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Cui?×お布団「止まらない子供たちが轢かれてゆく」@新宿眼科画廊

2012.09.25(00:49)

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]
(2002/06/28)
市原隼人、忍成修吾 他

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 9月12日(水)

 会社にいった。水曜日は5時帰りと決められたので5時にすたこら会社をでて、そのまま電車にのって渋谷でおりて、シネマライズまでてこてこ歩いて岩井俊二「リリイ・シュシュのすべて」を見た。おもしろかった。わたしはわたしの知るかぎりのすべての蒼井優のなかでこの映画の蒼井優がいちばんかわいいと思う。「わたしらに、明るいとか、暗いとか、ないでしょ」とか言った蒼井優がかわいいと思う。
 行きと帰りの電車のなかで藤野可織「パトロネ」を読んでこれもおもしろかったからうれしかったし、こわかった。この小説は一人称で語られているけれど、ここで語る「私」の存在はほとんどあやういところまでいっていると思う。妹はあたかも「私」なんていないようにふるまっているし、「私」自身が溶けこんでいると思っている大学の写真部でもその空間はほとんど「私」なしでもなりたっているようにすら思う。「私」のしゃべったことについての写真部のひとたちの返事のように思えるせりふもあるけれど、わたしには、そのせりふが「私」に向けられたものなのかどうかすらもよくわからない。「私」は皮膚病にかかり、その描写を中心として「私」の存在じたいはなまなましいのに、「私」がそとへと向ける言葉や行為によって「私」の存在はあやしくなっていく。それはたとえば最初から最後まで独白をつづける地下室のあのひとの存在よりもずっとずっと希薄で、その希薄さは「私」がそとや他者へと目をむけるたびにましていってしまう。だから、「私」はけっきょくのところ「私」の視線によって他者を、あるいは「私」をも幽霊みたいにしてしまう。それは、柴崎友香の「赤」という短編のなかの女の子があきらかに他者の不在をしいていて、それがけれど柴崎友香のどこまでも健康的なあかるさにみちみちているのと対照的に、「パトロネ」の「私」はほとんど不健康なほどに青い。「私」の視線とそれを読むわたしの視線は交差して、そこに空間ができあがり、まわりのものをまきこんで透明になって、そのくせ、消えていかない。そして、幽霊がそうであるように、消えてしまうものよりも消えてしまわないもののほうが、ずっとずっと、こわいんだと思う。
 

 9月13日(木)

 会社にいった。そのあと仕事をした。わたしの仕事にかんして3年くらいまえにK課長がつくった資料をむくむく読んでいて、それはほとんど会社単位としてなにをどう決め、そしてそれにともなってシステムがどうあるべきなのかが書かれてあって、ほええと思って、帰った。
 ドトールにいって小説を書いた。そのあと家に帰って「タオルケットをもう一度 4」をはじめた。やっぱりおもしろいと思う。なんでこんなにおもしろいんだろう。
 眠るまえに朝吹真理子「きことわ」を読みはじめて、それは、わるい意味じゃなくてお手本のような文章だった。こんなふうに文章を書けたらそれは気持ちのいいことなのかなあと思った。漢字の開きかたとか、現在系と過去系を的確(だと思わされてしまうように)にちりばめて、淡く淡く、流れるように書かれていた。わたしも文章がもうちょっとだけでもいいからうまければいいのに、と思った。


 9月14日(金)

 朝起きたらごきぶりぶりざえもんが部屋のすみっこで死んでいた。今年はじめてのごきぶりぶりざえもんが死体。会社にいった。わたしはくじびきで負けてうちの会社の組合になってしまったから、組合の冊子になんか書かなければいけないんだけれど、つまりそれは組合代表者の自己紹介的なものなんだけれど、最初から「オリンピックで感動した場面や感想を30字以内で書いてください」と書いてあった。オリンピックなんて1秒も見ていないし、いつはじまっていつ終わったのかも知らない。日本ってなんかメダルってとったんだろうかと思ってぼうぜんとしていた。
 会社からでてドトールにいって、小説と日記を書いた。


 9月15日(土)

 午後遅くにおきて、「タオルケットをもう一度 4」をやって、それから新宿までがったんごっとんでかけて、Cui?×お布団「止まらない子供たちが轢かれてゆく」を見た。おもしろかった。演技についていえば、たとえば、最初女の子ふたりが醜いいがみあいをする場面で、女の子たちは声色をかえながら、その調子にあわせて顔をゆがめたり嘲笑を浮かべたりと、めまぐるしかった。わたしはそれが演技をするということだとはどうしても思えない。そういうしゃべりかたはほかの演劇でもよく見られることのように思えなくもないけれど、それでも、すくなくともわたしの好きな演劇ではそういったしゃべりかたはとられていないと思う。それらの過剰な演技はたとえばへんなお嬢様がでてきて「おーほっほっ!」と笑いだすこととほとんどなにも変わらないと思う。わたしたちはそれを見てこのひとは演技をしているんだということを理解するんだと思う。そして、わたしの考えだと役者は観客に演技をしているということをしめす必要はないと思う。演技はその場に出現する空間の一部の一要素としてあって、そういうとき、おそらく演技は演技でなくなって、わたしはそれでいいとしか思わない。わたしは演技を見にいくために演劇を見にいくんじゃないと思う。問題はその場に出現された空間にいかにわたし自身がふくまれるかどうかということだと思う。いっぽうで、Cui?の台詞はかなり野心的だと思っていて、たぶん、口語的に語られているけれど、あれはほとんど口語ではないし、もっといえば、そこに描かれているものはほとんど脚本ではないようにすら思う。目立つところでいえば、口語では絶対的にありえない比喩表現がときどき混じっている。かといってそれは小説というわけでももちろんなく、だからそれは上演されるためのひとつの素材としてあるんだと思う。わたしはそれでいいと思う。けれどそれだけに、冒頭と終盤の「転校は~」という過剰なリフレインは文学的になりすぎていて白々しさが拭いきれない。文学的な、という言葉はいま現在においておそらくどんな角度から見ても褒め言葉にはならない。それが演劇であるなら、どんな言葉も、演劇空間のなかで発されなければいけないようにわたしは思う。「三角座りをつづけていればここから飛びおりなくてすんだのに」という言葉が、たしかに演劇空間のなかでのみ発されていたみたいに。
 家に帰って「タオルケットをもう一度 4」をクリアして衝撃を受け、それから「タオルケットをもう一度 Fury」を朝までやってクリアして、「タオルケットをもう一度 5 がぅがぅの花嫁」をやった。

 
 9月16日(日)

 夕方に起きて、「タオルケットをもう一度 5 がぅがぅの花嫁」をクリアして、「タオルケットをもう一度 6 悪魔と悪魔と悪夢と悪魔」をはじめて、クリアして、それから「かいけつ! 猫足乙女ちゃん」をはじめて、いいかげんむりになってやめて眠った。


 9月17日(月)

 夕方に起きて、「かいけつ! 猫足乙女ちゃん」をやって、それから新宿のどん底にいってなんだかちょうひさしぶりに今村さんと会ってお酒を飲んだ。9月なのに夏の虫とり少年みたいなかっこうをしていたけれど、黙っていた。「首吊り芸人は首を吊らない。」を読むから遠慮しないで本でも読んどいて、と言われてフリオ・コルタサルを読んでいた。「ドトールいってばっかりだな」と言われた。まったくそのとおりだなと思った。「組合の代表になっちゃいました」と言われたら大手企業の組合についてのえげつない話を教えてくれた。わたしは濱口竜介「親密さ」と大森靖子と藤野可織「パトロネ」と柴崎友香「ビリジアン」と園子音「ヒミズ」がすばらしいということを教えてあげて、今村さんは「それ持ってかえるわ」と言った。「なに持って帰るの?」と言われて、わたしは「なんもない…」と言った。今村さんはざんねんそうな顔をしていた。ざんねんそう。
 帰った。
「タオルケットをもう一度 4」は「3~1」を受けてのものだと思うけれど、愛する男のために世界の敵と契約を交わし、足を手にいれ、結婚し、つねに主人公の男といちゃいちゃしている人魚が「娼婦!」とののしられることはなんだか象徴的だと思う。シリーズはこれ以降ほとんど男の子たちを無視して女の子たちのいちゃいちゃぶりがおおくなっていくように思う。というよりも、ほとんどいちゃいちゃえろえろしなければそこに展開されていく世界をたもつことすらできなくなっていくように思う。「かいけつ! 猫足乙女ちゃん」ではぷっちとあごちゅ(りょうほう女の子)がつねにいちゃいちゃえろえろして、中盤ではふたりのあいだにふつうに子供が産まれている。それはほとんどグロテスクな惨状で、それがかわいいグラフィックとほのぼのな雰囲気にくるんとつつまれている様子はほとんど狂気的だと思う。
 新しさというのは物語や人物だけをさして言うことじゃなくて、それはわたしたちのものの見方とそしてわたしたちの見方をどう表現するか、ということにかかってくると思う。だから、わたしはほとんどなにもおきない柴崎友香の小説でも「新しい」と思う。「2」に顕著だけれど、わたしは「タオルケット」は「エヴァ」によく似ていて、しかも新しいと思っていて、そしてとくに「4」以降、「タオルケット」はほとんど「けっきょくのところ、綾波もアスカもミサトも娼婦にすぎない」ということをあきらかにしてしまったと思う。そういうことが提示されてしまった以上、わたしたちはわたしたちについてあたらしい問いかけを、「わたしたちは世界の娼婦ではないのか」とか、「まわりに娼婦がいないかぎりわたしたちは世界を救うことができないのか」とか、そういう問いかけをしたり、したりしなければいけなかったりするのに、たぶん、現在においてもその問いかけはほとんどなされていないだろうと思う。それはたとえば戦争についての問いかけだ。異星人に地球を侵略され、そのひとたちに人類の女性すべてが娼婦にされたとき、わたしたちはどうすべきであるか、それをわたしたちはたぶん知らない。
 まだ見たことのないものを見たいとか、まだしたことのないことをしたいとか、まだ食べたことのないものを食べたいとか、行ったことのないところに行きたいとか、たとえばそういう新しいものにたいする欲求はほんとうにたくさんのひとにそなわっているのに、まだ抱いたことのない気持ちを抱きたい、と言うひとはあんまりいないと思う。新しい思想、とか、新しい発想とか、そういう言葉だけがありふれているように思う。どうしてそれらのものばかりをわたしたちは要求してしまうのか、それはたぶん、わたしたちたちがあまりにも言葉を信じすぎているだと思う。だからわたしたちは言葉であらわされたものしか求めることができない。
 もしもだれかが人類が発生してからいままで1度たりとも感じたことのない気持ちを感じることができたとしたら、きっと、そのひとはそれだけで貴いと思う。それはそのひとが決してそのとおりにだれにもつたえることができないものだと思う。そしてそうやってだれにもつたわらなかったものはただたんに捨てられていく。つたわらないことだってじゅうぶんに貴いのに、それを知らないまま、知らないということの貴さを抱えたまま。


 9月18日(火)

 会社にいった。仕事をして帰った。
「タオルケットをもう一度 Fury」は冒頭から女のひととその赤ちゃんがかわいい小鳥に襲われて惨殺されるという衝撃的な展開から幕開けをして、人類はほとんど絶滅していき、そのなかに狂気が蔓延していく。いま現在正式版として提示されている作品ではなくて、未完成あるいは廃盤というあつかいだからかもしれないけれど、ほとんどたんじゅんな狂気だけが先行してしまっていて、安っぽくなってしまっているように思う。それはたぶん佐藤友哉がやろうとしてできなかったことだと思う。そして佐藤友哉は、おもしろくないにしろ、できなかったことを作品としてつくりあげていったんだと思う。かんじんなところは、まわりのひとが狂気に陥っていることの原因が主人公の男の子に帰されているところだと思う。「2」を遙かにこえる狂気的な展開ばかりがつづいて、わたしはよくわからないけれど、これだけ暗い作品をほかに知らない。
「タオルケットをもう一度 5 がぅがぅの花嫁」は傑作だと思う。地球の自転は地球の中心にいるふたりのロボットがジャンプしておこしていて、女の子が穴を掘って地球の中心にまでたどりついてしまい自転がとまり、世界が滅んでしまう。ろっぺんちゅがちょうかわいい。メタ的なせりふとセルフパロディのオンパレードだけれどそれはそれでおもしろく、後半の展開もほんとうにすばらしい。おそらくほとんど唯一まっとうな男の子キャラクター(猫だけれど)として出現した猫舌もすばらしいと思う。
「タオルケットをもう一度 6 悪魔と悪魔と悪夢と悪魔」についてもわらわぅの狂気が先行してしまって後味のわるさばかりがのこってしまう。それはたぶん主人公みんぽぅの魅力のなさに起因しているように思う。「後味がわるい」と「カタルシスがない」ということはかならずしも背反しない。おなじように、「後味がわるい」と「余韻がのこる」ということはおなじではない。ほとんど物語をつづけることが放棄され、その放棄にたいしてわらわぅの狂気が呼応してしまっている印象を受けた。それはそれでだいすきだけれど。この作品で重要なところは、「1」のけるばぁす的な役割で登場してきた頭に星をつけた猫とわらわぅのやりとりだと思う。けっきょくのところ、彼の話したことはわらわぅの狂気をとめるにはいたっていない。わらわぅのこころがほんとうに解放されていたとして、そして解放されたとことによってわらわぅの狂気までもが解放されてしまったとしたら、この作品はほとんど「1」でおこなわれたことと背反していて、それもまた、後味のわるさにつながっているんだろう。どうして、どうしてわたしたちはだれも救うことができないんだろう。


 9月19日(水)

 会社にいった。
 5時すぎに帰って、「かいけつ! 猫足乙女ちゃん」をクリアした。
「かいけつ! 猫足乙女」については傑作だと思う。話づくりが狂気におちいっていなくて、雰囲気は明るく、猫舌を中心にかなりまっすぐな物語にしあがっていて、とてもたのしい。最終章の演出もあまりにもすばらしい。
「笑うわらわぅ」をはじめた。これもおもしろいと思う。


 9月20日(木)

 会社にいった。
 それから帰って「笑うわらわぅ」をプレイした。


 9月21日(金)

 会社にいった。
 家に帰って「笑うわらわぅ」をクリアした。
「笑うわらわぅ」は序盤の展開とギャグ、そして雰囲気があまりにすばらしく、そして音楽もまたいままでとは変わった調子ですばらしかったことにだまされていた感があるけれど、物語とその運びかたがだめだと思う。だれもかれもが意味ありげなこと(意味もあるかもしれないけれど)を言うだけでかんじんな物語がまったくわからなくて、だからせりふもどんどん読みとばしたくなってしまう。


 9月22日(土)

 午後の3時すぎにおきて、しかたなく図書館までいってジャック・ヴァンス「奇跡をなす者たち」、今村友紀「クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰」、片瀬チヲル「泡をたたき割る人魚は」を借りてきた。そのあとドトールにいって日記を書いて、ジャック・ヴァンスをすこしだけ読んだ。
 家に帰って「夜の海でお月様を釣る」をはじめた。「かいけつ! 猫足乙女ちゃん」や「笑うわらわぅ」のときからかなり戦闘が大味になっていたけれど、ここにきてとうとう戦闘がなくなった。


 9月23日(日)

 午後の3時すぎにおきて、なんとか身体を動かしてクリーニング屋さんにいって、そのあとドトールにいって優雅で陰気な夜をすごそうかと思っていたけれど、雨が降っていたからうっかり家に帰っちゃって、陰気さだけがのこった。「夜の海でお月様を釣る」をクリアした。わらわぅルートをつきすすんでいったからかもしれないけれど、話がやっぱりよくわかんなかった。それでもやっぱり語りくちはほんとうにうまくて、こうちゃとか血反吐結び(ルートによってはきゅうりぽんぽん?)のつきはなしかたとかはほんとうにぞっとする。「あんな女の子だったなんてね」とか「勝手すぎるよ」とか、話の語り手のメタ視点からはなかなか言えないと思う。たとえば、「バハムートラグーン」のヨヨはほとんど勝手な言動をふりまわして主人公をふり、そのせいで仲間うちのすべてが陰鬱に、ぎくしゃくしていくけれど、それでもたぶんだれもヨヨを責めなかった。それは、物語の登場人物として、物語のヒロインとして、それをある程度許容するかたちがわたしたちのあいだにできあがっていたからと思う。そして、そんなふうにかたちづくられた世界が何気ないひとことでかんたんにこわれてしまうこわさがこのゲームにはあるように思う。それはプレイヤーですら言えない、言ったとしてもゲームのなかの世界にはなにも干渉されえないことがらなんだと思う。「Fury」ではぷっちがこころのなかではっきりと「わるいのは(こんなにもみんなが狂ってしまったり気まずくなったりした原因は)カッチルだよ」と言っていて、けれど、わたしがこわいのは、たとえなんらかの原因について「○○のせいだよ」と言ったところで、その原因のまわりのひとやものについて、なんにも救いをもたらさないことだと思う。気まずさや陰鬱さはさらないで、だからわたしたちはなにかべつのことで笑ったり、「しかたなく世界を救ったり」して、それをやりすごさなくてはいけない。「世界を救ってしまえば」、とりあえずのなんらかの結末が彼らにもわたしたちにももたらされるからだ。そして、わたしたちのふしあわせは、かりに世界を救うことをわたしたちを救うことに転化したとしても、わたしたちが救われるとはかぎらないということだと思う。タオルケットをもう一度 1」がすばらしかったのは、あきらかに「世界を救う」というやりかたではない解決のやりかたを求めたからで、だから、「世界を救う」というやりかたはほんとうにはわたしたちを救うやりかたとは関係がないということで、もしもかりにだれかになにか問題があるとしたら、それはたぶん、そのひとが「世界を救う」ということばかり考えているからかもしれない。
 そのあとジャック・ヴァンス「奇跡をなす者たち」をぜんぶ読んで、おもしろいなあと思って、眠った。


 9月24日(月)

 会社にいった。仕事にいった。あとはとくになにもなかった。帰りにモスバーガーにいって日記を書いたり小説を書いたりした。




コメント
私は延原謙(故人)の息子さんのような文章力が欲しいです。父親の方が「お母さんがどっさり蕎麦焼きを持って来てくれるわね」と訳したのを「蕎麦粉のパンケーキ」にしてましたから。
ところで、今村さんというのは広島カープのセットアッパーである今村投手とは無関係ですよね?
【2012/09/27 16:58】 | ぐっしい #- | [edit]
> ところで、今村さんというのは広島カープのセットアッパーである今村投手とは無関係ですよね?

今村さんは
つねに
「あー 俺 広島カープのセットアッパーなんだよね」
と ひとりでつぶやいていますから
本人だと思います。
【2012/10/03 01:33】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
「あー 俺 広島カープのセットアッパーなんだよね。」

うん、言われてみれば、つぶやいているかもしれないね!
【2012/10/08 14:44】 | 今村 #m.2.LkcQ | [edit]
今村さん

そうでしょう そうでしょう。
このときも自分では気づいていないかもしれませんが
240回くらいはつぶやいていましたよ。
語尾かと思いました。
【2012/10/08 20:23】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
広島カープのセットアッパーである今村投手は

「あー 俺 広島カープのセットアッパーなんだよね。」

などと、つぶやいたりはしないので
その今村さんはニセモノです。

そうです、
わたしが
広島カープのセットアッパーです。応援ありがとうございます。  16
【2012/10/08 20:54】 | 今村投手(広島カープのセットアッパー) #mQop/nM. | [edit]
今村投手(広島カープのセットアッパー)さん

なんと!
つねひごろから

「あー 俺 広島カープのセットアッパーなんだよね」

とつぶやかれているので
つい本人だと思いこんでしまいました。
わるいひとがいるものですね!
もう 僕は 一生
広島カープのセットアッパーだと自称するひとを
信じません。
【2012/10/08 23:32】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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