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なんらかのものをとくべつなものだと思いこんでなお

2012.08.06(01:53)

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あなたの呼吸が止まるまであなたの呼吸が止まるまで
(2007/08)
島本 理生

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 7月31日(火)

 会社にいった。帰った。ドトールにいって小説を書いた。


 8月1日(水)

 会社にいった。それから仕事をした。そのあとで帰った。


 8月2日(木)

 会社にいった。帰った。それからモスバーガーにいってひたすら小説を書いた。
 家に帰って小林泰三「セピア色の凄惨」を読んだ。


 8月3日(金)

 朝起きたら8時55分でとってもびっくりした。
 家に帰って小林泰三「セピア色の凄惨」を読みおえた。
 

 8月4日(土)

 なんとか8時40分に起きて、電車にのりこんだ。電車のなかでは島本理生「あなたの呼吸が止まるまで」をずっと読んでいた。12歳の女の子が主人公なんだけれど、えろすぎた。


 きっぱりと言い切った田島君の表情は男の子の強さが滲んでいました。
 そんな彼のそばにいると私は自分がしっかりしなきゃいけないと思う気持ちが消えて、体を支えていた骨さえも溶けて柔らかくなっていくような気がしました。そして、そんなふうにゆるく弱くなっていく自分が、なぜか不思議と、愛しくもありました。


 
 彼女はたぶんさみしさみたいなものを感じていて、そしてきっと、そのさみしさは肉体的なものへと直結していってしまう。綿矢りさもわたしはとんでもなくえろいと思うけれど、綿矢りさの場合、さみしさみたいなものが直接的には肉体的なえろさには直結していないで、もっとその要因がぼけている、というよりも、綿矢りさはごく自然にえろいのかもしれない。島本理生「あなたの呼吸が止まるまで」はさみしさみたいなものがはっきりとあらわれでるように描かれていて、これはこれで、わたしはとてもおもしろいと思う。
 ですます調の文体だけれど、たとえば、それは、水村美苗「本格小説」や小林泰三「酔歩する男」とはちがって、ほとんどこちらに語りかけてくるような調子はないように思う。読んでいても、ほとんどですます調ということに意識が向かない。太宰治が書くとそんなことはないのに。この小説はほとんど「わたし」に向かって語りかけられているのかもしれない。だから、たぶん、この小説はおそらくはなにによっても埋めあわされることはなく、微熱をたもったままちいさく放られていくだろう。肉体的な包容をもふくめた愛情、「わたし」がさみしく思わないほどの非悪意、そういったものを「わたし」が得た瞬間、小説は消えてしまうだろう。そして、小説が終わる、ということと、小説が消える、ということもまたちがうんだろう。
 渋谷でおりて、ユーロスペースまでいってタルコフスキー「ノスタルジア」、「アンドレイ・ルブリョフ」を見た。「ノスタルジア」はやっぱり世界でいちばんおもしろい映画かもしれないと思った。水が跳ねたり、光が照りかえしたり、あるいは大人が子供を追いかけたり、たかがそれだけでのことでいちいちわたしが息をのんでしまうとしたら、それは世界は美しいことの明示だった。そして、それは2000年まえにキリストがひとびとにやったこととおなじ作用なんだろうと思う。美しい場所がある、ということ、彼はそれをわたしに見せてくれたし、そして、わたしはだれかに教えてもらわなければそんなかんたんなことすらも知れないし理解もできないほどひどくこころないにんげんなんだろうと思う。もしもかりに世界の光景がタルコフスキーの撮った映像とおなじように、あるいはそれ以上に美しいとしたら、わたしはその光景たちを愛することができるんだろうか。わたしはその映像が映画だから愛せてしまうんだろうか。わたしにはよくわからない。なんらかのものをとくべつなものだと思いこんでなおそのとくべつさをふくめてそれを愛せば、わたしはいくらかでもなにかを愛せたことになるんだろうか。けれど、とくべつではないものを美しく思えなかったとき、わたしは、とくべつではないものをとくべつだと思うようにわたしを強いるのか、それとも、とくべつではないものをとくべつではないままに美しく見るようにわたしを強いるのか。どっちも欺瞞かもしれない、それでもわたしはまだ後者のほうがましだと思っていて、そのくせ、後者をやるようなやりかたすら、知らない。「錯覚しなければ」という詩集を書いたあの女の人は、世界について、いったいどう思い、なにを感じているんだろう。
「アンドレイ・ルブリョフ」は3時間の映画だけれど、体感的には6時間を越えていた。おそろしいことだと思った。わりあい寝ていたからよくわからなかったけれど、教会が焼きうちされて、雪が降るシーンだけでも見られてよかったと思った。
 ベローチェにいって時間をつぶして、今度はオーディトリウム渋谷までいって濱口竜介「PASSION」を見た。最後、男のひとと女のひとが白い部屋のなかで白いソファに座って話しているシーン、光が射しこんでにんげんの肌の色がわからなくなっていくほどの白さが圧倒的に美しかった。わたしは、それは映画にたいして侮辱になるかもしれないけれど、それは、ひとつひとつの鮮明な写真をつなぎあわせたようだった。そして、それは古い記録フィルムを見ている感じに似ていたように思う。言いかえれば、どうしてほかのひとの撮る映画はひとつひとつの鮮明な写真をつなぎあわせたようではないんだろう。「何食わぬ顔」でわたしがいちばん好きだったシーンは、雑踏のなか、男のひとと女のひとが壁際に座りこんでいるシーンだった。それは、カネフスキー「ぼくら、20世紀の子供たち」の映像に似ているように思った。すべてがあまりにも鮮明に、色濃くうつしだされて、うつしだされすぎてしまっているせいで、あまりにもおおいなるものがうつしだされてしまっていると思う。
 そんなものが撮れる監督なんて、わたしは、映画の歴史上、何人もいないと思う。


 8月5日(日)

 朝起きて、クリーニング屋さんにいって、それから図書館にいってシルヴィア・プラス「ベル・ジャー」と津村記久子「アレグリアとは仕事はできない」を借りてきた。電車のなかで「ベル・ジャー」を読んだ。おもしろい。宣伝文句では「少女版キャッチャー・イン・ザ・ライ」という言葉がつかわれているけれど、サリンジャーとはずいぶんちがうように思う。サリンジャーのものの見方とか、感じかたとかは、おおくのひとが感じているだろう感じかたと対立しているわけじゃないと思う。彼にはおそらくなんらかのかたちで憧れみたいなものが世界についてあって、それは、彼にとっておそらく欠如のようなかたちであらわれていると思う。だから、サリンジャーの小説をいま読んだとしても、すくなくともわたしにとっては彼をいま現在あるかたちでの対立と見なすことができないし、そこに書かれたことをたんじゅんなかたちで理解することができない。シルヴィア・プラスはおおきな価値観がまずあってそれにたいする反対感情を明確にしているように見える。それは細部じゃない。サリンジャーにはおおきな価値観なんてなかったように思う。彼はおそらく彼の小説において細部しか書かなかった。「ベル・ジャー」の主人公の女の子も、シルヴィア・プラスも精神病院に入院して、ホールデン・コールフィールドも入院している。けれど、わたしはサリンジャーはむしろヴォネガットに近いと思う。エリオット・ローズウォーターは人類を愛した、そして愛しすぎたゆえに、彼は気狂いと呼ばれた。「ベル・ジャー」にはおそらく愛はない。
 ブルースタジオでアンゲロプロス「永遠と一日」をとてもひさしぶりに見て、なんて、なんて、すばらしい映画なんだろうと思った。どうしてこういう映画があるんだろう。どうして彼の映画はこんなにもこころの深い部分に届くんだろう。わたしはギリシャのことなんてなにひとつ知らないし、興味だってほとんどないのに、見おわったあと、どうしてこんなに深く静かな感動につつまれなくてはいけないんだろう、ひとりで道を歩きながら、すごいものを見てしまった、すごいものを見てしまったと、なんでこんなにも反芻しなければいけないんだろう。
 アンゲロプロスはひどくたんじゅんな芸術だと思う。だから、わたしは彼の映画の意味性についてうまく考えることができないし、それはおそらく、なんらかのものが考えられる以前の状態で、そこに提示されているんだろうと思う。アンゲロプロスの、あるいは、この映画にでてくるギリシャの詩人や不法滞在の子供とわたしの人生はまったくなんの関連を持たないだろうと思う。わたしにはほんとうによくわからない。けれど、わたしにはこの映画にはわたしの人生をなんらかのかたちで凌駕するものがふくまれていて、そして、わたしはたぶん、彼の映画に敗北しつづけながら生きることを余儀なくされつづけるんだろう。たかがたったひとりの監督、たかがたったひとつの映画にすぎない、でも、それはすくなくともわたしにとってひとつの体験で、かりに、もしもかりに、わたしがだれかに「明日の時間の長さは?」と訊ねたとき、そのひとが「永遠と一日」と答えてくれなかったとしても、かりにわたしが老いていままで生きてきたすべてのものについて呪ったとしても、わたしは。
 生きていてよかった。生きる意味なんてない、ただ生きるということは生きているということだけが更新される連続のなかにだけあって、それならば、わたしはたぶん、ふしあわせではないんだと思う。
 濱口竜介「なみのおと」を見ようかと思ったけれど、なんにもする気が起きなくて、カフェ・ド・クリエのいちばんおくのうさぎ小屋みたいに場所で、日記と小説を書いた。




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