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「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」@Shibuya O-EAST

2012.09.05(22:04)

月光・暮坂 小島信夫後期作品集 (講談社文芸文庫)月光・暮坂 小島信夫後期作品集 (講談社文芸文庫)
(2006/10/11)
小島 信夫

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 8月29日(木)

 会社にいった。わたしたちは宇宙人ではなかった。
 そのあとはMさんが退場して、今年うちのチームが忙しすぎるということで手伝いにきてくれていたHさんとNさんがもとのチームにもどるということで送別会をやった。帰りぎわにK課長が消えた、と思ってYTさんといっしょにお店にもどってたらほかのひとと飲んでいた。帰った。


 8月30日(金)

 会社にいった。K課長に言われたなおしをえんえんとやって、5時2分に帰りまーすと言って帰って渋谷までいって、O-EASTまでいった。管城さんはローソンのまえにいますと言って、わたしはうろうろしていたけれど、いなくて、でもほんとうにはいた。「まるで会社帰りのような格好ですね」と言われたので「まるで会社帰りのようでしょう」と言った。「わたしは今日お休みです」と言われてくやしかった。「昨日もお休みです。明日もお休みです」と言われてもっとくやしかった。「すごいコスプレしてるひといましたよ!」と言ったら「あれはここじゃない、したのひとです」と言われた。まさか。
 森山未來、後藤まりこ主演、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」を見た。なかなかおもしろかった。森山未來というひとがだれだかわたしは知らないけれど、きっとテレビにいっぱいでている有名なひとで、テレビにいっぱいでている有名なひとはほとんどだめだめだという偏見を抱いているわたしだけれど森山未來というひとはおもしろかったし歌もちょううまいしいったいなんなんだろうと思った。だめなのは後藤まりこで歌もへたっぴだし演技もへたっぴだしいいところはほとんどなくて、でも、たぶんあの瞬間のまりこは世界でいちばんかわいかったからなんでもいいなあと思った。わたしはミドリの音楽も水準が高いとは思わなくて、いまもうほとんど聴いていないけれど、問題は、水準が高いということがなんらかの価値を決定しつくしてしまうわけではないということだと思う。すくなくともわたしは水準が高いと言ってドストエフスキーばっかり読んでいるわけではないし、ドストエフスキーがありながらほかの本を読むということが生きるということなんだとも思う。
 ずっとたっていて暑くてじゃっかん気持ちがわるくもなりながら渋谷をふらふら歩いてちっこいお店にはいってお酒を飲んだりごはんを食べたりした。裏のテレビが「UFO! UFO!」とかさけんでいた。管城さんが夏祭りの夜にだれもそとにでない島の話を教えてくれた。帰った。

 
 9月1日(土)

 小説の勉強会的なものへいくはずだったけれど朝起きてみたらなんとなく間にあわない時間でいろいろなものをあきらめたけれど、とりあえず1時間遅れくらいでいった。
 そのときたまたま読んでいたのが小島信夫「月光・暮坂」だからかもしれないけれど、わたしには物語とか人物とかを論理にそって動かすということがそもそもよくわからないのかもしれないと思った。あるひとにこういう過去とか、こういう気持ちがあって、だからいまこのひとはこう考えたりこう思ったりこういう行動をとったりする、ということがたぶんよくわからないんだろうと思う。小島信夫の小説にはなんらかの物語なんかいっさいないし、一般におもしろいと思えるようなこともなにひとつ書かれていない。そしてとくにおもしろくない。けれど、それが小説であって小説たりえているのなら、物語とか一般におもしろいと思えるようなこと以外のものでも小説たりえるということだろうと思う。「あるひとにこういう過去とか、こういう気持ちがあって、だからいまこのひとはこう考えたりこう思ったりこういう行動をとったりする」というのは、言ってしまえばひとつの物語だと思う。だから、つまりひとをそんなふうに描くということはそのひとはひとを物語として描いているということで、物語を物語のなかに配置しているということだと思う。それがいいことなのかどうか、わたしにはわからないけれど、すくなくとも、わたしは小説におけるある人物に深みをあたえるものがその人物に横たわる論理的な物語だとは思っていない。深みをあたえるものはたぶん文体と描写しかない。サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」には文体と描写と会話しかない。それをものすごくかんたんに言うと、人物がいきいきと描かれているということだ。そして、もっと言えばそうやってあたえられた深みというものになんらかの価値があるのかどうかということすらおそらく疑うべきだと思う。すくなくとも音楽やダンスはなにひとつたりとも描写していない。音楽やダンスと小説はちがう、と言うのであればそれはもちろんちがうんだけれど、それでも、たとえば勅使川原三郎「呼吸」の一瞬の美しさにその小説が表現しているうつくしさは匹敵しているだろうか、とか、もう、わたしはそんなふうに思うしかないし、それ以外の考えかたをとくべつ選びたいとも思わない。小説ははたして成果物なんだろうか。「あなたの読んでいる小説はどこにありますか?」とかつて問いかけたひとがいた。小説がもしも読んでいる瞬間の読み手のなかにしか現出しないとすれば小説はわたしたちの現実のなかにしかないし、そして、それはわたしたちの身体や思考と地続きの場所であるはずだと思う。
 飲み会をして帰った。




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