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塗りかさねられ、展開されて

2012.10.03(01:30)

クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰
(2011/11/11)
今村 友紀

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泡をたたき割る人魚は泡をたたき割る人魚は
(2012/07/06)
片瀬 チヲル

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 9月25日(火)

 会社にいった。なにかをした。


 9月26日(水)

 会社にいった。なにかをしたり、なにかをしなかったりした。


 9月27日(木)

 会社にいった。
 家に帰って今村友紀「クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰」を読みおえた。

 
 もの凄い稲光がピッカーンと差し込んできて視界が真っ白になって徐々に教室のなかが見えるようになってくる頃にどごごごごごごごごごごと地響きがするのでみんなは大パニックになって席を立ってわああきゃああと叫んで私はただ口をあんぐりと開けてぼーっと机に座ってふと手元を見るとたったいま計算を終えたばかりの積分計算の数式を私は右手に握ったシャープペンシルを無意識のうちにデタラメに動かしてぐちゃぐちゃと塗りつぶしていてそれを止めることもできない。
  ――今村友紀「クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰」


 お昼になると、僕はリュックからミネラル・ウォーターと弁当を取りだし、庭に面した縁側に座って朝食をとる。いろんな鳥がやってきて、木から木へと渡り、池のまわりに下りて水を飲んだり身づくろいをしたりする。
             ――村上春樹「海辺のカフカ」


 俺は自分の乗った列車がタイムマシンで俺を春の世界だとかそういった場所に連れてきてしまったのかと疑う。
 でもそんなもの幻覚で春の世界なんてさっぱりきてなくて電車を降り立った俺は確かに福井の真冬に含まれているのを知る。
          ――舞城王太郎「煙か土か食い物」


 村上春樹がここで書いた現在形の文章はほとんどあやうい。それはともすれば慣習的な動作をあらわすようなかたちにほとんどなりかわる。「僕は」のまえに「いつも」を挿入するだけで、この文章は「いまここでおこっていること」から「いつもおこなっていること」への語りへとたやすく変換されてしまう。
 舞城が書いた文章はそれに比較すると「いまここでおこっていること」への希求が遥かにつよいと思う。「知る」という単語を文末に使用するような文章の書きかたはたぶん一般的な日本語としてほとんどありえないように思う。たとえば「感じる」という表現が曖昧なものへのとらえかただとすれば「知る」はもっと具体的なものへのとらえかたで、だからこそふつうは「知った」とか「知らされた」とか、過去的、あるいは受動的な書きかたしかほとんどされない。この文章の大意は受動的な意味でしかないけれど、文体によってほとんど能動的なかたちへと押しあげていく。
 舞城王太郎「煙か土か食い物」をわたしはとてもおもしろいと思うけれど、それは彼の能動への希求がミステリとしての要素へと手をとりあっているからだと思う。この小説では探偵はほとんど推理をすることなく謎を解いてしまうけれど、それは文体がそうなっているから、と言うよりほかがないように思う。
 今村友紀の文章は、たぶん舞城がやったような意味での能動への意志はない。今村友紀はものごとの展開とそれによってわたしが「どうなったか」、「どう感じたか」までの帰結を一気に書いていると思う。そのすとんと落とされる感覚はここちがいいと思う。けれどそれだからこそ彼の一文の帰結はそれまでの展開にひきずられているように思う。
 わたしががっかりしたのは最後の数ページ、「私」はそこで「私自身の――私たちの――存在に関わることなんだ。」と能動的な意志を持ちはじめるけれど、途端に「――」が多用されはじめ、文体はほとんど断片化されてしまう。この断片化はほとんど小説の終わりを意識しているもので、逆説的に、小説を終わらせるために「――」が多用されたように思えてしまう。「なにが起こっているかの羅列、およびそれによって派生した『私』への帰結」をならべた文章によって表現されてきた「私」が能動への意識を持ちはじめたとき文体が壊れはじめたとしたら、それはほとんど彼がほとんど能動的なものに耐えられていないということなのかもしれない。なぜそうなってしまうのか、わたしにはそれは彼が文学を書こうとしているからのように思える。これがもしもライトノベルだったとしたら、もっとちがったかたちになったように思う。


 9月28日(金)

 会社にいった。
 片瀬チヲル「泡をたたき割る人魚は」を読んだ。


 海と砂浜の境目にはっきりと線を引くことができるだろうか。薫の上半身と下半身との境目は、ちょうどそのように曖昧だった。海と砂浜の境目を、一枚の木の葉へと閉じ込めたような鱗、それが腰回りを覆っている。肉体と溶けるように生えている鱗には、水晶の破片のような泡が封じられていた。


 冒頭から「ように」「ような」があわせて4回も書かれている。

 
 辞典の印字が濡れて、吐息の染みになるのと同じように、薫のふとももに痣が滲む。毛穴の奥でポップコーンが弾け、その痣は花弁に似た鱗になった。生まれたての半透明な鱗が、腰回りからつま先までを包んだ。両足の毛穴という毛穴にホチキスの針を撃ち込まれているようで、悲鳴をあげることもできなかった。踵から先はローラーで薄くなめされた尾ビレになった。十本の爪は、尾ビレを支える細い骨だ。尾を高く高く掲げる。それは方向を指し示す薫の帆だった。


「尾を高く高く掲げる。」が「それは方向を指し示す薫の帆だった。」とあわせてひとつの比喩だとすれば、この文章のなかで暗喩も隠喩もはいっていないのは「生まれたての半透明な鱗が、腰回りからつま先までを包んだ。」という一文くらいで、あとの文章にはすべて比喩表現がもちいられている。ほとんど文学音痴的な、あるいは白痴的な小説だと思う。なにがそこまで彼女を比喩表現へと向かわせるんだろう。
 それもまたひとつの熱情みたいなものかもしれない。複雑な比喩をあてどもなくくりかえす彼女はたぶんわたしのことは見ていないだろう。わたしも彼女をうまく見ることができない。




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