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ロロ「父母姉僕弟君」@王子小劇場

2012.08.14(23:07)

みんな死ねみんな死ね
(2010/12/22)
神聖かまってちゃん

商品詳細を見る

 8月6日(月)

 会社にいった。仕事をした。
 帰りにモスバーガーによってなにかを書いたような気がしたけれど、あるいはそれもまちがいかもしれない。


 8月7日(火)

 会社にいった。仕事をした。でもだれにもほんとうのことはわからない。モスバーガーにいったかもしれない。
 

 8月8日(水)

 会社にいった。そのあと帰ったような気持ちになって、そのあとはモスバーガーへいったような気持ちになった。


 8月9日(木)

 会社にいった。仕事をした。そのもっとあとはモスバーガーへいったかもしれない。でもそんなに毎日いっているわけがないからたぶんいっていないんだろう。というより、モスバーガーなんて実在するんだろうか。


 8月10日(金)

 会社にいった。それから帰った。

 
 8月11日(土)

 朝から渋谷まででかけてタルコフスキー「鏡」、「ストーカー」を見る予定だったけれど、起きたら「鏡」にはぎりぎりまにあわない時間で、それでもしかたなくでかけて、ドトールで小説を書いているうちになんだかめんどうくさくなって、けっきょく電車にのらないでそのまま家に帰ってぐうすか眠った。
 起きたら夜の9時くらいで、したないから「タオルケットをもう一度 2」をはじめた。夜中の3時までやったところ(第4章あたり)で、どうしても吐き気がしてそれ以上つづけられなくなって、う~ん、う~んとうなりながら眠った。


 8月12日(日)

 朝11時に起きてパソコンの電源をつけて、「タオルケットをもう一度 2」をやって、午後の2時くらいにクリアして、複雑な気持ちになった。たぶん、ほとんどの舞台やほとんどの小説やほとんどの映画よりも、このゲームはおもしろいと思う。
 いわゆるグロテスクなもの、というのははたしてどういう様相を帯びてわたしたちを犯していくんだろう。主人公がとらわれた宇宙船のなかで宇宙人にビームを撃たれて上半身をぐちゃぐちゃにされてしまうシーンがある。あたりには内蔵が散らかされている。その光景は、たしかにグロテスクだけれど、たぶん、そのグロテスクさというのは、わたしたちがドット絵で表現されたそれを現実のように頭のなかで置き換えて、「グロい!」と言っているわけではないと思う。視覚的な表現に限ってみても、「グロい!」という表現、というより、「グロい!」という言葉で表現されえるグロテスクなものにも2種類あると思う。ひとつはより写実的に表現されたグロテスクさで、もうひとつは、記号化された、あるいはデフォルメされたグロテスクさだと思う。園子温「自殺サークル」で、女のひとが頭がおかしくなって、料理中、包丁でとんとんと食材を切りきざんでいるとき、食材を押さえている自分の指までぐじゅぐじゅ切りきざんでいく様子が写実的に描かれている。それを前者だとすれば、「タオルケット」は後者だということになる。つまり、なにがつまり、というわけでもないけれど、わたしはやっぱり想像力についてなにかを言いたいと思う。想像力についてよく言われる、いわばそこに表現されていないものから実際的な像的なものを思いおこす、という作業がもしも「タオルケット」をプレイしたときになされないとしたら、わたしたちはむしろその表現についてなんらかのことを思うべきだと思う。わたしは「本を読めば想像力がつく」という考えを信じていないし、信じたくもない。本は文字だけですべてが表現されているから読者の想像力が入りこむ余地がある、そんなことはほんとうだろうか。本を読むという行為が「わたしたちが文章を読んでそこに表現されたものを頭のなかでべつの映像(ふつうの小説なら現実的な映像に、ライトノベルならばアニメーション的な映像)に変換してそれこそをたのしんでいる」ということに終始してしまうならば文章それじたいの価値はいったいどうなってしまうんだろう。わたしはなにかをあるがままに見たいと思うし、なにかをあるがままに読みたいと思う。それはたぶん物語を非物語化したいという欲求だ。「タオルケット」のグロテスクさというのはきわめてたんじゅんなグロテスクさだと思う。ただ、それがあるがままに表現されていて、そしてその表現はなにかべつのものに置換される弱さを持っていない。このゲームに光恵さんという女性アナウンサーがでてくる。彼女は若いころは人気だったけれど、すこし年をとって、仕事を干されて精神を病み、自殺しかけていたところで主人公たちと出会い、パーティにくわわる。彼女はただいるだけだけれど、ゲームの後半に宇宙人につかまり、寄生される。主人公たちが彼女を助けにいって救いだしたとき、彼女の頭からちいさな宇宙人がつきだして襲いかかってきて、主人公たちは彼女を倒して殺してしまう。ほとんどドラクエ型のしゃべらない主人公は彼女を殺したことにかんするなんらかの感想は述べないし、感動的なシーンもなく、ゲームはたんたんと続いていく。もしもこのシーンで「主人公たちは仲間を殺してしまったのだから、それにともなうかなしみとか、宇宙人たちにたいする怒りとか、罪悪感とか、そういうものを色濃く表現すべきだ」となって、さらに「仲間の死を主人公たちはかなしむべきだ」とさえ言うとしても、それはすくなくとも「べき」と呼ばれるものではないと思う。その作品の「リアルさ」は表現のあらゆるレベルに呼応するからだ。そしてその「リアルさ」というものはその作品がより実写に近いとか、写実的な表現をしている、とか、そういうこととはいっさい関係がない。もしも非リアリズムな作品をつくってそこに「リアルさ」が感じられないとしたら、それはただその作品をつくったひとがへたくそだということにすぎない。「リアルさ」はなにかにさきだって定められるものではなくて、必ずなんらかのあとに、しかもそのものとまったく歩調をあわせてやってこなければならない。だから、単調な色彩、荒いドット絵、見おろし型の何気ないフィールド、それらのレベルにも必ず「リアルさ」は呼応するし、その呼応された表現のうえにしかグロテスクさというものは存在しえない。言いかえれば、はばひろい作品をたのしむことができる、ということは、そこにある存在とそこにくっついた「リアルさ」の呼応をさまざまなかたちで受けいれることができる、ということだ。そしてそれはわたたちが通常「感性」とかいう言葉で表現しているような、ひとつの能力だと思う。それは言葉を換えて言えば、遠近法的にだけじゃなくものを見ることができるということだと思う。たとえば物語にははじめになんらかの要因があり、その要因を前提にして、目的、あるいは結論に向かっていく。要因は遠近法におけるわたしたちの視点、目的あるいは結論は消失点の比喩として見ればいい気がする。意識的ではないにしろ、「タオルケット」というゲームでは(というよりも、そもそも「ドラクエ」をはじめとする見おろし型のRPGにおいて)、そもそものはじめから遠近法が無視されている。見おろし型のマップはわたしたちの現実においてはそもそもどんなふうにもたぶん存在はしていなくて、していないのなら、そう描かれた世界のなかではそもそものはじめからわたしたちがこうだ、と現実的に考えるものとはべつの「リアルさ」が呼応しなければいけない。ピカソやカンディンスキーの絵を見るときにわたしたちがそれをどう見るかということを意識していないのとおそらく同様に、その世界はわたしたちにできあがっていて、そしてできあがったものを見るときにすら、わたしたちは想像力をつかわなくてはいけないんだと思う。「タオルケット」で表現されたことにグロテスクさを感じたのならば、それはピカソの絵を美しいと思うこととほとんどひとしいことだと思う。だから「タオルケット」というこのゲームはピカソの絵と同様に、とてもとても美しい。もしもわたしたちが「虚構」と呼ばれるものにつよく惹かれたとしても、頭のわるいひとに「現実と虚構の区別がついていない」と言われたとしても、それはただわたしたちが美しいというだけのことだ。
 というわけで、家をでて王子小劇場までロロ「父母姉僕弟君」を見にいった。「タオルケット」がクリアできていなかったらいけなかったところだったけれど、この演劇もとてもおもしろかったからいけてよかったなあと思う。ロロはほとんどもうなにがおもしろいのかもよくわからないけれどやっぱりおもしろかった。ロロはなんていうかほとんどすべることをおそれていないような、というよりも、笑うところが明確でなくしているように思う。だから、かりにそこでわたしたちが笑わなくてもそんなことは気にしないでさきに進むことができているように思う。物語もほとんど破綻していて、すくなくともわたしにはいま見ている光景がどの空間、どの時間、どのにんげんとどのにんげんとのやりとりなのかすらうまくわかることができない。そしてそのわからなさを不快に思うこともなく、わかんないんだけれど、おもしろいなあ、と思って、安心できてしまう。安心してしまっていいのか、それはわからないけれど。

 
 8月13日(月)

 会社にいった。
 6時に帰ってTNとお寿司を食べた。お寿司はお寿司だからおいしくて、お寿司ってすばらしいなと思った。仕事の話だとかあとはいろいろな話をした。「俺明日からイーオンいくよ!」とTNは言った。いかないだろうなあと思った。TSUTAYAをぶらぶらしていたらセルフレジがあって、TNが「都会ってこんなんあるのか!」と驚愕していた。わたしも見たのは2回めくらいだった。ワインが飲みたいとかなんとか言っていたけれど、なぜかロイヤルホストにいって、かき氷だけ食べてでてきた。それから家に帰った。


 8月14日(火)

 朝家をでたら雨が降っていてびしょ濡れになった。なんとなくだらだら仕事をして、これあってるのか、これあってるのか、と終始思っていた。中国人のCさんにさいきんわたしは仕事のこととかを教えているけれど、彼女はときどき「アイヤー!」と言う。中国人じゃないかもしれないとたまに思う。
 8時すぎに会社をでて、今日こそ食料を買いにいくか、家になんにもないぞ、どうするんだ俺、と思いながら食料を買いにいかなかった。モスバーガーにいって日記を書いたり小説を書いたりした。




コメント
>たぶん、ほとんどの舞台やほとんどの小説やほとんどの映画よりも、このゲームはおもしろいと思う。

桜井さんは定期的にこういう物言いをされている気がします。
もしかしてそういうネタなんだろうか、と思いました。
「あらゆる××の中で一番おもしろい」
「これよりおもしろいものはあるんだろうか」
「ほとんどの~よりおもしろい」
【2012/08/18 02:43】 | 歩山 #- | [edit]
ホームズが「グロテスクから恐怖へはただの一歩でしかない」と言っていたのを思い出します。おそらくドイルにとって「グロテスク」とはかなり観念的なものだったのでしょう。
また、ホームズは度々「探偵にとって一番大事なものは想像力だ」と述べています。つまり、作家に想像力は必要ないということですか、ドイル先生?(笑い)
「リアルさ」と「現実」は全く別物ですよねえ。ま、「神のみぞ知るセカイ」の桂木桂馬は常に「リアルなんてクソゲーだ」とほざいておりますが。
きっとその中国人のCさんはルーマニア系中国人なんですよ!
【2012/08/23 16:55】 | ぐっしい #- | [edit]
歩山さん

> もしかしてそういうネタなんだろうか、と思いました。

とくにそういうわけではありません。
僕は誠実なことを言いたいと思っているだけです。
かりにそれが その場その場の誠実さであったとしても
です。
【2012/08/23 21:35】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
ぐっしいさん

> また、ホームズは度々「探偵にとって一番大事なものは想像力だ」と述べています。つまり、作家に想像力は必要ないということですか、ドイル先生?(笑い)

僕はホームズのこともドイルのこともよく知りません。
作家には想像力が必要だ というのは
雨の日には傘が必要だ
というのとおなじくらいなものだと思います。
僕たちにはでかけないこともできるし
だれかの傘にはいることだってできます。

まえにもどこかで書いたかもしれませんが
「作家には想像力が必要だ」という言いかたには
すくなくとも想像力は必要ありません。
【2012/08/23 21:42】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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