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黒田育世「うみの音が見える日」@スパイラルガーデン

2012.03.31(00:00)

ユリシーズ 1 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)ユリシーズ 1 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
(2003/09/19)
ジェイムズ・ジョイス

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 3月26日(月)

 会社にいった。つまり、仕事をした。

 3月27日(火)

 会社にいって仕事をした。帰りにドトールへいって小説をわっほいわっほい書いた。いま書いている小説はわたしがその直前に書いた「世界はわたしの顔面を見つめている」という小説にくらべて、とてもちいさなものになると思う。「世界はわたしの顔面を見つめている」は600枚弱だけれど、そこには意味のない肥大があった。そこに展開されている世界は意味のなさを吸いとって肥えふとっていった。そして、この小説はもちろんわたしがいままで書いたなかでさいこうの小説であるはずだけれど、同時に、失敗作だと思う。わたしは、わたしがいままで書いたもののなかでさいこうの小説は直近の作品で、しかもそれは同時に失敗作だという意識しかもてない。それが600枚の分量を持って書かれた以上、わたしは700枚でもそれを書けたはずだった。作品の持つ長さというのはいったいなんなんだろう。およそ断絶にまみれた状態でしか読むことができないカフカ「審判」について、たとえばわたしは「長さ」という概念を適用できるんだろうか。カフカの「審判」や「城」について、たぶんわたしはおおくのことを誤解していると思う。カフカの小説についてわたしは「ページをめくったあとにページがあるということによってのみ支えられている。そして、カフカの小説の終わりというのはページをめくったあとにもうめくるページがないということでしかない」と言ったことがあったと思う。カフカの小説において重要なのはたとえば「11ページめは10ページめではない」という差分だけだ。そして、差分によってかたちづくられているものにわたしは「長さ」を適用できないような気持ちになってしまう。10ページめと11ページめの差分、11ページめと12ページめの差分、つねに差分しか見ることができないのなら、わたしはその差違を読んでいるにすぎないんだろう。ページ数というのは高速道路上に設置されたまえの車との距離をはかるためのめじるしみたいなものにすぎない。本を読むという行為が差分を追いかけるという行為とひとしくされてしまう。でも、その差分とはいったいなんだろう。
 わたしには60年代のビートルズの曲が2分や3分程度のものであったのとおなじやりかたで70年代以降の曲は4分や5分程度の長さでつくられているように見える。そこには2分程度の時間的差違がある。けれど、わたしにはビートルズの3分の曲とそれ以降の5分の曲にあらわれた2分間の差違がいったいなんなのかがうまくわかることができない。おなじように、ゴダールは「サイレントではひとがなにかをしゃべり、ついで字幕がはいり、そのあとひとはなにかをしゃべります。トーキーではひとがなにかをしゃべり、字幕ははいらずに、なにかをしゃべります。サイレントとトーキーでちがうのは3つの映像が2つになったというだけのことなのです」と言った。おなじように、わたしは3つの映像が2つの映像に変わったときの時間的差違がほんとうにはいったいなんなのかをうまくわかることができない。ジョイス「ユリシーズ」ではったった1日のできごとを語るために700ページほどの文庫本を4冊も書かなければいけなかった。そして、たとえば、もしもかりに「ゴダールの『勝手にしやがれ』を小説として書いてくれ」と言われたとき、ベルモンドとセバーグが彼女の部屋で語りあうシーンをいったい何枚の原稿で書くことができるんだろう。この、あたかも映画のなかの1秒がわたしたちの現実にとっての1秒とひとしく思えるようなまったく無意味なシーンにふさわしい枚数はいったい何枚なんだろう。そもそも、現実における1時間のできごとを描くのにふさわしい枚数とはいったい何枚なんだろう。そして、わたしたちはどうしてそれを固定化することができないんだろう。青木淳悟「クレーターのほとりで」のように文庫で100ページほどの分量で何千、何万年の時間が流れる小説とジョイス「ユリシーズ」における経過時間の差違とは、ほんとうにはいったいなにを意味しているんだろう。それは表現のしかたや文体といったものであるかもしれない。けれど、ではなぜ表現のしかたや文体といったものは時間のあつかいを変えることができるんだろう。わたしたちはいったいつのまにそんな能力を手にいれたんだろうか。たとえば、吉本隆明「恋唄」という詩には時間は流れていない。ただそこには言葉があり、それを読むわたしたちにおいては読んでいる時間の経過を余儀なくされるのにたいし、詩じたいの世界において時間が流れていないとしたら、それはほんとうにはいったいどういうことなんだろう。
「愛している」というたんじゅんなひとことがあり、それがかりに500枚の小説のなかで書かれるとして、おそらく500枚めに書かれた場合と1枚めに書かれた場合ではその言葉の重みはちがうだろう。きっと、その小説ではその500枚のあいだにその言葉を発するひとが発されるひとや対象といろいろなかかわりあいをしただろう。言葉の単純な重みはそこに生じると思う。けれど、なぜまったくおなじ言葉が500枚めに配置されたときと1枚めに配置された場合でまったく重みや意味あいを変えるんだろう。その理由を「500枚のかかわりあい」のなかに要請することはほんとうにまっとうなことなんだろうか。そして、そんなふうにして読まれた「500枚めの『愛している』」というのは、ほんとうにたんなる500枚めなんだろうか。そのときわたしは500枚めを読んでいるんだろうか。それとも、いままで読みおえてきた499枚をその500枚めと同時に読みこんでいるんだろうか。そして、わたしがその小説を読みおえてもう1度読みはじめるとき、そのときの1枚めはほんとうには1枚めではなく、501枚めになってはいけない理由があるだろうか。「500枚のかかわりあい」のなかにふくまれる「500枚めの『愛している』」を重みづけしたり意味づけたりする要素は、いったいなんなんだろう。それは小説のなかで流れた時間なのか、それとも、現実において流れたわたしたちの時間なのか。
 わたしはずっとまえに「小説は長ければ長いほどいい」と書いたことがあった。それは、わたしが生きていた時間のなかでその小説とかかわってきた時間が長くなるからだと思う。それは、ほんとうにはとてもとても重要なことだと思う。そもそも、わたしがたとえば「ドストエフキーはおもしろい」と言うことはどういうことなんだろうか。100年以上もまえに死んだ、話したことも会ったこともない、わけのわからないおっさんの書いたわけのわからない小説を読んで「おもしろい」と言うことは、ほとんど常軌を逸していると思う。ほとんど奇跡的なことだと思う。それはドストエフキーにかぎった話ではなく、森見登美彦や伊坂幸太郎でもおなじことだと思う。彼らの読者のほとんどは彼らのことを直接には知らない。知らないにもかかわらず「おもしろい」という読者は頭がおかしいんだろうか。わたしはそう思う。わたしたちは話したことも会ったこともないおっさんの書いた小説を読んで「おもしろい」と言うくらいには、言葉というものを信じているということなんだろうか。それは、信じすぎなんじゃないだろうか。
 ニーチェは「おまえが深淵をのぞきこむとき、深淵もまたおまえをのぞきこんでいる」と書き、ゴダールは「スクリーンに光が投射されるとき、その光は同時にわたしたちを照らしている。それが映画だ。それがわたしたちの音楽だ」と語った。たんじゅんなことだけれど、わたしが小説を読んでなにかを感じるならば、それはわたしが生きてきた時間と生きてきた存在としての総体をそこに照射しているからだと思う。小説を読むとき、わたしたちはそこに照射されたわたしたちの総体を読んでいる。そうでないならば、わたしたちはその小説を「おもしろい」と言うことすらできないはずだ。わたしたちは小説を読むふりをしながらわたしたちの総体を読みこんでいるにすぎない。それは、すくなくともほかのなにかとの関係を求めているひとたちにとってとてもおそろしいことだと思う。小説というものをわたしたちがどうあっても読むことすらできないとしたら、わたしたちはわたしたちがかかわろうとするすべてのものについてかかわることができないということだからだ。相手がにんげんならまだいい。わたしがかかわることによって相手もわたしにかかわり、その個別化されたかかわりをたがいに認識しあうことによって「わたしたちはかかわりあっている」と錯覚できる可能性がつねにあるからだ。けれど、ドストエフスキーを読むとき、わたしはドストエフキーとかかわることができるけれど、ドストエフスキーはわたしとかかわることができない。なぜなら、ドストエフスキーはもうとっくに死んでいるからだ。
 わたしはいったいいつ小説を読むことができるんだろうか。わたしが好きなひとはなにかを美しいと表現するまえにすでにそれを美しいと思うことができるひとだけだ。わたしはいつになったらそんなふうになれるんだろう。けれど、わたしが小説をほんとうには読むことができないということは悲劇的なことなんだろうか。いまわたしが書いたことに救いがあるとすれば、それはわたしが小説を読んでいるふりをしながらわたしの総体を読みこんでいるということ、なんらかのものにつねにかかわることができないということが、わたしにとってゆたかではないということが断定されていないということだけだと思う。それが断定されたとき、小説はほんとうの意味で死に、わたしも死に、いまある姿からまったくべつのかたちとして存在することを余儀なくされるだろう。保留だけがある。保留できないことを差違として読み、わたしはカフカが描いたKのようにさまよいつづけるだろう。その差違が差違として消えるかたちで美しいという表現が消え、美しさが反射としてではなく総体そのものとしてあらわれるとき、Kは消えるだろう。わたしはたぶんずっと保留されたまま生き、保留されたまま死んでいくだろう。


 3月28日(水)

 会社にいった。それから5時30分くらいには帰りまーすと言って帰り、渋谷へいった。
 青山のスパイラルホールで黒田育世のソロ「うみの音が見える日」を見た。わたしはあらゆるソロダンスはつまらないと思っていて、ほんとうにすばらしいと思ったのは酒井幸奈「In her, F major」と佐東利穂子「SHE」だけで、その例にもれることなく黒田育世のソロもBATIKの作品よりは80ぶんの1くらいはおもしろくなかったと思う。わたしはずっと歌っている3人の女の子ばかりを見ていた。わけのわからない日本の神様が生まれたもうたとかわけのわからない言葉を歌みたいなやりかたでうたう3人の女の子を見ていて、わたしはそれはすばらしいと思ってとりはだもたった。
 たとえば、酒井幸奈はタルコフスキーを模倣した。あの映像のなかで射した光を照明として静寂として表現しようとしているように見えた。それはきっと、踊るということを美しいものになる手段として見ているということだと思うし、彼女はそういったやりかたをもちいて踊っているように見えた。けれど、黒田育世はそうではないと思う。たとえば、後半、ギターも3人の女の子の歌もなくなったあと、黒田育世は音楽もそして照明すらもなくなったなにもない場所で、わけのわからない日本の神様の名前を連呼しながらわけのわからない踊りみたいなことをやっていた。つまり、わたしにはまるでわけがわからなかった。そんなことを口走ったりそんなへんな動きをしたりすることのいったいなにがたのしいのかまるでわからなかった。ほんとうにほんとうにわからなかった。ダンスにおいて美しいものが静寂のなかで表現されたときの、身体を動かすことすらためらわれるほどの息苦しさと恍惚というものを、すくなくともわたしはなにも感じなかった。そこにあるのは、ただただ気まずさだけだった。これを見て笑っていいのかまるでわからないというたぐいの気まずさだった。そして、それはAKB48「ヘビーローテーション」ではじまる冒頭にも感じられたことだった。そこにあるのはただの気まずさだった。わたしはただただどういう態度をとったらいいのかわからなかった。「ヘビーローテーション」で踊っているときの黒田育世は決してかわいくはない。そこにはちぐはぐさから生じる奇形めいたものがグロテスクに表現されていただけだった。まるで、松井冬子のように。わたしはたぶん黒田育世は醜くなるというかたちで踊っていただけだと思う。それを見てわたしが気まずさを感じたということは、わたしがそれを受けいれるやりかたを知らなかったということだと思う。はじめて見る作品についてどういう態度をとったらいいのかすでに知りそれをたのしめるということは、ほんとうにはとても奇妙なことだと思う。なぜなら、その作品にたいしてとるべき態度を知っている、それをおもしろいと思える態度を知っている、ということは、「わたしはすでにその作品を知っている」ということだからだ。はじめて見る作品なのに「わたしはすでにその作品を知っている」という矛盾を解決をする手段は、たぶん、たんじゅんだと思う。その作品がたまたまちがうひとがちがう題名でつくられているだけで、以前見たことがある作品とおなじものだからだ。




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