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ドストエフスキーとカフカの非領域におけるにんげんたちの笑い

2012.03.01(00:45)

悪霊 (下巻) (新潮文庫)悪霊 (下巻) (新潮文庫)
(2004/12)
ドストエフスキー

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 2月27日(月)

 起きて会社にいった。帰った。ドトールによって「悪霊」を読んだりなにかを書いたりした。


「あなたのはただの言葉にすぎないじゃないですか」彼はふいに言った。「意趣返しの、勝利感に酔った言葉です。あなたには言外の意味がよくおわかりだと確信していますし、だいたいこれはせせこましい虚栄心のはいりこめる問題ではないでしょう? これでもあなたはまだご不満なんですか? 恥の上塗りをしろ、言わずもがなの説明をしろとおっしゃるんですか? よろしい、それほど私の屈辱がご入用なら、恥の上塗りをしてみせましょう――私には権利もないし、委任などありえようもない。リザヴェータさんは何も知らないのです。ところが彼女の婚約者はもう前後の見境もつかなくなり、気違い病院に送られて当然のような有様で、それでも足りず、こうしてあなたのところに報告に来たのです。世界じゅうであの人を幸福にできるのはあなただけ、そして不幸にできるのは ――私だけです。」
  ――ドストエフスキー「悪霊」


 2月28日(火)

 会社にいった。帰りにドトールにいってずっとドストエフスキーを読んでいた。


「しかしながら私は宣言します」興奮の極に達したステパン氏は金切り声をふりしぼった。「私は宣言するものです、シェイクスピアとラファエルは ――農奴解放より上である、国民精神より上である、社会主義より上である、若き世代より上である、化学より上である、ほとんど全人類より上である、なぜなら彼らはすでにして成果、全人類の真の成果であり、おそらくは、存在しうるかぎりの最高の成果だからであります! すでに達成された美の形態、いや、この達成なくしては、生きることをさえ、おそらく、私は肯じえないでしょう……おお、なんたることだ!」彼は両手をはっしと拍ち鳴らした。「十年前、私はまさしくこのとおりのことを、ペテルブルグの演壇上から叫んだことがあります、このとおりのことを、そっくり同じ言葉で。そしてそのときも、いまと同様、彼らは何ひとつ理解せず、嘲笑し、野次を浴びせました。愚かな人たちよ、これを理解するのに何が足りないのです? しかしながら、知ってほしい、イギリス人なしでも人類はなお生存しうる、ドイツがなくてもよい、ロシア人などはむしろいないにこしたことはない、科学なしで結構、パンなしで結構、ただ一つ、美なくしてはいかんともしがたい、なぜならばこの世界においてなすべきことが何もなくなってしまうからです! 秘密のいっさいはここに、歴史のいっさいはここにあります! 科学といえども、美なくしては一刻たりとも存続しえにのです、――諸君はこのことを知っているのですか、あざ笑う者たちよ、美なくしては科学は奴隷になりさがり、釘一本考えつけなくなるということを!」
 ――ドストエフスキー「悪霊」
 

 わたしはずっとまえ「月にいくためのロケットをつくったのは科学だ。けれど、月にいくということを思えたのは文学だ」と言ったことがあった。ステパン氏!
 家に帰ってからはなにもする気が起きなくて、キーマカレーを食べてサリンジャー「ナイン・ストーリーズ」をぼろぼろと読んだ。「ナイン・ストーリーズ」はいつ読んでもこの世界でいちばんおもしろいから好きだと思う。「コネティカットのひょこひょこおじさん」はいつも泣いちゃう。


 2月29日(水)

 起きてサボテンのために窓を開けたら雪が降っていた。雪!
 会社にいった。お昼休みにHAくんに「雪だるまいくつつくった?」と訊いたら「まだひとつもつくれていない!」と答えた。「つくりにいく?」と言われて「俺はなかでごはんを食べているよ」と答えた。MFくんが「雪見だいふくを食べたかった。でもなかった」と言ってスーパーカップを食べていて、MFくんが去ったあとにHAくんが雪見だいふくを持ってあらわれた。「Fくんが雪見だいふくを食べたかったけれどないって言っていたよ」と言ったら「だからFくんはだめなんだよ!」と言っていた。HAくんは雪見だいふくについている緑色のフォークを会社のなかでふりかざしていた。
 帰りにドトールにいって「悪霊」を読んだり日記を書いたり日記じゃないものを書いたりしていた。文学なんてたんじゅんなものだなと今朝思ったことを思いだした。ドストエフスキーがにんげんを書き、カフカが行為を書いたということなんだと思う。ゴダールは「いまあるほとんどの映画はどれもおなじものです。そして、それがおなじものだと気づかせないため、ちがうタイトルをつけたり、ちがう国の言語をしゃべらせたりするのです」と言った。「600ものカットがあったとしてもそれはすべておなじものです。ひとつのカットが600に分裂したというだけのことです」と言った。
 いやはや!
 ドストエフスキーやカフカをまえにして、わたしたちにはドストエフスキーやカフカの領域ではないということがありうるんだろうか。吉本隆明が「言語にとって美とはなにか」で「言語はすべて指示表出と自己表出にわけられる」と言ったのとおなじように、世界とはすべてドストエフスキーとカフカにわけられるだろう。「にんげん」とはものであり、「行為」とは意味のことだ。わたしたちは100年まえからX軸にドストエフスキーを置き、Y軸にカフカを置き、そのなかでわたしの重さをはかってきただけだ。そして、それらは「はかられる」といういってんにおいて絶対的な不自由さのなかにいる。サルトルが「ナチス占領下のパリにおいて、かつて我々がこれほど自由だったことはなかった」と言ったのとなじように、ドストエフスキーとカフカはナチスだった。ただもう目に見えないだけだ。彼らは死んだだけだ。けれど死んだということはけっきょくのところ死んだということ以上の意味は持たない。わたしたちがかりに「生きた! 感じた!」と言ったとき、それはドストエフスキーとカフカのあいだで「俺はここにいるよ!」と高らかに宣言すること以上の意味をかつて持ちえたことがあるんだろうか。わたしにはそれがかなしいことなのかどうかわからない。あるいはそれはたのしいことかもしれない。けれど、わたしには座標と座標のあいだをどう運動すればいいのかいっかいだってわかったことはなかった。座標と座標のあいだで、ひとはどんな顔をして笑えばいいんだろう。




コメント
引用しまくって、冗長に書きまくってる文章読まなきゃならない人間の気持ち考えたことありますか?

返答は、じゃあ読まなきゃいいじゃん。以外でよろしくお願いします。


【2012/03/03 08:45】 | マサユメ #- | [edit]
> 引用しまくって、冗長に書きまくってる文章読まなきゃならない人間の気持ち考えたことありますか?

ありません。
僕は見ず知らずのにんげんの気持ちを
うまく考えることができません。

そして 冗長さというものは 僕がもっともたいせつに思うもののひとつです。
冗長さというものが 存在しなければ
ひとは生きていることがないと考えるからです。
冗長さを失ったものはけっきょくのところ意味に落ちるしかありません。
フランツ・カフカの小説はすべて冗長さでできています。
彼は書きつぐためにひとになんらかの行為をさせました。
カフカの小説の人物が冗長さと行為がまったくの等価で結ばれたとき
カフカの人物はあらゆる意味から解放され
現実へと渡りました。
僕の引用はカフカにおける行為です。
僕は書きたいだけです。
そのためならば ドストエフスキーの文章を
私欲のために道具にしたってちっともかまいません。


2つの段階があります。

1.それは冗長に書かれている
2.(冗長に書かれた)それはすばらしい・あるいはくだらない

かりに ひとがすぐれた感性や理性を持ってなにかを指摘するのなら
2の段階でもっておこなわなければなりません。
けっきょくのところ
僕がなにかを「すばらしい」と思うのは2の段階においてでしかありません。
1の段階において それはすべて僕にとって無価値です。
あなたの指摘について
僕はこれまですべて「くだらない。相手にする価値もない」と思い
そのうちのたいはんを消してきました。
それはまず だいいちに あなたが僕にとって不愉快なにんげんであり
そして だいにに あなたの指摘がすべて1の段階でしかなされていなかったからです。
文章・映像・音楽
それはすべて2の段階でなされたものをそう呼びます。
すくなくとも僕はそうです。
あなたのコメントを読んでいると
このにんげんはこんなにおろかでいいんだろうか と思います。
世界は僕にとってよきものだろうか と思います。
おろかさといやしさが手をとりあったとき
それはここまで不愉快な現象を生じさせるんだろうかと思い
暗澹たる気持ちになります。
うんざりです。
【2012/03/04 01:49】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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