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酒井幸菜「わたしたちは生きて、塵」@のげシャーレ

2012.06.16(22:27)

ティモレオン―センチメンタル・ジャーニー (中公文庫)ティモレオン―センチメンタル・ジャーニー (中公文庫)
(2006/04)
ダン ローズ

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 6月11日(月)

 会社にいって仕事をした。


 6月12日(火)

 会社にいって仕事をした。


 6月13日(水)

 会社にいって仕事をした。


 6月14日(木)

 会社にいって仕事をした。砂漠化が進んでいた。
 SHさんがみんなでドッジボールやろうぜといって、わたしとMKさん以外のひとはだいたいドッジボールしにいった。わたしは「いいです、いいです」とかたくなに言って断った。ドッジボールはほとんどリアクション芸で、そんなものはむりだと思う。


 6月15日(金)

 会社にいったかもしれなかった。


 6月16日(土)

 がんばって朝起きて、電車のなかでダン・ローズ「ティモレオン」をひたすら読みながらたのしく横浜までいった。酒井幸菜「わたしたちは生きて、塵」を見た。すばらしかった。金ぴかの紙がまきあげられて、微妙な照明を受けてきらきらと光っていた。照明はだんだん薄く暗くなっていき、橙色のちいさな光だけに変わっていく。紙は金色の表の部分しか光を反射をしなくなって、暗くなった空間で、鮮明な映像のこま送りのような光りかたをしていて、とても、とても美しかったと思う。
 酒井幸菜のダンスは、その部分部分において、どうしても言葉のほうに逃げていってしまうように思う。冒頭で動きのあるダンスが展開され、それが終わると幕間、のようになり、ペットボトルの水をバケツにそそぎ、そのバケツを倒し、こぼれた水をモップで拭きとり、べつの女の子は霧ふきを噴射しながら歩き、つまり、そのとき彼女たちは端的にいって踊ることをやめてしまう。今回の作品でいちばんすばらしかったのは、一連の幕間のようなシーンから解放され金色の紙をまきながら踊りはじめたところだと思う。そのとき、わたしには彼女たちはようやく言葉から解放されていたように思う。
 たとえば歌詞はうたわれることによって意味からはなれていき、そうやってうたわれた歌詞はうたわれた一瞬単独の個体のように存在をはじめる。大森靖子が「オヤジにもらったお金でパーティドレスを買いにいく」とうたうとき、そこでうたわれていることはもはや言葉ではない。もっといえば、そうやってうたわれた一瞬一瞬において言葉の意味を喪失している。うたうことによって、たぶん彼女たちは言葉を殺しつづけている。そうやってうたわれるものだけが、歌だと思う。
 酒井幸菜はあえて言葉を生かしたまま踊ろうとしているように思う。だから、彼女のダンスは容易に言葉に変換できてしまいそうなよわさをときとして露呈してしまうように思う。それはおそらくは彼女が意志として選んだやりかただろう。わたしにはそれがいいことなのかどうなのかはよくわからない。そうやって殺されなかった言葉だけをひろいあつめて、たとえばひとびとは「詩的だ」と言ったりする。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。ゴダールは「いまのおおくの映画では、ひとびとはカメラにうつってすこしなにかをしゃべると、もう次のシーンにうつってしまいます。彼らはなにをしゃべったらいいのかすぐにわからなくなってしまうのです」と言った。わたしにわからないのは、どうして彼女たちはすぐに踊りやめてバケツに水をそそいだり、こぼした水をモップで拭きとりはじめたりするのかということだ。ダンスは身体表現だ、だから水をモップで拭きとるという行為もダンスだ、と言うことはたやすい。あまりにもたやすすぎて、それはほとんどかなしみをともなう。おそらくそれは結果や感想としてたちあらわれてくるもので、たぶん、身体表現の前提とすべきものではないように思う。そうやっておこなわれて行為が身体ではなく言葉だということにすらたやすくなってしまうほどに、わたしたちの要素はもろくくずれやすいと思う。




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