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ひょっとこ乱舞「うれしい悲鳴」@吉祥寺シアター

2012.03.05(22:38)

ひかりごけ (新潮文庫)ひかりごけ (新潮文庫)
(1992/04)
武田 泰淳

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 3月4日(日)

 朝にだらだらと起きて、吉祥寺シアターまでひょっとこ乱舞「うれしい悲鳴」を見た。ひょっとこ乱舞の最終公演だったけれど、わたしがひょっとこ乱舞を見たのはこれがはじめてだったからとくに思うことはなかった。「うれしい悲鳴」はおもしろかった。物語の設定自体はあからさまなB級で、それは、たとえば小説でやろうとするならば、すでに失われてしまった語りかたしかのこされていないと思う。舞城王太郎ですら「うれしい悲鳴」を語るにはあまりにも高尚すぎるとわたしは思う。ロロには電球のコードが生えてしまった女の子がでてきた。「うれしい悲鳴」には日本の法律が2ちゃんねるの「安価」的なものに置きかえられそれがまかりとおっている。この手のB級感覚の物語と、それをおしすすめることができる媒体は、小劇場という空間的な場所も手つだって、もう4000円以下の演劇しかのこされていないんじゃないかとすら思う。わたしはそれをときどきいとおしく思う。
 渋谷までいってヴェローチェで「悪霊」を読んだり文章を書いたりしたあと、イメージフォーラムでタル・ベーラ「ニーチェの馬」を見た。鮮烈なモノクロの映像がうつしだす馬の運動がすばらしかったと思う。ここにうつっている老人はまるで大理石のようだった。ときどき、これがほんとうに現実の映像なんだろうかと思うことがあった。ほんとうにたくみにつくられたつくりものなんじゃないだろうかと思った。でもきっと、それはつくりものなんかじゃない。わたしが知るかぎり、もっとも美しい映像がうつっている映画はタルコフスキー「ノスタルジア」か「ストーカー」か「鏡」だと思う。思えば、21世紀につくられた映画についてわたしは「映像が美しい」とはうまく言えなかったような気持ちがする。わたしが言うことができたのは、タルコフスキーだったり、アンゲロプロスだったり、エリセだったり、パラジャーノフだったり、20世紀のカラー映画の後期の映像にたいしてだけだった。21世紀の映像のひとつにタル・ベーラ「ニーチェの馬」があって、そして、ラース・フォン・トリアー「メランコリア」の冒頭の5分があれば、わたしはうれしいと思う。「ニーチェの馬」はミヒャエル・ハネケ「白いリボン」とおなじ映画に見えた。とくに終わりかたがさいこうにどきどきした。「これで終わりか? これで終わっていいのか、これで終わって、終わって、終わ…終わった…」という感じだった。あとふしぎに家事をがんばりたくなる映画だった。


 3月5日(月)

 朝起きて、会社にいこうと思っていさんで靴をはいたら靴がべろんべろんになっていてびっくりした。あわてて数年前に買ってから1度もはいていなかった靴をひっぱりだしてことなきを得たけれど、一瞬倒れるかと思ったほどのべろんべろんぐあいだった。お昼休みにHAくんに「朝起きたら靴がべろんべろんだった」と言ったら「わかる! 僕も1週間前に靴がべろんべろんになって、買いにいく時間もなくて、ボンドをぺたぺた塗りたくって会社にきていた」と言われた。べろんべろん!
 会社帰りにドトールへいって武田泰淳「ひかりごけ・海肌の匂い」をひさしぶりに読みかえしたり「ランボオの手紙」を読んだりしていた。わたしは「ひかりごけ」だけが読みたいのに、遠い!




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