スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

身体の景色「音と言葉と身体の景色 vol.7」@日暮里d-倉庫

2012.06.29(21:18)

許されざる者 [DVD]許されざる者 [DVD]
(2010/04/21)
クリント・イーストウッド、ジーン・ハックマン 他

商品詳細を見る

 6月24日(日)

 ちょうがんばって朝起きて、日暮里d-倉庫までいって、身体の景色「音と言葉と身体の景色 vol.7」を見た。この舞台でおこなわれているしゃべりかたは過剰に演劇的だった。ひとつづきの台詞のなかでも、しゃべりの速度や高低や勢いがめまぐるしく変わっていた。わたしにはどうして役者たちがそういうしゃべりかたをするのかまるでわからなかった。わたしにはよくわからないけれど、役者たちが過度に演技をすればするほど、わたしにはそれがただの演劇になってしまうように思えた。いくら過剰な演出、過剰なしゃべりかたをしたとしても、けっきょくのところ、わたしにはそれはただの演劇に思えた。ただの演劇だということはそれは現実ではないということだと思う。柄谷行人は「言文一致体とは話し言葉を文におきかえたものではない」と言った。「言文一致体とは新しい文章の創出だった」。たぶん、現代口語劇においてされている語られかたはそのまま現実においてわたしたちがしゃべっているやりかたとはちがう。一時期のチェルフィッチュにおいてすら、それはちがう。そこにあるのはただ現実に近いものが想起される一瞬の温度のようなものだと思う。わたしはそれでいいと思う。もしもかりにわたしが身体の景色の作品を見て「ただの演劇じゃん」としか思えなかったのなら、それは、わたしがおかしいか、身体の景色がおかしいか、それともおたがいが関係しあうやりかたがおかしいか、そのどれかだと思う。わたしにはどうにもよくわからない。わたしには身体の景色がおこなっているやりかた、しゃべりかたにうまく興味がもてない。そこからなんらかのものがわたしに影響をあたえるともどうしても思えない。わたしは、たんじゅんに、演劇や踊りをつくるひとは演劇や踊りをつくるべきではないと思う。つくりてにつくってほしいのは現実だけで、わたしはそれらを演劇だとか踊りだとか、ひどく勝手に呼びたい。
 池袋までいってブックオフで雀野日名子「トンコ」と田辺青蛙「生き屏風」を買って、ぺん子さんと待ちあわせした。昼間からお酒を飲みにいこうということで昼間からお酒を飲めるお店を見つけていこうとしたけれど、いったけれど、お店のまえで思いきりひとびとが大工仕事をしていたから通りすぎた。「通過!?」と言われた。「だってあれはむりだよ」と言った。あれはむりだよ。池袋の西口のほうを飢えた犬のように這いずりまわってお店を探して、あったけれど、それも高級感あふれる気配がただよいすぎてはいることができなくて、しかたなくまた飢えた犬のように這いずりまわっててきとうなお店にはいってお酒を飲んだ。だいたいもう5時をすぎていたからあんまり意味がなかった。にんげんのこととか、あとはいろいろなことを話した。「なにかおもしろいことあった?」と訊かれて考えたけれどなんにもなかった。なにがおもしろいことなのかよくわからないし、それでも、おもしろいことがなくてもそれはそれなりのおもしろさの毎日がつづいているような、気持ちはあると思う。
 ぺん子さんは帰って、わたしは「映画見てから帰るよ」と言って新文芸座までいってクリント・イーストウッド「許されざる者」を見た。とてもおもしろかったからうれしかった。クリント・イーストウッドは「チェンジリング」なんかはぜんぜんちっともおもしろくなくて好きじゃなかったけれど、これはとてもおもしろかった。イメージだけで言ってしまうと、ドストエフスキーがたったひとつの家族の事件や対話について描くだけで全ロシアの問題を描いているように見えるのとおなじように、クリント・イーストウッドを見るとそこにアメリカの問題がすっかり横たわっているように見えてしまう。それは、たぶん「土地」ということがらにつながっているからだと思う。「土地」ということについてわたしはあんまり興味がないけれど、たぶん、この映画は「土地」についての映画だと思う。これはほとんどファンタジーだと思う。日本でホラー作家が土着的な手法をよくつかうように、ここでも土着的なファンタジーが描かれている。けれど、アメリカはひろいから彼らは土着的でいながらに冒険をしなければいけないし、冒険をしたならば、クリント・イーストウッドは、(アンチ)ヒーローにならなければいけない。そうせざるをえないような、土地の誘発力みたいなものがあるように、どうしても思えてしまう。だから、ここで複雑に描かれている正義と悪の対立について、もはやどちらが正義でどちらが悪か判然としないからそう呼ぶべきではないのにかかわらず、わたしは「正義と悪」という呼びかたをつかいたくなってしまう。そして、たとえばアメリカの作家、サリンジャー、カポーティ、カーヴァー、オースター、さらにいえばティム・オブライエンですら、わたしは彼らの描いたことについて正義とか悪とかいう言葉をつかってなにかを言いたい気持ちにはならない。たぶん、彼らにはイーストウッドが描いた「土地」という概念はおそらくはないんだろう。彼らはあまりにも個人的でありすぎて、あまりに繊細すぎて、「土地」なんて見ることができなかったんだろう。


 6月25日(月)

 会社にいった。仕事をした。
 帰りにドトールによって雀野日名子「トンコ」を読みおえた。家で虐待されている女の子がゾンビたちに「あたしもかじってゾンビにしてよ!」と言っていろいろ作戦を練ってゾンビにしてもらおうとする話がよかった。


 6月26日(火)
 
 会社にいった。5時に帰った。ポメラを持ってくるのを忘れたからまっすぐ家に帰って、田辺青蛙「生き屏風」を読んだ。皐月ちゃんがちょうかわいくてほんわかした。そのあと寝た。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/1035-020190e2
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。