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孤独である以外のなにかを語りはじめるやりかた

2012.04.03(00:01)

パパ・ユーアクレイジー (新潮文庫)パパ・ユーアクレイジー (新潮文庫)
(1988/01)
ウィリアム サローヤン

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 3月29日(木)

 会社にいった。協力会社のMSさんがほかの現場にいくということで、送別会だった。わたしたちは送別をした。TSさんが新人のころにやった一発芸を見せてくれた。すごいことになっていた。日本酒をくぴりくぴり飲んでいたらすこしだけ気持ちがわるくなった。


 3月30日(金)

 会社にいった。7時30分くらいまで仕事をした。モスバーガーにいってコーヒーを飲みながらせっせと日記を書いた。1日の時間はまったくおなじで、時間を絶対的基準において考えるならば1日のあいだに起きるできごととはまったくおなじはずだ。1時間のあいだにひとを殺したとしても、街路樹をぼうっと眺めていただけだとしても、なにが起こったはちがうけれど、そこに生じたできごとの、こういってよければ数みたいなものはおなじはずだ。柴崎友香の小説において「なにも起こらない」というのはどういうことなんだろう。彼女はひとがなにをしゃべったとか、ものがどういうふうに見えたとか、そういうことを書いて、それは彼女が経験したという意味でたとえばひとを殺したということと等価でなければならない。なぜできごとの種類によってそこにかける時間や価値を変えることがでできるんだろう。絵画は1枚の絵だ。そのなかで殺人が描かれていたとしても、他愛のない風景が描かれていたとしても、それはたった1枚きりの絵だ。わたしはときどき絵画をうらやましく思う。
 SPEEDの曲ばっかり聴いている。「Go! Go! Heaven」とか「my graduation」とか。すばらしい。

 
 3月31日(土)

 朝早く起きてキネカ大森までツァイ・ミンリャンを見にいく予定だったけれど、ふつうに寝すごして、それでも食パンを焼いてもぐもぐ食べたり煙草を吸ったりしていなければまにあったかもしれないけれど、やっぱりまにあわなかった。風がばかみたいにつよくて、タル・ベーラ「ニーチェの馬」みたいで、もうすぐ世界は終わってしまうんだなあと思った。電車は運休と徐行ばかりで、なかは骨に肉がはりついたような生きものであふれていていやだった。サローヤン「パパ・ユーアクレイジー」をすこしだけ読んだあとは、ずっと窓のそとを見ていた。風に吹かれて風景のあらゆる箇所がすこしずつ波うっていた。


「そうさね、私が思うに、多分私はサンフランシスコを恋することから醒めてしまったんだろうよ。そして、作家にとっては、彼が恋していない都会に住むのはぜんぜん無駄なことだ」
「もしも世界中のどんな都市にも恋をしていない作家だったらどうするの?」
「彼は困るだろね」
「どうして?」
「作家というのはこの世界に恋をしていなきゃならないんだ。さもなければ彼は書くことができないんだ」
「どうして書けないの?」
「それはね、善いものはすべて愛から発するからさ。作家がこの世界に恋をしている時、彼はすべての人に恋をしているわけだ。そこのところを本気で追求してゆけば彼は書くことができるのさ」
 僕は遙かな星を見つめた。
「僕はこの世界に恋をしている?」
「もちろんさ。もしかすると、自分が恋をしていないんじゃないか、なんて考えがお前に浮かぶ理由でもあるのかね?」
「いいや別に。ただ、僕がこの世界を憎んでいること以外にはね」
「ウン。お前がどれだけこの世界を憎んでいるか、私はよく知っている」
     ――ウィリアム・サローヤン「パパ・ユーアクレイジー」


 そのあと、シネマヴェーラにいって山内鉄也「忍者狩り」と丸根賛太郎「天狗飛脚」を見た。「忍者狩り」はがんばって忍者をやっつけるという話だけれど、「犠牲を覚悟しなければ忍者は斬れんのだ」とか「忍者は若君を狙うときにしか姿をあらわさん」とか、忍者をほとんど妖怪あつかいしていた。これはほとんどホラー映画で、いつ忍者に暗闇から襲われて殺されるんだろうとはらはらどきどきしてとてもおもしろかった。「天狗飛脚」も、あたかもドストエフキーの小説で国家や宗教について語ることがしんけんであったかのように、「おかしみ」というものが現代とはちがってなんの留保もなく発揮されていてとてもゆたかに思えておもしろかった。
 ほんとうは戸川純のライブにいくはずだったけれど、それがなにやら中止になって、しかたなくイメージフォーラムまでいってキム・ギドク「アリラン」を見た。最後の銃をばんばん撃つところ以外はおもしろかった。よく知らないけれど、キム・ギドクは2008年からずっと山小屋にこもって映画を撮らずに暮らしていたらしい。それには、「悲夢」の撮影中首吊りシーンで女優が事故にあってあやうく死んでしまうところだったこと、「映画は映画だ」のチャン・フンのメジャーへの移行を裏切りだと揶揄されたことなど、いろいろあったと語っていた。
「俳優をつかって映画を撮れなくなった。だから俺は自分を撮るしかない」とキム・ギドクは語った。この映画にはキム・ギドクしかうつっていない。「デジタルカメラならありのままを撮ることができる。照明もいらない。デジタルカメラにも照明をもちいるやつらもいるけれど、それは装飾のしすぎなんだ」とキム・ギドクは語った。「俺はいつも1本の映画を撮りおわると次のシナリオに撮りかかった。次の映画を撮れなくなるのがこわかった」とキム・ギドクは語った。
 ゴダールは「プロというのはあまり映画を撮りません。彼らは1本の映画を撮りおえると次の映画にとりかかるまで何ヶ月も、何年もあいたとしても、次の映画に撮りかかるときには映画が撮れると思っているのです」というようなことを語り、高橋源一郎も「年に2、3本詩を書いているひとでも、詩人だと名のっています」とどこかで書いていたような気がする。
 たとえば、小説を書きたいと思っているひとにとってその思いにあたいする分量というのはどれくらいなんだろう。太宰治は処女作の「晩年」刊行まえに「5万枚の原稿を書いてやぶりすてた」と言った。実際に太宰がどれくらい書いたのかは問題ではないと思う。わたしが思うのは、いったいわたしはどれくらい書けば「5万枚書いた」と言うことができるのかということだ。わたしはできるならキム・ギドクやゴダールのようでありたいと思う。1日3枚も書けば1年で1000枚以上になる。でも、小説を書きたいと思っているひとは、あるいは小説家と呼ばれているひとたちですら、1000枚も書いていないような気がする。1日3枚というのはたいした分量じゃない。小学校では「1時間や2時間で3枚くらいの作文を書きなさい」と言われていたはずだと思う。文章を書きたいと思っているひとが1時間や2時間でできることを1日かけてもやらないということは、いったいどういうことなんだろう。「書けない」とか「書くことがない」とか、そういうことではないと思う。「書けない」んだったら「書くことができるようにする」というのがあたりまえのことだろうと思う。中学生だって「家じゃ勉強できないから図書館にいって勉強しよう」と思ってそうやっているはずなのに。「書くことがな」くてもすくなくともわたしたちは「書くことがない」ということについて書くことができるはずだと思う。そんなものを書きたくないのなら本屋さんにって目についた小説を買い、その筋をてきとうにまねして書けばいいだけだと思う。それすらしないのならそれはさぼっているということで、だからわたしはときどき「俺はさぼっている」と言えばいいのにと思う。それはべつにわるいことじゃない。
 わたしはシステムを、プログラムをつくっているけれど、わたしはわたしが書いているプログラムをしょっちゅう読んだり、そのプログラムの処理についてまわりのひとと話しあっている。わたしはいちにち7時間も8時間もそんなようなことをしていて、だから、わたしはわたしが書いているプログラムについてそれなりに知っていると思う。小説とプログラムのちがいは、それは日本語で書かれているか、COBOLで書かれているかのちがいでしかないと思う。そしてわたしはきっと、わたしが書いたプログラム以上に熱心に小説を読んだことはないと思う。わたしはわたしが書いたプログラム以上に熱心になにかの小説についてだれかと語りあったことはないと思う。わたしはべつにプログラムなんか書きたいと思ってはいなくて、小説は書きたいと思っているのに、知らないあいだにそんなふうになってしまった。ゴダールは「ヌーヴェル・ヴァーグが持っていたちからというのは、我々がしょっちゅう映画というものについてたがいに語りあっていたことからきています」と言った。わたしはわたしが読んだ本やわたしが見た映画やわたしが書いた小説について他人と語りあったりはしない。わたしがそんな欲求を持っていないということもあるけれど、わたしはいつも他人となにかについて語りあうということがわからない。ずっとずっと、わからないままだし、これからもわからないんだろうと思う。わたしはそれなりに熱心に日記を書いていて、そのなかにしめる分量はわたしがなにかをしたということよりも映画を見たり小説を読んだりして思ったことのほうがおおいと思う。それは、わたしがしかたなくわたしと語りあっているということかもしれないとときどき思う。あるいは、わたしはただ白紙と語りあっているというだけのことかもしれない。埋められない原稿と。わたしには、もしも白紙と語りあいたいと思ったとき、そこになにかを書きこむ以外のやりかたを見つけることができない。そして、それは「すでにそこにあるもの」について語るというやりかたではありえない。「語りはじめる」ということをとおして「そこにものが生まれる」ということだと思う。高橋源一郎は「いままで目に見えていたものがちがうふうに見えるということから小説ははじまる」と言った。カフカの主人公たちは、虫になり、城に呼ばれ、審判を受けはじめる。そのことじたいになんの意味もないし、ほんとうのところ、彼らが虫になり城に呼ばれ審判を受けはじめるまえには、虫も城も審判もなかった。なにかを書くということがもしも孤独であるなら、それはなにもないにもかかわらず、ひとりぼっちでしかないにもかかわらず、なにかを語りはじめないといけないからだと思う。それはさみしく、みじめなことなのかもしれないとときどき思う。けれどわたしは、孤独である以外になにかを語りはじめるやりかたを知らない。




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