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リュカ.「天使たち」@王子小劇場、「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」@Bunkamura ザ・ミュージアム、「Keith Jarrett Solo 2012」@オーチャードホール

2012.05.07(01:24)

漱石文明論集 (岩波文庫)漱石文明論集 (岩波文庫)
(1986/10/16)
夏目 漱石

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 5月5日(土)

 朝起きて、ひさしぶりに車を運転してぶっくおふまでいったけれどなにもおもしろくはなかった。そのあとユニクロでパンツと靴下とシャツばかりを買いこんで珈琲館でひたすら日記を書きつづけていた。
 うえの姉さんが帰ってきていたからすこしだけ話をした。知らないあいだに大企業に就職していた。
 岩淵弘樹「サマーセール」について、もうちょっと考えてみたい。夏目漱石「漱石文明論集」のなかの「文芸と道徳」という講演で、漱石は「むかしの武士なんかがいた時代には社会が要請する徳の高さみたいなもんがめっちゃ高かったから文学のほうだってそれに見あったものを書かなくちゃいけなくって、それが浪漫主義というもので、いまはもう戦争もないし平穏だから個々人に要請される徳の高さも低くなって自分の弱点とかも冗談みたいに言えるようになったじゃん、その流れがあるから浪漫主義というのはもう流行らなくて自然主義がでてきたんだよー」というようなことを言っている。その流れは太宰治までつづいていて、わたしの感じかたとしては、太宰治は文学を書く作者の自意識について徹底的に書いている。文学を書いているひとはたぶんみんな「文学を書いてる俺ってかっこいい」と思っているはずだとわたしは思う。その自意識の対抗のやりかたはたぶん正統な文学の流れ、あるいは文学史としてなんら見つかってはいないように見える。ここまで書いて、岩淵弘樹「サマーセール」は「ここにうつされたどんな映像も『映画を撮ってる俺ってかっこういい』という感覚に収束されていく」という理由でこれまでにない作品にしあげっているように見える、と書こうと思ったけれど、それは書かないことにしたい。もうなにも言わない。文学にはもうそんなやりかたでなにかを表現するためのやりかたはきわめてまずしいやりかたでしかのこされていないんだろう。


 5月6日(日)

 朝起きて、王子小劇場でリュカ.「天使たち」を見た。演劇を見にいったのに、ちょっといい話を聞かされて帰らされたような感覚だけがのこされた。ゴダールは「自分の1日をカメラで撮ってみたらいい。そしてそれが映画になっているかどうか見てみたらいい」と言った。演技ができる俳優がいて、舞台があって、それなりの脚本があって、けれどそれで演劇になるわけではないのかもしれないとあらためて思った。サキヒナタが演じているアオイという女の子はカメラマンだけれど、たぶん彼女はそこそこ技術があるにしろ「なにかがたりない」と言われて次のステップへの踏んぎりがつかめないでいる。「なにかがたりない」というのはほんとうに陳腐なものの見方で、わたしはこういうことだけはぜったいに言わないようにしようと思う。「なにかがたりない」と言うのはたとえば「オリジナリティがたりない」と言うのとおなじことで、たぶん、もっともくだらない言いかたのひとつだと思う。ほんとうにはいろいろあるはずだと思う。わたしは、「天使たち」において天使たちがにんげんによりそいながらじつのところいったいなにをしているのかよくわからなかったし、「だれかがいつでもあなたを見守っていますよ」というメッセージをつよくかんたんに押しだしすぎるようのはどうなのと思ったし、コーヒーをいれにいってから実際にもってくるまで15秒くらいしかかかっていないのはどういうわけなのと思った。いま書いたところをなおしたりべつのやりかたにしたりすれば、すくなくともわたしにとってはよりおもしろい作品になるだろうと思う。でもわたしはきっともうそれを見ないし、わたしはリュカ.ではない。だから、ここでわたしが書いたことはいったいなんなんだろう。
 渋谷までいってBunkamura ザ・ミュージアムで「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」を見た。ダ・ヴィンチじゃないひとが書いた「モナ・リザ」がいっぱいあってびっくりした。すばらしい絵がいっぱいあった。けれどわたしは絵についてはうまく書くことはできない。彼女たちの服がもうもうとうなっている感じについて、その圧倒的なすばらしさについて、わたしはうまく書くことはできない。
 そのあとオーチャードホールで「Keith Jarrett Solo 2012」を見た。ダ・ヴィンチの絵とおなじように、わたしにはキースのピアノの音についてうまく書くことはできない。なんの感想もない。よくわからないけれど、音がひとつの波動みたいになって、そこには、たとえば太宰治もドストエフスキーも関係ないように思った。その関係のなさこそがもっとも美しいものかもしれないと思った。泣きたくなるようなピアノの音があった。だからそれは音があったということだ。そして「音があった」ということを書くための文章を、すくなくともわたしは持ちえない。そのためにはたぶんわたしはピアノで文章を書かなければいけないだろうけれど、ざんねんながら、わたしはピアノを知らない。




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