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「セザンヌ―パリとプロバンス―」@国立新美術館

2012.04.20(00:48)

永遠の僕たち コレクターズ・エディション [DVD]永遠の僕たち コレクターズ・エディション [DVD]
(2012/04/25)
ヘンリー・ホッパー、ミワ・ワシコウスカ 他

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 4月15日(日)

 朝から早起きしてシネマート六本木までいって濱口竜介「親密さ(完全版)」を見た。シネマートのホームページにものっていなかったし、映画館にはいってもどこにも「親密さ」やってるよって書いていなかったら不安だったけれどてきとうにうえにあがったらちゃんとやっていた。よかったと思った。ふつうに森山さんがいて、ショートバージョンは見たのと言われて見てないですよと言った。映画がはじまってびっくりしたのがいちばん最初のシーンで、それはつまり空の色だった。空のああいう青さと、それをくぎる電車の窓と電車の内部の運動みたいなものがこの映画の最初のシーンにはあって、こんなにきれいな空が東京にあったっけと思った。あの空の青のあざやかさというのは光を光としてきりとらないということだとわたしは思う。たとえばエリセの「ミツバチのささやき」なんかでは青空はほとんどうつっていないと思う。あるいは、うつっていたとしても、わたしはたぶん5回以上は見ているはずなのに覚えていない。光をとぎすませるためにエリセは暗闇を撮り、たとえばそこに一筋の光を射しこませる。そういうやりかたがあって、そしてたぶん、その光を撮るためにカメラは光自体に接近をしなくてはいけなくて、そうなると遠隔の風景としてうつすこと以外がきっとむずかしいだろう。そういうとき、青空ははいりこむ要素がなくなってしまうように思う。たぶんあの空にいちばん近い色はゴダール「ソシアリスム」にうつっていると思う。「ソシアリスム」第2部で女性記者が親子にインタビューする場面の遠景の空はもはや青が青としてつくられたようにあざやかだった。「ソシアリスム」とデジタルカメラの美点はすくなくともそこにあると思う。エリセの撮った映像は画面全体の色調を考えてのことだったと思う。それがかつて撮られた色調の淡さの頂点だったとしたら、濱口竜介の撮った映像は、ゴダールが撮った映像は、デジタルの色調の新しい美しさだと思う。
 たぶん、チェルフィッチュ「三月の5日間」を見たことがあるひとだったら「親密さ」を見たときそれを思いだすように思う。チェルフィッチュ「三月の5日間」はイラク戦争がはじまったとき、たまたま出会った男女が渋谷のラブホテルでテレビを見ないで、そとの出来事をすべて遮断して5日間をすごすという演劇だった。そこで生じていたことは、もやもやとした外部からの抑圧を受けたときにわたしたちはどんな言葉をどんなやりかたでしゃべり、どんな行為をどんなやりかたでおこなえるのか、ということだと思う。もっと言えば、外部からのはっきりとした抑圧として感じえるだろうもの、抑圧として感じてしまったほうがずっとすっきりするものにたいして、どんな言葉をどんなやりかたでしゃべり、どんな行為をどんなやりかたでおこなえるのか、ということだと思う。「三月の5日間」にでてくるひとたちは、たとえばイラク戦争についての渋谷のデモを笑いとばすことができない、けれどそれにしんけんに参加することもできていない。そこでおこっていることがなんなのか、ほんとうにはぜんぜんわかっていない。ラブホテルにこもった女性はすこしだけ外出したとき、まるで旅行にきたみたいに見なれた渋谷の風景がちがって見えると言った。現実のなかにしかいられないにもかかわらずどこか現実とちがったように見える感覚がいったいどこからきたのか、たぶん彼女はわかっていない。そして、逆説的だけれど、そのわからないという感覚が渋谷の風景を変えているようにわたしには見える。渋谷を見なれたひとにとって、渋谷の風景は「わかる」ものだと思う。だから、なんらかの理由で「わからない」という感覚を抱いたとき、渋谷の風景もちがうふうに見えてしまうんだと思う。そこにはあるのは感覚だ。この演劇の最後、彼女は男性とわかれたあと、駅までは向かわないですこしだけ散歩気分で渋谷の街を歩く。そしてごみ捨て場におおきな黒い犬がいるのを見つけてそれを眺めるけれど、次の瞬間、その黒い犬がじつは犬ではなくおしりをまるだしにしたにんげんだと気づいてしまう。そして彼女は一瞬のことだとしてもほんとうににんげんを犬と見まちがえてしまったことになんらかのつよい感覚を抱き、その場に嘔吐してしまう。この演劇ではふわふわとしたわからなさがわたしたちの領域をグロテスクなやりかたで犯していく。そのときわたしたちはなにを言えるのか、なにをおこなえるのか、それはこの演劇では明示されていない。ただそこには一定のしゃべりかたと一定の動きのしかたがあった。そしてそれを見てわたしはここではなにかとても大事なことが語られ、おこなわれていると感じた。問題は内容ではなくやりかたに凝縮されていて、そこにたったひとすくいくらいの希望が見える。頭のわるい言いかたをすれば、それは表現で世界にたちむかうということだ。「なにかの役にたつということがいったいなんの役にたつのか。なにかの意味を持つということがいったいなんの意味を持つのか」とわたしはまえに書いたことがあると思う。「それがなんの役にたつのか」ということはひとつの貧しさのあらわれでしかない。「それがなんの役にたつのか」ということを問わない、あるいはそれ以外の問いかたを選べるのならばわたしはそっちを選ぶだろう。演劇を見るというやりかたがけっきょくは限定された問いかけの場所でしかないことを岡田利規は「家電のように解り合えない」で明言したとしても、すでにわたしの現実は演劇を見るというやりかがけっきょくは限定された問いかけの場所でしかないことのなかにふくまれている以上、そちらを選ぶほうがここちいいと思う。村上春樹の言葉を借りれば、わたしはチェルフィッチュの舞台を見てそこで生じているコミットメントできないというありかたを見てその舞台にコミットメントしているように思う。かりにそういうありかた以外にコミットメントができると感じられないのなら、わたしは羊のようなものだと思う。さまよい、そしてあてはない。
 濱口竜介の「親密さ」がすばらしいのは、チェルフィッチュがいわゆる奇妙な動きと現実的口語をつかってやっていることを、より実地的なやりかたでなしとげていることだと思う。「親密さ」では前半が演劇をつくりあげていく過程が描かれ、後半ではその演劇がほとんど省略なしで描かれている。前半部、北朝鮮と韓国が戦争をはじめ、日本人からも義勇兵として何人かが韓国にわたっていく。平野鈴は本番が近づいているにもかかわらず、役者たちとインタビューをしたりディスカッションをしたり、役者たちに講義をしたりする。平野鈴は、たぶん、なにか大事なことをしようと思っただけだと思う。あるいは、平野鈴もまた平野鈴としてのやりかたでラブホテルにこもっていたということだと思う。平野鈴にはたまたま演劇があって、それがなかったら、平野鈴が平野鈴ではなかったら、彼女は知らない男とラブホテルに5日間こもっていたと思う。平野鈴がなにをやりたかったのか、わたしにはわからない。そしてたぶん彼女自身にもわからないだろうとわたしは思う。彼女はたぶんなにかがあると思ったんだろう。いまなにか大事かもしれないなにかがあって、言葉ではあらわせないなにかがあって、本番に向けて稽古をするというやりかたではえられないなにかがあって、けれど「そのなにか」とどういうふうに関係しあったらいいのかわからないんだと思う。「なにかがある」という言いかたやありかたがあるとして、ときどき、ほんとうにときどき思うけれど、わたしたちにとってほんとうにいとおしく思えることがあるとしたら、それは「なにかがある」の「なにか」ではなくて「ある」のほうなんじゃないかと思う。「なにか」にはなにをいれてもいい、国家でも、社会でも、愛でも、希望でも、救いでもなんでもいい。けれど「ある」はなにもあてはめることができない。ただそこに生じる感覚とか、気持ちとか、気配とか、淡くただようなんらかの要素の実体へ向かうわたししか、きっと現実にふれえないんだろうと思う。「親密さ」という映画は、「なにか」ではなく「ある」を描くという感覚として、わたしはとても美しいし、とても好きだと思う。
 むだなことを書きすぎてしまったから、たとえば夜明けの道を平野鈴と佐藤亮が歩く長まわしのシーンのすばらしさについて書く気力がない。けれどまあいいやと思う。わたしはそれを見たんだから。わたしはそれを見たんだから。
 六本木まできたんだからと思って新美術館までいって「セザンヌ―パリとプロバンス―」を見た。わたしがいちばん興味をひかれたのは最後まで色を塗っていない絵だった。カンバスのまんなかに街の風景が描かれているのに、そのまわりが淡い色で塗りこめられていて、風景がそのなかに閉じこめられている。閉じこめられている、というよりも、つつまれているという感じのほうがぴったりくると思う。建物と風景ではない色が溶けあってそれはそれは美しかった。
 そのあとはどうしようかと思ったけれど、早稲田松竹までいってジョン・キャメロン・ミッチェル「ラビット・ホール」とガス・ヴァン・サント「永遠の僕たち」を見た。「ラビット・ホール」にはわたしが見たかぎり美しいと思えるシーンがひとつもなかった。緑あふれる公園も、ニコール・キッドマンが育てる植物も、それはただの公園でただの植物だった。かりに、そもそも美しい花をカメラで撮ったときそれが美しく見えないとしたら、それはその監督が美しいものを美しく撮るやりかたを知らないということだと思う。ニコール・キッドマンは子供を失ったせいでとても神経質になっていた。だから、ニコール・キッドマンが話すひとも、ふれあうものも、すべてが死んだ子供に結びつけられていた。ゴダールは「いまある映画のカットが総じて短いのは、ひとびとがなにをしゃべっていいのかわからないからです。ひとびとはなにかをしゃべるとすぐにしゃべることがなくなり、べつのカットにうつってしまうのです」と言っていた。「ラビット・ホール」のなかでニコール・キッドマンが子供のことばかりしゃべっていて、まわりのひとも子供のことばかりしゃべっているのは、それ以外についてなにをしゃべっていいのかわからなかったからだと思う。だからニコール・キッドマンはしかたなく子供を失って神経質になっている女のひとを演じなければならないし、そのほかのひとはニコール・キッドマンに子供を失った神経質な女のひとにせっするようにせっしなければいけない。そうでなければ、彼らはほかになにをしゃべっていいのか、なにをしたらいいのかわからないんだと思う。だから彼らにとって子供が死んでよかったんだと思う。子供が死んでやっとしゃべられるようになったんだから。子供が死んでやっと演技をできるようになったんだから。だから子供の死からすこしだけたちなおってまえを向きはじめたとき、この映画は終わってしまう。子供の死からたちなおってまえを向いたならもうしゃべることはなにもないし、もう演じるものもなにもないからだ。だからわたしはよかったねと言うしかない。そしてたぶん映画を見てよかったねとしか言うことができないとしたら、それはほとんど映画を見ていないとおなじことなんだと思う。よかったねくらい、映画を見てなくても、きっとわたしには言える。
 ガス・ヴァン・サント「永遠の僕たち」は淡い色彩の映像が美しかった。「ラビット・ホール」とおなじように死を主題にした作品だけれど、ミア・ワシコウスカがあと3ヶ月で死ぬというのに、すくなくともわたしにはヘンリー・ホッパーがほんとうにかなしんでいるようには見えなかった。たぶんヘンリー・ホッパーは「えーアナベルちょうかわいいよーいっしょにいてちょうたのしいよー」とかそんなことばっかり思っていたと思う。特攻兵の幽霊役の加瀬亮だって戦争についてたいしたことを語ったり死の重みを持っているわけでもなく、ガス・ヴァン・サントはわりとてきとうに描いていると思う。だからわたしはずっとヘンリー・ホッパーとミア・ワシコウスカがいちゃいちゃしているところを見ているしかないけれど、ミア・ワシコウスカがちょうかわいいということもあってそのいちゃいちゃを見ているのがとてもたのしい。ふたりがけんかをするのも1度きりで、それはミア・ワシコウスカが死ぬ瞬間ごっこをして遊んでいるときで、ミア・ワシコウスカが感動的な台詞を言っているところでヘンリ・ホッパーがいきなり切腹をしようとして、ミアが「切腹なんておかしい! だいなし! ぷんすか!」と怒ってしまう。もうだいすきだと思った。
 ミア・ワシコウスカの死んだあと、そのお葬式でヘンリー・ホッパーは弔辞を読もうとする。けれど、そのときかわいいミアとの思い出が脳裏に浮かんで思わず微笑を浮かべてしまう。そしてその笑顔で映画は終わる。たぶん、ヘンリー・ホッパーがラストシーンで浮かべた笑顔は「ラビット・ホール」のニコール・キッドマンには浮かべることができない笑顔だと思う。だからそこにはなにかがあるんだと思う。「ラビット・ホール」がひとつのことしか描かないとして、「永遠の僕たち」はふたつ以上のことを描こうとしている。わたしはひとつのものを見るよりふたつ以上のものを見るのが好きだと思う。たったひとつのものからはなにも関係は生まれない。




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