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勅使川原三郎「オルガン―呼吸する物理学―」@シアターχ

2012.04.16(22:44)

Complete Plays: Blasted/Phaedra\'s Love/Cleansed/Crave/4.48 Psychosis/Skin (Contemporary Dramatists)Complete Plays: Blasted/Phaedra\'s Love/Cleansed/Crave/4.48 Psychosis/Skin (Contemporary Dramatists)
(2001/05/01)
Sarah Kane

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 4月10日(火)

 会社にいった。


 4月11日(水)

 会社にいった。


 4月12日(木)
 
 会社にいった。


 4月13日(金)

 会社にいった。
 びっくりするくらいに記憶がない。火曜日と水曜日のちがいも、水曜日と木曜日のちがいも、木曜日と金曜日のちがいも、なにもわからなかった。それはつまり、わたしが名前がちがうだけのおなじ日を生きているということだと思う。日記を書くということは、たぶんおなじ日のうえにべつの言葉を書きつけるということだ。画家が真っ白なカンバスのうえに絵の具を塗りつけるように、わたしも。けれど削ってみればその裏にはおなじ白色のつまらないものしかない。そしてそのつまらなさに耐えられなくて、色塗りをした。色塗りはそんなにたのしいか。


 4月14日(土)

 朝に郵便配達のひとに起こされた。ぴんぽーんぴんぽーん鳴らしながら郵便でーすいますかー郵便でーすいますかーと連呼された。はいはーいとせいいっぱいの声でさけんだのに。郵便配達のひとはこわい。
 サラ・ケインの「戯曲全集」(Sarah Kane"Complete Plays")が届いたのでさっそく「爆破されて」(Blasted)を訳しはじめた。論創社の出版予定リストにずっとのっているから放っておけばそのうちでるのかもしれないけれど、わたしが知るかぎりサラ・ケインの作品の日本語訳は「4.48 サイコシス」以外は出版されていない。わたしの英語能力はほとんど河童とおんなじみたいなものだと思うから、気長に、てきとうに訳そうと思う。すくなくともそれがわたしが書いた日本語という意味で、わたしはそれを気にいりたいと思う。読んだことがないから、「俺はここよりもすばらしい場所で大便をしたことがある。」ではじまるこの作品がすばらしいのかどうか、わたしにはまだよくわからない。
 キム・ギドク「アリラン」の字幕のなかに「くそったれ!」という言葉(よく覚えていないけれど、それに類似する言葉)がでてきてなんでだろうと思った。韓国語はアニョハセヨしか知らないしアニョハヨセの意味も知らないから想像になっちゃうけれど、たぶんこれはキム・ギドクがなにかの罵り言葉をしゃべったんだと思う。英語でいうと「ファック!」みたいなものかもしれない。わたしには字幕に「くそったれ!」と書くひとのことがよくわからない。「くそったれ!」という言葉を実際にしゃべっているひとを、たぶんわたしはいっかいも見たことがない。だから、もしもひとが字幕や小説に「くそったれ!」という文字を書きつけるなら、たぶんそのひとはわたしが見ている世界とはべつの世界を見ているんだろうと思う。このひとが見ている世界ではたとえば「うぜえな」と吐きすてたりちっと舌うちしたり「あ?」とすごんで見せたりするかわりに「くそったれ!」とさけぶひとがいっぱいいるんだろうかと思う。翻訳は、すくなくとも小説や映画について言うなら、たぶん原語を読んで日本語を書くという行為だとわたしは思う。そしてそこに生じる関係は、読まれた原語とそこに書かれた日本語はおなじ意味を示しているということにすぎない。そしてほんとうのことを言うなら、「日本語を書く」というのはひとつの比喩にすぎなくて、それは文字でなくても仕草であっても行為の説明であってもいいはずだと思う。「くそったれ!」と書くとき、たぶんそのひとはもう日本語で書くことを放棄しているように見える。あるいはだれかが「この韓国語は『くそったれ』と訳すんだよ」と教えたのかもしれない。それはただしいのかもしれない。それでわたしたちは意味を了解できるからだ。けれどそのただしさは抽象的な空間にのみ存在していて、映画という媒体のなかで固着化されることはできないように思う。「この韓国語は『くそったれ』と訳すんだよ」というのはたったふたりだけの、たったふたつだけの世界だ。「この韓国語」と「くそったれ」だけで了解された世界だ。けれどわたしたちは「この韓国語」と「くそったれ」だけで了解された世界には住んではいない。ぜったいにだ。わたしたちはもっとゆたかな場所にいる。というわけでサラ・ケインを1ページ訳したところでちょう飽きてとっとこでかけ、シネマヴェーラで山中貞雄「人情紙風船」を見た。ふつうに日本映画の最高傑作なんじゃないかと思った。
 それで、両国のシアターΧまででかけて、勅使川原三郎「オルガン―呼吸する物理学―」を見た。9割ぐらいは眠っていたからなにがなんだかさっぱりわからなかった。照明が、音楽が、佐東利穂子の身体の動きのすべてがわたしを眠らせようとしていた。彼らが放つわたしを眠くさせるちからというのは、タルコフスキーやアンゲロプロスを遥かに凌駕している。いったい人類はかつてこれほどまで眠くなる作品をつくることができただろうか。おもしろいとかおもしろくないとかそういうことを思う暇もなく眠らされた。




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