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Noism1「Nameless Voice」@さいたま芸術劇場

2012.07.15(02:13)

THE END【初回盤】THE END【初回盤】
(2011/09/07)
毛皮のマリーズ

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 7月8日(日)

 朝9時30分に目覚ましをかけていったんは起きたけれど、ねむいようと思いながら寝て12時すぎに起きた。起きることができたからえらいと思った。また「カラマーゾフの兄弟」を読んでからぺこぺこ歩いてさいたま芸術劇場までいって、Noism1「Nameless Voice」を見てきた。にんげんの身体はぐろいなと思った。よくあんなぐろいものを見て、「かわいい」とか「かっこういい」とか「きれい」とか言えるものだと思った。みんな頭がおかしいにちがいない。テーマ的には社会的なテーマだと思うけれど、社会的なテーマに食べられちゃうことなく、社会的なテーマを訴えるために踊るんじゃなくて、きちんとテーマが踊りのなかにすっぽりはまっていたように思う。
 よくわからないけれど、いつからか、わたしは芸術的なものと社会的なものを別個のものとして考えてきたように思う。Noism1のダンスのなかでスクリーンのなかに水にかんする環境問題がうつしだされただけで、めったなことでは言わない「社会的」という言葉を口にだすほどにわたしの脳味噌はそういうことに犯されているんだと思う。ずっとまえに文学が社会においてどうであるか、ということを今村さんとずいぶん話したことがあるように思うけれど、そもそも、文学と社会を対置することじたいがおかしくて、それはあるいはわたしが文学について抱いているコンプレックスみたいなものだと思う。「カラマーゾフの兄弟」についてわたしは「ひとつの家族を描いているだけなのにあたかも全ロシア的な問題が描かれている」とか調子にのって何度も書いていたけれど、それもまたおかしなことで、たぶん、わたしはまったくおなじものにたいしてちがう言葉をつかっているだけだと思う。それはたぶんわたしの言いかたにすぎないんだろうと思う。大森靖子は「PINK」という歌のなかで「原発のこと、音楽のこと、なんもわかっとらんのにうたっとんのばかやないって言われました!」と絶叫していた。これはCD版の歌詞で、CDが発売されるまえ、彼女はたしかに「原発」ではなく「戦争」とうたっていた。だから、わたしの考えではその言葉は置きかえ可能な言葉ということで、現実的な「原発」とはほとんどなんの関係もない。この歌詞にあらわれる「原発」は「ときどき手首を切らないとしあわせがわからない」とうたわれるうたわれかたとひとしいうたわれかたをしている。「原発のことをなんにもわかっていない」ということと「手首を切らないとしあわせがわからない」というこがひとしいうたわれかたでうたわれているということは、彼女にとって「原発」と「手首」はひとしいということだとわたしは思う。「原発」はたしかに社会問題なのかもしれないけれど、それが歌詞におりこまれることがすなわち社会問題をうたう、ということにはならない。彼女は個人的なことしかうたっていない。逆にいって、もしもいまかりに日本でもっとも社会的な作品をつくっているのはだろうだろうと考えたとき、わたしはチェルフィッチュや濱口竜介がそうだと思う。わたしの知っているかぎり、彼らだけが「わたしたち」にかんする作品をつくっている。そしてそれ以外のひとは、たとえ震災についてなにか書いたり、原発についてなにか書いたとしても、決して「わたしたち」には関連しない。震災も原発も、けっきょくのところわりあいとおい地方のひとつのできごとにすぎない。「社会的な問題」のなにが問題なのか、それは「社会的な問題」にもかかわらず「わたしたちの問題」ではないということだと思う。そして、ほんとうのところ「社会的な問題」は「わたしたちの問題」とならないかぎりすでに「問題」ですらない。わたしがチェルフィッチュや濱口竜介を社会的だと言うのは彼らが「社会的な問題」を「わたしたちの問題」につなげるやりかたを知っているからだ。そして、それをすることができないあらゆるひとにとって、「社会的な行為をする」ということは「個人的な行為をする」ということにしかなってはいないんだろう。これはほんとうにはこわいことだ。だれもかれもが「わたしは社会に関心を持って、わたしは社会的な行為をする」と言いながら文学をやっているということだ。たったひとりで、さみしく。
 歩いてドトールまでいって「カラマーゾフの兄弟」を読んで、ドトールがしまったからモスバーガーまでいって「カラマーゾフの兄弟」を読みおえた。


「あたし、ある本で、どこかの裁判のことを読んだのよ。ユダヤ人が四歳の男の子を、最初まず両手の指を全部斬りおとして、それから壁にはりつけにしたんですって。釘で打ちつけて、はりつけにしたのね。そのあと法廷で、子供はすぐに死んだ、四時間後に、と陳述しているのよ。これでも、すぐにですってさ! その子供が呻きつづけ、唸りつづけている間、ユダヤ人は突っ立って、見とれていたそうよ。すてきだわ!」
「すてき?」
「すてきよ。あたし時々、その子をはりつけにしたのはあたし自身なんだって考えてみるの。子供がぶらさがって呻いているのに、あたしはその正面に坐って、パイナップルの砂糖漬を食べるんだわ。あたし、パイナップルの砂糖漬が大好きなんですもの。あなたも好き?」
 アリョーシャは何も言わずに、彼女を見つめた。蒼白な黄ばんだ彼女の顔がふいにゆがみ、目が燃えあがった。
「ねえ、あたしこのユダヤ人の話を読んだあと、夜どおし涙を流してふるえていたわ。小さな子供が泣き叫んで呻いているのを想像しながら、(だって、四歳の子供なら、わかるはずよ)、一方では砂糖漬のことが頭を去らないのよ」



 7月9日(月)

 会社にいった。で足を組んで座っていた足がしびれていて、それにもかかわらずにしびれていたことにも気づかないで、遠くの席のひとに質問しにいこうと思って席をたったら足がぐにゃりとなった。もうめちゃくちゃいたくて泣きそうになりながら「きゅ、きゅうきゅうしゃ…」と思ったけれど、えらいから黙っていた。


 7月10日(火)

 足のなかの骨がばらばらになっていることを想像しながらひいひい会社までたどりついて、わたしが足をひきずっていることがSSくんにばれて、「どうしたの?」と訊かれた。わたしが経緯を教えたら「それは歳だよ」と言われた。テストの検証物が印刷会社から帰ってきたのでそれをずっと見ていた。たぶん500枚くらいは見なくちゃいけないので死んだなと思った。10時まで見た。


 7月11日(水)

 足の骨がばらばらになっていたのがちょっと合体したのでちょっと痛くなくなった。
 10時に帰った。


 7月12日(木)

 足の骨がほぼ合体したのであんまり痛くなくなった。


 7月13日(金)

 足の骨がかんぺきに合体した。わたしの骨えらい。
 会社にいった。
 内定者懇談会があって、わたしは2言くらいしかしゃべらないでおかしとお茶だけもらって帰ってきた。5時に帰って、新宿までてこてんてこてん電車に揺られながらいって、「馬鹿とけむり」というお店にいった。管城さんはすでにお酒を飲んでおつまみを食べながら「きらきらひかる」を読んでいて、「めっちゃいいところできましたね!」と言われた。「トマトと茄子です」と言われてお皿を見たら茄子が紫色じゃなかったから「紫色じゃないですよ」と言ったら「皮剥いたらこういう色なんですよ、それでもひとですか?」と侮蔑された。後藤まりことか二階堂ふみとかがかわいいという話をした。あとはなんの話をしたか覚えていない。ごはんがおいしくて日本酒もおいしくてうれしいなあと思った。そこをでて日比谷バーにいってまたお酒を飲んだ。「わたし七夕で7億円くださいってお願いしたんですけれどかなわないんです」と言われたので「七夕は7億円もらえる日じゃないですからね」と教えてあげた。あとはPerfumeとか家にあるウィスキーとか日本酒とかが瓶はんぶんになってからの減らな具合はすごいとかそういう話をした。わたしがかぶっていた帽子を貸してあげて「にあいますね」と言ったら「わたしのですからね」と言われた。あげないよと思ったし言った。お財布を見せてくれたのでそのなかから2万円抜こうと思ったら「しゃー! しゃー!」と言って脅された。たのしかった。帰った。


 7月14日(土)

 お昼の2時すぎになんとか起きて、洗濯をしてごはんを食べて、カフカ「失踪者」を読みながら電車にのった。「カフカは文章を書くことで現実をつくりだしている」とわたしは20回くらい言っているかもしれないけれど、これはとんでもなく重要なことだからもういっかい言う、カフカは文章を書くことで現実をつくりだしている。


「神がこの地球を創ったとすれば、われわれが十分承知しているとおり、神はユークリッド幾何学によって地球を創造し、三次元の空間についてしか概念を持たぬ人間の頭脳を創ったことになる」

「何より特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。これはすべて3次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には、まるきり似つかわしかない問題だよ。というわけで、俺は神を認める。それも喜んで認めるばかりか、それ以上に、われわれにはまったく計り知れぬ神の叡智も、神の目的も認めるし、人生の秩序や意味も信じる。われわれがみんなその中で一つに調和するとかいう、永遠の調和も信じる」
      ――ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」


 カフカの描く小説はユークリッド幾何学にのっとっていない。彼らの空間的距離はいきなりほとんどゼロに近づき、そして遠ざかってしまう。そしてそれは空間的な距離だけではなくて、人物の精神的距離にもあてはまっている。叔父はカールをささいなことで放逐し、カールは突然マックとクララは婚約者だと明かされる。「明かされる」と書いたけれど、重要なことは、マックとクララの婚約者関係は召使にそう言われた瞬間に生成されたということだ。はじめからそういう関係(設定)として小説空間が構築されていたのではなくて、召使がそう明かした瞬間、マックとクララの関係が生成された。カフカの文章はすべてそういうかたちで描かれている。「あるひととあるひとの距離は1メートルだ」とか「あるひととあるひとの関係は○○だ」という言いかた、あるいはわたしたちのとらえかたはまったくのユークリッド的な、あるいは遠近法的なとらえかたにすぎなくて、なぜわたしたちがそうやって小説を読むのかたいえば、それは、「そういうものだと思いこまされている」としか言いようがない。そしてそれは小説をそう読むという話だけじゃなくて、現実をわたしたちがとらえるやりかたもほとんど無意識にそういったやりかたでおこなわれている。
「俺は小説家だ」と思っても、わたしは小説家ではない。「彼女は俺を愛している」と思っても、彼女はわたしを愛していない。「『彼女は俺を愛している』と思う」箇所が小説で、「彼女はわたしを愛していない」箇所が現実だ。けれど、おそらくおおくのひとはそれを逆だと思っていると思う。そしてその逆転をたやすく許すほどに世界はやさしくあたたかい。「彼女はわたしを愛していない」瞬間だけがわたしにとって現実であり、それは現実から現実が生成された瞬間だ。けっきょくのところわたしは生成の瞬間を生きていくしかない。だからかりにわたしが現実の生成をだれかにあたえられないとしたら、わたしの価値なんてゼロだ。
 ブルーシネマスタジオでアンゲロプロス「ユリシーズの瞳」を見た。世界でいちばんおもしろい映画だった。
 毛皮のマリーズ「The End」を聴いた。わたしはビートルズだと思った。ビートルズがいまの世界でどういうありかたでありえるんだろうと毛皮のマリーズを聴いてはじめて思って、それは、その瞬間にわたしのなかにビートルズが生成されたということだ。ほんとうにすばらしいと思う。




コメント
はじめまして。moeminと申します。
いつも興味深く読ませて頂いてます。

カフカの『失踪者』をお読みになっているのであれば、ストローブ&ユイレの『階級関係』を強くお勧めします。
映像化が不可能に感じられるカフカの世界を忠実に、かつ大胆に映像という形で異化している傑作だと思います。

(もしすでにご覧になっておりましたらお聞き流しくださいませ。)

これからもブログを楽しみにしています。
【2012/07/19 11:35】 | moemin #- | [edit]
moeminさん

はじめまして。こんばんは。

> カフカの『失踪者』をお読みになっているのであれば、ストローブ&ユイレの『階級関係』を強くお勧めします。
> 映像化が不可能に感じられるカフカの世界を忠実に、かつ大胆に映像という形で異化している傑作だと思います。

ありがとうございます。
ストローブ=ユイレは見たいと思って
見たんですけれど
最初から最後まで寝ていたので
そのじつ 見ていませんでした。
なので 見たいままです。
ありがとうございます。
【2012/07/30 22:15】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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