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チェルフィッチュ「現在地」@神奈川芸術劇場

2012.04.21(21:04)

路地 (講談社文芸文庫)路地 (講談社文芸文庫)
(2002/12/10)
三木 卓

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 4月16日(月)

 古典を読むということはその時代最高の知性を持ったにんげんと対話をすることだと思いながら会社にいった。でもわたしはほんとうはそんなことは思っていなかったし、会社にいったことだけは本当だった。


 4月17日(火)

 泣きながら会社にいった。でももちろん泣いていなかった。
 いまやっているシステムの変更で、テストをしなければいけないけれど、KYさんのチームからデータをもらって流すだけのかんたんなお仕事だった。それで今日はKYさんから「これとこれとこれのデータを流してね!」と言われて流したらぜんぜんちがうデータがはいっていて「終わった…」と思った。毎日夜遅くまでテストデータをつくっているKYさんに「俺のためにがんばるんだよ!」と言って毎日6時くらいににこにこしながら帰っていたしかえしかもしれない。


 4月18日(水)
 
 気をつけたほうがいい、おまえが深淵をのぞきこむとき、深淵もまたおまえをのぞきこんでいるのだ、と思いながら会社にいった。でもわたしはほんとうはそんなことは思っていなかったし、会社にいったことだけは本当だった。


 4月19日(木)

 八艘飛びをくりかえしながら会社にいった。もちろんうそだけれど。
 このまえのお花見のときに、MKさんが「うちの代(わたしのいっこうえ)はもうあんまり飲み会とかなくてー。忘年会すらないんだよ! 新年会も!」と言っていたからだいぶ調子のって「したら僕が協力しますよ」と言って、AHくんに「(いっこうえの)Aさんに言って飲み会を開いてもらって」と丸投げしてわりあいいいところまでいったけれど、今日MKさんに「Aくんのとこいったんだけど、いそがしいからむりって言われた」と言われた。流れた。


 4月20日(金)

 会社にいった。
 SYさんとTSさんとSさんと会議をやってもどってきたら、いつもわたしのパソコンのHDDについている5つのぱんだのうち2つがわたしの机のうえにねそべっていて、MKさんに「ぱんだがすごいことになってますよ」と言ったら「いたずらしたかったの」と言われたからそれはもうかわいかった。「どういう反応するかなと思って」。つまらない反応しかできなくてごめんなさいと思ってなんにも言わなかった。
 ファミリーマートでおにぎりが2個買うと30円びきだって書いてあったから4個買って4個食べたら気持ちわるくなって眠った。ファミリーマートめー。


 4月21日(土)

 朝にちょうがんばって起きて、京浜東北線にのりこんで三木卓「路地」とジャック・ロンドン「野性の呼び声」をずっと読みながら関内までいった。それで今度はちゃんと歩いて神奈川芸術劇場までチェルフィッチュ「現在地」を見にいった。ひとがいっぱいごったがえしているなあと思ったら「現在地」のとなりで江原啓之がスピリチュアルなんとかがやっていた。チェルフィッチュもスピリチュアルなようなものだなあと思ったけれどとくにそう思ったことに意味はなかった。
 チェルフィッチュ「現在地」はすばらしかった。ただそこにたんじゅんなおもしろさだけがあるという意味において、そしてかりに演劇が芸術的なものとエンターテインメント的なものとにわけることが可能なら、これはエンターテインメントだろうと思った。たぶんそれほど、「現在地」はいままでのチェルフィッチュの作品とはちがってエンターテインメントしていると思う。そして、もしかりにいまの日本のにんげんに罪があるとしたら、青柳いづみという女の子のことを見すごしているということだと思う。わたしの知るかぎり、青柳いづみは現在舞台にたっているにんげんのなかでいちばんすごいしゃべりかたをしていると思う。それはたぶん彼女の声の厚みにあると思う。野津あおいにしてもそうだけれど、ほかのひとの発声時の波動の線の太さが1センチくらいだとしたら、青柳いづみは3センチぐらいでしゃべっていると思う。それが、ほかのひとのものとはたぶんぜんぜんちがう。野津あおいについてわたしはずっとまえに「彼女がしゃべるとすべてそのしゃべりかたのほうにものごとが吸いよせられていく」というようなことを言ったような気がするけれど、青柳いづみがしゃべると青柳いづみ的な場所にものごとが収束されていくように思う。彼女がしゃべっているそのあいだとあいだ、それまでもがたぶん青柳いづみの空間なんだろうと思う。「家電のように解り合えない」でどうだったかはもう覚えていないけれど、「現在地」にでてくる7人の女性はみんな「~だわ」とか「~かしら」と言う語尾をことさらつけている。青柳いづみはそれ以外の部分を抑揚のないしゃべりかたでしゃべって、最後の「~だわ」をすこし間延びさせた調子でアクセントをつけてしゃべっている。わたしの知っている範囲だと、そんなふうにしゃべるやりかたはたぶん日本語にはない。そして、それは「リアルじゃない!」とさけぶべきものだとはわたしは思わない。リアリティがある、とか、リアリティがない、という言いかたがあるけれど、それはどういうことなんだろう。たとえば病院を舞台にしたドラマがあって、その医療現場の様子についてリアリティがあるとかないとか言う場合、いったいなにを想定してそう言うことができるんだろう。たぶんそのドラマを見ているひとのほとんどは実際の医療現場を知らない。医者が手術をしている現場にたちあったことがあるひとなんてたぶんほとんどいないだろうと思う。それにもかかわらずわたしたちがリアリティがあるとかないとか言うとき、そこに発声しているものごととはいったいどういうものなんだろうとときどき思う。ワイズマンの「病院」というドキュメンタリー映画にはたぶん飲みすぎで病院に運ばれたひとがでてくる。そのひとはいったん寝台に寝かされたあと、起きあがって口からびちゃびちゃとげろを吐いていく。特大のホースみたいにげろがものすごい勢いででて床にひろがって、わたしはにんげんのなかにこんなにもたくさんのげろがつまっているなんてと思ってすごくびっくりした。うそみたいだった。たとえばそういう光景を見たとき「リアルだ!」とさけぶひとはあんまりいないんじゃないのかなと思った。それは、たぶんそういううそみたいなげろを吐くひとを見たときにわたしたちの持っているリアリティという概念が揺らぐからだと思う。そして、ほんとうを言えばリアリティという概念が揺らぐときにしかわたしたちのとってのリアリティは発現しないんじゃないかと思う。わたしはもうずっとまえ「もしも海外で起こっている戦争についてリアリティを感じられないとしたら、それをリアルに感じることができないということがわたしたちのリアルなんだから、わたしたちはそのリアルからはじめるしかない」と言った。濱口竜介「親密さ」にはいま起こりつつあることからについてどう感じたりどうせっしたりしたらいいのかわからないひとがでてくるけれど、わたしにしてみればそれはとてもリアルなことだった。すくなくとも平野鈴にとって稽古をするよりもインタビューをしたり講義をしたりするほうがリアルなことだったんだと思う。わたしが「ラビット・ホール」を批判して「永遠の僕たち」を褒めた理由もそこに起因していると思う。ひとはふつう子供が死んだらとても悲しむことだと思っていて、だから作品をつくるひとはそれを表現しないといけないからニコール・キッドマンに神経質になっている女性を演じてもらおうと思うんだと思う。けれどわたしはそれよりも自分の彼女が死んだのに、そのお葬式で思わず笑っちゃうヘンリー・ホッパーのふるまいのほうがよりリアルだと思うし、そっちのほうがすてきだと思う。医療もののドラマなんかで、看護婦たちが「1、2、3!」の合図で患者をストレッチャーにうつすシーンをよく見るけれど、わたしはたぶんそれより「なんで1、2、3なんだ? 俺はもっとたのしいほうがいいからアン、ドゥ、トロワに変えようじゃないか」とか言ったり、2であげて患者を床に落としてしまったりするひとがでてくるほうがよりリアルなように思う。わたしは、もしもだれかがいたるところでそのやりかたでおこなわれていることをフィクションの場所に持ちこむことがリアリティをだすことだ、と思っているなら、それはちがうと思う。それはわたしたちがそういうことをリアリティと呼ぶんだと知識や経験として知っているからというだけのことで、わたしは、たぶん、わたしのリアリティを揺るがされることがわたしがリアリティを感じるほんとうに唯一の瞬間なんだろうと思う。わたしは、わたしにそうさせてくれるものを貴いと思うし、美しいと思う。そして、チェルフィッチュ「現在地」で青柳いづみたちがやっていたたぶん日本のどこでもなされていないしゃべりかたによるしゃべりは、わたしにとってさいこうのリアルだと思う。
 ゴダール「東風」を見ようと思ったけれどまあいいやと思って帰ってきて、ドトールにいって日記を書いた。




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