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FUKAIPRODUCE羽衣「耳のトンネル」@アゴラ劇場

2012.03.18(22:27)

不滅 (集英社文庫)不滅 (集英社文庫)
(1999/10/20)
ミラン・クンデラ

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 3月17日(土)

 昨日うっかりお昼寝をしてしまったのであんまり眠れず、眠れないままに8時30分には起きた。身体がひどくだるくて、これでもうまる1週間だれとも話していないせいかもしれないけれど、魂みたいな場所に垢がこびりついてこすってもこすってもとれないような気持ちがして、そういうとき、世界がグロテスクな薄い膜に覆われているようにしか見えなくてひどくつらかった。昨日サボテンの腐ったところを包丁で切りおとして捨てた。インフルエンザは治ったはずなのに、ちっとも健康じゃない。
 池袋までいってアンゲロプロス「旅芸人の記録」を見た。4時間の映画だけれど寝たり起きたりをくりかえしてばかりいて、体感時間は6時間を越えていたと思う。感想はとくにない。「ユリシーズの瞳」がとくにそうだったけれど、アンゲロプロスの映画はいっかい見たときは「むー?」と思うけれど2回めに見たとき「映画史上いちばんおもしろい!」となったりするから、どこかでもういっかい見なくてはと思う。
 そのあと、駒場東大前駅にあるアゴラ劇場までいってFUKAIPRODUCE羽衣「耳のトンネル」を見た。寝台から男たちが這いでてきて「ままー! おっぱーい!」と次々絶叫していくというのがプロローグで、これはいくらなんでも気持ちわるすぎるんじゃないだろうかと思ってひいた。帰ろうかなと思ったけれど、ふつうに演劇がはじまってからはふつうにおもしろかったから帰らないでよかったと思った。このあいだ見たロロやひょっとこ乱舞もそうだったけれど、歌って踊っての場面がおおかったと思う。ロロやひょっとこ乱舞やFUKAIPRODUCE羽衣がどう思っているのかわからないけれど、それは刹那的に思えた。どこにもつながっていないように見えた。「つながっていない」というのは、舞台のうえで完結しているということだと思う。チェルフィッチュ「家電のように解り合えない」の最後で、舞台のうえで青柳いづみが「この舞台を見ていた2時間は、わたしたちがもっともわかりあうことができなかった2時間でした」とわたしたちに向けて語りかけていた。「この舞台が終わったらわたしたちはわかりあえる場所にもどらなければいけません。だから、がんばってください」と言った。演劇や舞踏などの舞台芸術はどこに存在しているんだろう。それは、小説というものが文字が印刷された本のうえにだけは決して存在していないように、舞台のうえにだけは決して存在していないのかもしれない。チェルフィッチュやままごと「テトラポット」がほかの作品とレベルがちがうとわたしが思うのは、それは、作品が舞台ではない場所までのびているとわたしがしっかり思うからだ。「耳のトンネル」はどうにも踊りすぎていた。後半、ストーリーもなにもなくただ「踊って歌っていればいいや」という境地にすら達していたように思えて、それはそれで新鮮だったと思う。それを2時間見させられるわたしは、辟易させられてしまうけれど。鯉和鮎美がすばらしかった。
 帰りの電車のなかでミラン・クンデラ「不滅」を読みつづけた。




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