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サンプル「自慢の息子」@アゴラ劇場

2012.04.30(00:42)

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]
(2002/09/06)
ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーヴン・トラスク 他

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 4月22日(日)

 オーディトリウム渋谷までいってゴダールの映画を3本見にいかなければいけないはずの日だったけれど、眠っていたのでぜんぜんむりだった。後悔して、ニコニコ動画で「セガガガ!」のプレイ動画を最後まで見て、それはたぶんゴダールの映画よりもおもしろかったけれど、後悔した。


 4月23日(月)

 会社にいって11時くらいまで仕事をした。


 4月24日(火)

 会社にいって11時くらいまで仕事をした。


 4月25日(水)

 会社にいって11時くらいまで仕事をした。

 
 4月26日(木)

 会社にいって11時くらいまで仕事をした。

 
 4月27日(金)

 会社にいって12時くらいまで仕事をした。
 MKさんにいつもうちあわせでいないことをつっこまれて、「もういったら帰ってこねーんじゃないかと思ってる」と言われた。
 ひとつの仕事をKYさんのチームといっしょにしていて、会議の資料もKYさんのところと合同でつくっている。わたしはわたしのところはおまけだと思っているから、会議の際の資料も全部KYさんに読んでもらってわたしはだんまりを決めこんでいたけれど、わたしが書いたところが誤字・脱字ばっかりで、KYさんもそのまんま棒読みするつもりだったからちょうあたふたしててごめんと思った。謝らなかったけれど。
 仕事が終わったあと、SYさんとMTさんとラーメンを食べにいった。涙の味がした。


 4月28日(土)

 朝ちょうがんばって起きて、アゴラ劇場でサンプル「自慢の息子」を見た。たぶん、わたしがサンプルをそこまで好きじゃない理由は、ここで起きることが舞台装置的なものから発生しているからだと思う。「自慢の息子」はどこかおかしいひとたちがおかしいひとたちだけでよりあつまって、そのおかしさとそれにともなう気持ちを極限まで高めた結果としてグロテスクな場所まで飛んでいってしまう。「女王の器」で髪を盛りすぎてしまった女の子的な場所だと思う。わたしが見たかぎり、サンプルの舞台装置はとっちらかっていって、役者たちはそのとっちらかったなかに潜りこんでいっておかしさをつのらせていく。それは、あたかも役者たちが舞台装置にとりこまれていく過程に見えた。たとえば、地点の演劇はわたしが見たかぎりだと役者たちを動作する装置、発声する機械にまで落としているように見える。それは、ひとによってはまったく逆に、あれこそがにんげんの発声だ、というひともいるかもしれないけれど、わたしはあれをにんげんの発声だとは思わない。あれは一種の装置だと考えたほうがずっとすっきりすると思う。「自慢の息子」はにんげんがおかしさをつのらせた結果超にんげん的になり、最後には彼らは舞台装置となってしまう。舞台装置となってしまった彼らはすでに語る対象ではなく、グロテスクさを抱えこんだまま語られる対象でしかなくなってしまう。サンプルの舞台装置のつかいかたはかなり積極的で、それは演劇としてかなり高度なものだとわたしにも思える。けれどそれでもわたしがサンプルをどこか好きになれない理由は、たぶん、わたしが演劇を言語的に見すぎているからだと思う。たとえば冒頭の羽場睦子とものを食べながらの古屋隆太の会話は、わたしにはほとんど見るに耐えない。そこには底意地のわるいあざとさみたいなものがあって、わたしにはどうして好きになれない。おかしさとグロテスクさをつのらせていく過程に、言語的なものがどうしてもからんでいかないように思えてしまう。それがいいことなのかどうなのか、わたしにはわからないけれど。
「ゲヘナにて」でも「女王の器」でもそうだったけれど、古舘寛治という男はあまりにも存在がつよすぎて気になってしまう。だから、彼が人形を愛でる様子にはそこまでグロテスクさが生じてこない。それは、古舘寛治という男の存在がすでにこの舞台においてグロテスクだからだろうと思う。一見なんでもないところから生じたほうがグロテスクさはつよまるだろう。古舘寛治という男を見るときわたしはそこに演技している男を見る。そこには演技というものがはっきりとあらわれているように見える。それは、たとえば野津あおいがおこなっている演技よりもかなりつよい演技としてあらわれてしまう。わたしは古舘寛治が舞台挨拶でしゃべっているのを見たことがあるけれど、だいたいああいう感じだった。舞台後、野津あおいがほかのひととしゃべっているのをたまたま近くで見ることができたけれど、だいたいああいう感じだった。あるいは役者たちはわたしたちが思うほど演技っぽい演技をしていないのかもしれない。それでも、古舘寛治だけはどうしても演技をしているようにはわたしには見えてしまう。
 野津あおいについては、「女王の器」よりも遥かによかったと思う。ままごと「スイング・バイ」で見たときの彼女がさいこうだったとわたしはいまでも思っているけれど、あるいは、サンプルでやるときは、足をがばっとひろげてしまうような、あるいはタクシーの運転手役のような、野暮ったい感じを持っているときのほうがいいように思う。
 そのあとシネマヴェーラまでいって、ジョン・キャメロン・ミッチェル「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」とロジャー・コーマン「女囚大脱走」を見た。「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」はこのひとがのちに「ラビット・ホール」を撮ったとは思えないほどおもしろくてほくほくした。「女囚大脱走」もおもしろかった。こんなタイトルなのに脱走部分は最初の5分くらいで終わって、あとはなぜか捕まるまえに隠したダイヤを回収するために女の子4人でジャングルを冒険していた。ふつうに鰐とか蛇とかと白熱した闘争をくりかえしていてちょっと意味がわからなかった。ジャングルのなかにダイヤモンドを隠す意味なんかないだろと256回くらいこころのなかでつっこんでいた。
 そのあと、オーディトリウム渋谷でゴダール「ウィークエンド」を見た。この映画はゴダールにしてはかなりおもしろい映画だとすなおに思うから、わたしは大好きだった。フィルムじゃなくてブルーレイ(かわからないけれど、デジタルになったもの)上映で、フィルムにくらべると全体的に色素が薄くなっているように見えた。画面の迫力とどぎつさみたいなものがすこし消えて、たとえばクラクションばかり鳴っているシーンも見やすくなったように思う。これはこれでいいように思った。


 4月29日(日)

 朝起きて、クリーニング屋さんにいったり、髪を切りにいったりしなければいけなかったのに、起きたら2時30分をすぎていたからむりだった。それで、しかたないから電車にのって北千住までいって、ブルースタジオでテオ・アンゲロプロス「狩人」を見た。わからないといえばこれくらいわからない映画もないと思った。わたしには画面になにかがうつっていてだれかがなにかをやっているということしかわからなかった。この映画にでてくるひとたちがどんな名前で、どういう立場のひとで、なにをしようとしているのか、なんでいきなり怒鳴っているのか、なにに怒っているのか、なにをかなしんでいるのか、なにひとつわからなかった。映画が終わったあと、はってあったポスターに書いてあるあらすじを見て、こういう話だったんだーと思った。でもそのあらすじは映画の最初の10分くらいの部分しか書いていなかったから、のこりの2時間50分くらいの話はやっぱりわかることができなかった。それは難解な映画なんだろうか。たぶん、難解なんだと思う。けれど、その難解さはたとえばピカソの絵を見て「難解だ」と言うこととは意味がちがうと思う。ピカソの難解さは「そこになにが描かれているかわからない」とにおおくの部分が由来していると思う。そして、だいたいの場合、絵について「わかる」とか「わからない」と言うとき、そこには「なにが描かれているかわかる」と「なにが描かれているかわからない」ということしかない。だいたいの場合、ひとは印象派の画家が空にピンク色を混ぜているとき「どうしてこのひとは空をピンク色に塗ったんだろうか。フランスの空はピンク色なんだろうか。それともこの画家は目がおかしかったんだろうか。わたしにはよくわからない」とは言わない。それは、わたしたちがそれは空で、そこにピンク色が混ざることだってあるということをなんとなく了解しているからだと思う。アンゲロプロス「狩人」のなかのひとたちはきちんとひとのかたちをしている。わたしには、彼らが政治についてなにかをしゃべったり、歩いたり、歌ったり踊ったり、セックスをしたり、パーティみたいなことをやったりしているのがわかる。けれど、わたしには彼らがなにを話しているのかわからなかったし、どうして彼らがパーティみたいなことをやっているのかわからなかった。「旅芸人の記録」では、演劇の最中、ひとがやってきて、舞台のうえのひとをいきなり撃ち殺してしまう。そのとき、たとえばわたしは彼らが演劇をやっていることはわかる、ひとがやってきたこともわかる、だれかが撃ち殺されたのもわかる、けれどどうしてそのひとが撃ち殺されたのかはよくわからなかった。アンゲロプロスはそういう撮りかたをしている。逆に言えば、それがわかるというのはどういうことなんだろう。それがわかるということは、たぶん、できごととできごとのあいだにつながりを持たせているからだろう。そして、ふつうわたしたちはできごととできごとのあいだのつながりの総体を物語と呼ぶ。だから、こう言ってよければアンゲロプロスは物語を徹底的に排除している。それは、たとえば「なんにも起こらない」とも言われる柴崎友香の小説よりもよほど物語を排除しているように見える。けれど事実、アンゲロプロスの映画では柴崎友香の小説よりも2000倍くらいはいろいろなことが起こっているだろう。


 大半の人たちは――「ぼくは、あることを主張したい、でもその主張がどういうものなのか読者にわからないといけないから、物語で説明しよう」とか「わたしは、愛の虚妄について――あるいは、市民社会の不条理について、あるいは、自分が抱えているトラウマについて……――表現したい、でもそのことがなになのか読者にわからないといけないから物語で説明することにしよう」と思い、まさにそのことをしています。というのも、わたしたちの社会では、なにかをいうということは「そのことについて読者が――聴衆が、あるいは観客が、あるいは……――わからないといけないから物語で説明する」ということになっているからです。
                      ――高橋源一郎「『正義』について」


 高橋源一郎が書いたとおりに書かれた小説や映画が実際にあって、わたしはときどきそのできのわるさにうんざりしてしまう。たとえば一人称で書かれた小説があって、主人公がはじめてヒロインに会ったとき、「僕は田中です」と言ったり「わたしは斉藤です」と言ったりすることはどういうことなんだろうと思う。それは、書いているひとが読んでいるひとに、その主人公が田中だということをわからせないといけない、あるいはそのヒロインが斉藤だということをわからせないといけない以外にどんな意味があるのかわたしにはわからない。それに、書いているひとは「これは一人称小説だから、主人公は斉藤と出会うまえには彼女の名前を知らないということだ。知らないのに、いきなり地の文で『斉藤は明るく笑った』と書くわけにはいかないから、『その子は明るく笑った』とか『彼女は明るく笑った』とか書かなくてはいけない。けれどそんなふうに書きつづけるわけにはいかないから出会ったときにまずおたがいの自己紹介をさせよう。そうすれば読んでいるひとには彼と彼女の名前がわかるからちょうどいいや」とかそういうことを考えているように思う。そして、わたしにはそれはあんまりにもひどいんじゃないかと思う。それは、たとえ底辺であっても技法と呼ばれるものかもしれない。けれどわたしはその会話は三人称で置きかえれば「彼の名前は田中である」とか「彼女の名前は斉藤である」と書いているのとおなじことだと思う。ちょっとでも文章を書こうと思うひとはそんな文章は小説のなかに書かない。へたくそすぎるとみんなに思われてしまうからだ。けれど一人称やあるいは事実上ひとりのにんげんの一人称の三人称小説ではそういうふうに書かれた小説は、たぶんたくさんあると思う。あるいは、映画のクローズアップもおなじことをしていると思う。アンゲロプロスの「狩人」はほぼ全編にわたってクローズアップというものがない。ゴダールの「ウィークエンド」では終盤の解放戦線のメンバーの顔はほとんどクローズアップでうつされない。だから、わたしはいつまでたっても人物の見わけがつかなくて、だれがどういうひとでなにをやっているのかよくわからない。逆にいえば、それとは逆におおくの映画では主要な人物の顔がときどきクローズアップでうつされる。それは、たぶんその映画をつくっているひとが「このひとはこの映画の主要な登場人物で、見ているひとにそれがわからなくてはいけない。だから、顔をクローズアップでうつしてなにかをしゃべってもらおう。クローズアップでうつすことによって見ているひとはそのひとの顔も覚えられるわけだ。それに、この人物を演じているのは宮崎あおいで、この映画を見にくるひとたちはだいたい宮崎あおいの顔を知っているはずだし、宮崎あおいがこの人物を演じていることを知っているはずだ。場合によっては宮崎あおいを見たくてこの映画を見にくるひともいるかもしれない。だから、クローズアップでうつすことで宮崎あおいが画面にうつっているということをはっきりと見ているひとにわからせないといけいし、宮崎あおいがこの人物を演じているということをはっきりとわからせないといけない。青山慎治『EUREKA』みたいに宮崎あおいの顔がちっちゃくしかうつらなかったら、観客や所属事務所が『もっと宮崎あおいをうつせ』と文句を言うかもしれないからな」と思っているからだと思う。よくわからないけれど、だから一人称における人物たちの自己紹介も、映画におけるクローズアップも、わたしは物語なんだと思う。できごととできごとのあいだのつながりをだすために、そのできごとを起こしているひとがだれかわからないといけないと思っているひとたちがいて、そういうひとたちにとって、クローズアップは、物語の一要素なんだと思う。それがそうなっている、ということだけで、非難する理由はなにもない。けれどわたしは、ときどきそういうものを見るとひどくむなしい気持ちになってしまう。
 帰りの電車のなかで夏目漱石「漱石文明論集」とフランツ・カフカ「審判」を読んでいた。今週、わたしはずっと夜の10時すぎまで仕事をしていたから当然疲れているけれど、疲れているときに読むカフカにはへんてこな癒しがあると思う。カフカの「審判」にはわたしたちの絶望がとても直接的に描かれているように思う。それは、だれだれがこういう状態におちいっていて、こういう気持ちになって、だからその状態は絶望だ、ということとはまったくちがっているように思う。カフカの描いている絶望は断絶によってなされていて、この小説のはじまりはそれまで絶望とはいっさい縁のなかったKがいきなり逮捕されることからはじまる。けれど、その逮捕はKにとっての直接的な絶望になってはいなくて、絶望は、Kがなにかをしたり、なにかをしゃべったりする瞬間に発生しているように見える。けれどKはなにかをしなければいけないし、なにかをしゃべらなければいけない。Kはなにかをしたりなにかをしゃべったりすることが絶望を生みだすことだとたぶん気づいていない。そして、それとおなじようにわたしたちだってなにかをしたりなにかをしゃべったりすることが絶望を生みだすことに気づいていないんだと思う。わたしたちがなにかをしたりなにかをしゃべったりするということは、わたしたちがおおかたなにかをしたいと思ったりなにかをしゃべったりしたいと思っているからだと思う。わたしたちはにんげんだから、そうありたい。けれどそれはそのまま絶望の発生だ。そして、わたしたちはそうやってでも生きていかなくてはいけない。Kは犬のように殺されたけれど、わたしたちは生きているし、生きていかなくてはいけないんだと思う。


「まあ、見て!」、と彼女は叫んだ、「わたしの写真が本当にごちゃごちゃにされてるわ。なんてことを。それじゃやっぱりだれかが不当にもわたしの部屋に入ってきたのね。」
 Kはうなずいて、ひそかに行員のカミナーを呪った、これは空虚で無意味なはしゃぎ方をどうしても抑えられぬ男だったのだ。
「奇妙だこと」、とビュルストナーは言った、「わたしがあなたにあることを禁じるように強いられるなんて。本来ならあなたがご自分で禁じなければいけないことなのに。わたしの留守中にわたしの部屋に入りこむなんて。」
                         ――フランツ・カフカ「審判」





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