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「15 Minutes Made Vol.11」@池袋シアターグリーン

2012.06.16(22:23)

日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)
(1988/06)
柄谷 行人

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 6月4日(月)

 月曜日だった。会社にいった。
 大森靖子のライブにどうしてもいきたくて、彼女に予約のメールを送ってその返信がきていたのだけれど、その書きぶりが衝撃的だった。


 6月5日(火)

 火曜日だった。朝起きて、会社にいって、それから帰った。


 6月6日(水)

 水曜日だった。朝起きて、会社にいって、それから帰った。


 6月7日(木)

 木曜日だった。朝起きて、会社にいった。座ってまじめに仕事をしていたらKYさんにシャープペンでわきばらをつつかれて「いそがしいよう」と言われた。それから帰った。


 6月8日(金)

 金曜日だった。朝起きて、会社にいって、帰るときには12時近くなっていたから、SYさんとMTさんといっしょにラーメンを食べにいった。冷やし中華を頼んだらSYさんに「冷やすねえ」と言われた。冷やすんですよと思ってなにも言わなかった。いいかげんテレビを買ったらと言われてえーとだけ言ってあとはだいたいなにも言わなかった。
 家に帰ってオースター「幻影の書」を読みおえた。花を育てようと思った。おもしろかった。


 6月9日(土)

 早稲田松竹までいってフェリーニの映画を見にいくという予定をたてていたけれど起きたら16時で、もちろんがんばればいける時間だったけれど、雨が降っているからしょうがないと自分に言いわけをして一歩もそとにでなかった。
 シェイクスピア「夏の夜の夢・あらし」を読んだ。どちらもおもしろかった。そのあとは書きおえた小説を手なおししたり、You Tubeで「エンドレス・ワルツ」(ガンダムW)を見たりしていた。おもしろかった。


 6月10日(日)

 今日はちょうがんばって朝の9時45分に起きて、K's Cinemaでペ・グァンス「18歳、19歳」とキム・グァンシク「僕のヤクザみたいな恋人」を見た。どちらもちょうおもしろかった。「18歳、19歳」は韓国映画最大の傑作シン・ドンイル「ソウルのバングラデシュ人」主演のペク・ジニがでていて、わたしはほとんどペク・ジニめあてで見にいったけれどちゃんとおもしろかったからうれしかった。どうしてこんなにめろめろしていておもしろいのかわたしにはわからないけれど、めろめろしていてもこんなにおもしろいことはすばらしいことだと思った。ペク・ジニ俺んちにこないかなあと思った。
「僕のヤクザみたいな恋人」もおもしろかった。感想はとくにないけれど、だいたい、感想がとくにないということは、わたしがなにも書かなくてもおもしろいということだからそれはすばらしいことだと思った。タイトルの意味はよくわからない。てきとうにつけちゃったんだろうか。
 そのあと、池袋までほいほいいって、池袋シアターグリーン BOX in BOX THEATERで「15 Minutes Made Vol.11」を見た。露骨におもしろかったじゅんに書いていくと、Mrs.fictions、MCR、月刊「根本宗子」、梅棒、あやめ十八番、宗教劇団ピャー!!だと思う。
 Mrs.fictions「お父さんは若年性健忘症」はすばらしかった。作・演出の中嶋康太が長谷美希にさせている、あるいはゆるしている、あるいはあれは長谷美希のすばらしさかもしれないけれど、そのしゃべりかたにはとてもゆたかなものがあると思う。わたしは演劇を見ているときしゃべりかたがどうしても気になってしまうけれど、そのしゃべりかたについて、いつもうまく言うことができない。現代口語劇というのは、たぶん、現実にひとがしゃべっているようにしゃべる、というやりかたではない。けれどその意味は、現実の場面において長谷美希のようなしゃべりかたをするひとがいない、ということではない。柄谷行人は「日本近代文学の起源」のなかで、言文一致運動が起こったとき、そもそも、子供ですら言文一致で書かれた文章はそれまでに書かれていた文章よりも読みづらかったと書いた。だから、言文一致も、現代口語劇も、それじたいがリアルなわけではない。そこに設定されたリアルさがあって、ただそれを読むひと見るひとがそこにリアリティを感じるだけだと思う。そして、そのリアリティは、ただ現実にしゃべるようなやりかたをしているだけではおそらくは発生しない。そのとき、たぶんそのひとは劇をやめなくてはいけないだろう。でもこれは演劇だった。演劇でなくてはいけなかったはずだった。
 MCR「散々無理して女だった、女だったのに」はほとんどショートコントみたいなものだったけれど、うっかり「エアロ」のくだりで大笑いしてしまったからしかたないなあと思った。
 月刊「根本宗子」の「工藤、笑って」はもうほとんど演劇になっていないところがよかったと思う。最後のオチも戦慄を感じてしまうほどにオチていないし、MCRほどに徹底してショートコントとしてつくりこんでいるわけでもなく、この作品がつくられ、そして上演される価値はいったいなんなんだろうと疑われるほどだった。すばらしかったと思う。男の子のしゃべりかたもよかった。根本宗子が微妙なありかたでかわいいのでまた見にいきたいと思う。
 梅棒「キック・オフ!!」は極めて高度なことをやっていると思う。わたしはこれはテレビアニメのオープニングだと思う。だいたい、アニメのオープニングはほとんどある種のダイジェストとして、歌にのせてたのしそうな雰囲気をかもしだしている。だから、これはほとんどテレビアニメのオープニングだと思う。オープニングのやりかたで物語の最初から最後までやればこうなるんだろうと思った。問題は、わたしがサッカーのユニフォームをつけて汗まみれで踊りながらさわやかな活劇をくりひろげているひとたちを好きなわけがないということだ。
 あやめ十八番「八坂七月 諏訪さん九月」については、「へえ、ひとり芝居ってこういうものなんだ~」というくらいの感想しかどうしても抱けない。つまらなくはないけれど、かといっておもしろくはない。たとえば、盲目の画家がいて、もしもかりにそのひとが人なみの絵を描いたとしても、それは人なみの絵にすぎないと思う。「たったひとりでそんなにたくさんのことが表現できるんだね」というのは、わたしの考えでは、たぶん褒め言葉ですらないと思う。複数人でやってもっとすばらしいものができるのなら、わたしは複数人でやったものを見たいと思う。「たったひとりであんなにたくさんのことが表現できるんだね」と言うとき、ただわたしたちはめずらしいものを見ているにすぎないように思う。たとえば火事現場を見ているようなものだと思う。だからわたしは火事が終わったらそこからたちさるしかない。そして、火事以上のなにかが起こる見こみのないそこにもどってくることもないだろう。
 宗教劇団ピャー!!「lovvvvvvvv∞vvvvvvvve」はつまらないという問題すらかるく越えて、もはややっていることに興味がないというしかないように思う。そもそも出オチでしかない。あとは、舞台のうしろでたくさんの恋人たちがえんえんとキスをしているなか、あぶないかっこうをした3人が舞台の最前でわけのわからないことをしゃべっているだけだった。なんでもやればいいものでもないなとあらためて思った。いったいなんだったんだろう。




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