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物語の終わりを終えるための墓掘り

2012.04.05(23:04)

ゴダール 映画史(全) (ちくま学芸文庫)ゴダール 映画史(全) (ちくま学芸文庫)
(2012/02/08)
ジャン=リュック ゴダール

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 4月2日(月)

 会社にいった。会社にいったということだけは覚えているけれど、あとはなにをしたのかさっぱりわからない。
 青木淳悟の「四十日と四十夜のメルヘン」をわたしはおもしろく読むことができなかった。たぶん、この小説はわたしが興味を持つというやりかたにおいてしか興味を持つことができない小説なんだと思う。そして、それはわたしがアンドレ・ブルトン「ナジャ」を読んだときの感触に似ているように思う。保坂和志は、たぶん、この小説がおもしろさを発見しそれによってそれまであった自分自身が変わることに重きを置いて評価しているように思う。それはただしいと思う。この小説は自分自身が変わることをすくなくない範囲で要請していると思う。逆に言えば、そうでなければおもしろさを感じることすらできなくて、その発見や自己の変革がこの小説のおもしろさになるように思う。けれど、ゴダールは「どんな映画もあるひとの1日の生活よりも想像力に欠けています。ひとびとは映画を見るために2ドルをはらい、さらにそこには自分の生活よりもゆたかなものがあると思いこまされているのです」と言った。よくはわからないけれど、わたしもどんな映画を見てもそこには自分よりもゆたかなものがあるように思う。そして、なんというか、青木淳悟の小説はそういう装いをまったくしていないんじゃないかと思う。そこにはゆたかさみたいなものはまったく見られなくて、たぶん、青木淳悟はどうでもいいくだらないことばっかり書いていて、わたしはそれがどうでもいいくだらないことばっかりだなあと思うから彼の小説がよくわからないんだと思う。自分が変わらざるをえない、自分の思考形態を変えなくてはならないもの、それは貧困だ。困窮したときわたしたちはいろいろなものをあきらめ、いろいろな仕事をしなければいけない。そして、青木淳悟の小説は貧困の代替品なのかもしれないと思う。貧困することなくそういうことが体験できるという意味ではそれはほんとうにはゆたかなものかもしれない。けれど、そこに発見したおもしろさが「あきらめ」ではない保証はたぶんなにもない。そして、ときどき思うけれど、けっきょくのところ「おもしろさを発見し、思考を開く」たぐいの小説はそのやりかたにおいて単一でしかない。それらの小説がほかの小説よりも深かったり、よくわからなかったりして「考えさせられる小説だなあ」とかほんとうはなんにも考えてないようにしか思えない感想を抱かせるようなものだったりするときも、それらの小説は、やっぱり、そのやりかたによってひとつしかないのかもしれないと思う。なにを読んだとしても、わたしたちは「考えさせられる小説だなあ」と言うことがたぶんできる。そのとき、ひとつなのは小説なんだろうか、それともわたしたちなんだろうか。わたしにはやっぱりよくわからない。

 
 4月3日(火)

 会社にいった。ちっとも知らなかったけれど、今日は風がとてもつよい日だということで、午後になると「みんな今日は遅くても3時には帰るように」と言われてうっひょーと思った。わたしは家まで歩きだからべつに電車がとまってもちっともかまわないけれどと思いながら帰った。
 帰ってゴダール「映画史」を5時くらいまで読んだ。読むたびに思うけれど、この本はなんておもしろいんだろう。さいきんずっと書いていることだけれど、たとえば映画を見たり小説を読んだりして「おもしろい」と言うことは、はじめにその映画なりの小説なりの「たのしみかた」を知っていて、それにそう、その「たのしみかた」に回収されるものだけしかわたしたちが「おもしろい」と呼ぶことができないとしたら、わたしたちはなにも見たりしていないし、なにも読んだりしていないのかもしれかもしれない。


 4月4日(水)

 会社にいった。
 帰りにドトールにいって小説を書いた。わたしの小説はいつもらくなほうへらくなほうへと逃げていって、油断するとすぐに宇宙人がやってきて世界が終わったり、なんだか寝ているあいだに世界が終わったりして、つまり世界が終わってそのなかにとりのこされたひとがなんだかよくわからないことを考えたりよくわからない気持ちを抱いたりして終わる。世界が終わったり、あるいはそこにいるひとびとがみんな死んでしまったりすることがらくなのは、もうわたしがそれ以上つづきを書く必要がないからだと思う。世界の終わりについてはいくらかクライマックスめいているかもしれないけれど、かりにそのクライマックスが、もうそれ以上書く必要がない、もうこれ以上物語をつづける必要がない、という意味や価値しか持ちえないのなら、物語が終わった瞬間はほんとうにはそのクライマックスの直前でしかないのかもしれない。クライマックスというのはただの終わりの終わりことでしかないのかもしれない。もう終わってしまったことを終わらせるためにクライマックスというものがひっぱりだされてきたのだとしたら、クライマックスと呼ばれるものはほとんど墓堀り人にひとしいように思う。それはよごれ役のことだと思う。いちばん輝かしい光をあて、わたしがそのクライマックスをひきたてたとき、クライマックスはわたしになにを思うだろう。クライマックスはよごれた身体を恥じるかもしれない。こんなときにしか呼びだされないことを怒るかもしれない。そしてそれはいつだって侮辱かもしれない。だから、というわけではないけれど、わたしはなにも起きない話を書こうと思ってその小説を書いている。それはもうすでに失敗しているけれど、わたしはすこしだけ、ほんのすこしだけ、物語が終わったときにその小説が終わればいいと思う。
 ほとんどの小説は、そのやりかたがちがうとしても、おなじことを描いている。そこに描かれたひとになにかが起こって、そしてなにかが変わり、なにかそのできごとが起こるまえとはちがった考えや気持ちを抱く。小説というのはほとんどそれだけをやっている。映画がうらやましいのは、なにかのできごとを経験したひとがそのできごとよりもまえとはちがったことを考えたり思ったりする必要がとくにないということだと思う。映画は映像だからだ。そこにうつっているひとがなにを考えているのかどんな気持ちを抱いているのか、言葉で描かれていないからわからない。だから、それはゴダールが「映画を見て登場人物たちがこれこれのことを考えているのは観客なのです。その登場人物はいまなにも考えていません。観客はお金をはらってしかも仕事をしているのです」と語ったとおり、それはわたしたちが考えなければならない。
 小説というのは、きわめて自由であるけれど、自由であるかわりにわたしたちはなにも信じることができなくて、それでしかたないからそれを書くひとはうそを書くしかなくなってしまうように思う。たとえばある男がいて、その男が恋人となにやらできごとを起こして、そのあとその小説の地の文で「僕は彼女のことをより愛おしく思った。」と書いてあったなら、読んでいるひとはそれを信じるかもしれない。けれど、「僕は彼女のことをより愛おしく思った。」という言葉は現実のどこにも存在していない。現実においてひとがだれかについてなにかを思うとき、その気持ちはもっと漠然としたまとまりのないものとしてしかあらわれることができない。そもそも、それは言葉ではなくて気持ちなんだから言葉で書きあらわせるものじゃないと思う。「僕は彼女のことをより愛おしく思った。」と書いたその男はそう描写された瞬間に「僕は彼女が愛おしい」と思っているわけじゃない。「僕は彼女のことをより愛おしく思った。」というのはほとんどうそで、その文章は小説として描かれるためだけに用意された言葉にすぎない。洗濯機の説明書に洗濯機のつかいかたが書いてあるのとおなじように、それはたんなる「僕」の思いかたを書いたにすぎない。でも洗濯機のつかいかたを知ったひとはつぎには洗濯機のスイッチをいれなくてはいけない。そして小説においては「僕」の思いかたを読んだとしてもそのあとそれを読んだひとが押すべきスイッチはない。けれど小説というのはそういうふうに書いてもいいんだと、いいかどうかは知らないけれど、そういうふうにたぶんほとんどのひとが思っているように思う。たんじゅんな技法として、小説には「思ったことをそのまま書かない」というものがある。わたしにはどうしてだかよくわからないけれど、とにかくそういうものがあって、「僕は彼女のことをより愛おしく思った。」と書くより「彼女ととなりあって窓のそとを降りしきる雨を見ながら、僕は以前はにぎれなかった彼女の手をかたくにぎりしめた。」と書くほうが小説の書きかたとして高等だと思われているように思う。それはそうかもしれない。そうかもしれないけれど、それはたんに技術的な話にすぎないように思う。「僕は彼女のことをより愛おしく思った。」と書くかわりに「彼女ととなりあって窓のそとを降りしきる雨を見ながら、僕は以前はにぎれなかった彼女の手をかたくにぎりしめた。」と書くのなら、そこで描写されている行為も結局のところ「僕は彼女のことをより愛おしく思った。」の代弁でしかなくなってしまう。行為であるにもかかわらず、それは言葉となってしまう。そして、その言葉がもともとうそであったならその行為もうそとなってしまう。もしもだれかがその行為を問いつめたときその男が「僕が彼女の手をにぎったのは彼女のことをより愛おしく思ったからだ」としか言うことができないとしたら、それはうそだ。男はそんなことは思っていないからだ。だから、きっとそうじゃないありかたがあるはずで、そうじゃないやりかたを見つけたいと思うけれど、わたしにはよくわからない。

 
 4月5日(木)

 会社にいった。仕事をした。AIさんに「SSさんが落ちこんでるよ」と言われてSSさんのところにいったら「落ちこんでないよ」と言われた。
 帰りにドトールにいって日記を書いた。 




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