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「DOMANI明日展」@新国立美術館

2012.02.03(23:51)

ラルジャン [DVD]ラルジャン [DVD]
(2002/07/25)
クリスチャン・パティ、カロリーヌ・ラング 他

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 2月2日(木)

 会社にいった。
 家に帰ってヴォネガット「スローターハウス5」を読んでいたら眠くなったので眠った。すやすや。


「いまの話からすると、きみたちは自由意志というものを信じていないようだね」と、ビリー・ピリグリムはいった。
「もしわたしがこれまで多くの時間を地球人の研究に費やしてこなかったら」と、トラルファマドール星人はいった、「”自由意志”などといわれても何のことかわからなかっただろう。わたしは知的生命の存在する三十一の惑星を訪れ、その他百以上の惑星に関する報告書を読んできた。しかしそのなかで、自由意志といったものが語られる世界は、地球だけだったよ」
――カート・ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」


 2月3日(金)

 振替休日で会社がおやすみだったからお昼すぎまで寝ていた。「5人タクティクスオウガ」などを読んでいたらあっというまに時間がたってしまって、「いけない!」と思いながら食パンを口にくわえて家を飛びだした。六本木の新国立美術館にいきたくてまずは西日暮里に向かったけれど、気がついたら鶯谷だった。びっくりして反対方向の京浜東北線にのった。それで「次は西日暮里にちがいない」と思って降りてみると今度は田端だった。びっくりした。次はきちんと山手線にのって快速で飛ばされないようにして降りられた。六本木までいったけれど、でる出口をまちがえて知らない場所にでた。泣きそうになりながら歩いていると地図があった。地図を見ながら現代絵画が描かれたトンネルをぬけると新国立美術館のちがう入り口についた。そこからはいることもできただろうけれど、警備員さんの目がぎらぎら光っていてなんとなく気おくれして、ミッドナイトタウンがあるほうの入り口を探した。でもぜんぜん見つからなかった。住宅街をひたすら抜けた。あたりは暗くて、静かなお金持ちから発するにおいがかすかにただよっていた。てきとうに歩いていたら見つけた。運がよかった。
「DOMANI明日展」を見た。塩谷亮の写実絵画がとにかく美しかった。かわいい女の子ばかり描いているところもまた好きだった。彼の作品は、遠くから見ればおそらく写真と区別がつかないだろうけれど、近くから見たときのそのにんげんの皮膚に見せかけた肌色や、足の裏の皺などに目がいってしまう。かりにそのときわたしがそれを「醜さ」と呼ぶのならそれは「美しさ」とほとんど同義だろう。絵画が写実という方法をとり、わたしたちが現実に見ているものと寸分ちがわないものに近づいていくとき、わたしはそこに現実とはちがうなにかを見ているはずだ。近づけば近づくほどそこに現実ではないなにかが発生している。現実を整理することをわたしたちが「物語」と名づけたとしたら、たとえばそれは映画というものがしょせん「現実を整理し切りとられた視覚的空間の連続」でしかないにもかかわらずそこになんらかの「感覚」を見出すのとおなじことだと思う。わたしはそれを美しいと思う。戸籍係への手紙も美しかった。小嶋サコのねずみもすばらしかった。
 高田馬場までいって早稲田松竹でロベール・ブレッソン「ラルジャン」を見なおした。この映画には「どきどきする」とか「泣ける」とか「やさしい気持ちになれる」とか、映画を見たときに観客のこころを一般的に動かすものすべてがなにもない。むしろ、見ていると「こんな映画を撮るということがはたして『映画を撮る』という行為のなかに配置されることが許されるんだろうか」という絶望的な気持ちになる。カットはあまりにも部分的に分解されすぎていて、たとえばイヴォン(クリスチャン・パティ)が杓子をふるうとき、わたしは杓子をふるうイヴォン、ふるわれたひと、そして杓子、その3つのものになんの関係もつながりもないことを意識せざるをえない。その断絶はイヴォンと斧と老婆にもあてはまっている。そしてそれはそのままこの映画と観客のあいだに横たわる断絶なんだろう。それは断絶という意味で柴崎友香が「ビリジアン」所収の「赤い日」で書いたことともちがうと思う。「赤い日」で主人公の女の子は乱暴な男の子に殴られているけれど、男の子の描写は執拗に避けられている。ただそこに女の子の行動と感覚が描かれていただけだった。柴崎友香の表現において現出されたものがけっきょくのところ醜いものを排除することで成りたつ天国的なものだったのと対照的に、「ラルジャン」の断絶はなにものも現出されてすらいない。フランツ・カフカの小説になにかがあるとしたら、それはページの次にページが続いているという、ほとんどなんの価値もないことだと思う。カフカはそれがあたかも唯一のことのように書いた。すくなくともページの次にページがあるということに純価値を見いだせる作家はわたしが知るかぎりカフカしか誕生しなかった。プルーストですらちがうとわたしは思う。「ラルジャン」を見たときわたしはカフカを思いだした。「ラルジャン」の断絶はカフカの連続にたしかに近いと思う。その意味するところはわたしは知らない。ただ「ラルジャン」にはすくなくとも世界でいちばん美しい炎とそれに照らされた犬がうつっていることをわたしは知っている。その色、その色、わたしはそれを見た。




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