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雨が降っていました。

2012.02.27(00:03)

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(2012/04/28)
ミキ・マノイロヴィチ、ラザル・リストフスキー 他

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 2月20日(月)

 月曜日だった。会社にいった。仕事をした。帰りにドトールによってひたすらドストエフスキー「悪霊」を読んだ。ものすごくおもしろいけれど、こんなにおもしろくてだいじょうぶなんだろうかと思った。
 ずっと書いていた小説を書きおえた。600枚くらい書いた。いつもそうだけれど、いったいいつから書いていたのかまるで覚えていなかった。


 2月21日(火)

 朝起きてサボテン(アカーキー)の様子を見たらこころなしか元気がないようだったからお水をあげた。サボテンは水をあげると腐ると180回くらいはひとに教えられた生きてきたから、このときのわたしの選択がただしいものだったのかは永遠にわからないだろう。 
 会社にいって仕事をした。帰りにドトールにいってパヴェーゼ「美しい夏」を読んだ。
  

 あのころはいつもお祭りだった。家を出て通りを横切れば、もう夢中になれたし、なにもかも美しくて、とくに夜にはそうだったから、死ぬほど疲れて帰ってきてもまだ何か起こらないかしら、火事にでもならないかしら、家に赤ん坊でも生まれないかしらと願っていた、あるいはいっそのこといきなり夜が明けて人びとがみな通りに出てくればよいのに、そしてそのまま歩きつづけて牧場まで、丘の向こうにまで、行ければよいのに。



 パヴェーゼの描いた夏はみずみずしく透明だと思う。肉体的なものだけが消えてまったく透明なだけの感覚がのこる。それは消えていくもので、読んだあとにはやっぱり感覚までが消えていってしまう。けれど、消えるというのもひとつのものごとのありかたなんだろうと思う。
 となりでどこかのお店のひとが面接をやっていた。はじめにやってきたのはおばさんだった。「いま働いているお店がつぶれるんです。子供がふたりいるんです。生きていかなければならないんです」と言っていた。つぎにやってきたのは美少女の大学生だった。美少女は学校の時間割のメモを持ってきて「えっと、この5限めの数学をとらなければ6時からはいれるんですけれど…」とか言っていたからそれはまちがいなく美少女だった。わたしが採用担当だったら採算度外視で美少女を雇うだろう。10万ドルの美少女。
 さいたま新都心でラース・フォン・トリアー「メランコリア」を見た。もう1度見る予定なのでいまはなにも書かないけれど、今年見た映画では「ヒミズ」の次におもしろかった。


 2月22日(水)

 会社にいって仕事をした。座って仕事をしていたらAIさんに「あちょー」と言われてわきばらをぱんちされた。
 会社が終わったあと、SOさんが結婚して会社をやめちゃうというのでつまりそういう飲み会だった。わたしみたいな下賤なものにも声をかけてくれていっしょに写真を撮りたいと言ってくれたから、あの子はほんとうにいい子だったんだろうと思った。来年には子供をがんばると言っていた。そうなのかと思った。
 TIちゃんがそろそろ会社をやめると思うと言っていた。わたしもそろそろやめたいなあと思った。


 2月23日(木)

 会社にいった。座って仕事をしていたらAIさんに「あちょー」と言われてわきばらをぱんちされた。TTさんに近くの飲み屋の1000円割引券をもらったので、AIさんに「きょう飲み会する?」と訊いたら「はあ?」と言われた。そのあとふらりとやってきて「きょう? あした?」と訊かれたら「あしたさ」と言った。
 帰りにドトールによってパヴェーゼ「美しい夏」を読みおえた。ほんとうはいろいろ読んだり書いたりするはずだったけれど、頭が痛いようと思って帰った。7時に眠って9時に目覚ましをかけたけれど、起きたのは真夜中だった。「おなかすいたな」と思っておにぎりを食べてへーゲル「歴史哲学講義」を読んでいたらいつのまにか眠っていた。もっといろいろするはずだったのに!


 2月24日(金)

 起きたから会社にいった。座って仕事をしていたらAIさんに「あちょー」と言われてわきばらをぱんちされた。
 Mっつんをともなってひとあしさきに飲み会の場所にいった。Mっつんはおつまみだけ頼んでほとんどなにも食べなかった。Mっつんはものを食べない男だった。CKさんとSSさんがやってきて、SSさんが次の日に誕生日で「みんな明日はこころのなかで祝うといいよ!」と言っていた。わたしは今世紀最大の気のきかせかたをして、まだ仕事が終わっていなくてこれからくるはずだったHAくんに「SSさんの誕生日プレゼントを買ってくるといいよ!」とメールしたかったけれど、まちがってSSさんにメールを送った。「あー!」と思った。でもいろいろ手遅れだった。SSさんに「これHAくんに送っちゃだめだよ!」と言われたけれどわたしはむしして送ってHAくんはポケモンのフィギュアを買ってきてくれた。すばらしいと思った。うちのチームのひともとなりでべつの飲み会をしていて、ゆかいなNさんがやってきて「きみはだれをねらっているんだい!?」と訊かれて「ざんねんながら僕はだれもねらっていないんですよ! ざんねんながら!」と言った。やんわりとたのしかった。


 2月25日(土)

 夜10時からオールナイトでクストリッツァを見る予定だったから午後までだらだら眠っていた。そのあと、書きおわった小説を印刷するため、まずはプリンタのインクを交換しなければいけなかった。つねづねインクの不当な高さに「きー!」とないしん叫びながら買いつづけていたわたしはとうとう今回から自分でつめかえることにした。BGMにはパティ・スミスを選び、絨毯のうえで説明書を読みふんふんとうなずきながらイエローのインクを交換していた。びちゃってなった。「わーい真っ白な絨毯に黄色い模様ができたよ!」と思った。「わーい真っ白な絨毯に黄色い模様ができたよ!」とつぶやいてみたけれどとくにたのしい気持ちにはならなかった。
 アパートを借りて2年たったから更新料をはらった。更新料ってぜんぜん意味がわからないなと思った。わたしのアパートから50メートルくらいのところに住んでいるYNくんが「僕は引っ越すよ」と金曜日の飲み会の帰り道に言っていた。「○○(わたしたちが住んでいる土地の名)に住んでいますって恥ずかしくて言えないよ」と言っていた。わたしはうっかり更新料をはらっちゃったからあと2年は住むかもしれないけれど、今度はしっかり引っ越そうと思った。
 午後になってドトールへいって、次の小説を書いたりアンドレ・ブルトン「ナジャ」を読んだりしてから、池袋の新文芸までいった。エミール・クストリッツァ「アンダーグラウンド」、「ライフ・イズ・ミラクル」、「ウェディング・ベルを鳴らせ!」を見た。「アンダーグラウンド」はシアターN渋谷で去年上映されてからやたらと「20世紀最高傑作!」という文句をあちこちで見かけるようになったけれど、でも映画ができたのは1890年くらいだったから「それってへんな話!」って思っていた。でも見たらとてもおもしろかったから、「いちばん好きな映画は?」とか訊かれてめんどうくさい思いをしたときは「アンダーグラウンド」と答えておけばいいやと思うくらいはできた。「アンダーグラウンド」や「ライフ・イズ・ミラクル」みたいな映画を見ると、どうしても「ゆたかさ」というものについて考えてしまう。それは、その映画の構成要素の各々が高い密度でちりばめられているかということで、そういうものは、タルコフスキーやエリセやゴダールにすら見られないものだと思う。タルコフスキーはあきらかになにかをけずっているんだと思う。たとえば「長まわし」というのは、長くまわしている時間にうつせるはずだったさまざまなものをうつさないかわりにおなじものをうつしつづける、という要素でしかないのかもしれない、そして「ゆたかさ」というのはわたしにとってにぎやかさの裏がえしかもしれない。にぎやかだった。すばらしい映画だと思う。そして猫! 「ライフ・イズ・ミラクル」は猫映画だ。猫!
「アンダーグラウンド」は3時間、「ライフ・イズ・ミラクル」は2時間30分、「ウェディング・ベルを鳴らせ!」は2時間くらいあったから、7時間30分は映画を見ていた。最後のほうみんな死にそうな顔をしていた。オールナイトで映画を見ると、どうしてひとはそんなめにあってまで映画を見るんだろうと思う。


 2月26日(日)

 午後の4時くらいに起きた。サボテン(アカーキー)が腐っていた。もう水あげない。
 イメージフォーラムまでいって「ニーチェの馬」を見ようかと思ったけれど、「渋谷までいくのめんどくさいよう…」と100回くらい思ったので、浦和のパルコでヴィム・ヴェンダース「pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」を見た。
「アバター」以来の3D映画だったけれど、やっぱりどうも3D化されるときのぶれぶれの映像をよろこぶことができない。光は波動であり粒子でもあるとして、ロマンティックな表現をとるならフィルムの映画は波動でディジタルの映画は粒子だと思う。3Dというのはたんにものとものとをくっきりと区分けされた映像をさらに顕著に示しただけのものにすぎないと思う。そして、わたしがふしぎに思うのは、なぜ現実に近いはずの3Dの映像を見てわたしがそこに違和感を覚えるんだろうということだった。
 以前、読書について「想像力が鍛えられる」と一般的に言われていたことにたいして、「なにもないほうが想像力を鍛えられるのか? だったら見たまま・感じたままが現出される現実ではなにも想像力をつかう必要がないのか?」と文句を言ったことがあるけれど、3Dになることによってわたしが思う現実というものから遠ざかっていくのなら、わたしが思う「現実」とはなんなんだろう。わたしはなにを根底において、わたしが接するものごとを測っているんだろう。たとえばわたしがカネフスキー「ぼくら、20世紀の子供たち」と比較して3D映像を「現実的ではない」と思っているとしたら、わたしの現実とは「ぼくら、20世紀の子供たち」の映像になるだろう。かりにわたしの根底に非現実的なものがあり、それをものさしにして現実をはかりつづけているだけだとしてたも、わたしはわたしの根底を信じたいと思うだけだ。現実はつねに現実にあるわけではないと思う。カフカの小説が現実の現出以外をまったく持ちえないように。
「フルムーン」が見たい!




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