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「ユベール・ロベール―時間の庭」@国立西洋美術館

2012.05.07(01:22)

PINKPINK
(2012/04/15)
大森靖子

商品詳細を見る

 5月2日(木)

 会社にいった。帰りがAHくんといっしょになって、エレベータにのっておりはじめたところで「傘持ってきてないの?」と訊いたら「えーこのタイミングで言うの!?」と言われた。とりあえずそとまでいってみたらどしゃどしゃ降っていた。Oくんもやってきて「すげえ雨だな」と言った。「傘持ってないの?」と訊くと「逆に訊くけどさ、なんで持ってんの?」と言われた。AHくんに「見なよ、この上級者っぷりを!」と言うと、AHくんは「僕は初心者だからうえいって傘とってくるよ」と言って消えていった。


 5月3日(金)

 朝起きて、まっさきに実家に帰る予定だったけれど、そんなことができるはずもなく、ニコニコ動画で「タクティクスオウガ」の魔法縛りのプレイ動画を見ていた。死者の宮殿をつきすすんでいく動画をずっと見ていた。べつにたいしておもしろくないと言えばたいしておもしろくもない気がするけれど、とにかく夜の8時くらいまで、8時間くらいずっと見ていた。
 そのあと実家に帰った。


 5月4日(土)

 TNが帰ってきているということだったので、とにかく上野までいった。雨が降るとみんな知っているはずなのにTNは傘を持っていなくて、上野のキオスクで小学生なんかが買うかわいいぱんだ柄の傘を買っていた。「これは意外にだめなような気がする」とTNは言って「いやだいじょうぶだと思うよ」とわたしは言った。TNは「インカ帝国展」が見たいと言っていたけれど、ふつうに70分待ちだったし、わたしはちっとも見たくなかったので、西洋美術館で「ユベール・ロベール展」を見た。ユベール・ロベールじたいはふつうにすばらしかったけれど、ちゃんと色を塗った絵画がすくなくて、スケッチ的なものばっかりあって、だまされたと思った。
 TNが「イカセンターいきたい! 王様のブランチでやってたやつ」と血まよって言いだしたので、とりあえず総本店がある新宿までいった。すまーとふおんのちからを借りてイカセンターまでたどりついたけれど、40分待ちだった。TNは待ってもいいと言ったけれど、わたしがうっかり「じゃあいいです…」と言ってしまった。お店をでたあとで「待ってもいいんじゃね」ということになったけれど、もういっかいもどって「やっぱ待ちます」という勇気はなかったのでしかたなく新宿をぶらぶらして、てきとうな地下にもぐっていってごはんを食べたりお酒を飲んだりした。
 そのあと、新宿でなにか映画を見ようということになって、なにがいいのか探しあるいた。武蔵野館でカリウスマキの「ル・アーヴルの靴みがき」がやっていると思いこんでいったけれど、やっていなくて、やっていたのはマーガレット・サッチャーの映画だった。わたしはべつにマーガレット・サッチャーの映画なんかとくに見たくはなかったから、K'sシネマにいって3本だてを見た。1本めが岩淵弘樹のおそらくは最新作の「サマーセール」という映画で、わたしはこれは今年の最高傑作かもしれないと思った。「遭難フリーター」のときは、わりあいオブラートにつつまれていたけれど、「サマーセール」という映画では岩淵弘樹というひとりのにんげんのだめっぷりがこれでもかというくらいにあらわれていた。端的にいえば、岩淵弘樹というにんげんはほとんどくずで、大森靖子という女性を撮るはずなのに、岩淵弘樹は大森靖子につらくあたり、「俺のことひとりの男としてどう思う?」とか、痛々しい発言をくりかえしてしてやまない。そして、その自らの行為を字幕の文章でほとんど弁解的に記述している。こういってよければ、岩淵弘樹というにんげんはみずからの撮った映像をみずからの文章で徹底的に陵辱しているように見える。もっと踏みこんで文学的なかたちでそれを表現すれば、岩淵弘樹は彼自身の自我を大森靖子の映像をとおして陵辱しているように見える。もっとも、こんなふうに言いかたを変えて書きつづけることに意味はないと思う。それは、けっきょくのところ言いかたの問題にすぎないからだ。以前、わたしはロベール・ブレッソン「ラルジャン」を見たとき、「この映画はいまあるどんな文学よりも文学的だ」と言ったことがあった。「ラルジャン」という映画がたぶんわたしにとってよくわからないものであったなら、それはわたしがその映画を既存の映画文法のなかにあてはめて見ようとしているからで、かりにこれを映画ではぜんぜんなくて文学として見たならば、わたしにはよりすっきりするように感じられた。映像を文学として見るということが実際の行為としてどのようにたちあらわれてくるかわからない以上、それはほとんど予感めいたものにとどまっているけれど、とにかく、わたしはそう思った。そして、岩淵弘樹も「サマーセール」において、ブレッソンと同様、しかも、日本の明治時代の文学にまでほとんどさかのぼったうえで、大森靖子の映像を万年筆と原稿用紙として文学を書いているようにわたしは見える。そうやってつくられたこの映画は、ほとんどくずと呼んでいいとわたしは思う。字幕の端々に岩淵弘樹の青くさい、なかば精液くさい未成熟な感覚がとりついていて、映画でなかったならば、たぶん、わたしにはこの文学を読むに耐えなかっただろうと思う。「大森靖子のPVを撮る」と言って、岩淵弘樹と大森靖子はラブホテルにこもる。岩淵弘樹はそのとき1円もださない。映画の終盤、岩淵弘樹は大森靖子にお金を返し、たぶんその足でいっしょにラーメンを食べにいって、なかよくラーメンを食べている様子をカメラで撮影する。ふつうの神経であれば、たぶん、こんな映像は撮らない。すくなくともわたしにはこんなやりかたで自分の恥部をさらすことはできない。缶コーヒーを大森靖子に買いにいかせて(たぶん自分のお金じゃない)、そのあと字幕で「大森さんは僕が頼んだことをなんでも笑顔でやってくれる」みたいな文章が挿入される。岩淵弘樹はまったく自然にくずのようにわたしには見える。その姿は、なんとなく、「罪と罰」におけるソーニャにたいしてのラスコーリニコフ、あるいは「地下室の手記」で主人公がリーザにたいしての主人公と似ているようにすら見える。
 ここで挿入されている字幕はすべて、ほとんどなんの留保もなく、「文学的」だと思う。そして、わたしたちが文学を語るときにもっともつかわない言葉こそが「文学的」という言葉だとわたしは思う。ひとびとは「『エヴァ』はへたな文学よりも文学的だよ」とか「タルコフスキーの映像は詩的だね」とかは言うけれど、文学にたいして「文学的」とは言わないように見える。「文学的」という言葉は、ほとんど必ず文学ではないものに文学みたいな要素が混ざっているときにつかわれるように思える。もしもかりにそうなら、文学のなかには「文学的」な要素はなにひとつないということになる。そして、それはたぶん、ただしい。文学はこの200年間で「文学的」なものを失いつづけてきた。そして、わたしたちが見失った「文学的」なものは、たとえば岩淵弘樹の映画のなかに見ることができる。だからこそ、岩淵弘樹の撮った「サマーセール」という映画はいま書かれているほかの文学よりもよっぽど正統な文学だと思う。すくなくとも、わたしは岩淵弘樹の字幕のようなやりかたで文学を書くことはできない。文学は、すくなくともここ数十年のあいだ、わたしの考えでは、その生きのこりに際して岩淵弘樹の字幕のようなことを書かないことだけを熱心にやりつづけてきたからだ。岩淵弘樹の字幕のようなことを書いた文学はほとんどくず同然にあつかわれるようにわたしは思う。高橋源一郎は「スタージョンは『SFの90%はくずだ」と言った。表現の自由とは、その作品がくずであることの自由なのだ。それがわからないのならば、そのひとは表現の自由にかんして口をだすべきではない」と言った。くずであることをやめるように願ってきた文学にとって、くずへと回帰する願望がたぶんありつづけていて、高橋現一郎や佐藤友哉はその願望を作品としてかたちにしているように見える。高橋源一郎はともかく、すくなくとも佐藤友哉の作品は文字どおりくずすぎてわたしにはうまく読むことができない。なぜ彼は彼をねたにすることしかできないのか、なぜ彼の文章はあんなにもへたくそなのか、おそらく、わたしのこころは脆弱すぎてその事実にうまく耐えることができないんだと思う。わたしには岩淵弘樹のこの作品は、ひとつの憧れの頂点だと思う。それほどまでにこの作品は、くずだ。
 2本めの内藤瑛亮「お兄ちゃんに近づくな、ブスども!」はB級映画で、監督の頭がわるすぎるのかわざとそうやって撮っているのかわからないところがおもしろかったけれど、それ以外はとくに見ることもなかったように思う。
 3本めの今泉力哉「nico」はまえのふたつにくらべてやっていることも映像表現も高度すぎて、なんでこの監督がもっと評価されないのかよくわからなかった。たとえば「にんげんの顔をうつす」ということひとつとってもそこにあらわれているうつされかたがほかの映画とはまるでレベルがちがうように見えた。だからこの映画はすばらしかった。五反田団の宮部純子が映画にうつっているのをわたしははじめて見た。宮部純子のすばらしさについて、わたしはうまく言うことはできない。けれど、青柳いづみとか野津あおいとかと、だいたいおんなじようなものだと思ってもらえばいいと思う。
 3本をまとめて見て、わたしはこの3本が3本とも監督たちの自慰的な作品のように感じられた。エズミール・フィーリョ「名前のない少年、脚のない少女」を見たとき、わたしはあんまりにも不愉快で「自慰は家でやるものであって映画館のスクリーンのなかでやるものじゃない」と言ったことがあった。そして、ゴダールは「もしもある映画のできがわるいとしたら、それは、その映画が見られるべきところではない場所で見られているということです。30人に見られるべき映画もあれば、100万人に見られるべき映画もあります。いまの映画の世界にわるいところがあるとすれば、それはあらゆる映画がすべてのひとに見せようと思ってつくられていることです」と言った。岩淵弘樹「サマーセール」はもはや自慰しかない、「お兄ちゃん~」は映画館でわざわざ上映するようなものでもない、映画としてかなり高度な技術と映像でつくられている「nico」にしても監督自らが登場し、ラストシーンでは監督が眠っている横で北村早樹子が歌をうたうというきわめて自慰的なありかたで終わってしまう。3本が3本とも自慰的な映画だということについて、わたしにはこれ以上なにか言う元気はないけれど、とにかく、わたしはそう思った。
 帰りの電車のなかで、TNがふつうに寝はじめたので、わたしはこそこそカフカ「審判」を読んでいた。ふだんはわたしがぜったいに文章で書かない言葉をあえてつかってまで言うけれど、「笞刑吏」の章がやばすぎる。この章でKは監視人のヴィレムとフランツを助けることをあきらめてしまうけれど、そこにいたるまでのKの思考をわたしは論理的だと思う。それは、つねに非論理的であやふやな感情での見方でもって文章をつむいできたほかの小説とは真逆のようにすら見える。カミュ「異邦人」において、主人公は「太陽がまぶしかった」という理由で他人を殺し、処刑を目前にして「俺はしあわせだ」ということを実感する。それは論理的でじゃない。けれど、すくなくともそこに生じる感覚にたいする憧れめいたものが文学にはあった。そこにある思考と行為はふつうのやりかたをするかぎり論理で結びつけることができない。カフカの小説が異常なのは、Kはまったく論理にしたがっているにもかかわらず、その行為がすべて、異常さと結びついてしまうてんだと思う。Kの論理はその意味でわたしたちの現実とは隔絶された孤独な論理かもしれない。けれど、わたしたちが従うべき論理に正解なんてあるだろうか。たとえば法律は国民すべての論理を規定している。けれどそれに従う理由はすくなくともわたしたちにはひとつもない。Kがまったく孤独なのは外界の論理を知らないがゆえに自らの論理に従いつづけなくてはいけないからで、それは、ほんとうのことをいえば、ある種の良心のようにすら思える。Kはその良心に従いつづけ、そして最後には犬のように殺される。そして、すくなくともわたしたちはK以上に外界の論理を知っているとはかぎらない。だからこそ、カフカの小説はおそろしい。わたしにはKがやったようなやりかたではないやりかたを選ぶことができるんだろうか。わたしにはよくわからない。わからないから、わたしも犬のように殺されてしまうかもしれない。




コメント
nico見ていただきありがとうございます。監督の今泉です。あれは、確かに自虐、自慰映画です。ただ、私は出ていません。主演は芹澤興人という俳優で、役名が今泉なだけです。私も、『脚のない~』が苦手で、なぜ苦手なのかが、わかりませんでしたが、いま、納得しました。
これからも、よろしくお願いいたします。
『ルアーヴルの靴みがき』素晴らしい映画でした。
【2012/05/07 23:01】 | 今泉力哉 #- | [edit]
今泉さん

あんまり熱心には書きませんでしたけれど
「nico」はほんとうにおもしろかったです。

> ただ、私は出ていません。主演は芹澤興人という俳優で、役名が今泉なだけです。

わあ 教えてくれてありがとうございます。
今泉力哉で検索したら顔がいっぱいでてきて
あれ ぜんぜんちがうやん 役づくりをすると
こんなことになるんだあ
と思っていたら 別人でしたならそれはちがいました。
これで 今泉っていうひとは なんか
かわいい女の子のとなりで寝てる自分を撮っているんだよ
とか まちなかでさけんで まわりのひとに
なまあたたかい目で見られるのを避けられました。
あぶなかったです。

> 『ルアーヴルの靴みがき』素晴らしい映画でした。

「靴みがき」はいつでも見られると思うので
たまたまK's cinemaに流れていって
よかったなあ と思いました。
【2012/05/07 23:34】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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