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柴幸男、三浦康嗣、白神ももこ「ファンファーレ」@シアタートラム

2012.10.14(23:34)

注 「劇場版まどか☆マギカ 前編 始まりの物語」および
  「LIVE A LIVE」、「新世紀エヴァンゲリオン」の物語内容についてかなり言及しています。

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 10月8日(月)

 ほんとうはおやすみのはずだけれど、会社にいった。うん、12時くらいに帰ってきて、ごはんを食べて、ドトールで小説を書いた。帰った。
 高瀬ちひろ「永遠のかけら」を読んだ。あまりにも地味であまりにも平凡で、それなりのおもしろさがあるけれど、感想を言うのはむずかしい。


 10月9日(火)

 会社にいった。夜9時までめずらしく働いた。ヴォネガット「ジェイルバード」を読んで眠った。


 10月10日(水)

 会社にいった。5時で帰ってドトールにいって小説を書いた。それから帰った。ヴォネガット「ジェイルバード」を読んで眠った。


 10月11日(木)

 会社にいった。ドトールで小説を書いて、ヴォネガット「ジェイルバード」を読んで、岡田利規「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を読んだ。あらためて読んでみると、「わたしたちに許された特別な時間の終わり」という小説は、現代においてなんらかの感覚を描く、ということのひとつの究極のありかただと思う。ほかの小説と位相がかなりわかりやすいかたちでちがう。ほんとうにすばらしいと思う。眠った。
 


 10月12日(金)

 会社にいった。兎が轢き殺されていた。
 帰ってドトールにいって小説を書いた。もしかしてわたしがいま書いている小説はいままでわたしが書いてきた小説をたんじゅんにつまらなくしたものの総体かもしれないと思った。でもそれに気づき、そしてそれがほんとうのことだったとしても、なおす気はまるでない。なおすのはその小説ではなく、次の小説でやればいいことでしかないと、すくなくともいまは思う。
 帰って竹田青嗣「現代思想の冒険」を読んだ。


 10月13日(土)

 11時に起きた。11時に起きたのは今日ダンストリエンナーレのチケットを2枚とっていたからだったけれど、それは手帳に書いてあるだけで、実際にはわたしはそんなもの買っていなかった。どうりで買った記憶がないはずだった。手帳に書いてあったことはこの日ダンスが2つ見られるからチケットを買うのをわすれないように、ということだったんだろう。だまされた!
 それでしかたないから、図書館にいってサイード「オリエンタリズム 上」と高橋源一郎「『あの日』からぼくが考えている『正しさ』について」と鹿島田真希「黄金の猿」を借りてきて、ドトールにいって小説を書いた。眠かった。それでしかたなくちゅうとはんぱな時間にそとにでて、近くの公園をぶらぶらして、それからふつうの道をぶらぶらして、となりのとなりの駅まで歩いていこうと思った。でもまよった。ふつうなら40分もあればつくのに2時間もさまよいあるいていた。異次元をただよっていたにちがいない。
 ドトールでちょっと休憩して、会社のひとだれとも会いませんように、会いませんように、と必死で祈りながら新房昭之「劇場版魔法少女まどか☆マギカ 前編 始まりの物語」を見た。冒頭の十数分をのぞけばわたしはすばらしい作品だと思う。冒頭の十数分はわたしはいくらなんでもテンポがわるすぎると思う。それは、保健室にまどかがほむらをつれていくシーンによくあらわれていると思う。まどかはほむらにたどたどしく話そうとするんだけれど、彼女は意味のない言葉を発するだけで、そして、彼女が言葉を発することができない、ということすらも、新房昭之は言葉をつかって表現しようとする。そのやりかたはおそらくはライトノベルとノベルゲームのありかたをひきずりすぎてしまっているように思う。もともとの絵がそういうものであるからある程度はしかたのないことだけれど、まどかの表情の変化はほとんど静止画としてしかなりたっていない。笑っている顔、よろこんでいる顔、かなしんでいる顔、こまっている顔、たぶん、そうやってパターン化できるたぐいの顔をしている。だからまどかは自身がパターンではないということをしめすためになんらかの言葉を発さなければいけない。なんでもいいけれど、たとえば原恵一「カラフル」みたいな映画を見ればそこにはパターンではない顔がうつしこまれていることがたぶんよくわかると思う。やっていることは、おそらくノベルゲームでテキストにおわせていた役割を声優におわせているだけにすぎないと思う。このシーンは本質的にはノベルゲームとひとしい。ただ、おそらくは致命的なその欠陥は巴マミが登場して魔女との戦いがはじまって以来ほとんど姿を消しているように思う。それはたぶん魔女との戦いで描かれた世界をうまくひきずることができた、あるいはひきずらざるをえなかったからだと思う。彼女たちのまえに魔女との戦いが現実的にたちはだかってくると同時に、静止画+テキスト(声)という非アニメーション的な図式は壊れ、躍動感ある絵でなにかを語ることを余儀なくされている。それは彼女たちの身におこる残虐についての表現の欲求からきていると思う。それはむしろつくりてが欲求し、まどかたちが要請したものかもしれない。その欲求と要請がなければこのアニメは決して傑作にはなりえなかっただろうとわたしは思う。魔女の結界のなかの世界はノベルゲーム的世界の文法からほとんど逸脱している。わたしの知っている範囲で語るしかわたしにはないけれど、巴マミの変身シーンはほとんど「セーラームーン」のパロディにしか見えないし、魔女の結界のなかではそもそも絵のタッチがちがう。「エヴァ」の精神世界、「少女革命ウテナ」のキュビズム、「serial experiments lain」のオカルト、そしてヤン・シュヴァンクマイエルやヘンリー・ダーガー風のコラージュが過不足なくとりこまれていて、すばらしいと思う。そして、それはむしろ魔女の結界のそとへの世界へとやがて浸食していく。美樹さやかが電車のなかでホストたちに喧嘩を売るシーンはほとんど魔女の結界のなかと同一、あるいはそれからすこしなまなましくずれたものとして描かれている。いうなれば、「まどか☆マギカ」という作品はノベルゲーム的文法を純映像的現実が破壊・浸食していく過程への表現であり、その事実は、正統派魔法少女ものの文法を裏がえしていく、という物語的手法よりもおそらくは遙かに価値があるものだと思う。「まどか☆マギカ」の物語でもちいられている手法はとくべつ目新しいものでは、たぶん、ない。思想の領域でマルクス主義にたいしてレヴィ・ストロースやドゥルーズ=ガタリがやったこと、探偵小説で既存の探偵小説にたとえばポール・オースターがやったこと、物理学の世界でニュートンにたいしてアインシュタインがやったこと、RPGの世界で既存RPGにたいして「LIVE A LIVE」がやったこと、もっといえば、中東のテロリストがアメリカの貿易センタービルに飛行機をつっこませたこと、「まどか☆マギカ」の物語はその変奏でしかなく、それは現代の世界であたりまえのようにおこなわれきたことだと思う。もちろん、それだけで「まどか☆マギカ」の物語に価値がないと言うわけにはいかない。すくなくとも魔法少女ものでそういったことがおこなわれたことはおそらくはまだなく、そして、その物語はたしかにすばらしく、それはたしかに価値を持つことなんだろうとわたしは信じたい。「LIVE A LIVE」はオムニバス形式のRPGだけれど、そのなかの「中世編」では、既存のPRG文法に従って姫が魔王にさらわられる。主人公の勇者は親友の魔法使い、そして過去に魔王を1度倒したもと勇者、その仲間である僧侶とともに、姫をとりもどすため魔王退治へでかける。ここまでは王道的な展開だけれど、魔王の城へとのりこんでみると、そこには魔王の影みたいな存在しかいなくて、姫もいない。もと勇者はその戦いのさなかに病死し、魔法使いも魔王城崩落に巻きこまれ死亡する。勇者は僧侶とともに城にもどるけれど、幻覚にさいなまれ王様を殺してしまう。勇者は投獄される。そして僧侶が命とひきかえに勇者を牢から脱出させ、勇者はひとりで再び魔王城に向かう。そこに魔王はいない。いるのは死んだと思っていた親友の魔法使いとその魔法使いによって助けられた姫だけ、魔法使いは勇者のちからと姫から勇者へと向けられた愛に嫉妬し、勇者を殺そうとする。そして勇者は親友であったはずの魔法使いを殺してしまう。勇者と婚約まで交わしていた姫は「魔法使いは助けにきてくれたのに…」とつぶやき、自殺をする。ひとりのこされた勇者は自らが魔王になり、そして「中世編」は終わる。この物語のポイントはなによりも魔王の不在だと思う。既存のRPG文法が既存のRPG文法であるために要請されるのはその人物的配置だと思う。「勇者」、「魔王」、「仲間」、「姫」、その約束された配置が崩されたとき、キャラクターたちはなんらかの代替を求める。だから「魔王」の不在として「仲間」が「魔王」の代替にならなければならなかったし、それをも倒してしまったからには「勇者」が「魔王」の代替をしなければいけなかった。おそらく彼らはほとんど逸脱されてしまった文法をふたたび回収しようとしただけにすぎない。そのために勇者は「勇者」を不在へとまで追いこんでいる。それは、そもそも既存のPRG文法として存在していた「勇者」への懐疑をあぶりだす、ということだ。この物語のすべての回収は「最終編」でさらに奥深い意味でなされるけれど、そこまで書くつもりはない。興味深いてんは「まどか☆マギカ」においても、そもそも「魔法少女」への懐疑が前提になっていることだと思う。「魔法少女まどか☆マギカ」というタイトルのくせに、そもそもこの物語においてまどかはいつまでたっても魔法少女にならない。この物語でそもそも問題になっているのは、役割としての「魔法少女」は、「LIVE A LIVE」において「勇者」の役割のように、はたして安易にひきうけるべきものなのかどうか、憧れを抱くべきものなのかどうか、というメタな視点だとわたしには思える。オースターが探偵小説について事件が起きるということはどういうことなのかということから出発せざるをえなかったように、まどかにとって、魔法少女になってなにかと戦ったりなにかを救ったりする、ということが問題とされるのではなく、そもそも、魔法少女になるということはどういうことなのか、ということが問題にされている。げんに、かわいくてかっこういい正統派魔法少女として登場した巴マミは、物語上ほとんど重要な意味すら持っていない魔女にあっさり殺されてしまう(あたかも「LIVE A LIVE」でもと勇者が魔法の幻影との戦いで病死してしまったように)。正統派魔法少女は巴マミの死で終わりをむかえ、そのあとに登場する佐倉杏子は「魔法少女は私利私欲のために生きる」ことを主張し、巴マミのありかた(正統派)を否定するような言動をくりかえしていく。そして、巴マミのありかたを求めつづけた美樹さやかは巴マミ(「勇者」)のかわりに魔法少女(「勇者」)としてその配置を埋めようとする。けれど、「魔法少女」にはじめから懐疑がかかっている「まどか☆マギカ」の世界において「魔法少女」になるということはほとんどあやうい(あとで書くけれど、「まどか☆マギカ」の世界では「魔王」である魔女にははじめから「不在」としての役割しかあたえられていない)。美樹さやかは「LIVE A LIVE」の勇者が王様を殺害したことをきっかけとしてほとんど世界のすべてに絶望していく過程をなぞるように、狂気におちいっていく。そして「LIVE A LIVE」の勇者が「魔王」の代替をつとめたように、美樹さやかは魔女になっていく。彼女たちはほとんど既存の魔法少女ものの文法をなぞろうとして虐殺されていく。美樹さやかが魔女になってしまうことは魔女じたいの描かれかたと関係しているとわたしは思う。「魔法少女」にはじめから懐疑がかかっている「まどか☆マギカ」の世界において、そもそも問題は魔法少女たちは魔女を倒すということを目的とはしていない、あるいはそれを目的化することができない。問題は「魔法少女になるかいなか」というところにあって、物語の構図としては「魔法少女 VS 魔女」ではなく、「(魔法少女になろうとする)まどか VS (まどかが魔法少女になることをとめようとする)ほむら」という構図をとっている。げんに、キュゥべえはまどかさえ魔法少女になればまどかが抱える問題はすべて解決するかもしれないと執拗にまどかに言いきかせている。そもそもキュゥべえですらも魔女を倒そうとなんておそらくは考えてはいない。そういう意味で、はじめただ巴マミに憧れてなんの願いともひきかえにせずに魔法少女になろうとしたまどかは、既存の魔法少女の向こう側(プレイヤー・視聴者)の圧倒的象徴だ。けれどそれは、おそらくは不幸しか呼びよせない。「旧エヴァ」において、ラミエル、イスラフェル、マトリエル、サハクィエル、イロウルなどはシンジ、アスカ、レイ、そしてNERVの協力によって勝利できていたけれど、ゼルエルにおいては初号機の暴走、アラエルにおいてはロンギヌスの槍の使用、アルミサエルについては零号機の自爆と、イレギュラーなやりかたでしか勝てない。渚カヲルにいたってはそもそもいったいなにが勝利なのか。そもそも「旧エヴァ」において、使徒の殲滅はおもての目的としてはあるけれど、むしろシンジの目的とはちがっている。シンジの目的は当人が意識しようとしてしていなくても使徒の殲滅なんかではなくて、むしろ、エヴァにのることも使徒の殲滅も父親を象徴とする外世界との和解、あるいは包括でしかない。だからいくら使徒を倒したとしてもシンジには物語的終結も物語的救済はおとずれない。だから、物語の終結としてあのようにならざるをえない。「まどか☆マギカ」の魔女の描かれかたは「エヴァ」の使徒の描かれかたに近いように思う。使徒は敵として描かれるが、それは「魔王」、言いかえれば目的としての敵ではない。おなじように、「まどか☆マギカ」の魔女も目的としての敵ではなく、だからこそ、まどかたちは困惑しつづけるしかない。なぜなら、あらかじめあたえられているはずの目的をまどかたちはそもそも最初から持っていないから、そもそもまどかにとっていったいなにをどうすることが物語的完結あるいは物語的救済を呼びよせるのかを探らなければいけないからだ(ポール・オースター「ニューヨーク三部作」で探偵が困惑するのはなぜか、おこった事件が難解だからではなく、そもそもおこるであろう事件すらおこらないからだ)。あきらかな転倒だけれど、「魔法少女になる」ということが物語的完結あるいは物語的救済を呼びよせるとキュゥべえは訴える。でもそれはまどかが望むかたちではないかもしれない。ほむらだってそれをとめようとしている。魔法少女的な文法が壊れてしまった世界では、役割の不在を代償をそれぞれのキャラクターが埋めようとして、そして、彼女たちは虐殺されていく。だから、そもそもわたしたちは非物語的にしあわせであれるようなやりかたを求めなければいけない。もしも物語的であるだけでわたしたちがふしあわせであるというありかたになっているのなら、すくなくともわたしはそれを求めたいと思う。


 10月14日(日)

 朝起きて、サイード「オリエンタリズム」を読みながら電車にのって、シアタートラムで柴幸男、三浦康嗣、白神ももこ「ファンファーレ」を見た。地引網役の清水久美子が衝撃的にかわいかったこと以外、とくに見るべきものはなかったように思う。「ファンファーレ」はいままで柴幸男がつくってきたものをかなり意図的に排除しているように思えた。時空間距離へのたんじゅんな郷愁とかがたしかにあって、柴幸男がやってきた音楽はむしろそれと結びあってはじめて感動させられるものだと思う。「ファンファーレ」ではそもそも感情表現がばっさり排除されているし、物語も「あればいい」程度のものでしかない。というよりも、この場合、それは物語ではなくてあらすじでしかない。喜劇ですらない。そのかわり身体と音楽が前面に押しだされていて、それについてわたしはなにかを思えたらよかったんだろうけれど、なんにも思えなかった。これはどうしようもない。
 がっかりしながら「劇場版まどか☆マギカ 後編」を見ようと思ったけれど、3時間もまえにいったのにチケットは全部売りきれていた。しょんぼりして帰った。




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