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生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。

2012.02.07(23:08)

悪霊 (上巻) (新潮文庫)悪霊 (上巻) (新潮文庫)
(2004/12)
ドストエフスキー

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 2月6日(月)

 会社にいって、それから帰った。あれやこれをやるつもりだったけれど、ヤオコーで買ったものを食べたら眠くなったので5時30分に目覚ましをかけて10時に眠った。


「あなたの考えだと、人間に自殺を思いとどまらせているのは何なのです?」私はたずねた。
 私たちが何を話していたかを思い出そうとでもするように、彼はぼんやりとこちらを見た。
「ぼくは……ぼくはまだよくわかりません……二つの偏見が思いとどまらせていますね、二つのこと。二つきりです。一つはたいへん小さなことで、もう一つはたいへん大きなことです。でも、その小さなことも、やはり大きなことにはちがいない」
「小さなことというと?」
「痛いことです」
「痛いこと? そんなことが重要ですかね……この場合に?」
「いちばんの問題ですよ。二種類の人があって、非常な悲しみや憎しみから自殺する人たち、でなければ気がちがうとか、いや、なんでも同じだけれど……要するに、突然自殺する人たちがいます。この人たちは苦痛のことはあまり考えないで、突然です。ところが思慮をもってやる人たち――この人たちはたくさん考えますね」
「思慮をもってやる人なんかがいるもんですかね?」
「非常に多いですね。もし偏見がなければもっと多いでしょう。非常に多い。みんなです」
「まさかみんなとはね?」
 彼は口をつぐんでいた。
「でも、苦痛なしに死ぬ方法はないですかね?」
「ひとつ想像してみたください」彼は私の前に立ちどまった。「大きなアパートの建物ほどもある石を想像してみてください。それが宙に吊るしてあって、あなたはその下にいる。もしそれがあなたの頭の上に落ちてきたら、痛いですかね?」
「建物ほどの石? もちろん、こわいでしょうね」
「ぼくはこわいかどうかを言っているんじゃない、痛いでしょうかね?」
「山ほどの石、何十億キロのでしょう? 遺体も何もあるものですか」
「ところが実際にそこに立ってごらんなさい。石がぶらさっている間、あなたはさぞ痛いだろうと思って、ひどくこわがりますよ。どんな第一流の学者だって、第一流の医者だって、みんなこわがるにちがいない。だれもが、痛くはないと承知しながら、だれもが、さぞ痛いだろうとこわがる」
「なるほど、では第二の原因は、大きいほうは?」
「あの世です」
「というと、神罰ですか?」
「そんなことはどうでもいい。あの世、あの世だけです」
「でも、あの世なぞまるで信じていない無神論者だっているでしょうに?」
 彼はふたたび押し黙った。
「あなたは、たぶん、自分に照らして判断されているんじゃありませんか?」
「だれだって自分に照らしてしか判断できませんよ」彼は赤くなって言った。「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これがすべての目的です」
「目的? でも、そうなったら、だれひとり生きることを望まなくなりはしませんか?」
「ええ、だれひとり」彼はきっぱりと言いきった。
「人間が死を恐れるのは、生を愛するからだ、ぼくはそう理解しているし」と私が口をはさんだ「それが自然の命ずるところでもあるわけですよ」
「それが卑劣なんです、そこにいっさいの欺瞞のもとがあるんだ!」彼の目がぎらぎらと輝きだした。「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。いまは苦痛と恐怖ばかりですよ。いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。いまの人間はまだ人間じゃない。幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる」
             ――ドストエフスキー「悪霊」

 

 2月7日(火)

 起きたら7時30分で愕然とした。でも会社にいった。
 それから帰った。野菜炒めをつくりながらヘーゲル「歴史哲学講義」を読んだ。


 他者を純粋な理念としてとらえれば、神の子イエスがそれにあたるが、それを特殊な相のもとにとらえれば、世界や自然や有限な精神も他者であって、とすると、有限な精神も神の一要素だということになる。つまり、有限な精神たる人間が神の概念のうちにふくまれるわけで、そのことはまた、キリスト教において人間と神の統一がうちたてられる、ともいいあらわせます。
 とはいえ、この統一を表面的にとらえて、神は人間にすぎず、人間がそのまま神だ、というわけにはいかない。人間は、その精神にふくまれる自然で有限な要素を破棄し、神へと上昇する場合にかぎって、神となるのですから。つまり、神の真理にあずかり、自分が神の理念の一要素をなすことを知っている人間は、同時に、自分のうちにある不自由で非精神的な自然の要素を破棄しなければならないのです。こうした神の理念のうちで、人間の内面的な苦しみも不幸も、和解に達することができる。不幸自体が、神と人間との統一にいたる一段階として、どうしても必要なものだったと知られるからです。世界の根底をなすこの統一は、さしあたり、思考する哲学的意識にしか見えてこないものですが、しかしまた、感覚的にイメージできるような対象として、この世に明確なすがたをとってあらわれなければならない。それも、目に見える人間精神というかたちであらわれねばならない。こうして、神である人間、人間である神として、キリストがあらわれたのです。ここに世界の平和と和解がもたらされます。
             ――ヘーゲル「歴史哲学講義」


 ドストエフスキーとヘーゲルはここでにんげんが神になるということについて語っている。有限さにとらえられたわたしたちは有限さゆえに生じる恐怖と苦痛におびえている。恐怖と苦痛の代償ゆえにあたえられた生を不幸だとキリーロフは語った。そうであるなら、わたしたちはいったいいつまで不幸でありつづければいいんだろう。




コメント
> 生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間
東洋思想風に言うと「悟っちゃってる人間」でしょうか。それなら新しい人間、あこがれます。かっこいい。

恐怖や苦痛を代償に生を与えられるという部分で、自傷しちゃう女の子たちのことを少し考えました。
内的な混乱や怒りを実際の傷や痛みに変えることで精神の負担を和らげ、
発狂を免れているのだろうと思っていましたが、そうか、もっとシンプルな問題なのか。生きたい、という。

ラスタファリアンになってずっと大麻吸ってれば解決するというものでもなさそうですしね。>恐怖と苦痛

一瞬の嬉しいや楽しいや美しいをつなぎ合わせて
永らえるのも悪くないと個人的には思っています。
そういったものがあれば、恐怖や苦痛も
スイーツバイキングで箸休めに食べる辛いもの、程度の存在に過ぎないと思えるかもしれません。
【2012/02/12 10:54】 | 三原千尋 #wmBt5ek. | [edit]
三原千尋さん

> > 生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間
> 東洋思想風に言うと「悟っちゃってる人間」でしょうか。それなら新しい人間、あこがれます。かっこいい。

「罪と罰」でラスコーリニコフはナポレオンについて
偉大な行為をおこなうえで他者の死をためらうだろうか
と考え ナポレオンには「他者の死をためらう」という
問題すら生じえなかっただろうことに絶望します。
それが悟りとどう関係するのかわかりませんけれども
たとえば それは新しいにんげんなんでしょう か。

> 恐怖や苦痛を代償に生を与えられるという部分で、自傷しちゃう女の子たちのことを少し考えました。
> 内的な混乱や怒りを実際の傷や痛みに変えることで精神の負担を和らげ、
> 発狂を免れているのだろうと思っていましたが、そうか、もっとシンプルな問題なのか。生きたい、という。

僕には彼女たちのことはわかりません。
というよりも 僕には彼女「たち」について
うまく考えることができません。
僕の考えでは
ひとが想像することに耐えられるのはつねに
たったひとりのにんげんについてのことのように思います。
文学は複数のにんげんについて想像することをやめ
それらを物語のうちに現実化しているように思います。


> 一瞬の嬉しいや楽しいや美しいをつなぎ合わせて
> 永らえるのも悪くないと個人的には思っています。

僕も死にたくはないです。
【2012/02/14 19:49】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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