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金槌を持った幽霊

2012.04.03(00:03)

ツァイ・ミンリャン監督作品  楽日 [DVD]ツァイ・ミンリャン監督作品 楽日 [DVD]
(2007/02/23)
リー・カンション

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 4月1日(日)

 ねむいーねむいーと思いながら起きて、ことこと電車にのって、キネカ大森でツァイ・ミンリャン「楽日」と「西瓜」を見た。たとえばホドロフスキーを見てわたしは「カルト!」と言うことはできるように思うけれど、ツァイ・ミンリャンを見てもそうは言えないと思う。たとえばデヴィッド・リンチの「イレイザーヘッド」や「エレファント・マン」がそうであるようにはこれらの映画をカルトだと言うことはできない。そして、ほんとうのところ、わたしがホドロフスキーやリンチについて「カルト!」と言うのはわたしがそういうもののことをカルトと呼ぶことを覚えてしまっただけのことだし、ほかのひとがみんなカルトと呼んでいるだけのことだろうと思う。わたしはみんながツァイ・ミンリャンのことをカルトと呼んでくれないからツァイ・ミンリャンの映画についてなんて言えばいいのかわからない。それは、たとえばみんなが黒田育世のダンスについてなんて言っていいのかわからないのとおなじ程度のことなんだろうと思う。
「楽日」にはわたしたちがふつう知っているようなおもしろさというのはいっさいない。ということは、この映画はとてもつまらない映画ということだけれど、問題はそのつまらなさがどうおもしろいかということにおよんでいると思う。この映画にはせりふが数えるほどしかない。たぶん5こか6こくらいだと思う。ひとがしゃべっている時間はぜんぶで1分にも満たないと思う。だから、わたしはふつうに映像を見ているしかないけれど、これは映画館のつぶれる最終日をうつした映画だから、そこにはきたない映画館しかうつっていない。もしもかりにそこになにかがうつっているとしたら、わたしはそれを「不穏さ」と呼ぶしかない。1本の長い廊下があるとして、ツァイ・ミンリャンはそれをまんなかから撮らない。斜めうえとか、斜めしたとかからばっかり撮っている。だから、右側にうつっているものが左側にはうつっていない。「右側にうつっているものが左側にはうつっていない」ということについてだからなんなのとわたしも思うけれど、すくなくともツァイ・ミンリャンの映像にはそう書くだけのなにかがあるということだと思う。ふつう、ひとは「踊る大捜査線」や「アバター」を見て「右側にうつっているものが左側にはうつっていない」とは書かない。それは、なんというか、「踊る大捜査線」や「アバター」では右側にうつっているものが左側にも必ずあるということなんだと思う。ツァイ・ミンリャンは死角をつくりだして、たとえばその死角からとつぜん足がでてくる。足がでてくるということがなにかの価値を持つためには、そこに足がいままでなかったということが前提になると思う。だから、この映画においてはうつっていないものは「ない」し、足がでてくるということは足の誕生を意味している。それは、たとえて言えばテレビから貞子がでてくるのとおなじ原理をゆうしているはずだ。足のわるい女のひとが長い廊下を歩いて、扉をひとつ開けて、閉めずに歩きつづけて、その向こうにはもういっこ扉があって、女のひとはそれを開けて閉めずにもっと向こうまで歩いていく。このシーンにおいてもカメラは左上にかまえられていてやっぱり不穏さめいたものを感じるけれど、女のひとはどうして扉を閉めずに向こう側まで歩いていってしまったんだろう。ここで女のひとが扉を閉めないということがなんらかの価値を持つのなら、その価値はわたしがほんとうにしかたないから映像を見つづけているしかないということからきていると思う。たぶん、その女のひとはここでひとつの風景をつくりだしている。それはやはりなんらかの価値の発生なんだと思う。扉を閉めないということがすでにひとつの行為にまで昇華されている。画面のそとからあらわれたものは生まれ、画面のそとへはじきだされたものは消え、生まれては消えがくりかえされて、そして行為は非行為がそれによりそうようにつらなっている。男子トイレのおしっこのシーンもやはり監視カメラみたいな位置にカメラが設置され、はじまりからひとりの男がいちばんすみっこの便器でおしっこをしていて、そのとなりの便器でもうひとりの男がおしっこをしている。このふたりはたぶん知りあいでもなんでもないけれど、そういうことと関係なく、ほかの便器がすべてあいているのに男子トイレのなかでふたりの男がとなりあっておしっこをするということはまずない。ふつうひとつ以上便器をあけておしっこをするはずだ(この男はホモに見えるけれど、それを断定するようなことも描かれていないのでよくわからない。ほんとうに煙草の火を借りたかっただけかもしれない)。3人めがやってきて、やっぱりとなりの便器をつかっておしっこを開始する。奥の個室からは男がひとりでてきて、なかば開きっぱなしだった扉もしばらくの時間放置されたあと、とつぜんなかから閉められる。個室のなかにはふたりのにんげんがいたということになるけれど、個室のなかにこもったままのにんげんもやはり扉を閉めるということによって生まれている。行為が発生そのものにいつのまにかすりかえられていて、そこにあるのはわけのわからない不穏さとわけのわからない迫力だ。トイレのシーンはまだつづいて、2分も3分もたっているのに小便器に向かった3人の男はずっと動かない。おしっこなんて2分も3分もかかるはずがないのに、この3人はとなりあってずっとそこから動かない。おしっこが続いているのかどうかもわからない。それがなんなんだろうなとわたしだってやっぱり思うけれど、やっぱりそこにはなにかがあるんだということしか言えない。この「楽日」という映画においては、たぶん、「なにかがある」という漠然と感じる気配がものすごい重みを持っているということだと思う。たぶん、「なにかがある」ということがあたかもひとつの行為のように、ひとつの発生のようにこの映画ではあつかわれているんだと思う。そんなふうにものごとやものごと未満のことがあつかわれている映画は、わたしの知るかぎりほとんどない。
 最初のほうに書いたとおり、「楽日」にはわたしたちがふつう知っているようなおもしろさというのはいっさいない。3人のとなりあった男のひとが2分も3分も小便器に向かいつづけているシーン(もちろんだれもひとこともしゃべらないしカメラも動かない)がある映画なんてふつう見てもおもしろくない。だから、「楽日」はわかるひとにだけわかる映画なんだろうか。端的にいって「そうだ」ということをすくなくともわたしは否定することができない。映画や小説について「わかる」とか「わからない」ということはいったいどういうことなんだろうとときどき思う。たとえばタル・ベーラ「ニーチェの馬」は娘が水をくんだりおっさんの服を着がえさせたりふたりでじゃがいもを食べたりしているシーンが大部分をしめていて、ほとんどそれだけが6日間くりかえされている。会話もほとんどない。この映画について、風が吹いてて陰気な親子がじゃがいもばっかり食べているだけじゃん、よくわかんないよ、ということしか言えないのなら、そのひとはこの映画について「わかっていない」ということになると思う。「ニーチェの馬」にうつしだされている映像を見て、にんげんはその深く刻まれた陰影から美しさを感じとったり、炎が消えていく光景から宗教的神秘を見てとりある種のカタルシスを感じることもできるからだ。すくなくとも、その映画を見てなにかを感じてこころを動かされたなら、どんなできごとが起こったか、とか、はらはらどきどきした、とか、そういったものや感覚のみに回収されないわたしたちの気持ちがあり、それはたぶん「わからない」にはつながらない。わたしはそれを感受性の問題だとは思いたくない。感受性があるかないかという問題はほとんど「あの作家は天才だ」と言うこととひとしいと思う。わたしはだれかを天才かどうかと判断することにほとんど魅力を感じないし、「あの作家は天才だ」という言葉の裏にはそれ以外のにんげんは凡人だという暴力的なものがはりついていてとれない。それは先鋭化させるだけでたやすく「感受性のないおまえは俺のまえから消えろ」というありかたにいきついてしまうように思う。
 青木淳悟「四十日と四十夜のメルヘン」(新潮文庫)の解説で保坂和志はこう書いている。

 
 小説というのは音楽と同じで一読すればわかるようなものでなく、「このおもしろさはどこからくるんだろう?」と考えながらもう一度読んだり、読まなくてもそのひっかかりをいつまでも持ちつづけることによって、おもしろさを発見する。というか、いままで自分が知らなかったおもしろさに向かって、思考が開かれる。ということは、思考の形態が変わる。

 
 保坂和志がここで書いていることはただしいとわたしは思う。ここに傲慢さがあるとすれば「音楽と同じで」とさらりと書いていることだと思う。「音楽というものは一度聴いただけでわからない」ということをわたしたちはうまく受けいれることができるんだろうか。大衆に向けられた音楽はたぶん1度聴いただけでそのよさがわかるようにつくられている。そうでなければ売れないからだ。すでに大衆向けとは呼べない音楽、ジャズやクラシックを聴いてそれをいい音楽だと思うにはそれそうおうの訓練が必要だということは、たぶんそう思えるようになったひとには明白なことだと思う。でもなかなかそれを言うひとはいない。恥だからだ。カフカやアンゲロプロスなんてつまらなくてつまらなくてしょうがなかった、でも俺は「これはおもしろいものなんだ。なぜならたくさんひとがこれは芸術としてとてもすぐれていると言っているからだ」と思って我慢していっしょうけんめい読んだり見たりしてきたんだ、そうやって我慢しているうちにおもしろいと思いこむようになっちゃったんだ、とはわたしも言わない。だから、ときどき言ったほうがいいように思う。けれど、かりにそうやって我慢してカフカやアンゲロプロスをおもしろく感じるようになれはしたとしても、それがおもしろいのかどうかは錯覚かもしれないという思いは消えないと思う。
 カフカやアンゲロプロスをある種の訓練によっておもしろいと感じられるようになったとしたら、その訓練とはたぶん、そのひとがいままで生きてきた生活のやりかた、読んだ本、見た映画、聴いた音楽、他者との会話、他者とのふれあいだろう。わたしはそのなかでもっともわかりやすいものとして、ゴダール「映画史」や高橋源一郎「ニッポンの小説」をあげていままでいろいろ書いてきたけれど、その「もっともわかりやすい」という意識ですら、文学によって統制されたものでしかない。それは支配ですらあると思う。そしてたぶん、カフカやアンゲロプロスをおもしろいと思う過程が訓練と呼べるなら、たとえばだれかがEXILEの音楽をよいと思う過程だって訓練だと思う。だれもそれを訓練だと言わないだけだと思う。そしてそれを訓練と呼ばないことが、わたしたちの世界がわたしたちに唯一教えたことだと思う。わたしたちはもっとちがったかたちを持ちえた。わたしがかりに政治に興味を持たないとしても、それはこの国がわたしに教えてくれたことだ。そして、たぶん政治に興味を持たないことをわたしに教えない方法をたくさんのひとが見つけだそうとして、見つけだせないでいるんだと思う。


「とにかく私たちはそんな具合に成長してきたのよ、二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供たちが経験するような性の重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなものを殆んど経験することなくね。私たちさっき言ったように性に対しては一貫してオープンだったし、自我にしたってお互いで吸収しあったりわけあったりすることが可能だったからとくに意識することもなかったし。私の言ってる意味わかる?」
「わかると思う」と僕は言った。
「私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもしキズキ君が生きていたら、私たちたぶん一緒にいて、愛しあっていて、そして少しずつ不幸になっていったと思うわ」
「どうして?」
 直子は指で髪をすいた。もう髪どめを外していたので、下を向くと髪が落ちて彼女の顔を隠した。
「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔を上げて言った。
「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ」
            ――村上春樹「ノルウェイの森」


 直子にキズキがいたように、わたしにもなにかがあり、ありつづけていると思う。わたしだけではなく、わたし以外のひとにも直子にキズキがいたようになにかがあったりだれかがいたんだと思う。そして、その大小はどうであれ、わたしたちは世界に借りを返さなくてはいけないんだと思う。たぶん、わたしがアンゲロプロスやツァイ・ミンリャンをすばらしいと言うことで、どこかがだれかが傷ついている。それが実的ではなくても、それがひとりもいなくても、わたしの言葉はどこかでだれかを傷つけ、そしてどこかでだれかが傷ついているかもしれない。いつか、それは世界というかたちをもってわたしに復讐しにやってくるかもしれない。わたしに代価を求めるかもしれない。それは金槌を持った幽霊のように夜中わたしの寝台にやってきて、わたしの頭を割るだろう。
 ということはどうでもいいけれど、「西瓜」は「楽日」よりもおもしろかった。そのあと帰ろうかなと思っていたけれどがんばってシネマヴェーラまでいって倉田準二「十兵衛暗殺剣」と黒澤明「羅生門」を見た。やはりどちらもおもしろかった。感想を書くのはめんどうくさすぎてむりだけれどおもしろかった。
 帰りの電車のなかで旧約聖書の「サムエル記」を読みおえた。やっぱりおもしろかった。




コメント
気になるのですが、女子トイレが映るシーンはなかったのでしょうか。
それから、古い話になりますけど、昨年の新潮新人文学賞受賞作品の文体がなんだかこのブログのそれに似ている気がしたんですけど私の錯覚でしょうか。
話は変わりますが、映画「メランコリア」はどう思われました?私はワーグナー・ファンのせいか妙に楽しかったのですが。
【2012/04/05 17:00】 | ぐっしい #- | [edit]
このコメントを読んでいるひとへ
ラース・フォン・トリアー「メランコリア」の結末についてふれています。
まだ見ていないひとは 読まないほうがいいです。


ぐっしいさん

> 気になるのですが、女子トイレが映るシーンはなかったのでしょうか。

ありました。
とは言っても それは僕の記憶では洗面台だけで
そして 画面の右端にうつっていました。
まんなかには廊下がうつっていました。
そして左側には 映画館の座席へとつづく扉がうつっていました。
それもまた 非対照な 美しいアングルだと思いました。

> それから、古い話になりますけど、昨年の新潮新人文学賞受賞作品の文体がなんだかこのブログのそれに似ている気がしたんですけど私の錯覚でしょうか。

昨年の新潮新人文学賞受賞作品についてはなにも知らないのですけれど
僕の考えだと それは錯覚です。

> 話は変わりますが、映画「メランコリア」はどう思われました?私はワーグナー・ファンのせいか妙に楽しかったのですが。

ワーグナーというひとをとんと知らないのでなんとも言えませんけれど
今年見た外国の映画のなかではいちばんおもしろかったと思います。
惑星が近づいたおかげでみんなへんなことをしだしてしまう
というのは 相米慎二「台風クラブ」を思わせますが
トリアーのこの映画はより物語的だと感じます。
この映画では 「メランコリアが近づいたときなにかが起こる!」と
終始観客に思わせます。
それは なんらかの予兆なんだと思います。
だからこそ メランコリアが地球から遠ざかっている 近づいている
ということがせつじつな問題になるのだと思います。
メランコリアが衝突するのは観客にとってはわかりきっています。
問題は そこにはないのだと思います。
ラストシーンで メランコリアは地球に衝突して
地球は崩壊しますが 
僕は「なんにも起こらないのかよ!」ととてもびっくりました。
地球が崩壊したのに「なんにも起こらないのかよ!」と
思わせる映画や小説を 僕はほかに知りません。
この映画では「なにかが起こる」ということの
定義が 通常僕たちが考える意味とまるでことなっています。
メランコリアが衝突するということより
花嫁が よくわからない男といきなり性交したり
花嫁の父親が逃げてしまうことのほうが 
より 「なにかが起こる」という感触をえられます。
そういう意味で この映画は壮大なギャグだと思います。
そして 壮大なギャグは それがふまじめであるという意味においてなお
より現実的で より現代的で よりおもしろいと感じます。
【2012/04/07 23:36】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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