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「わたし」がなにをたいせつに思うかについての世界的にちいさな問いかけ

2012.07.30(22:16)

私についてこなかった男私についてこなかった男
(2005/04)
モーリス・ブランショ

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 7月18日(水)

 朝起きて、会社にいった。なにをしていたのかはもう覚えていないけれど、きっとひたすら検証作業をしていたんだろう。帰った。


 7月19日(木)

 朝起きて、会社にいった。毛皮のマリーズ「ティン・パン・アレイ」を聴いて、神聖かまってちゃん「つまんね」を聴いた。「つまんね」は「友達を殺してまで」よりも、うたっていればもうなんでもいい、という感じがましたなあと思って、あんまり感心しなかったけれど、「夜空の虫とどこまでも」を聴いてびっくりして、うれしくなった。


 7月20日(金)

 朝起きて、会社にいった。8時すぎには帰ってカフカ「失踪者」を読んで眠った。


 7月21日(土)

 朝9時に目覚ましをかけていったんは起きたけれど、眠いーと思って2度寝した。まだ10時くらいだろう、と思いながらおそるおそる起きたら13時でびっくりした。そのあと、人生のたいせつなたいせつな1秒ずつを左足で踏みつぶしてぐちゃんぐちゃんにするようなやりかたでうだうだして、荷物をまとめて実家に帰った。姉から「きょうお祭りだから帰ってきたの?」と訊かれて「ちがうよ」と答えた。知らなかった。
「ジャングルはいつもハレのちグゥ」を読んで眠った。


 7月22日(日)

 しっかりと起きて喫茶店とかにいって本を読んだり小説を書いたりしようと思っていたのに、そんなことはぜんぜんできなくて、読んで「ジャングルはいつもハレのちグゥ」をひたすら読んでいた。「ハレグゥ」になるとキャラクターの顔が縦長になってあんまりかわいくなくなって、漫画の方向性も変わってきてしまっていまいちおもしろくはなくなってしまうけれど、初期の金田一蓮十郎はほんとうにすばらしかったと思う。グゥやウェダのかわいさったらない。
 テレビをとてもひさしぶりに見たら、タモリみたいなひとがうつっていた。タモリだと思った。でもタモリはほとんどなんにもしゃべっていなかったからタモリじゃなかったのかもしれない。もう何年も前に祖父の携帯電話を買って、初期オプションでむだなものがいっぱいついているからどうにかして、と母親に言われて、ネットから解約しようと思ったけれど、ネットワーク暗証番号をまちがえすぎてロックがかかって、むりだった。どうしようと思って考えて、「ジャガーさん」を読んでアパートまで帰った。


 7月23日(月)

 朝からドトールにいって小説を書いた。国境の村のちいさな女の子の話を書いていたら泣きそうになった。戦争で、国境の西側、東側からロケット弾が飛びかっていて、でも、その女の子は戦争のことを知らなくて、ロケット弾の光を見てただきれいだと思う。やがてその村にロケット弾が誤って落ちて村のひとはみんな死んでしまう。けれど、わたしはそれでもその女の子のかなしみを知らない。
 会社にいって仕事をして、10時くらいに帰った。


 7月24日(火)

 会社にいって仕事をした。10時くらいに帰った。


 7月25日(水)

 会社にいって仕事をした。10時くらいに帰った。


 7月26日(木)

 会社にいって仕事をした。10時くらいに帰った


 7月27日(金)

 会社にいって仕事をした。6時くらいに帰って、同期の友達たちとお酒を飲みにいった。AIさんやSSさんとずっと話していたけれど、このひとたちはなんておもしろいんだろうと思った。AIさんが輝かしい青春時代の話をしていた。「あれはわたしがはじめて27時間ぶっつづけでネトゲーをしていたときのこと」と彼女は言った。「レアドロップアイテムを求めてひたすら狩り場で狩っていたけれど、あとからきたひとがいて、わたしはそのとき甘かったから、となりで狩ることを許してあげていた。わたしは何時間も狩ってたのにそのひと、2時間くらいでアイテムだして、いっちゃった」と彼女は言った。「それからまたべつのふたりづれのひとがきて、そのひともすぐにでて、その5分後にもうひとつでて、4時間もかかっちゃったねーと言って、いっちゃった。わたしはもう20時間も狩りつづけているのに」と彼女は言った。「27時間めにしてやっとでたとき、心臓がとまるかと思った!」と彼女は言った。「胃がきゅっとなって、心臓がばくばくってなった。そしてわたしはついに思った。ようやく、寝れる」と彼女は言った。
 AHくんとかTIちゃんとかSKくんとかもやってきて、お話をした。みんなやっぱりおもしろくてよかったよかったと思った。千葉出身のAHくんに「九十九里浜の砂ってぜんぶピーナッツなんでしょ?」と訊いたら怒られた。


 7月28日(月)

 オールナイトで濱口竜介を見る予定だったから、夕方まで眠っていようと思ったけれどむりで、2時くらいに目覚めてしまった。それから、小林泰三「酔歩する男」を読んで、あまりのおもしろさに感動した。それからクリーニング屋さんにいって、そのあと図書館にいって、モーリス・ブランショ「私についてこなかった男」と島本理生「あなたの呼吸が止まるまで」を借りた。電車のなかでブランショをずっと読んでいたけれど、カフカ、ベケットとかとおなじように、文学がおこないえたひとつのありかたがあると思う。彼らはあきらかに既存の世界を前提としてはいないと思う。言葉を積みかさねること、ひとつまえの文章によって埋めたてられた空白にその次の文章を重ねていくというそのありかたは、たぶん、文章を書くという行為が現実としてあるようなありかただと思う。彼らのように書かない作家は文章を書くときどこの世界に属しているんだろう。行為というものを重ねれば重ねるほどわたしたちが現実から遠ざかっていくとしたら、それはあんまりにもかなしすぎるんじゃないだろうか。そして、演劇をしているにんげん、役者たちは、どうして虚構を演じれば演じるほど現実としてたちあらわれていくんだろう。たぶん、現実は追いもとめてはいけないんだろう。外部に現実を求めつづけることは外部的現象である行為を虚構の範囲に追いやってしまうかもしれない。わたしたちはわたしたちが見たことがあるものについてしか感動できないんだろうか。
 毛皮のマリーズを聴きながら渋谷まででかけていってベローチェでコーヒーを飲んでいたら、ひとりの男のひとがトイレのなかにこもって、お店じゅうに聞こえる声で「でも~いんじゃない~で~もいんじゃない~」と歌っていた。でもよくないよと思った。あるいはこのひとがトイレからでてきてわたしは撃ち殺されるかもしれない、と思うとこわかった。
 オーディトリウム渋谷まで濱口竜介を見にいった。椅子に座ってブランショを読んでいたら、たまたまとなりに座っていた男の子がわたしに「すみません」と声をかけてきて、ちらりと本を見せてきた。ブランショ「謎の男トマ」だった。「こわい」とわたしは言った。「こわいっすね」と彼は言った。それからわたしはふっつり黙った。
「THE DEPTH」を見た。おもしろかった。アミール・ナデリとのトークショーだったけれど、濱口竜介はほとんどなにもしゃべらなくて、アミール・ナデリがずっと「カサヴェデスやべえ」という話をしていた。そのあとオールナイトで「親密さ」を見た。
 映画をわたしが見たとき、もしもわたしがしんそこその映画をおもしろいと思うなら、たぶん、わたしはそのとき「ここにはなにか大事なものがうつっているような気がする」と思っているんだと思う。わたしがいま書いている小説のなかで、ひとりの女の子がそのことについてしゃべっている。
 

 感覚や気持ちを言葉であらわすってさ、他人にそれを伝えるっていう行為がまずあって、のものじゃん、わたしさ、真山くんが死んで実際にわたしがどう思っているかってよくわかんないんだけどさ、やなのがさ、わたしのあらゆる言葉とか行為とかがぜんぶかなしみとか喪失感とかいう言葉のうちにぜんぶくるまれていってしまうみたいなことなんだけど、なんていうかさ、真山くんが死んだっていってもさ、そのあとのわたしの言葉のあらゆるものがかなしくなっちゃうことなんてぜったいないでしょ、どれだけほかのひとが好きでもさ、そのひとが死んだあとの言葉のすべてがかなしみのなかにあるわけじゃなくって、どんなかなしい言葉だってそのうちのいくらかにはうれしみとかよろこびとかほかの要素とか気持ちとかがふくまれてるに決まってるわけじゃん、そもそも、わたしの気持ちを言葉に変換するっていうことが他人にそれを伝えるためだとしたら、そもそも、わたしと他人のあいだにあるかなしいって要素がさ、むしろ、他人のためにささげられたふうになっちゃうでしょ、だとしたらそのときもう真山くんはどこにもいなくなっちゃうんだよ、それってわたしやだと思う、わたしだって真山くん好きだったんだから、そういうときわたしの気持ちってどこいっちゃうの、そんなのさ、言葉伝えてるだけで気持ち伝えてないってことでしょ、いちばん大事なのは言葉なんかよりも気持ちなんだから、そんなのやだよ、「ノルウェイの森」にでてくる男の子がかなしみをかなしみぬくしかないとか言ってたんだけどさ、あれってさ、気持ちを言葉に変換しないで気持ちのまま抱えこむってことだよ、もうさ、わたしよくわかんないんだよ、わたしはほかの女の子が恋人を失ったときほどかなしんでないかもしれないんだけどさ、でも、ほかの女の子が恋人を失ったときに抱くかなしみなんか単位つけてはかることできないし、そんなの価値ないかもしれないんだけどさ、でも、わたしはなんていうか、もしもかなしみの総量をはかる単位があったとして、ほかの女の子が恋人を失ったとき抱くかなしみよりもわたしの抱いているかなしみの量はすくないような気がしてて、でもさ、すくなくともわたしとしてはそのかなしみがちっぽけだったとしてもわたしなりにそのかなしみをかなしみぬきたいって思うんだよ、でも、よくわかんなくて、わたしは、かなしみをかなしみぬきたいって思うだけで、そうやって思っているだけでほんとうになんにもかなしんでないのかもしれないし、だから、もうよくわからないんだよ、ほんとうに。


 なにかをかなしみたいと思ったとき、いったいわたしはなにについてかなしめるだろう。なにをどんなふうにかなしむことができるだろう。「フラニーとゾーイー」でフラニーがおちいったかなしみは、かなしみを変換せざるをえなかったかなしみのようにふいに思えた。フラニーは祈りの内容ではなく祈りのかたちに焦がれていた。意味ではなく、ただ、それがそれであるというものに。 
「ここにはなにか大事なものがうつっているような気がする」という感覚において、たぶん、あるのはけっきょくのところ「なんだかよくわからない」ということなんだと思う。わたしは、「THE DEPTH」を見ても、「親密さ」を見ても、そこにうつしだされているひとたちのだれにも感情移入することはできないし、共感することもできない。けれど、わたしはそこにうつっているものを見ることはできていて、そしてまた、そこにうつっているものについて言葉であらわすこともできていない、ということができていると思う。「納得する」とか「理解する」とか、わたしにはそういうことがうまくできないけれど、それはきっと、「納得する」とか「理解する」とかいうことが、だれかの言葉を自分の言葉に変換する作業だからだと思う。それはわたしの考えだと関係をたちきるということに似ていると思う。「納得する」とか「理解する」とか、そういうことは、そうされた瞬間にたがいにべつべつのにんげんのなかに独立に存在するようになって、そして、独立に存在しはじめたそのことがらはもうおたがいにふれあうことすらできなくなってしまうように思う。だから、わたしはできることならばなにも納得したくないし、なにも理解したくないと思う。わからないならわからないでいいよと思う。もしも映画を見てなにかを理解したと思うなら、おそらく、その理解は最初からわたしのなかにあったものだと思う。そうであるなら、そのときわたしはきっと映像を見るということに耐えられてはいない。スクリーンにうつしだされた光があまりにもまぶしくて、見るに耐えられなくて、こころのなかでそれを光ではないものに変えてしまう。けれど同時にそれは、耐えるまでもないものを耐えるしかなくなってしまったわたしたちのあわれさでもあるだろう。「親密さ」後半の演劇のなかで、ある女の子がわかれた恋人について「すごく要領がよかった」と語っていた。「すごく情報処理能力が高いひと、でも、世界って情報じゃないでしょ、あのひとといっしょにいると、わたしまで処理される情報のひとつみたいに思えてくる、このひとにとって、わたしも解決すべき問題のひとつにすぎないんじゃないかって」。彼女がこう言ったときわたしはほとんど感動したけれど、それは彼女の言っていることがあまりに危険であって、あまりにもこわいからだと思う。わたし以外、つまり、他者としての世界をわたしに対置したとき、彼女の言っていることは問題としてあらわれてくる。そして、それは彼女の問題であって彼の問題ではないと彼女はおそらく認識していて、だから、彼女は「あなたをきらいになったわけじゃない」と言いながら彼とわかれてしまう。ここで彼女が彼女に対置しているのはたとえばドストエフスキーの問題とはちがう、ごくちいさな範囲にかぎられた問題で、けれど、彼女はその問題について彼といっしょに解決することはこころみない。わかれ話をするとき、彼も彼女も、おたがいに向きあうことはしないで、観客のほうを向いて、およそ独白のようなかたちでせりふを重ねていく。彼女の問題はもともとたぶんちいさなもので、およそ、ちいさな世界のなかにおさまるできごとだったように思う。彼女がおそろしいのは、彼女がそのちいさな世界のなかで対立を解かないというところだと思う。彼女は兄に向かって「あなたが世界が情報じゃないと知っているひとでよかった」と言う。それはあたりまえに解決ではないし、そもそも、きっと、彼女のなかには彼女と他者としての世界との対立があるにもかかわらずそれを解決しようという意志なんてないように見える。だから、たぶん彼女はただなにかを耐えるしかできない。それがはたして耐えるようなものなにかどうかもわからないまま、彼女は耐えつづけてしまう。どんなに世界をせばめたとしても、せばめられた世界に対置が生まれ、和解に向かわない。わたしたちは耐えるまでもないものにまで耐えようとしてしまう。あわれだと思う。けれど、わたしはなんとなく、なんらかの問題を解決しようとは思わない。それらを問題だと認識し、なんらかの手段によって解消に向かわせようとするなら、それはべつの位相へと変換され、すでにもともと問題だったものから遠くかけはなれてしまう。「問題が解決されるのは問題が問題でなくなったときだけだ」と柄谷行人は言ったけれど、たぶん、いまわたしたちがわたしたちのちいさな世界のなかで問題にできるのは問題になる以前のなにかなんだろうと思う。そして、わたしはそれをあわれだと思いはしてもそれが醜いことだとは思わない。わたしは、たぶん、問題になる以前のなにかを思うことでしか生きてはいけないだろうし、そうすることによってのみ、生きる価値のない生きかたを生きることができるように思う。


 7月29日(日)

 ふらふらになりながら朝方の7時くらいに家に帰りついて、それから眠って、夕方の5時に起きて、またふらふらとオーディトリウム渋谷まででかけていって、濱口竜介「何食わぬ顔」を見た。とんでもなくおもしろかった。
 柴崎友香「ビリジアン」を読んだとき、わたしは「こんな本がほとんどだれにもかえりみられないでそのへんの本屋に売られていることは、もう、それだけでほとんど奇跡だ」と書いたように思う。それは、たとえば、見ること、風景とか、にんげんとか、そういうものをただ見るという行為、あるいは、見られた対象をそれほどまでに美しく描く、ということを彼女ほどにできるひとはたぶん世界中探してもほとんどいないと思ったからだった。そして、それとおなじように、濱口竜介の映画を見るということも、それだけでほとんど奇跡のようなものだと思う。ほんとうに。
 帰りの電車のなかでブランショ「私についてこなかった男」を読みおわった。なにが書いてあったのかなにひとつわからなかった。家に帰って、小林泰三「人獣細工」を読んで眠った。


 7月30日(月)

 会社にいった。髪を切った。それからドトールにいって日記を書いた。




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