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Cui?「きれいごと。なきごと。ねごと。」@新宿眼科画廊

2012.03.18(23:18)

霧の中の風景  Blu-ray霧の中の風景 Blu-ray
(2012/04/28)
洋画

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 3月18日(日)

 朝10時に起きて、いそいそと新文芸座にでかけてアンゲロプロス「シテール島への船出」と「霧の中の風景」を見た。「シテール島」ははじめて、「霧の中の風景」は2回めだった。「シテール島への船出」ははんぶんくらい眠っていたのでよくわからなかった。すくなくとも、老人がどこの国でもない海のうえに放りだされてからはすばらしかった。「霧の中の風景」はアンゲロプロスの映画のなかではこどもふたりが主人公なので見やすいほうだと思う。警察署につれてこられたとき、「雪だ!」と言って警官たちがみんなそとにでていってしまって、のこった女のひとが「縄に首をかける」とさけび、こどもふたりがそとにでていると往来のひとびとはみな静止していて、というシーンにおける、その圧倒的な静止をすばらしいと思う。アンゲロプロスについてはわたしはよくわからないけれど、アンゲロプロスらしさというのはこういうところにあらわれているように思う。最後のシーンを見るだけで1000円払う価値があるので、また見ることができてよかった。
 びっくりするくらいに気持ちが沈んでいた。ずっとだれとも話していないせいで、インフルエンザで寝こんでいるあいだにごっそり僕の存在理由が世界の上澄みに吸いとられてしまったような気持ちがする。なかば強制的に禁煙していて、なおってからも意識的に吸っていなかったけれど、しかたないので煙草を買った。禁煙とか、そういうことを考えるとき僕はいつも僕の人生についていろいろ思ってしまう。それは、僕の人生は禁煙をしてほど健康に生きながらえるほどの価値があるんだろうかという問題だった。もちろんそんなものはない。それは僕を知ってはいた。ただ意識していないというだけのことにすぎなかった。僕はとてもひさしぶりにこれからの僕の人生においてなにひとつあたたかなことは起こらないだろうことがとても現実的に実感した。僕は僕がいっしょにいたいと思うひとといっしょにいることができないままだろう。僕は僕が愛したいと思うひとをずっと愛せないままだろう。それはほとんど運命的な確信のようなものに似ていた。僕はずっと毛布にくるまり寝台のなかでまるくなっていただけだった。この1週間がそうだったんじゃない。いままでもずっとそうだった。ただインフルエンザにかかっているかかかっていないかのちがいしかなかった。アンゲロプロスの映画がいったい僕になんの関係があるかわからなかった。たとえそれが世界最高の映画だとして、それがいったいなんだ? アンゲロプロスが死んだ? それがいったいなんだというんだろう? あらゆることについてうまくわかることができなかったし、そのわからないのなかで気持ちだけがただ泥土にまみれてよごれていった。僕はそれを見ているしかなかった。くだらない。しんそこくだらないと僕は思った。この世界はごみで、僕はそのなかでも無為なごみにすぎない。
 ということをこの日記に書いて煙草を吸ったあと、新宿までせっせと移動して、新宿眼科画廊でCui?「きれいごと。なきごと。ねごと。」を見た。これはすばらしかったと思う。FUKAIPRODUCE羽衣が「いまそこにある演劇」という閉鎖的なものをつくりあげることに専心していたとしたら、「きれいごと。なきごと。ねごと」はチェルフィッチュのようにそれ以外の空間にひろがりたいとつよく意志しているように見えた。飴屋法水「4.48サイコシス」に舞城王太郎を混ぜた、というのがいちばんイメージとして近いと思うけれど、どうなんだろう。この演劇でつかわれていた言葉は、たとえばどういうたぐいの言葉なんだろう。ずっと音楽がわんわん鳴りひびいていて、役者がさけんでいるにもかかわらずうまく聞きとることすらできない、その言葉たちは。それは、はっきりといえば文学の言葉だった。小説のなかにも、詩のなかにも、歌詞のなかにも、映画のなかにも、演劇のなかにも、配置できない言葉のように思う。ふつうに劇的につかうことに耐えられない言葉たちは、だから音楽を鳴らすしかなかった。音楽が鳴れば役者たちはさけぶしかなかった。さけび以外にやりかたがなくなったとき、それは意味性を失う。「状況説明・語り」用の言葉と「演劇的会話」用の言葉がほとんどおなじ温度で飛びかっていたこの演劇において、意味性を失った場所で言葉は独立的な音声としてなりたっていた。けれどそれは、たとえばジエン社がおこなっている同時多発的な発声による音声の徹底的なノイズ化ともちがうと思う。ノイズにしては意味がありすぎていた。それは、意味がありすぎるという意味ですら意味性を失っていたように見える。橋本治が「宗教なんかこわくない!」で「若者たちはつながりがゼロの状態から一気に濃い関係を求めようとしている。他愛のない話をして、デートをしたり手をつないだり、そういうことから徐々に人間関係をつくりあげていくのがあたりまえのことなのに、いきなり魂の共有的な深い場所を求めてしまう」というようなことを書いていた。この言葉に従えば、「きれいごと。なきごと。ねごと。」では濃い関係的な位相しか描かれていない。ひとつひとつの状況と言葉がすべてにおいてクリティカルな位相として出現していた。ひとびとがある種の状態にあり、ものごとがすこしずつ推移し、ある結末へ向かっていく、古典劇から近代演劇まで流れていた伝統的なスタイルはまったく無視されている。たとえば「ヴェニスの商人」の最初の3人のにんげんの会話なんて、綾門優季はぜったいに書かないだろう。役者たちはなにもおこってないにもかかわらず最初から危機におちいっている。なぜそんなことが起こるのかといえば、それは役者たちが危機をしゃべってしまうからだ。しゃべってしまうがゆえに、それは危機としてあらわれ、音楽にかきけされないように台詞のいちいちを絶叫しなければいけない。それは、古典劇から近代演劇まで流れていた伝統的なスタイルから生じえたカタルシスを放棄するやりかたのように思う。いくら通俗ドラマ的な泣けそうな台詞を役者がしゃべっていても、わたしはちっとも感動しない(だいたい台詞なんてなにを言っているのかわからないことがけっこうおおい)。問題はそういうやりかたを選んだうえでカタルシスをなににゆだねたかというと、たぶん、だれからだれへの語りかけすらも判然としないですます調の語りかけだと思う。「この状況はエンディングにふさわしいですか? この状況を黙殺することはできますか?」と役者たちはさけびあっていた。そして、物語はなにも解決されないまま終わってしまう。わたしたちはきれいごとだろうが泣き言だろうが寝言だろうが黙殺することはできるだろう。それはしょせん言葉にすぎない。でもわたしは状況を黙殺することはできるんだろうか。チェルフィッチュの演劇は舞台のうえでおこなわれながら、同時に、わたしの部屋に、北海道に、北京に、貿易センタービルにあらわれれる。たとえばそれが、わたしが黙殺することができないものだ。




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