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とぎれる瞬間がなく空に変わる水

2012.04.08(01:46)

エレニの旅 [DVD]エレニの旅 [DVD]
(2005/11/26)
アレクサンドラ・アイディニ、ニコス・プルサニディス 他

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 4月6日(金)

 会社にいった。会社はいってはじめてうちの親会社以外の会社もくる会議にでて、ひとこともしゃべらなかった。
 Mっつんがほかの現場にいくというので開かれた飲み会にいった。
 いろいろな話をしたように思うけれど、覚えている話も、覚えていない話もあった。人毛についての話とか、そういうことだった。おもしろかった。帰った。


 4月7日(土)

 起きたら午後の2時だった。へこへこ電車にのって、北千住のシネマブルースタジオでテオ・アンゲロプロス「エレニの旅」を見た。観客は5人くらいしかいなかった。ほかのひとはいったいどこでなにをしているんだろうと思った。わたしは、この映画でひとつもきらいなシーンはなかった。わたしは、この映画でひとつも美しくないと思うシーンはなかった。ほんとうにひとつたりともなかった。カメラのなかにうつされた光景の隅から隅までに美意識がいきとどいているように思えた。それはまったくたんじゅんなことだけれど、わたしが思うに、わたしに光景の隅から隅まで美意識がいきとどいているように思わせる映画を撮れたひとは、ほかにアンドレイ・タルコフスキーしかいない。歴史というものをかりにごく個人的にとらえるとしたら、「エレニの旅」のような映画を撮ることができたひとは、映画史上ふたりしかいなかった。そしてそのふたりはもう死んでしまった。でも、わたしたちにはすくなくともそれを見ることができる。
 水没した村を脱出するために、村人たちが船を漕いでいくシーン、たとえばその光景のなかでは水平線が見えなかった。遠くまでのびていく水がとぎれる瞬間なく空に変わっていた。そういう光景を撮れるということはいったいどういうことなんだろうとときどき思う。あるいは、そういう光景を撮ろうと思う意志とか、非意志とか、そういうのはほんとうにはいったいどういうことなんだろう。
 赤羽駅で「ハンター×ハンター」の新刊を買い、電車のなかで読み、読みおわらなかったからモスバーガーにいってつづきを読んだ。この漫画はたぶんどうあってもいいようにつくられていると思う。十二支んというてきとうなキャラクターを冨樫義博はだしてきたけれど、そんなてきとうなキャラクターをだすことが可能なのは、たぶん、冨樫義博がいつもあとでキャラづけをおこなってきたためだと思う。幻影旅団だって言ってみればたぶんてきとうなキャラクターだった。もしも彼らが魅力あるように思えるなら、それは彼らがだされたあとにキャラづけをされてきたからだと思う。それは、たしかにあたりまえのことかもしれないけれど、そういうことはほんとうはひどくむずかしい。それには、つまり実力が必要だからだ。ウェルフィンをわたしはすごく好きなように思うけれど、ふつうはそんなキャラを魅力的に描くことはむずかしいと思う。とくにウェルフィンはまったくのわき役であったにもかかわらずキメラアント編終盤ではかなりの活躍を見せている。それはたぶんまったくどうでもいいキャラクターとして設定されたはずの彼を冨樫義博が活かせていることだと思う。そこでは、キャラクターの強さのインフレ化が起こりがちなバトル漫画にはなかなか見られないことが起こっていると思う。弱いキャラクターはバトル漫画では活躍させることがむずかしいからだ。その意味でウェルフィンがおこなったことは「ハンター×ハンター」という漫画の、ほんとうにすぐれた手法、技術を端的にあらわしていると思う。それはまた逆のことも可能にさせている。本来ジンは超重要人物にもかかわらず、その本格的な登場に際して大々的なあつかいはされていない。左端にちょこっとさもあたりまえのように描かれているだけだ。このことはほんとうにはなかなかできない。作者も読者も、あたりまえのようにキャラクターを差別するからだ。今村亮さんは「『ハンター×ハンター』には脇役はいない」と言ったけれど、そのとおりで、冨樫義博はその本質においてキャラクターを差別していない。ゴンとキルアはずっとでているけれど、それはほんとうをいえばゴンとキルアが狂言まわしの役割をもおっているからだ。ゴンとキルアがいくところを冨樫義博は描いて、そして、そのときたまたまでてきたキャラクターを魅力的に描く。たんじゅんなことのようだけれど、すくなくともそんなことができている小説家はたぶん、たぶん歴史上にひとりもいない。ドストエフスキーだってそんなことはできなかった。
 三木卓「路地」をすこしだけ読んだ。


(A)女の子の晴着は珍しくもなんともない。が、男の子の着物姿は、これから歌舞伎座の舞台にでも上がる子役のようである。当人もけっこう緊張していて、背中に衣紋掛けごと入れてしまっているようにこわばっている。手にさげた大きな千歳飴の袋が、晴れがましさを添えている。
(B)おれは、とうとう千歳飴を買ってもらえなかった子だった、と西内は思った。
(C)西内は三歳のときの七・五・三には、連れていってもらえなかった。母親が大病だったからである。五歳のときには行った。亀戸の天神さまの太鼓橋をわたったら、大小幾匹もの亀たちが気持よさそうに日向ぼっこをしていた。



 実際の文章にわたしがアルファベットをふった。4月4日の日記に書いたこととおなじ意味で、Bの文章はうそだろう。構成として、Aの文章は実際に西内が見た光景とそれへの感慨で、Cの文章は過去の思い出を語っている。Cの文章はAで描かれた光景から想起されたものだから、AとCにはつながりがある。このとき、Bの文章はAとCをつなぐ潤滑油的なものとして挿入されている。三木卓はそれをわかりやすくするためにA、B、Cで改行している。AとBとCで語られていること、その役割がちがうということを読むひとに教えてくれている。
 それは一般的に「技法」と呼ばれるものだと思う。かりに、学校で「じょうずな文章の書きかた」を教えるとしたら、そのときの先生は「Bの文章はAとCをつなぐ潤滑油的な役割を果てしています。この文章を挿入することによって、読み手はAからCの文章へと違和感なく読みすすめることができます」と解説するだろう。学校というものはわたしが知っているかぎりそういうやりかたでなりたっている。かりに学校というものによくないてんがあるとすれば、その先生がそう解説したあと、「けれど、裏をかえせばBの文章はAとCを違和感なくつなぐためだけに挿入されたものです。だから、その本質としてBは文章ですらないのです。Bは、こう言ってよければ、改行とおなじなのです。改行以外のやりかたで改行しているだけなのです」と言わないことだと思う。Bが「潤滑油的な役割をおっていること」、そして「改行以外のやりかたの改行でしかないこと」、そのふたつ、あるいは読み手によってみっつ、よっつ、いつつの受けかたがあるはずで、そのどれをよいと思いそのどれをわるいと思うかは受け手にかかっていると思う。そして、ときどきわたしはそれを言ったほうがいいように思う。これが「技法」だと気づかないのは、すくなくとも書き手にとって、安西先生が桜木に「いま流川くんがいくつフェイクをいれたのかわかるかね?」と訊いたときひとつのちいさなフェイクに気づかなかったのとおなじ意味でつたないだけかもしれない。けれど、そのあとにわたしたちはなにか個々のことが言えるはずだと思う。「技法」について気づくことはだれだってできるはずだ。できないならそれに気づくような教えかたをされていなかったり、そういう読みかたをしていないだけだと思う。けれど、わたしが愛したいと思うのは、わたしが見たいと思うのは、「技法」以後の言葉だと思う。そのあとの言葉のほうがずっとずっと大事で、ずっとずっと慈しみたいと思う。
 家に帰って日記のコメントを返した。「セックス」という言葉がひっかかって投稿できなかったから、「性交」という言葉をつかったら投稿できた。いったいだれが「『セックス』という言葉がはいった文章は投稿禁止にするが、『性交』という言葉はよしとしよう」ということを言いだしたんだろう。そういうことはされていないと思うけれど、もしも何人かのひとがちいさな会議室のなかにはいって「『セックス』という言葉がはいった文章は投稿禁止にするが、『性交』という言葉はよしとしよう」ということを話しあっているとしたら、そのひとたちはほとんど頭がおかしいと思う。ゴダールは「ほんとうの変革とにせものの変革があります。にせものの変革とは『社会主義』という言葉が『資本主義』という言葉にとってかわるように、言葉だけがすりかえられるということです」と言った。「セックス」という言葉を禁止したひとたちはいったいなにを禁止したいんだろうかと思う。言葉というものが狩られたときにわたしたちがどうなってしまうのか、言葉狩りがなぜたやすく全体主義に結びつくのかはジョージ・オーウェル「一九八四年」を読めばとてもわかりやすく書いてある。「セックス」とコメント欄に書くことができないことをわたしはとても腹だたしいと思う。けれど、そのいっぽうでそれを禁止したひとがビッグ・ブラザーではないことにわたしはとまどう。彼らはたぶん全体主義をおしすすめようとしているわけではないと思う。彼らはただ「迷惑コメントを防止すればユーザーがよろこぶだろうから、『セックス』という文字がはいった言葉は機械的に弾くような仕組みにしよう」と思っただけのことだと思う。彼らは「性交」というあんまりつかわない言葉を思いつかなかっただけかもしれない。彼らはユーザーにやさしくしてお金を儲けようとしているだけだと思う。ユーザーにやさしくしてお金が儲かるなんてなんてすてきなやりかただろう! けれど、なんとなくだけれど、「性交」ではなく「セックス」と書きたかったひとにたいして彼らが言えることはなにもないように思う。言うことがなにもなくなったとき、わたしたちにはなにがのこるだろう。気まずさしかない。だからわたしも彼らも家に帰って「いやなことは忘れて寝てしまおう」と思って寝台にはいって眠ってしまう。




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