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ものごとをかぞえるとき、かぞえおわったとき

2012.06.04(01:34)

メランコリア [DVD]メランコリア [DVD]
(2012/08/03)
キルスティン・ダンスト、シャルロット・ゲンズブール 他

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 5月31日(木)

 会社にいった。それからちゃんと5時に帰って、ドトールにいって小説を書いた。ヤオコーにいってサラダや桃の缶詰を買って、トニックウォーターを買って家に帰った。このまえ買ったジンで濃いジントニックをつくっておいしいおいしいと思いながら飲んだ。おいしいようと思った。

 
 6月1日(金)

 会社にいった。
 家に帰ってやまもりのサラダを食べた。サラダさえあればほかになにもいらないと思った。

 
 6月2日(土)

 朝すごくがんばって起きて、2時30分に高田馬場でぺん子さんと待ちあわせて、ラース・フォン・トリアー「メランコリア」、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見た。ぺん子さんはハムスターを飼いはじめたと言ってハムスターの写真版を見せてもらった。なにそれうらやましいんだけどと思った。ハムスターの世界のことをいろいろ聞いた。ハムスターの世界のことだった。
「メランコリア」と「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はりょうほうとてもおもしろかったからうれしかった。「メランコリア」の冒頭の5分はわたしが見た映像のなかでもっとも美しいものに数えられると思う。たとえば、「メランコリア」の冒頭で描かれるキルスティン・ダンストが水のなかをうつろっているシーンの水の質感はどうだろう。タルコフスキーの水とはちがい、さらさらと流れる濃くつよい粘液のような質感はどうだろう。およそ映像というものがディジタル化されたときにどういうものがでてくるのか、というごくごく基本的な問いかけのなかで、わたしはこういう映像を見ることができてとてもうれしいと思う。ポスターには「衝撃のラスト」とあるけれど、ほんとうのことをいえば、ここで起こるラストシーンでは惑星が衝突して世界が崩壊してしまうということ「だけ」だと思う。その崩壊がシャルロット・ゲンズブールが最後の最後で手をはなしてしまったことに起因しているのかどうか、わたしにはわからないけれど、けっきょくのところ、ここでは惑星が崩壊するということ「だけ」しか起こらない。「なにかが起こる」ということが、この映画においてほとんど逆転してしまう。柴崎友香の小説は一般的に「なにも起きない」と言われているけれど、保坂和志は「こんなにもたくさんのことが起こっている」と主張している。惑星衝突が近づき、キルスティン・ダンストは魔法のシェルターをつくると言って森の枝をひろいあげてみすぼらしい結界をつくる。彼女は「すべてがわかる」と言いながらそれをつくり、そして、それはおそらくなんの効力を持たないで、結果的に3人とも死んでしまう。彼女は惑星接近に際して超現実的なちからがそなわったかのような描写がされるけれど、それは、すくなくともこの映画のラストにおいてなんら意味をなしてはいない。だから、この映画においては「惑星が地球に衝突して世界が崩壊する」ということが描かれながらなお、その本質としてなにも起こってはいない。「惑星が地球に衝突して世界が崩壊する」ということに焦点があてられていない第1部ではいろいろなことが起こっているという意識があたえられていることと対照的だと思う。ただ、わたしにはもうこの映画にたいしてなにも言うことはしない。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」についてもあまりなにかを書く気はしない。この映画のなかでビョークはつよい女性を演じているけれど、逮捕され処刑される直前で「わたしはまるでつよくなかった」とそのつよさを否定する。事実、ビョークは追いつめられるたびに頭のなかの空想に逃げこみ、そこで美しいミュージカルを展開される。けれど、その空想とは関係なく現実は進み、事態はわるいほうわるいほうへと進んでいく。ビョークが現実的に、勇気をふるいおこすために歌うのは処刑される直前だけだ。ビョークは処刑される直前にたっていられなくなるけれど、子供のことを思い歌い、「勇気をもって」処刑される。これは、現実的な映画だとわたしは思う。ビョークが描く空想もおなじように、ただの現実でしかないとわたしは思う。現実、現実、いやになる世界だろう、わたしたちにはどこまでいっても現実しかないんだろう、空想のなかに逃げこむということは空想のなかに逃げこむという現実を抱えこむということしか決して意味しない。それはたしかに「最後から2番目の歌」なのかもしれない。けれど、わたしたちにはどれが最後で、どれが最後から2番目なのかを知るすべてなんてひとつだってないだろう。わたしたちは最後からものごとをかぞえることなんてできはしないと思う。そしてそもそもわたしたちのあわれさは、ものをかぞえてしまうということだ。ものをかぞえることになんの価値があるというんだろう。最初の恋愛も最後の死も、かぞえられた瞬間に終わるだけだ。わたしたちのあらゆる不幸はものごとをかぞえはじめたときにはじまり、ものごとをかぞえおわったときに終わる。


 6月3日(日)

 11時に寝たはずなのに、起きたら14時30分だった。びっくりした。単位をとらなくちゃいけない夢を見た。なんで? と思ったけれどわからなかった。わからないことだらけだった。
 図書館にいって本を返してきて、オースター「幻影の書」アブラハム・B・イェホシュア「エルサレムの秋」を借りてきた。それからクリーニング屋さんにいって、ヤオコーにいってサラダと桃の缶詰とせっけんシャンプーを買って帰ってきた。ドトールにいって「幻影の書」を読んで、まるでお手本のような文章だと思った。


 誰もが彼のことを死んだと思っていた。彼の映画をめぐる私の研究書が出版された一九八八年の時点で、ヘクター・マンはほぼ六十年消息が絶えていた。


 こういう文章でこの小説ははじまる。1行めは抽象的に書かれていて、2行めは具体的に書かれている。2行めで彼が映画関係者だということ、名前、そして「私」が彼の研究書を書いたこと、それらが具体的な時期をともなって書かれている。これが小説でないとしたら1行めはいらないように思う。1行めは2行めをひきだすためのまえぶりでしかないからだ。でもこれは小説だから1行めを書いたっていいはずだ。あるいは、1行めが書かれたこそこれは小説だとも言うことができるように思う。オースターの小説はきわめて物語的だと思う。そしてそこにはかならず「遠さ」と「静謐さ」がただよっている。そして、その「遠さ」と「静謐さ」は1行めに宿るはずだと思う。そして2行めに書かれている「具体性」は「遠さ」と「静謐さ」をそこなう可能性をつねに秘めていると思う。それにもかかわらずオースターの小説が「遠さ」と「静謐さ」をたもったままいられるのは、どういうことなんだろうとときどき思う。彼は具体的なこと、あるいはそれを浮きだたせる比喩表現を、てきせつなところにてきせつな長さで配置しているように見える。その加減、それはたぶん、「書きすぎないこと」だと思う。オースターの小説を読むときには、たぶんストレスはいらない。そこで描かれたどんな具体的なことも、たぶん、わたしたちがどんなに手をのばしてもとどかないたぐいのもので、そして、わたしたちはそれに手がとどかないことをオースターに説明されるまでもなく知っているだろうから。オースターの文章は完璧なようにわたしには見える。けれど、完璧な文章というのはただひとりによって書かれるものではないようにも思える。完璧な文章とはたくさんあって、どのように完璧であるかはひとつひとつちがって、そのちがいによって、もうだれにも動かすことはできないんだろう。
 モスバーガーにいって小説を書いていたら、終わった。「あたたかい砲台のなかで」という砲台のなかがあたたかいという小説だ。いままでわたしが書いた小説のなかでさいこうのものだと思う。
 日記で、わたしに起こったことをありのままに書く必要はない。どんなに醜いことでも美しく書いたほうがいいように思う。すぎさってしまったものはすぎさってしまったものにすぎない。それらはどう書かれたしても復讐されることはない、ただ傷つくのはわたしだけだ。




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