとして、やめた。あたたかな毛布のなかにいるようなけだるい気持ちだった。目をひらいたなら目のまえにまだあの兵士がいるだろうということはわかっているのに、現実的な感覚として、それは遠いところにゆるやかにおいやられていった。なまあたたかな空気にさらされている顔面をさみしいと思った。花びらちゃん、そんなにかっこうをつけなくていいよ、そういうことはもうやめようよ、生きのこったほうがぜったいにいいよ、わたし、ほかのだれにも死んでほしくないよ、犬のようにでも家畜のようにでも、わたしたちはきっと生きていけてしまうから、それでいいなら、もう、それでいいよ、隆春くんを食べろって言われたらわたしはきっと食べられるよ、もう暗いから、隆春くんの肉のかたちは見えないよ、だから、きっとだいじょうぶだよ、たくさん焼かれているから、味もそんなに感じられないよ、死ぬよりずっといいよ、そんなにかたくなになることなんてほんとうになんにもないんだよ。花びらはそのあたたかく湿った感触のなかで瞳をひらいた。目のまえにはルカの顔があった。それは暗く、そしてどことなくせつじつな瞳をしていた。左どなりで譲が泣いているような気がした。でもそちらを見ることはうまくできなかった。顔面とこころが同時にかわいていくような、自分の気持ちがどこか遠い場所にいってしまったような感触が身体のうらがわの皮膚感覚としてあった。きみたちがこれを食べたことはだれにも言わない、それは約束しよう、とルカは言った。花びらはそれを無視して頭をすこしだけさげ、それから腕をのばして靴子の身体を抱きしめた。靴子ちゃんの言うことはよくわかるよ、と花びらは言った。でも、もしも譲くんを食べたらわたしたちはきっと戦争の犠牲者になってしまうんだよ。戦争の犠牲者になんてもうなっているよ、隆春くんを殺されたときから、わたしたちがこの教室のすみによせあつめられたときから、わたしたちはもうずっとこの戦争の犠牲者なんだよ。わたしはそうは思っていない、まだわたしたちは犠牲者なんかじゃない、ねえ、わたしは隆春くんの肉を食べさせられたらこころも身体も犠牲者になってしまうような気がするんだ、わたしはそれがいやなんだよ。譲くんが死んじゃうんだよ、わたしたちが隆春くんの肉を食べないと譲くんが死んじゃうんだよ、ねえ、花びらちゃん、わたしが言っていることがわかるかな、わたしの声はちゃんと花びらちゃんのこころにとどいているのかな。ちゃんと聞こえているよ、靴子ちゃんの言っていることもよくわかるよ、ねえ、それでも、わたしにはそれはできないんだよ。もう黙れよ、と譲が泣きながら言った。でも靴子と花びらは動かなかった。おまえはなんなんだよ、どうして俺が殺されるか殺されないかをおまえの気持ちで決めるんだよ、おまえはわかっているのかよ、いま殺されようとしているのはおまえじゃなくて俺なんだよ、食べろよ、その肉をすぐに食べてくれよ、俺のいのちのために食べてくれよ。ごめんね、譲くん、と花びらは言った。おまえ、狂っているよ。ちがうよ、わたしが狂っているわけじゃない、わたしはまともだよ、わたしはただ、この狂った状況下においてわたしが狂うことでまともになろうとしていないだけだよ。もういいよ、とルカが言った。そこまで食べたくないのならいまはもう食べなくていい、水を持ってくるよ。ルカはたちあがってゆっくりと教室のなかを反対側までわたっていった。焚き火のまわりにつどっていたほかのさんにんの兵士たちの顔が持ちあがって炎が照りかえった瞳でルカの姿を追った。ルカは黒板のしたにあった背嚢のなかから銀色のひしゃげたカップをとりだし、廊下にでていった。さんにんの兵士たちはその瞬間にようやくルカの姿から目をもどし、ときどき焚き火のなかに本を投げいれて火をたやさないようにした。譲はうつむいたまま頬に流れた涙を、そしてときどき機械から漏れつづける油のようにあたらしく流れる涙をつよく拭いつづけた。靴子と花びらはおたがいに抱きあったままひとつのいきもののように静止しつづけていた。たがいの背中だけが規則的にゆっくりと動いていて、それにあわせてくちから漏れでた吐息がおたがいのそれぞれの皮膚の部分をわずかに湿らせあっていた。やがてルカがもどってきた。さんにんの兵士たちは黙りこんだままルカのほうは見ないで焚き火を見つめつづけていた。ルカもまたほかの兵士たちのほうは見ないで靴子たちさんにんを見つめつづけたままゆっくりと歩みよってきた。ルカは床のうえに水がたっぷりとつまったコップをおき、飲みなよ、と言ってたったままさんにんを見おろした。けれど、花びらと靴子はあいかわらず抱きあったままだった。譲もコップを見つめるだけでそれに手をのばそうとはしなかった。譲の頬にはときどきあたらしい涙がどろりと流れだしていたけれど、コップを見つめはじめてからもうその涙を拭わなくなっていた。涙は譲のあごまでつたってそこにたまり、すこしの時間をおいてからひとつぶひとつぶじゅんばんにたれていった。いまはまだ理解できないと思うけれど、僕がきみたちにきみたちの友達の肉を食べさせようとしたのは僕のやさしさだったんだ、とルカは言った。いまのきみたちの状況はまだまだ底辺なんかじゃないよ、これからきみたちの身体とこころをもっとたくさんのおそろしいことがおそうだろう、きみたちがきみたちの友達を食べることは、きみたちがきみたちをこれからおそうたくさんのひどいことに耐えるやりかたのうち、僕が考えうるなかで最良のやりかただったんだ、でも、僕はきみたちがきみたちの友達を食べなかったことできみたちを責めようとは思わない、そんなものはけっきょくのところ程度の問題でしかないからだ、ねえ、これだけは覚えておいてほしい、きみたちがこれからたとえどんな深い傷をうけ、きみたちの身体やこころがどんなにそこなわれてしまったとしても、きみたちはそこからまた回復することができる、どんな深い傷も、きみたちが生きていたことやきみたちのこころのありかたをまったく否定するようなやりかたできみたちを殺しはしないんだ。靴子と花びらがおたがいの身体をそっとはなしあい、それと同時に、譲がとてもゆっくりとした動きで床におかれたコップを手にとった。譲はりょうほうの手でコップをつよくにぎりしめているつもりだったけれど思うようにちからははいってくれなくて、その両手とコップは微細な振動をつづけていた。コップは譲の両手にあまるぐらいのおおきさだったのに、その震えのなかでコップはとてもちいさくみすぼらしく見えた。コップに顔を近づけるとそのなか自分の顔が浮かんでいるのが見えた。それは土を塗りたくられたような薄暗い顔をしていた。顔のりんかくはコップの震えにしたがいながら醜くゆがみ、水の表面の振動にあわせてぐちゃぐちゃにつぶされながら右に左にこまかく揺れつづけていた。コップのふちから錆びついた金属のにおいがした。これが俺の顔のにおいなんだ、と譲は思ってかなしくなった。コップのふちに唇をつけ、斜めにかたむけ、譲はすこしだけ水をくちにふくんだ。水はなまぬるくざらつき、血の味がするような気がした。さらにコップをかたむけてくちのおくまで水をおしやり、意識的に喉を動かしてやっとその水を飲みこんだ。喉のおくそこににぶい痛みが生まれ、それはもうにどと消えてはくれない烙印のようにすら思えた。譲は水をはんぶん以上のこして靴子と花びらのまえにコップをさしだした。靴子はうつろな瞳で目のまえにさしだされたコップを見つめていた。花びらもそのコップがどんなものかを意識していたけれどあえて手にとろうとはしなかった。譲は花びらのことを無視して靴子の手をとってそっとコップの表面にふれさせた。靴子の反応はほとんどなかった。自分がなにをされ、なにをしようとしているのか、まるでわかってはいなかった。ただそれだけのことなのに靴子の唇のはしからほそい唾液がたれ、ひとすじだけの涙が頬をつたった。指先はつめたくて月に照らされた骨のようだった。譲はかたくのびきった靴子の指先をたんねんになではじめた。その時間のなかで、指のうちがわの血液のあたたかみはかすかに回復されはじめ、指の間接がすこしずつまがりはじめた。靴子の指はもうほとんどコップをにぎりしめかけていたけれど、そこにちからがまるでこめられていないことが譲にはわかっていた。譲はかたほうの手でコップをささえながら靴子のもうかたほうの手にその手をのばし、りょうほうの手でコップをにぎらせてそのそとがわから自分の両手で靴子の両手ごとコップをつつみこんだ。そして、かすかに手を動かしながら靴子の手にもういちどつよいぬくもりが回復されるのをていねいに待ちつづけた。靴子の瞳はコップのなかで光る水面のなかにやどっていた。譲はただ待ちつづけた。靴子の手は堕胎を終えたばかりの虫のようにうごめきはしたけれど、それはそれだけのことだった。譲はちらりとルカのほうに目をやった。ルカは顔を左右にかるくふって、僕はなにも手伝わない、これはきみたちの問題だ、と静かに言った。譲は唇のはしをつよく噛みしめた。こころのなかに内臓の色とかたちをした腫瘍がぷっくりとふくれあがり、譲の繊細な場所をつよく痛めつけた。譲はそれを恥辱だと思った。けれど、ほんとうはそうではなく、それは靴子に向けられた欲望にも似た愛情だった。そして、それからまた膨大な分量の時間が流れた。その時間のなかで譲は靴子を絶え間なく愛しつづけた。譲の愛情はすりきれ、薄黄色の液体をたれながしてそのうちがわをたやすく露出させていった。なかには胎児のようなかたちをしたものがつまっていた。そしてその胎児のようなかたちをしたものもその断片をこそぎおとされてゆっくりとそこなわれていった。けれど、それはほんとうにはなくなってしまうことはなく、それがすっかりすりきれそこなわれかすかな魂だけがのこされたあと、そこなわれおわるまでにかかった時間とまったくひとしい量の時間をつかってもとのかたちまで回復されていった。そのいとなみが譲のなかで幾億回もくりかえされた。そのたびに譲はこころのなかでつめたい戦争をくりかえしていた。譲はちいさな涙を流しながらそれに耐えつづけていた。譲の瞳のうちがわに森にかこまれた湖が見えた。森のなかにはかなしい幽霊たちがさまよい、のこぎりのようになった手足をぶらさげながらまずしい土を食べていた。樹々のあいだを霧がただよい、幽霊たちの身体の表面のいちばん繊細な部分とまざりあいながら絶え間ない腐敗をくりかえしていた。空気は凍てつき、月明かりは薄青色をしていた。ひとがひとを愛せるまでにかかる時間とまったくひとしい時間のあいだ、森はただただつぎの朝を待ちちづけていた。その森のなかに譲の視界はつるりと吸いこまれ、譲のこころもまたすりきれてその視界のすみずみにむぞうさにはりついていった。それは、まるで繭が見る夢のような時間だった。俺はまだ生きているんだろうかと譲は思った。けれど、譲はまだちゃんと生きていた。靴子の手をあたためつづけている手が腐って液体となってこぼれおちてしまいそうな感覚におそわれながらも、それはただの想像でありつづけていた。その手はいまだつやめき新鮮だった。それでも、譲の肩には堕落した重さがたまりきっていて、靴子の手をあたためるためにその手をちいさく動かしつづけることすらむずかしかった。譲の手が激しく震えはじめ、それにともなってコップの水面にうつりこんだ靴子の顔のりんかくもたやすく壊れはじめた。救ってくれ、と譲は言った。俺と靴子を救ってくれよ。だれに向けられたものではないけれど、すくなくともルカはそれを自分に向けられたものだと感じた。むりだよ、とルカは言った。僕はきっときみたちにやさしくすることはできる、けれど、きみたちを救うことはやさしくするよりもずっとずっとむずかしい。落ちてしまいそうな気がするんだ、と譲は言った。些細なことなのに、とてもとても激しく落ちて、うちつけられて、俺たちの身体が肉片となって飛散してしまいそうな気がするんだ。水、と花びらがくちにだした。譲の顔がひどくゆっくりと動いて花びらのほうを向いた。水、靴子ちゃん、水って言ってよ。黙れよ、と譲が言った。花びらは彼を無視した。水、水だよ、と花びらは靴子に言いつづけた。靴子の唇が静かに震え、かわききった前歯の先端がその震えにかきけされながらもかすかに見えかくれした。水、水、と花びらはさけんだ。靴子はその声に反応し、唇はすこしずつそのことばのはじめのかたちをとりはじめていたけれど、靴子の唇がただしさに向かいかたちづくられればかたちづくられるほど、譲のこころのなかにはけだるさがひろがった。それはとてもにがい味だった。黙れよ、と譲はなおも言いつづけた。でもその声はかすれて震えていた。花びらの声におされ、靴子はやがて、水、とくちにだした。その瞬間に靴子の手にぐっとちからがこめられて、せつなさをまとった皮膚感覚として譲の手のぬくもりをきりすてた。譲は震えながら靴子の手からその手をはなした。靴子は水、水、とつぶやきながらゆっくりと、けれど確実にコップを自分の唇に近づけた。コップと唇はゆっくりとふれあい、そうなってしまったあとでは譲の視界からは靴子の顔はコップにさえぎられてもう見えなかった。靴子の喉は脈動して、その唇のはしからたれた水があごから首につたい、そして胸もとまでやさしく流れていった。譲は目を伏せた。そこには教室の床があった。床の表面には夜の暗闇がひろがっていた。その暗闇のなかに譲の身体がほとんど浮かびあがるように存在していた。ルカはゆっくりと歩みさっていった。靴子はコップを花びらにわたし、花びらはのこされた最後の水をたやすく飲みきった。そして譲はそのすべてのありかたに愛情と憎しみを感じていた。
 兵士たちはマタイをのこしてそれぞれ薄い毛布をかぶってねむりはじめた。マタイひとりだけが焚き火のまえに座りこみ、ときどきそのなかに本を放りなげて火を絶やさないようにしていた。蜜色の炎がマタイの顔の左半身をあかるく照らしだすいっぽうで、ほかの兵士たちがまるまってねむっているその姿や隆春の死体はマタイの身体からのびた長くおおきな影に色濃くおおわれていた。兵士たちから遠くはなれてしまったようにさんにんには感じられ、兵士たちがやってきてからずっとこころのなかにたまりつづけていた重くにぶい感覚もその時間のなかですこしだけやすらいでいった。つめたい水底の色にも似た青白い月の光が教室のなかに射しこんでいた。ひらかれた窓からはいるかすかな夜風が焚き火の煙をかすかに揺れうごかしていて、その炎の先端から灰となった本の部分がゆっくりと舞いあげられていた。靴子たちさんにんはすこしだけ息をついてゆっくりと呼吸をはじめた。汗で身体にはりついていた衣服が音をたてながらすこしずつはがれていき、皮膚に生えたうぶ毛も夜気によって縮小していくようだった。靴子たちはたがいによりそいながらもけっしてたちあがることはしないでおしりをすこしずつ動かしながら教室のいちばんすみまで移動し、壁にぴたりと背をつけた。壁紙はときどきほつれていてきたなかった。そのほつれの隙間からおさないころにつよく意識をした木のにおいがかおった。静かだった。遠く水をたたえた田んぼのなかで蛙が集団で鳴き、ひとではないものに踏みつぶされては中身をそとにだしてその身体をひらたくしていった。さんにんは足をまっすぐにのばして座っていた。月の光と星の光が時間の経過とともにすこしずつまざりあい、のばされたむっつのむきだしの足先を中心としてまるくひろい光のたまりをつくりあげていた。おおきな光のなかに星々のこまかな光が粒子のように輝き、その光はそれぞれの足先を青白く染めあげて足のなかをめぐる血の流れが光に刺激されて奇妙にもりあがって見えた。べたついた髪の毛のなかにはかわいた塩と羽虫たちのちぎれた身体がまざりあったかけらがからみついていた。靴子と花びらは髪の毛を梳きながらそのかけらをとりのぞいて指先でまるめてははじいていた。譲だけがなにもしないで目のまえにつくりあげられた光のたまりを見つめていた。そして、その光の輝きに宇宙からもたらされたかのようなつよく遠い感覚を抱きつづけた。身体のふしぶしにちいさな針をさしこまれたかのようなこまかな痛みが時間のなかの瞬間瞬間に走り、けれど、その痛みが走る時間はあまりにもみじかく、流れおわってしまったあとにはその痛みが実際にあったものかどうかすぐにわからなくなった。やがて、靴子が光のたまりから足をひきあげて三角のかたちに身体をとざした。そして、膝の近くに顔面の下半身をよせて生きて帰りたいなとつぶやいた。ほとんど聞きとれないくらいのちこぼそい声だったけれど、うん、と花びらはかえした。生きているぐらいでは、きっと、たりないような気がする、と靴子は言った。腕とか足とか、髪の毛とか、身体のあらゆる部分もぶじで、こころもなにも傷つけられないようなやりかたでちゃんと帰りたい、この教室にやってきたときのわたしとおなじような感じかたや考えかたができるままで、ちゃんと帰りたいよ。なにもなかったように、ということかな、と譲が言った。靴子は顔を腿の表面にぴたりとおしつけてすこしだけ頭を左右にふり、それからすぐに顔をあげた。ちがうよ、そうじゃない、やっぱり、すでにおきてしまったことはすでにおきてしまったことなんだよ、それをとりけしたいって思っているわけじゃないんだ、わたしはただ、こういうことがおきてしまったとしても、それがおきてしまったということをちゃんと前提として、それがおきてしまったあとでもおきてしまうまえとおなじわたしでありたいって思うだけだよ。それはむりだよ、と譲は言った。靴子、それはむりだ、だって、隆春はもうあの兵士たちに殺されてしまったんだよ、それに、俺たちは俺たちが生きのこるために隆春の死体を食べたかもしれなかったんだ、そういう経験をしてしまったあとの俺たちがそういう経験をしていなかったころの俺たちにもどれるはずがないよ、なあ、わかるだろう、俺たちはほんとうに殺されるところだったんだよ、そして、隆春はほんとうに殺されてしまったんだ、隆春をふくめて俺たちにはもういろいろなことがむりになってしまっているんだよ。それは、とてもいやだな、と靴子は言った。いくらいやでも、それはもうどうしようもないことなんだよ。譲も靴子とおなじように足をひいて、教室の床のうえの光のたまりには花びらの足先だけがのこされた。光の粒子がすこしだけこそばゆいように花びらには感じられた。譲の瞳がにじみ、しきりに指先で目をこすった。やがて、それだけではたりなくなって顔面のすべてを両手をいっぱいにつかっておおい、それから皮膚をひっぱりながらしきりに顔面をこすりはじめた。譲の手の動きは激しさをました瞬間にゆっくりになり、それから、時間をおいてふたたび高速で動きはじめた。その時間の隙間のなかに鼻をすすりあげる音がときどき響いた。泣いているんだ、と花びらは理解したけれど、靴子はそれが泣いているんだとはうまく思えないまま、とてもかわいそうないきものを見つめるやりかたで譲を見つめていた。泣く、ということがにんげんのひとつの行為であることを靴子はわすれてしまっていて、そしてそのわすれかたは、わすれてしまった、ということじたいが重い小箱のなかにしまいこまれてしまったような感触を質量として持っていた。泣かないでよ、低くおさえた声で花びらがそう言った。視線は光のたまりに向けられたままだった。譲は手を動かすことをやめたけれど、両手で顔をおおったままはなそうとしなかった。どうしてだよ、と譲は言った。なんだか、かなしむために泣こうとしているように見えてしまうから。なんだよ、俺はほんとうにかなしいんだよ。なにがそんなにかなしいんだろう。隆春が殺されたことだよ。ちがうよ、譲くんはたぶん、ほんとうには隆春くんが殺されてしまったことにたいしてかなしんでいるんじゃないと思う、譲くんは、きっと、これから自分が隆春くんとおなじように殺されてしまうかもしれないことがこわくて泣いているだけだよ。やめてよ、と靴子が言ったとき、譲は、殺すぞ、と言っていた。花びらはすこしだけ視線を靴子のほうに向けて、それからまた光のたまりに目をもどした。ねえ、わたしは譲くんのことを責めているわけじゃないんだよ、わたしも、譲くんや靴子ちゃんとおなじようにあの兵士たちがこわいんだよ、とても、とてもこわいんだよ、この状況下におかれたわたしたちが友達が殺されたことを思って泣くよりも自分たちが殺されるかもしれないことを思って泣くほうを優先させてしまったとしても、だれにもなにかを言われるすじあいはないよ。俺はどこかのだれかが俺たちをどう思うかを気にしているわけじゃないんだよ、これは俺たちの問題なんだよ、隆春が殺されたことを知っているのは俺たちとあの兵士たちだけで、いまこの場所で隆春の死をかなしむことができるのは俺たちしかいないんだよ、だから、俺たちは隆春の死をちゃんとかなしまなくちゃいけないんだよ。ひとの死を、たとえそれがたいせつな友達だったとしても、その死をぜったいにかなしまなくてはいけない瞬間なんて、きっと、どんな時間のなかにもないよ。それはただのあまえだよ、俺がこわいめにあっているからって友達の死をうまくかなしめなくていいはずがないんだ、友達の死をうまくかなしめなくてもかまわないなんて留保はいつどんな場所でもあたえられることはないんだよ、だって、隆春は死んでも俺たちは生きているんだ、俺はもしも俺たちがいまこの場所で隆春の死をちゃんとかなしめないとしたら、このさき俺たちがぶじに解放されたあとに隆春の死をかなしめたとしても、それがすべてうそになってしまうような気がするんだよ、そのとき俺たちはしんからかなしんでいるんじゃなくて、いまこの瞬間に隆春の死をかなしめなかった罪からかなしんでいるように感じられてしまうような気がするんだ、その気持ちは未来の俺たちのほんとうの気持ちをおおって、やがて俺たちの気持ちとすっかりいれかわって、俺たちをもうどうしようもないいきものに変えてしまうんだよ。譲くんの言うことはわかるけれど。花びらはかなしくないのかよ。かなしいよ、でも、いまはそのことで泣こうとは思わない。花びらは隆春にそう言うことができるのかよ、わたしは隆春くんが死ぬのを見ていました、でも、わたしはわたしもおなじように殺されてしまうんじゃないかと思うことに必死で隆春くんの死をかなしいと思うことをわすれていました、でも許してください、それはしかたがないことだったんです、花びらは隆春にそう言うことができるのかよ。隆春くんにそんなことを言う必要なんてないよ、それは意味もなく隆春くんを傷つけるだけだ、他人を傷つけてまで自分を許してもらおうとするのは、きっと、いやしいことだよ、それに、隆春くんはもう死んでいるんだよ。ねえ、もうやめてよ、と靴子は言った。どうしてもう死んでしまったひとのありもしない気持ちを持ちだしてわたしを責めるんだろう、と花びらは靴子を無視して言った。ねえ、譲くん、それはとてもとてもいやしいことだ。花びらは、と隆春は言ってすこしだけ呼吸をした。花びらは、隆春の死をかなしんでいないんだ。わたしの気持ちを決めないでよ。隆春は花びらを愛していたんだよ。それがどうしたんだろう、だれかがわたしをとても愛してくれたとしたら、わたしはそのだれかの死を絶対的にかなしいと思わないといけないのかな、わたしにはもうよくわからないよ、ねえ、だれかがわたしをどれだけ愛してくれたとしてもわたしがそのだれかをちゃんと愛せるわけではないんだよ。ふざけるなよ、それなら花びらはだれかを愛したことはないのかよ。わからないよ、でも、わたしはわたしを愛してくれただれかの死よりもわたしが愛しただれかの死を悼みたいと思うよ。最低だ、と譲は言った。花びら、それは最低だよ、どうしてそれをいまこの場所この瞬間に言うことができるんだよ。ねえ、隆春くんはもう殺されてしまったんだよ。殺されたからもうどうでもいいのかよ、死んでしまったにんげんにはなにを言ってもいいのかよ。そうじゃないよ。ふざけるなよ、けっきょく、花びらはほかのにんげんがどうなったとしてもなにも気にしないんだ、さっきだって俺を見殺しにしようとしたじゃないか。譲くん、ほんとうは、隆春くんのことじゃなくてそのことでわたしに怒っているんじゃないのかな。俺がいやなのは花びらのこころのありかただよ。ねえ、譲くんにはわるいと思う、でも、わかってほしいんだけれど、わたしは譲くんに死んでほしいって思っているわけじゃないんだよ、譲くんのことがきらいなわけでもないんだよ、わたしもちゃんと譲くんには死んでほしくないって思っているんだよ。だったら、どうして隆春を食べようとしなかったんだよ。よく考えてよ、あの状況下においておかしかったのはわたしが隆春くんの肉を食べないことと譲くんが殺されてしまうことが関係してしまっていることだよ、そのふたつはほんとうにはなんの関係もないことなんだよ、あの場所に条件としてならべられるものではなかったんだよ、譲くんがわたしが隆春くんの肉を食べることをこばんでいたのを見てわたしが譲くんのことをなんにも思っていないんだと思うのであれば、それは、わたしたちの気持ちよりもあの状況下に提示された条件のほうが先行してしまっているということだよ、でも、その考えかたやその感じかたはきっとまちがっているんだ、あたえられた状況下とその内部で提示された条件にしたがってわたしの気持ちを想像しないでよ。それはぎゃくだよ、俺たちはある状況下において、そしてその状況下に提示された論理的ですらない条件にしたがって生きていくしかないんだよ、俺たちはそのなかでおたがいの気持ちをたしかめあっていくしかないんだ、俺は花びらがどんな夢を見ているのか知らない、俺は花びらの夢にはきっと近づくこともできないだろう、でも、花びらの考えかたや夢の見かたを俺におしつけるなよ。おしつけているわけじゃないよ、ねえ、わたしはわたしなんだよ、わたしはわたしとして生きて、動いて、考えて、感じているんだ、これはそれだけの話なんだよ。ちがうよ、これは俺たちの考えかたや感じかたの問題じゃない、俺たちがただの肉の身体として生きたり死んだり、あるいは傷ついたりするかどうかの話だよ、低俗で、たんじゅんな話だ。ねえ、譲くん、そんなふうにわりきってしまってはだめだよ、わりきったり、わたしたちのありかたを要素要素にわけて考えてしまったりしたらだめだよ、わたしたちは諸要素の複合としてのありかたをしているんだから、その諸要素の複合としてのわたしたちのありかたそのものを考えないとうまく生きていけないよ。俺たちの諸要素の複合としてのありかたを考えた結果として、花びらは俺を見殺しにするのか。わたしはただ。ふざけるなよ、おまえが言っていることはそういうことじゃないか、諸要素としての複合として考えた結果として、俺が死ぬということもおまえにとっていくつかある要素のひとつになりさがっているじゃないか、だからおまえはへいきで俺たちをきりすてることができるんだよ、けっきょくのところ、おまえにとって俺が死ぬことも隆春が死ぬこともどうでもいいことなんだよ、おまえにとって俺や隆春はいくつかある些末な要素でしかないんだよ、俺や隆春が死んだとしても諸要素の複合としてのおまえの存在はなにも傷つかないし、そこなわれもしない、おまえは諸要素の複合としてあるおまえ自身を愛しているだけで、おまえはその要素のひとつひとつを個々に愛することができないんだよ。やめてよ、と靴子が言った。ねえ、傷つけあうことはやめてよ、わたしは花びらちゃんも譲くんもやさしいことを知っているよ、譲くんが隆春くんが死んでしまったことをかなしんでいることはとてもよくわかるよ、それに、わたしには花びらちゃんが隆春くんが死んでしまったことをかなしんでいることもとてもよくわかる、ねえ、ふたりはただそれをちがう言葉で表現しているだけなんだよ、それなのに、どうしてそのことで傷つけあわなくちゃいけないんだろう、わたしはふたりがやさしいことをちゃんと知っているよ、たいせつなひとが死んでしまったときにかなしむことができるふたりだってちゃんと知っているよ、わたしがふたりがやさしいことを知っているから、それでいいでしょう、ねえ、それじゃだめなのかな、それじゃたりないのかな。そうじゃないんだよ。譲はそう言って靴子に手をのばそうとした。でもそれはただの欲望のように感じられて、指の先端がふれたところでひきつりに似た痛みすら覚えた。指先をはなそうと思ったけれどうまくはなせなくて、指先は靴子の鎖骨のうえでとどまりつづけて愛しい思いがふくれあがった。花びらはうつむいて靴子の腿の肉を見つめていた。その目の真下の中空にざらついたまつげが浮かんでいた。もうねむったほうがいい、マタイがさんにんにかろうじてとどくくらいのかすかな声でそう言った。炎に照らされてマタイの顔面は蜜色に染められ、それはよく育てられた家畜のように見えた。さんにんはマタイのほうに目を向けたけれど、なにかをうまく言うことはできなかった。マタイはゆっくりとたちあがってさんにんが座る場所に向かって歩きはじめていた。横になっていたルカが寝がえりをうち、マタイさん、と声をかけた。マタイは歩みをとめてふりかえった。なんだよ。どこへいくつもりですか。なにもしないよ。火を見ておいてくださいよ。おまえが見ていろよ。ルカは下半身を毛布にくるんだまま上半身を持ちあげ、床のうえを這うようにして焚き火まで近づいた。そのあいだ視線はマタイとその向こうの薄暗がりのさんにんのかたちを見つめていた。ルカの手が動いて本がやぶかれ、そのかけらが炎のなかに投げいれられた。炎のいきおいが一瞬だけつよくなって白色と橙色がその周縁でたがいを溶けあわせているのが美しかった。くだらない話をしていないでねむれよ、生きのこりたいと思っているんだろう。マタイは花びらに近づいてそう言った。くだらない話じゃないよ、たいせつな話をしているんだ、と花びらは言った。マタイは鼻で笑った。おまえたちはかんちがいをしているよ、かりにおまえたちがしている話がおまえたちにとってたいせつなものであったとしても、いまこの場所この時間のなかでおまえたちが話しあったところで、おまえたちがたがいの気持ちを理解し、たがいの気持ちをいつくしみあえるようになんてならないよ。そんなことはわかっているよ、と花びらは言った。譲と靴子が花びらの横顔を見つめ、それからすぐに目をそらした。ふたりともいたたまれない気持ちになっていた。ルカが自分を見つめていることに花びらは気づいていた。そして皮膚の表面を這いまわるその濡れたざらつきに気持ちわるさを感じていた。ルカの瞳のなかの白色はろうのようにすこしだけ溶けだしていた。その下端のなかで火の粉がはじけとぶそのやりかたにあわせてこまかな魂のような粒子が絶え間なくちらついていた。わたしはいまこの場所でこれまでになかった靴子ちゃんやこれまでになかった譲くんとふれあって、そしてそのありかたを理解しようとしているわけじゃないよ、と花びらはマタイに言った。譲くんの気持ちを理解して、わたしの気持ちをさらけだして、そのなかでおたがいが傷つかないありかたでの合意を求めているわけじゃないよ。俺はそうなんだと思っていたよ、と譲がつぶやいた。マタイと花びらは譲を見つめた。おたがいの気持ちに合意なんていらない、と花びらははっきりと言った。だったら、どうしておまえたちはこんな状況下でいつまでもくだらないことを話しているんだよ、とマタイは言った。おまえたちは俺たちに聞こえないと思っていたかもしれないけれど、俺は耳がいいから、会話はすべて聞こえていたよ、俺はおまえたちが俺たちから逃げる手段を必死になって考えるだろうと思っていたけれど、そうじゃなかった。それが不思議なことなのかな、と花びらは言った。そうだよ、だってそうじゃないか、そういう相談をするのがふつうだろう、おまえが言うとおりあの男はもう死んでいるんだよ、その男の死をかなしむとかかなしまないとか、いまはそんなくだらないことで言いあらそいをしている場合じゃないだろう。だいたいはあなたの言うとおりだと思うよ、と花びらは言った。でも、わたしはわたしたちが会話していたことがくだらないことだとは思わない。くだらないよ、けっきょく、その男も、そしておまえも、にんげんはだれかに愛されうるという前提のもとでたがいのこころのありかたを探りあっているだけだ、おまえたちが言いあらそったあとになにがのこるんだよ、実際的に役にたつことがひとかけらだってあるのか、たがいの感情や気持ちのありかたを自分のなかで確信めいたものとして位置づけたとして、それがどうなるっていうんだよ。どうにかなるとかならないとか、役にたつとかたたないとか、そういうことじゃない、と花びらは言った。わたしはただこの場所で、この時間のなかで、この状況下において、わたしがしたいと思うことをしているだけだ。遠い場所でルカがしたを向いて唇のはしをつよく噛みしめた。まだにんげんの脂が色濃くのこりぬるぬるとした唇だった。マタイは目をほそめてくちのはしをあげた。声はあげなかったけれど、それはなんらかの祝福にたるような言葉のように思えてうれしくなっていた。だれかを実際に愛することができるとか、できないとか、そういうことじゃない、と花びらは言った。なにものこらなくても、どんな価値もないとしても、だれかを愛することについての話はすべてとうとい。俺は生まれたときからだれにも愛されたことはなかった、とマタイは言った。おまえなんか生まなければよかったと母親に言われつづけて育てられてきた、父親は冷徹な男で、なんの仕事をしているのかも知らなかった、夜おそくに帰ってきて、いつも昼までねむっていた、俺が母親になにを言われても俺のほうを見なかった、最初から俺に興味がなかったんだろうと俺は思っていた、それでも、ときどき俺を殴った、自分の手が赤くなって皮がすりきれるまで俺を殴りつづけた、そういうときの父親はいつも無表情だった、俺はこの男はいったいどういういきものなんだろうと思ってばかりいた、父親だと呼ばれるいきものだということはかろうじてわかったけれど、それ以外のことはなにもわからなかった、父親は俺を殴ることによろこびを感じているようには見えなかった、けれど、かなしみを感じているようにも見えなかった、なにをきっかけにして父親が俺を殴るのかわからなかった、俺が父親になにかを話しかけたときに殴りつけられたこともあった、そのいっぽうで、なにも話しかけなかったときに殴られたこともあった、笑っていても殴られ、無表情でいるときも殴られた、ひとつの季節のあいだずっと殴られないこともあった、毎日すこしずつ殴られることもあった、俺は父親と会話を交わしたことがなかった、俺になにか要望があるときには父親はいつも母親に向かって話しかけていた、父親が母親に向かって庭にでて牛乳をとってこいと言う、母親が庭にでようとすると、父親は、おまえがやる仕事か、と言うんだ、すると母親は俺に向かって庭にでて牛乳をとってこいとあたかも自分が考えついた命令のように言う、そして、俺は命令どおりに庭にでて牛乳をとってくる、ところが、俺はその牛乳を直接父親に持っていってはいけないんだ、父親に牛乳をさしだしても、父親は俺と牛乳をまるで無視するか、俺を殴りつけるかのどちらかだった、だから、俺はその牛乳を欲しているのが父親だと知りながらも母親のもとへその牛乳を持っていくんだ、母親はそれをうけとり、そして、あっちへいっていなさいと俺に言う、あっち、と言うのは俺がいる場所から母親の姿も父親の姿も見えない場所のことだ、そして、俺を母親も父親も見ることができない場所へ移動させてから、母親はあたかも自分がとってきたかのように父親に牛乳をさしだすんだ、当時の俺には母親と父親がどうしてそこまで演技めいた規定を守りつづけているのかまるで理解できなかった、それはあきらかにくだらない規定だった、けれど、母親と父親はそのくだらない規定すらを自分たちや俺に守らせることでなにかしら絶対的な権威を自分たちと俺に認識させようと思っていたんじゃないだろうかと思う、権威とは身にまとうものではなく、その瞬間瞬間につくりだしていくものだとすくなくとも父親は知っていた、俺は父親に恐怖していた、俺はそのころ俺の家や俺の畑ぐらいしか場所を知らなかったけれど、俺の家や俺の畑以外のすべての場所の憎悪をいっしんに背負っているような責任めいたちからが俺の父親にはそなわっているように見えた、けっきょく、父親は俺がまだちいさいころに家からでていった、俺は最後まで父親の名前を知らないままだった、いま思えばあの男は父親ですらなかったのかもしれない、俺の家には俺と母親とあの男しかいなかったから無意識にそう思いこんでいただけで、ほんとうは、あの男は俺の母親となにかしらの関係があるただの男だったのかもしれない。花びらはすこしだけ肩を落として目のまえの中空に指をひろげた。骨のかたちが皮膚のうえにいびつにもりあがっていて、そのいちばん高い場所が月と星の光に照らされて透けて見えた。3歳か4歳ぐらいのころ、俺は母親に畑につれていかれ、じゃがいもを掘りだしてかごにいれろと命令された、とマタイは言った。ひろい畑だった、もしかしたら俺の家の畑ではなかったかもしれない、ほんとうに広大な場所だった、畑の先端は空のいちばん低い場所とつながり、あたりにある建物は俺の家だけだった、ときどき、この国には俺と母親以外はだれも住んでいないんじゃないだろうかと思えるくらいだった、じゃがいも畑は荒野に似ていた、つよい風がふくと畑の土がもうもうと舞いあがり口や目のなかにはいりこんできた、目をこすり、口のなかに唾をため、土ぼこりを吐きだしながら、俺はくる日もくる日もじゃがいもを掘りつづけた、母親もいっしょだったけれど、わざと俺とは遠い場所で作業をしていた、でも、俺が作業をさぼったり掘りだしたじゃがいもをかじったりするとすぐに飛んできて俺のことを殴り、罵った、兵士になるまで、俺はずっとじゃがいもを掘ってばかりいた、じゃがいもを掘っては母親に殴られ、掘っては殴られ、それを永遠に近しいほどの薄さでくりかえしていた、夜、たまに俺の父親とはちがう男がやってくることがあった、そういう男たちも俺をまるで存在していないようにあつかった、俺をなにものとしてもあつかうことはなかった、俺のことなんかすべて無視していた、いちど、母親と男が牛の肉を食べながら酒を飲んでいることがあった、俺もおなじ部屋のなかにいた、母親と男はほんとうにたのしそうだった、会話をしながらもやさしい微笑みをたやさなかった、会話のとぎれめには目と目を交わしあいおたがいの愛をいまそこにあるものとして確認しあっていた、たがいの長所を褒めあい、それが的確であればあるほど深い森のおくに潜んだ肉を食う鳥のような鳴き声で笑った、ふたりはこれからの将来についても語りあった、今年収穫したじゃがいもを売りはらい、畑も土地もすべて売りはらい、手にいれた金貨でこの土地をはなれ、海の見える港町にひっこしてささやかに暮らしていこうという夢だった、母親は細工の凝ったきれいな小物をあつかう店をひらきたいと言い、男は港町にやってくる旅行者の写真を撮る仕事をしたいと言った、けれど、その夢物語に俺の名前も俺の存在もひとかけらもでてくることはなかった、やがて、俺はふらふらと食卓のほうに向かっていった、なにかをしてもらおうと思ったわけじゃない、その夢物語に俺をまぜこんでくれと思ったわけでもない、俺はただその食卓のかたわらにいたかっただけだった、相手にされなくてもいい、それでも俺はせめてすこしだけでもそのにぎやかでいながらも親密な空気のなかに溶けこんでいきたかった、俺は食卓に近より、食卓のはしに指をかけ、椅子に座った母親と男の顔を交互に見つめた、そのとき、俺のこころのなかに牛の肉をわけてもらえるかもしれないという気持ちがはっきりと浮かんだ、俺がそんな気持ちになったのは生まれてはじめてだった、俺のなかで牛の肉にたいする欲望が、あるいはそれとまるで区別をつけることができない母親に向けられた愛情が、俺のなかで濃くむせかえった、俺は満面の笑顔をつくった、男に向けられた母親の笑顔も、母親に向けられた男の笑顔も、すべてはその瞬間の俺のためだけにつくられたもののように、その一瞬だけは思えた、けれど、俺が食卓のはしに指をかけたとたん、母親と男の会話がぴたりとやんだ、ひっきりなしに動いていた指も肩もろうで塗りかためられたみたいに空中で静止をした、俺はすぐに後悔をした、でも、もうすべてが手おくれだった、なにをしていいのかもわからなくて、俺はばかみたいな笑顔を浮かべながら静止してしまったふたりの顔を交互に見つめつづけるしかなかった、それから1時間がたった、母親と男は1時間のあいだ静止をつづけ、俺も1時間のあいだ母親と男の顔を交互に見つめつづけていた、ちょうど母親と男のあいだの空間の向こうの壁に鳩時計がかけてあった、だから、俺はそのときの時間の流れかたのすべてを理解していた、特定の時刻になったとき、時計のなかから鳩が飛びだしてきて機械じみた声で何度か鳴いた、母親は静止をしたままだったけれど、男はたちあがった、そして、俺をてっぺんから見つめた、男の両手がのび、手のこうから生えた虫のような指たちが俺の首を絞めつけた、頭のなかから血がぬけていくのがわかった、つぎにやってきたのはかるい痺れだった、ほんとうにかるく、けれど、それはいつまでもとれない痺れだった、胃のなかのじゃがいもがいやないきおいで食道をのぼっていった、それでも俺はなにも吐けなかった、その過程のなかで、俺はずっとその男の顔を見ようとしていた、でも見えなかった、男の顔面の向こう側にやけににごった白い電灯の光が見えた、にぶい、きたない光だった、電灯の光が逆光になり、男の顔は見えなかった、顔の中心は真っ黒で、鼻やくちのおうとつのぐあいはわかったけれど、それ以外はほとんどただの黒くてまるいかたまりだった、ただ、白目のあたりだけがうっすらとわかるくらいには色素をおびていた、俺ははっきりとこわいと思った、ほんとうのところはどうだったのかいまの俺にもよくわからないけれど、俺にはその男がなんの表情も浮かべていないように見えた、男の黒いかたまりにあったその白目はその男が抱えこんでしまったこれからこの国すべてにひろがっていくだろう悪意のほんとうのおくそこみたいに見えた、そして、そのとき俺は思ったんだ、この男はもしかしたら俺のほんとうの父親なのかもしれない、だからこそこの男は俺をこんなにもにくんでいるのかもしれない、俺はそう思ったんだ、でも、それはもういい、もうどうでもいいんだ、男はけっきょく俺を殺しはしなかった、やがて手をはなし、俺は床に倒れこんだ、つめたい床だった、首からしたの身体の部分を熱くした俺は床に身体をおしつけ、そうしながら胃のなかにつめこまれていたじゃがいもをげえげえと吐きちらしていた、吐きだされたじゃがいものかけらから芽がふきだしていた、それを見つめながらも俺は吐きちらしつづけていた、とまらなかった、俺は俺が俺の身体を床にこすりつけているのか吐瀉物におしつけているのかわからなくなっていた、吐瀉物はなまあたたかく、そのなかでのたうちながらときどき感じた床のつめたさとかたさを俺はいまも鮮明に覚えている、男は倒れこんだ俺の頭を何度か蹴って食事にもどった、母親は俺が首を絞められそして吐瀉物のなかでのたうちまわっているあいだずっとナイフとフォークで男のぶんの牛の肉をきりわけていた、俺の首を絞めおわったあとなら手も疲れているだろうからと、その時間を利用して男のぶんの牛の肉をきりわけていたんだ、それは、俺にとってとてもおおきなことだった、母親のその行為は俺に向けての残酷さでもあり、同時に男に向けてのやさしさでもあった、なあ、俺はそのときこの世界の絶対的なしくみを理解できたような気がしたんだ、俺はそのときわかったような気がした、俺以外に向けられたやさしさはすべて俺にとっての残酷さとひとしく、同時に、俺以外に向けられた残酷さは俺にとってのやさしさとひとしい、俺はほんとうにそう思ったんだ、なあ、おまえには俺が言っていることがわかるか。わからないよ、と花びらは言った。それに、わかるつもりもない、それをみとめてしまうなら、あなたたちの行為もみとめてしまうような気がする、あなたたちは隆春くんを殺した、わたしは、あなたたちはわたしたちにとって残酷だと思う、けれど、あなたたちが隆春くんを殺したその残酷さが、同時に、ほかのだれか、たとえば生きのこったわたしたちさんにんに向けられたやさしさだなんてけっして思わない。マタイのくちが真横にひろがって頬とひたいにおおきく皺がより、目がいままでの倍くらいにおおきくなった。たとえおまえがみとめなくても、俺たちがあの男の子を殺したことはおまえたちに向けられたやさしさをふくんでいるんだよ、すべてそうだよ、俺たちが戦場で戦い、兵士を、そして村人たちを殺しつづけたそのこともすべてほかのだれかに向けられたやさしさなんだよ。わたしにはわからない。俺はそのときからずっとそういうことを考えて生きてきたんだ、生きてきたというほどの生きかたではなかったけれど、それでも俺は生きつづけてきたんだよ、俺にだってわかっていた、母親の行為も、母親が家のなかにつれてくる男たちの行為も、俺に向けられたやさしさではなかった、でも、それは俺の知らないところで俺の知らないだれかに向けられたやさしさなのかもしれなかった、そして同時に、俺の知らないところで俺の知らないだれかがやった行為も俺に向けられたやさしさでありえるということなんだよ、そのときから俺は母親や母親がつれてくる男たちからなにかを期待することをやめた、このにんげんたちこそが俺とはもっとも無関係なにんげんたちなんだと思うことにした、俺は母親にしゃべりかけるのをやめた、畑から帰ると薄暗い部屋のかたすみにひっこんでねむる時間がやってくるまでひたすらじゃがいもをかじった、いくつ食べても母親はもうなにも言わなかった、じゃがいもは山のようにあった、じゃがいもを食べながら俺は痛々しいながらも期待をしていた、けれど、それは母親や母親がつれてくる男たちへとかつて向けていた期待とはまったくべつの期待だった、俺の知らない場所で俺の知らないにんげんによっておこなわれた残酷な行為の、そのなかにほんのわずかでもふくまれているだろう俺へのやさしさがたまりたまって、そのうちにかたちをなして俺のもとへ降りそそぐだろうと俺は期待をしていたんだ、その期待を待ちつづけているあいだ、俺はこのとおりぶくぶくとふとりつづけた、でも後悔はしなかった、俺はそのときじゃがいもをかじってふとりつづけながら見えない期待を待ちつづける以外になにもやることがなかったんだ、もっとも、俺がかじっていたのはじゃがいもではなかった、俺がほんとうにかじっていたのは、きっと、知らない場所の知らないだれかの行為にふくまれた俺へのやさしさに向けられた方向性の胞子だったんだ。ねえ、と花びらは言った。あなたは、それなら、だれかにやさしくしたことはあるのかな。あるよ、とマタイは言った。俺はいま、おまえたちにとてもやさしくしているよ。花びらはすこしだけ顔をあげてマタイの顔のしたはんぶんを見つめたけれど、ふくらんだ頬のうえにはりついた眼球まではうまく見ることはできなかった。マタイは花びらのつづきの言葉をしばらくのあいだ待っていたけれど、そのうちにあきらめた。それに、俺がやさしくしなくても、だれかはそれなりにやさしくしてくれるんだよ、そういう場所はちゃんとある、そういうひとだってちゃんといるんだよ、とマタイは言った。ある日、ヨハネさんが俺を兵隊にとりにやってきた、俺はヨハネさんがくるまで俺がどこかべつの場所へいけるだろうということを考えつきもしなかった、どこかへいくということを考えるということそのものが俺のなかにはなかった、俺は俺をかこんでいたじゃがいもの山のなかからひとつをとりだしてヨハネさんにわたした、ヨハネさんはそのじゃがいもをひとくちかじり、ほんとうにうまいジャガイモだと言った、そして、けれどこれからはおまえの手はじゃがいもを掘るためにつかわれるべきではないと言った、おまえはその手で銃をにぎり、その指でひきがねをひくんだ、俺はそのときぞっとした、俺は俺の手がじゃがいもを掘る以外につかえる可能性がありえるんだろうかと思った、でも、ヨハネさんについていって俺はわかったんだ、銃をにぎることもひきがねをひくことも、俺にとってはじゃがいもを掘るくらいにはたやすいことだった、俺は気づいたんだ、にんげんはやろうと思えばなんだってできる、俺がいままでいた場所とはちがう場所にいくことも、そこにいつづけることも、じゃがいもをかじらないでいることも、銃を手にとってだれかを殺すことも、そして、俺がいままで話していたにんげんとはちがうにんげんに話しかけることも、俺にはできるんだと気づいたんだ、あるいは、俺たちにはいつでもそうあれる可能性があるということに。もしも、だれかに向けられた残酷さがほかのだれかに向けられたやさしさだとほんとうにあなたが思っているのなら、と花びらは言ってそこでくちをつぐんだ。遠い場所でルカの瞳が光っているのが見えた。ルカは膝にかけた毛布をいちど手にとって腿のところまでひきあげた。そうだとしたら、あなたはとてもあわれなにんげんだよ。花びらはまるで祝福であるかのようにその言葉をくちにした。マタイはその言葉を否定することはなく、ただ花びらがそう言うことじたいが自分以外のだれかに向けられたやさしさだろうという気がした。俺はおまえのことがとても好きだよ、とマタイは言った。愛していると言ってもいいくらいだ。わたしはあなたのことがだいきらいだよ。俺はおまえたちにやさしくしているつもりだよ、俺はほんとうにはおまえたちが逃げていってくれればいいと思っているんだ、だから、さっきだって俺はおまえたちが会話をしていてもなにも言わなかった、俺はわざわざおまえたちにそういう時間をあたえたんだよ、おまえたちが俺たちから逃げる手段を考えてくれていたらと思ったよ、かりにおまえたちがもっと気をつかい、もっとちいさな声で俺たちから逃げる手段を相談しあったとしても、俺はほうっておくつもりだった。それはうそだよ。うそじゃないよ、ルカも言ったことだけれど、俺たちはおまえたちを殺したいわけじゃないんだ、だから、かりにこれから俺たちがおまえたちを殺すとしたら、そのときまちがいを犯したのは俺たちではなくおまえたちだ、おまえたちがなんらかの気持ちを持ち、なんらかの行為をした場合においてのみ、俺たちはおまえたちを殺すだろう、つまり、おまえたちがつくりだす状況が俺たちにおまえたちを殺させるんだよ。そんなことは言いわけだよ、あなたはほんとうはわたしたちを殺したくてしかたがないんだよ、あなたはくちではそう言っても、けっきょく、わたしたちを殺すことができる理由をいまも探しもとめているんだよ。ちがうよ、俺は本心からそう言っているんだ、だから、おまえには俺たちにおまえたちを殺させるようなことをしないでほしいんだ。あなたはあなたたちがわたしたちを殺す理由をわたしたちにおしつけようとしているだけだ。それはただの認識の相違だよ、これからおこりえるできごとにたいして、俺もおまえも、そのできごとを言葉でもって表現しようとしているだけだ、ちがう立場、ちがうにんげんがあるできごとを表現しているんだ、ちがう表現がそこにたちあわわれるのはあたりまえだよ、俺が言いたいのは、たとえ、そのできごとが過去から、あるいは未来から、言葉でもってどんなかたちで表現されえるものだとしても、そのできごとが持ちえる現実性はなにも揺るがないということだよ、つまり、俺たちがあとになっておまえたちを殺したとしても、そして、そのできごとについて俺たちやおまえたちがどんな気持ちやどんな理由づけをしようと、いまこの瞬間にも、将来にわたっても、俺たちがおまえたちを殺す意志がまるでないにもかかわらずおまえたちが将来俺たちに殺されるとすれば、それはおまえたちがひきおこしたなんらかの要因によっているという事実はすでに現実性をもったできごととしてそこに固着するんだ。だったら、わたしたちやあなたたちの言葉や表現にはいったいなんの意味があるんだろう。そんなものには意味がないよ、どちらにしろ、おまえたちは、あるいはルカもそうだけれど、おまえたちは言葉や表現にこだわりすぎているんだよ、だれかがだれかを殺したとしたら、それはだれかがだれかを殺したというだけのことだ、ところが、おまえたちはそのときのだれかの状況や気持ちを問題にしてだれかを殺したにんげんを許したり許さなかったりするんだ、まったくおかしなことだよ。わたしはそうは思わない、そして、ほんとうにはあなたもそうだとは思っていないと思う。どうして。そうだったとしたら、あなたはわたしたちに向かって病院のなかで電話待ちの行列にならびつづけた男の話なんてしなかった、過去にだれかに殴りつけられて生きてきた話なんてしなかった。俺は俺が語った物語によっておまえたちになんらかの感情を抱いてほしいと思ったわけじゃないよ、かんちがいをするなよ、実際におこったものごととそれを語った物語のあいだにはなんの関係もない、あるいは、物語として語られた内容とそれによって抱かされたべつのにんげんの感情のあいだにもなんの関係もない。それでも、わたしたちが抱いた感情じたいが無為になってしまうわけじゃないよ。おまえが抱く感情によって俺たちにおまえたちを解放させることができないとしても、あるいはおまえの友達ともういちどこころをかよいあわせることができないとしても、おまえはそう言えるのか。言えるよ。どうして。わたしはわたしたちの感情に実際的な効果を求めているわけじゃない。それはただの夢だ、おまえがそれを求めていなくても、世界は感情を実際的なものとしてとりあつかっているんだよ、それだけじゃない、実際的なものとしてとりあつかうことができるものだけを感情と呼んでいるんだよ。そうだとしても、それがただしいとはかぎらないよ、すくなくとも、わたしは実際的なものとして抽出されるためになんらかの感情を抱くわけじゃない、あなたたちやほかのにんげんたちがわたしたちの感情をどんなふうにあつかおうとわたしはかまわない、けれど、そんなふうにあつかわれたとしても、わたしの感情がそんなふうなものだとだれにも決めつけることはできない。マタイはそっと腕をのばして花びらの頬にふれ、その肉をかるくひっぱった。花びらの唇がつられてひっぱられ、その隙間からわずかに歯が見えた。くちはかわききって歯は唇にくっついていたけれど、花びらはゆっくりと舌を動かして唇を濡らし、歯をそこからひきはなした。おまえはまるで感情をたっぷりとつめこんだ人形のようだよ、とマタイは言った。侮辱しないで。侮辱しているんじゃない、褒めているんだ。マタイは手をひいてたちあがった。おまえももうねむったほうがいい。花びらが目を向けると、譲はすっかり目をつむり靴子の肩から胸の部分にかけてその頭部をおしつけてねむりこんでいた。そのくちからはおだやかな呼吸すらも聞こえていた。靴子もまたおなじように目をつむっていたけれど、すっかりねむりこんでいたというわけではなく、花びらがしばらくその姿を見ていると薄く目をあけた。ねむっていたのかな、と花びらはちいさな声で言った。ねむっていなかったよ、というかたちに靴子のくちが動いた。靴子は声をだしていたつもりだったけれど、その声はあまりにもちいさすぎて花びらの耳にはとどかなかった。靴子は目をはっきりとひらいて自分の身体によりかかる譲の髪の毛にそっとふれた。すこしだけ湿り気をおびていたけれど、ほそくて繊細な髪の毛だった。月明かりに照らされて譲の顔に靴子の手のかたちを肥大した影ができあがっていた。その影をくっつけた譲の顔は自分が望むかたちで死をむかえたひとのように安らかに見えた。マタイは焚き火のそばまでもどって自分の毛布にくるまってまるくなった。焚き火の揺らぎにあわせて毛布のはしも薄墨色の空気のなかに溶けこんでいた。マタイの身体ががらくたにように動くと毛布がはだけてその隙間からときどきマタイのおしりの部分が見えた。ルカはねむるマタイの姿をしばらくのあいだ見ていたけれど、やがて目をそらし、靴子たちさんにんの姿を見つめたりいまだかすかに燃えつづけている焚き火の炎を見つめたりしていた。わたしたちももうねむろうか、と花びらは言った。うん、と靴子は言って、譲の頭を両手で空中に固定してすこしずつもともとあった空間から自分の身体をぬきさっていった。譲の表情は靴子の身体によりかかっていたときとおなじかたちでありつづけていて、靴子の肩から胸にもしばらくのあいだ譲の頭部がおしつけられていたときにできた湿り気と熱がのこりつづけた。靴子は両手を譲の後頭部で抱えたままそっと床に近づけていった。床のうえに自分の指があたったときに一瞬だけ床のつめたさを感じたけれど、それを感じつづけることはなく、譲の頭と床のあいだからやさしく指をぬきとっていった。譲の頭と床がぶつかりあったときにでるかもしれなかった音はなにもなくて、床に頭がつけられてすぐに譲の頭ははんぶんだけ回転をしたけれど、譲はおきることなく規則ただしい呼吸をつづけていた。横たわった譲の全身が青白い月の光が照らされていた。むぞうさにのばされたその腕とその先端にのびる手は薄い白色に輝き、その内部の血管や骨が透きとおって見えるようだった。靴子も花びらもおなじ歳の男の子がねむっている姿を見るのははじめてだった。その横顔はふだんふたりが知っている顔よりもとてもおさなく見えた。ふたりは痛々しいちいさな死体を見るようなやりかたでその顔をながめつづけ、やがて、そこからほんのすこしだけはなれた教室のすみに移動した。光のたまりはもう消えうせかけていて、そのかわりに青白い光が教室のすべてをあかるく照らしていた。
 花びらと靴子はおたがいに背を向けあって床のうえにねそべった。花びらの身体の前面は兵士たちとルカが見まもる焚き火の光のほうに向けられていて、靴子の前面にはただあまりに近い壁だけがあった。床はつめたかったけれど、月と星の光でその表面は薄くぼんやりと青色に輝いていた。暗くなってからは気づくことができなかった床のほこりや髪の毛が拡大されたように目のまえにあらわれ、息をふきかけるとそれらは一瞬のあいだ形状を揺らし、つぎの瞬間には視界のかたすみからだれも知らない場所へと飛んでいった。靴子は長いあいだ目をつむらなかった。さっきまでねむたくてたまらなくて、譲のねむった身体がおしつけられていたときにはこのままねむってしまえたらどんなに気持ちいいだろうと思っていたのに、ねむらなくてはいけないということを意識したとたん、ねむることにたいする不安とあせりがこころのなかで痙攣をはじめていた。いつもねむっているときにどんなかっこうをしていただろうと思いかえそうとしたけれど、どんなに記憶をたぐってもいつものかっこうを思いだすことはできなかった。足をくの字に曲げても、手をおなかのうえや性器の近くにおいてみても、どんな体勢をしてみたところでそれがねむるときにおけるてきせつなかっこうだとは思えなかった。ねむるときにそれにふさわしいかっこうができないというただそれだけが致命的な欠陥のように思えて、その欠陥が靴子に靴子自身を女の子やにんげんではないように錯覚させていた。兵士たちに監禁されている状況がそうさせているのか、毛布も寝台もなくただ教室の床のうえにねころがっているという状況がそうさせているのか、あるいはすぐそばに譲がいるという状況がそうさせているのか、靴子にはわからなかった。そのすべての状況がすこしずつまざりあったなかでねむれないのかもしれなかったけれど、かといって、原因を特定できたところでそれが気持ちのいいねむりをもたらすとも思えなかった。手をのばせばそこに花びらがいるはずなのに、この教室のなかでひとりぼっちのような気持ちがした。監禁されている恐怖やいまにも銃で撃ち殺されるかもしれない恐怖は遠くにはなれさっていて、隆春が死んだことについてももう意識できなくなっていた。隆春が死んだことは靴子のなかでいまここに隆春がいないということとまったくおなじ感覚として思われていて、それなのに、靴子はその同一性に気づくことすらできていなかった。ただそこにねころがっていることだけがつらいような気持ちがして、すこしだけおおきな息を吐いて足を虫のように動かした。かかとが一瞬だけ花びらのどこかの部位にふれたけれど、靴子はそこにちいさな罪を感じてすぐに足をひいた。手のひらを顔面におしつけてつよくにおいをかぐとおしっこのようなにおいと金属のようなにおいが微妙にまざりあっているように感じた。でも、きっとそれは夏草のにおいだった。靴子ちゃん、ねむれないのかな、という声が魂のかすのように響いた。靴子は聞きちがいかもしれないと思って無視をしていたけれど、それは時間をおきながらも断続的に聞こえつづけていた。その声は光をたれながすみたいに湿り気をおびていて、その繊細さが靴子の心臓をことこととうった。やがて、靴子の背中のもっと向こうできぬずれの音が響き、湿った肉のさきが靴子のふくらはぎのうらを這った。花びらののばされた足の先端からのびたつめが靴子のふくらはぎの表面を痛くない程度にこりこりとひっかいていた。靴子は床に手をつき、その背面におかれた花びらの身体にふれないようにゆっくりと身体をおこしてふりかえった。靴子の顔面と花びらの顔面が向かいあうまでのほんのわずかな時間の隙間に、靴子は床にひろがる花びらの身体とそこから暗くのびていく教室の床を、教室の床から萎えた植物のように生えているルカの姿を、そしてルカの姿をおおうこの惑星のすべてを見ていた。いきおいのよわまった焚き火の炎がルカの鼻のあたまを白々と照らしだしていた。その頬はおちくぼみ、ぱさついたまつげはたれさがり、ほとんどねむっているようにすら見えた。靴子ちゃん、と花びらがやさしく声をかけた。靴子はさっきからずっとルカの姿ではなく花びらの顔面を見つめていたはずなのに、それを見つめていたことにはじめて気づいてひどくおどろいた。ねむっていたのかな、おこしてしまったかな、そうだとしたら、ごめんね。花びらの頬は青白く、髪の毛たちは汗とほこりとなまあたたかい空気につつまれておれまがっていた。その青白い光やその光をきりさく黒いすじたちのまんなかで花びらの瞳が狂ったような輝きをはなっていた。瞳のなかにはべつの夜空が浮かんでいた。そしてそのなかのひとつが靴子たちが暮らしているこの惑星だった。ねむっていたわけじゃないんだ、と靴子は言った。うん。けれど、おきていたというわけでもないような気がするんだ、ねむっていたのか、おきていたのかもよくわからない。うん。たまにそういうことがあるんだ、夜中にふっと意識が回復すると、いまの瞬間までわたしがねむっていたのか、おきていたのか、よくわからないことがあるんだ、わたしはねむっていたような気がするんだけれど、そうじゃなくて、ねむっているということをずっとやさしく想像していただけのような気もする、それに、ぎゃくのこともあるんだよ、毛布のなかにくるまって、目をとじながらずっとなにかを想像したり考えたりしていて、ある瞬間にまくらもとにおいた携帯電話で時間をたしかめるとびっくりするくらいの時間が流れさっていってしまっているんだ、そういうとき、わたしが部屋の明かりを消して毛布のなかにくるまってそれから携帯電話で時間をたしかめるまでの時間がとてもはやくすぎさっていってしまったように思えて不安になっていたんだけれど、そうじゃなくて、わたしはただたんにねむっていただけなのかもしれない、ねむって、なにかを想像したり考えたりしている夢を見ているだけで、じっさいにはなにかを想像したり考えたりしてはいなかったのかもしれない。わたしもそういうこと、あるよ。うん、ねえ、いま、何時くらいなんだろう。わからないよ、もうずっと時間を見ていないから。時間を知りたいね、こんなにも時間を知りたいと思ったことはいままでいちどだってないよ。そうかな。花びらちゃんは時間が気にならないのかな。わたしはあんまり気にしたことがない、とくに、夜の時間はあんまり気にならないよ、たとえば、昼間の3時なのか5時なのかを気にしたことはあるけれど、夜の7時なのか9時なのかはあんまり気にならない、そういう感覚は夜が深まっていくたびにつよくなっていくんだ、わたしは夜中の1時も3時もあまり気にならないように思う、そのどちらの時間にも区別をつけることがうまくできないんだよ。その感覚はわかるよ、わたしもいままでそうだった、けれど、いまだけがちがうんだよ、いまだけは、この瞬間にわたしたちがどの時間をすごしているのかをとても知りたいと思うんだよ。それは、いまの時間ができるならはやくすぎさっていってほしいっていう願望のようなものなのかな。そうかもしれない、はっきりとはわからないけれど、そうなんだろうとなんとなく思うよ。靴子ちゃんは、いまのこの時間がわたしたちのすごしてきた時間の底辺だって思っているのかな。そうだね、そう思うよ、いままで、こんなにつらいと思ったことも、こわいと思ったこともなかった。それなら、わたしたちはこれからその底辺から這いあがることができると思うかな。花びらちゃん、ねえ、わたしたち、きっとちゃんと生きて帰ることができるよ。そうだね、そうかもしれないけれど、わたしが言いたかったのはわたしたちがこれからむかえる状況のことではなくて、その状況下におけるわたしたちの気持ちのことだよ。どういう意味だろう。あの兵士のひとたちがやってきたときからずっと考えていたんだけれど、わたしたちにとって、わたしたちが感じることができる底辺の状況っていうのはいったいどういうものなんだろう、隆春くんみたいにあの兵士のひとたちに殺されてしまったとしたら、その瞬間がわたしたちの底辺なのかな、そうだとしたら、一般的ににんげんにとっての底辺はその死の瞬間にあるということになるかもしれない、でも、それはほんとうにそうなのかな、たとえば、わたしが隆春くんの感情をうけいれなかったときの隆春くんの気持ちは隆春くんが殺されてしまった瞬間よりも高い場所に位置していたのかな。ねえ、花びらちゃん、けれど、それは比較してもしかたがないことだよ。わかっているよ、わかっているけれど、どうしても考えちゃうんだよ、ねえ、靴子ちゃんが言うとおり、わたしたちがこれからちゃんと生きて帰ることができたとするよ、身体のどの部分にも傷をつけられることなく、こころにもこれ以上に傷をつけられることなく、ちゃんと帰ることができたとするよ、けれど、そうやってちゃんと帰ることができたあと、わたしたちの気持ちがいま以上に回復されることをわたしたちはどうやって信じたらいいんだろう。でも、あの兵士のひとたちがやってくるまでわたしたちは平穏でたのしい日々をすごしていたんだよ、そのときのわたしたちの気持ちが兵士のひとたちがやってきたことによって底辺の場所にまでさげられてしまったんだ、そうだとしたら、わたしたちがいままですごしてきた日々はいまのこの状況よりもずっとずっとすばらしいものだったはずだよ、だから、たとえいまのこの状況下がわたしたちにとっての底辺だったとしても、ちゃんと生きて帰ることができれば、いままですごしてきた日々にわたしたちが回帰することができれば、わたしたちの気持ちももともとあった高度までたとえゆっくりとした速度であってもちゃんと回復されていくはずだよ。ねえ、靴子ちゃん、それはきっとむりだよ、いままですごしてきた日々にわたしたちが回帰したとしても、底辺の気持ちのままにそこに回帰したわたしたちはその日々を兵士のひとたちがやってくるまえとおなじようにうけいれることはきっとできないよ、その日々がすばらしかったのは、きっと、その日々のなかですごしていたわたしたちの気持ちの高度がその日々と調和していたからだよ、調和していたころとはちがう高度にある気持ちを抱えたわたしたちはきっとその日々をまたちがったものとしてうけとめるように思う、だから、いままですごしてきた日々に回帰したとしても、わたしはわたしたちの気持ちが回復されていくだろうということをうまく信じられないんだ。花びらちゃん、そんなことを言わないでよ、だって、現実がどうであれ、わたしたちはわたしたちの気持ちが回復されることを信じて生きていくしかないんだよ、ねえ、そんなにこれからのわたしたちを悲観しないでよ。悲観しているわけじゃないんだ、ねえ、靴子ちゃん、わたしはわたしがいま言ったことがこわいわけじゃない、それがだめだと思っているわけでもないんだ、わたしたちの気持ちが回復されないかもしれない可能性がかなしいことだというわけじゃないんだよ、ただ、わたしたちはたとえそうであっても、そういうものとして生きていくしかないんだ。わたしにはよくわからないよ、わたしたちがこれからもちゃんと生きていきたいって思うことは、そう願うことは、そんなにいけないことなのかな。靴子ちゃんは、やさしいんだね。夜空の月と星の配置は変わりつつあった。その移動にともなって花びらの瞳のなかの光のひとつひとつが消えたり浮かんだりしていた。月と星の配置だけが花びらの気持ちと意志のありようを決定しているかのように靴子には思えて、それが靴子にとっての花びらの身体とこころを遠い場所においやっていた。花びらがしゃべっているあいだ、靴子はできるかぎり息をしないようにしていた。くちから漏れでた息が花びらの顔面にふきかかってしまうのがどうしてかとてもこわくて、息をとめつづけ、どうしてもこらえられなくなったときだけ鼻で呼吸をした。羽虫が花びらの髪の毛にとまり、まえの足をしばらくこすりあわせてからさっていった。でも、花びらはそれすらも気にしていなかった。うまく呼吸ができないせいでくちのなかにたまった唾を飲みこむとき、喉のおくにかゆみにも似た痛みを感じた。花びらの吐息がときどき靴子のあごから唇にかけてふきかかって靴子のうぶ毛を揺らした。その吐息は繊細な秋のはじめの空気のようにつめたく、けれどにんげんの身体のあたたかみをしっかりとまとっていた。わたしはやさしくなんかないよ、と靴子はゆっくり言った。それはかつて靴子が発したなかでもっともちいさな声で、そして、ほかのだれかにとどいた唯一の発声だった。靴子ちゃんはやさしいと思う、靴子ちゃんは他人が好きなんだよ、だから、好きなひとを好きじゃなくなっちゃうことがこわいんだよ。花びらちゃんはちがうのかな、花びらちゃんは他人が好きじゃないのかな。ねえ、靴子ちゃん、わたしは靴子ちゃんを救済したい。花びらは靴子の瞳のなかをじっと見つめ、靴子は花びらの瞳のなかをじっと見つめた。靴子は自分と花びらのくちから漏れてくる言葉の流れを理解できないでいた。ひとつの言葉を発するたびにそのまえの言葉をわすれ、花びらが靴子の質問を無視したことにすら気づいていなかった。わたしは、靴子ちゃんにこれからなにかがおこるまえにあらかじめ靴子ちゃんを救済したいと思う、なにかがおこったあとにおとずれる救済なんてきっとすべてうそだから、わたしの救済はそうじゃなくありたい、わたしは靴子ちゃんが救済されたとは気づかないやりかたで靴子ちゃんを救済したい。よくわからないよ。ねえ、約束をしよう、わたしたちがねむりこんでしまったあとに、もしも、兵士のひとたちがわたしたちを犯しにやってきたとしたら、靴子ちゃんじゃなくて、わたしが犯されることにしよう。花びらちゃん、なにを言っているんだろう。靴子ちゃんは犯されちゃだめだよ、もしも兵士のひとたちがわたしか靴子ちゃんのどちらかを犯そうとしたら、わたしがわたしを犯してくださいって言うよ、もしも兵士のひとたちがわたしと靴子ちゃんのりょうほうを犯そうとしたら、わたしがわたしを靴子ちゃんのぶんまで犯してくださいって言うよ、だから、靴子ちゃんはそれをうけいれてね、わたしがどんなひどい犯されかたをしたとしても、靴子ちゃんはわたしを犯してくださいなんて言っちゃだめだよ、わたしは、わたしを犯さないでください、そのかわりに靴子ちゃんには指いっぽんふれないでくださいって言うよ、わたしはそう言えるよ、演技じゃなくてこころのそこからそう言えるから、だいじょうぶだよ、だから、靴子ちゃんは黙っていてね、卑怯なふりをしていてね、友達が犯されても自分が犯されなくてすんでよかったってこころのどこかで安心してしまう女の子のふりをしていてね、兵士のひとたちは靴子ちゃんを嘲笑したり侮蔑したりするかもしれないけれど、わたしは嘲笑しないよ、侮蔑なんてしないよ、だから、だいじょうぶだから、ちゃんと約束をしてほしい。やめてよ、花びらちゃん、気がふれちゃったのかな、だめだよ、そういうことを考えるよりも、わたしたちふたりがふたりとも犯されなくてすむような方法を考えたほうがずっといいよ。そうだけれど、こういう状況になってしまったいまではわたしたちができることなんてそんなにおおくはないんだ、こういう状況のなかでわたしたちがぶじでいられるはずはないように思う、わたしたちはきっと殺されたり犯されたりすると思う、だって、あの兵士のひとたちはもうぶじでいられる状況をとっくにとおりすぎてしまったんだから、わたしたちがぶじでいられたあいだに想像することができたたくさんのことがらなんてぶじでいられなかったあのひとたちがやってきたその瞬間にあとかたもなく消えてしまったんだよ、だから、きっと、わたしたちがこれから考えていかなくてはいけないのは、もうぶじではないものにまきこまれてぶじではないものにこころと身体の一部を犯されてしまったわたしたちがそれでも最低限のところでこの程度ですんでよかったって思える状況の線びきだと思うんだよ。花びらちゃんが言っていることはおかしいよ、だって、あのひとたちはわたしたちの外部からやってきたんだよ、ぜんぜんちがう場所からぜんぜんちがう戦争を持ちこんで、土足でわたしたちの場所を踏みあらしにきたんだよ、わるいのはわたしたちじゃない、わるいのはわたしたちの場所に土足で踏みこんできたあのひとたちだよ、あのひとたちがここにやってきた瞬間からわたしたちはもうすでによごされているんだよ、あのひとたちにあわせてわたしたちがこれ以上よごされる必要なんてぜんぜんないよ。必要があるとか、必要がないとか、もうそういうことじゃないんだよ、あのひとたちにとってわたしたちを犯すことは必要なことなのかもしれない、そうじゃないってわたしたちには断定することすらできないん、ねえ、あのひとたちはわたしたちにとって必要じゃないって思えるようなことでもきっとへいきでやってしまうんだよ、それに、あの兵士のひとが言ったように、わたしたちだって必要じゃないことをせっせとやっているかもしれないんだ。靴子はかたほうの手をゆっくりと持ちあげ、その指先で花びらの頬をそっとなでた。花びらの顔面に指のかたちをした濃い黒いかげができて、そのぶんだけ花びらの顔面の一部がえぐれてなくなったように見えた。ごめんね、わたしには花びらちゃんの言っていることが理解できない、こんなときなのに、いまがいままで生きてきたなかでいちばん花びらちゃんの言っていることを理解したい瞬間なのに、理解できない。だいじょうぶだよ、靴子ちゃん、わたしもそうだろうと思うよ、わたし自身だってわたしの言っていることをじゅうぶんに理解できているわけじゃないと思う、でもね、靴子ちゃん、わたしの言っていることはこわいことじゃないよ、それだけはちゃんと感じとってほしい、靴子ちゃん、わたしの言っていることはほんとうにほんとうにこわいことでもなんでもないんだよ。うん。靴子はすっと腕をひいて、かつて靴子の腕があった場所までふたたびその腕をもどした。きちんともとの場所にもどったその腕は、けれど、いままで感じていた感触とはちがい、靴子の腕ではない、べつの機械じかけの腕があたらしくその場所に設置されたような感覚をもたらした。腕をひいたおかげで花びらの顔面からは黒く濃い場所が消えさり、もともとあった薄くよどんだ黒い皮膚が回復されていた。でも、それは同時に靴子の腕のにんげん的な部分を盗みとって復元されたかのようないびつな様相をしめしてもいた。それでも、わたしはわたしのかわりに花びらちゃんが犯されてしまうことにたいしてあらかじめ同意するなんてむりだよ。ねえ、それならもうひとつべつの約束をしよう、もしも、兵士のひとたちではなく、譲くんがわたしたちのどちらかを、あるいはりょうほうを犯しにやってきたとしたら、そのときには靴子ちゃんが犯されることにしよう、だから、譲くんがやってきたら、靴子ちゃんはわたしを犯してって言ってね、そのかわりに花びらちゃんに指いっぽんふれないでって譲くんに言ってね。でも、譲くんはきっとそんなことはしないよ。わたしもそう思うよ、だから、これはもしもの話なんだよ、兵士のひとたちがわたしたちを犯しにやってくるのとおなじように、もしもの話なんだ、でも、こんな状況ではなにがおこるかわからないから、わたしは、できることならこれからおこりえるたくさんのことがらにたいしてちゃんと対策をしておきたいんだよ。ねえ、花びらちゃん、やっぱりこういうことはやめようよ、こんなことを言いあうのはなにかへんだよ、気持ちがわるいよ、だから、それはきっと言いあってはだめなことなんだよ。ごめんね、でも、わたしは靴子ちゃんとそんなふうに約束をしたいんだ、これは、わたしができるせいいっぱいの、わたし以外のあらゆるものからわたしを守りぬくためのやりかたなんだ。犯すひとにたいして犯されるひとを決めるそのことがどうして花びらちゃんを守ることになるんだろう。だって、そうやって決めておけばわたしたちは兵士のひとたちに勝ったことになるから、兵士のひとたちがわたしたちの思うままに動いて、わたしたちの思うままにわたしを犯したとしたら、たとえわたしが蹂躙されたとしても、それはわたしたちの勝ちなんだよ。勝ちとか、負けとか、そういうことを言うのはやめよう、だって、花びらちゃんは兵士じゃないんだよ、わたしも花びらちゃんもふつうの女の子なんだよ、ここはただの夏休みの教室で戦場じゃないんだ、わたしたちは戦争をしているわけじゃないんだよ、だから、勝ちとか負けとか、そんなことを言うのはおかしいよ。あまいよ、と花びらは言った。あまいよ、靴子ちゃん、戦争はもうやってきてしまったんだ、わたしたちは兵士じゃなくても、あのひとたちは兵士なんだ、ここはわたしたちの教室だけれど、あのひとたちは戦場からやってきたんだ、わたしたちが夏休みをすごしているときにあのひとたちは戦争をしていたんだ、拒否しきれないものがわたしたちのところまでやってきてしまったんだ、ねえ、靴子ちゃん、わたしたちが生きているこの時間はもう夏休みじゃないんだ、この場所ももう教室なんかじゃないんだ、だから隆春くんは殺されたんだよ、教室だから、夏休みだから、平時だから、隆春くんは殺されたんじゃない、だから、わたしたちももういままでのようにはいられない、いやでも、つらくても、わたしたちはいまからでもわたしたちなりの戦争をはじめなくちゃいけないんだよ。靴子はふたたび花びらの頬に向かって手をのばそうとしたけれど、肩からしたのすべての部分が消えてしまったように動かなかった。ちからをいれてみても肩がかたくなるだけで腕は持ちあがってはくれなくて、努力をつづけても首のつけねに黒いよどみがたまっていくのがわかって気持ちがわるくなるだけで、腕のなかを油が流れていくやさしい音が聞こえつづけているような気がした。花びらはまっすぐに靴子を見つめていて、靴子はその花びらの瞳に撃ちぬかれつづけていた。花びらの肩から腕にかけての部分が何度かちいさな痙攣をくりかえしていた。その震えから花びらもまた靴子に向かって手をのばそうとしていることが靴子にはわかったけれど、花びらの手が靴子に向かってけっしてのびてはこないそのことが花びらがやろうとしてできなかったことなのか、あるいは花びらの意志によっておさえつけられた結果だったのか、それだけはどうしてもうまくわかることができなかった。花びらの顔の左半分が青白い月光にうたれてぼんやりと薄くひらたく光っていた。顔のひとつひとつの部分がそのときどきの雲にさえぎられて左半分の顔面のうえで蛆虫のようにねらねらとうごめいていた。光のあたらない暗く落ちくぼんだ右半分のなかで瞳だけがそれじたいで発光をしていた。左の瞳は固着した色をともしつづけているのに右側の瞳の光はそのうごめきにそうように色あいを変えつづけていて、なかにふくまれる水分の量もそのときどきで薄くなったり濃くなったりしているように見えた。一瞬、その瞳孔が極限までちいさくなってその中心に光をあつめ、そのなかに靴子は血管のすじを見た。いやだよ、と靴子は言った。わたしは戦争なんかやりたくないよ、それがどんなかたちであれ、戦争なんかやりたくない。わたしもやりたくないよ、でも、それはしかたがないことなんだよ、わたしたちがいやだとかいいよとか言うひまもなく、わたしたちにとっての戦争ははじまってしまっているんだよ、靴子ちゃんがやりたくないって言うのはよくわかる、でも、わたしたちはもうまきこまれてしまったんだから、わたしたちがそれから逃れたいと思うならわたしたちもなんらかの戦争をしなくちゃいけないんだよ、逃亡でもいいよ、みっともなくてもいい、銃だって手にとらなくていい、泣いてばかりだっていいよ、でも、なにをするにしてもわたしたちはそれを戦争としてやらないと、もう、いろいろなことに耐えられないんだよ。犯されるひとを決めることがわたしたちにとっての戦争なのかな。そうだよ、それがいま、わたしが想像できる最良の戦争だよ。ねえ、それは、わたしたちにとってだけじゃなくて、譲くんにとっても残酷だよ。どうして。だって、譲くんはきっと花びらちゃんのことが好きだから。そんなことはないよ。そう言って花びらはほんとうにやさしく笑った。わたしはさっき譲くんのことを怒らせてしまった、それに、隆春くんのことについても譲くんはほんとうにわたしを怒っていたんだと思う、譲くんも靴子ちゃんとおなじようにやさしいから、わたしのこころのありようを本質的には許していないんだよ。そんなことはないよ、譲くんはただすこしおびえているだけだよ。わたしだってこわいよ。兵士のひとたちに、じゃないよ。それなら、だれにだろう。花びらちゃんに、だよ。靴子ちゃんは、ときどきこわいことを言うね。わたしも、おびえているから。ねえ、わたしは、いままで譲くんや隆春くんがわたしとしたしくしていたのは、ただたんに、ふたりがわたしのことをよく知らなかったからというだけのような気がするんだ。そうじゃないと思う、譲くんは混乱して、とまどっていて、花びらちゃんに、そしてこの状況にこわがっていて、そして、こわいから、すこしでも自分の気持ちをはっきりさせておきたかっただけだよ、結果として譲くんと花びらちゃんの気持ちや考えかたが対立しておたがいを傷つけあってしまったとしても、それがおたがいのしたしみを失わせてしまうものになるとはかぎらないよ。そうかもしれない、でも、もうわたしにはよくわからないんだよ、わたしは譲くんや隆春くんとほんとうに友達だったのかな、なんとなくだけれど、わたしはただ譲くんや隆春くんといっしょにいただけだったようにいまでは思えるんだ、譲くんと隆春くんはなかがよくて、わたしと靴子ちゃんもなかがよくて、そして、靴子ちゃんと譲くんがなかがよくて、わたしも、隆春くんも、ただおたがいになかがいいひとといっしょにいたかっただけだったのかもしれない、わたしたちはただいっしょにいただけだったのかもしれない、4人でいっしょにいたせいでわからなくなってしまっただけで、いっしょにいたせいで友達だってかんちがいをしていただけで、わたしは譲くんとも隆春くんともほんとうにはなんでもなかったのかもしれない。そんなことはないよ、だって、隆春くんは花びらちゃんのことが好きだったんだよ。わたしには、やっぱりそのことがよくわからないんだよ、もしもだけれど、だれかを好きだという感情よりもおたがいがいっしょにいることじたいが先行してしまったとしたら、わたしたちの関係っていったいなんだったんだろう、隆春くんはほんとうはわたしのことが好きじゃなくて、ただみんなでいっしょにいたいだけで、そして、みんなでいっしょにいるということに耐えられないからわたしを好きだって思ってしまったとしたら、それはほんとうにはいったいどういうことだったんだろう、ねえ、わたしたちは隆春くんにとてもひどいことをしてしまったのかもしれない。隆春くんが花びらちゃんを好きだと言うことと好きだと思うことに、きっとちがいなんてないよ、それは、愛情の本質を問うこととおなじだと思う、でも、いつだって愛情の本質を問うことに意味なんてないんだ。わかるよ、でも、それはとてもかなしい気がする。そうだけれど。でも、どっちにしろ、譲くんが好きなのはわたしじゃなくて靴子ちゃんだよ、わたしじゃないよ、ぜったいに。わたしは譲くんに好かれるようなにんげんじゃないよ。だいじょうぶだよ、ぜったいにそうだから、だから、わたしが兵士のひとに犯されても譲くんは靴子ちゃんが犯されるよりも深くは傷つかないよ。でも、もしも譲くんがわたしを好きだったとして、そして花びらちゃんの言うとおりに兵士のひとたちがわたしを犯すかわりに花びらちゃんを犯したとしたら、そのとき、譲くんはきっと花びらちゃんを好きになってしまうような気がする。どうして。わからないけれど、なんとなくそう思うんだ。ねえ、靴子ちゃん、たとえそうなったとしても、やっぱり譲くんはわたしを好きだと思っただけで、ほんとうにわたしを好きになったわけじゃないんだよ。ちがうよ、隆春くんはたとえどんな意味やどんなありかたであったとしても花びらちゃんを好きだった、それとおなじように、譲くんが花びらちゃんを好きになったとしたら、それは譲くんが花びらちゃんを好きだっていうことなんだよ。靴子ちゃん、靴子ちゃんはきっと譲くんのことが好きなんだね。わたしは、でもそう思ったことはいちどもない。うん、でも、それも、靴子ちゃんが譲くんを好きだっていうことのひとつの部分なのかもしれないよ。靴子は花びらちゃんはほんとうは隆春くんのことが好きだったのかもしれないと思って、そして実際にそうくちにだそうとさえしたけれど、花びらにたいする愛情にも似た嫉妬にくりたてられて息をとめた。そしてゆっくりと目をとじていくらかの時間が流れさっていくのを待った。とじたまぶたのうらがわに青白い花びらの顔が浮遊しているかのようにはりついていたけれど、それもやがて消えた。まぶたは質量を持った暗闇のように顔面の一定の部分におかれていて、そこにかすかな痛みとせつなさを覚えた。まぶたのおくに熱を感じた。泣こうとしているのかもしれないと思ったけれど、いくら待っても涙は流れだしてはこなかっった。そのかわりに瞳ではないまったくべつの場所にひらいた身体の亀裂から液状化した魂が身体中の養分を交えて流れおちていくように感じられた。こころの表面にはりついていたあたたかなひだが剥がれおとされ、その場所の醜いものが露呈していくような気持ちがした。なにかを考えようとしているのになにも考えられない時間が長くつづいてもどかしかった。もうねむろう、声をかけてしまってごめんね、と花びらが言ったのが聞こえた。しばらくぶりにまぶたをひらいてみると見えているのは花びらの背後からのびている髪の毛だけだった。髪の毛の隙間から生えた耳のうらがわだけがどうしてか光って見えた。もう花びらはくちをひらいてくれなくて、靴子は身体中のきれいな部分が流れおちてすかすかになっていくような、そして、ぬけおちた部分をもともとこころのおくそこにねむっていた醜い部分が埋めつくしていくような、ひどい気持ちにおそわれた。花びらの言葉は救済の湿り気をおびていたかもしれないけれど、その言葉の響きも、そして背中を向いてしまった花びらの姿も、こどものころに感じていた遠い国の夕暮れにも似たあこがれのそのはじっこの部分の崩壊のように思えた。殺したいというんじゃなくて、花びらの首を絞めたいと思った。ずっとそればかり考えていた。考えることに疲れて頭のなかに白い膜がはった。でもその膜のなかでだけわたしは花びらちゃんを愛しすぎているのかもしれないと靴子は思った。ねえ、花びらちゃん、と靴子は言った。花びらは声をあげないでいて、その背中が生命の鼓動のようにゆっくりとふくらんだりちぢんだりしているだけだった。わたしはほんとうはだれかに愛されたいんだ、恒常的にじゃなくていい、いまだけでいいから、わたしはだれかに愛されたいんだ、だれかに愛されていないと、そう思えないと、こわくてこわくてしかたがないんだ、ねえ、花びらちゃん、わたしにはこれからわたしたちが殺されるだろうということが現実的なこととしてうまく想像することができないんだよ、隆春くんが殺されたんだからわたしたちだっていつ殺されてもおかしくないはずなのに、まるでそんな気がしないんだ、ねえ、わたしはほんとうにこわいと思っているんだよ、ときどき震えだしてしまいそうになる身体を、悲鳴が飛びだしてしまいそうな喉のおくのゆがみを、わたしはいまもずっとおさえこみつづけているんだよ、それでも、わたしはわたしが殺されてしまうかもしれないということにまるで実感がわかないんだ、隆春くんの死体を見ても、わたしもああなるかもしれないってどうしても思えないんだよ、わたしはとてもこわいと思っていて、殺されるかもしれないと思っていて、でも、それだけなんだよ、わたしは、ほんとうにそれだけなんだよ、だめなんだよ、ねえ、花びらちゃん、わたしが殺されるかもしれないっていうこととわたしが実際に殺されてしまうことは別個のものとしてあるんだよ、そして、殺されるかもしれないっていうことに恐怖を覚えることとわたしが殺されるっていうことを現実的なこととして思うこともまた別個のものとしてあるんだ、ねえ、花びらちゃん、そう思いいたったとき、わたしは、どうしてかわたしがにんげんじゃないみたいに思えたんだ、わたしはただにんげんのかたちをしているだけのもののように思えたんだよ、わたしに備えられている感覚器官はきっとすべてにせものなんだ、わたしの感覚器官はいくつものきれいな、とうといものをきっとうけとめつづけているんだけれど、そのうちのたったひとつもわたしのこころにはつたえはしないんだ、わたしの感覚器官はわたしのこころにつながっていないんだよ、わたしがうけとめたものはわたしの身体のなかでただ消費されるだけだ、ねえ、そうだとしたら、わたしなんてただのものでしかないんだよ、わたしはこの世界に浮遊しているあらゆるものをただ消費し、消費しつづけているだけのただの虫けらなんだ、でも、それでも、だからこそ、愛されたいって思うんだ、わたしはわたしの感覚器官を経由することなくわたしのこころに直接降りそそぐような愛を渇望しているんだ、でも、そのことこそが愛を消費するということだっていうこともわかっている、わかっているのに、そう渇望することをやめることすらできないんだ、ねえ、花びらちゃん、これは醜いことだ、とてもとても醜いことだ、でも、だれもそれを渇望するわたしを醜いとすら言ってくれない、ねえ、わかるかな、花びらちゃん、花びらちゃん、聞いているかな、わたしの声が聞こえているかな、ねえ、花びらちゃん、ねえ、ねえったら。聞こえているよ、と花びらはとてもゆっくりと言った。そのときにはもう、靴子が言ったことも、かつて自分が言ったことも、そのすべてを無視しようと決めていた。ゆっくりとねむろう、と花びらは言った。わたしもねむるから、靴子ちゃんももうねむろう、だいじょうぶだよ、ねむって、おきたら、もう朝だから、そのころにはきっとすべてが終わっているよ、いまのこの状況がわるい夢だったっていうことがすべてわかるよ、そして、この夢によって傷つけられたわたしたちのこころも、明日の朝と、明日の朝からつづいていくまぶしい時間のなかで、ゆっくりと回復していくから、だいじょうぶだよ、靴子ちゃん、心配しないで、ねむって、おきたら、なにもかもがうまくいく時間がはじまるから、なにも心配しないで。花びらの身体のうしろがわで靴子は泣きはじめて、そしてそれからしばらく泣きつづけた。それは指を眼球をつよくおしつけてまばたきをずっとしないで故意に流しはじめた涙だったけれど、そのときのふたりにとってとてもとうといものに感じられた。つぎの涙を流すためにいまこのひとつぶの涙を流して、そうやって泣きつづけることを課した自分のこころと身体のかなしみを思って靴子は泣いた。花びらは靴子のこころと身体がうそだということを知っていた。靴子もまた花びらがそう思っていることを知っていた。だから、手と手をとりあって、隆春を、譲を、兵士たちを、そして世界にいまその瞬間にかたちづくられているあらゆる感情を欺いているような気がふたりはした。でも、そんな気持ちは長くはつづかなかった。気持ちを夜気にまぜて空間のなかへ放りたいとつよく思ったのに、気持ちはふたりのなかにとどまりつづけてふたりを意味もなく傷つけつづけた。ねえ、いろいろなことを気にしないでね、とやがて靴子は言った。わたしはうそだから、わたしの身体もこころもすべてうそだから、わたしについてのいろいろなことを気にしないでね、わたしはただわたしたちがすごしてきた日常を、隆春くんを、譲くんを、あの兵士のひとたちを、すべてすべてうそにしたいだけだから、気にしないで。もうねむったほうがいい、と花びらは言った。目が覚めれば、すべてがうそになっていることがちゃんとわかるよ。うん。花びらは目をひらいて教室のまんなかでひらきつづける炎のかたちをした花を見つめつづけながら靴子がねむるのを待った。濃い涙が流れおちつづける音が聞こえつづけていた。湿った指先と吐息が自分のうなじにやさしくふれるのがわかりつづけていた。ふれるとそこはつめたかったような気がした。でも靴子がふれたあとのその皮膚はたしかにあたたかくなっていくような気がした。うそみたいな闇とべたべたに塗られた炎の色あいがその空間にとってはきっと残酷で、闇と炎のあいだをすっと走る青白い月の光がその空間を流れる時間をすこしずつ狂わせていくみたいで緊張した。靴子はやがて深いねむりにはいっていった。ねむったということがわかると花びらはそのことに深く安心をして、けれど花びらはそんなふうに安心することができた自分をつよくにくんだ。
 花びらは上半身をおこしてはんぶんだけ回転させて背後でねむりこんでいる靴子の姿を見つめた。靴子の身体の上半身をすっぽりと花びらの影がおおっていて、その影のさきからふたつの足が生えていた。足は床の木目にそって鋭角に横たわっていた。その先端は薄暗闇のなかにすこしずつ溶けはじめていて、炎の揺らぎにあわせてそのりんかくの気配が濃くなったり薄くなったりしていた。花びらはいちど目をこすってずいぶんと重たくなってしまった頭をかるくふり、それから身体をすこしだけ横にずらして影の場所を移動させた。月の光が直接に靴子の身体に降りそそぎ、唇にあてられた両手に流れたわずかなよだれが輝いていた。銀色のにぶい液体のなかをそれじたいが発光する淡黄色の粉がただよい、なりそこなった祈りのかたちの手のこうのうえにゆっくりとひろがっていった。靴子の身体からすこしだけはなれたところに譲の身体がころがっていた。靴子の鼓動と譲の鼓動は一致していて、まったくおなじ瞬間に身体がふくらみ、そしておなじ時間をおいてちぢんでいった。花びらは三角のかたちに座りこみ、そのまま身体を回転させてふたりに背を向けた。教室のまんなかの焚き火の炎はずいぶんちいさくなっていて、そして、そのかたわらに座ったままのルカの身体もおなじようにちいさくなっているように思えた。ルカは花びらの顔をひたすらに見つめていた。花びらもルカの顔をひたすらに見つめていた。それでも、花びらはルカと目と目があっているという感覚をどうしても抱けなかった。ルカの瞳は濡れたようにつやめいて光っていて、花びらの瞳もおなじ濡れぐあいをしているようにすら思えたけれど、それをたしかめることはうまくできなかった。月と星々の光に照らされた教室は広大な砂漠のようにすら感じられた。すこしだけつよくなった風に雲が流されていて、その雲の配置にあわせて教室に射しこむ光のかたちもその瞬間瞬間で変わって木漏れ陽のように教室の床のあちこちをまだらに染めていた。そのなかで、ルカはたったひとりで痛んでいるように思えた。ねえ、そっちにいっていいかな、と花びらは言った。ルカはなにも言わないでうなずいた。花びらは様子を探るようにしばらくそのまま座りつづけていたけれど、やがてたちあがり、ゆっくりとルカのそばまで歩みよってそのかたわりに座りこんだ。すべてのにんげんは深くねむりこんでいた。ほとんど燃えのこりとなった焚き火は近くで見るととてもよわよわしくてはかなくも見えたけれど、それはまだちゃんとやさしい熱を放ちちづけていた。ルカはかたわらに積まれた本の一部をやぶりとってほとんど無感覚で焚き火のなかに放っていた。本の一部が放りこまれるとその部分だけが青い光を放ち、やがて橙色に変わり、つぎの瞬間にはほかの赤色と溶けあってその色に回帰していった。隆春の肉をさすのにつかわれていた銀色のくしは焚き火のまわりにいまだつきたてられていて、食べのこされた部分はもう黒色の炭になっていた。食べのこりがない部分には隆春の脂がいまだべとついていた。時間をおいてもそれはだれかが流したかなしい体液のように銀色のくしの表面で光りつづけていた。ねむらないのかな、とルカは言った。ねむたくないんだよ、と花びらは言った。昼間はずっとねむたかったはずなのに、それでいてとても疲れているはずなのに、どうしてかちっともねむたくないんだ。気がはっているんだよ。そうだろうけれど、なんだかひとごとみたいだね。僕はただきみのことを心配しているだけだよ、ありきたりなことを言うようだけれど、ねむれるうちにねむっておいたほうがいい、きみだってこれからきみたちの状況がよくなっていくだろうなんて思っていないだろう、僕が望んでいることではないけれど、きみたちにはこれからきみたちが想像したこともないようなひどいことがおとずれるかもしれないんだ、そのできごとはきみたちの身体をそぎおとし、きみたちのこころに癒えることのない深い傷をつけてしまうかもしれない、だから、きみはその傷をより耐えられるものにとどめるためにもやすめるときには身体とこころをやすめておいたほうがいい。どうして、わたしにやさしいようなことを言うんだろう。僕は、生きのこるとしたらきみだけだって思っているから。花びらは炎から目をそらしてかたわらに座るルカを見つめた。その言葉をくちにだすまえとあとでルカの表情も心情もなにも変わっていないように思えたけれど、くちにだすまえのルカの表情を見ていない花びらにそれについてなにかを言えるわけではなかった。きみの友達はたぶんふたりとも死んでしまうよ。どうして。きっと、僕たちが殺してしまうからだよ。殺さないでよ。僕もきみたちを殺したいわけじゃない、ただ、それでも殺すしかなくなったときにはきっときみたちを殺してしまうと思う、僕なりにずっと考えていたんだけれど、きみたちを殺すしかなくなったとき、マタイさんはきっと最初に男の子を殺して、つぎにあの女の子を殺すと思うよ、かりにきみが殺されるとしても、きみはきっと最後だ。どうして。ヨハネさんはともかく、マタイさんはきっときみを気にいっているから。どうして靴子ちゃんよりもさきに譲くんを殺すんだろう。あの男の子はほんとうにはだれからも好かれていないような気がするんだよ、そういう男の子は僕たちにとって不必要なんだ、ねえ、彼はほんとうにふしあわせそうな顔をしていると思うよ、どうしてあんなにふしあわせそうな顔をしているんだろう、暗い家族のなかに生まれ、ほかの子供たちに蔑まれながら生きてきたんだろうか。そうじゃないよ、と花びらは言った。それはただ、譲くんだけがほんとうに隆春くんが殺されたことをかなしんでいるからだよ。ルカはすこしだけ笑った。息をふきかけられた炎がすこしだけゆがんでいくつかの火の粉を舞いあげた。そういうことを言うからきみはマタイさんに気にいられてしまうんだよ、でも、すくなくともそれはきみにとってはよろこばしいことだ、きみはただきみのありかたひとつでこんな場所でもきっと生きのこることができるんだから。よくないよ、わたしはわたしが生きのこるよりも、靴子ちゃんが生きのこってくれるほうがいい。もう、そういうことは言わないほうがいい。ねえ、ヨハネっていうひとはわたしのことを気にいっているわけじゃないと思う、でも、あのひとはあなたたちのなかではいちばん権力を持っているように見える、だとしたら、マタイっていうひとがかりにわたしを最後まで殺さないことを主張したとしても、ヨハネっていうひとがそれをみとめなければ、靴子ちゃんと譲くんがわたしよりもさきに殺されてしまうなんてこともないんじゃないかな。ルカがすこしだけ花びらの顔を見つめはじめたとき、マルコが焚き火の向かい側で上半身をおこした。その首がゆっくりと回転をはじめ、蜜色をまじえた瞳がルカをつよく見すえた。ただ上半身をおこして首を回転させる、たったそれだけの動作にすぎなかったけれど、その動作にはすこしのぶれもとまどいも感じられなかった。ただ時間がきたから上半身をおこし、時間がきたからルカを見つめただけのように花びらには思えた。マルコの顔には薄いひびわれのようなものが浮かんでいた。その頬肉のうちがわでかたちのわるいねじがかたかたと回転をくりかえしているのに、その瞳だけが犬のようにおだやかに濡れていた。ねむっていてもいいですよ、とルカが言った。交代の時間ですけれど、僕はまだ疲れていないんです、もうすこしおきていますよ。それでもマルコは表情も、その身体のかたちさえも変えなかった。マルコの股間から足にかけては毛布におおわれていて見えなかった。おおきくてふとい、それでいてひどくにんげんじみた足だったのに、その毛布のなかにはすかすかの空気しかつまっていないように見えた。そして、マルコの上半身はその毛布のなかの空気から直接生えているようないびつな印象をあたえていた。花びらは息をつめてマルコの顔面のしたはんぶんを見つめていて、マルコはそれでもただひたすらにルカを見つめていた。ルカはそのあいだ薄く笑顔をはりつけたままだったけれど、その笑顔はマルコを蔑んでいるようにも畏れているようにも見えた。やがて、マルコは毛布のしたからその足をそっとぬきとって教室のひとつひとつの床の部分をとても慎重に歩きはじめた。足をまえにいっぽつきだして、それからもうかたほうの足をあらかじめまえにつきだしていた足のすぐわきにおいた。なんの音もしなかった。だれにもなにも言わなかった。それでも、マルコの頭のからいくつかの部品がごりごりとその身をこすりあわせる音が聞こえはじめていて、そしてそれはにんげんの性交の音にすこしずつ似ていった。マルコは宇宙と波長をあわせるように教室の壁ぞいを歩いた。うしろの壁ぞいを歩くときには靴子と譲を踏みつけてしまわないようにすこしだけ軌道をずらしたけれど、そうなったときにもたしかな歩みをつづけていた。ひとつの歩みが達成されるたびにマルコはつぎの目標となる場所を見さだめ、その場所に向かって足を投下していった。すこし身体を動かすたびに青白い教室の空気をつたってその身体のきしみが聞こえ、その動作のひとつひとつが傷ついて見えるのに、その動作がひとつ達成させるたびにそのうちがわにくみこまれた痛みが宇宙のうらがわに向けて忘却されていくように感じられた。気にすることはないよ、とルカが言った。マルコさんもきみたちのことで傷ついているんだ。わたしにはわからないよ、と花びらは言った。わかる必要なんてないよ、ねえ、すこし廊下にいこう、マルコさんが見張っていてくれているから、僕はかならずしもここにいる必要はない、きみも廊下の水道で水を飲むといい。ルカはたちあがった。花びらはそれでもまだしばらくマルコががらくたの祈りのように歩きつづけるその姿を見つめていたけれど、ルカが歩きだすと静かにそのあとをおった。ルカはさきに廊下にでてその扉を花びらがとおりぬけるのを待って扉をしめようとした。花びらは扉を手でおさえて、しめないで、と言った。わずかにひらいた扉の隙間から教室のなかを這いまわるマルコの姿がときどき見えていた。すこしはなれて見ると、その姿は灯台によく似ているように見えた。どうして、とルカは言った。わたしは、あなたたちが靴子ちゃんにひどいことをしないように見張っていなければいけないから。ルカはかすかに笑って、マルコさんが見張っているあいだはそんなことはぜったいにおきないよ、と言った。花びらはひどく侮辱されたような気がしたけれど、なにも言わないで扉をめいっぱいひらいてから黙ったまま水道に近づいた。教室をでてすぐの場所に水道はあった。わずかな星明かりが向かいの窓から斜めに射しこんでいたけれど、その光景は教室よりもよほど薄かった。4つならんだ蛇口からはそれぞれ水滴がゆっくりとこぼれおちつづけていた。水道のしたには薄い水の膜がたまっていて、それぞれの蛇口がつくりだした水の膜はそのとなりの膜とまざりあいながら星々の光のかげんによってその周縁をときどき虹色に光らせていて美しかった。花びらは蛇口をひねり、その水の流れをじっと見つめた。水はたっぷりと泡を生み、ほとんど白濁していた。そのなかでもときどき水はいくつかのすじにわかれ、その瞬間にだけかすかに透きとおり星々の光とおなじ色あいを放った。そっと手をのばしてその水に指先をさしだすと水はつよいちからで花びらの指の先端をうちつけ、花びらは骨をひどく痛めつけられた気がしてすぐに手をひいた。指先に感じた水のつめたさはほとんど熱にも似ていた。それはルカのかたわらで焚き火を見つめていたときに揺らいだ炎に熱を感じたその感触とあまりにも似すぎていて、まるで罰のようですらあった。それでも花びらはふたたび指先をのばして流れおちつづける水にふれ、指の先端を、手のひらを、そして手首を水にひたした。そして、そのまま手首にあたる水のしぶきを見つめた。しぶきとしぶきのあいだに星々が光っていた。ゆっくりと手首を回転させるとそのかたむきにあわせてしぶきの角度が変わり、花びらの顔や首に降りかかった。つよく水が跳ね、目のなかにはいりこんでつよくまぶたをとじた。つめたい水だった。しばらくのあいだ、花びらはかたほうの目だけでそこにある光景を見つめていた。光景はより先鋭になって、そこに浮かぶ光も、もののかたちも、水がはじけていく音も、そのすべてがすこしずつ感度をあげて花びらのこころにせまった。目のまえの窓の向こうには深い森がひろがっていた。深い森の中心にはちいさな湖が浮かび、湖面に反射した星々の光がいくつかの光のすじとなって夜空に照射されていた。そして、その光のさきを戦闘機が飛んでいた。戦闘機はときどきちいさな赤い光をちらつかせながらも夜空をゆっくりと飛びつづけ、ただそこにひろがりつづけようとしているだけの時間と場所をいびつな手つきでおさえつけていた。湖のなかの魚の死体が湖面に浮かびあがり、その場所をゆっくりとたゆたいながらするするとその身体をほどいていった。夜気のなかでくすぶっていた熱が校舎わきの小屋のなかの鶏たちをうち、すこしだけ焦げたようなにおいが花びらの鼻をついた。水に濡れた目をひらくと、視界のはんぶんはいまだかすんでいた。光も、においも、夜気すらも鮮明さをそのそれぞれの段階で失い、そしてそれぞれがそれぞれのとなりにある要素とすこしずつまざりあっていた。やがて、花びらは両手をおわんのかたちにくみあわせてその場所に水をそそいだ。指と指の隙間から水はわずかずつこぼれおちていくけれど、それでもまだふたつの手のひらのなかにはたっぷりとした水がのこった。水を透かして見たとき、花びらの指たちは美しい骨のようだった。両手を胸もとによせて唇をつきだし、花びらはその水に唇をひたした。ほとんど質感もなかったけれど、どことなく聖的な要素を抱いたその水は花びらの気持ちをよくした。両手のかたむきにともない水は手首を流れおち、やがてひじにまで到達し、そこからしずくとなって床にたれおちた。舌をつきだして吐息とともにその水を吸いこみ、手のひらのなかの水がなくなるとまた水をそそいだ。それが何度もくりかえされた。そのあいだルカは花びらのかたわらにたって水をむさぼる花びらの後頭部とその身体のひじの部分からたれおちるしずくを見つめつづけていた。ひじからたれおちるとき、水は空中で飛散してひとつひとつのつぶとなり、それでもなお落下をつづけていた。花びらの横顔にかかる髪の毛のいくすじかが濡れて頬にぴったりとはりつき、そしてちぢれていった。やがて、花びらは水を飲むことをやめた。濡れたままの手で蛇口をひねってしめ、そのまましばらく蛇口とそれをつつみこむ自分の手のかたちを見つめていた。手首からしずくがたれおちつづけていたけれど、いつのまにかそれも終わっていた。鉄の味がした、としばらくして花びらは言った。ルカはなにも言わなかった。血の味みたいだった、あるいは骨の。ルカはそれでもなにも言わなかった。はじめのうちはほんとうにおいしいって思ったんだ、けれど、飲んでいるあいだにすぐにそうは思えなくなってしまって、たまに飲む、けっしておいしくはない水道の水の味がするようになった。それは、けれどわるいことじゃないよ、とルカは言った。花びらはすこしのあいだ沈黙をした。ルカは廊下の壁に背をつけてよりかかり、かかとをすこしだけ壁からはなした。それからふたつの足のさきを交差して右手を胸のまえまでかかげ、おや指のつめでなか指のつめと肉のあいだをこすった。花びらも両手を背中のうらがわでむすびあわせながらおなじ姿勢をとった。ひらいた扉から教室のなかにひろがる光景が見えていた。扉から見える空間のまんなかに焚き火があった。その中心にふたつの兵士の身体がころがっていた。そのもっと向こう側にいくつもの空洞を持った隆春の身体がころがっていた。マルコはまだ教室の周縁を回転しつづけていて、ときどき扉の向こうを黒く巨大な影がよぎり、その瞬間には黒くにごったマルコの頭のなかで機械の部品たちがこすりあわされるこりこりとした音がはっきりと聞こえた。焚き火の炎はほとんどいきおいを失っていたけれど、ときどきマルコがそのなかに本を投げいれていたおかげでまったく消えさってしまったわけではなく、煙が炎の先端からのびて教室の向かい側に流れていくその軌跡がはっきりと見えていた。さっきの話だけれど、とルカは言った。うん、と花びらは言った。ふたりともが顔の向きを変えなかった。マタイさんや僕がさきにあのふたりを殺してきみを最後まで殺さないようにしようって言えば、ヨハネさんはきっとそのとおりにしてくれると思う。どうして。あのひとはからっぽだからね、あのひとは自分がかたくちからづよい意志にもとづいて行動していると思っていると思う、けれど、それはけっきょくのところあのひとの思いこみにすぎないんだよ、あのひとは思想を空気としてその身体をつくりあげたかわいそうな風船みたいなひとなんだ、だれかがおさえていないと風に流されてたやすく天国まで到達してしまう、でも、そうなってしまうことはとてもあわれなことだから、僕たちはせっせとあのひとの身体をおさえつけているんだよ。それなら、ほんとうに権力を持っているのはあのひとじゃなくてあなたたちなんじゃないかな。ちがうよ、権力っていうのは自分がなにもしないで他人になにかをさせるちからのことだよ、だから、あのひとのありかたそのものはそのまま権力になるんだよ。でも、その権力を保障しているのはあなたたちなんだよね。そうかもしれない、けれど、なにによって、あるいはだれによってということとは関係なく、あのひとが存在していることで発生しているあのひとの空間、あるいはあのひとと関わりある空間のすべてがもう、あのひとの権力なんだよ。あなたはどうしてあのひとにしたがっているんだろう。あのひとは僕が兵士になったときから僕の上官だったんだ。それはくだらない価値観だよ、と花びらは言った。そうかもしれない、僕もそう思う、ほんとうにくだらない価値観だ、けれど、世界と世界の関係、ひととひととの関係をつないでいるのはいつだってくだらない価値観なんだよ、あるいはそうではなく、僕たちが関係と呼んでいるそのものこそがくだらない価値観の実体なのかもしれない。あのひとはどうなんだろう。だれのことを言っているんだろう。いま教室のなかをぐるぐるとまわっているあのひとのことだよ、あのひとはこの教室にやってきてからひとこともしゃべっていない、いったい、なにを考えているんだろう。マルコさんはしゃべることができないんだよ、あるいは、ほんとうにはしゃべることができるのかもしれないけれど、すくなくとも僕はマルコさんがしゃべっているのは見たことがないよ、マタイさんも見たことがないって言っていた。ヨハネっていうひとは、どうなんだろう。わからないけれど、可能性はあると思う、マタイさんとおなじように、マルコさんを兵士にとりにいったのもヨハネさんだから。ねえ、あのひとはわたしたちのことをいったいどんなふうに思っているんだろう。僕はマルコさんじゃないから、僕にはよくわからないよ、でも、マルコさんはきっとだれのことも殺したくはないって思っていると思う、僕たちがこの教室にやってきて最初にあの男の子を殺したとき、僕たちは4人でいっせいにあの男の子を撃つはずだったけれど、マルコさんだけがひきがねをひかなかった。あなたは、あのひとが隆春くんを撃たなかったことをうらぎりだって思わないのかな。それはうらぎりじゃない、マルコさんははじめからあの男の子を殺したいなんて思っていなかった、それに、僕たちもそのことを知っていたんだ。あのひとはしゃべることができないのに、あなたたちはどうやってあのひとが思っていることを知るんだろう。しゃべることができなくても、マルコさんがそういう気持ちを抱いているってことくらいわかるよ。それなのに、あのひとがこれからわたしたちをどうしようと考えているかはわからないんだ。わからないよ、ねえ、僕たちにだってわかることとわからないことがある、僕たちがマルコさんの気持ちや考えていることがわかるとしたら、それはマルコさんが僕たちにマルコさんの気持ちや考えていることをわかってほしいって思っているからだ、だから、マルコさんがきみたちをこれからどうしようとしているのか、マルコさんはそのことを僕たちにわかってほしいとは思っていないんだよ。そのことで、あなたたちは傷つかないのかな。傷つかないよ、ひとが自分が思っていることのうちの繊細な部分を他人につたえたくないと思うことはあたりまえのことだよ。そうかもしれないけれど、わたしはあなたたちはそういうことをいやだと思うひとたちだって、そういうことを許すことができないひとたちだって思っていた。どうして。だって、あなたたちは戦争をやりにいったから、と花びらは言った。わたしは、あなたちがやってきて、戦争はわからないことをわかる必要すらないことに変えてしまう場所でおこることの総称なのかもしれないって思ったんだ。きみの言うことはなんとなくわかるように思う、とルカは言った。けれど、きみの言っていることは、けっきょくのところ、言ったとしてもどうしようもないことだよ、きみがそれを言ったとしても兵士たちはいなくならない、戦闘機は空から爆弾を落としにいくことをけっしてやめない。そうやって、あなたたちは大地やひとびとをわからないものからわかる必要がないものに変えていくんだね、破壊した場所なら、殺したひとなら、占領した国なら、あなたたちはもうその場所やひとびとや国についてわかる必要も、わかろうとする必要すらないって思えてしまうから。でも、僕たちはすべてのことがわかるわけじゃないよ、もしもその場所やそのひとびとやその国のことわからなくても、それはどうしようもないことだよ。そうだよ、それはどうしようもないことだ、でも、わからないならわからないなりのわたしたちのありかたみたいなものだってあると思う、わからないって言ってわかることをあきらめてしまう必要なんてどこにもないんだ、それに、わからないことをわかる必要のないものに変えてしまう必要もどこにもない、ねえ、わたしにはよくわからないんだよ、どうしてあなたたちは、そういうひとたちは、わからないことを許すことができないんだろう、わからなくても、わかろうとするそのことだけでそのひとはきっととうといのに。僕にもよくわからないけれど、それはきっとこわいことだからだよ。わからないことはこわいことなんかじゃないのに。ちがうよ、わからないことだけじゃない、わからないこともそうだけれど、僕たちがほんとうにこわいと思うのはわからないはずのものをわかってしまうことだよ。夜の風が雲を流しさり、教室の床は月と星々の光にうたれていた。たばねられたそれぞれの光がふといすじとなって教室の床のあちこちを射していた。その光にさらされた場所はそれ自体が青白く光る薄い膜におおわれているように見えた。その膜のなかにもっとちいさな光の粒子がただよい、夏の湖面のようにちらちらとまたたいた。その光はあまりにつよく、床は鏡のように光り、そこにころがっているすべてのにんげんの身体たちをそのうちにうつしこんでいた。床のなかにうつりこんだにんげんたちの身体はぼやけていて、そのりんかくを失って身体以外のあらゆる要素とたがいに溶けあっていた。寝息にあわせてそれぞれの身体がふくらんだりちぢんだりをくりかえしていた。そうやって動くたびに床のなかのそれぞれの身体もおなじようにふくらみ、そしてちぢんで、そのたびにそれぞれの身体のりんかくはより淡くなっていくようだった。その床のうえをただひとりマルコだけが濃いりんかくをたもったまま歩きつづけていた。マルコは床のなかにうつりこむ自分の姿を見つめ、まえを向いてつぎの足を踏みだし、そしてまた床のなかにうつりこんだ自分の姿を見つめた。マルコの歩く速度は教室のなかを這いまわりはじめたときとくらべてひどくおそくなっていて、そのせいで本の一部を投げいれる間隔がひろがり焚き火の炎は長い時間をかけてくすぶりながら消えていった。教室のなかにたちこめていた煙もすこしずつ晴れ、床のなかにうつりこんだかすかな煙も薄靄の朝からたんじゅんな午後の空気のなかへすこしずつ移行していくようだった。遠くで鳥が鳴いているのが聞こえていた。もっと近いところでは蛇口からこぼれおちた水のつぶがたたきつけられてはじける音が聞こえていた。花びらは背中のうらがわでむすびあわせていた手をほどき、身体のまえまで持ってきた。ふたつの手は花びらの腿のうえにおかれ、やがて、やさしくかさねあわされた。花びらの背中と壁のあいだに痛いと思えるほどではない程度のつよさで長いあいだはさまれつづけていたふたつの手はかすかに痺れ、感覚を失いかけていた。ルカも花びらもそれを約束しあったかのようにおたがいの顔を見ないでただ教室のなかの光景を見つめていた。望めば、教室のなかに光がひろがったその瞬間についての言葉をたがいに交わすこともできたかもしれないのに、それすらも考えつくこともできないただのふたりだった。ねえ、と花びらは教室のなかを見つめながら言った。うん、とルカもおなじようにして答えた。わたしたちがこれ以上こころも身体も傷つかないであなたたちから解放されるには、わたしたちはいったいどうすればいいんだろう。きみたちの価値をきみたちがたかめるしかないよ、とルカは言った。僕たちがきみたちさんにんをまだ殺していないのはきみたちに価値があるからだ、僕たちだって目的があってここにやってきたんだ、その目的にきみたちがかなうのであれば、僕たちはきみたちをけっして殺しはしない。でも、それはどんな目的なんだろう。それは言えないよ、けれど、僕たちが優先しているのはきみたちを殺すことじゃなくて僕たちの目的なんだよ、きみたちはその目的を達成するための使用価値がある、僕たちがその目的を達成しようとするやりかたもこれからの状況によって変わっていくはずだ、そして、僕たちのやりかたの変遷にしたがってきみたちの価値もまた変わっていくだろう、だから、きみたちがほんとうに生きのこりたいのであれば、きみたちはそれに敏感に反応しつづけながらきみたちの価値をよりたかいものへ変えつづけるしかない。うそだ、ねえ、それはうそだよ。うそじゃないよ。うそだよ、あなたたちには目的なんてない、あなたたちはただわたしたちを殺しにやってきただけだ。僕はうそをついてなんかいない、僕にはたしかにきみたちに言うことができないことがたくさんあるけれど、それはそのことが機密だからだよ、僕はただ軍規にしたがっているだけで、きみにうそをついているわけじゃない。それが軍規かどうかわたしたちに判断ができないのなら、わたしたちにとってうそをつかれていることとなにも変わらないよ、問題なのはわたしたちの気持ちなんだ、あなたがついたうそによってあなたのたいせつなひとのこころが傷ついたとして、あなたはそれが軍規だからって言って謝罪をするのかな、軍規だったからっていう理由であなたのたいせつなひとのこころが回復されるってあなたは信じているのかな。ねえ、それはまだおこっていないことにたいする一般的な解釈を求めているだけだ、けれど状況は個々に存在する、個々に存在する状況にたいしての一般的な解釈はすべてまちがっている。そうかもしれない、けれど、それでもわたしは傷ついている、あなただってわたしにうそをついた。僕はきみにうそなんかついていない。あなたはわたしが隆春くんを食べなければ譲くんを殺すって言った、でも、それはうそだったとわたしは思う、あなたは最初から譲くんを殺すつもりなんてなかった。それは誤解だよ、僕はあのときあの男の子を殺してもいいって思っていたんだ。でも、わたしは隆春くんを食べなかったのに、譲くんは殺されていない。気持ちを変えただけだ、気持ちを変えることはだれにだってある、その必要もある、それじたいはわるいことじゃない、うらぎりでもないよ。あなたがついたうそはそれだけじゃない、さっき、あなたはわたしたちがこれ以上傷つくことなく解放されるにはわたしたちの価値をたかめるしかないって言ったけれど、それもうそだよ。どうしてそう思うんだろう。だって、あなたはうそつきだから。ルカはすこしのあいだ沈黙をした。なんらかの言葉がかえってくるだろうということを花びらは期待していたけれど、やがてあきらめた。わたしはあなたの持っているほんとうの考えがわかると思う。言ってみるといい。わたしたちがぶじに解放されるにはわたしがあなたたちを殺すしかない、あなたはきっと、そう思っている。それは、可能性としてはありえるけれど、まともなやりかたじゃないよ。けっきょく、あなただってわたしたちのことなんてなんにもわかっていないんだよ、だからわたしたちの価値をたかめるしかないなんてうそをつけるんだ、しかも、それがわたしたちへのやさしさだとかんちがいをしたままうそをつくんだ。ルカはすこしだけ笑った。どうしてきみが僕たちを殺さなくてはいけないんだろう、さっききみはわたしたちではなくわたしって言ったね、ほかのふたりが僕たちを殺すのではだめだってきみは思っているんだろう。そうだよ。どうして。靴子ちゃんか譲くんがあなたたちを殺したとしたら、ふたりはきっと傷ついてしまうから、それはもうぶじじゃないんだよ。きみならなにも傷つくことなく僕たちを殺すことができるのかな。できるよ、と花びらは言った。わたしはわたしが傷つくことなくあなたたちを殺すことができる。ほんとうにそうだろうか。そうだよ、わたしはできるよ。それはすこしちがうように思う、きみはきみ自身が僕たちを殺す役割をひきうけることであのふたりを傷つけようとしているだけだろう。ちがうよ、ふざけないでよ。まあいいよ、きみはきみが思いたいように思えばいい、でも、きみが僕たちを殺したら、きっとそのことであのふたりはすくなからず傷ついてしまうだろう、そうなればあのふたりはもうぶじではなくなってしまい、きみたちがこれ以上傷つかないという前提がくずれてしまう。あのふたりはこころに傷をうけたとしてもそれをちゃんとわすれることができるよ、わたしたちが解放されたあと、わたしがふたりのまえから姿を消せば、あのふたりと友達であることをやめて、ふたりと視線をあわすこともやめて、ふたりと会話を交わすこともやめて、わたしがそうすれば、ふたりはちゃんとその傷を回復させることができるよ。それはきみの思いあがりだ、きみがそういう態度をとればあのふたりはそのことであたらしい傷をうけてしまうだろう、きみはふたりの傷を回復させようとしてふたりにあたらしい傷をつけようとしているだけだ。ねえ、でも、わたしがあなたたちを殺すっていうのはあなたの考えなんだよ、わたしはあなたの考えを言って、その考えが実現されうるという仮定のもとに話をしていただけだ、でも、それはわたしの考えじゃない、わたしはわたしがあなたを殺すことがわたしたちがぶじにあなたたちから解放される手段だなんて思っていないよ、わたしがあなたたちを殺すにはわたしがあなたたちから銃を盗んであなたたちを殺すしかないと思うけれど、あなたたちもそれを警戒しているから、それはむずかしいと思う、あなたたちには4人にいるのに、わたしはひとりきりだ、ねむっているときに銃を盗むのがいちばんすぐれたやりかただと思うけれど、あなたたちはつねにひとり以上おきている、それに、たとえうまく盗めたとしても、あなたたちを4人全員殺すまえにわたしが殺されてしまうと思う。そうだね、でも、それなら、きみたちはいったいどうすればいいんだろう。わたしがあなたたちのだれかを誘惑する、と花びらは言った。わたしはあなたたち4人を殺すことはきっとできない、だから、あなたたちのひとりを誘惑して、あなたたちをうらぎらせて、あなたたちのひとりにほかのさんにんを殺してもらう。僕たちのだれも僕たちをうらぎらないよ。そう思いたいのならそう思っていればいいよ、けれど、わたしにはあなたがいちばんほかのひとたちをうらぎりそうに見える。きみはいまこの瞬間に僕を誘惑しているのかな。ちがうよ、わたしはただあなたと会話をしているだけだ。どうしてきみはきみの考えを僕にしゃべってしまったんだろう、僕はきみがいま言ったことについていままでまるで考えていなかった、きみがそれを言ったことで僕はそのことを警戒するだろう、それに、ヨハネさんとマタイさんがおきたら僕はそのことを彼らに話すよ。いいよ、でも、よく考えたほうがいい、あなたがほかの兵士にこのことを話すことがだれかのうらぎりをうながすことになるかもしれない、そして、このことを話さないこともまたあなたのうらぎりをうながすことになるかもしれない、でも、それは、あなたが考えてあなたが決めればいい。考えておくよ、けれど、きみのそのやりかたでもけっきょくのところあのふたりは傷ついてしまうように思う。傷つかないよ、と花びらは言った。だって、わたしがあなたたちを誘惑したとしてもふたりはそのことに気づかないから、ふたりからすればあなたたちが仲間われをして殺しあったようにしか見えない、わたしはそう見えるようにちゃんとやるよ、そう見えるようにちゃんとできる。そうかな。足が痛くなってきた、と花びらはつぶやいてかたほうの足をくの字におりまげ、その足首をかたほうの手でつかんですじをのばすようにひっぱった。それから、もうかたほうの足をおなじようにひっぱり、やがて、廊下にゆっくりと腰をおろした。廊下はつめたくてかたく、どことなく空気は湿っていた。すこしだけ腐ったようなにおいもした。頭のうえからは水滴がすこしずつこぼれおちる音が聞こえつづけていた。廊下にはかすかな空気の流れがあって、それは腐臭をのせて拡散させながら花びらの左から右へゆっくりと移動していった。左を見ても右を見ても、廊下は長くまっすぐにのびて濃い暗闇のたまりとしての消失点へと向かっていっていた。その暗闇のなかに飢えた獣や小屋から逃げだしたうさぎたちのかたまりが潜んでいるような気がしたけれど、花びらはそれがただの錯覚だということにも気づいていた。月と星々の光は絶えることなく教室の床に照射されつづけていた。時間の経過にともない、その光のたばは角度をするどくして花びらが座りこんだすぐまえの廊下に光のたまりをつくりだしていた。花びらはその光のたまりをのぞきこみ、そのまんなかにうつりこんだ自分の顔を見つめた。顔面のりんかくはゆがんでいた。瞳はにじんでいた。髪の毛と顔面の皮膚のさかいめは曖昧で、顔面を走るいくつかの黒色の亀裂は髪の毛のすじだった。その顔は花びらがよく知っていると思いこんでいる自分の顔よりはずいぶんおさなく見えた。光の揺らめきにあわせてその顔面はいびつにかたちを変えつづけていた。そのたびに花びらは自身の顔面そのものが実際にぐちゃぐちゃになりつづけているような気持ちがした。ルカはかたわらにたったまま花びらの頭頂部を見おろしていた。髪の毛の流れにそって青白い光のすじが髪の毛のひとつひとつとおなじかたちをとりながらそれをおおっていて、それは花びらがすこしだけ頭を動かすそのやりかたにあわせて移動し、ときには一瞬のきらめきを発して消えていった。頭頂部からずれたところに光のたまりがあって、そのなかに花びらのぐちゃぐちゃにみだれた顔面がうつりこんでいた。そして、その花びらの顔面の背後にとてもちいさな自分の顔がうつりこんでいた。その顔面はあまりにちいさくてそして薄く、まるで自分の魂に顔面を雑に描きこんだ花びらのおもちゃのようだった。ねえ、まだねむるつもりがないのなら、あの男の子の死体を処理しにいこう、とルカは言った。このままほうっておいたら虫がわいてひどいことになってしまう。ふたりだけでいくのかな。そうだよ。どうやって処理をするんだろう。穴を掘って埋めればいい。いかないよ、と花びらは言った。どうして。あなたたちが殺したんだ、だからあなたたちが埋めればいい。死体のままほうっておかれて、あの子がかわいそうだとは思わないんだろうか。あれはただの死体だよ、隆春くんじゃない、それに、わたしはこの場所からはなれるつもりはないよ、わたしたちが死体を埋めにいっているあいだにのこった兵士のひとたちが靴子ちゃんにとてもひどいことをしてしまうかもしれない。そうか、それなら、死体はマルコさんかマタイさんに手伝ってもらってあとで埋めることにするよ。うん。きみももうねむったほうがいい。ねむらないよ、だって、わたしはあなたたちが靴子ちゃんにとてもひどいことをしないように見張っていなくちゃいけないから。それなら、もうすこし話をしよう。どんな話をするんだろう。ひとりの兵士とひとりの女の子が兵士たちに殺された男の子の死体を埋めにいった話だ、とルカは言った。その女の子は3人の友達といっしょに夏休みの教室に遊びにきていた、女の子はおだやかな夏休みをたのしみ、日常のなかでおこったさまざまなたいせつなことがらについて親密さとかなしみをともないながら話しあっていた、そこに兵士たちがやってきた、兵士たちは女の子の友達のひとりを殺し、のこった3人の子供たちを監禁した、女の子は兵士たちの目的をなにも知らなかった、兵士たちもまた女の子たちになにも語ろうとはしなかった、兵士たちは殺した男の子の死体を食べ、食べのこしを教室のなかに放置した、やがて、夜になった、兵士たちは交代でねむりにつき、子供たちもその女の子をのこしてねむりについた、ねむってしまうことをおそれた女の子はおきていた兵士と会話をはじめた、それはとても長い会話だった、女の子は兵士に敵意を向けながらもすこしずつその会話に惹かれていった、蒸し暑い夜の親密な空気、兵士の身体のにおい、女の子は肉親以外の歳のはなれた男とふたりきりでこんなに長い時間会話をしたことははじめてだった、女の子は緊張もしたけれど、夏の昼間からつづく惨劇が女の子の感覚をすこしずつ麻痺させていた、やがて、その兵士は女の子に言った、男の子の死体を埋めにいこう、女の子はそれに同意した、兵士は黒いごみ袋を見つけてきて男の子の身体の部分たちをそのなかにつめこみはじめた、食べるために男の子の身体はばらばらにされ、その部分たちもじゅうぶんに分離されていた、まだ分離されていない部分たちも夏のつよい光を照射され腐りかけやわらかくなっていて、かるくねじればあっけなくその部分は身体の中心からもぎとることができた、もぎとった部分からどさっと白いかたまりが落ちた、兵士は顔をしかめた、女の子が近よって見ると、それは白い虫のかたまりだった、虫のかたまりはかたまりとしてうごめき、床のうえに落ちても同時に落ちた肉片を食べつづけてそれをほとんど一瞬で食いつくした、手近な肉片がなくなると虫たちはたがいの身体を食べはじめた、虫たちはたがいを攻撃しあい、おなかをさき、そこからでてきたいまだ消化されていない肉片を食べはじめた、虫たちの体液とどろどろになった男の子の肉片が虫たちのかたまりのあちこちから噴水のようにはねあがった、女の子はほとんど水だらけの褐色の液体を吐き、兵士は顔をしかめながらもその虫たちがたがいに食べあうのをながめていた、濃い腐臭がただよい、女の子は胃のなかのものをすこしだけ吐いた、喉のおくの痙攣で友達の死体の日中の姿が女の子の脳味噌のうらがわにはりつきいて、それが虫のように上下左右に揺れつづけた、やがて、虫たちは最後のいっぴきになった、最後にのこった虫はほかのすべての虫の中身と男の子の肉片を食べきりまるまるとふとり肥大し、ろくに動くこともできないで床のうえをころころところがっていた、そして、ころがるたびにその虫のくちからわずかな肉片が吐きだされていった、兵士はその虫を銃で撃って殺した、そして男の子ののこった身体もすべてごみ袋のなかにつめてきつくくちを縛った、女の子は廊下の水道でくちをゆすいでいた、兵士はごみ袋を背負って廊下にでて、いまだ断続的な痙攣をつづけている女の子の痛々しい背中を見つめた、どうしてもつらいならこなくてもいい、と兵士は言った、でも、きみがついてこないならもう僕たちはにどと会うことはないだろう、女の子の手は震えて、指先が線虫のように真っ白になっていた、だいじょうぶだよ、女の子はやがてふりかえってそう言った、その頬につたう涙が月の光をうけてつやめいて美しかった、わたしもいくよ、兵士は男の子の死体がはいった袋をかついでまえを歩き、そこからすこし遅れた場所を女の子が歩いた、廊下は月明かりをうけて水銀のような光を放っていた、ごみ袋はときどきかさかさと音をたてて動き、兵士はそのたびに袋をおろしてくちのしまりぐあいを確認した、虫がでてきてしまわないかな、と女の子が言った、虫じゃないよ、と兵士が言った、男の子の魂が天国にのぼりたがっているんだ、ふたりは階段をおり、廊下を歩き、ふたたび階段をおり、また廊下を歩いた、ひとつひとつの階段もひとつひとつの廊下もそれぞれの個体としてのかたちをすでにたもっていなかった、いつか殺された子供たちのかえり血と肉片で廊下も階段も血まみれになっていて、ずるずるとすべってまともに歩くこともむずかしかった、やさしい大人たちの手首や頭部があちこちに落ちていて、月の光がそれらを救済のように照らしていた、やがて、ふたりは昇降口にたどりつき、そこからそとにでた、ふたりの目のまえには広大な校庭がひろがっていた、夜空から放たれた星の光がまんべんなく校庭を照らしだしていて、校庭は真夜中の海のようで、その表面には夜空がくっきりとうつしだしていた、うそみたいだった、女の子が空を見あげると、校庭にうつりこんだ夜空がそのままのかたちでひろがっていた、月と星々は女の子がこれまで見たなかでもっとも濃くくっきりと光っていた、ひさしぶりにその肌に直接うける夜の外気は湿り気をおびながらも不快ではなく、むしろ女の子にとっては気持ちがよかった、ふたりはゆっくりと校庭の夜空をわたりはじめた、ひとつ足を踏みだすごとにその夜空のなかに身体ごと落ちていってしまいそうに思えた、足で踏みつけると、そこにわずかなゆがみと波紋がひろがった、兵士の歩みのほうがたしかで重く、兵士がつくりだした波紋のほうが女の子の波紋よりも間隔がひろくてより遠くまでそのかたちをのこした、ふたりがつくりだす波紋はたがいにぶつかりあい、そしてうちけしあった、ときどき兵士の波紋は女の子の波紋をすべてうちけしながらも自身のかたちを失わないまま女の子のもとまで到達した、波紋は女の子の身体にまで直接つたい、たとえ微弱であったとしても女の子の身体をたしかに振動させ、それはどこか恋に似ていた、波紋はときどき高くすんだ音をたて、校庭に、校舎に、いくつもの生命を派生させた、校舎のすみずみにこびりついていた子供たちの魂は波紋に揺りうごかされ、ひとのかたちをふちどり、窓ぎわにつどって学校からさりゆく兵士と女の子に向けて手をふった、女の子と兵士はふりかえって子供たちの魂を見つめたけれど、こころのそこの部分からさらわれていってしまいそうでこわくて、どうしても手をふりかえすことはできなかった、やがて、ふたりは校庭をわたりきり、街へとつづく坂をくだりはじめた、いったいどこへいくんだろう、と女の子は兵士に訊ねた、男の子の死体を埋めるのにふさわしい場所だよ、と兵士は答えた、その場所にあてはあるのかな、と女の子は言った、ないよ、と兵士は言った、これからふたりで探しにいくんだ、ふたりは街におりた、けれど街はそれまで女の子が知っていた街ではなかった、たびかさなる地震と戦争によって家屋は倒壊し、大地は傷つき、森は焼きはらわれ、空気は汚染されていた、それでもふたりは男の子の死体を埋めるための場所を探して街をさまよいつづけた、がれきとがれきのあいだにはいくつもの家畜の骨が散乱し、痩せこけたにんげんがその骨をしゃぶっていた、空気中には砂とがれきの破片とにんげんの骨がまざりあったものが粒子のように輝きながらただよっていた、奇形の魚たちが海からあがり、その街の空気のなかを優雅に泳ぎながらもときどき発狂をしてたがいの身体を食べあい、にんげんたちを襲っていた、舞いあがった戦争の塵が太陽の光をさえぎり、月と星の光だけしかとおさなかった、世界は夜と昼をくりかえしていたけれど、ひとびとが昼と呼んでいたのは女の子が知っている夜のことだった、かつて街の中心だった場所に長いひとびとの行列ができていた、でも、その行列がどこへ向かっているのか答えられるにんげんはほとんどいなかった、ときどき夜空に白い光が尾をひいて流れていくのが見えた、それは遠い国からまたべつの遠い国へと向けられて発射されたミサイルの光だった、無人の戦闘機が赤い光を放ちながら街のうえに飛来し、古代の命令を頼りにのこされた爆弾をひたすらにばらまいていた、ひどいひとは行列にならびながらすでに死に、死にながらも機械的に行列の歩みにあわせて歩いていた、死んだひとの肩にふれるとそのひとはふりかえって一瞬だけ微笑みはしたけれど、次の瞬間には灰となってくずれおちていった、兵士と女の子はその行列とともに歩みを進めながらも男の子の死体を埋められる場所はあるだろうかとまわりのひとにたずねた、けれど、だれもがそんな場所のことは知らないと言った、そのあたりに捨てておけばいいだろう、ひとびとはふたりにそう言った、みんなそうしているんだ、あんたたちもそうすればいい、けれど、ふたりは男の子の死体を埋めることができる場所を探すことはあきらめなかった、行列にならび、行列とともに歩みを進めながらふたりは何度も話しあった、わたしたちはいったいなにをやっているんだろう、そうまでしてこの男の子の死体をてきせつな場所に埋めにいく意味はあるんだろうか、けれど、決まって最後には、意味があるとかないとかじゃない、と女の子は言った、わたしたちはそうしたいからそうするんだ、ふたりは行列のなかを何日も何日も歩きつづけた、いったい何日のあいだ歩きつづけているのか、ふたりにはもうわからなかった、ふたりはよりそいあいながら歩き、よりそいあいながらねむった、行列はときどき奇形の魚がおそわれた、ひとびとはだれも抵抗しなかった、いっていのにんげんを食べおえれば魚たちは自然にさっていく、だからひとびとは食べられていくにんげんの光景から目をそらして魚たちがさっていくのをただただ待ちつづけるだけだった、どこかの避難所から発掘された避難物資がひとびとの手から手にうけつがれ、ふたりはときどきではあるもののかたいパンをかじることができた、けれど、どうしてもパンを手にとることができなかったひとびとは飢えに耐えきれずにまわりのにんげんを食べはじめた、にんげんを食べたにんげんの頭上には白い輪が浮かび、ふとした瞬間に昇天していった、わたしたちはどうしてこの行列にならびつづけているんだろう、と女の子は兵士にたずねた、すくなくともこの行列のさきにはなにかがあるだろうと思えるからだよ、と兵士は言った、なにかってなんだろう、あなたも見たでしょう、この世界はもう滅んでしまったんだよ、どこへいってもなにもない、ひとびとはおたがいの身体を食べあっているだけだ、食料も生きるための意志もまるでたりていない、どこかにいってそこでなにかが見つかるなんてどうして思えるんだろう、まして、わたしの友達を埋めるための場所なんてあるはずがないよ、と女の子は言った、それでも僕たちは探しつづけなければいけないんだよ、と兵士は言った、だって、僕たちはそのためにあの学校を出発したんだから、ある日、行列が向かっているのは世界塔だという噂が流れた、ひとびとは前方の遠い夜空を指さしてあれが世界塔だと言った、ふたりが目をこらして見るとかすかにほそい針のようなものが見えるような気がした、それはあまりにも薄くほそく、空気のぐあいによって見えたり見えなかったりした、世界塔がどういう施設なのかはっきりとしたことを知っているひとはだれもいなかった、それでも世界塔のなかには楽園があると信じているひとがおおかった、そこはかつて善行をつんだひとびとだけがはいることができる場所で、なかにはふんだんな食料とあたたかい寝台があり、とくていの秩序によって統制された共同体があると言った、そこにむかえられたにんげんはわずかな労働とともにそこでおだやかな暮らしをしているんだ、と、またべつのひとびとは崩壊まえの世界がその塔の内部に人工的に復元されていると言った、塔のなかにはかつてひとびとがすごしていた空間とまったくおなじ空間がひろがり、かつてとおなじような政府があり、社会があり、塔のなかではかつての生活とまったくおなじ生活を継続することができる、と、またべつのひとはあれは世界を回復させるための装置だと言った、世界塔は時間軸を改変するためのひとつの巨大な装置であり、塔は時間軸を改変していまある世界を崩壊まえの時間までもどそうとしている、そして、塔は装置完成のための労働者と動力を求めているんだ、労働者も動力もおなじにんげんだ、労働者はそこで食事と寝台をあたえられて働くことができる、労働者に適さないと判断されたにんげんは時間軸改変のための動力にされる、けれど、動力にされてしまうからといって心配はいらない、時間軸が改変され世界は崩壊まえの時間にもどり、動力となってしまったひとびともまたもとどおりになるのだから、動力になるということもそれまでのかりそめの時間をすごすということでしかない、またべつのひとびとは世界塔のなかにはたしかに楽園があるかもしれないと言った、けれどそれは世界塔がひとびとに見せている夢にすぎない、塔の内部でひとびとは肉体を溶かされて魂を抽出される、抽出された魂はとくべつな液体のなかにまぜられ、塔がその液体にとくていの電気信号を送る、するとひとびとの魂はその電気によって楽園の夢を見るんだ、ひとびとの魂がすりきれてしまうまでその夢はつづく、わかるだろう、塔はけっきょくのところ巨大な安楽死施設にすぎないんだ、またべつのひとびとはそのいずれの意見も否定し、世界塔は巨大な宇宙船だと言った、よく考えてもみろ、この惑星にはもうなにものこされてはいない、どこまでいってもがれきだらけだ、ひとびとは奇形の魚に食われ、食料がなくなればたがいを食べあう、こんな惑星に希望なんてのこされているはずがない、だから、人類はもうこの惑星から脱出するしかないんだ、もっとひろい視野を持つんだ、この惑星ではないべつの惑星を人類の楽園につくりかえるんだ、女の子と兵士はそのどの意見もただしいように思え、同時に、そのどの意見もまちがっているように思えた、ふたりは歩きつづけた、女の子は世界塔がどういうものであるかを想像しようとしていた、ただほかのひとがいまだくちにだしたことはない世界塔のありようを想像し、そうやって想像することが女の子のひとかけらの希望になってすらいた、あるとき女の子が想像したのは世界塔がすべての人類とすべての世界の創世装置だという考えだった、世界塔はにんげんの魂を保存し、肉体を土にかえす、魂はそのまま塔の内部で長いあいだ保管される、そして、この惑星がふたたびにんげんが生きることができる環境にまで自然に回復するのを待ち、回復ののち、魂と土をまぜあわせあたらしい人類をつくりあげ、塔のそとへと送りだしていく、女の子はその考えを兵士に話した、兵士は興味深い想像だ、と女の子に言った、でも、それをほかのひとには言わないほうがいい、どうして、と女の子は言った、ほかのひとびとの話もそうやって生まれただろうから、と兵士は言った、女の子はつよくうちひしがれるのを感じた、自分が考えたことがひどくくだらない、それでいて有害なものに思えた、同時に、それを言った兵士にたいしてにくしみを感じた、どうしてそういうことを言うんだろう、と女の子は兵士に言った、わたしはただわたしたちがしていることに希望を持ちたいだけだったのに、わたしだけじゃない、ほかのひとびとだってきっとそうだ、ほかのひとびとの話がいまきみがやったようなやりかたによって生まれたということはきみもわかるだろう、と兵士は言った、だから、世界塔にあるのはきっと僕たちのだれもが想像しなかったものなんだ、世界塔にたどりついてもそこには僕たちが思っているようなものはなにもありはしない、絶望するだけだ、あとで絶望することがわかっていながら希望を持つことはそんなにいけないことなのかな、と女の子は言った、ひとびとが求めているのはいま現在の希望なんだよ、あとで絶望がやってくるとしても、わたしたちはいまそこにあるかりそめの希望にすがるよりしかたがないんだよ、たしかに世界塔はわたしたちやひとびとが想像しているようなものとはまるでちがうものなのかもしれない、でも、それでもそこになにかがある可能性はあるんだよ、世界塔にたどりつかなければいけないと言ったのはあなただよ、わたしたちは希望を持たなければ世界塔にたどりつくことすらできないほどに追いつめられているんだよ、女の子がそう言うと、きみの話はわかるよ、と兵士は言った、それに、希望を持つことはけっしてわるいことじゃない、けれど、世界塔のありようを想像することと希望を持つことはちがうよ、僕が気にしているのはきみがそのふたつをおなじように考えていることだ、よくわからない、と女の子は言った、希望を持つということはにんげんの想像によってかならずしも確定されるものではないということだよ、と兵士は言った、やっぱりわからないよ、と女の子は言った、ねえ、わたしにはわからないよ、けれど、兵士はもうなにも言わなかった、気温は日に日にさがっていった、吐きつける息は白くくもり、しきりに雪が降った、寒さに耐えることができないひとびとはつぎつぎと倒れ、ほかのひとびとに食べられていった、ほかのひとびとを食べたひとびとの頭のうえには例外なく白い輪が浮かび、白い輪ができてから昇天するまでの時間はまちまちだったけれど、それでもかならず昇天していった、ひとびとは昇天するとき白く発光していた、同時にそれ以上に白くまばゆい光があちこちから射し、一瞬のあいだだけ夜空は薄桃色に染まった、かすかにやさしい音楽が聞こえ、それはどことなく人類の最後のありかたをかなしみをまじえながらも祝福しているかのようだった、あなたはわたしの友達を食べたのに、どうしてあなたの頭のうえには白い輪が浮かばないんだろう、と女の子は兵士に言った、それは、きっと僕たちがこの男の子を埋葬しようとしているからだよ、と兵士は言った、女の子はすこしのあいだ考え、こう言った、ねえ、あなたはあなたが昇天してしまわないためだけにわたしの友達を埋葬しようとしているのかな、つぎにおなじことを言ったら、と兵士は言った、僕はきっときみを殺すだろう、ふたりはけっしてほかのひとは食べなかった、雪を溶かしてくちにふくみ、いつかまわってくるだろうパンを期待して空腹のまま待ちつづけた、雪がおおくなってくると空中をただよっていた奇形の魚たちがばたばたと死にはじめた、ひとびとはこぞって魚の肉を食べはじめ、ふたりもまたおなじように魚を食べて飢えをしのいだ、とても静かに雪が降っていたある日、いっぴきの巨大な魚の死骸がひとびとのところまで流れついた、ひとびとは空中をただよっていたその魚を協力してひきよせて地面のうえにおしたおし、刃物でその肉をきりわけて焚き火であぶって食べはじめた、肉厚があり、いくつものふとい繊維をたばねたような感触だった、ふたりもまた魚に群れるひとびとのかたすみでわずかばかりの魚の肉を手にいれて食べはじめた、食べすすむにつれ、ひとびとは魚のより深くえぐみのある部分に向けて掘りすすんでいった、そして、ひとりの男が卵巣の皮をついに剥がした、卵巣のなかにむすうの稚魚がはいっていた、それは真っ白な皮にくるまれ、なかにはほとんど透明な個体もいたけれど、その稚魚ははっきりとにんげんのかたちをしていた、その瞬間、稚魚たちはいっさいに目を見ひらき、血ばしった目で奇声をあげた、ひとびとは稚魚たちに群がり刃物でその稚魚たちをぐちゃぐちゃにつぶして食べはじめた、女の子はその様子を遠くからながめ、くちにいれかけていた魚の切り身を地面に投げすてた、もういやだ、と女の子はさけんだ、わたしはこんなものは食べたくない、もうこんな世界なんてうんざりだ、みんな死ねばいいんだ、みんなみんな、あのひとたちも、わたしも、みんな死ねばいい、兵士は湿った瞳で女の子の横顔を見つめ、それからたちあがり、魚の切り身をひろいあげて女の子のかたわらにもどってきた、女の子はなにも言わないで泥と雪にまみれた地面を見つめつづけた、きみがそうしたいのならそうすればいい、兵士はそう言い、切り身についた雪と泥をその手ではらいのけ、ゆっくりとその肉を噛みちぎった、それから女の子はほんとうに魚を食べなくなった、すぐに耐えがたい飢餓がおなかのまんなかを直接的な痛みとしてさしはじめたけれど、それでも食べなかった、ねむれない日々がつづき、瞳孔はひらききり、肌のもろい部分が黒ずんではぼろぼろとこそげおちていった、かさついた瞳のなかに線虫のような赤い血が走り、髪の毛と指先は凍てついた、兵士はそれでも女の子に魚をすすめなかった、女の子のかたわらにたち、日々おそくなる女の子の歩みにその速度をあわせ、その身体を抱きしめてあたため、やさしくいたわった、地下や廃墟のなかへ食料を探しにいくというにんげんがあらわれると兵士は率先して仲間にくわわり、がれきのしたから掘りだしたパンのかけらやペットボトルの水を手にいれた、兵士はけれどそのひとかけらもかじらなかった、そのいってきもくちにふくまなかった、兵士は兵士が手にいれたものはすべて女の子にささげた、かわりに兵士が食べるのは奇形の魚と汚染された水だった、けれど、女の子はもうほとんどなにもしゃべらなかった、兵士が手わたす貴重な食べものをうけとりながらもその瞳はつよく兵士をにらみつけた、女の子の瞳のなかに汚染された空気をよりあつめたような澱がよどみ、それは日ましに黒く濃くなっていった、ときどき血を吐き、そのなかにばらばらになった黒い羽虫の部分がまじった、舌には黴が生え、パンのかけらを飲みこむのにもひどい痛みが走った、女の子はもう歩くことすらできなかった、兵士は女の子に兵士たちが殺した男の子の死体をつめた袋を背負わせ、兵士自身は女の子をかついで歩きつづけた、腐った指が指先の肉ごとごっそりぬけおちて雪原のうえに落ち、兵士の耳のうらがわに溶けかけた女の子の脳味噌が流れおちた、死にたい、と女の子は虫の羽ばたきに似た声で言った、死んではいけない、と兵士は言った、僕たちは世界塔までいかなくてはいけないんだ、知らないよ、と女の子は言った、もうなにもかもがどうでもいい、ここで死にたい、寒いよ、女の子は泣きつづけた、けれどその涙も脳味噌とまざりあって桃色ににごりきっていた、わかっているよ、と兵士は言った、でも、僕たちにはほかにありようがないんだ、そうなのかな、と女の子は言った、わたしにはよくわからないよ、兵士は沈黙した、兵士の頭のなかに雪に似た灰が静かに降りつもった、まわりを歩いていたかつてにんげんを食べたたくさんのひとびとが光の輪をつけて昇天していった、桃色の光が射し、そのつよい熱に頬が焼けるのを感じた、そうまでなってしまったあとも、けれど女の子は兵士がはこぶ食べものを拒むことだけはけっしてしなかった、殴り殺された死体のポケットから兵士が盗みとったパンのかけらをこまかくくだいては舌のうえにのせ、地下から兵士がはこびあげた水ですこしずつそれを喉のおくに流しこんだ、なんだか、あなたはわたしにあなたをにくませるためだけにわたしを生かしているような気がする、と女の子は言った、兵士はなにも言わなかった。花びらは廊下に両手をついてゆっくりとたちあがり、それから繊細な手つきで銀色の蛇口をひねった。なめらかな水がその暗いちいさな穴からそそがれ、花びらはその水に指先をひたした。光が水を透かしていて美しいと思った。ルカは花びらがなにかを言うのを待ちながら花びらを見つめつづけていたけれど、花びらがなにも言わないことがわかるとあきらめて座りこんだ。ルカが床に手を這わせるとその指先に長い髪の毛とほこりがからみつき、そんなふうによごれた指をめいっぱいひろげて顔のまえにかざしてその手のひらの醜さを思った。花びらは指先をまるめてからいきおいよくのばし、ゆめのさきから水滴を飛ばした。水滴はルカの髪の毛のうえにいくつかかかったけれど、ルカは自分の手のひらばかりを見つめていたせいでそのことに気づくことはできなかった。黒々としたかたそうな髪の毛で、その場所のいくつかにはじけないままたまとなった水滴がぷっくりとこびりついていた。花びらは蛇口をしめてから壁に両手をつけてよりかかった。ルカの顔の横で花びらの服の先端が震えるように揺れた。やがて、女の子と兵士は世界塔にたどりついた、とルカは言った。塔の入り口はひらかれていて、そこにひとびとが吸いこまれつづけていた、両脇にはふたりの兵士がたって塔に吸いこまれていくひとびとを動かないで見まもっていたけれど、そのふたりの兵士ももう死んでいた、女の子と兵士が塔のなかにはいるとそこにはいちめんの花畑がひろがっていた、花畑はあまりにも広大で果てが見えなかった、塔の天井に設置されたおおきな窓から失われた陽の光がつよくいちめんを照らし、空気はゆるやかでいてあたたかかった、花のかおりがわずかな色をつけて霧のようにその光景のすべてをつつみこんでいた、塔のなかのひとびとは道のない花畑をそれぞれの方角に向かって歩いていき、花のかおりと陽の光にかきけされるかのように花の群れなかに倒れこんでいった、そしてそのひとびとをまたべつの花たちがおおった、女の子と兵士もその花畑を歩いた、あざやかな色たちがそれぞれの色彩をたがいに溶かしあいながらもふたりの瞳を見つめた、踏みしめる土はやわらかく、ひとつ歩みを進めるごとに生きた大地と花のにおいがかおる空気は濃く、光景をつくりあげるひとつひとつの成分がその周縁でにじんで美しかった、兵士の靴先は土とかさなりあい、兵士の指先はかたわらの花とかさなりあい、そして花はそれをとりかこむ空気とかさなりあっていた、つよい光が兵士の瞳に薄桃色の靄を投げかけ、兵士はときどきたちどまってはまばたきをくりかえして薄い涙を流した、女の子と兵士はやがてふたりきりになった、兵士の背中に女の子がいて、女の子の背中に死んだ男の子がいた、兵士の耳のわきに女の子の湿った吐息がふきかかり、兵士の首すじに汗が流れ、光が身体を射すかすかな音が絶え間なく聞こえつづけた、花畑には果てがなかった、どこまで歩きつづけてもおなじ風景がひろがりつづけるだけだった、いきあうひともいなかった、ふたりとひとりはその数をたもったまま孤独だった、ここがどういう場所かわかるかな、と女の子がとてもひさしぶりにくちをひらいた、わからないよ、と兵士は言った、ここはね、と女の子が言った、ただの人類の墓場だよ、その瞬間、前方から射しこむ光の向こう側にひとびとの魂のかけらが見えたような気がした、魂のかけらはばらばらにほどけ、ほそく白い糸となってゆっくりと高い場所まで到達していった、兵士は歩みをとめ、女の子と女の子が背負う男の子の死体を土のうえにおろした、教室をでてからとてもくだらないと思えるようなことしかできなくなった、と女の子は言った、兵士は無視をした、死んでもいいと思えるような気持ちを自分のなかにつくりあげようと必死になってしまった、けれど、そんなことはみんなばかみたいなことだった、とてもとても、くだらないことだった、と女の子は言った、ここにきみの友だちを埋めよう、と兵士は言った、いいよ、と女の子は言った、あなたたちが殺したんだ、あなたがやりたいようにすればいい、わたしはあなたがやっていることを偽善だとも思わない、けれど、それでもわたしはあなたもわたしもくだらないいきものだったんだと思う、兵士はポケットから最後のパンのひとかけらをとりだして女の子にさしだした、女の子は両手をささげなかった、ただその唇のはしからつめたい唾液がしたたり、土のうえにゆっくりと降りつもっていった、塔のなかを時間が流れた、兵士は女の子の手をとって手のひらをうえに向けて中空に固定し、そのうえにそっとパンをおき、かたわらの花をちぎりってしぼった、花のしんから薄くすきとおった蜜がこぼれてパンのうえにしたたった、兵士はばらばらになった花を捨てあたらしい花を手折り、ふたたび蜜をしぼった、蜜はパンのくぼみにたまり陽の光を浴びて美しく輝いた、反射した光が兵士の目と目のあいだをうち、その場所にまるく浮きでた空間をつくりあげた、やがて蜜はパンのくぼみからこぼれおち、女の子の手をつたいひじまで流れた、蜜はいくすじかにわかれて女の子の腕をつたっていたけれど、そのどのすじもたがいにまざりあうことはなかった、僕が穴を掘ろう、と兵士は言った、きみは花の蜜をすすり、やわらかくなったパンをかじりながら僕が穴を掘りおえるまで待っているといい、女の子の顔の角度が変わり、視線がパンに向けられた、兵士が土のなかに指先をつきたてたとき、女の子の手と手のうえのパンがゆっくりと動き、女の子の唇とパンの表面の蜜がたがいにふれあった、黴の生えた舌がのび、その舌の先端が恋人の体温をたしかめるようなやりかたで蜜を舐めた、蜜はあまい味がした、兵士はその女の子の顔を横目で見ながら土を掘りつづけた、土はやわらかく、そのなかに指をさしいれるとたやすく掘りすすめることができた、あたりの空気はおだやかであたたかったけれど、土のなかは適度な湿り気をおびて夏の水辺のすずしさを感じた、土のなかにはこまかな茎や虫たちの触覚のそれぞれの部分たちがまざりあっていた、ときどきにんげんたちの指先やちいさな歯のかけらも見つかった、兵士は肩のおくそこににぶい熱を感じながらもそれらの不純物をひろいあげては女の子から遠くはなれた場所に投げすてていった、わたしの友達の死体を埋めている気がしない、と女の子が言った、あなたが土を掘るときの手つきも、あなたのかたちも、わたしにはとてもいびつに見える、まるで、とてもおおきな爆弾から身をまもるための穴を掘っているみたいだ、兵士は女の子を無視して穴を掘りつづけた、女の子はその姿をうつろな瞳で見つめていたけれど、やがて、上半身をゆっくりとかたむけて土のうえにその身体のすべてを横たえた、顔と土の距離が近くなって精液にも似た生ぐさいにおいをつよく感じた、土と中空をわかつ線はいびつにゆがみ、それが女の子の視界をまっぷたつにきりさいていた、土の表面にはいろいろないきものたちの部分がはりつき、それはもともとのかたちはのこしていたものの中身はほとんど土とおなじ成分をしていた、兵士が遠い場所へ投げすてる土がとても高い中空でひとつひとつがこまかなつぶに飛散していくその瞬間瞬間が低速でくりかえされていた、土のつぶたちはその軌跡にそって空気をその色に一瞬だけ染めかえているようだった、すこしだけ戦場の話をしよう、と兵士は言った、女の子は無視をして目をとじた、視界が暗闇にとざされると頭のなかで電気の信号が飛びかい、身体のなかを血液がめぐる音たちがはっきりと聞こえた、戦場はいつも夏だった、と兵士は言った、暑い日がつづいていた、光は森の木の葉をとおして僕たちの身体をいつでもまだらに染めていた、情報は錯綜していた、戦場記者たちがやってきては僕たちとならんで写真を撮り、僕たちは僕たちで彼らに向かって僕たちは敵兵を殺してその娘を犯しにいくんだと言っていた、僕たちがそう言って笑うと戦場記者たちも歯をむきだして笑っていた、悪意をむきだしにすればするほど暑さがやわらぐようにいつも感じていた、中尉は明日こそ僕たちは敵軍のなかに突撃しにいくんだと言っていた、毎日そう言っていた、僕には祖国なんてなかったけれど、まわりの兵士たちは彼らが祖国だと思っている場所に向けて手紙を書いてばかりいた、僕たちは僕たちの装備をひとつひとつたんねんに確認し、不足があれば手入れをした、夜には満天の星空をながめながら僕たちがそれまで生きてきた時間、そしてこれから生きていくだろう時間のことを語りあった、僕たちは毎日そうしていた、明日こそは突撃なんだ、明日になれば僕たちの仲間のはんぶんは死んでしまうだろう、はたして僕は死ぬにんげんなんだろうか、あるいは死なないにんげんなんだろうか、僕たちは星々と月に向かってそう問いかけていた、けれど、いつまでたっても突撃命令はなかった、ほんとうになかった、僕たちは毎日豪華な食事をした、明日こそが僕たちが突撃をする日だと思っていたからだ、けれど、そのつぎの日にも突撃はなかった、そのつぎのつぎの日も、そのまたつぎの日も、突撃はなかった、中尉はなにかに耐えるようにして明日は突撃の日だと言いつづけていた、僕たちも突撃にそなえて装備の手入れをつづけ、死ぬ準備をくりかえした、けれど、装備には過不足がなくなり、祖国に向ける言葉もつきた、やがて、だれも中尉の言うことを聞かなくなった、中尉もまただれも中尉の言うことを聞いていないことを知ってしまっていた、僕たちはもう装備の手入れも死ぬ準備もやめてしまっていた、それでも、中尉は毎朝天幕から顔をだした、そして明日こそが突撃の日だ、明日の夜明けとともにおまえたちのはんぶんは死に、おまえたちのはんぶんはいきのこるだろうと言った、僕たちは、けれど、もうすっかり死んでしまったような気持ちになっていた、実際、僕たちが気づいていなかっただけであのときの僕たちはもう死んでしまったあとの僕たちなのかもしれなかった、僕たちがすごしていたあの時間は敵軍のなかに突撃していった僕たちが死ぬ瞬間に見た夢だったのかもしれない、けれど、僕たちにはそれを断定することなんてできなかった、兵士はしばらく土を掘る手をやすめ、顔のまえにふたつの手のひらをささげてその様相をながめた、手のひらの皺のなかには薄色の土がしきつめられ、つめは割れてそのあいだから赤い血が流れていた、はじめに消えたのは中尉だった、と兵士は言った、だれがはじめに言いだしたことなのかは覚えていないけれど、さいきん、中尉の姿を見ていないような気がする、とだれかが言った、僕たちはみんなうなずいた、もうとても長いあいだ中尉の明日こそが突撃の日だという言葉を聞いていないような気がした、けれど、いったいいつから中尉の姿を見ていないのか正確な時間を覚えている兵士ははだれもいなかった、僕をふくめた僕たちの何人かが中尉の天幕のまえにたち、中尉の名前を呼んだ、そしてそれをくりかえした、中尉の返事はなかった、僕たちはしかたなく天幕のなかにはいったけれど、天幕のなかにはだれもいなかった、さいきんまでそこにだれかがいたという残滓すらもなかった、砂ぼこりがたまり、すみではおおきな赤い蜘蛛が巣をつくってひっかかったほかの虫を食べていた、中尉はいったいどこへいったんだろう、そして、中尉がどこかへいってしまったのは天幕のなかがこれほど荒れはててしまうほどまえだったんだろうか、あれだけあった中尉の私物はいったいどこへいってしまったんだろう、料理包丁、携帯ラジオ、妻と娘のいくつもの写真、替えの軍服、それらはいったいどこへいってしまったんだろう、中尉ひとりで持ちはこべる荷物ではなかったはずだ、中尉は何人かの部下をともなってどこかへいってしまったのか、それなら中尉のほかに消えたにんげんがいるはずだ、僕たちは混乱した頭を首のうえにつけたまま中尉の天幕のまえにあつまった、僕たちはそのときその戦場にいたすべての兵士をあつめ、僕たちのなかからえらばれた代表者が兵士ひとりひとりの名前を呼びながらその数をかぞえた、47人だった、47人、けれどその数は正当なんだろうか、そもそも僕たちはそのはじめからいったい何人いたんだろう、だれかが、俺たちはたしかに48人いたはずだ、そうなるとだれかがひとりが中尉とともに消えたことになる、と言った、僕たちは僕たちの顔をたがいに見つめあい中尉とともに消えたひとりのにんげんをつきとめようとした、けれど、僕たちはそのなかにふくまれてはいないだれかの存在を思いだすことができなかった、重い沈黙があたりをただよった、だれかが、おまえが数をかぞえまちがっただけかもしれない、おまえは自分を数にいれたのか、と数をかぞえた兵士に訊いた、いれた、と数を数えた兵士は言った、そしてその直後、いれていなかったような気もする、とも言った、べつの兵士が僕たちの数をかぞえた、47人だった、最初に数をかぞえた兵士はまちがっていなかったんだと僕たちは思った、けれど、最初に数をかぞえた兵士が、いや、俺は最初のときたしかに俺を数をいれなかった、と言った、つよがってしまったけれど、俺は俺がかぞえるときにたしかに俺自身をかぞえることをわすれていたんだ、だから、いまここには48人の兵士がいるはずなんだ、48人いなければいけないんだ、と、僕たちはみんなその兵士がただのかんちがいをしているだけだと思った、けれどその兵士はかたくなに俺たちは48人いるはずなんだと言った、だれかが、おまえは中尉までかぞえてしまっているんじゃないのか、と言った、おまえは47人までかぞえて、それで、いまここにはいない中尉をいれれば48人だなと発想して、そして、その発想をしたことじたいをわすれてしまったんじゃないのか、けれど、最初にかぞえた兵士はけっしてそんなことはないと言った、しかたなく、僕たちはまた僕たちの数をかぞえた、今度はわかりやすいように組になってかぞえることにしよう、とだれかが言い、僕たちは10人ずつが組になることになった、組は4つできあがった、その4つの組のとなりにあまりものの7人がガムをかみながらたっていた、まちがいない、47人だ、とそのとき組をつくるように提案した兵士が言った、47人だ、まちがいない、とだれもが思った、そうであるなら、やはりだれかが中尉とともにどこかへ消えてしまったんだ、とだれかが言った、念のためだけれど、おまえが言った俺たちが48人いるというのは中尉をのぞいてということでいいんだな、だれかが僕たちの数を知っていた兵士にそう言った、数を知っていた兵士はしばらく沈黙し、やがて、わからない、と言った、俺はたしかに俺たちが48人だという資料を見たことがある、けれど、その数が中尉をふくめたものなのか中尉をのぞいたものなのかは覚えていない、だれかがこれではらちがあかないと言った、無線機で本部に問いあわせをして俺たちがほんとうにはいったい何人なのかをたしかめるほうがいい、僕たちは中尉の天幕のまえから移動をはじめた、僕のうしろには兵士たちがいた、その兵士たちのうしろにはまたいくつかの兵士たちがくっついて歩いた、だれかが、ふと、ところで、さっき組になるように提案した兵士はどうして中尉の階級章をつけていたんだろう、と言った、そんなはずはない、この場所には中尉はたったひとりしかいなかったじゃないか、とべつのだれかが言った、それなら、さっき組になるように提案した兵士はいったいだれだったんだろう、とまたべつのだれかが言った、僕たちは僕たちに向かい、さっき組になるように提案した兵士は手をあげてくれ、と言った、だれも手をあげなかった、僕たちのそれぞれの背中にいやな汗がつたうのがわかった、そもそも、僕たちはもう何ヶ月もおなじ部隊編成で戦争をしていたんだから僕たちのなかにだれも知らない兵士がいるわけがなかった、さっきの兵士が数をかぞえたとき、その兵士は4つの組のうちがわにいただろうか、それともそとがわにいただろうか、兵士は組のなかにいながらひとりひとりをかぞえあげていったのか、それとも組からはみでた場所に移動してひとりひとりをかぞえあげていったのか、あの兵士は47人めだったのか、それとも48人めだったのか、けれど、あの男がどんなかたちで僕たちの数をかぞえたのかを覚えている兵士はだれもいなかった、僕たちはしばらくそこでたちつくしていた、地面が僕たちにはそうとは気づかれないやりかたでゆがんでいるように思えた、もういいじゃないか、とだれかが言った、まずは本部に問いあわせて俺たちがこの場所にほんとうにはいったい何人いるはずなのかを確認するほうが先決だ、本部は俺たちの部隊の所属人員が書かれた書類を持っているはずだ、俺たちがたとえ何人いても、47人であっても48人であっても、俺たちの名前と本部の書類を照合すれば俺たちの問題はなにもかもが解決するじゃないか、だれもがその言葉にうなずいた、僕たちにはそうするしかなかった、中尉の天幕のなかは僕たちが朝にのぞいたときよりいっそうみすぼらしかった、ほこりは細菌のように増殖していて、そのなかをいっぽ歩くごとにそれは天使たちの羽のように舞いあがりやがてゆっくりと地上におりたっていった、中尉の家族の写真は茶色く色褪せてうすぼんやりとしていた、朝はいったときからその天幕のなかで僕たちが体験した時間よりもおおくの時間が流れさっていったのはあきらかだった、けれど、僕たちはだれもなにも言わなかった、僕たちの代表が無線をつかって本部に僕たちの数をたずねた、確認してまたすぐにおりかえす、と本部は言った、ひとりを無線機の近くにのこして僕たちは天幕をでた、そとで待ちうけていたほかの兵士たちにやがて返事はくるだろうと言った、けれど、だれもそんなことには期待していないみたいにうつろな瞳をしていた、僕たちがそう言うとおおかたの兵士たちはそれぞれの天幕にもどっていった、中尉の天幕のまえにのこったのは7、8人だった、僕たちはてんでばらばらに、たがいの身体にまちがってもふれあわないような距離をおき、それぞれがガムを噛んだりナイフをといだり銃をみがいたりしてよぶんな時間をこそぎおとした、沈黙が風にのって流され、またもどってきた、空気中のひとつひとつの成分がすこしずつ肥大したみたいにざらついて僕たちの皮膚の表面をおおっていった、だれかが耐えきれなくなって咳をするとかならずほかの何人かも咳をした、いやな咳だった、ところかまわず吐かれた唾が地面のうえで黒くかたまった、白く濃い部分がうえのほうにたまり、溶けていくようにゆっくりとしたのほうに流れだしていきやがて地面に薄くひろがった、そしてそこに蟻がたかっては唾のなかで溺れて死んでいった、そんな唾と蟻の死体の融合したかたまりがいくつもいくつもできると僕たちは気分がわるくなってすこしだけ場所を移動した、おたがいに声をかけあってそうしたわけじゃない、ひとりが移動するとほかのみんなも自然に移動した、移動したさきでも僕たちはまたぎりぎりおたがいにふれえない距離をたもったまま座りこんでそれぞれの作業に没頭した、やがて、陽がかたむきはじめた、西の森の、とくに高くのびたふたつの木のまんなかに太陽はゆっくりとおりていった、森の表面がべとついたように黒くなっていき、ときどき、森の表面とおなじ色をした鳥たちがばさばさと飛んでいき太陽に黒点をつくっていった、血色の光が濃くするどく僕たちの身体を射し、僕たちのおしりからのびる影をひきのばした、影は長く黒くのび、ほとんどふくらみのない長い針のようになっていた、その影のどこが僕たちの下半身でどこが上半身なのか、もう僕たち自身にすらわからなかった、僕たちは影の先端を見ることができなかった、僕たちの影の頭は東の森まで長くのび、その森がつくりだしている黒色のなかにその魂ごと吸いこまれていくようだった、風はすこしだけつめたさと湿り気をおび、僕たちはそれぞれの手で自分の身体をこすった、もう手もとはあまり見えなかった、僕たちは僕たちによってみがかれている銃とその銃をみがいている手の区別すらもうまくつけられなかった、いちばんはしに座っていた兵士が、本部からの返答はあっただろうか、と言った、その兵士はその場に座りこんでいたすべての兵士に向けて言ったつもりだったけれど、とてもちいさな声だったからとなりに座っている兵士にしか聞こえなかった、となりに座っていた兵士はそのまたとなりに座っている兵士に向けてまたおなじ問いを発さなければいけなかった、それがくりかえされ、いちばんはしに座っていた兵士が言った言葉は数分の時間のうちにその場に座っていた兵士たちすべてにいきわたった、見にいこう、最初にその問いを発した兵士からいちばんはなれた場所に座っていた兵士がそう言った、その声は不思議とそこに座っていた兵士全員に聞こえた、僕たちはのろのろとたちあがり、足をひきずるように中尉の天幕のなかにもどっていった、本部から回答を待っているはずの兵士は姿を消していた、けれど、そんなはずはなかった、僕たちはずっと中尉の天幕のまえにいた、回答を待っている兵士が天幕からでてくれば僕たちはそれに気づいたはずだった、それに、回答を待っているはずの兵士が僕たちになにも言わないでどこかへいってしまうことも考えられなかった、僕たちのだれもがそのことに気づいたいたけれど、だれもなにも言わなかった、中尉の天幕のなかは以前よりも荒れはて、その天幕のなかのすべての物質がいちようにもろくなりその一部はくだかれていた、天幕のすみにある無線機には赤い錆びが浮きたっていた、そしてそこからいくつもの文字たちがまるでばらばらのじゅんばんで吐きだされて無線機の真下に堆積していた、僕たちは文字たちの山からひとつひとつの文字をぬきとってそれがもともと意図されたじゅんばんどおりにならべかえようと必死になった、けれど、それは僕たちを侮辱するかのような作業だった、文字たちのいくつかは腐っていやなにおいがした、ひとつひとつの文字はたがいに攻撃をしあいそのいくつかの部分を欠落させていた、ほかの文字に身体のすべてを食べられてまったく失われてしまった文字すらあった、僕たちは文字たちの山を蹴り、踏みつけ、破壊した、がりがりと頭をかきむしっていただれかが無線機を手にとり、俺たちの人数はもうどうでもいい、と言った、中尉が消えてしまったんだ、俺たちはどうしたらいいんだ、俺たちは明日どうすればいい、敵軍のなかに突撃するのか、退却するのか、それともいつかやってくるだろうつぎの命令を待ってただこの場所で待機していればいいのか、無線機はその兵士の呼び声にこたえてまたいくつもの文字たちを吐きだした、僕たちはそのじゅんばんに注視してその文字たちが僕たちにつたえる意味を理解しようとつとめたけれど、その文字たちはつなげたところでなにか意味がある羅列だとはどうしても思えなかった、僕たちはあたらしく吐きだされて堆積した文字たちの山もまた蹴り、踏みつけ、そして無線機を破壊した、無線機のなかにはいくつかのばねやにんげんの指、そして髪の毛や歯茎や臓器がぎっしりとつめこまれていた、それらはすべてこまぎれにされ、とても効率的に圧縮されていた、中尉だ、とだれかが言った、こんなところに隠されていたんだ、けれど、だれもそのあとはなにも言わなかった、僕たちは中尉の天幕から逃れ、それぞれの天幕にもどっていった、それから僕たちは目的を失った、僕たちがすごす毎日にはつよい夏の陽の光が照射されつづけた、けれど、その光すらも僕たちにはうつろに感じられた、湿り気をおびた空気は僕たちの身体を動きづらいものに変えていき、僕たちの身体の表面からは僕たちの意志と魂が汗にまじってぬけおていくようだった、僕たちはなにをしていいかまるでわからなかった、もう僕たちにはするべきこともしなければいけないこともなにもなかった、だれかからなにかを命令されたかった、命令さえあれば僕たちはしっぽをふってその命令のすべてにたやすくしたがうだろうと信じた、けれどだれも命令はださなかった、僕たちはただただなにかを待ちつづけた、なにを待っているのかすら僕たちにはわからなかったけれど、ただなにかを待ちつづけるということだけで僕たちは死んでしまう必要はないように思えた、僕たちはおざなりに歩哨にたち、森の向こう側からやってくるかもしれない敵兵にそなえた、けれど、僕たちは歩哨にたっているあいだによくねむってしまうようになった、ある兵士は歩哨にたっているあいだにねむりこむとそのまままるふつか以上ねむりつづけた、僕たちがどんなに声をかけても、その身体を揺さぶっても、その顔面につめたい水を浴びせてもおきなかった、僕たちはその兵士がたったまま死んでしまったのかと思った、その兵士の胸の向こうから聞こえてくる心臓の鼓動もその兵士の鼓動ではなく自分自身の胸の鼓動なんじゃないかと疑った、それでも、その兵士はふつかたつとすっと目を覚ました、そして、もう交代の時間か、と僕たちに訊いた、僕たちがおまえはまるふつかもねむりつづけていたんだと言っても信じなかった、なにを言っているんだよ、とその兵士は言った、俺はさっき歩哨にたったばかりだ、まるふつかねむっていたなんてありえない、僕たちはその兵士にふつかにわたるねむりを理解させようとした、僕たちは、おまえが歩哨についたのはいったい何日だ、と訊いた、わからない、とその兵士は言った、それなら、今日はいったい何日なんだ、とその兵士は僕たちに訊いた、僕たちもわからなかった、もういやだ、とだれかが言った、このままではきっと俺たちは狂ってしまう、そうでなければ歩哨にたってねむりにつきそのまま夢のなかの世界へと移行してしまうだろう、俺たちはこんな環境に耐えられるようにはできていないんだ、俺たちはなにか行動をおこすべきだ、なにかを待つことはもうやめよう、俺たちが望んでも、俺たちが待つものは俺たちの場所にはけっしてやってはこないだろう、退却だ、とまたべつのだれかが言った、明日の朝、俺たちは全員でこの森から退却しよう、近くの村まで退却しよう、そしてその村にいちにちいっぽんやってくる汽車にのって本部までもどろう、その提案はその場所にいたすべての兵士たちにうけいれられた、僕たちはそれぞれの天幕までもどり、明日の朝の出発をめざしてそれぞれの荷物をまとめ、やがてねむりについた、僕たちがつぎに目を覚ましたとき、すでに夕暮れの時間だった、ときどき蜜色がまざった赤黒い光がつよく天幕を照射し、幕を透かしてそのなかの空間を赤く染めていた、僕たちは目をつよく見ひらき、身体をおこそうとした、でも身体はまったく動いてはくれなかった、それぞれの兵士がその横でねむっているそれぞれの兵士に手をのばそうとしたけれど、その手もまるで動かなかった、空気全体の密度が薄くなったように呼吸がむずかしくなった、兵士たちはときどき喉のおくそこにひっかかった小骨を吐きだすようなやりかたでつよく息を吐いた、さけびたい、となりでねむっている兵士になにかを呼びかけたい、とだれもが思った、けれど声はでなかった、頭のなかでつくりだした言葉や想像を喉のおくから絞りだすやりかたをすべての兵士たちがわすれてしまっていた、やがて夜がやってきて天幕は薄青色になった、その時間がすぎるとまた夕暮れがはじまり、夕暮れがはじまると夜がやってきた、そしてそれが絶え間なくくりかえされた、そのあいだ僕たちはまるでねむることができなかった、意識は不自然に覚醒し、こめかみのなかを虫が這っているようないやな感覚がつづいた、身体のすべてから汗が流れだし、シーツでは吸いきれなくなって寝台のそとがわに一滴ずつこぼれおちていった、僕たちのうちの何人かは死んでその身体を腐らせていった、僕たちにはそのすべてが痛々しく感じられた、僕たちはこのまま死んでしまうんだとだれもが思い、重くまぶたをとじた、つぎに目をひらいたとき、兵士たちは身体をおこすことができるようになっていた、わるい夢でも見ていたような気持ちだった、けれどシーツは真っ黒によごれ、その時間のあいだに死んでいった兵士たちは骨になっていた、僕たちはそれぞれの天幕からぬけだして水を飲み、ゆっくりとパンを食べ、そして骨になってしまったいくつかの兵士たちを土のなかに埋めた、退却することができないのであれば、とだれかが言った、せめて、敵兵と戦って死のう、僕たちはふたたび戦闘の準備をととのえた、けれど、敵兵はいったいどこにいるんだろう、とだれかが言つぶやき、そのことで僕たちは敵兵の位置を知らないことに気づいた、僕たちは何人かの兵士たちを偵察のために森のなかへ送りこんだ、朝までにもどってくると言って森のなかへ消えていった兵士たちはけれどにどともどってこなかった、僕たちは消えた兵士を探すための捜索隊を組織して森のなかへ送りこんだ、けれどその捜索隊ももどってこなかった、僕たちの人数はその場所に停留をはじめたときから激減していた、もうだれも僕たちの数をかぞえようとする兵士はいなかったけれど、そのことはまわりを見わたせばだれの目にもわかった、俺たちはとても疲弊している、とだれかが言った、そのうえ、これだけの人数でこの場所を守りきることはできない、そして俺たちには退却することも許されていない、敵兵はやがてこの場所にやってきて俺たちを皆殺しにするだろう、けれどそうなったとき、俺たちもできるだけ敵兵を殺そう、けっしてこの場所から退却して生きのびようと思わないことにしよう、僕たちはみんなうなずいた、僕たちはみんなもう死んでしまったような気持ちがしていた、僕たちの身体が動き、僕たちの心臓が鼓動をうちつづけていることが理解できていなかった、僕たちはすでに確定されたあとの僕たちの死を証明されるためだけに敵兵を待った、暑い陽射しのしたでうずくまり、狂ったような星空を見あげ、僕たちはただただ待ちつづけた、けれど、それでも敵兵はやってこなかった、そのかわり、やってきたのはヘリだった、ヘリは夕暮れの空を高く飛び、森の樹々たちを揺らしながら僕たちのまんなかに着陸した、複数の僕たちがそのヘリのまわりをとりかこんでいた、ヘリの身体は泥と夕暮れですっかりよごれていてみすぼらしかった、ヘリのくちがゆっくりとひらき、その胎内からふたりの兵士が降りてきた、ふたりの兵士は僕たちとおなじ軍服を着ていた、戦争は終わった、とふたりの兵士は僕たちに向かって呼びかけた、きみたちをむかえにくるのが遅れてしまってすまない、輸送機の数がたりずこんなヘリしか用意できなくてすまない、これからきみたちを順番に本国へ送っていこう、僕たちは勝ったんですか、とだれかが言った、勝ったよ、とふたりの兵士は言った、とくにきみたちの功績はすばらしいものだった、本国に帰国したあかつきにはきみたちはすべての国民から祝福され、そして偉大な勲章がさずけられるだろう、僕たちは何故ここにいたんでしょう、とまたべつのだれかが言った、僕たちはこの場所で敵兵をひとりも殺さなかった、敵兵の姿をいちども見たことがなかった、僕たちはただここにいただけだ、きみたちがここにいたということに意味があるんだ、とふたりの兵士は言った、きみたちがここにいるということがきみたちにかせられた戦争だったんだよ、なにも敵兵を殺すということだけが戦争ではない、戦争においてはそれぞれのにんげんがそれぞれにてきせつな役割をこなす必要がある、きみたちにあたえられたてきせつな役割はこの場所にいるということだった、そしてきみたちはそれをりっぱになしとげた、それはきみたちにしかできなかったとうとい任務だ、いまきみたちは混乱していてきみたちのなしとげたことの偉大さをうまく感じとれてはいないんだろう、けれど、なにも心配することはない、きみたちはとうとい任務をなしとげた、きみたちは自分たちを恥じることはなにもない、わたしはきみたちを誇りに思う、だからきみたちも自分たちを誇るべきだ、そしてふたりの兵士はヘリをとりかこむ僕たちのなかから何人かの兵士をひっぱりぬいてヘリのなかにおしこみ、さっていった、僕たちはその場所にとりのこされた、戦争が終わった、そう聞かれされても僕たちはなにか変わった気持ちを抱くことはできなかった、僕たちのうちの何人かは変わらずに歩哨にたちつづけた、けれど、そのうちのだれもが歩哨にたつことをやめたほかの兵士を責めることはなかった、戦争が終わっても終わっていないときとまったくおなじ時間が僕たちの身体とそれをとりまく空間に流れつづけた、ヘリはその後も断続的にやってきた、そのたびにヘリからおりてくる兵士の顔と身体のかたちは変わっていた、ヘリからおりてくる兵士は僕たちのなかから何人かをつれさってまた夕暮れの空に飛びさっていった、赤く染まったヘリの身体を見ていると僕たちは時間が静止しているように思えた、惑星は回転をやめ、けれど空間だけは惑星が回転していたときとおなじかたちをむりやりにたもとうとしているように思えた、僕たちの汗は僕たちの身体をとおして地面に落ち、それはやがて蒸発し、雨となって僕たちの身体をうった、そしてその雨が僕たちの感情を溶かしていった、ある日、戦争はまだ終わってなんかいない、とだれかが言った、ときどきやってくるヘリは敵のあたらしい戦術だ、ヘリにのっているのは俺たちの味方のふりをした敵兵だよ、ヘリは俺たちの国になんかけっして向かいはしない、敵の国におりたち、敵の国の収容施設で俺たちは死ぬまで奴隷のように働かさられるんだ、そうじゃない、とべつのだれかが言った、たしかにあのヘリは敵兵たちのヘリで、のっているのも敵兵で、そしてヘリが向かうさきも俺たちの国ではなく敵の国かもしれない、でも、そこで俺たちが送りこまれるのは収容施設ではなく戦場だよ、敵兵は敵の国に着陸したあともここはおまえたちの国だよと言って俺たちを欺くだろう、俺たちは疲れすぎていてそこが俺たちの国ではなく敵の国だということにすら気づかないだろう、そして敵兵たちはまたあたらしい戦争をはじめるとうそをつくんだ、そして俺たちが送りこまれるのは戦場で、俺たちが戦うのは俺たちの国の兵士たちなんだよ、ヘリにおしこまれたあとに俺たちがどうなるかを想像してもしかたがないだろう、とまたべつのだれかが言った、重要なことはまずヘリにのっている兵士が俺たちの味方なのか敵なのかをはっきりとさせることだ、敵兵なら撃って殺せばいい、そしてヘリを奪って俺たちは俺たちの手で俺たちの国まで帰ればいい、そんなかんたんな問題じゃない、とまたべつのだれかが言った、おまえたちは戦争は終わっていないという前提で話しているけれど、戦争はほんとうに終わっているかもしれない、それに、俺たちの国は戦争は終わったと宣言しているかもしれないけれど、まだ戦闘を継続している敵兵もいるかもしれない、つまり、この場所に着陸するいくつかのヘリには戦争が終わったと宣言して俺たちをむかえにきた味方のヘリもあり、そして、いまだに戦闘を継続している俺たちを欺きにやってきた敵兵のヘリもあるのかもしれない、それならいったいどうしたらいいんだ、とまたべつのだれかが言った、俺たちが味方のヘリと敵のヘリを見わけるにはどうしたらいい、あなたは俺たちの味方ですかと訊くわけにはいかないだろう、その男が俺たちの味方であれば当然味方だと答えるだろう、その男が俺たちの敵であれば俺たちを欺くために味方だと答えるだろう、顔を見ればいい、とだれかが言った、俺たちがたしかにこの男は味方だと知っているにんげんがあらわれればそのヘリに安心してのりこむことができる、おまえは俺たちの国に存在する幾億もの兵士たちの顔をすべて覚えているのか、とまたべつのだれかが言った、それに、おまえは敵兵の狡猾さを知らないからそんなあまいことが言えるんだ、敵兵は俺たちを欺くためだったらなんでもやるよ、俺たちがそうと気づいたとわかれば敵兵は徹底して俺たちの味方になりすますだろう、敵兵は俺たちの味方を殺してその皮を剥いでかぶっているかもしれない、そして、殺されないまでも捕虜として囚われ脅されて敵兵の工作に加担することを余儀なくされた味方だっているかもしれない、つまり、ざっと考えただけでヘリにのっているにんげんにはこれだけのパターンがあるんだ、味方、敵、敵の顔をかぶった味方、味方の顔をかぶった敵、敵の顔をかぶった敵、味方の顔をかぶった味方、もっとも、これはヘリにのったにんげんに俺たちになんらかの悪意を持っていることを前提にした場合の話だ、たんじゅんに俺たちの味方もいるだろう、敗戦をきっかけにして敵兵のなかにも敵兵をうらぎって俺たちの味方になった兵士もいるだろう、さらに、そのなかにもそれぞれだれかの顔の皮をかぶった兵士もいるだろう、そうやって複雑化されたパターンをまえにして俺たちにヘリからおりてくる兵士が俺たちにとってどういう存在なのかを見わける方法があるだろうか、僕たちの議論は長くつづいた、議論をつづけながら夜が更け、朝陽がのぼり、やがて夕暮れがはじまり、また夜がはじまった、そしてそれがくりかえされた、けれどそれが何度くりかえされても僕たちの議論は果てしなくつづいた、僕たちはある仮定をもとにそこから考えられるあらゆる可能性について想像し、想像された可能性のひとつひとつにたいして僕たちがどのように対応すべきかを検討した、その対応策がさだまらないときはもともと想像された可能性が否定され、またべつの可能性が想像された、あらゆる可能性について想像されつくされると最初においた仮定が否定され、その場所にまたべつの仮定をおき、その仮定にもとづいたべつの可能性が想像され、想像された可能性にたいする僕たちの対応策が議論された、ある仮定のもとでは戦争は終わり、ある仮定のもとでは戦争は継続していた、そしてまたべつのある仮定のもとではそもそも戦争すらはじまっていなかった、僕たちは兵士だろうか、それとも兵士ではないだろうか、僕たちはそもそものはじめから議論をした、そして僕たちが兵士でないならばヘリにのってこの場所にやってくるあのひとたちはいったいだれなんだろう、僕たちは議論を進めていることを実感していた、僕たちが想像できるあらゆる可能性について想像し、そのひとつひとつに現実的な対応策を求めた、僕たちは僕たちの想像できる可能性が現実であるかそうでないかの判断を僕たち以外のなんらかの要素をもちいてうらづけることはしなかった、僕たちは僕たちが想像した現実の可能性のうち僕たちが現実的に対処できるものだけを現実だとさだめようとした、その方法は僕たちすべてに絶え間ない祝福をもたらしていた、その方法のみが僕たちにとって現実だった、その方法をつづけれていればその方法が現実であるかぎりは僕たちは僕たちにとっての現実にたどりつけるはずだと信じていた、けれど、それもやがてはうらぎられた、僕たちはその方法を使用してすらも僕たちにとっての現実にいつまでたってもたどりつけなかった、僕たちはそのことにたいしてみっつの可能性をあたえた、ひとつはその方法では僕たちに時間があまりに不足しているということ、もうひとつは僕たちにとって僕たちの現実なんてそもそも存在していないということ、そして最後のひとつは僕たちの想像力は議論のあいだじゅうも発達をとげ僕たちが僕たちの現実にたどりつこうとしているあいだも僕たちの現実は肥大をつづけているということだった、僕たちはそのなかでみっつめの可能性にたいしてさらに検討をくわえた、僕たちが僕たちの現実を追いもとめているあいだに僕たちが追いもとめるという行為によって僕たちの現実は刻々とその様相を変えていくんだろうと僕たちは話した、そして僕たちはその事象をさらにこまかくみっつの可能性にわけた、もしもそうであるならば、はたして僕たちの想像力の速度は僕たちの現実のひろがりの速度よりもはやいだろうか、それが僕たちがさらに検討をつづけたものだった、ひとつめに考えたものはその速度がはやい場合だった、そうであれば僕たちはやがて僕たちの現実にたどりつくだろう、けれど、それはひとつめの時間がたりないという可能性とひとしい、ふたつめはその速度がおそい場合だった、そうであれば僕たちは僕たちの現実にたどりつくことはないだろう、そればかりか、僕たちが僕たちの現実を追いもとめるかぎり僕たちの現実は僕たちからよりいっそうはなれさっていくことになり、僕たちがやってきたことはただの滑稽な悲劇だったということになってしまう、そしてみっつめは僕たちの想像力の速度も僕たちの現実のひろがりの速度もけっして一定ではなくそのときどきで速度を変えるというものだった、けれど、これは僕たちの可能性が未知の領域にひろがりすぎてしまい、そのとき僕たちの現実は僕たちの現実ではなくなってしまい、最初に検討したふたつめの可能性、つまり僕たちにとって僕たちの現実なんて存在しないという可能性とひとしくなってしまう、もうやめよう、とだれかが言った、もう議論なんてうんざりだ、顔をつきあわせて俺たちのなかに俺たちの現実を求めるということがまちがっていたんだ、俺たちは個別に生きている、俺たちなんてほんとうにはいないんだ、俺がいて、おまえたちがいるだけだ、それが俺にとっての俺なんだよ、俺の現実は俺が決める、おまえたちはおまえたちでおまえたちの現実を決めればいい、それだけの話だったんだ、他人の現実をとりいれそれを自分の現実と調和させようとするからすべてがうまくいかないんだ、そしてその兵士は天幕のなかにさっていった、僕たちもまた天幕のなかにさっていった、けれど現実はそういうものだ、と僕は思った、僕はそれをだれにも言わなかった、僕にはそれをだれかに言うことができなかったんだ、女の子はパンを食べきることができなかった、長い時間をかけてはんぶんほど食べのこされたパンは土のうえに直接おかれ、塗りたくられた花の蜜がその周縁からとりとろとすべりおちて土に還っていった、兵士が掘った穴はすでに深く、さらに深く掘ろうと屈みこんでいるときにはその姿は穴のなかにすっぽりとはまりこみ、土のうえに横たわっている女の子からはまるで見えなかった、穴のなかからばらばらに飛散した土の粒子が断続的にふきあがりつづけていた、女の子のかたわらにおかれたパンのうえにも土の粒子が降りつもりパンの表面をよごしてやがては埋めていったけれど、兵士はそのことに気づいていなかった、女の子は土にまみれ埋められていくパンを見つめつづけていた、けれど、そのことにたいしてなにかとくべつな感情を抱くことができたわけでもなかった、兵士はやがて穴のなかから顔をだした、穴のかたわらに横たわった女の子の瞳と穴のなかから顔をだした兵士の瞳がおたがいを見つめあった、兵士の顔は中空に浮かんでいるようだった、女の子の顔は土といりまじっているようだった、黒い袋のなかにつめこまれた女の子の友達の死体の部分たちがかすかに動いた、兵士は黒い袋のほうを見つめ、そろそろ埋めてあげよう、と言った、女の子はなにも言わなかった、兵士は穴から這いでて黒い袋を持ちあげ、つよくむすんであったそのくちをほどいた、そして穴のうえでその袋をさかさまにした、袋のくちからは女の子の友達の死体の部分たちがゆっくりと回転をしながら落ちていった、肉片から飛びでたとがった骨の先端がその回転にあわせて円形の軌跡を描いた、肉と虫と骨がそれぞれ意志を交換しあいおたがいの存在をたかめあいながら中空から穴のそこへと落ちていく過程でゆっくりと輝いていた、光はその軌跡をのこした、空間を埋める花たちの花びらがいくらか散り、それは空中をただよい、やがてそのうちの何枚かは穴のなかへと落ちていった、女の子はその過程のすべてを見つめていた、見つめながら、女の子は友達の死体の部分たちをごみのように思いつづけていた、そしてそう思いながら、そうとしか思えなかったことにこころを痛めることすらできなかった、兵士は最後にからになった黒い袋を穴のなかに捨て、まわりの花たちを根もとからちぎりとり花の先端のにおいをかいだ、花はにんげんの肉のにおいがした、それから兵士はいくつもの花を根もとからちぎりとっては穴のなかに放りはじめた、ねえ、つづきを話してよ、と女の子は言った、つづきなんてないよ、と兵士は言った、だって、僕たちは現実を認識することで僕たちの現実を失ったんだから、あなたの言っていることは意味がよくわからないよ、あなたは生きて戦場から退却することができたんでしょう、だから、わたしたちの教室にやってきたんでしょう、兵士は花を投げつづけながらとてもかなしそうな顔をした、議論をしたあとに僕たちがしたことはその議論をすることにくらべたらなにかを感じるほどのものではなかったんだよ、そうであるような現実はいつだってそれがそうであるようなものでしかないんだ、この塔だってただの人類の墓場だった、やってくるヘリたちもほんとうに味方だったのかもしれない、最初にあのひとが言ったとおり戦争は終わり、僕たちはただヘリにのっていれば僕たちの国に帰ることができたのかもしれない、けれど、あの議論以降、ヘリがやってくるたびに僕たちはそのヘリにのってきたひとたちを殺した、そのひとたちのなかに僕たちのだれかが記憶している僕たちの味方がまざっていたとしてもかまわずに殺した、そしてヘリを奪い、僕たちの仲間はすこしずつその場所からさっていった、兵士たちはみんなとてもうれしそうな顔をしていた、彼らはすくなくとも自分の意志でヘリにのってきたひとたちを殺してヘリを奪い、そしてそれぞれが自分の意志で自分が生きたい場所へさっていった、陽の光をうけて、彼らの顔はいちように輝いて美しかった、僕以外のすべての兵士がさってしまったあとも僕は戦場にのこった、最後の兵士がさっていくまえ、彼は僕に、いっしょにいかないか、と言った、いかないよ、と僕は言った、そのヘリはきみがのっていたひとを殺して奪ったヘリだ、僕がそれにのるわけにはいかないよ、もうそんなことは気にするなよ、と彼は言った、けっきょく、俺たちがなにをどうしようとそんなことはたいしたことではないんだから、誘ってくれてうれしいよ、と僕は言った、でもほんとうにだいじょうぶだよ、ありがとう、そうか、と彼は言って笑いながらさっていった、僕はひとりきりで戦場にのこってのこされたものを見てまわった、暑さもやわらぎ、まるで春先のようなあたたかくなめらかな光がその場所を照らしていた、僕は歩哨にはたたなかった、朝ははやくおきて森のなかを散策した、わき水を飲み、木の実をかじり、緑色の森のにおいをいっぱいにかいだ、ちいさな池で魚を釣り、夜になるととった魚を焼いてウィスキーをすこしずつ飲みながらだれかがわすれていった本を読んだ、星がすばらしい夜は岩のうえに寝ころがって星空をいつまでもながめつづけた、星はときどき流れた、赤い光を放つ飛行機がよぎっていくこともあったけれど、それもひとつの星のように感じられた、雨が降った日には僕は天幕のなかから顔をつきだして雨降りをながめた、雨のひとつぶひとつぶが大地や岩、僕の銃のうえに落ちてはじけていくその克明さをながめた、森のなかに雨が降りそそぐと雨そのものがこまかく分解されて霧のようにあたりをただよいはじめた、僕は森のおくからやってきたうさぎに餌をやってなかよくなった、まるい瞳をしたかわいらしいうさぎだった、くちのまえにひとさし指をさしだすとそれをぺろぺろと舐めた、僕はぼんやりとひとさし指をそのうさぎに舐めさせながら背中をさすった、おだやかな日々だった、時間のうつりかわりはかたちをともないながら僕のまえにたちあらわれ、あるいちにちがつぎのいちにちと区別されながらもそのいちにちいちにちが意味を持ってつづいていた、僕の気持ちはその時間のなかで揺れうごきつづけたけれど、それは一定の範囲内でおさまりつづけていた、だれかを救いたいとも思わなかった、けれどだれかを殺したいとも思わなかった、もうだれかを愛したいとも思わなかった、僕はそのとき愛で満たされていた、僕はそのとき僕自身を愛しきっていた、そして、やがてヘリがやってきた、よく晴れた気持ちがいい日だった、空には雲ひとつなく薄い青色に染まり、やわらかく淡い陽射しがその場所のすべてに降りそそいでいた、ヘリからふたりの兵士がおりてきて僕に戦争は終わったと言った、そのふたりは僕の訓練学校時代の友達だった、ふたりは軍務に忠実に僕につたえるべきことがらを厳格に告げながらも僕に向かって親しみをこめた笑みを浮かべていた、きみたちがむかえにきてくれてうれしいよ、と僕は言った、そして僕はそのふたりを銃で撃って殺した、それから僕は天幕までもどってうさぎの首を絞めて殺し、火をおこしてそれを焼いて食べてからヘリにのりこんだ、僕がのりこんだヘリは高く高く舞いあがった、ヘリの窓から見おろしたかつて僕がいた戦場はとてもおだやかなひとつの村のようだった、目に見えないやさしいひとたちがたがいに助けあいながらその場所をかたちづくっているように見えた、そのとき、僕の瞳から涙がこぼれ、僕の頬につたった、喉のおくそこがひくつき、こらえきれない嗚咽が漏れた、それでも、僕はまるでかなしくなかった、僕は僕が泣いていることは理解していたけれど、それはただ僕の頬に涙がつたい僕の喉のおくから嗚咽が漏れているというだけのことにすぎなかった、そのあいだもヘリは高く高く舞いあがった、やがてヘリは成層圏をぬけて宇宙にでた、僕は宇宙をただよいながら僕の惑星をながめた、青色の惑星は僕の視界のなかで雄大に回転をつづけていた、宇宙はつめたかった、僕の涙は僕の頬で凍結をはじめ、僕の吐息は粉雪に変わった、宇宙のあちこちを移民船がゆきかっていた、彼らは移民船の窓からたったひとりで宇宙をさまよう僕に向かって手をふっていた、移民船のいくつかは宇宙の塵にあたってはときどき船体に穴をあけ沈んでいったけれど、最後まで彼らは手をふりつづけていた、その爆風をうけて僕のヘリはゆっくりと回転をはじめた、ちょうどそれまでとは反対の方向に回転したとき、僕はそこにもうひとつの惑星を見た、その惑星は僕がそれまで生きていた惑星とまったくおなじかたちをしていた、その惑星には僕がそれまで生きてきた惑星とおなじにんげんが生き、おなじ時間をすごしていた、そして僕はそのときそのふたつの惑星のちょうどまんなかにいた、移民船は宇宙の塵に衝突してつぎつぎと爆発をしていった、その爆風は僕のヘリを加速させ、僕をそのもうひとつの惑星へと誘った、やがて、僕はその惑星に不時着した、僕が不時着した場所にはすでにさんにんの兵士がいた、あの戦場の時間をいっしょにすごした仲間たちだった、やっぱりおまえもここにきてしまったのか、と彼らは言った、僕はまわりを見わたした、僕たちは学校の校庭のまんなかにいた、そこはかつて僕たちがとても長い時間をすごし、僕たちが卒業をした学校だった、僕たちは淡い空気を吸いこみ、かわいた砂の感触を感じた、夏休みで学校はしずまりかえっていた、けれど、ひとつだけひらいている窓があり、その窓枠の向こうに女の子が座っているのが見えた、ささやかな風をうけて髪の毛がこまかくひるがえり、つめたい顔をしていた、あの教室にいこう、と僕たちは言った、そして教室にいき、僕たちはきみの友達を殺した、女の子は土のうえを這って穴のふちまで移動してなかをのぞきこんだ、穴のなかは花たちが敷きつめられ、女の子の友達の肉や骨はまるで見えなかった、かろうじて虫たちが花たちのうえまで這いあがってあちこちでこまかく動くことでその穴のなかの死体の雰囲気をたもっていた、それはうそだよ、と女の子は言った、あるいはきみにとってはうそかもしれない、と兵士は言った、けれど、それは僕にとってはほんとうなんだ、それに、あるできごとについてうそかほんとうかをさだめようとすることに価値なんてない、問題になるのはそれが現実かどうかということで、そして、すくなくともそれは現実だったんだ、そうかもしれないね、と女の子は言った、そして、あなたはあなたの現実にのっとってわたしの友達を殺したんだ、そうだね、と兵士は言った、僕たちはきみの友達を殺した、うん、と女の子は言った、ねえ、わたしはあなたがとてもきらいだよ、わたしはいままで生きてきてほかのひとのことをきらいになってばかりだったけれど、あなたほどきらいなひとはほかにいなかった、わたしはあなたのことをくずだと思う、あなたのことを虫けらだと思う、もう身体が動かないからあなたを殺すことができないけれど、わたしはそれをくやしいと思う、とてもとてもくやしい、あなたといっしょにこんなところにやってくるんじゃなかった、ずっとあの夏の教室のなかにとどまっていればよかった、あなたたちが教室にやってこなければわたしたちはおだやかでいて美しいしあわせのなかであたたかく生きていくことができたのに、ねえ、わたしはあなたたちをとてもにくむよ、わたしはあなたたちがとてもきらいだ、あなたたちをこの世界でいちばん醜いにんげんたちだと思う、すまない、と兵士は言った、でも、僕はきみにあやまることにうまく価値を感じられないんだ、殺してやる、と女の子は言った、殺してやる、殺したあとにもういっかい殺して、そのあとにもういっかい殺してやる、もうやめよう、と兵士は言った、僕たちはふたりともこの場所で死ぬんだ、殺したり殺されたりする時間はとっくに終わってしまったんだ、兵士は女の子の身体をそっと抱きかかえて穴のなかにおり、花のうえに女の子の身体をやさしく横たえた、羽虫がふたりの顔のまんなかを狂ったように飛びまわり、兵士の吐息が女の子のまつげにふれた、女の子の瞳のしたには黒いすじが走り、唇には複数の皺ができていた、まるで骨のような顔色だった、兵士が手をはなすとその手のなかにごっそりとぬけおちた髪の毛がのこされた、人肌のぬくもりが腐臭に感じられた、目をとじてごらん、と兵士は言った、最後に夢を見よう、あの夏の教室に寝ころがっていると想像するんだ、花の感触をわすれてかたくつめたい床の感触を思いだすんだ、きみの横にはきみの友達の女の子が横たわっている、そして、その向こうにはきみの友達の男の子が横たわっている、もうひとりの友達はもう死んでしまったけれど、それでも死体として教室のかたすみにちゃんと横たわっている、その夢のなかに僕と僕の仲間の兵士はいなくていい、僕たちはけっきょくそれ以上きみたちを傷つけることなくどこかへといってしまったんだ、その夏の教室のなかにはきみたちしかいない、きみたちだけのやすらかな世界だ、その世界のなかできみたちはおたがいに死にかけている、視界が白み、すべてのものがりんかくを失い溶けあっている、そして、きみたちはおたがいの瞳を見つめあいながらそれでもなお微笑んでいる、それはきみたちがきみたちの人生のなかで浮かべることができたいちばんおだやかでいてやさしさに満ちた微笑みだ、きみたちはおたがいの微笑みを見つめあい、そのおだやかさとやさしさにほとんど感動してしまう、きみたちはその微笑みを見ておたがいをとても好きに思う、その感情はきみたちがいままで抱いたことのない感情だ、きみたちはきみたちがはじめて知ったおたがいのことを思うそのやりかたに胸をうたれ、とてもおおきな幸福につつまれる、きみたちを傷つけるひとはだれもいない、その世界はただきみたちを愛するためだけに存在している、きみたちははじめて世界がきみたちを愛しているという事実に気づき、そして、いままできみたちが感じていたきみたちを愛することがなかった世界のことをわるい夢だったんだと思う、きみたちの時間は停止する、しあわせがあふれ、それはなめらかな波動となって世界そのものを振動させる、そしてきみたちは最後に気づく、世界はこんなにもわたしたちを愛していたのか、世界はこんなにもゆたかで、こんなにも美しかったのか、と、やめてよ、と女の子は言った、きれいごとはやめて、むりだよ、わたしにはそんな想像はできないよ、だって、わたしには世界やわたしの友達からあたえられたしあわせをしあわせだと思うことなんてできないんだから、ねえ、わたしはただわたしの友達を救いたかっただけだったんだ、わたしの友達たちが傷ついたとき、わたしはその傷を回復させたいと思っていたんだ、その救済こそがわたしたちのしあわせにつながると信じていたんだ、だから、わたしはなにかをあたえられたかったわけじゃない、ただいっぽうてきになにかをあたえたかっただけなんだ、そうだとしたら、と兵士は言った、きみの願いはけっしてかなわないだろう、兵士は女の子を穴のなかにのこしたまま穴のそとに這いでて花をひきちぎりはじめた、そして胸いっぱいに花をあつめるとそれを高く投げた、女の子は穴のなかで目を見ひらいて自分の身体と魂のうえに降りつもる花を見つめた、花はとてもゆっくりと穴のなかに降りつもった、天国から降りそそぐ真っ白な光と音楽がその花たちと女の子を同時に癒そうとしていた、きみが思う救済はただのきみの思いあがりにすぎないよ、と兵士は言った、すべての花が降りそそぎおえるまで、兵士は女の子に語りかけつづけた、きみはただきみの友達を軽蔑しているだけだ、きみはきみの友達のやさしさを本質的に許してはいないんだ、きみはおなじように僕たちをも軽蔑している、そして、ほかのひとを軽蔑しようとしている自分をより本質的に軽蔑したくないためだけにきみは自分自身をも軽蔑しているんだ、僕はきみを見てきみと話しているとこころがすかすかになっていくような気がするよ、きみがほかのすべてのにんげんをきらい、ほかのすべてのにんげんを軽蔑するのはきみの勝手だ、けれど、そうであるならきみはきみのことをもっと恥じたほうがいい、きみが持っているつめたさや軽蔑をあらわにしてほかのひとにそれをやさしさだと呼ばせるのはやめたほうがいい、きみはほかのひとにきみのことをやさしいと思わせてもそう思ってくれたひとをまた軽蔑することしかできない、ねえ、他人の価値観ややさしさを軽蔑してなにがどうなるというんだろう、それできみが救済されるわけではない、そんな程度のことがきみの価値観を肯定するわけでもない、そもそも、価値観は肯定されるようなものですらない、きみのそれはただ他人を軽蔑したいというきみの欲望にすぎない、きみはだれかを愛したいと思っているかもしれない、でも、きみが思っているきみがだれかを愛したいということをはそのだれかを傷つけ軽蔑したいということとなにもちがいはない、きみはほんとうにはだれも愛してはいない、そしてだれも愛することができずにただ傷つけるだけの自分を軽蔑することできみはきみを肯定しているだけだ、きみはほんとうはだれかにしんから軽蔑されることがこわくてそのまえにあらかじめ自分で自分を軽蔑しているんだ、きみがきみを軽蔑するのであればきみはそれをたやすくうけいれることができる、回復することが約束された傷によってきみはきみのことを許し、いたわることができる、たくさんのつらい時間をすごしてきたと思いこんできみはそのほかの時間を気持ちよく生きることができる、それでもきみはきみが本質的にだれかに軽蔑される可能性をあざとくのこしている、だからきみはあの女の子となかよくしているんだ、きみは決定的なところであの女の子からきみを軽蔑される瞬間の可能性のためにあの女の子を友達として確保しているにすぎない、きみが思う友達なんてそういった存在にすぎない、きみはただきみ自身の価値観のうちがわできみの友達をつくりあげているだけだ、最後の最後にきみを軽蔑してくれると信じきっているからこそ、きみはあの子を友達だと呼んでたいせつにしているんだ、きみはあの子を愛しているわけじゃない、きみはただあの子を愛している自分を愛しているだけだ、ねえ、きみにもわかっているだろう、きみにとってあの子はきみのうちがわできみによって構築されたきみのこころのための性奴隷なんだよ、僕はきみのそのありかたを見ている吐き気がする、きみがやっていることを見ているとこころが狂ってしまいそうになる、きみと話していると僕はうちすてられた石ころと話しているような気持ちになってしまう、僕はきみを気持ちがわるいと思う、ねえ、きみの救済なんかではほかのだれも救えはしないよ、きみの友達はだれもきみのことなんか愛してはいない、おなじように、僕たちもだれもきみのことなんか愛していない、それでも、きみはただそのことだけできみの価値観が肯定されたとかんちがいをしてしまうんだ、きみはそれがどういうたぐいの気持ちわるさなのか、それすらもわかっていないんだ、たっぷりとした量の花がそこに敷きつめられて女の子の姿がすっかり隠されてから、兵士は自分も穴のなかにはいりこんで目をとじた、おだやかな白い光と音楽がまぶたのうらがわを薄く照らしだしていてまぶしかった、ちいさな風にふかれて自然に舞った花びらがいくつか頬のうえに降る感触を感じた、それは、けれどまぼろしでもよかった、兵士が死ぬ間際、兵士の背中のうらがわ、花の層のしたに埋もれた女の子がかすかな声で兵士に問いかけた、ねえ、あなたたちはほんとうはなにをしにわたしたちの教室にやってきたんだろう、兵士は答えた、僕たちは愛について僕たちが知らないすべてのことをきみたちにつたえるためにやってきたんだ。
 気持ちがわるい、と花びらは言って座りこみ、両手で身体をかきいだいた。ルカは花びらの身体に手をのばして背中をさすろうとした。さわらないで、と花びらは言った。隆春くんを殺したそんなきたない手でさわらないでよ。ルカの手は空中で静止し、そのままその場所でとどまった。ルカの指と指のあいだに青白く光る花びらの顔が浮かびあがっていた。トイレにいかせて、と花びらは言った。いってくるといい、とルカは言った。僕はここにいるよ。花びらは壁に手をつきながら腰の位置よりもすこし高い場所まで上半身をもたげ、そのまますこしずつ廊下を歩いていった。ルカは花びらに手を貸さなかった。もう彼女のうしろ姿を見ることもなかった。教室のなかではあいかわらずマルコが回転をつづけていた。その回転の中心でふたりの子供とふたりの兵士がねむっていた。花びらはトイレまでたどりつくと個室のなかにこもり、便器のなかにおなかのなかのもの吐きだした。それはほとんど水だった。思ったよりも気持ちよく吐くことができなかった。最初に吐いた量はすこしだった。それから何回かにわけてすこしずつしか吐くことができなかった。気持ちのわるさは喉のおくにしこりのようにのこりつづけ、涙を流しながら花びらは喉のおくに指をつっこみすこしずつ吐いていった。吐いているあいだ、魂を薄く線状にきりぬいたような寒気が背中をおおいつづけていた。手足が痙攣し、顔中にふきだした汗で髪の毛がからまりあった。すべてを吐きおえて気持ちのわるさが耐えられるほどになるまで、花びらは便器のまえに座りこんでいた。そのうしろ姿は傷ついて濡れたように光っていた。吐瀉物のなかには涙がまざっているような気がした。目のはしににじんだそれも吐瀉物もおなじようにきたなく見えていた。やがて、花びらはゆっくりと顔をあげて目を見ひらいた。個室のなかは暗く、どことなく汗と精液がまじりあったような酸っぱいにおいをふくんだ空気が顔面のまえに濃くただよっていた。花びらは唇を拭ってからくちのなかにはいりこんでいたいくつかの髪の毛を指先でつまみ、その手をスカートにおしつけてよごれを拭きとった。そしてその震える手でようやく吐瀉物を流した。頭のおくにかるい痺れが走っていた。それはこわいくらいに長い時間つづいていた。わたしはあわれだ、と花びらは思った。どうしてこんなにあわれなんだろうか。花びらはゆっくりと身体を動かして便器のうえに座りこみ、それからふたたび両手をたんねんにスカートで拭い、表面だけはもともとの色あいをとりもどしたその手で顔面をおおった。どれだけ拭っても両手にはいまだ酸っぱいにおいがかすかにこびりついていたけれど、長く顔面をおおっているとそれも気にならなくなった。頭のおくの痺れと身体のすべてにのこりつづけている震えはべつべつの原因に由来するものだと花びらは思っていた。でもそのそれぞれの理由を個別に追求するつもりはなかった。あせってそれぞれの痺れと震えをとりのぞきたいと思ったわけでもなかった。花びらはただ時間が流れていくのを待ちつづけていた。花びらの瞳から吐瀉物にも似た涙がすこしずつこぼれおちていき、顔面がいやな熱を持った。暗闇のおくそこからまたべつのにおいがただよったけれど、それはただ花びらの両手にこびりついたものとはちがうという認識しか花びらには持てなかった。わたしはあわれだ、と花びらは思いつづけていた。そしてそれと同時に花びらはそのあわれさを、あるいはあわれさの原因となっているだろう恥辱をとりのぞく方法を考えつづけた。それにはあの兵士を殺すという手段がまっさきに思いついたけれど、その手段は花びらの両手とおなじようにひどくうすよごれた方法に感じられて、暗闇にせきたてられるように花びらはそれ以外の手段を考えつこうとした。でもそれはむりだった。それ以外の考えが思いうかばないことに花びらはぞっとして、そのことがよりいっそう花びらに花びらをあわれだと思わせた。頭のおくの痺れと身体の震えはもうほとんどおさまっていて、ただ、頭のおくのいちばん深い場所に氷のつぶのようなちいさなつめたさがいくつかこびりついているだけだった。涙もほとんどとまりかけていて、ときどき思いだしたようにとくとくと瞳のはしからふきだすだけになっていた。花びらはもうそのありかたを許した。けれど、そのいっぽうで顔面の熱はいつまでたってもとれなかった。この熱はもう消えないのかもしれないと花びらは思った。それははっきりとした恥辱だった。でももういい、と花びらは思った。わたしはもうずっと恥ずかしいにんげんだったんだから、いまさらそれがどうだっていうんだろう。花びらは顔面から両手をはずし、目をひらいてスカートと下着をおろして放尿をはじめた。我慢をつづけていたせいでそれはとても長いあいだつづいた。花びらは目のまえに隆春の幽霊がたっていることに気づいた。隆春の幽霊は青白く発光していて、兵士たちに撃たれて食べられるまえのかたちをたもっていた。花びらはあわてて放尿をとめようと思ったけれど、どれだけ下半身にちからをこめてもとめることはできなかった。まわりの音が一瞬にして遠ざかり、その沈黙の隙間をぬうようにおしっこが水面をたたきつづける音がかすかに聞こえつづけていた。わたしのむきだしの下半身を見ないで、と花びらは言った。わたしを犯さないで。だいじょうぶだよ、俺にはもう身体がないんだから、と隆春の幽霊は言った。俺にはもう性欲すらないんだ、俺は花びらを好きになったときからずっと花びらの性器に俺の性器をさしいれたいと思っていたけれど、もう、花びらの下半身になにかとくべつな気持ちを抱くということはないよ、いまの俺にとって、花びらの下半身はただ花びらの身体の部分、あるいは花びらの存在の部分として存在しているにすぎない、だから、俺はもう花びらの性器に興味を持ってはいないよ。花びらの放尿がやんだ。花びらはうつむいたまま伏し目がちに目のまえにたつ隆春の幽霊を見つめた。隆春の幽霊は透けていて、その背後の壁がかすかに見えていた。でも俺は俺の身体がないことをざんねんに思うよ、と隆春の幽霊は言った。花びらはトイレットペーパーを大量にとって股間を何度も拭い、水面に落として下着とスカートをあげて水を流した。隆春くんに身体があったら、あの兵士のひとたちの銃をこっそりと盗んでわたしたちにわたしてくれればいいのに。でも、花びらたちには銃のつかいかたはわからないだろう、銃があったってあいつらを殺すことはできないよ。そうかもしれないけれど。だれかを殺すことを考えるなよ。うん、わたしもさっきまでそうしようとは思っていなかったんだよ、けれど、ここの場所にこうやって座っていろいろなことを考えていると、もうわたしにはあの兵士のひとたちを殺す以外に生きかたがのこされていないような気がしてしかたないんだよ、そういう気持ちは抱きたくはなかったんだけれど、どうしてもそんなふうに感じてしまうんだ。花びらは顔をあげて隆春の幽霊の顔を見つめた。きれいな顔をしていた。花びらはすこしだけその顔をつめて、またすぐに目をそらした。自分をあわれだと思ったときには俺を思いだせよ、と隆春は言った。花びらは自分で思うほどあわれじゃないよ、ただたんになんの意味もなくあの兵士たちに殺された俺のほうがよっぽどあわれだよ、だから、もしも自分をあわれに思って自分を責めたいと思ったときには俺を思いだせよ、花びらよりもずっとずっとあわれだった俺を思いだしておまえのなかのいやな感情を消してしまえよ、俺はもう死んでしまったんだから、花びらのなかでそういうつかいかたをされてもかまわないよ。ねえ、隆春くん、でも、それはきっと、まちがった死にかただよ。わかっているよ、でも、俺はね、そんなふうなやりかたであっても、それでも花びらを愛しているんだよ。隆春くん、ごめん、わたしは隆春くんのことを愛してはいないんだよ。そうか。傷ついたかな。傷ついたよ、身体がなくても、俺のこころと魂はここにあるんだ。ごめん。わるいと思ってすらいないのにそんなことを言うなよ。わかるんだ。わかるよ、でも、それは俺が幽霊だからじゃない、俺が花びらのことを愛しているからだよ。ねえ、もうやめてよ。なにをやめるんだよ。もう、わたしのことを愛しているだなんて言わないで。わかったよ、けれど、そのかわり顔をあげてくれよ。花びらは言われたとおりにした。それ自体が発光する隆春の幽霊の光に照らされ、花びらの顔と、そしていままで顔の影になっていた花びらの上半身が暗闇のなかに浮かびあがった。隆春の幽霊の顔はよけいな線がごっそりとそぎおとされてひどくかんたんなかたちをしていた。けれど、そうあるなかでも瞳だけは生きていたときと変わらない複雑さを持って描かれ、かすかな色あいさえもやどっていた。死んでからずっとわたしたちを見ていたのかな、と花びらは言った。見ていたよ、と隆春の幽霊は言った。死んで、視線の向かうさきが固定されていたけれど、俺が見ることができたものはすべて見てきた、それに、俺が聞きとることができたものもすべて聞きとってきたよ。そうなんだ。死んでしばらくのあいだはこころと魂は身体に縛りつけられているんだよ、こころと魂は身体にとてもつよく執着するんだ、こころと魂と身体をつなぐとても大事なものはとぎれてしまったけれど、死んでからもしばらくはこころと魂は身体を感じつづけるんだ、生きているときほどに敏感なわけじゃないけれど、銃弾で撃たれた場所はなまぬるい熱を持ったままだった、おなじように、俺の身体があいつらに食べられているときも、俺の身体の肉が刃物によってえぐられて銀色のくしにさされて焼かれているときも、俺はなまぬるくにぶい、どこかうずきにも似た感覚を抱きつづけていた、なあ、死体をなぶるのはやっぱりよくないことだよ、とてもわるいことだ、それがまったく現実的な痛みだというわけじゃないけれど、俺はずっと生きながらあいつらに食べられているように感じつづけていた。花びらはしたを向いた。俺はずっと悲鳴をあげていたよ、こころと魂のなかに蛆がわいてしまったような感じだった、でも、俺のこころと魂はまだ身体に縛りつけられていたから声帯をとおさないと花びらたちには聞こえないんだ、俺がどんなに泣きさけんでも、どんなに呪いの言葉を吐きつけても、花びらたちは俺を救ってはくれなかった、あいつらは俺を食べることをやめてはくれなかった。ねえ、隆春くんはどうしてわたしのまえにやってきたんだろう、わたしをにくんでいるのかな、わたしが死んでしまった隆春くんを救わなかったから、わたしが死んでしまった隆春くんにとてもひどいことを言ったから、隆春くんはそれでわたしをにくみつづけているのかな、わたしへのにくしみから隆春くんはまだ幽霊としてこの学校のなかをさまよっているのかな。ちがうよ、俺は花びらのことをにくんではいないよ、花びらに復讐をしにやってきたわけでもない、俺はただ花びらにさよならを言いにきただけだよ、俺は俺が生きていたときとなにも変わらずに花びらを愛しているよ。あとどれくらい、この場所にとどまっていることができるんだろう。もう長くはないよ、と隆春の幽霊は言った。死んでからしばらく時間がたつとこころと魂は身体のやぶれめから自然にぬけでるんだ、こうなるともう俺と身体をつなぐものはなにもなくなる、身体になにがおきても、俺はもうなにも感じることができなくなる、俺が身体からぬけでたのはついさっきだよ、でも、俺がこうやってこころと身体を持って自由に動き、言葉を話すことができる時間もあとわずかだろう、俺のこころと魂はやがて分離してしまう、こころは密度を失い空気中に拡散し、雨にうたれて静かにそしておだやかに光や夜と溶けあっていくだろう、そして魂は宇宙からふきこむつめたい風にふかれて遠い西の国へと向かっていくだろう。最後に、隆春くんはなにをしたいんだろう。俺は花びらと話がしたいんだ、話をして、長いおわかれを言いたいんだよ、だからここにきた。わたしでいいのかな、おわかれを言うのはわたしだけでいいのかな、わたしなんかより、靴子ちゃんと譲くんのほうがずっと隆春くんのことが好きだったのに。いいんだ、俺が愛しているのは花びらだから、それでいい、それに、あのふたりはいまとても気持ちよくねむっているんだ、わるい夢を見ることなく、ただただあたたかく白い光につつまれてねむっているんだ、俺はあのふたりをおこすことはできないよ、俺があのふたりにおわかれをするにはあのふたりの夢のなかにはいっていかなくちゃいけない、けれど、そうするとあのふたりがいま感じているあたたかくて白い光はどこかへ消えてしまうんだよ、俺は俺があのふたりの夢のなかにはいっていくことであのふたりがどんな夢を見ることになるかわかるんだよ、花びら、それは黒い雨の夢なんだ、でも、そんなのはあんまりだろう、俺の存在が、俺があのふたりに長いおわかれを言いたいという欲望があのふたりの夢のなかに黒い雨を降らせるんだ、俺はそれがいやなんだよ、あのふたりがこんな状況下においてもとても気持ちよくねむることができているのであればそれがいちばんいいんだ、しあわせな時間は長ければ長いほうがいい。でも、わたしは隆春くんとなにを話していいのかわからない。それは俺だからなのかな。わからない。それとも、俺がもう死んでいるからだろうか。わからないんだよ、と花びらはさけんだ。隆春の幽霊は花びらのまえにひざまづき、うつむいてしまった花びらの顔をしたから見あげた。花びらの頬には流れそこなった涙がいくつかつたい、漏らしそこねた嗚咽がふたたびくちをついてでていた。こんなに泣いたことは生まれてからいちどもなかったとすら思えるのに、それでいてまるでかなしくないことが花びらはつめたく痛めていた。ぼやけた視界の向こう側に薄く透きとおった隆春の幽霊の瞳があった。そのなかに住めそうな瞳だった。隆春の幽霊の手がすっとのびて、太腿のうえでかたくにぎられた花びらの手をおおった。そこには現実的な肉の感覚はなかったけれど、その手から波動じみた光の触手がいくつかのびて花びらの手をなでるしぐさをした。花びらの手のうちがわで愛しさにも似た熱がふくれて、歯のうらがわがぐらぐらと揺れたような気持ちがした。俺は俺のこころと魂が俺の身体からぬけでたとき、しばらく俺の身体のかたわらにたって俺の身体を見おろしていたんだ、と隆春は言った。それは俺の身体のはずなのに、はじめて見た他人のように見えた、俺はそれが俺の身体だと理解していたのに、俺にはそれが俺の身体のように思えなかったんだ、俺は俺が俺の身体を見おろしているときに抱く気持ちと俺が俺以外の身体を見おろしているときに抱く気持ちに差異はあるんだろうかと考えた、でもわからなかった、俺はそこに横たわった俺の身体に唾を吐きつけてやりたい気持ちにかられてどうしようもなかった、そこに横たわった俺の身体はとても醜かった、それは俺の身体が銃弾に撃たれてたくさんの部位を食べられてしまったからというわけじゃない、その身体は俺がもともと持っていた醜さを露呈しただけのただの身体だった、俺が俺の身体の顔を見つめるとそれは醜かった、俺が俺の身体の手足を見つめるとそれは醜かった、俺の身体のどの部分に目をやってもそれは醜かった、俺は俺の身体がほんとうにきらいだったんだ、きっと、にんげんの身体やかたちがもともときらいだったんだろう、でも、そのなかでも俺がもっとも醜くきらいに思えたのはそこに横たわった俺の身体だった、そして、きっと俺が花びらを愛することができたのはおまえの顔や身体のかたちを愛することができたからだろう、俺はおまえの顔のかたちが好きで、おまえの身体のかたちが好きだ、でも、それは性欲とはちがう、おまえを見ていると俺は朽ちた教会のなかでひとり雪に降られているような気持ちになるんだよ、こころのなかに白く巨大な十字架をうちたてられたような、そんな気持ちになるんだ、でも、俺はおまえの顔や身体のかたちを愛しく思えば思うほど俺の顔や身体のかたちが醜く思えてしまう、おまえの顔や身体のかたちのまえでは俺の顔や身体のかたちは虫けらなんだよ、おまえの顔や身体のかたちを見つめ、そのあとに俺の顔や身体のかたちを見るとなにもかもをも壊してやりたい気持ちになる、でも、そのいっぽうで俺はおまえのまえにひざまづきたい気持ちになるんだよ、おまえのまえで俺の醜さを懺悔して、俺の醜さを許してくださいと祈りたくなるんだよ。でも、わたしはどんなふうに懺悔をされても、きっと隆春くんのそれを許すことはできないと思う、それは、わたしが許したり許さなかったりするようなものじゃないよ。わかっているよ、なあ、たとえどんなにばかみたいでも、俺はおまえの愛らしい顔で俺を許してほしかったんだよ、けっきょくのところ、俺はおまえを愛したかったわけじゃないんだ、俺はおまえに愛されたかったんだよ、そして、俺はおまえに愛されるということを俺がおまえを愛しているということだと名づけたかっただけなんだ、でも、それはそれだけのことだ、俺はおまえをまちがえたやりかたで愛してしまった。どうしてそんなことを言うんだろう、だれかを愛するということはすべてまちがったありかたなのに。そんなことはないよ、だれかを愛するということはそれだけで価値があるんだ。わかっているよ、それはわかっているんだ、でも、ねえ、愛するということはとても価値があってとてもただしいことなのかもしれない、けれど、たとえそうであっても、わたしたちがだれかを愛そうとするときその愛しかたはかならずまちがってしまうんだよ、ねえ、隆春くん、わかるかな、わたしたちはだれかを愛するときにそれがただそれだけで価値があったりただそれだけでただしいというありかたで愛するやりかたをまだ知らないんだよ、いつか、何十億年かあとにわたしたちはそれを知ることができるかもしれない、わたしたちはそのありかたに到達できるかもしれない、でも、いまのにんげんにはそんなありかたは到来していないんだよ。でも、俺たちはそんな愛のありかたの到来を待ってはいられない、だから、たとえまちがっていてもだれかを愛したいと思い、そして愛するしかないんだ。うん、でも、それはどうしようもなくまちがっていて、どうしようもなく醜い。だからだれも愛するなって言うのかよ。ちがう、そうじゃない、これはそれがそうなっているっていうだけの話だよ、わたしたちを啓蒙するための話じゃない、わたしたちになにかを覚醒させるための話じゃない、わたしたちがそれを待つことができるかどうかという話ですらない、これはわたしたちがなんらかの価値をはかるような話ではないんだよ。花びら、それでも俺は。ごめん、吐き気がする、と花びらは言った。もうやめてよ、手をひいてよ。隆春の幽霊は薄い顔のまま花びらの手からそっと手をひいた。隆春の幽霊の身体から光の粒子がさらさらとこぼれおちはじめていた。それらはかすかな空気の揺らぎにあわせてただよいながらすこしずつ隆春の幽霊からはなれていった。欠けた部分を埋めあわせようと空白のまわりの粒子がその薄くのび空白をおおったけれど、それがくりかえされるうちに隆春の幽霊はすこしずつ透明に似ていった。ごめんね、でも、気持ちがわるいよ、と花びらは言った。隆春くん、とても気持ちがわるいよ、わたしも、隆春くんの顔と身体のかたちやそのこころのありかたを気持ちわるく思えなければどんなにいいだろうって思ったけれど、やっぱりむりだ、ねえ、むりなんだよ、わたしは隆春くんをどうしても気持ちがわるく思ってしまう、ごめんね、ほんとうにごめんなさい、こうして話をしていてもわたしはもうまるでたのしい気持ちやおだやかな気持ちになれないんだ、もういやなんだよ、もうだめなんだ、隆春くんが気持ちがわるくて、おぞましくて、どうしても耐えられそうにないよ。おまえはどうしてそういうことを言うんだろう。隆春の幽霊の頭部が爆発したみたいにはじけて消えた。そのときふきあがった隆春の幽霊の一部が花びらの顔面に向かって飛び、その皮膚を、頭部のなかの肉と骨と脳髄を通過して後頭部からぬけていった。汗ばんでいやなにおいがする手のひらで顔のうらがわをやさしくなでつけられたような気持ちがして、花びらは夏の雨にも似た気持ちを抱いた。くちのなかが、こころのなかが湿っていた。おまえはいつも言わなくてもいいことを言う、と隆春の幽霊は言った。でも、そう言えば言うほどおまえは傷つくように見えてしまう、おまえはだれよりも他人を傷つけたいと思っているくせに、どうして他人が傷つくことにそんなにおびえているんだろう。ばかにしないでよ、と花びらは言った。声がかすれていた。わたしをばかにしないで、もうわたしのそばにいないで。心配しなくても俺はもうすぐ消えるよ、俺の魂が俺のこころを食って食えない部分をそとに吐きだしているんだ、俺にはもうおまえの顔と身体が見えない、あんなに愛らしく思っていた顔と身体なのに、もう見えない、俺にはもうおまえの声もほとんど聞こえない、俺にはおまえの存在を感じることができない、もう俺自身の存在すら感じることができない、あるのはただ白色の感触だ、白くて突起のあるかわいたものが俺の魂にその身体をこすりつけてくるんだ。ねえ、隆春くん、ほんとうのことを教えてよ。ほんとうのことってなんだよ。ほんとうは隆春くんはあの兵士のひとたちの仲間なんだよね、ねえ、隆春くんがあのひとたちにお金をわたしたんだよね、わたしが隆春くんの感情をうけいれなかったことの復讐のためにわたしたちを監禁したんだよね、それで、隆春くんがわたしを犯そうとしたんだよね、隆春くんはあのひとたちにうらぎられて殺されてしまっただけなんだよね。くだらないことを言うなよ、と隆春の幽霊は言った。けれど、隆春の幽霊の粒子が散りすぎてしまったせいで花びらにはその言葉は聞こえなかった。俺じゃないよ、と隆春の幽霊は言った。おまえを監禁しようとあの兵士たちにお金をわたしたのは靴子だよ。けれどその声ももう花びらには聞こえていなかった。そして隆春の幽霊はその言葉たちが花びらに聞こえていないことに気づいていなかった。花びらはずっとうつむいたまま唇をかんでいた。けれどそれはその場所でほとんどずっと花びらが隆春の言葉を聞くためにとりつづけていた態度だった。うそだよ、と隆春の幽霊は言って笑った。俺たちはみんなおまえを愛しているんだ、俺たちのだれも、そんなことはしないよ。隆春の幽霊は失われた目で花びらを見つめつづけた。愛しているよ、と隆春の幽霊は言いつのった。俺はおまえになにを言われてもおまえのことを愛しているんだよ。それを言った隆春の幽霊は、もうその場所にはいなかった。隆春の幽霊からこぼれおちた粒子のいくつかは綿のように花びらのむきだしの腕や下半身にまとわりつき、かすかな痙攣をくりかえしながらその場所でひくひくと動きつづけていた。花びらは涙を流していた。性器をおおう下着と太腿のあいだの空間にその涙はぽつぽつと落ちていった。花びらはその場所のなにかを見つめているような気がした。かすかな粒子が微小な蛍のようにあたりを飛びかっていた。やがて、花びらはゆっくりと便座からたちあがって個室からそとへでた。窓が月と星々の光をうけて四角いかたちに浮かびあがり、そして、それとおなじかたち、おなじ光度をたもった光が床にも浮かびあがっていた。床の光は水面のように絶えず揺らめいて花びらのこころを誘っていた。耳のおくそこにもうすぐ脳味噌にまで到達するかもしれない虫のようなものが羽をとじてずっととどまっているような気持ちがした。わたしはあわれなにんげんなんかじゃない、と花びらは思った。けれど、それはそう思っただけのことだった。
 花びらはトイレからでて廊下を歩いた。教室のまえにはルカが壁に背中をおしつけて座りこんでいて、その瞳はまっすぐに教室のなかに向かっていた。ルカの身体のかたちとそのありかたは花びらがトイレに向かったときからなにも変わっていなかったけれど、花びらはそのことに気づいていなかった。ルカの影が廊下をつたって長くのび、花びらがその影を踏みしめるとルカの顔がはんぶんだけ回転した。もう気分はよくなったかな、とルカは言った。さっきよりはまともになったと思う、と花びらは言った。それでも、最低は最低だ。花びらはそのまま歩いて教室の扉のふちにたってそのなかを見つめた。マルコはあいかわらず教室の周縁をまわりつづけていた。そのなかでふたりの子供、ふたりの兵士がねむりこみ、そしてその周縁のきわの一部に隆春の死体があった。トイレにいくまえとなにも変わらない光景に花びらには見えたけれど、それを見ている自分のうちがわはどうしようもなくぐちゃぐちゃだった。ルカの視界は花びらのうしろ姿にさえぎられ、ルカからはもう教室のなかが見えなくなっていた。そのまま目を向けるさきがなくてすこしの時間だけ目をつむってそれまで見ていた光景を思いうかべた。光景はまぶたのうらがわの暗闇の表面でつよく再生され想像されただけのものにすぎなかったのにそれ自体が発光しているように思えた。ねえ、と花びらが声をかけ、ルカは目をひらいた。花びらの身体は教室のなかにはいりこんでいて、扉の中空に顔だけがつきだしていた。なにかな、とルカは言った。あなたは隆春くんの顔や身体のかたちを醜いと思うだろうか。どうだろう。ルカはたちあがってそのまま教室のなかまで歩き、そして教室のかたすみに横たわった隆春の死体を見おろした。花びらもルカのあとをついて歩き、ルカの斜めうしろの場所にたって隆春の死体を見つめた。それは冷えてかたまりきった石ころのようだった。月と星々の光があたらないせいで隆春の死体は黒ずんでいた。いちようの薄闇のなかに濃くてまるい黒色のかたまりが浮かび、それがかろうじて隆春の死体のりんかくをたもっていた。ひらいた穴から流れでた血と脂はろうのようにかたまり、その色彩のなかで唯一白色と思えるほどの暗闇の色をしていた。隆春の死体は唇をそぎおとされていて、かつて頬のふくらみがあった場所もそぎおとされ骨がのぞいていた。指先も手首もなく、にの腕は肉をそがれてひじからさきの部分よりもほそくなっていて、太腿もおなじようにすねよりもほそかった。かつて眼球が設置されていたくぼみのおくにいくつもの繊維がつきでて頬にまでだらりとたれ、その繊維のさきから粘着質の液体がぽとぽととたれおちていた。身体の表面でいくつもの濃くてまるい黒色のかたまりがときどき揺らいでいて、かたまりはまたいくつものちいさなかたまりにわかれてルカの顔のまわりを飛びかった。いまのこの男の子の顔や身体のかたちはとても醜いと思う、とルカは言った。だって、いまこの男の子の顔や身体のかたちはもうにんげんがそうであるようなものではないから。隆春くんはにんげんの顔や身体のかたちがきらいだって言っていた、と花びらは言った。それは、とてもかなしいことだと思う。わたしが訊きたかったのはいまの顔や身体のかたちのことじゃない、隆春くんがまだ生きていたときのかたちのことだよ、あなたたちが銃弾をうちこみ、あちこちの部位をそぎおとすまえの隆春くんのかたちだよ。僕はそのことについてうまく言えない、ねえ、僕は僕たちがこの男の子を殺すまえのこの男の子のかたちをもう覚えていないんだよ。あなたが殺して、あなたがその身体の部位をそぎおとしたのに、もうわすれてしまったんだ。そのことについてはすまないと思う。あなたたちはとても酷薄だ。それはちがうよ、僕たちはただこの男の子を食料として殺したんだ、僕たちは食料の顔や身体のかたちをいちいち覚えていないよ、きみたちだってそうだろう、きみはきみが食べる魚や野菜のかたちをいちいち覚えてなんかいないだろう、だから、僕たちがこの男の子のもともとのかたちを覚えていないからといって僕たちが酷薄だということにはならないよ、それはにんげんにたいする感情のありかたや関心や思いかたがたりないっていうことにはならない。もしもあなたがしんからそう思っているのなら、と花びらは言った。あなたは最低だ。そのとき、教室のなかに音楽が満ちた。隆春から断続的には飛びちっている黒いかたまりはそれを契機にしていっせいに飛びちり、そのうちのいくつかは窓のそとにでていった。マルコは教室の周縁をまわることをやめてまっすぐに音楽のほうをながめた。教室のかたすみで花びらと靴子と譲の携帯電話の残骸たちが光って音楽を鳴らせていた。ルカと花びらは同時にその方向を見つめ、花びらがさきに動きはじめてルカはそのうしろを追った。携帯電話のかたわらに横たわった靴子と譲の上半身が持ちあがり、床に両手をついて携帯電話をその顔面についた瞳で見つめた。さんにんの携帯電話の残骸たちはその中心を光らせ、その中心から音楽を放っていた。音楽はしあわせだった。ただ生きてだれかを愛することができるよろこびをその旋律で表現していた。携帯電話の中心の残骸のまわりにはそれぞれのなかにかつてくみこまれていた羽虫や墓土やつめのかけらは散らばっていて、どの部品がだれの携帯電話のものなのか花びらにも靴子にも譲にも区別がつかなかった。そしてそのそれぞれの部品たちはたがいに共鳴しあい、その部品たち自身が発光し音楽を放っているとその部品たち自身が錯覚していた。花びらは携帯電話のまえに座りこみ、手をのばして携帯電話の残骸たちの中心に指先をさしこんだ。指先にかるく電気が走り、とろりとした液体がその指先にからみついた。もしもし、と携帯電話の残骸たちの中心から声が聞こえた。もしもし、と花びらが言った。もしもし、聞こえていますか。聞こえているよ、ねえ、聞こえているよ。よかった、兵士のひとたちにかわってください。ルカが花びらのかたわらに座りこんで、だれだ、と言った。兵士のひとですね、わたしたちは要求があってこの電話をかけています、いますぐその子供たちを解放してください。だれだ。窓のそとを見てください、わたしたちはその子供たちを解放させるためにやってきました。マタイさん、ヨハネさん、とルカはさけんで窓ぎまわで歩いてそとを見た。校庭の校門の向こう側にむすうの子供たちが群れているのが見えた。子供たちは校門の向こう側でおびただしくひしめきあい、それぞれの身体をかさねあい、つぶしあいながらそこにたっていた。子供たちの群れのなかからいくつもの手が校門の柵のあいだからのばされ、その手の先端についた虫のような指先たちが中空でただよった。群れの先頭にたっている女の子が携帯電話を持ってひらいた窓をまっすぐに見つめていた。月と星々の光がその子供たちの群れを照らしだしていたけれど、その群れの子供たちのそれぞれの顔たちはそのとなりの子供の身体に部分を隠されてどれひとつとしてくっきりしてはいなかった。靴子が花びらの手首をつかんでそっとぬきとり、かわりにそこに自分の指先をさしいれた。花びらは靴子を見つめ、靴子はなにかまぶしいものを見るようなやりかたで自分の指先を見つめていた。それから花びらは譲を一瞬だけ見つめた。譲の目ははんぶんくらいとじていたけれど、靴子よりはなにかをはっきりと見つめているような気配だけはあった。花びらはすぐに目をそらしてルカのかたわらに移動し、譲もそれにつづいた。そしてふたりはルカが見つめた光景とおなじ光景を見つめた。靴子だけがいっしんに携帯電話の残骸たちの中心に指先をさしこみながら喉の渇きと痛みに耐えていた。わたしたちはその子供たちを解放するために集会をひらきました、と携帯電話の残骸たちは言った。あなたたちはその子供たちの人権を犯し、その子供たちのこころと魂を深く傷つけつづけています、わたしたちはあなたたちの行動の即時停止を求めます。マタイとヨハネ、そしてマルコも窓ぎわにやってきた。マタイは薄い微笑みを浮かべ、ヨハネは眉根をよせた。マルコだけが教室の周縁をまわっていたときとおなじ顔をしていた。ルカはヨハネの顔を見た。ヨハネはしばらく子供たちの群れを見つめつづけたあとに窓ぎわからはなれて携帯電話の残骸たちのかたわらに座りこんだ。靴子はヨハネがとなりに座りこんでもまるで動かないで真下を向いたままいっしんに携帯電話の残骸たちを見つめつつけていたけれど、髪の毛に隠されその横顔や瞳のありかたはほかのだれにも見ることができなかった。俺たちには俺たちの目的があり、俺たちはその目的のために行動している、とヨハネは携帯電話の残骸たちに言った。子供たちを監禁していることについては俺たちもすまないと思う、けれど、俺たちもこの子供たちを傷つけることを望んでいない、もしも俺たちの目的のために俺たちがおこなう行動がこの子供たちを傷つけるたとしたら、そのとき俺たちも傷ついているんだ。あなたたちの目的とはなんでしょうか、と携帯電話の残骸たちが言った。俺たちの行動の目的は愛に関係することだ、けれど、それ以上のことをおまえたちに言うことはできない、それはそもそも言葉では言いあらわすことができないものだ。わたしたちはそれでは納得できません。だったらいますぐ解散したほうがいい。解散はできません、わたしたちはその子供たちをあなたたちから解放するためにここにやってきたんです。なにをしてもむだだよ、とヨハネは言った。集団としてかたまり、なにかを要求すればそれがかならずかなうわけではない、おまえたちがそう思っているのであればそれはおまえたちが他人を侮辱しているというだけだ。あなたたちはあなたたちの目的のためにその子供たちを犠牲にすることをみとめているんでしょうか。しかたがないことだ。しかたがないからあなたたちはその子供たちを傷つけるんでしょうか。そうだよ、だってそれはしかたがないことなんだ。あなたたちはそれが許されないことだとは思わないんでしょうか。許される許されないの問題じゃない、俺たちはおまえたちやおまえたち以外のだれかに許されたいと思っているわけではない。わたしたちはあなたたちをあわれみ、そして軽蔑します。すればいい。あなたたちがその子供たちを解放する条件を提示してください、わたしたちはその条件をかなえるための用意があります。条件はない、解散するんだ。それならこちらから条件を提示します、その子供たちのかわりにわたしたちのうちのだれかがあなたたちに監禁されます、だから、その子供たちを解放してください。かんちがいをするなよ、おまえたちの価値はこの子供たちの価値と等価じゃない。わたしたちのうちのひとりの価値がその子供たちのひとりの価値のはんぶんでしかないなら、わたしたちはその子供たちひとりにつきふたりをあなたたちのもとへいかせます、わたしたちのうちのひとりの価値がその子供たちのひとりの価値の1億分の1でしかないなら、わたしたちはその子供たちひとりにつき1億人をあなたたちのもとへいかせます、わたしたちにはどんな条件にもおうじる用意があります。だめだ、この子供たちの価値はおまえたちの価値ではかることはできない。どうしてあなたたちにその子供たちの価値がわかるんでしょうか、どうしてあなたたちにわたしたちの価値がわかるんでしょうか。俺たちにはわからないよ、わからないからこそおまえたちと交換するわけにはいかないんだよ、それとも、おまえたちにはそれがわかるのか。わかります。なぜだ。わたしたちはあなたたちとはちがい、その子供たちをこころから愛しているからです。くだらない。かわってくれよ、と譲がさけんだ。たのむから俺とかわってくれよ。マタイが譲のくちをおさえるまえに花びらが譲の頬を思いきり殴りつけた。譲はすこしだけよろけた。頬のうちがわににぶく熱いものがふくらみ、おもいきり噛みつけた舌をくちのなかのひとりの小人のように感じた。頬のうちがわの熱はやがて頭部のすべてにまわったけれど、いつまで待っても痛みはやってこなかった。痛みはやってこないくせに瞳からは濃くどろどろとした涙が膿に似ながらも流れた。花びらはしたを向いて指先で唇にふれ、ときどきは唇の肉をひっぱりながらも時間が流れていくのを感じた。譲の頬を殴りつけたときには手のひらから骨がつきでたように思えたのに、無感覚さにも似た感覚が手のこうにひろがるだけで、それはあたりまえにそのかたちをたもっていた。兵士たちはだれもなにも言わなかった。ただ、譲のくちをふさごうとしたマタイの腕が空中で大樹から生えた枝のように静止しつづけた。なにをするんだよ、と譲は言った。あなたたちは、と携帯電話の残骸たちが言ったとき、なにをするんだよ、と譲はさけんで花びらの顔を殴りつけた。花びらは窓のしたに倒れこみ、そのおなかを譲は蹴りつけた。やめてよ、と靴子がさけんだ。もう、やめてよ。譲は靴子のほうを見て、そのうつむいた顔のかたちを見つめ、それから花びらの体に視線をもどした。花びらの身体はゆるやかなくの字におれまがっていて、それは時間の流れとともにゆっくりとまるまっていった。髪の毛が顔面にからみついてそのうちのいくつかはぺたりとはりつき、髪の毛と髪の毛の隙間から赤い血がさらさらとこぼれていた。床をこするように花びらの身体はまるまりつづけた。その振動にあわせて花びらの髪の毛もたわみながらもちぢれて、床にひろがった血と髪の毛がこすれて線状の血のあとがいくつもいくつもできあがっていた。譲は花びらのかたわらにひざまづいて顔にふりかかった髪の毛を指先ではらった。そこから花びらの顔面の下半身があらわれたけれど、その肌は赤く染まっていた。わずかにひらかれた唇と唇のあいだに血が流れこんでいて、それが泡をたて糸をひきながらひとつのいきもののようにゆっくりと動いていた。歯のうちのいくつかも赤く染まっていて、花びらは身体をまるめて顔のまえに持ってきた手のこうで舌の血を拭いとっていた。唇と唇のあいだからつめたい吐息がふきだされ、髪の毛が舞いあがってやがてもとのかたちにもどった。そのふきこぼれた吐息が花びらの顔のまえに静止したままの譲の手をすこしだけ湿らせていた。俺がわるいのかよ、と譲は言って花びらの肩にふれ、そして揺すった。けれど、花びらはかたくなに身体をまるめつづけるだけだった。そのまるめの速度はとてもおだやかでいておそく、まるめおえるまでにいったいどれほどの時間がかかるんだろうとルカは思った。俺はわるくないだろう、なあ、俺はわるくないだろう。ヨハネはもう窓のそとに目をもどしていた。校門の向こう側の子供たちの群れの先頭にたった子供の携帯電話をにぎる手は震え、その瞳からは涙が流れだしていた。マルコの頭のなかであたらしいねじが回転をはじめ、マタイは微笑みを浮かべながら煙草をとりだして火をつけた。煙草の先端からやさしい幽霊の腕のようにのびていく煙は旋回をしながらすこしずつ移動して、そのうちの部分が窓のそとへ流れ、そのうちのまたべつの部分は花びらの足にふれていた。さわらないで、と花びらは言った。気持ちがわるいよ。俺はわるくないよ。譲は花びらの肩を揺さぶることはやめたけれどそこから手をはなそうとはしなかった。窓から射しこむ光のいちばんあかるい部分が譲の手と花びらの肩を照らしていた。俺はただ生きのびたいと思っただけだよ、もうこれ以上俺たちのこころと身体がつらい状況におかれつづけることがいやなだけなんだよ、花びらにだってわかるだろう、このままこんな場所にいつづけたらおまえも靴子も死んでいってしまうかもしれないんだ、俺はおまえや靴子に死んでほしくない、それに俺も死にたくないんだ、俺はただそのことを願っただけじゃないか。わたしは譲くんがそう言ったことをわるいと思ったわけじゃない、と花びらのくちが言った。それなら、どうして俺を殴ったんだよ。わたしはただ譲くんのことを気持ちわるいって思ってしまっただけだよ、譲くんがわたしを殴り、蹴りつけたこともわたしは怒っていない、譲くんがわたしにしたことをわるいことだとも思っていない、だって、わたしは譲くんを殴っただけなんだから。なんだよ、それなら俺はどうしたらいいんだよ。わたしはもう譲くんになにも望まないよ、ただわたしの肩にふれているその手をどけてほしいと思うだけだ。譲の手は花びらの肩をやさしくなでつづけていた。そして、ほんとうになでたいと思っているのは花びらの肩ではなくてもっとべつの部分だということに気づいてもいた。靴子は顔を真下に向けたまま髪の毛のなかにその顔を隠していた。だれも、靴子の身体を見つめてはいなかった。ごめんね、と花びらは言った。わるいことをしたのはわたしのほうだと思う、譲くんのことを気持ちわるく思ってしまったわたしがわるいんだと思う、わたしは譲くんがなにを言ったとしてもそんなことを思うべきじゃなかったんだよ、それがわたしや靴子ちゃんに向けられたやさしさだっていうことにすぐに気づくべきだった、そしてそのやさしさについて気持ちがわるい以外のなんらかの感情を向けるべきだったんだ。俺はこわいんだよ、と譲は言った。こわくてこわくてしかたがないんだよ。なにもこわがることはないよ、とマタイが言った。俺はおまえたちを殺さないよ、だって、おまえたちにはにんげんとして価値があるんだから。おまえたちがなにを言ったとしてもおまえたちとあの子供たちは交換しない、とヨハネが言った。あなたたちはその子供たちを犯しましたね、と携帯電話の残骸たちが言った。靴子の顔がこころもち持ちあがり、その肩が揺れた。俺たちはなにもやっていないよ、とヨハネは言った。それはただおまえたちがいろいろなことを想像しすぎているだけのことだ、この場所でおこっていることはつねにおまえたちが想像していることよりすくなく、なんでもないことなんだ。これからわたしたちのうちのひとりがあなたたちの場所へいきます、わたしたちのうちのひとりとその子供たちのうちのひとりを交換してください、わたしたちはあなたたちにわたしたちのうちのひとりを傷つけないことを望みます、そして、あなたたちが平和的なこころでもってわたしたちのうちのひとりとその子供たちのうちのひとりを交換してくれることを望みます。やめたほうがいい。けれど、子供たちの群れのなかからひとつの部分が踊りあがって子供のかたちをとり、それが柵をのぼりはじめた。群れのかたまりからいくつもの手がつきだしてその子供のおしりを支えた。その子供はほとんど自動的に柵をのぼり、そして校門のこちら側におりたってゆっくりと校庭を歩きはじめた。その子供はとても飢えているように見えた。手足はほそく、ただ骨を傷つけないためだけに薄皮と肉でおおっているだけのようだった。洋服はすりきれ、顔には黒くかたまった垢がこびりついていた。その子供がいっぽ歩くごとにその垢がぼろぼろとこぼれおちていった。殺せ、とヨハネが言った。マタイは銃を手にとって銃口を窓のそとへ向けてひきがねをひいた。譲と花びら、そしてふたりからはなれた場所で靴子の身体がその重い響きをうけて揺れ、その重さは身体のうちがわに病巣のようにしばらくのこりつづけた。譲の下半身はその重みをうけてちからを失い、ほとんど倒れこむようにして花びらの顔の横に座りこんだ。りょうほうの腕で頭を抱えこみ、けれどどうしてもとじることができない目で、腕で隠されながらもわずかにひらいた空間をとおしてかたわらの花びらの顔を見つめた。目は髪の毛にとざされていて見えなかったけれど、血でよごれたその顔の下半身と、そのまんなかでぽっかりとひらいたくちが見えた。それはこころにひらいた空洞のようだった。校庭のまんなかで子供が倒れおわり、その身体から血がふきだしていた。血は噴水のように高くあがっていた。血はわずかな時間の経過にしたがい噴水であることはやめたけれど、それでもまだ流れつづけ、夜空にあまりにも似すぎてしまったあとの校庭にゆっくりとひろがりつづけた。校庭の向こう側の子供たちの群れはその流血を見て興奮し、くちぐちに言葉を放った。その言葉たちは個々にとりだしてみればきちんと意味があるものだったけれど、同時に放たれたそれらはたがいにまざりあいそして溶けあい、すっかり意味を失い痛々しさだけをのこした音のようにしか聞こえなかった。その音を聞いてマタイは笑いはじめた。はじめはおおきな声で、すこしたつとそのいきおいはおさまったけれど、頬に皺をよせてかすかに笑いをつづけていた。俺たちには子供と子供を交換する意志はない、とヨハネは言った。それでもわたしたちは行動を中止することはできません、と携帯電話の残骸たちは言った。子供たちの群れはよりいっそうふくれあがり、その部分の複数が校門をのりこえはじめた。マタイはルカをにらんでルカにも銃をとらせ、ヨハネ自身も銃を手にとって校庭に向けて銃弾を放ちはじめた。校門をこえる途中で子供たちの群れの部分のいくつかは死んでいった。死んだ子供は子供たちの群れの頭上に落ちて群れからのびたいくつもの腕でうけとめられ、そのまま腕から腕をつたい後方へとはこばれていった。銃弾にあたらないで校門をのりきった子供たちの群れの部分たちもみんな校庭のまんなかで撃たれて死んでいった。殺すことなんかないですよ、とルカが銃声と銃声のあいだの時間に言った。まだ子供なんですよ。俺たちは警告をした、とヨハネは言った。警告を無視したあの子供たちがわるい、それに、おまえはかんちがいをしているよ、あの子供たちがここへやってきたとしたらあの子供たちはこの子供たちを俺たちのもとから奪いさっていくだろう、そのためにならあの子供たちはなんだってやるだろう、あの子供たちがここへやってきてしまったなら俺たちだってぶじでいられないかもしれない、あの子供たちはおなかのなかに爆弾を抱えこんでいるかもしれないんだ、ここへやってきて自爆をして俺たち皆殺しにするつもりかもしれない。譲は花びらに救いをもとめて花びらの顔を見つめつづけた。虐殺をまえにして花びらのくちがいままでとはちがうかたちにひらくのを待っていたけれど、花びらのくちはだらりとひらいたまま静止しているだけだった。花びらのりょうほうの腕がゆっくりと動き、顔面の上半身にからみついたたくさんの髪の毛をかきわけた。そのおくから花びらの瞳があらわれた。花びらの瞳はまっすぐに天井を見つめていた。瞳の色はすこしだけ光度を欠きながらも一定の光を天井に向けて放ちちづけていた。まばたきの回数がとてもすくなかった。たっぷりの時間をかけて2回だけのまばたきをした。その時間のあいだ、眼球の表面の水分はすこしずつかわいて溶けた水分が水蒸気となってかすかに空気中にのぼっていくのが譲には見えていた。そんなまばたきをくりかえしながら、花びらはりょうほうの手で髪の毛をいじくりつづけていた。前髪のたばをひっぱり、指先でそのなかからてきせつないっぽんをよりわけて、そのいっぽんをまたべつのいっぽんずつの髪の毛といっしょにねじりあげていった。花びらの顔に、そして譲の腿のうえに花びらの髪の毛いっぽんいっぽんの影がかかり、その影のうえで花びらの指先の影がうごめいていた。譲は花びらのその行為になんらかの意味を読みとろうとした。そのひとつひとつにとてもおおきくて偉大な、それを読みとればこの場所でおこりこれからおこっていくだろうことのすべての意味と価値を理解できると思えるようなものがこめられているような気がした。けれど、花びらのその仕草はなんらかの比喩でもなんらかの意味をあらわす暗号でもなく、ほんとうにただの仕草にすぎなかった。花びらは髪の毛をいじくりつづけるその指先の動きを、その影が絶え間なく降りつもる自分の顔面を譲に見られているのを感じていた。それはまるで自分がとても巧妙なやりかたで犯されているようにも感じられたけれど、そう思えば思うほど、その動きをとめることはできなかった。花びらにとって、その指先の動きはすべての善良なもの、すべての美しいものに向けられた悪意だった。やめてよ、と靴子がさけんだ。その瞬間にだけ、指先で靴子の声を聞きとろうとするかのように花びらの指先の動きがとまった。なにをやっているんだよ、ねえ、やめてよ、お願いだからやめてよ。やめないよ、とヨハネが言った。やめるのはあの子供たちのほうだ、俺たちだって好きで子供たちを撃ち殺しているわけじゃない、俺たちはあの子供たちが俺たちの場所にひとつの暴力としてやってくるからしかたなく排除しているだけだ、わかるだろう、俺たちはあの子供たちによってあの子供たちを撃ち殺すことをしいられているんだよ。だからって、あんまりだよ。だいじょうぶです、心配しないでください、すぐに助けますから、と携帯電話の残骸たちが言った。わたしたちはあなたたちを助けるために世界中からあつまりました、あなたたちを助けるためにあつまったのですから、あなたたちを助けださないかぎりわたしたちはわたしたちを解散させはしません、そのためにわたしたちのうちの何万人、何十万人が犠牲になろうともかまいません、わたしたちも、ほかの大人たちも、わたしたちの何万人、何十万人の生命があなたたちのうちのひとりの生命とつりあわないとは考えてはいません、あなたたちの生命はあなたたちにとってほかの子供たち何万人、何十万人もの生命にもかえられないものだってわかっています、だから、そのことであなたたちがなにかを気にすることはありません、わたしたちはこれからあなたたちを助けるために何万人、何十万人が死んでいくでしょう、でも、あなたたちはそれを気にしないでください、これはわたしたちが勝手にやっていることです、あなたたちの希望におうじてはじめたわけでもありません、だから、あなたたちはわたしたちのうちの何万人、何十万人が死んでいくことをなにも気にしないでください、世界中のすべての子供たちあなたたちを心配しています、世界中のすべての子供たちのなかにあなたたちのことをどうでもいいと思っている子供なんてひとりもいませんでした、世界中のすべての子供たちがあなたたちを愛しています、世界中のすべての子供たちがあなたたちを好きで好きでしかたがないんです、あなたたちを助けたくて助けたくてしかたがないんです。けれど、わたしは、と靴子は言った。こんなことになるのなら、そんなふうに愛されないほうがよかった。うつむいた靴子の瞳から涙がこぼれおちた。それは空中をつたいながら携帯電話の残骸たちのまんなかに落下し、そして、携帯電話の残骸たちにまざりあってこまかい白色と緑色の電気の光を断続的に放った。花びらはまた髪の毛を指先でいじくりはじめていた。譲は靴子の気持ちについて考えながらも花びらの指先を見つめていた。校庭には殺された子供たちの死体がすっかり敷きつめられていて、水面のように夜空を反射していた地面はもうすっかり見えなくなっていた。それでも、子供たちは撃たれて死んでしまったほかの子供たちの死体を踏みつけながらもなおも校庭をわたろうとしていた。子供たちの死体の群れの踏みごこちはわるく、いっぽ足を踏みだすごとに死体はぐにゃりとゆがんで身体がかたむいた。死体と死体の隙間に足をはさみこみ、倒れ、身動きできなくなってしまった子供たちもいた。兵士たちはそういった子供たちをねらって撃った。銃に撃たれた子供たちは死んで校庭に倒れた。校庭に倒れた子供たちはすでに死んでいた。そして、それからもずっと死につづけていた。その夜が終わり、またあたらしい夜がやってきても、子供たちはまだ死につづけていた。子供たちはみんなあおむけになって死んでいた。狂った星空が校庭に横たわった子供たちの幾億もの瞳を照らしだし、子供たちの瞳もまたそそがれた光を愛に満ちた感情でつつみ、星空を照らしかえした。光が溶けてできた薄く白い靄が子供たちと夜をかきいだき、その靄を晴らすように銃声がつめたい冬の朝を思わせるありかたで鳴りひびきつづけた。やがて、校庭には死体が山積みとなっていった。死体の山に隠されて、その向こう側の校門も、街並も、夜空も、もう見えなくなった。子供たちは死体の山をのぼって校舎に進軍しようとしていた。でも、その山の頂上にたったものからじゅんばんに兵士に撃たれて山をころがり落ちて死んでいき、あたらしい子供たちの山のひとつとなった。それでも、携帯電話の残骸たちは靴子たちに向けて愛していると言いつづけていた。その言葉を聞くためだけに靴子は指先を携帯電話の残骸たちの中心にさしこみつづけていた。その指先は直接的な電気にさらされて焼けただれていた。涙は手のひらに落ち、そこから指先をつたって携帯電話の残骸のおくそこを濡らした。つめたい熱で涙は蒸発し、指の水分とともに水蒸気となって空中をただよった。靴子は泣きつづけた。こころが感じている痛みと身体が感じている痛みを区別できなかった。自分が泣いている理由もわからなかった。考えるほど考えるほど、自分が泣いている理由はなにもないように思えてつらかった。それなのに、いま自分はうそではなくてほんとうに泣いているんだという確信ばかりがつのってやりきれなかった。マルコが靴子のまえに移動してそのまえに座りこんだ。靴子は携帯電話の残骸たちとそのまんなかの指先に影が濃くうつりこんだその光景を見ていたけれど、それがにんげんがすぐ向かいにやってきたからおこったできごとだとは認識できなかった。マルコは靴子の手のひらをなで、その指先を携帯電話の残骸たちのまんなかからそっとひっぱった。あちこちにひっかかったけれど、ちからをこめればたやすくひきぬくことができた。指がひきぬかれるとそれと同時に携帯電話の残骸から聞こえていた愛についても呼びかけも聞こえなくなった。靴子のつめは溶けて液体となってながれおちていた。指先の肉には白い果実のようなふくれがいくつもいくつもできていた。マルコはその指先に舌をのばして何度か舐めとり、唾液をつけた。苦い味を感じた。そして、靴子のただれた指先を靴子のもうかたほうの手のひらでつつむと、かわりに自分の指を携帯電話の残骸たちのなかにさしいれた。電波はふたたび安定して、靴子たちを愛する声がふたたび聞こえはじめた。そうしながらマルコはしばらく靴子の瞳をのぞきこんでいた。靴子の瞳は、けれどなにもうつしだしてはいなかった。その瞳は美しいほどに透きとおっていてただ目のまえに浮かびあがったマルコの顔の全体がその瞳に淡い水彩画のように描かれているだけだった。世界中のすべての子供たちがあなたたちを愛しています、と携帯電話の残骸たちが言った。マルコはその顔をつよく靴子の顔に近づけた。靴子の瞳のなかでマルコの顔が拡大され、余分な場所をうつしこむことをやめ、ただマルコの瞳のなかだけを濃くつよくうつしこんだ。マルコの瞳のなかには海があった。それは失われた青い海だった。海は太陽のつよい光に射されて輝き、美しく繊細な白波がたっていた。海と空の境界は溶けあい、どこからか海でどこからが空なのかもわからなかった。その海と空の見えない狭間を真っ青な鳥がゆっくりと飛んでいた。海には音がなく、にんげんのにおいもなくて、まるで精巧につくられた機械じかけのこの惑星のようだった。靴子はその海を瞳でくわえこんだままゆっくりと目をとじた。指先が空気にさらされて冷えていくの感じてすこしだけ気持ちがよかった。譲は携帯電話の残骸たちから聞こえる声とかつて靴子の指先が焼けただれていった過去の音を残響として聞きながら花びらの指先の動きを見つめ、やがて目をとじた。目をとじて、ねむりこんだあとも、携帯電話の残骸たちから聞こえつづける声と靴子の指先が焼けただれる音を聞きつづけていた。そして、花びらの指先が動く愛のかたちをした軌跡を夢のなかで見つめつづけた。それらの音と光景のあいだに黒い雨が降り、譲のこころと身体と夢を濡らしていた。花びらがとてもひさしぶりに手を空中からおろし、両手を胸のうえにくみあわせておた。その動きをルカだけが見つめていた。花びらはかたほうの手で顔面の下半身をいじくり、はんぶんかたまった血の表面をこりこりとかいてけずった。つめとつめのあいだに垢とまざりあった黒い血がはいりこんでいて、それを目のまえまで持ってきてながめているとずいぶんとよごれてしまったような気持ちがした。鼻さきに近づけてにおいをかいだけれど、そこからはなんのにおいもしなかった。こんなときに、俺もおまえたちになにか物語を語ることができたらって思うよ、とヨハネが言った。花びらはゆっくりと顔をかたむけ、窓ぎわで断続的にひきがねをひきつづけるヨハネの顔を見つめた。ヨハネが自分に向けて語りかけていることを花びらは理解していたけれど、それは、花びらのなかではとても色褪せた、くだらないことのように思えた。どうして、みんなわたしに話しかけてくるんだろう、と花びらは思った。このひとたちは、わたしに話しかけることが、あるいは、わたしというにんげんが、なにか価値があるものだと、ほんとうにしんからそう思ってしまっているんだろうか。でも、俺にはむりなんだよ、とヨハネは話しかけつづけていた。俺のなかにはもう物語はのこっていないんだよ、俺のなかはもうからっぽだ、わかるか、俺の物語はマタイとルカにもう食われてしまったんだよ、なあ、あいつらが自分の体験として話した物語はすべてもともと俺が体験したことだったんだよ、あいつらは俺が話したことを自分が体験したことだと思いこんで、そしてそれをおまえたちに話していただけだ、あいつらは物語を食う獣なんだよ、マルコはもうあいつらにすべての自分の物語を食われてしまった、だからマルコはもうなにもしゃべることができない、なにも感じることができない、俺もいつかマルコのようになってしまうだろう、俺はただ思想を空気として吸いこんだ風船のようになってしまうだろう。そんなことは知らないよ、と花びらは言った。わたしはあなたなんかに興味はない、それにもうあなたたちの物語なんて聞きたくない、てきとうな話ばかりしてあなたたちがやっていることを崇高でいてせつじつなものだと思わせるようなことはもうやめてよ、最低な行為はただただ最低な行為で、どんな言葉でおぎなってもそれはなにも変わらないんだよ。かんちがいするなよ、とヨハネは言った。俺たちは俺たちの行為を最低だとは思っているわけじゃない、それに、おまえたちのいまの状況が最低だというわけでもない、たとえおまえがいまおまえが生きてきたなかでもっとも最低な気持ちを感じていたとしても、この状況がおまえたちがいままであったなかで、そしてこれからありえるだろうなかで最低な状況だとは思わないほうがいい、なあ、状況はどんどんわるくなっていくんだよ、おまえたちはこれからおまえたちがかつて体験したことがないような気持ちを感じていくことになるんだ。本質的にはそうじゃないよ、と花びらは静かに言った。でも、同時になにも言っていないような気もした。わたしたちの記憶は頼りないから、たとえおなじことがおこったとしても、それをちがうことだと感じてしまうだけだよ、それに、あとになっておこったことにたいしてかつておこったことを参照してそれに耐えやすくすることなんてできないから、わたしたちはそのときどきにおこるできごとにたいしてあたらしく傷つき、そこなわれていくしかないんだよ。ヨハネは一瞬だけ花びらを見たけれど、すぐに子供たちのほうにもどした。ヨハネの顔の向こうがわに銃があった。どこかの戦場でその銃のなかに埋めこまれた美しい花の種がいまその場所で芽吹こうとしていたけれど、花びらにはそのことはわからなかった。おまえが傷つかず、そこなわれもしないたったひとつの方法を教えてやろうか、とヨハネは言った。花びらは黙っていた。だれかにおまえを代表させることだよ、とヨハネは子供たちをひとり撃ち殺してから言った。錆びついた熱をまとった煙が花びらの鼻さきをただよい、その表面をちりちりと焦がした。俺たちがこの場所とはちがう戦場にいたときに読んだ本に書いてあったよ、民衆は自分で自分を代表することができない、だから彼らはだれかに自分を代表してもらわなければならない、ほんとうに傷つきたくないのであればおまえらもだれかに、あるいはなにかにおまえたちを代表してもらえばいい、わかるだろう、おまえたちもあの子供たちみたいになればよかったんだ、自分自身をひとつきりの個体としてみなさないで世界中の子供たちという群れのなかに溶けこみ、自分自身を世界中の子供たちという総体に代表させてしまえばよかったんだ、そうすれば、あの子供たちがけっして傷つかずそしてなんの苦労もなくおまえたちを愛することができたように、おまえたちも傷つかず、そしてだれかを愛することができるようになれていたかもしれないのに。ヨハネはまたひとり子供を撃って殺した。なんなら、俺たちがおまえたちを代表してやろうか、おまえたちはもうなにも考えなくていい、なにもしゃべらなくてもいい、もうなににも傷つかなくていい、だれかを愛する必要もない、俺たちがおまえたちのかわりに考え、おまえたちのかわりにしゃべってやる、俺たちがおまえたちのかわりに傷つき、おまえたちのかわりにだれかを愛してやるよ、有事の際には俺たちが銃をかついで戦争にいき、俺たちが戦闘機にのって大地に爆弾を降らせにいってやるよ、おまえたちはこの国のいちばん平和な場所でただ連綿とつづいていく日常に窒息しそうになりながらおまえたちの友達とじゃれあっていればそれでいいんだ、それでも、おまえたちは日常の部分部分で俺たちの醜さを、俺たちの重みをささえていくだろう。花びらは親指のつめをほかの指のつめのあいだにさしこみ、かたまった血をほじくりだしていた。けっきょくはそれがおまえたちの本質なんだよ、とヨハネは言った。俺がいま言ったことはおまえたちが無意識にやっていることなんだよ、ただおまえたちは俺たちやほかのだれかがおまえたちを代表していることをそのすべての過程においてみとめることができないでいるだけだ、そしてその不具合によって傷つき、だれかを愛せないと思っているだけだ、わかるか、おまえたちはどうしようもなく愚かなんだよ、おまえたちはじゅうぶんに傷つき、じゅうぶんにだれかを愛せているんだ、それなのに、おまえたちはじゅうぶんには傷ついていない、じゅうぶんにだれかを愛せていないと思ってばかりだ、そう思うのはただそう思うほうがおまえたちがおまえたち自身を気持ちよく感じられるからというだけの理由にすぎない、おまえたちを見ていると俺たちはいらいらするんだよ、おまえたちが俺たちのことを気持ちわるく思っているように、俺たちだっておまえたちのことをとても気持ちわるく思っているんだよ、おまえたちが俺たちにおまえたちを代表させるということがおまえたちがおまえたちであるということなんだよ、いいかげんそのことに気づいたほうがいい、そうでないと、おまえたちはもっとみっともなくなっていくばかりだ。ねえ、と花びらは言った。もう黙ってよ、あなたはまるで本のなかのにんげんみたいだ、本を読んで自分の行為や価値観が肯定された程度で自信を持つのはやめてよ、気持ちがわるいよ、それに、あわれだよ。よくわかっているじゃないか、とヨハネは言った。おまえの言うとおりだよ、おまえとしゃべっていると、俺はおまえたちの想像力によってつくられた兵士のような気持ちになってくるよ、おまえたちが想像したとおりにしゃべり、おまえたちが想像したとおりに行為しているように思えてくるんだ、でも、俺たちだってもうそんなことにはうんざりなんだよ。ヨハネが撃った弾丸が子供たちの死体の山のてっぺんにたった子供を撃ちおとした。その子供の手から携帯電話がこぼれおちて山の斜面をくだりはじめ、そして、それを追うように子供自身の身体も血をふきながしながら山の斜面をくだりはじめた。山はあまりにも高すぎててっぺんから地上に到達するまでにとても長い時間がかかった。山の斜面をころがりおちていく過程で携帯電話はばらばらになり、その子供の身体もばらばらになり、そして、それらはそれぞれの身体の部分をまぜあいながらゆっくりと地上に到達していった。山の斜面からはかすかな空気の動きによってすこしずつ子供たちの死体がずるずるとしたへしたへと動いていった。鳥たちがいきおいよく子供たちの死体の山にぶつかり頭をくだいて死んでいった。マルコはゆっくりと携帯電話の残骸たちのまんなかから指をぬきとった。兵士たちはその一夜で世界中の子供たちのすべてを殺した。夜明けだった。朝のつよい光が子供たちの死体の山を透かして祝福のように教室のなかを照らしだしていた。光のはしばしで粒子のかけらがきらきらと光って、美しかった。
 ヨハネとマタイはふたたびねむりはじめた。朝の光のなかで見るふたりの身体をおおう毛布はほとんどぼろきれみたいだった。朝の光にさらされた隆春の死体は溶けはじめ、似た黄色い膿になって教室の床にゆっくりとひろがっていった。膿は血と羽虫をまじえながらも路面のうえの油のように虹色に光りかがやき、かろうじて溶けのこった肉の部分や骨たちはその膿の表面でたゆたいながらその膿にのせられてすべるように移動していった。マルコは靴子のかたわらにのこりつづけていたけれど、花びらが窓ぎわでねむりこんだ譲の身体をひきずって靴子の横まで移動させるとマルコもたちあがって教室の反対のすみにまで移動していった。靴子の身体もねむったままくずれおちて横たわっていた。譲と靴子はその場所でたがいに背を向けあいながらねむりこんでいて、そのふたつの顔をさわやかな光が照らしていた。譲の手首には腕をひっぱったときについた花びらの血が指紋のかたちをしたままのこっていたけれど、そのはんぶんはもうかすれてしまっていた。顔を洗ってくる、と花びらはルカに言って廊下にでた。ルカは教室の扉まであとを追い、蛇口に向かって背中をおりまげる花びらの背中を見つけた。ところどころかたまった髪の毛の表面で脂が水面に浮きあがったごみくずのように輝いていた。蛇口をひねると透明な水が流れ、その水泡だけが白く、水のいきおいにあわせて粒子のようにちらついていた。手を水流のなかにさしこんで指と指をかさねあわせるようにこすりあわせると、手についていた血はほそい糸のようにするするとほどけ、水にのって排水口のなかにすこしずつ流れていった。ルカはその背中を見つめつづけていた。そしてその場所に流れつづける水の音を聞きつづけていたけれど、やがて身体の向きを変えて教室のなかに顔をさしいれ、ちょっとそとにでてきます、すぐにもどってくるのでここをお願いします、とマルコに言った。マルコはなにも言わなかったけれど、ルカはそれを気にしないでそのまま廊下を歩いていってしまった。花びらは廊下を歩いていくルカのうしろ姿を一瞬だけ見つめ、すぐに水道に向きなおり水の揺らめきを見つめた。まぶたが重かった。でもほんとうにはそうじゃなくて、重いのはまぶただけではなくて頭部のすべてだった。譲に殴りつけられた鼻のわきのあたりにおおきな腐った果実を埋めこまれてしまったようで、手でふれるとぴりっとした痛みが走り、同時にそこはぶよぶよとして膿んでいるようにも感じられた。でも、あるいは、わたしの顔の皮膚はもともとそういう感触をしていたのかもしれない、と花びらは思った。身体のすべてに夏そのものとその季節に死んでいってしまった羽虫たちを背負いこんでしまったようなけだるさがまとわりついていた。あたたかな水のような吐き気もまだ喉のおくそこにこびりついてはなれなかった。つめたいシャワーを浴びて、フルーツジュースを飲んで、冷房の効いた部屋で気持ちよくねむりたかった。指先に水をひたしながら、わたしにできないことはなにもないんだ、と思った。でも、そう思ったところで花びらにできることはほとんどなにもなかった。ふたつの手のひらをおわんのかたちにくみあわせて水をため、たまった水で顔の下半身をこすった。赤黒くかたまった血がかたまりのまま剥がれて落ちていき、それ以外の血はかたちを失ってほどけてとろとろと流れていった。おさないころ、川でころんで石に頭をぶつけて頭がぱっくりと割れてしまった靴子の話を思いだした。そして、そのとき指先をあててその肉のわれめのなかにすっぽりと指先がはいってしまったときの感触を想像しようとした。でも、その想像は近いくせに遠く、あまずっぱい林檎のにおいをかすかにただよわせていた。窓のそとにひろがる森はわずかに青みをおびながらつぶのおおきな空気をこつこつとつくりはじめていた。樹々の葉は朝の光をうけてあざやかに色づきはじめていた。夏の鳥の鳴き声が森のおくから響きわたり、濃い土のかおりがたちのぼって空気はかたい水分にひたされていった。森をかこむ空は薄い白色から濃い青色にまでひとつひとつの段階をおびながらその色を変えはじめていて、その光景のうちの花びらに近い場所からひとつそしてまたひとつとあかるさをつよくしていった。世界が夜のあいだにためこんだとうといものをまたべつのとうといもので塗りかえていくその瞬間を、そして、その瞬間瞬間に発生するにんげんたちの希求の気配を、そのすべてを理解しながら花びらはその光景を見つめていた。顔を洗いおえると制服をのばして顔にはりついた水分を拭いとって教室のなかにもどり、部屋のかたすみに座りこんでねむりこんだ靴子の身体を見つめつづけているマルコに、ねえ、コップを貸してよ、と言った。マルコの首がぎしぎしと回転して花びらのほうを向き、やがて、その腕が持ちあがって焚き火のかたわらに落ちていたコップのほうを指さした。花びらはコップをひろいあげてまた廊下にでた。それはルカのコップだっただろうかと思った。でもよくわからなかった。コップに鼻先をあててにおいをかいだけれど、銀色のにおいとかすかなアルコールのにおいがしただけで、それがそれ以上のなにかをさししめすことはけっしてなかった。花びらは水道の蛇口をひねってコップのなかに水をたっぷりとそそぎ、そのまま教室のなかにもどって靴子のかたわらに座りこんだ。花びらは靴子の手をその手にとって焼けただれた指先を見つめた。つめと皮膚の境目はなくなっていた。つめと皮膚はおなじようなかたちと色あいにかたまりおわり、ところどころが黒く焦げていた。その焦げの部分にも焦げていない部分にも白いふくらみがいくつもいくつもできていて、つめをたててやぶればその場所からこまかな白いむすうの虫たちがあふれてきそうだった。花びらはコップを床におき、靴子の指先をコップのなかにさしいれて水のなかでていねいにしごくように洗った。表面の焦げが指先から剥がれてそのかたちをたもったまま水面に浮かび、その焦げのしたから薄桃色をした靴子のあたらしい肉があらわれた。靴子の指先から剥がれおちたものはその焦げだけだった。白いふくらみはやぶけることなく靴子の指先にとどまっていて、水のなかですこしだけ肥大して見えもしたけれど、でもそれはそれだけのことだった。花びらはそれでも靴子の指先をやさしく、痛みをとりさるというよりはそこに埋めこまれたこころやさけびの一部をとりさるようなやりかたでなでつづけた。靴子はよくねむっているように見えた。規則的な吐息が唇と唇のあいだから漏れ、その吐息がわずかにのぞいた前歯をかわかしていた。目はしっかりととじられていた。まぶたのとじめのいっぽんのふとく黒い線状のものをまつげがおおっていた。やがて、その黒い線状のものがぱくりとひらき、透明でたっぷりと水分をふくんだ三日月のかたちをした瞳が花びらの目のまえにあらわれた。ごめん、おこしちゃったね、と花びらは言った。夢を見ていたんだ、と靴子は言った。どんな夢だったんだろう。とてもかなしくて、けれどとてもきれいな夢だった。靴子は横たわりながらもゆっくりと顔をかたむけ、コップのなかにさしこまれた手首のきれはしを見つめた。指、痛いかな、と花びらは訊いた。痛くないよ、と靴子は言った。もう、あまり感触がないんだ。うん、と花びらは言ってうつむいた。顔がそのまま落ちてしまいそうな気がした。唇から剥がれかけた薄皮を前歯で噛みとって剥がしてくちのなかにふくみ、でもそれを吐きだしてしまうところを靴子に見られることがどうしてもいやで、花びらはその薄皮をそのまま飲みこんだ。夢のなかでも、わたしはおなじように目を覚ましていた、と靴子は言った。花びらちゃんがわたしの焼けただれた指先の焦げを水ですすいで、表面にこびりついて焦げを落として、そのおくからあらわれた桃色の肉をやさしくなでてくれていた、花びらちゃんがなでるだけでわたしの指先の肉の表皮はゆっくりと回復され、そのおくでとぎれてしまった神経と繊維もふたたび接合されていっていた、わたしのなかでその静かな回復はあたたかな光にも似た祈りのようなかたちとしてあった、頭のなかに白くとうといものが生まれて、それがわたしのこころをどうしようもなく気持ちよくさせていた、ありがとう、花びらちゃんはやっぱりやさしかったんだね、とわたしは夢のなかで花びらちゃんに言った、わたしが笑うと花びらちゃんも笑い、わたしの前髪をやさしくなでてくれた。花びらはコップのなかにひたしていた手をぬきとり、その手で靴子の前髪をそっとなでた。花びらの指先からたれた水滴がひとつ、ふたつ、靴子の額に降りかかってその表面でまるまり、かすかな空気の震えのなかでしとしとと揺れてかたちをくずして鼻すじまで流れた。靴子はコップのなかにひたしているほうとは反対の腕を持ちあげて顔を拭い、はにかむように笑った。そのあと、教室のかたすみでわたしたちのことをずっと見つめていた、あの、まるでしゃべらない兵士のひとが銃を手にとってたちあがって、教室の床のうえをすべるように歩いた、床は愛おしいほどに光っていて、その兵士のひとが歩くごとにその歩みにあわせて空気中の粒子がきらきらと舞いあがった、その兵士のひとはねむっていたふたりの兵士のひとの頭に銃口を向け、ひきがねをひいた、兵士のひとたちの頭が爆発して、かつて頭があった場所を中心として血と肉と骨のかけら、そして、髪の毛のひとすじひとすじが光に照らされてきらきらと輝きながらはじけていった、そのうちのいくつかは隆春くんの死体の血と肉と骨のかけらとまざりあってしまって、わたしには、もう、どれがだれの身体だったのかわからなくなってしまった、あとにのこされたいちばんおさない兵士のひとが、なんでですか、とさけんだ、おさない兵士のひとはふたりを殺した兵士のひとを見て、それから眉をよせてうつむいた、そのひとの姿をまっすぐには見られないみたいで、その姿はわたしから見てもとても痛々しいものだった、ふたりを殺した兵士のひとはおさない兵士のひとのかたわらまで光のかけらをぽろぽろとこぼしながら歩いていって、そのかたわらにたつと、おさない兵士のひとのこめかみに銃口をつきつけた、ずるいですよ、とおさない兵士のひとは言った、まるであなただけがこの子たちをほんとうに愛してしまったみたいだ、ふたりを殺した兵士のひとは顔のかたちをひとつも変えることなくひきがねをひいた、おさない兵士のひとの頭も爆発してなくなって、血と肉と骨のかけら、そして髪の毛のひとすじひとすじが床にぺしゃりと落ちてよろこびにもだえるようにひくひくと痙攣していた、その兵士のひとは銃を持ったままわたしと花びらちゃんのまえに座りこんだ、わたしたちはその場所で深い孤独を抱えこんだままうつむいていた、それまでつながりあっていたわたしと花びらちゃんのこころもたやすくはなれてしまったように思えて、とてもこわかった、それなのに、そのひとが目のまえにたったときにそのひとが放つ感覚はとてもあたたかかった、夏よりもあたたかなものがそのひとの身体からわきたっていて、そのことにわたしはただただうちひしがれていた、やがて、わたしはなにかを愛したいと思うようなやりかたで顔をあげた、わたしの顔とそのひとの顔が向かいあい、わたしの目の高さとそのひとの目の高さが完全なかたちで一致した、そのひとの深い瞳のなかにわたしの瞳がうつりこみ、その瞳のなかにそのひとの瞳がうつりこみ、そしてそれがどこまでもどこまでもつづいていた、その永遠の果てにわたしはすべてが青色に染められた広大な海を見ることができた、陽の光はどこにもないのにその光景すべてがまぶしいほどに輝いていた、空と海の境界は青色の淡さをともなってにじんでいた、その海のうえに銀色の舟が浮かんでいるのが見えた、どこからか降りそそぐすべての陽の光をうけその銀色の舟は海面をゆっくりとけれどちからづよく進んでいた、わたしはその舟を知っていた、それはどこかへと向かう舟ではなく、かつてこの国へやってきた方舟だった、かつてその方舟のなかにはすべてのいきものの雄と雌がのりこみ、新鮮な希望を胸に抱いてこの国へとゆっくりと進んできたんだ、その方舟からわたしたちもまた生まれたんだということをわたしは知っていた、そして、この兵士のひとたちもまた、かつてこの方舟にのっていたんだ、俺の目を見ろ、とそのひとは思った、そのひとがそう思ったということをわたしは知った、俺の目を見て、俺のぶりきのこころのなかを見るんだ、そしてそのひとはゆっくりとひきがねをひいた、弾丸が回転をしながらそのひとのこめかみの皮膚をえぐった、そしてゆっくりとそのうちがわにはいっていくと、弾丸がなかにはいりこんだぶんだけさっきまでそこにあったはずの肉と血と骨がそとがわにえぐりだされていってしいたげられた光のようにはじけて飛んでいった、弾丸はなおも血と肉と骨をつぶし、そしてえぐりながらもそのひとの頭のなかを這いすすんでいった、そのひとの神経が、記憶が、郷愁が、愛のかたちが、ゆっくりとけずりとられていくのをわたしは見ていた、そのひとの頭のなかにうらがわの空間がひろがり、それは世界を一瞬で反転させては滅んでいった、弾丸はそのひとの反対側のこめかみから飛びでて窓枠にあたり、すぐに錆びた、そのひとの銃を持った手がゆっくりとさがり、ふやけた脳漿をのせて流れる血液がわたしたちの裸足のつまさきを濡らした、血はちいさくひろがって、わたしたちはその顔の表面にどこかあたたかな祝福を感じてすらいた、それは、わたしが夢が見たそのできごとは、わたしたちが夏休みの教室に監禁されてから10年後のできごとだった、わたしはゆっくりと教室のなかでたちあがり、わたしたちがまったくむだにすごしてきたその時間の流れのなかにたやすく消えていってしまったかつてのわたしたちの身体の断片たちを惜しんだ、わたしの腕は骨のようだった、わたしの唇はかわききっていて、舌のうえには緑色の黴が生えていた、髪の毛はろうのような脂でよごれていて、蜘蛛が這いまわってはたまごを生みつけていた、たまごたちはその瞬間にも幾億回もの孵化をくりかえしてわたしの頭皮を餌だと思って食べあさっていた、陽の光に照らされた床がとてもまぶしくて、とてもきらいに思った、わたしのなかにわずかにのこっていた栄養分を食べてわたしの身長はすこしだけのびていたけれど、腐りかけた犬のような服のなかでその身体はとてもかわいそうだった、ねえ、花びらちゃん、とわたしは言った、なにかな、と花びらちゃんは言った、わたしはこういうことをとてもいやだと思うよ、うん、わたしもとてもいやだと思う、わたしたちにはもう生きている価値がなんにものこっていないね、ねえ、靴子ちゃん、わたしはそうは思わないよ、わたしの足のなかで骨がぱりぱりと音をたてて壊れていった、こまかな範囲で骨のかけらが静かな冬の雪のようにかかとのなかに降りつもっていって、その足のそとがわにはわたしの頭部からぬけおちた髪の毛がはらはらと降りつもっていった、わたしのかたわらでわたしを見あげている花びらちゃんの目が赤くおちくぼんでいて、かなしかった、ねえ、それでもわたしたちは生きているんだよ、と花びらちゃんは言った、でも、こんなふうになってしまったんだよ、とわたしは言った、花びらちゃんの身体はわたしの身体みたいに壊れきってしまっていないからそんなことが言えるんだよ、ねえ、花びらちゃん、わたしはいまわたしがたっているかどうかもわからないんだよ、わたしの足にはもう感覚がないんだ、わたしの指先は電線のあいだに消えていく魂みたいだ、なんだか白くおおきな繭のなかにいるみたいなんだよ、目がかすんでなにも見えないんだ、深い井戸のおくそこに落ちてしまったみたいに寒いんだ、頭のなかでつたない電気がひゅるひゅると流れていくんだ、ねえ、花びらちゃん、わたしはこんなふうになってしまったんだよ、わたしのいまの状態はもう生きているなんてとても言えるような状態じゃないんだよ、わたしにはもうわたしたちのなかで笑うこともできない、ねえ、わたしはもうなにもうれしくはないんだよ、あの兵士のひとたちから解放されたのに、なんだかわたしは最初からここにはいなかったみたいな気持ちがするんだ、ねえ、花びらちゃん、わたしたちはこの場所でこれからいったいなにを思えばいいんだろう、とくべつな場所でなにかを思うということはほんとうにとうといことなのかな、ねえ、わたしにはもうわからないんだよ、花びらちゃんは骨のように教室のなかにたちつづけるわたしを見つめて、それからゆっくりとうつむいた、譲くんがわたしのかたわらで目を覚まし、わたしの顔を見てそれから顔をふせた、わたしのなにもかもがすりきれ、ちぎりとられてしまったように感じた、あたたかな陽の光がそれでも教室に射しこみつづけていた、光たちは窓枠で屈折をしながらさまざまな角度でわたしをとりまき、わたしの身体をつつみこんでいた、けれど、それでもわたしの身体はまるであたたまりはしなかった、やがて、譲くんが顔をあげて、ここをでよう、と言った、こんなところにいてもしかたがない、譲くんがわたしの身体を背負おうとしたけれど、花びらちゃんは譲くんにわたしの身体をさわらせなかった、花びらちゃんがわたしの身体を背負うとそれでもよわりきった身体のうちがわでいくつかのものが砕ける音が聞こえた、わたしは花びらちゃんにわたしを背負うことをやめさせようとしたけれど、わたしの身体はまるで動いてはくれなくて、わたしのくちから漏れでるものはただの吐息だけだった、校舎からそとにでても、世界中の子供たちの死体の山をのりこえなければいけなかった、子供たちの死体の山はあまりにもうずたかく積まれていて、がんばって見あげてもてっぺんが見えなかった、それでも、譲くんも花びらちゃんもその死体の山をのぼることをいとわなかった、子供たちの死体は夏の光をうけてぐずぐずになっていて、すこし踏みこむたびにずるずるとすべった、身体ごと倒れこんでしまうとそのまま斜面をすべりおちてしまうから譲くんと花びらちゃんはずっと手をにぎりあっていなければいけなかった、子供たちの死体と死体のあいだを血が流れ、ときどき、それは深い山のわき水のようなきよらなかなありかたをしていた、その山をのぼるわたしたちを子供たちのがらんどうの瞳が見つめていた、その瞳たちは濃い黒色をしていた、それでも、その瞳たちはわたしたちをにくんではいなかった、その黒色のなかにかすかな救いの色彩をのこし、わたしたちの解放をよろこんですらいた、花びらちゃんと譲くんはそのよろこびのなかで何度もむせかえっていた、子供たちの死体の山をのぼりきるまでまた何年もの時間がかかった、数えきれないくらいの夏の光を浴び、遠い夕暮れに憧れ、夜空を見つめながら星の数をかぞえた、死体の山をのぼっているあいだ、譲くんは花びらちゃんにあやまりつづけていた、殴りつけてわるかった、あれはぜんぶ俺がわるかったんだ、許してくれ、もっとたくさん俺のことを殴ってくれていい、それでも許す気持ちになれなければ俺を殺してもいい、俺はどんなやりかたであれおまえに謝罪したいんだ、けれど、花びらちゃんは譲くんのその謝罪をすべて無視していた、唇をかたくむすんで、首すじから汗を流して、その言葉になにもかえしはしなかった、そのかぼそい糸のような言葉のやりとりのなかで、わたしはわたしたちがそれぞれのやりかたでおたがいのことを愛しているように思った、けれど、どれだけ愛したところでその愛しかたはわたしたちが昨日愛したそのやりかたとまるでおなじだった、その時間のなかでわたしたちがこれまでとはちがう気持ちを抱き、ちがう愛しかたをできたと思えたことはいちどもなかった、そして、実際にそうできたことはいちどもなかった、わたしたちが子供たちの死体の山のてっぺんにのぼりつめたとき、空はわたしが見たなかでいちばん青い空だった、雲ひとつなく、いちように繊細で淡い色がどこまでもどこまでもつづいていて美しかった、その空の色のなかに抱かれて死にたいと思えるような青空だった、子供たちの死体の山のてっぺんでは隆春くんが死んでいた、これはただの俺の身体だよ、と隆春くんは言った、これは俺の身体にのこされた俺の思い出が言葉を放っているだけだよ、俺のこころと魂はもう遠い場所にいってしまったんだ、俺はもう再生されることなく、溶けてこの惑星のいちばんたいせつな部分とまじりあっていくんだ、俺たちはこれからどうすればいいんだろう、と譲くんが言った、この死体の山を降りたところには海がある、と隆春くんが言った、その場所にはやがて方舟がやってくるだろう、おまえたちはそれにのっていくんだ、その方舟がいきつくさきは俺がいきつく場所とはちがう場所だ、おまえたちはその場所へいけばいい、その場所でおまえたちがかつて生きることができなかった時間を生きるんだ、おまえはいっしょにこないのかよ、と譲くんは言った、おまえたちだけでいくんだ、と隆春くんは言った、俺はもう死んでいて、おまえたちはまだ生きているんだ、なあ、おまえたちはそのことに気づいていないかもしれないけれど、それはもうそれだけでとうといことだ、心配するなよ、世界中の子供たちがおまえたちのことをちゃんと愛しているよ、わるい時間は終わったんだ、これから、おまえたちにはおまえたちにとっていいことしかおこらないよ、おまえたちはこれからなにもかもがうまくいくようになるよ、もうこれ以上かなしいことはおこらない、もうこう以上おまえたちが傷つくようなことはなにもおこらないんだ、その瞬間、隆春くんの死体からふたつの手がのびて譲くんの足首と花びらちゃんの足首をつかんだ、わたしたちは世界中の子供たちの死体のまんなかに倒れこみ、血と肉に流され、ゆっくりと斜面をすべりおりていった、わたしたちがつぎに目を覚ましたとき、目のまえには海がひろがっていた、美しく、おだやかな海だった、彼方の水平線は空とまざりあい、水面は太陽の光を反射してわたしたちの顔を四角い光線で焼いていた、海は透明な色をしていた、わたしが這って水面に顔を近づけてみると、その海のなかにかつてそこにあった街がそのままのかたちで沈んでいるのが見えた、祝福をうけたあたらしいいきものたちがそのなかでたくましくやさしく泳ぎ、そのいきものたちのあいだでにんげんの大人たちの幾億もの死体が溶けながらただよっていた、にんげんの大人たちの死体からは魂がぬけ、それは海のなかで淡い白い光で輝きながらわたしたちから遠い場所に向けて泳いでいった、太陽の光のいくすじかがたばになって海のなかに射しこみ、あたらしいいきものやかつての魂たちを照らしだしていた、わたしたちは波うちぎわに座りこみ、そこにたつさざなみを静かにながめた、それはわたしがいままで見たなかでもっともこころをうつ光景だった、けれど、わたしはそのことには気づいていなかった、靴子、と譲くんがわたしの名前を呼んだ、わたしは顔だけを譲くんのほうに向けて、かすかに微笑もうとした、わたしの顔から唇がぽとりと落ちて波にさらわれていくのが見えた、最後かもしれないから言うけれど、俺は靴子のことを愛していたんだよ、と譲くんは言った、ありがとう、とわたしは言おうとした、けれど、わたしは譲くんに愛されたとしてももうそのこともわからないんだよ、わたしはそう言おうとして、でも言えなかった、譲くんはわたしのかわりみたいにすこしだけ微笑み、やがてたちあがってわたしと花びらちゃんのもとからすこしずつはなれていった、譲くんの背中のかたちがその服のうらがわからもりあがって見えた、服に浮かんだその骨のかたちが翼のようで美しいとほんとうに思った、のこされたわたしと花びらちゃんはその場所で海をながめつづけた、空と海のいちばん遠いところを真っ青な鳥が飛んでいた、その光景のいちいちがまぶしく、わたしたちをたいせつにあつかっていた、花びらちゃんがそっとわたしの手をにぎった、そのなかでこまかく鳴りつづける骨の音をわたしは波の音とまぜあいながら聞いていた、ねえ、と花びらちゃんは言った、うん、とわたしは言った、わたしは永遠を見つけようとしていただけだったんだ、と花びらちゃんは言った、でも、そんなものはどこにもなかった、わたしが永遠を見つけようとしたことで、隆春くんも、譲くんも、そして、靴子ちゃんも傷つけてしまった、傷ついてなんかいないよ、とわたしは言った、わたしは花びらちゃんが永遠を見つけようとしたことをうれしく思ったんだよ、わたしは、と花びらちゃんは言った、わたしは靴子ちゃんを傷つけようとしてきただけなのに、どうしてそんなことを言うんだろう、だって、とわたしは言った、だって、花びらちゃんはそれでも自分をやさしいにんげんだと思ってはいないから、ちがうんだよ、と花びらちゃんは言った、わたしはほんとうにやさしくなんてなかったんだ、でも、ほんとうはわたしはだれかにやさしくしたいって思っていたんだ、いいんだよ、とわたしは言った、花びらちゃんはただそれをやさしさだと錯覚していないだけだったんだよ、やがて、空と海の間から銀色の舟がやってきた、舟は音もなく水面をすべり、ゆっくりとわたしたちのほうへ近づいてきていた、けれど、わたしはその舟がわたしのもとへやってくるまえにわたしはこの夢から覚めてしまうだろうということを知っていた、舟の姿をみとめた譲くんがかるく跳ね、舟に向かっておおきく手をふっていた、その手の動きと光線をさえぎって鼓動するその残像がわたしになんらかの愛おしさを思いおこした、わたしのとなりで花びらちゃんがわたしの手をつよくつよくにぎりしめた、わたしはしあわせを感じた、わたしはわたしが愛されていることを感じた、わたしが夢から覚めたあともその手がはなされないままであればいいとわたしはしんから思った。花びらはコップのなかで靴子の焼けただれた指先にできた白いかたまりをつぶした。水のなかでそのかたまりのなかの濃く透明な液体があふれ、それがすこしだけ水の見えかたをゆがませていた。靴子は痛いとは思わなかった。白いかたまりのやぶれめのまわりを花びらは指先の繊細の部分でていねいになぞりつづけた。ねえ、花びらちゃん、と靴子は言った。花びらはなにも言わないで靴子の顔を見つめた。わたし、わたしのいちばんふるい記憶を思いだしたんだ。なにかな。花びらちゃんとふたりで海をながめている記憶だ、ねえ、それがわたしのなかにあるわたしのいちばんふるい記憶だったんだ。うん、と花びらはつぶやいたけれど、それきりなにも言わないでただていねいに靴子の指先をなでつづけた。靴子はただそこにだれかやさしいひとがいるという感触だけで気持ちがよくなれた。夏の陽射しはけだるく、身体中のたいせつなものが見えない液体となって流れおちていくようだった。目のまえに白いちかちかとしたものが浮かんでは消え、それがこころのおくそこにはいりこんでくるのをじっと待ちつづけた。頭のしんが痺れるような感覚が断続的にやってきていた。つかれているみたい、と靴子はつぶやいた。ねむっていいよ、と花びらは言った。どこかへいってしまわないよね。いかないよ、と花びらは言った。わたしは靴子ちゃんのかたわらにいるよ。靴子はゆっくりと目をつむった。靴子が目をつむってからもなお花びらは靴子の指先をなでつづけた。さっきから、とてもたくさんの白いかたまりをつぶしてしまっていた。コップの水面に薄い膜がはっていて、その膜をとおして見ると靴子の指先はとても肥大して見えた。夏の空気の揺らぎをうけて光の放射はとまどい、水面に白くこまかい粒子をちらつかせた。そのちらつきをながめていると花びらもすこしだけねむくなったような気持ちがした。花びらはそれでもなお靴子のねむった顔を見つめながら靴子の指先を洗いつづけ、やがてそうしながらも自分の身体を靴子のかたわらに横たえた。白い天井が見えた。知らない天井みたいだった。射しこむ光の部分たちがところどころ拡大され、天井の部分をゆがませ、淡くさせていた。そして、花びらは靴子の指先をコップのなかで解放して目をつむった。目をとじてしばらくしてからもまぶたのうらがわに白い光がのこりつづけていて、それはまるでだれかの亡霊のようだった。けれど、それもやがて消え、暗闇がやってきた。暗闇は白い光のうえに敷きつめられた花のかたちをしていた。でも、あまりにも暗くて花びらにはそのかたちがそうだと認識することはできなかった。遠く水滴がたれる音、光が教室のなかに射しこむときの些細な波動の音が聞こえた。光にさらされた額に汗が浮き、それが髪の毛の生えぎわまでつたった。おだやかで平和だった。校庭を埋めつくして山となって盛りあがった幾億もの子供たちの死体からつぎつぎと魂がぬけ、中空にただよいはじめていた。魂たちはぬけたばかりでまだ血の気をのこし、薄い赤色に光りかがやいていた。たがいにぶつかりあい、その身体をちぎりあい、融合し、そして分離しながら魂たちはすこしずつ天国までのぼっていった。地上にのこされた子供たちの死体はぐずぐずと溶けだし、透明なねばついた液体に変わっていき、そして、その液体のなかにあらかじめ流されていたたくさんの血がまざりあった。液体となった子供たちの死体もまた薄い赤色に染まり、巨大な死体の山はその根もとからすこしずつくずれていった。やがて、校庭のうえにひろい海が生まれ、その海のうえで肉片や骨、そして魂たちから落とされた糞たちがあたらしいいきもののようなふりをしてぴちぴちとのたうちまわっていた。美しい歌が聞こえた。歌は、子供たちの身体がたがいにまざりあい、それでもほんとうにはたがいをうけいれることができないそのこころとこころがこすりあってたてた悲鳴だった。それはひどくおだやかな旋律だった。世界中の見えない獣たちがその旋律に慰めを求め、そのごく一部でもいいから舐めとろうと舌をのばしあった。けれど、つきだした舌はそのそばから腐ってぬけおち、獣たちの身体とこころをすこしずつ痛くしていた。花びらも靴子も、それらの光景や音楽とはまるで無関係な場所に横たわっていた。それでも、ふたりは生きていくことができていた。わずかな時間のあと、まぶたのうらがわを指先でよわくおされて花びらは目をひらいた。目をひらくと、その目のひらきにあわせて朝がおくれてやってきたように感じられた。さきにひらいた左目がうつしだす視界にぶれた黒肌色がうつりこみ、その向こう側にルカの顔が浮かんでいた。ルカの手のひらにはすこしだけ体温がこめられていて、花びらの鼻先にかすかに彼の吐息があたって湿らされていた。ルカは笑っていた。花びらが右目をあけようとしても、それは変わらずにルカの指先によっておさえられつづけていて、そのまぶたの皮いちまいをとおして彼の手のなまなましさを感じつづけた。ねむっているところをおこしてわるいね、とルカは言った。ねむってなんかいなかったよ、と花びらは言った。ルカはもういちど笑いなおしてから花びらのまぶたから指先をはなした。眼球の表面に腐ったにごりのようなものが浮かんでいて、それがいやで花びらは目をつよくこすった。舌のうえに糠がいくつかの分断をはらんで浮きでてはぼろぼろとくずれていった。にわとりがたまごを生んでいたよ、とルカは言って薄い木の色のたまごを見せた。ルカはおや指とひとさし指となか指でたまごの下腹部をつまみながら指たちをなめらかに動かしつづけていて、その動かしかたにそってたまごは花びらの目のまえで惑星のようにゆっくりと回転していた。表面には月のくぼみにも似た黒い染みがときどきうつりこんでいたけれど、それは花びらの視界のなかでは花びらの眼球にはりついたにごりとあまり変わりはしなかった。両手をだしなよ、とルカは言いった。花びらは言われるとおりにした。さしだされた手のひらから生えている花びらの小指と小指はときどきひどい揺れをはさみながらも継続的にこまかく揺れ、そのときどきの瞬間にくっついたりはなれたりしていた。ルカは執拗に微笑みながら、それではこぼれてしまうよ、と言ってたまごを持っていないほうの手でそっと花びらの指先たちの先端をつぶすようににぎりしめ、花びらの震えをとめた。それから、すこしだけ時間が流れた。ヨハネさんにもマタイさんにも、きみの友達にも、秘密だよ。ルカはそう言ってコップのふちで殻にひびをいれた。そして、花びらの手をはなして両手で殻をつよくおしひらき、花びらの両手のなかにたまごの中身を落とした。薄くにごった白身はひとつの魂として花びらの両手のなかにどろりとひろがり、その中心で黄身が少女の唇にも似たかたちでたゆたっていた。花びらの指と指の隙間に白身がはいりこみ、ゆっくりと、けれど確実に花びらの指のうらがわにまわり、そして耐えきれなくなると床のうえに落ちていった。食べなよ、とルカは言った。ほかのひとがおきてきてしまわないうちに、はやく。どうしてわたしにくれるんだろう。だって、にんげんはにんげんを食べてばかりはいられないから。ルカは花びらを見つめ、そのいっぽうで花びらは白身の中心を見つめていた。黄身は宇宙のまんなかで静止していて、白身が静かな流れのなかでうごめいていくその微細なうつりかわりのなかでゆっくりと沈みつつあった。朝の光のほんのひとすじが花びらの手のそのしたにある床にまでのびていて、その光はあとほんのすこしの時間の経過で花びらの足のさきに達するだろうけれど、それでもそのひとすじの光がただちに花びらの足のさきをあたためるわけではなかった。花びらは唇をまえにつきだして白身のさきにつよく吸いついた。息をつよく吸うと白身はつるつると花びらのくちのなかに吸いこまれていって、そのふれかたの濃さに花びらはほとんど感動していた。花びらの頬が震え、鼻のおくそこにつんとした痛みが走り、目のおくのしたがわずかに熱くなるのをほんとうに感じた。どうして自分が泣こうとしているのかわからなかったけれど、その感情は花びらをとまどわせるようなありかたはけっしてしていなかった。感情は言葉よりも先行してやってきていた。感情は花びらのくちのなかでふくれあがり、その余波が花びらの顔面のあらゆるうちがわを揺さぶっていた。白身は喉のおくそこでほんの一瞬だけとどまり、あとは、ひどくゆっくりと心臓のある方角へ向けて落ちていった。白身のなかに花びらの髪の毛のいくすじかがつかり、花びらはその髪の毛の何本かもいっしょにすすっていた。べとついた髪の毛は花びらの頬や唇にからみついてはりつき、もうそこからは動かなかった。あとにのこったのはべとつきをのこしたまま薄くひろがった白身と、その中心でいまだ壊れないままのこりつづけていた黄身だった。靴子ちゃんをおこして、と花びらは言った。どうして、とルカは言った。この黄身は靴子ちゃんに食べてほしい、わたしはもう食べてしまったから、あとは靴子ちゃんにあげたい、わたしはばかだ、食べすぎてしまった、白身だってはんぶんくらい食べてやめるべきだったのに、白身ののこりは譲くんにあげて、黄身のぜんぶを靴子ちゃんにあげるべきだったのに。そんな考えはやめたほうがいいよ、きみははやくのこりの部分を食べたほうがいい、水を持ってきてあげるよ、そうしたらきみはそのなかで手を洗ってなにも食べなかったふりをするんだ、それに、そのたまごはきみにあげたものできみの友達にあげたものじゃない。わたしがもらったものならわたしがどうしたっていいはずだよ。僕もそれをつよくとめるつもりはないよ、けれど、僕の考えではきみのその考えはきっときみをふしあわせにしてしまう。ルカは花びらとのとなりに横たわっている靴子と譲に目をやった。光は角度を変えて靴子のふともものふくらみをやさしく照らしていた。スカートがめくれあがってそのふともものつけねについている下着が見えていた。花びらははじめて靴子の下着が見えてしまっていることに気づいてそれをスカートでおおってあげたいと思ったけれど、両手はたまごの白身と黄身につかわれてしまっていてどうしてもむりだった。かわりにルカが靴子のスカートにふれてそっと下着をおおった。靴子も譲も死体みたいだった。それはあなたにとってのわたしのふしあわせだ、と花びらは言った。わたしが思うわたしのふしあわせとはありかたがちがう、わたしのことをなにも知らないのに、わかったようなことを言わないでよ。たしかに僕はきみのことなんかなにも知らない、でも、それがどうしたっていうんだろう、そんなことは関係ない、僕は僕が見て話をしてきたきみについて僕が思える範囲できみに話しているだけだ、僕は僕なりにきみがしあわせになれるように思って行為しているだけだ。あなたがわたしにおこなうあらゆる行為がわたしが思うわたしのふしあわせにつながるんだよ、あなたはそうあるようなことをわたしたちにしたんだ、なにをされたとしてもわたしはあなたたちをにくむよ、そして、これからもつよくつよくにくみつづけるよ。どうだろう、きみはそのことをわかっていると思うけれど、ひとをつよくにくしみつづけることはこんな状況下においてもとてもむずかしいことだよ、もしもきみたちさんにんともが生きてこの場所からでることができたと仮定したとしても、何年かたてば、あるいはたった何ヶ月か、何日かあとでさえも、きみたちのなかであの男の子やきみたちを救おうとした世界中の子供たちが殺されたという記憶はただの思い出としてきよめられてしまうだろう、やがて、きみたちはこの教室のなかですごしたこの時間のすべてをわるい夢だったと思いこんでしまうだろう、あのできごととあの時間は夏休みのいちにちに見たわるい夢だった、きみたちはそう思いこみ、そしてそのことについてきみたちは涙を流すようにすらなってしまうだろう。わたしはそうじゃない。うん、あるいはきみはそうなのかもしれない、でも、きみの友達たちはきっとそうじゃないだろう、きみのとなりでねむっているその男の子も女の子も、きっと、すぐにあの男の子や子供たちが殺されたということを思い出や夢として生きていくようになるはずだ。わたしがそれをさせない、譲くんはむりかもしれないけれど、靴子ちゃんにだけはわたしがそうさせない、わたしが靴子ちゃんににくしみを植えつけつづけるよ、あなたたちが隆春くんを殺したっていうことをわたしは毎日だって靴子ちゃんに言いつづけてやるんだ、それはぜったいに許すことができないことだ、わたしたちはあの兵士たちに復讐してやるんだ、どんな手段をつかってでも今度はわたしたちがあの兵士たちを殺しにいくんだ、わたしはそれを靴子ちゃんに毎日だってつたえつづけるよ。やめたほうがいい。どうして。だって、それはあわれなことだ、そんなものはただのきみの自己満足にすぎない、きみがもしもほんとうにそれをやりつづけたとしたら、きみはきみの友達をふしあわせにしてしまうことになるよ、それに、それはもう友情でも愛情でもないよ、それはただきみのその子にたいする支配でしかなく、洗脳でしかないじゃないか。知っているよ、と花びらは言った。かなしかった。知っていても、やるんだ。きみはその子ににくしみを植えつづけることできみのなかのにくしみをたもとうとしているだけだよ、きみはだれかににくしみをふりまかないと自分のなかのにくしみが風化してしまうように思えてしまうことがこわいだけだ、けっきょくのところ、きみはきみのなかの恐怖に耐えられないと感じているだけだ、そんなことできみはきみの友達を犠牲にするべきじゃない、きみはそこまでわかっていながらどうしてその子に犠牲をしいるんだろう、そのことにいったいどんな意味や価値があるんだろう。意味や価値なんていう問題じゃないよ、わたしはわたしのなかやわたしの友達のなかでいまおこっていることのせつじつさをたもとうとしているだけだ、結果的にそれが靴子ちゃんに犠牲をしいることであったとしても、わたしたちにとっての、わたしたち程度のにんげんにとってのせつじつさなんて、もうそれでせいいっぱいなんだよ、わたしのことをあわれだと思うならあわれと思えばいいよ、ばかにしたっていい、でもわたしたちにはもうそのくらいのことしかできないんだよ、わたしたちにはわたしたちの友達を殺されたことをにくしみつづけることしかできない、わたしたちのせつじつさはそんなかたちでしか発露されないんだよ。あわれだよ、とルカは言った。それはやっぱりあわれなことだ、きみたちはもっとべつの時間を生きたほうがいい。べつの時間なんてないよ、と花びらは言った。わたしたちはほかにどうすることもできないんだ、ねえ、わたしたちはいったいどうしたらいいんだろう、時間の経過や戦況の変化によってわたしたちは和解しあえばいいのかな、ほんとうにそうなのかな、10年後にめぐりあったとき、あなたたちはわたしたちに謝罪をするのかな、あのときはすまなかった、あの男の子を殺したのはたしかに僕たちだけれど、僕たちだってそうしようと思ってやったわけじゃない、あれは戦争という状況が僕たちにそうさせたんだ、ひきがねをひいたのはたしかに僕たちだ、でも僕たちにひきがねをひかせたのは戦争でありきみたちだ、もう戦争は終わった、僕たちはきみたちにこころから謝罪する、ほんとうにすまなかった、だから、きみたちも僕たちを許してほしい、きみたちが僕たちをつよくにくしみつづけてしまったらまたべつの戦争がおこってしまう、きみたちが僕たちをにくみ、そのにくしみが僕たちではないべつの兵士たちにあたらしいひきがねをひかせてしまう、もう僕たちはうんざりなんだよ、にくしみの連鎖をここでとめようじゃないか、僕たちはにくしみの連鎖をとめるためにきみたちに謝罪しにやってきたんだ、ねえ、わたしは、もしもあなたたちがそう言ったとしたら、それを言ったあなたたちを許してしまいそうになってしまうような気がする、世界の平和ということを言いわけにしてあなたたちを許してしまいそうな気がする、わたしはそれがいやなんだよ、わたしはあなたたちを許すことでまたあたらしい戦争がおこってしまう気がする、わたしは、世界の平和なんかよりもあなたたちを許さないというわたしのありかたのほうがずっとずっとたいせつなんだよ。わかったよ、とルカは言った。きみのしたいようにすればいい、それでもきっと、僕たちは10年後にきみたちに謝罪しにいくだろう、僕はきみがいま言ったことをそのまま覚えておくよ、10年後、ほかのさんにんが賛同してくれなくても、僕ひとりだけでもきみにきみが言ったせりふをそっくりそのまま言いにいくだろう、それをわすれないでくれ、僕もきみのことをぜったいにわすれない、きみがどこにいても探しだしてきみにきみが言ったせりふを言いにいくだろう。いいよ、そのとき、わたしと靴子ちゃんが、あなたを殺すから。ルカをすっと手をのばして花びらの頬に手をふれようとした。一瞬だけ、ルカは花びらにとても愛されているような気がした。ひとつだけ聞いてもいいかな、とルカは言った。うん。たとえば、僕がきみの友達を殺したというその事実だけで、きみは僕を蔑むことができるだろうか。できるよ、と花びらは言った。くだらないことを言わないでよ。そうか。ルカは花びらの頬にのばしかけていた手をひいて自分の胸にあてた。そのうちがわで心臟がことことと音をたてて動いていた。靴子ちゃんをおこして、と花びらが言った。ルカは手をのばして靴子の肩を揺さぶった。靴子の肩から背骨にかけてまでの場所が震え、それからわずかな角度だけゆっくりと回転した。いままで顔のすべての部分が光にさらされていたけれど、その回転によって靴子の顔のはんぶんが影になった。唇のはしについていた唾液がこぼれおち、朝の光を浴びて光った。おれまがったいくつかの髪の毛が靴子の顔面に降りかかり、身体が回転していくたびに肩にはさまれてぴんとひっぱられた髪の毛がするするとぬけていった。もっと、と花びらが言った。もっとちゃんとおこして。ほんとうにいいんだね、とルカは言った。この子はいま夢を見ているんだ、戦争のない夢を、兵士がいない夢を、1羽の小鳥だったころの夢を、そしてきみの夢を、ねえ、それでも、きみはこの子をおこすことを望むんだろうか、この子の夢を覚ましてしまうことできみもまた夢から覚めてしまうかもしれないよ。いいんだ、と花びらは言った。それでいいんだよ、さっきも言ったように、わたしたちにはべつの時間なんてないんだ。この子をおこすことできみにどんなことがおこったとしても、きみは後悔しないね、とルカは言った。後悔しないよ、と花びらは言った。だからおこして。ルカがさらに靴子の肩を揺さぶると靴子の左目だけがひらき、それからそのまま首からうえだけが持ちあがって中空でとまった。おはよう、と花びらは言った。おはよう、靴子ちゃん、もう朝だよ。靴子はぼんやりとした顔でゆっくりとうなずいた。靴子の顔は光のなかでぼやけていて花びらにはうまくそのかたちを理解することができなかった。それでも靴子の右目もやがてきちんとひらかれた。右目のしたから唇にかけて綿ぼこりがくっついていて、靴子は右手をのばして唇の近くにはりついていたものからじゅんにぺりぺりと剥がしていった。食べて、と花びらは言って両手をさしだした。靴子は両手で髪の毛を梳きながら、どうして花びらちゃんがそんなものを持っているんだろう、と言った。この兵士のひとにもらったんだ、食べて。花びらちゃんは食べなくていいのかな。わたしはもう白身を食べてしまったから。譲くんは。譲くんのぶんはもうないよ、ねえ、譲くんのことは気にしないでよ、わるいのはわたしと靴子ちゃんでこれを食べようとしているわたしで、靴子ちゃんはただ言われるがままに食べただけだから、だいじょうぶだよ。ごめんね。なにが。なんだか、すごくわるいような気がしている。だいじょうぶだよ、靴子ちゃん、靴子ちゃんはこれを食べていいんだよ、なにも気にしなくていいんだ。ルカが殻をポケットにしまってたちあがると同時に、靴子は上半身をかたむけて花びらの手におおいかぶさった。靴子の鼻の頭にたまごの黄身があたり、震えた。においはなにもなかったけれど、鼻にあたったその感触はかつてもっとおさなかった自分の皮膚にとてもよく似ていた。靴子は顔をすこしだけ上向きにしてくちをすぼめて黄身を吸った。黄身は舌のうえにのってつめたくかった。そのまま飲みこんでしまうことが気持ちわるくて歯をつかってその黄身を割った。血液みたいなものがぴゅっとはじけてくちのなかにどろりとひろがり、歯のうらがわにつたう生命のつめたさに一瞬だけ吐き気を覚えた。生命が濃かった。くちのなかのあちこちにその濃さがのこり、舌のさきを歯と歯の隙間までのばしてていねいに舐めとった。靴子の唇の表面に唾液が黄身とまじって光っていた。おいしい、そう言って靴子はすこしだけ微笑んだ。それは、花びらがいままで見たなかでいちばんかわいいと思える女の子の笑顔だった。
                          ―了― 



〈参考・引用〉
ティム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」(村上春樹訳 文春文庫)
ティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」(村上春樹訳 文春文庫)
フランツ・カフカ「審判」(原田義人訳 新潮文庫)
ドストエフスキー「悪霊」(江川卓訳 新潮文庫)
ドストエフスキー「地下室の手記」(江川卓訳 新潮文庫)
サリンジャー「フラニーとゾーイー」(野崎孝訳 新潮文庫)
村上春樹「アイロンのある風景」(「神の子どもたちはみな踊る」所収 新潮文庫)
松田青子「博士と助手」(「英子の森」所収 河出書房新社)
太宰治「トカトントン」(新潮文庫)
西尾維新「きみとぼくの壊れた世界」(講談社ノベルス)
柄谷行人「マルクス、その可能性の中心」(講談社学術文庫)
アンドレイ・タルコフスキー監督「ノスタルジア」
ヴィターリー・カネフスキー監督「ぼくら、20世紀の子供たち」
濱口竜介監督「親密さ(Long Version)」
押井守監督「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」





「文学的」な死

2015.10.07(21:38)

 8月3日(月)

 会社にいった。


 8月4日(火)

 会社にいった。


 8月5日(水)

 会社にいった。


 8月6日(木)

 会社にいった。


 8月7日(金)

 会社にいった。


 8月8日(土)

 ねむっていた。


 8月9日(日)

 トドを殺すな。


 8月10日(月)

 会社にいった。


 8月11日(火)

 会社にいった。


 8月12日(水)

 会社にいった。


 8月13日(木)

 会社にいった。


 8月14日(金)

 会社にいった。


 8月15日(土)

 ねむっていた。


 8月16日(日)

 角がはえてきた。


 8月17日(月)

 会社にいった。


 8月18日(火)

 会社にいった。


 8月19日(水)

 会社にいった。


 8月20日(木)

 会社にいった。


 8月21日(金)

 会社にいった。


 8月22日(土)

 ねむっていた。


 8月23日(日)

 ねむっていなかった。


 8月24日(月)

 会社にいった。


 8月25日(火)

 会社にいった。


 8月26日(水)

 会社にいった。


 8月27日(木)

 会社にいった。


 8月28日(金)

 会社にいった。


 8月29日(土)

 ねむっていた。


 8月30日(日)

 レム睡眠だった。


 8月31日(月)

 会社にいった。


 9月1日(火)

 会社にいった。


 9月2日(水)

 会社にいった。


 9月3日(木)

 会社にいった。


 9月4日(金)

 会社にいった。


 9月5日(土)

 ねむっていた。


 9月6日(日)

 会社にいった。金曜日に課長に、日曜日これる、と訊かれて、はあ、と言ってしまったのが最大の失策だった。日曜日に会社にいくとみんながおかしをくれる。


 9月7日(月)

 会社にいった。


 9月8日(火)

 会社にいった。


 9月9日(水)

 会社にいった。


 9月10日(木)

 会社にいった。


 9月11日(金)

 会社にいった。


 9月12日(土)

 ねむっていた。


 9月13日(日)

 死体のふりをしていた。


 9月14日(月)

 会社にいった。


 9月15日(火)

 会社にいった。


 9月16日(水)

 会社にいった。


 9月17日(木)

 会社にいった。


 9月18日(金)

 会社にいった。


 9月19日(土)

 ねむっていた。
 

 9月20日(日)

 佐藤友哉「デンデラ」を読んだ。


「一つ、質問してもいいか」
「なんだ」
「お前はなんのために生きている?」
「なんのため」何者かは言葉をくり返しました。「そうだな……殴りつけてやりたくて生きているんだろうな」
「誰をだ」
「誰もかれもだ」

 

 主人公は70歳をこえた老婆だけれど、作品の構造的にはどこかしら教養小説のような響きが感じられた。たんじゅんにいってしまえば、この小説は彼女が「言葉」を獲得するまでの過程を描いた小説で、村という絶対的な体制のもとで生きてきた彼女はデンデラで暮らすようになってはじめて「言葉」を持つように強いられる。うえで引用した「何者か」の言葉はきわめて「文学的」だと思う。主人公の老婆にはこういう言葉を放つことはできない。「何者か」の言葉の意味はせいぜい体制だとか理不尽な世界への怒りといった程度のものでしかないかもしれない。でも「文学的」な言葉の意味は解釈によって生成されるものではなく、その意味内容をつきつめていったとしてもなにかがわかるわけではないと思うし、すくなくともわたしはそういう行為に価値は感じない。「文学的」な言葉の価値はそれが発されるということのみによってのみ存在していて、それはけっきょくのところ表現のための表現なのかもしれないけれど、すくなくともわたしたちが無意味だったり無価値だったりしてでもわたしたちが無意味だったり無価値のままで生きていけるような、たとえばそういうありかたをしているように思う。主人公の老婆は最後には死を選ぶ。でも、もちろんその死は彼女が姥捨山に捨てられたような死とはちがう。彼女は「文学的」に死んだんだと思う。


 9月21日(月)

 早稲田松竹にいってジャン・ルノワール「ピクニック」とロベール・ブレッソン「美しい女」を見た。たとえばわたしは「ピクニック」のような映画がリアルなのか、ということはわからない。彼らは現実においてそういうしゃべりかたをしたり、そういう表情をしたんだろうか。ジャック・ロジエ「オルエットの方へ」を見ればたとえばわたしはそこにリアルなものを感じるけれど、そこで感じるリアルさはそこで描かれていることが現実的なものと似ているからだろうという気がする。現実的なものと似ている、というものが一般的にわたしたちが感じるリアルさの基準になっているのであれば、すくなくとも「ピクニック」はリアルではないだろう。けれど「ピクニック」がつまらないかといったらそうでもなく、すくなくともブレッソンの「美しい女」よりは「ふつうの映画を見ている」という気持ちになる。問題は、おそらくはわたしたちがルノワールが「ピクニック」という映画をどういう感覚を抱いて撮っているのか、ということで、たぶん、それはもう失われたものだと思う。いま生きている映画監督のだれが撮ってもおそらくはもう「ピクニック」のような映画にはなりえないだろうと思う。「ピクニック」のなかのひとびとはわたしたちが知っている現実のにんげんのありようとくらべてたんじゅんに見えてしまう。けれど、ルノワールが「ピクニック」のなかのひとびとのようにたんじゅんだったわけではぜったいにない。重要なことは、かりに「ピクニック」のなかのひとたちがにんげんとしてたんじゅんなように見えたとしたら、それはなにによってそう見えているんだろうか、ということだと思う。そして、「ピクニック」という作品が映画としてある以上、それはすべて外面的なものによってそう感じられている、としかわたしには考えられない。わたしたちが「ピクニック」のなかのひとびとのことを想像するとき、おそらくそこに複雑なものを持ちこむのは困難だろう。それは、そう考えることが困難な映像がうつしだされているからという、ただそれだけの理由でしかないだろう。そして、そういう映像を撮るということは現在においてはわたしたちが考えるよりもきっとむずかしいんだろう。ブレッソンの「美しい女」において、あきらかにわたしたちはそこにうつしだされたもの以上のことを考えているはずだ。そしてそれも「美しい女」がブレッソンによってそう撮られているからというだけの理由でしかない。わたしは「ピクニック」をたんじゅんなものとして見たし、そう見る以外にわたしにはおそらくもうやりようはないのだろうけれど、わたしがそう見ているから「ピクニック」というものとしてあるし、だから、映画がスクリーンにうつされているとき、わたしたちが見ているのはわたしたちのまなざしであって、その映画ではないんだろう。
 実家に帰った。ペルー人の話を聞いた。殊能将之「鏡の中は日曜日」を読んだ。
 

 9月22日(火)

 小林泰三「臓物大展覧会」を読んだ。おもしろかった。麻耶雄嵩「鴉」を読んだ。おもしろかった。




感情を欲するという感情

2015.09.20(23:20)

 5月20日(水)

 会社にいった。


 5月21日(木)

 会社にいった。


 5月22日(金)

 会社にいった。


 5月23日(土)

 ねむっていた。


 5月24日(日)

 ふかくねむっていた。


 5月25日(月)

 会社にいった。


 5月26日(火)

 会社にいった。


 5月27日(水)

 会社にいった。


 5月28日(木)

 会社にいった。


 5月29日(金)

 会社にいった。


 5月30日(土)

 ねむっていた。


 5月31日(日)

 ともだちと競馬にいった。快勝した。負けたら生活費がまったくなくなるからいのちがけだった。


 6月1日(月)

 会社にいった。


 6月2日(火)

 会社にいった。

 
 6月3日(水)

 会社にいった。

 
 6月4日(木)

 会社にいった。


 6月5日(金)

 会社にいった。


 6月6日(土)

 ねむっていた。


 6月7日(日)

 さなぎのようだった。


 6月8日(月)

 会社にいった。


 6月9日(火)

 会社にいった。


 6月10日(水)

 会社にいった。


 6月11日(木)

 会社にいった。


 6月12日(金)

 会社にいった。


 6月13日(土)

 ねむっていた。


 6月14日(日)

 友達とSTスポットまでいって山縣太一×大谷能生「海底で履く靴には紐が無い」を見た。海底ではく靴にはひもがないんだなあと思った。


 6月15日(月)

 会社にいった。


 男たちはKを地面に坐らせ、石に凭れかからせ、頭を上向きにのせた。かれらが非常に苦心したにもかかわらず、またかれらの意のとおりにしようとKが努めたにもかかわらず、彼の姿勢は信じられぬぐらい無理のあるものだった。そこで一人の男がもう一人にむかって、Kを横たえる作業をしばらく自分一人に任せてくれと頼んだが、それでも事情はよくならなかった。ついにかれらはKをある状態に置いたが、それでさえこれまでなされた状態のうち一番いいものとは言えなかった。
 ――カフカ/審判


 カフカのこの描写はわたしにはとても簡潔でいて明晰な文章に思えてしまうけれど、それでも、けっきょくのところKがどんな状態におかれたのかこの文章から理解することはわたしたちにはできない。重要なことは、最終的なかたちでさえ不明瞭でありながらそれでもなおこの文章が簡潔さや明晰さを、すくなくともわたしにはつたえるということだと思う。この文章はたしかにある種類のグロテスクなものやぶきみなものをふくんでいるように思えるけれど、でもそれらはたとえばわたしたちが想像するKのかたちからくるものではないように思う。グロテスクだったりぶきみだったりするのは、おそらくはけっきょくKがどんな状態におかれたのかすら描かないでいながらそれを結果として断定してしまっているからで、そしてきっと、そこに描かれていることは「あるものがある」というきわめてたんじゅんな現実性だという気がする。「あるものがある」ということは、その「あるもの」の存在を無条件に断定してしまうことで、たとえわたしたちがKがどんな状態にあるのか曖昧な状態としてしか認識できないでいても、それはもう「あるもの」としてとらえしかないんじゃないかと思う。それは描写がたりていないとかあるはずがないものがあるとかそういう問題以前のきわめて断定的な「ある」というありかたで、わたしたちがおどろくのはただ「あるものがある」という冷徹な事実なのかもしれない、と思う。リアリティ、という言葉が小説だけではなくて創作物全般にたいしてふつうに言われていて、でもそれはたぶん描写のこまかさとかそういうことではなくて、ただ「あるものがある」といういってんにかかわっているように思う。それでも、たいていの場合わたしたちはただそこに「あるものがある」というたんじゅんな事実に自信が持てなくて、そこにたくさんの意味やゆたかな感情を創造しようとしている。わたしにはそれがまちがっていると言う勇気なんてないけれど、それでもそれらの姿勢のうらにはその創作が虚構にすぎない、という意識はあるだろうという気がする。たんじゅんな話として、創作というものをしようとするときの創造過程は、虚構の舞台やひとがあってでもそれだけではだめからそこにたくさんの意味やゆたかな感情で肉づけしていく、というかたちでとらえられるのかもしれない。でもそうやってできあがった舞台やひとはけっきょくは肉づけされた虚構のままなのかもしれなくて、そしてわたしたちがその作品の深さについて語るとき、わたしたちはそうやってつけられた肉の厚さをはかっているだけなのかもしれない、とときどき思う。
 

 6月16日(火)

 会社にいった。
「あるものがある」ということはある種の究極的な断定で、そこにおいて根拠や理由、つまりそれがそこに存在することの意味を問うことに価値はないように思う。だから、というわけではないけれど、わたしは「自分は○○のために生まれてきた」ということにたいしての価値は感じられなくて、それはぎゃくに虚構的なように思う。
 

 6月17日(水)

 会社にいった。
「あるものがある」ということは「そうであるようなものがそうである」ということとはたぶんちがっていて、感情や価値観の絶対化ではない、と思う。絶対的な感情と絶対化された感情はおそらくちがうものとしてあって、感情を信じることと感情の存在を信じることもまたちがうことだと思う。


 6月18日(木)

 会社にいった。


 6月19日(金)

 会社にいった。
 ヴォネガット「ガラパゴスの箱舟」を読んだ。


 6月20日(土)

 舞城王太郎「淵の王」を読んだ。


 6月21日(日)

 夏目漱石「彼岸過迄」を読んだ。


 千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙の何もでなかった。叔父叔母の顔を見てもこれといって憂に鎖された様子は見えなかった。焼香の時、重子が香を撮んで香炉の裏へ燻るのを間違えて、灰を一撮み取って、抹香の中へ打ち込んだ折には、可笑しくなって吹き出した位である。式が果てから松本と須永と別に一二人棺に附き添って火葬場へ廻ったので、千代子は外のものと一所に又矢来へ帰ってきた。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しい位悲しかった昨日一昨日の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀を却って恋しく思った。


 僕は常に考えている。「純粋な感情程清く美くしいものはない。美くしいもの程強いものはない」と。強いものが恐れないのは当り前である。僕がもし千代子を妻にするとしたら、妻の眼から出る強烈な光に堪えられないだろう。その光は必ずしも怒を示すとは限らない。情の光でも、愛の光でも、若くは渇仰の光でも同じ事である。僕はきっとその光の為に射竦められるに極っている。それと同程度或はより以上の輝くものを、返礼として彼女に与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。


 漱石が書いていることはわたしにとってはとてもせつじつなことのように思うけれど、わたしはそれについてはたくさんは書かない。でもそれはたぶん須永が言うようにとてもたんじゅんなことのように思う。
 わたしたちは感情を欲しているし、感情を欲しているということすらもひとつの感情としてあるだろう。そして、感情を欲しているということはわたしたちが求めているその感情よりもはるかに醜く、醜さを通過しないかぎりその感情を手にいれることはできない。
 TS「OtoZ」をやった。


 6月22日(月)

 会社にいった。


 6月23日(火)

 会社にいった。


 6月24日(水)

 会社にいった。


 6月25日(木)

 会社にいった。


 6月26日(金)

 会社にいった。


 6月27日(土)

 TS「OtoZ」をやった。


 6月28日(日)

 TS「OtoZ」をクリアした。もうなんどもやっているんだけれど、ほんとうにいまさら、これ「オズの魔法使い」のパロディなんだと気づいた。
 


 6月29日(月)

 会社にいった。


 6月30日(火)

 会社にいった。


 7月1日(水)

 会社にいった。


 7月2日(木)

 会社にいった。


 7月3日(金)

 会社にいった。


 7月4日(土)

 TS「昴の騎士」をやった。


 7月5日(日)

 TS「昴の騎士」をクリアした。わたしはこれはもう4回くらいやっているけれど、ほんとうにゲームとしてしんそこおもしろいと思う。
 TS「闇鍋企画」がわたしにはわからなくて途中でやめてしまったんだけれど、なんとなく、「闇鍋企画」のようなコンセプトでおもしろいものをつくるのはたぶんむずかしいだろうという気がしている。「魔法少女」にたいして、わたしは「登場人物たちがなにかを考えているから、わたしたちは彼女たちがなにを考えているかわからない」ということを言った。それは、登場人物たちがあらかじめあたえられた設定を踏襲するのではなく、その都度生成されている、という感じをあたえる、ということだと思う。「闇鍋企画」ではたとえばティエラが登場すると、あえて仲間に「毒舌だ」というようなことを言わせる。それはすでに登場人物の生成ではない。「昴の騎士」という作品のなかでティエラ自身がなしとげたことを確認しているだけだ。TSというひとはおそらくは「闇鍋企画」を二次創作というかたちで制作している。そして、たぶんそのことに自覚的なんだろう。だから「闇鍋企画」は物語ではないのだけれど、そういうものをわたしはどううけとめたらいいのかよくわからないままだ。


 7月11日(土)

 エクセシオール・カフェにいってカズオ・イシグロ「忘れられた巨人」を読んだ。そのあとMOVIXで園子温「リアル鬼ごっこ」を見た。全国の女子高生たちが鬼から逃げながらなおぼろぼろに殺されていく話だと思っていたけれど、鬼もいないし、それどころじゃなく鬼ごっこもしていなかった。予告編は鬼ごっこっぽくつくってあるけれど、予告編をつくったひとも、どうしたものかこれ、と思っていたんじゃないかと思う。ほんとう、どうしたものかこれ。


 7月12日(日)

 ドトールにいって前田司郎「グレート生活アドベンチャー」の表題作を読んだ。


 僕がそれでも眠くなって、目を閉じていたら加奈子が言った。
「あのさ、将来に対する不安とかないの?」
「例えば?」僕はよくわからなかったので、加奈子にしゃべらせて、僕も同じだ、と言おうと思った。
「例えばって、例えたら別のものになっちゃうじゃん」
 意味がわからなかった。
「そういうもんなの」
「働く気とかないの?」
「働く気はないよ」
「働かないでどうやって暮らしていくのよ」少し怒っている。
「うん、どうやって暮らしていったらいいのかな?」
「知らないわよ」
「そうか」
「あんたなんでそんなに悩みなく生きられるの?」
「あるよ」
「何よ」
「地球温暖化とか」
 加奈子は黙った。それで、また縫い物を始めた。しばらく続けていたみたいだ、僕は半分眠っていた。
「私、死にたいと思うこともあるよ」
 そんなことを言った。僕は無視するのも悪いと思って一応「なんで?」と訊いた。
 加奈子はながく考えてから「未来が怖い」という意味合いのことを言った。僕は随分スケールのでかい恐怖だと思った。



 このとき「僕」は「僕」自身にも加奈子にも興味を持っていないように見える。「少し怒っている」という文章があるけれど、それは会話文のついでにさらりとつけくわえられた、という程度のもので、「加奈子が怒る」という事象がたんに事象としてしか「僕」にはとらえられていない。「だれかを怒らせる」という行為にはそのだれかを怒らせてしまった、あるいは傷つけてしまったことへの罪悪感とかそれからのやりとりに対する不安な気持ちとかがあるはずだけれど、「僕」にはそういうものがいっさいない。それらの気持ちが人間関係と呼ばれるもののなかで生まれるのであれば、「僕」がこの場面で加奈子にたいしておこっているものはすでに人間関係とは呼べない。


 僕は無視するのも悪いと思って一応「なんで?」と訊いた。


「無視するのも悪い」と思って会話をつづけること、「僕」はそれを加奈子への思いやりととられているように思う。「僕」は「無視するのも悪い」と思って会話をつづけることの本質的な残酷さに目を向けようとはしていない。でも、おおかれすくなかれわたしたちの会話というものはそういうかたちでなりたっていて、それは「だれかを怒らせる」といいうことにたいしての「僕」の気持ちよりもたぶんまだ人間関係的だと思う。重要なことはおそらく「僕」が「僕」として完結していることで、おそらくは「僕」は加奈子が「少し怒っている」ということが自分と関係しているなにかだと思ってはないだろうということで、そして、けっきょくのところ、「無視するのも悪い」と思って会話をつづけることというありかたは、「僕」と加奈子の関係性を無視することでなりたっているように見える。だから、「僕」は加奈子の言葉の意味を問おうとしない。それを問いはじめたあと、けっきょく彼らは彼らの関係性にふれてしまわざるをえないだろう。


「私、死にたいと思うこともあるよ」
 そんなことを言った。僕は無視するのも悪いと思って一応「なんで?」と訊いた。



 この場面の「なんで?」は問いではない。そして加奈子も感覚的にそれを理解していて、その問いを問いとして答えてはいない。彼らは会話を交わしているけれど、それでなんらかの意味や気持ちをたがいに疎通しあっているわけではないように思う。重要なことは、それでも彼らがなにかを疎通しあっているようにだけは見えることだと思う。彼らはでも実際にはなにも疎通しあっているわけじゃないかもしれない。「僕」が考えていること、やっていることはとてもひとりよがりで「僕」のなかで完結しているようにも思えることだけれど、その「『僕』のなかの完結」ですらもなにかと響きあってしまう。というより、おそらくは響きあうことをわたしたちは求めてしまっている。


 7月13日(月)

 会社にいった。


 7月14日(火)

 会社にいった。


 7月15日(水)

 会社にいった。


 7月16日(木)

 会社にいった。


 7月17日(金)

 会社にいった。


 7月18日(土)

 ねむっていた。


 7月19日(日)

 ふぐのようにねむっていた。


 7月20日(月)

 会社にいった。


 7月21日(火)

 会社にいった。


 7月22日(水)

 会社にいった。


 7月23日(木)

 会社にいった。


 7月24日(金)

 会社にいった。


 7月25日(土)

 ねむっていた。


 7月26日(日)

 牛のようにねむっていた。


 7月27日(月)

 会社にいった。


 7月28日(火)

 会社にいった。


 7月29日(水)

 会社にいった。


 7月30日(木)

 会社にいった。


 7月31日(金)

 会社にいった。


 8月1日(土)

 ねむっていた。


 8月2日(日)

 どじょうのようにねむっていた。




物語の場所

2015.07.12(23:35)

 4月16日(木)

 会社にいった。


 4月17日(金)

 会社にいった。


 4月18日(土)

 お友達と遊んだ。マリオがいた。


 4月19日(日)

 さばの数をかぞえた。


 4月20日(月)

 会社にいった。


 4月21日(火)

 会社にいった。


 4月22日(水)

 会社にいった。


 4月23日(木)

 会社にいった。


 4月24日(金)

 会社にいった。


 4月25日(土)

 知らない階段を見つめていた。


 4月26日(日)

 砂漠が壊れていた。


 4月27日(月)

 会社にいった。


 4月28日(火)

 会社にいった。


 4月29日(水)

 記憶がない。


 4月30日(木)

 会社にいった。


 5月1日(金)

 会社にいった。


 5月2日(土)

 「らんだむダンジョン」をやった。


 5月3日(日)
 
 「らんだむダンジョン」をやった。


 5月4日(月)
 
 「らんだむダンジョン」をやった。


 5月5日(火)

「らんだむダンジョン」をやった。
 更新後のクレジットカード一体化型のキャッシュカードがずっとまえにとどいていたんだけれど、めんどうくさくてずっとふるいものをつかっていたら、とうとうつかえなくなった。


 5月6日(水)

「らんだむダンジョン」をやった。
 あたらしいキャッシュカードにきりかえようと思ってあたらしいキャッシュカードをさがしたけれど、なかった。まだ封筒すらあけていないはずだからないはずがないのに、家のなかのあらゆる場所をさがしてもなかった。じゅうたんをめくってもない。やばい、と思いつつ部屋のなかをぐるぐるぐるぐるとまわりつづけて、これはもうないってことだ、と思って銀行に電話をして再発行してもらうことにした。口座をとめたほうがよい、と言われて、はい、はいとうなずいていたら口座がとまった。よかったよかったと思ったけれど、その20秒後くらいに、再発行まで俺手持ちのお金で生きのびなきゃじゃん、と思った。2000円しかないじゃん、と思った。


 5月7日(木)

 会社にいった。友達に、カードなくした、と言ったら、さいこうの貯金じゃん、と言われた。
 手持ちのお金がほとんどなくなったので、ずっとまえにつくったきりまったくつかっていないべつの口座をのぞいたら、奇跡的に3万円もはいっていた。大金!


 5月8日(金)

 会社にいった。友達に、僕きのうさいこうの貯金じゃんってさんざんばかにしてたんだけど、なんか僕もカードなくしてた、と言われた。さいこうの貯金じゃん、と思った。


 5月9日(土)

「らんだむダンジョン」をやった。裏ボスまで倒した。


 5月10日(日)

「らんだむダンジョン」をやった。ゴールデンウィーク中、さっくりやって実家に帰ったりしていろいろやろうかと思っていたけれど、やってもやっても終わらないで、ついにゴールデンウィークが終わっても「らんだむダンジョン」は終わらなかった。だいたい寝ておきて「らんだむダンジョン」をやっての生活サイクルをくりかしていて、もう100時間くらいやったはずなのにどうして終わらなかった。最後までやろうと思って、裏ボス後のおまけイベントみたいなものをやっていたけれど、なぜかきゅうに燃えつきてすべてのやる気を失った。
「らんだむダンジョン」の欠点はやはりおもしろすぎるということだろうか。あやうく一生部屋からでられない身体になってしまうところだった。ローグライクな設計のRPGだから世界観は圧倒的にせまくて、やっていることはほとんど村とそこに隣接しているダンジョンの往復だけでしかない。それにもかかわらずこのゲームはとてもおおきな、たぶんそれは「ゆたかさ」と呼べるものに満ちているように思う。ふつう、「物語」と「登場人物」と呼ばれるものをわたしたちはある程度別個なものとして考えていて、だから、物語は登場人物の外部にあるもの、あるいは登場人物は物語の内部にあるもの、というかたちで認識される。けれど、たとえばこのゲームのアイテムや装備品に書かれたコメント、それじたいはときとしてたしかにひとつの物語としてあって、しかもそれは主人公たちの物語にはほとんど関係すらしないけれど、その物語が彼らの外部にある、というふうにはわたしには感じられなかった。それは、おそらくはアイテムや装備品につけられたコメントをわたしたちが個々のものとしてうけとっているんじゃなくて集合的イメージとしてうけとっているから、というふうにわたしには思える。もしかしたらそんなふうな集合的イメージを物語とはだれも呼ばないのかもしれないけれど、物語を語る、ということは本来的にはそういうことだとわたしは思うし、そうじゃない物語なんてどんなにおおきな物語だったとしても、それぞればらばらにつくられた「設定」でしかない。


 5月11日(月)

 会社にいった。またべつの友達に、銀行のカードなくした、と言ったら、まずいじゃん、今月末競馬いくんだから、と言われた。ずっとまえに競馬いくと約束していたけれど、すっかりわすれていた。いや、でもむしろそこで勝てばすべてが解決するよね、と言った。


 5月12日(火)

 会社にいった。


 5月13日(水)

 会社にいった。


 5月14日(木)

 会社にいった。


 5月15日(金)

 会社にいった。


 5月16日(土)

「らんだむダンジョン」のボスをいちおうぜんぶ倒そう、と思ってやりはじめたけれど、燃えつきたみたいでちっともやる気がおきなくて、ふて寝した。


 5月17日(日)

 なにもしなかった。ほんとうになにもしなかった。


 5月18日(月)

 会社にいった。


 5月19日(火)

 会社にいった。病院いったり公共料金はらったり煙草を買ったりしていたらあっというまにお金がなくなった。これはまずい、ほんとうにまずい、と思って親にこれこれの口座にお金をふりこんでください、とメールをしたら電話がかかってきて、オレオレ詐欺かと思った、と言われた。