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「ベルリン国立美術館展」@国立西洋美術館

2012.07.15(02:09)

テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX II (ユリシーズの瞳/こうのとり、たちずさんで/シテール島の船出)テオ・アンゲロプロス全集 DVD-BOX II (ユリシーズの瞳/こうのとり、たちずさんで/シテール島の船出)
(2004/06/19)
ハーヴェイ・カイテル、マルチェロ・マストロヤンニ 他

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 6月30日(土)

 朝から元気に起きて上野までいって、「ベルリン国立美術館展」を見てきた。けれど、絵画はあんまりなくて、あるのは彫刻だとか素描だとかばかりで、わたしは終始、「ちぇっ、こんなものはちっともおもしろくはないのにな!」と思ってばかりだった。いくつかの彫刻の洋服のひだのところはうねうねしていておもしろかったけれど、彫刻を1度だってほんとうにおもしろいと思ったことがないことばかりを思っていた。
 そのあと、北千住までいってあいかわらずほとんどだれもいないブルースタジオでアンゲロプロス「こうのとり、たちずさんで」を見た。映画を見おあわったあと、すこしだけ肌寒い北千住の商店街をいっぺんにすべてのお金を失ってしまった貧乏人みたいにぷらぷらと歩きながら「すごいものを見てしまった!」と思った。どうしようもなくそこに発生してしまった場所、空間をこくめいにうつしだす、ということをほんとうの意味でおこなえたのはアンゲロプロスだけだったのかもしれないとほんとうに思った。「だれだれとだれだれは見つめあった」とか「だれだれはだれだれになになにと言った」とか、言葉に置きかえて表現できるものはなにひとつとしてこの映画にはうつっていないと思ってほとんど感動してしまった。だからそれはひとつの奇跡だと言ってもいいように思う。かつてミラン・クンデラは「小説の限界とは言葉の限界であり、言葉の限界とは世界の限界だ」と言ったという話をどこかで読んだけれど、たとえばアンゲロプロスが死に、アンゲロプロスが撮った映像を見ることができなくなるということは、人類がなにかを思ったり、なにかを考えたりできる範囲がせばまってしまったということだ。それは、そこに展開された光景についてわたしたちがなにかを言いえる機会を永遠に奪われてしまったということだ。キリストとかへーゲルとかいうひとたちは「見せかけの対立があるところにほんとうの問題はない」と言ったらしい。柄谷行人は「問題というのは永遠に解決されるものではない。問題がなくなるのは、その問題がもはや問題ではなくなったときだ」というようなことを言った。わたしが言いたいのは、アンゲロプロスの映像を見ることができなくなったとき、見ていれば言えるはずだったことを、たとえば、だれか愛しているひとに「あなたのことを愛してる」と言うことができなくなるんじゃないだろうか、ということだ。もちろんこんなことはすべてばかげていて、ほんとうにばかげているかもしれないけれど、すくなくともわたしはそのばかげたことを美しいと思う。世界のひろがりのぎりぎりの周縁にそっと置けるはずだったわたしたちのいくつかの言葉の置き場所を失うとき、わたしはひどく困惑し、ひどく傷つくかもしれない。けっきょくのところ、わたしが言葉や気持ちの置き場所を見つけるのはわたしのちからでしかない。芸術は死んだとか、芸術は不必要だとか、わたしは言わないし、そうも思わない。わたしが文学を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり、絵画や舞台を見たりするのは、ただ、わたしがわたしの気持ちとか言葉とかを大事にしたいからだ。わたしの気持ちとか言葉とかがうそであってもいい、醜くてもいい。ただそれが美しくあれる場所は必ずあるし、そういう場所を見つけるための営為以外に、わたしは生きるやりかたを知らない。
 家に帰ったらクワズイモの葉っぱがふたつからみっつに増えていた。分身したと思って寝た。




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