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バナナ学園純情乙女組「翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)」、鴎座「洗い清められ」

2012.05.30(22:06)

PINKPINK
(2012/04/15)
大森靖子

商品詳細を見る

 5月14日(月)

 会社にいった。


 5月15日(火)

 会社にいった。


 5月16日(水)

 会社にいった。
 家に帰ってからはもうなにかを書いたりなにかを読んだりするだけの気持ちはなんにものこっていないけれど、ただそこにあらかじめ書かれたものを書く、ということはすくなくとも気やすくできるように思って、サラ・ケイン「爆破されて」をちょいちょい訳していた。次になにを書くのかを書いているときに考えなくてもいいというのはずいぶんらくなことだと思った。それはたとえばわたしが翻訳をねっしんにやっていないということなのかもしれないけれど、いっぽうで、わたしは小説や日記を書くことだってそんなにねっしんにはやっていないと思った。わたしは友川カズキや大森靖子がそうであるように見えるようにはたぶんなにごとにもねっしんではないように思うし、だいたい、なにもかもがどうでもいいように思ってしまう。
 わたしはべつにだれかにたいしてそれをつよく言うつもりはまるでないにしても、翻訳はできるだけ直訳したほうがいいと思っていた。原文でおなじ単語で示されているものは日本語に訳されたときはすべておなじ単語で書くべきだと思ってきた。でもちくちく訳していくとそういうやりかたでやるともはや日本語にすらならないということがよくわかってしまう。それに、翻訳ということをおこなううえで単語の意味がわからないということはほとんど問題にならないということもなんとなくわかった。あとは文章の正確な意味をとろうとしないこともたいせつだと思った。そもそもわたしの英語のちからはたぶんミシシッピ川のカバ以下だから読んだってなにが書いてあるかわかるわけがなかった。だからそんなことはほうっておいててきとうに訳すしかないし、べつにこれは書いてわたしが読むだけだからてきとうにやっちゃえばいいと思う。そうしないことにはいつまでたっても終わらないし、大事なのは一時的にでもなにかを書きおえることだと思う。
 

 5月17日(木)

 会社にいった。


 5月18日(金)

 朝起きたら8時35分だったからびっくりした。9時まえに会社にいくべきか、いかざるべきか、すこしだけまよったあとで寝ぼうしたことをK課長にさとられるのがいやだからちゃんとまにあうようにいくことにした。8時55分くらいにはついた。余裕だった。
 夜の10時まえに会社をでてみるとKYさんからメールがきていて、SSさんとCKさんとごはん食べてるけれどきませんかと書かれていて、それはいくよと思っていったらいた。うそじゃなかった。KYさんがみんなでごはん食べにいくんだよーと言ったとき○○さん(わたしの本名)ぜんぜんのりきじゃなさそうに見えたよーと言われたけれど、それはだいたいわたしがそういう気配をしているだけなんだよと思った。SSさんが老後資金をためるんだ、甥っ子とか姪っ子とかに養ってもらうんだとすばらしいことを言っていた。CKさんがMKさんと実質ふたりだけで仕事をしていてなんてうらやましいことだろうと思った。たのしかった。帰った。


 5月19日(土)

 朝起きて、郵便配達のひとがやってきた。まえにやってきたひとは1秒間に3回くらいピンポンを鳴らしてきたうえに○○さんですか、○○さんでいいんですか、とわたしがわたしであることをなぜか執拗に確認してくる頭のおかしいひとだったけれど、今回のひとはほがらかなひとだった。1年ぶりくらいにCDを買った。大森靖子「PINK」とそのついでにtobaccojuice「HAPPY REBIRTHDAY」を買った。大森靖子をさいきんわたしはちょう好きで、毎朝大森靖子を聴きながらごはんを食べていて、だからがまんできなくなって買ってしまった。わたしが知るかぎり、いちばん友川カズキに近いと思う。
 よくわからないけれど、たったひとりのにんげんがいるということで音楽というものすべてがよく聞こえるように思う。それは、総体としての音楽という抽象概念の質を大森靖子がひきあげているということで、つまりそれは歴史ということだと思う。
 早稲田松竹までいってクロエ・グレース・モリッツを見るつもりだったけれど、図書館までいって、鹿島田真希「二匹」と松浦寿輝「そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所」を借りているあいだにめんどうくさくなって、電車にのるのをあきらめてドトールまでいって本を読んだり日記を書いたりした。ライターをもってくるのをわすれたからかなしいと思った。
 松屋でごはんを食べてから、さいたま新都心をぶらぶら散歩をして、それからベックスによってまたなにかを書いたり読んだりした。たとえば「マンガをアニメ化する」というのはどういうことなんだろう。おそらく、そこでまずだいいちに重要になるのはマンガは静止画で、アニメは動画ということだと思う。たとえば、「ハンター×ハンター」はわりあい「こころの声」がおおいマンガだと思う。ウェルフィンとメルエムが対峙したとき、ウェルフィンの顔のアップが描かれ、その顔、そのコマを埋めつくす勢いでウェルフィンの「思っていること」がびっしり書かれている(わたしたちはそれを見て「ウェルフィンがここに書かれていることを思っている」ということを了解するわけだけれど、わたしたちはなぜそういうことを了解できるんだろう。それはマンガというもののなかで、「顔のアップが描かれてその横に文字が書かれていたら、その文字はこのひとが思っていることである」という読みかたを無意識に享受してきたからだと思う。たぶん、わたしたちは「マンガを読む」という言いかたをするけれど、文字どおりわたしたちはそのときマンガに書かれた文字を読んでいる。そして、ゴダールは「ひとびとは字幕があると映画を見なくなってしまいます。そこに書かれた字幕を読み、画面にブラット・ピットがうつっているのを見て安心しているだけです」とかつて言った。わたしたちはマンガをほんとうにはいったいどういうふうに読むことができうるだろう)。ここでこの表現が可能なのは、ウェルフィンの顔が静止していて、わたしたちがそれを読んでいるからだ。もしもかりにこのシーンをアニメ化しようとするなら、わたしは絶望的な気持ちになってしまう。このこころの声をアニメのなかで表現するには1分ほどの時間が必要かもしれない、そのとき、もしもマンガでなされた表現をそのまま踏襲したいと思うなら、ウェルフィンの顔を1分も静止させなくてはいけない。できるとしても、せいぜい汗をだらだらたれさせたり、顔をこきざみに震えさせたりするくらいのことだろう。そして、汗をだらだらたれさせたりこきざみに震えさせたりすることは、そのじっさいとして、アニメーションではないと思う。色がついたとしても、こまかな動きがあったとしても、それは本質として静止画の表現そのままだからだ。だからかりにアニメをつくるひとがそういったやりかたをとるとしたら、そのひとはたぶんアニメについてなんにもわかってはいないと思う。マンガでなされた表現をそのまま踏襲しようという試みはなにもうみだしてはいない。おなじものをおなじやりかたでもう1度つくりなおしているだけだと思うわたしの考えでは、このシーンを良質にアニメ化したいならばなんらかのべつの表現をとらなければならないはずで、それがアニメをつくるということだと思う。マンガとアニメにおいて、そもそもの問題として時間の流れかたがちがう。マンガにおいてはコマごとに断続的に時間が静止されているのにたいして、アニメでは時間は継続的に流れざるをえない。時間の流れについていえば、マンガはデジタルでアニメはアナログになっている。マンガにおいていえばコマとコマのあいだにはいっさいが存在していない。時間も、空間もなにもない。コマ単位で時間が静止しているという圧倒的な前提があればこそ、そのコマのなかに時間を無視した文章が挿入される。そして、そのじっさいとして、マンガを読むひとがひとつのコマのなかの文章を読みはじめたときと読みおえたとき、マンガのなかの時間は1秒も流れていない。コマのなかの文章はゼロ時間のなかにおさまっている。こういう文章の使いかたは、小説においてすらなかなかなされない。小説というものが物語を要請されているかぎりにおいて、そこに書かれた文章はおそらく必然的に時間経過をふくんでしまう。だからマンガにおいて書かれた文章やせりふは、小説のなかに書かれたものよりもよほど純なもの、言いかえれば、詩の文章に近いように思う。アニメや映画における映像表現において「こころの声」の表現は、映像表現じたいが時間経過をともなうものであり、「こころの声」という文章表現がゼロ時間的なものであるかぎり、つねに矛盾を抱えこんでいる。両立させようとすればどちらかを欠かざるをえない。だから、たとえば宮崎駿のアニメではわたしの知るかぎり「こころの声」はいっさいでてこない。そしてそれによって……飽きた!


 5月20日(日)

 朝起きて、それからなんにもしないままにだらだらとすごして、目黒シネマまでいって園子温「恋の罪」、「ヒミズ」を見た。「ヒミズ」はわたしはここさいきんつくられた映画のなかではいちばんだと思う。ここに描かれているにんげんの悪意は、ほとんど悪意と呼べないほどの自然さの悪意だと思う。カミュ「異邦人」のムルソーはすくなくともひとを殺すために「太陽がまぶしかったから」と言わざるをえなかった。園子温「ヒミズ」でおそらくはだれも「太陽がまぶしかった」とは言わない。彼らは自分の子供にたいして「俺、ほんとおまえがいらねえんだよ」と言い、「ほんとにあの子に死んでほしいぃ」と言う。そこには太陽すら照っていない。あらゆるロマンティシズムが欠落しているように見える。彼らはもしも世界が終わっても「俺、ほんとおまえがいらねえんだよ」と言いつづけるように見える。彼の映画を見ると夜の帰り道がすこしだけこわくなる。世界の温度がすこしだけさがり、知らないだれかに刺されるんじゃないかと思う。わたしはわたしが生きている世界にたいして安心をしていて、けれど、その安心が罪であるようにすら思えてくる。そういう映画をわたしはほかに知らない。そして、二階堂ふみはやっぱりかわいかった。二階堂ふみはもしも世界が終わってもかわいいままだろう。二階堂ふみはもしも世界が終わってもかわいいままだろう。
 帰りに電車のなかで夏目漱石「漱石文明論集」を読んだ。「硝子戸の中」という文章がのっている。さいきん読んだ文章のなかではいちばん美しいものだった。漱石のもとにひとりの女性が訪ねてきて、自分の話を小説に書いてくれと言う。女性は何度も訪ねてくるけれど、なかなかその話はしないで、ついには、やっぱり書くのはやめてくれと言う。漱石は書かないと約束し、女性の話だけを聞く。


 女の告白は聴いている私を息苦しくした位に悲痛を極めたものであった。彼女は私に向かってこんな質問を掛けた。――
 「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
 私は返答に窮した。
 「女の死ぬ方が宜いと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
 私はどちらにでも書けると答えて、暗に女の気色をうかがった。女はもっと判然した挨拶を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
 「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支ないでしょう。しかし美しいものや気高いものを一義に置いて人間を評価すれば、問題が違って来るかもしれません」
 「先生はどちらを御択びになりますか」
 私はまた躊躇した。黙って女のいう事を聞いているより外に仕方がなかった。
 「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののために段々薄れて行くのが怖くって堪らないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくって堪らないのです」
 私は女が今広い世間の中にたった一人立って、一寸も身動きの出来ない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱ詰った境遇である事も知っていた。私は手の付けようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられて凝としていた。
 私は服薬の時間を計るため、客の前も憚らず常に袂時計を座蒲団の傍に置く癖を有っていた。
 「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女にいった。女は厭な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が更けたから送って行って上げましょう」といって、女と共に沓脱に下りた。
 その時美くしい月が静かな夜を残る隈なく照していた。往来へ出ると、ひっそりとした土の上にひびく下駄の音はまるで聞こえなかった。私は懐手をしたまま帽子も被らずに、女の後に附いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈して、「先生に送って頂いては勿体のう御座います」といった。「勿体ない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
 次の曲り角へ来たとき女は「先生に送って頂くのは光栄で御座います」とまたいった。わたしは「本当に光栄と思いますか」と真面目に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」といった。わたしは女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅の方へ引き返したのである。



 ここにはわたしはにんげんの美しさが描かれていると思う。もっといえば、美しいとなにかを思うまえにすでにそれを美しく見てしまうにんげんへの焦燥にも似たあこがれが描かれていると思う。わたしはほんとうになにもかもにも興味がないにんげんだと思う。かりにわたしがなにかを美しいと思いなにかを美しいと書いたとしても、それは、その前提としてわたしがそれを美しいものだと規定したからというだけにすぎないように思う。わたしが好きなひとはその前提を必要としないひとだけだと思う。頭がおかしくなるほどにあこがれてもう手が届かないとあきらめてしまったひとたちだ。わたしはそういうひとたちにしあわせになってほしいし、そういうひとたちが美しいままであるならば、わたしはもうなんでもいいと思った。美しく見るまえに美しいと規定することはあさましい。わたしの日記は「その規定が消えてしまわないようにせっせと保守をしている」という意味しか持ちえない。そうやって書きつづけられた日記もそういった日記を書きつづけるわたしもしんそこあわれだと思う。けれどもういい。わたしはあきらめてしまったから。わたしにはその規定を必要としない生きかたなんてけっきょくなにひとつ見つけられなかったから。この文章のなかにでてくる彼女は傷ついた気持ちを抱えたままの自分が同時に美しくあるということを知っているように見える。だから彼女は漱石にその美しさを書いてほしいと願い、そしてあさましさに気づき書かれることをためらいはじめたように思う。彼女はその傷とともにえた気持ちが薄れていってしまうことをおそれていると言う。漱石はそれについてなにも言うことができない。ただにんげんの美しさにふれ、その美しさを胸のなかでそっとあたためることしかできない。そして、引用した文章の次でその有楽座や帝劇にかよって得意になっていた自分の過去をあさましく思うと述懐している。
 とてもとてもつらいことだと思う。芸術を美しいと思うことはたったひとりでもできるけれど、にんげんを美しいと思うことはひとりではできない。


 5月21日(月)

 会社にいった。


 5月22日(火)

 会社にいった。


 5月23日(水)

 会社にいった。


 5月24日(木)

 会社にいった。
 tobaccojuiceはけっきょくライブに1回だけいって、そのあとすぐに解散してしまったけれど、あらためて彼らの音楽を聴いているとやっぱりちゃんともっといっておけばよかったなと思った。とてもかんたんに言うと大森靖子は戸川純の系譜だと思う。そこで体現されているのはよごれた少女だけれど、tobaccojuiceはたとえばあらゆるよごれもさわやかさに変換してしまう。わたしの知っているかぎり、そんなことができているひとはいま世界にほかにだれもいない。


 5月25日(金)

 会社にいった。
 帰ってなにもする気力がなくて、帰ってからはニコニコ動画で「タクティクスオウガ」のプレイ動画をずっと見ていた。まるでかすみたいな人生だなと思った。はやく死のう。


 5月26日(土)

 朝起きて、郵便配達のひとから荷物を受けとって、それから王子小劇場までいってバナナ学園純情乙女組「輪姦学校」(ちらしのどこを見てもタイトルがよくわからないから省略して書いているよ)を見た。こわれかけた夢だとわたしは思った。バナナ学園を見るのははじめてだったけれど、たとえば新海誠を見たときのように落ちこんでしまう。バナナ学園は見ているときに水をばしゃばしゃかけられるし、濡れたわかめやグリーンピースやとうもろこしを投げつけられるし、わたしははじっこに座っていたけれどいきなりちいさな人形(しかも湿っていてちょう気持ちわるい)をなにか言われて手わたされた。たぶん、バナナ学園をたのしむためには「俺はリア充だよ」ということをある程度自覚的でなければいけないように思う。ほとんどの舞台というものはそれが舞台であるというかぎりにおいて高尚さをまとってしまう。観客は「俺はいま劇場にやってきて舞台を見ようとしている」ということを知っている。バナナ学園はそれをほとんど知っているように思う。たとえば彼女たちは劇場でなにかをやるというよりもディズニーランドのアトラクションのひとつになりたいと思っているように見える。彼女たちの舞台では、台詞はほとんど聞こえないし、シェイクスピアやベケットの演劇にでてくるひとたちや、あるいはマリオやピーチ姫がでてくる、劇中で「だれだれは死んでしまった」とだれかがさけんでいたからだれか(たぶん全員)が死んでしまったんだろうと思うけれどわたしにはだれがいったいどんなふうに死んでしまったのかまるでわからなかった。たぶん、彼女たちは質的におそらくはなにもおもしろいことをやってはいない。そして、もしもかりに彼女たちのやっているおもしろくはないことがおもしろいと思えたなら、それはあきらかにそのひとがおもしろいといことだと思う。彼女たちの存在は学園祭や更衣室や部室の無駄話的なものに近いように思う。学園祭も更衣室も部室も、おそらくはそれじたいなにもおもしろくはない。もしもかりにそれがおもしろいと思えたなら、それはあきらかにそのひとがおもしろいということだと思う。だから、バナナ学園を見るためにまずはわたしたちが「それなり」でなくてはいけない。ただわたしは「それなり」ではなかったということだろう。わたしにはどうしてわたしがお金をはらってバケツで水をかけられたり濡れたわかめをべしゃべしゃ投げつけられたりしなければいけないのか最後までわからなかったし、わかりたくもなかった。ひとりでいったのも失敗だったと思う。彼女たちはあるいは舞台という存在に徹しているのかもしれないと思う。彼女たち自身がなんでもないものになって観客たちに観客たちのおもしろさをうながすという装置になっているのかもしれない。わたしにうながされるだけのものがなかったということだと思う。それはあわれなことだと思う。とてもとても、あわれなことだと思う。
 王子小劇場からの帰り、公園で煙草を吸いながら靴のなかがもぞもぞするなと思ったらわかめがたくさん靴のなかにへばりついていた。わたしは靴を脱いで靴下についたわかめを手にとって公園にひとつずつ捨てていった。その姿はまるでうちのめされたかのようだっただろう。戦場で負けた兵士のように、うちのめされた姿だっただろう。
 モスバーガーにひきこもって日記を書いたり本を読んだりして、それから渋谷までいって、SPACE EDGEでサラ・ケイン作、川口智子演出、鴎座「洗い清められ」を見た。わりあい硬派な現代演劇のようにわたしには見えたけれど、それはそれでおもしろいように思った。女のひとが土をぱぱっと蹴りながら踊るのを近くで見ることができてうれしいと思った。おばあさんがいてちっとも動かなかったからそれはおきものなのかなあと思ったらおきものじゃなくておばあさんだった。後半よりも前半のほうがおもしろいとわたしは思った。それは、前半にはたしかにあった勢いみたいなものが消えてしまったように思えたからだと思う。男が女のひとにチョコレートを放り、女のひとがそれを次々と拾っては食べていって、そんなにすぐには食べきれないから口からにちゃにちゃはみだしていく、たとえばその光景は壮絶だったはずなのに、あんまりにもゆっくりとした時間が流れすぎていたと思う。緊迫しなければいけないはずなのに空間も時間ものっぺりとしてしまう。それがいいのかわるいのかわたしにはわからないし、それ緊迫させる方法も知らない。わたしはなにも知らない。


 5月27日(日)

 朝起きて、横浜まで鳥公園を見にいくつもりだったのに、たのしみにしていたのに、わたしはわたしの住んでいる場所から横浜までは1時間しかかからないと思っていたのにほんとうは1時間30分くらいはかかるから、あ、まにあわないと気づいた。それでもうなにもかもがいやんなってふて寝した。起きたら21時で、それからスーパーにいって桃の缶詰とかを買って帰ってきて、ニコニコ動画で「タクティクスオウガ」のプレイ動画を食べながら桃の缶詰を食べて寝た。


 5月28日(月)

 会社にいった。ふつうに10時くらいまで仕事をした。


 5月29日(火)

 会社にいった。
 お昼休みにはAHくんがうんこの話をしていた。MKさんが見慣れない機械をつかっていて、「なにしてんですか?」と訊いたら「よくわかんない」と言われた。
 夜の9時すぎにAHくんといっしょに会社をでたらどしゃぶりだった。AHくんが高いお金をだして買った傘が一瞬で破壊されて、骨が折れていた。わたしは「角度の問題だよ。したから見たら折れているように見えるだけだよ」と言って慰めてあげた。


 5月30日(水)

 会社にいった。5時に帰った。
 とりあえずドトールへいって日記を書いたり小説を書いたりした。ボブ・ディランの音楽を聴いた。あとはとくにやることがなかった。




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