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人生におけるゆたかさの総量

2012.05.14(00:28)

HAPPY REBIRTHDAYHAPPY REBIRTHDAY
(2007/11/07)
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 5月7日(月)
 
 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。


 5月8日(火)

 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。


 5月9日(水)

 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。


 5月10日(木)

 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。


 5月11日(金)

 会社にいった。いそがしいかもしれないなあと思いながら会社にいったらやっぱりいそがしかったからかなしかった。
 朝8時くらいに起きて、9時に会社について、それから夜中の11時くらいまで仕事をして、ファミリーマートでごはんを買って家に帰ってそれを食べて、パソコンをつけてぼうっとしてシャワーを浴びて、カフカ「審判」をちょろちょろと読みながら1時とか2時に眠る。そういう生活をこの1週間していて、今週だけじゃなく、仕事がいそがしい時期はそういう生活をしていて、そういう時間はわたしにとってなにになるんだろうと思う。今回は要件からかかわっているからいそがしくなるのはあたりまえで、そういう時間が増えれば増えるほどシステムにはくわしくなっていくけれど、そうやってえられたくわしさが今後なにになるんだろう。そんなに会社を愛しているわけじゃないのに。この1週間がわたしの人生においてまったくなかったものになったとして、わたしの人生のゆたかさの総量はいくらかでもちがったものになるんだろうか。けれど、かりにわたしがこの1週間仕事をしないで本を読んだり映画や舞台を見たりしたりしたとして、それがわたしの人生のゆたかさの総量を増すことになるんだろうか。わたしにはよくわからない。たぶん、ここになにかまちがいがあるとしたら、人生について考えているということ、あるいは人生の価値をゆたかさではかろうとしていることだと思う。「書物そのものは不変であり、いっぽう、ひとびとの意見はそれにたいする絶望の表現でしかない」。カフカの「審判」において、大聖堂で僧は書物に書かれた物語の意味を解きあかそうとするKにこう告げている。それが本であっても、わたしの人生であっても、なにも変わらないと思う。たぶんわたしたちは決して最初から絶望してはいない。ものごとをなにかではかろうとする瞬間に絶望してしまう。そして、ほんとうのところではそれを知りながら、あいもかわらず絶望を追いもとめてばかりいるんだろう。


 5月12日(土)

 朝11時にせっせと起きて、受けつけ終了5分まえに病院に飛びこんだらひとがあふれていた。1時間待ちですよと言われてそうですかーと言ったけれど実際は2時間近く待っていた。でも他人のちいさなこどもがぎゃーんとか言ったりどったんばったりしている以外はカフカ「審判」を読んでいたからたのしかった。
 それからドトールにすこしだけよって、北千住のシネマブルースタジオでテオ・アンゲロプロス「アレクサンダー大王」を見た。4時間近くある長い映画だけれど、体感時間としては6時間を超えていたと思う。見ても見ても終わらないようと思った。「アレクサンダー大王」はたぶん「旅芸人の記録」や「狩人」よりはだいぶ物語がわかりやすく、見やすいと思う。そして、この映画はアンゲロプロスのなかではわりあい毛色がちがうと思う。あるいはアンゲロプロス的というよりはホドロフスキー的だとわたしは思った。おもしろかった。色彩全体がセピア色っぽくなっていて、「こういう色なの?」と思ったけれど、たぶんちがってフィルムが劣化しているだけだと思う。いままで見たどんなフィルムよりも劣化していた。どんな映画にしたとしても、見られないよりも見られるほうがぜったいにすばらしいことだ、とは思うし、どんなに「劣化していますよ!」とアピールされたとしてもわたしはいっただろうけれど、「劣化していますよ!」となんでひとことでもいいから書いておいてくれないんだろうかと思う。それに、なにがいけないのかわからないけれど、スクリーンに黒い線みたいなよごれがいっぱいうつっていてめだってしまうのもなんとかしてほしいと思う。いちばんなんとかしてほしいのは宣伝で、あいもかわらずお客さんが5人程度しかいなかった。新文芸座でアンゲロプロスの特集上映をやったときには満席だったんだからいくらなんでも5人はないんじゃないのかなあと思う。たぶんやる気がないんだろう。
 カフカ「審判」を読みおえた。あらゆる小説のなかでいちばんおもしろい小説だなあと思った。「審判」ではものともの、ひととひととの距離感が物理的、精神的に破壊されていると思う。近代文学というものの発生が遠近法の発生に影響を受けている、というのは、文学史においては常識らしくて、それを真に受けるなら、作家たちはものともの、ひととひととの距離感をただしく書こうとしてきたはずだ。ルネサンス期の絵画において、風景はすくなくともわたしたちが見るようには描かれていない。あれはただの木や岩や机というだけで、わたしたちの視線がつくりだしたものではない。それはただのオブジェとしてあって、たぶん、わたしたちの視線がなくてもそこに描かれたものだろうと思う。ルネサンス期の絵画が持っていたちからづよさというものはたぶんそこにあったと思う。彼らの絵画に根本的ににんげんの視線というものは必要とされていないように思う。わたしたちが小学生くらいのときに習う、「遠くのものはちいさく書いて、近くのものはおおきく書きましょう」というのは絵画を描くうえでの鉄則ではぜんぜんない。そういう描きかたが常識的とされるようになったのはたかだかここ数百年の話になるんだと思う。小説における、一人称とか、三人称というのは、たぶん、遠近法以降の考えかただと思う。いまあるふつうの小説にではだいたいの場合人称というものが設定されていて、その視線から見て遠くにあるものの細部はふつう描かないし、近くにあるものの細部はぎゃくに描くことができる。そこから小説における「風景」というものの考えかたが生まれたし、さかのぼれば、「にんげんの内面」というものも発生した。ここに書いた話は柄谷行人「日本近代文学の起源」にそのまま書いてあるからもう書かない。ふつう、一人称の小説ではその視線をつむいでいるにんげん以外の気持ちは書かれない。それは、遠近法に由来しているはずだと思う。遠近法において、「そう見える」ように描くということで、ひとりのにんげんには他者のこころのなかは「見えない」から「書かない」ということにもなるんだろう。複数のにんげんのこころを好きなように書く視点の持ちかたは「神様視点」というふうに言われるけれど、それも、たぶん偶然ではない。ルネサンス期の絵画で問題にされていたのは神だからだ。主体が神からにんげんにうつっていく過程において遠近法は生まれ、そこから近代文学が生みだされて、「神様視点」は排除されていった。
 カフカ「審判」において、わたしには遠近法が適用されていないとは言えない。ただ、ものごとの距離感は明らかに狂っている。ふつうの部屋のとなりに裁判所があって、部屋は2歩も歩けないほどちいさく、彼らはたがいに身動きができないほどの近さで会話を交わす。部屋は暗すぎて、その隅ににんげんがいたとしてもKは気づくことができない。Kは空気のわるい部屋にいるだけですぐ身動きできないほどに疲れてしまい、商人は弁護士に家畜のようにつかえ、レーニとKは出会ったとたん恋愛関係におちいる。ここに描かれているのは遠近法が適用されていながらすでにただしい距離感を失ったひとびとだと思う。彼らは極端から極端に動いてしまう。しかも、それはきわめて明確できわめて論理的な動きでなされてしまう。
 それがどういうことなのか、わたしにはうまくわかることができない。だから、今日はもうこれ以上カフカについては書かない。けれど、かりにだれかが書いた小説がへたくそだとしたら、そこにはにんげんの内面が書かれていないからだと思う。「僕は悔しいと感じた」という文章ににんげんの内面は描かれていない。それはうそだからだ。だれかがなにかをしゃべり、なにかをして、そして次のシーンにうつってしまうとしたら、そこには物語しかない。そして物語は小説ではない。いくら小説のように書かれていたとしても、そこににんげんの内面が描かれていないとしたらそれは小説ではない。そして「にんげんの内面を描く」ということは「『僕は彼女のことを愛おしく思った』と書くこと」ではない。にんげんの内面がそのにんげんに見えるものごとを描くことから生まれたとしたら、にんげんの内面はそのにんげんにとってものごとがどう見えるのかといったところしか生まれえない。だから、それを描かないひとはにんげんの内面には興味がないんだろうとしか思えないし、そんなものを読みたいとは思わない。
 あとヘンリー・ジェイムス「ねじの回転」を読みおえた。ものすごくおもしろかった。


 5月13日(日)

 朝11時に目覚ましをかけて起きたけれど、だるいーと思いながらごろごろしていたら17時だった。18時間くらいは眠っていたということだった。
 松屋にごはんを食べにいって、ドトールで日記を書いた。そのあとモスバーガーにいって小説を書いた。あとはなにもしていない。




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