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悲劇的な世界のなかでリセット以外のやりかたをとらざるをえない悲劇すらをもしあわせだと呼びえる可能性

2012.10.23(00:53)

注 「劇場版まどか☆マギカ 前編 始まりの物語」
  「劇場版まどか☆マギカ 後編 永遠の物語」
  「クロノクロス」
  「審判」 
  「風の歌を聴け」
  「1973年のピンボール」
  「羊をめぐる冒険」
  「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」
  「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」
  「うる星やつら 最終話」
  「少女革命ウテナ」
  「serial experiments lain」
  「虚構に咲くユリ」 
  
  以上の作品の物語について、結末部分を含み言及しています。


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(2011/09/21)
悠木 碧、斎藤千和 他

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 10月15日(月)

 うすうすわかっていたけれど、朝に食べるものがなくて、しかたなくカップラーメンを食べた。おいしかった。それから会社にいった。SSくんとMFくんとお昼にごはんを食べにいったとき、SSくんが「桜井さん、昨日映画見たでしょ」と言われて、わたしは昨日会社のひとにだれにも会いませんようにと命がけで祈りながら「劇場版魔法少女まどか☆マギカ 後編 永遠の物語」を見にいった(チケット売りきれでけっきょく見られなかったけど)ので、「やばい、見られた!」と思った。「いったけど」、「都内でしょ」、「都内じゃない」。うそだった! 「いや、俺昨日ひとりで『まどか☆マギカ』見にいこうと思ったから、だれかに見られてたら死のうかと思った」と言った。SSくんは「俺、昨日見た」と言った。あぶなかった、と思った。
 うすうす仕事をした。6時くらいには帰ってドトールにいった。ドトールの2階の喫煙フロアだけ夜8時で使用不可、という事実を昨日知って、「死ね、2度とくるか!」と思ったけれど、きてしまった。
 小説を書いて帰った。


 10月16日(火)

 会社にいった。帰りにドトールにいって小説を書いた。


 10月17日(水)

 会社にいった。帰りにドトールにいって小説を書いた。


 10月18日(木)

 会社にいった。帰りにモスバーガーにいって小説を書いた。書きおわった。いっかいつまらないなと思ったけれど、これはこれでおもしろいのかもしれないと思った。次は震災ものを書こうと思う。地震が起きた夜、ひとばんかけて会社から家まで歩いて帰るそれだけの物語を書きたいと思う。


 10月19日(金)

 会社にいった。朝CKさんが食べものをくれた。じつはわたしは誕生日だったらしく、わたしはよく知らなかったからびっくりした。
 午後半休だったから、1時すぎには会社にでて、その足で会社の近くのMOVIXまでいって、「劇場版魔法少女まどか☆マギカ 後編 永遠の物語」を見た。ずっと泣けた。けれど、「まどか☆マギカ」という作品が今年劇場公開されたもののなかで間違いなく5指にはいるおもしろさだろうという前提をもっていうと、前編で、「もしかしてこれは今年の最高傑作かもしれない!」とまで思わされてた要素を、なかば微妙なかたちで投げだしてしまったように思う。「まどか☆マギカ」という作品が既存の魔法少女ものをきれいに裏がえしていく構成をとっている、ということをわたしはまえに書いたけれど、物語の終盤でそれは逆転されていた。「まどか☆マギカ」のなかでまどかたちが坂を転げおちるようにふしあわせになっていく原因は、そもそも、「魔法少女になる」という「システム」自体がふしあわせでしかありえないからだ。わたしは「まどか☆マギカ」では倒すべき敵がそもそも存在していないと書いた。だから、そもそもの彼女たちのふしあわせの原因は「ほむらがワルプルギスの夜を倒せないこと」では決してない。ワルプルギスの夜はひとつのふしあわせの事象の特異な契機でしかなく、それ以上ではない。げんに、「まどか☆マギカ」の物語は「ほむらがまどかに出会うとき」から「ワルプルギスの夜との戦い」という一ヶ月程度の時間に収縮されていて、ほむらだけが(間接的にはまどかの因果も)その時間をくりかえしている。そのくりかえしのなかで、たしかにワルプルギスの夜を倒すこともあったけれど、それはまどかが魔法少女になることが不可避であって、倒したとしても、まどかは魔女になってしまうから、ほむらにとってはけっきょくのところふしあわせな結末ということになってしまう。「まどか☆マギカ」の物語にとって敵の不在性というのはあきらかに彼女たちのふしあわせの根本をなしている。だから、まどかは「そんなふうにわたしたちをあらしめているシステムのありかた」を敵と見なさなければならない。インキュベーターたちのありかたはいわばそのシステムを体現した象徴としてあらわれてくる。インキュベーターはこの世界すべてのため、という大義名分でもってまどかたち(世界のあらゆる時空間の少女たち)の犠牲を強いてくる。けれど、まどかたちは個々のインキュベーターを倒そうとはしない。そもそもそんなことをしても無意味だとまどかたちは知ってしまっていて、だから、まどかは個々のインキュベーターではなく、総体、あるいは象徴としてのインキュベーター(システム)を倒そうとする。まどかが魔法少女になる際の願いは「この時空間のあらゆる魔女を消しさること」だった。それは、「まどかたちのふしあわせの根本原因であるシステムを書きかえること」と言ってもいいだろう。システムを書きかえるにはシステムと同等以上の存在にならなくてはいけない。まどかは個体であることをやめて、宇宙的な概念存在(かんたんにいえば「神」)となって、その世界根本のシステムを書きかえる。けれど、わたしの考えだとそれは日本国家の90年代の夢でしかない。「まどか☆マギカ」の物語はきわめて論理的だとわたしは思う。そもそもの彼女たちの原因が魔法少女、魔女というシステムにある以上、魔法少女、魔女というシステムを打倒しなければ彼女たちに救済はもたらされない。それは「正統的魔法少女ものを前提としない世界において、正統的魔法少女ものを前提とするありかたにつくりかえる」というものだった。しかし、それは21世紀においてほんとうになされるべきものだったんだろうか。
 個々のにんげんとシステムについて、おそらくもっとも明確に、わたしが知っているかぎりはじめて作品として提示したのは、フランツ・カフカだ(騎士道物語的システムにとらわれたにんげんとしてはセルバンテス「ドン・キホーテ」かもしれなくて、むしろ、近代文学の創始者としてこの作品を無視するわけにはいかないかもしれないくらいの話だけれど、わたしは「ドン・キホーテ」は読んでいないのでなにも言えない)。カフカ「審判」、「城」は圧倒的な世界のシステムにとらわれ、そのシステムのなかで不器用ないらだちにおそわれながらなんらかを達成しようとするKの試みが描かれている。重要な問題はKが万能感を抱いているということだ。システムはばかげている、そして俺はたしかにちからをもっている、だからそのばかげたシステムのありかたにたいして俺がちょっとそのちからを働かせれば、たちまち問題は解決するはずだ、というのがおそらくはKの考えだろう。結果的にKはそのちからをふるうことはできない。「審判」も「城」も未完ではあるけれど、すくなくとも「審判」においてKはなんの意味もなく処刑されてしまう。「犬のように」彼は殺されて、そして「恥辱だけがのこった」。ここでは物語的にシステムを書きかえる、というような方法論はない。日本においておそらくもっとも個々のにんげんとシステムの問題に言及しつづけている作家は、村上春樹だろう。村上春樹が1979年から描いた初期の3部作「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」はかなりいびつな構造をしている。前2作はかなりさわやかな青春小説的な様相をしめしているのにもかかわらず、「羊をめぐる冒険」では主人公の「僕」はいきなりシステムとの戦いにまきこまれる。「僕」は「1973年のピンボール」で失踪した鼠、そして「羊」と呼ばれる世界システム的体現者を探しもとめる。「僕」は鼠を探しもとめるけれど、僕が見つけたとき鼠は「羊(システム)」を抱えこんでまま自殺をしてしまったあとだった。「僕」は死んだ鼠と対話を交わすけれど、それはかつて自分たちがすごした青春時代(日常)への郷愁でしかない。鼠は命がけでシステムを打倒しているけれど、そこには「まどか☆マギカ」でおこなわれたシステムの書きかえはおこなわれていない。この作品において「僕」は失われてしまったものたち(システム的犠牲となってすっかりさまがわりしてしまったたくさんのものたち、あるいはもっと直接的に表現すれば、高度資本主義社会においてすっかりばらばらになってしまった「僕」たちの過去への希求)を悼んで泣くことしかできない。村上春樹はそのあと「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を書く。この作品は「私」を主人公とする「ハードボイルドパート」と「僕」を主人公とする「世界の終りパート」が交互に進んでいく。「ハードボイルド」の世界は現代的な様相を示しているが、「世界の終り」は安定的で完璧な世界を示している。「世界の終り」はすべてが美しく調和に満ちていて、あたかも永久機関のようになめらかにときがすぎていく。「僕」はこの世界にやってくるときに「影」を捨てていくけれど、「影」はひたすらこの世界から逃げようと「僕」を誘う。永久機関なんてない以上、この世界の調和はべつの世界の犠牲によってなりたっているんだと。「僕」はいったんはこの世界から逃げだそうとするけれど、どたんばでこの世界から逃げさることを拒否し、調和がたもたれた世界へとどまることを決意する。「ハードボイルド」の世界では、いっぽうで、「私」とシステムとの戦いが描かれる。そのなかで「私」の頭のなかに博士は「世界の終り」という装置をとりつけ、その装置のせいで「私」はやがて死に至る。死ぬことを確信した「私」は物語の終盤、公園でうららかな日常を生きる。そしてドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャのせりふを引用して、「『アリョーシャにはいろんなことがわかるんだ』と私は言った。『しかしそれを読んだとき僕はかなり疑問に思った。とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうかってね』」と語る。そしてやがて「私」は「世界の終り」を生成する回路によって死ぬ。「僕」の世界はひとつのユートピアをしめしている。見せかけの永久機関によって動く「世界の終り」は、たとえば「まどか☆マギカ」の「日常世界」と相関している。予定調和の「日常世界」が破壊されたときにわたしたちはなにをどう思うのか、けっきょくのところ「私」はシステムを打倒することはできない。これは世界システムを「私(僕)個人レベルに落とした」ところで、わたしたちは「とても不幸な人生を総体として祝福することは可能だろうか」という問いかけを発するものとして重要な意味を持っているように思う。押井守がほぼ同時期に発表した「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」は「あまりにも美しすぎる日常世界」を追いもとめるあまりにひとつのシステムのなかにとらわれてしまったひとたちの物語だ。この物語ではあたるやラムたちが文化祭前日をひたすらくりかえしていく。彼らは「このたのしい日常が永続しますように」というラムの夢のなかにとりこまれている。そして、その日常をおびやかすものはのきなみ夢のなかから消去されていく(しのぶなんか、恋がたきというだけで消去される)。問題はここで描かれた、「世界の終り」的日常がラムにとって肯定されるべきものとして投げかけられていることだ。ラムが望んだことではないかもしれないけれど、すくなくとも夢邪鬼(あたるたちを夢のなかに閉じこめた犯人)というシステムは「日常世界」を永続させようとするあまり、システムで「日常世界」を内包するという手段をとっている。けれどあたるはそれを肯定しようとしない。あたるは夢邪鬼を追いつめ、夢から脱出しようとする。夢邪鬼はあたるにこう語る。「現実だろうと夢だろうと、どっちだっておなじことだ。どっちだっておんなじなんだから、夢のなかでたのしく遊んでいたほうがいいだろう」。あたるはそれをも拒否する。なぜなら、彼は「ほんとうのこと」をあまりにも求めすぎているからだ。彼は「ラムの核」みたいな存在に「どうしてそこまでするの? どうしてそんなにラムから逃れようとするの?」と問いかけられて、「好きなひとを好きでいるために、そのひとから自由でいたいのさ」と語る。あたるのこの回答はいまもなおわたしにとって新鮮で美しく思える。また、これは「うる星やつら」の最終回ですらもおなじような描かれている。「うる星やつら」最終回で地球は滅びかけてしまう。そしてそれを救う唯一の手段があたるがラムに「好きだ」と告白することだ。けれどあたるはラムに「好きだ」とは言わない。なぜなら、「好きだ、と言わざるをえない状況で好きだと言ってもそれがほんとうかどうかはわからないから」だ。あたるはあきらかに「ラムがあたるを好きで、あたるがラムを好き」という規則で構築されたシステムの外側で思いをとげようとしている。「少女革命ウテナ」「serial experiments lain」というアニメも、「まどか☆マギカ」を語るうえでわたしにとって無視できない。それは、たまたまであるにしろ、「旧エヴァ」の影響を受け、そして「まどか☆マギカ」の前提となっている作品だと思う。「少女革命ウテナ」の主人公ウテナはメルメンの王子様とお姫様の物語に憧れ、そして王子様を待ちきれずに自らが王子様役をひきうけてしまう。そして、彼女はお姫様(姫宮アンシー)をめぐって学園のなかで生徒会の面々と日々決闘をくりひろげる。女の子たちはいわば、メルヘンの王子様、お姫様物語の文法に縛られるようにあって、そうなれないにんげんはつぎつぎに文法的システムからなかば見放されていく。このアニメの終わりかたは「まどか☆マギカ」に酷似している。最終話で主人公ウテナは世界のありかたを革命し、その結果として存在を消され、のこされた世界ではだれもウテナのことを覚えていない。そして、それによってお姫様的ありかたから解放された姫宮がウテナのことを探しにいく、という終わりかたをする。ウテナと姫宮は王子様とお姫様の役割をおっていたけれど、世界のありかた(システム)の革命によってその役割は逆転し、姫宮は眠りについたお姫様にキスをしにいくようにふるまう。これは、まどかのちからによって世界のありかたを変え、非正統的魔法少女が正統的魔法少女に変えられるという物語構図とおそらくはほとんど一致している。「serial experiments lain」の物語はあまりに難解すぎてまともに理解しようとしてもできない。主人公の玲音はある日インターネットの世界に深くはまりこんで、そのなかに自分とはちがう人格を発見する。街のなかでたくさんの不可解な事件が起こり、玲音は自分の肉体が人工的につくられたもの、そして自分の存在が現実と虚構を破壊するためのたんなるプログラムだったことを知る。この世界では次世代プロトコルのなかに英利政美という個人の意識がプログラミングされていて、それが世界中を飛びかうことによって地球の集合的無意識を覚醒させ、いわば、その存在が世界の上位レベルとして支配するようなありかたをしている。玲音はそのためのひとつのプログラムなわけだけれど、そのありかたとして、玲音は孤独におちいっていき、友達をも傷つけ、失っていく。そして物語の終盤、玲音はそういうありかたをすべて「リセット」する。玲音なんかはじめからいなかった世界を再構築して、玲音は世界の上位階層として、その世界を見守ることとなる。これももちろん「まどか☆マギカ」でおこなわれたことと意味的にはおなじことだ。
 わたしがここでなにを言おうとしているかというと、おそらくは90年代になって「世界はなにかおかしい、だからリセットしてべつの世界のありかたを構築しよう」というやりかたが明白におこなわれるようになった、ということだ。旧スクウェアの黄金期の作品、とくに「クロノクロス」も特定の敵(ラスボス)を倒すことではなく、特定の敵を救い、世界のありかたを変えることがグッドエンディングを導く方法としてありえている。そのありかたというのは、ある部分ではマルクス主義の考えと重なる部分があるのかもしれない。ものすごく表の部分だけでいえば、マルクス主義の革命の理論とは「世界は労働階級と資本階級の対立を前提として動いてきた。そして世界はいまもなお資本主義の流れをつきすすんでいる。けれど資本主義はその性質から論理的には破綻するしか道はない。だからいまこそ世界を共産主義に変えるため世界革命を起こすしかないのだ」というものだと思う。「世界がなんかおかしい、だからこの世界の構造を変えよう」というのはひとつの夢であったはずだった。21世紀になって、赤木智弘は「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という論文を発表した。いま現在世界はまったく固定化され、もはやなんの希望もなくなった。だからこそなんらかの流動的な事態を巻きおこすきっかけが必要であり、それこそが戦争なのだ、と彼は言った。「いま、ここにある世界(システム)」はただそこにあるだけで悲劇的にすぎる、ということだ。それを打開するにはつよい衝撃が必要だ、という言葉にはすくなくともわたしの胸をうつ強いものがあるように思う。
 押井守「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」が「日常世界」をシステム的手法で膠着、循環させる物語を示唆していたとして、もしも、もしもかりに、その「日常世界」がわたしたちにとってあまりにも悲劇的にすぎるとしたら、そこでわたしたちはなにを思い、なにを夢見ることができるだろうか。「まどか☆マギカ」でまどかが願ったことと赤木智弘が願ったことは、方向性のちがいがあったとしても、それがおなじであった可能性はないんだろうか。わたしにはそれを否定することはできない。まどかが世界のありかたを変えたことによって失われてしまったもともとあった世界、「クロノクロス」は失われてしまった時間軸からの復讐が描かれている。すくなくともその革命によってわたしたちのしあわせもわたしたちの救済もなんら保障されてはいない。そしてまどかの消失は「すくなくともその革命によってわたしたちのしあわせもわたしたちの救済もなんら保障されてはいない」ということの隠蔽ではないんだろうか。
 およそ10年まえ「虚構に咲くユリ」というフリーゲームが発表された。このゲームも、「いま、ここにある世界」についてつよい懐疑を示している。このゲームははっきりいってグラフィックも演出もせりふまわしもほとんど見るべきものはなく、やっていてとりわけおもしろくはない。けれど、物語的にはおそらくきわめて重要なありかたを持っていると思う。このゲームでは3パートにわかれている。ユリという主人公が7歳しかはいれない「ななさい谷」というダンジョンを冒険するという、いわば「ユートピア」(正当派魔法少女もの)パート、現実世界で少年たちによる暴行監禁事件を受けこころを閉ざしてしまった歩音のパート、そして仮想現実の典型的PRG世界を冒険する瑞坂という少年の物語。ユリのパートはファンタジックでいながらさわやかで明るい。いっぽうで歩音のパートはひたすら暗く、彼女はほとんど家の周囲を散歩しては「わたしなんか…」とうじうじ考えているだけだ。瑞坂のパートは自身が仮想現実ゲームにログインしているプレイヤーだと自覚していて、その冒険をたのしんでいるけれど、村人たちが「あいつらはここがゲームのなかだと思っているからな。死ぬことがこわいと思っていないから、ドラゴン退治にうってつけだ」と話しているのを聞き、疑いを持ちはじめる。この3つのパートが交互に進んでいく。物語のなかで、歩音は仮想現実世界の研究をおこなう女のひとに「仮想現実にはいることができる」と言われ、その実験体になってほしいと要請される。結論から言うと、ユリ=歩音で、ユリの世界は歩音の仮想現実の世界、瑞坂の世界もおなじく歩音の世界から仮想現実にはいりこんだ別の人物の世界、ということになる。けれど、ここにはもうひとつ罠がしかけられていて、じつはあたかも現実のように見なされていた歩音の世界もほんとうは仮想現実で、その上位階層に現実があって、その世界の歩音は生まれながらにして盲目でいて足もなく、臓器すらもまともに動かない、ただ意識だけの存在として生まれてきた、ということが暗に明かされる。歩音の現実の母親は現実の歩音を仮想現実に送りこんでそこでたのしい時間をすごしてほしいと思ったけれど、あまりに仮想現実をリアルにつくりこんでしまったがために、そこで少年たちによる監禁暴行事件にまきこまれ、結果的にこころに傷を受けてしまう(歩音は1度自殺を試みている)。そこで現実の母親は自らも仮想現実の世界にはいりこんで、そこでもう1段レベルの低い仮想現実をつくり(ユリ、瑞坂の世界)をつくりこんで、そこでもう1度新しい世界を楽しんでもらおうとした。物語の結末として、歩音は2段レベルの低い仮想現実(ユリの世界)を捨て、1段レベルの低いの歩音がいままで生きてきた仮想現実でつよく生きることを決意する。ただ、これはかなり転倒した結末だと思う。歩音はけっきょくあまりにも居心地がいいユリの世界でもなく、あまりにも居心地がわるい(生きていくことすらほとんどできないような現実)世界をも選びとることはなく、「つらいことはいっぱいあるけれども、かろうじて生きていける世界」を「選びとって」生きることにしている。それは、ある意味では中途半端な選びかたでしかないようにすら思う。思うに、歩音に必要だったのは「自分で選びとった」という矜持なのかもしれない。ここで重要なのは「虚構に咲くユリ」という作品のなかでは世界のありかたの変革がおこなわれてはいない、ということだ。世界構造がゆがんではいるものの、けっきょく歩音が選びとったのは「いまここにある自分、いまここにある世界」であって、それが現実ではないというのはたしかに皮肉かもしれないけれど、その皮肉さはおそらくは笑いとばせるたぐいのものではないように思う。歩音がここで恵まれているとしたら、「わたしが選びとった」という付加価値がその世界にありえたということだ。「まどか☆マギカ」において、「日常世界」はおそらくは二重にゆがめられているようにわたしは思う。「魔法少女・魔女」の因果関係にとらわれた世界を「非日常世界」というのであれば、巴マミが死ぬまえまでくりひろげられていた「正統的魔法少女的世界」が「日常世界」なのか、それとももっとそれ以前「魔法少女という存在をまるで知らなかったそれまで」が「日常世界」なのか。「まどか☆マギカ」のなかで書きかえられた世界(システム)のなかで、まどかは消失したとしても、ほむらも、巴マミも、佐倉杏子も、戦いつづけることをほとんど余儀なくされている。それはたとえば、「虚構に咲くユリ」という作品における「ユリの世界(2段したの仮想現実)」だったのか、それとも「歩音の世界(1段したの仮想現実)」だったんだろうか。けれどおそらく、その問いに本質的に重要さはない。なにを選んでも相対的判断の問題でしかないからだ。ここでその世界に価値があたえられ、総体として祝福されえるのなら、それは「まどかが選びとった」といういってんに集約されると思う。
 けれどけっきょくのところ、「わたしたちの現実」にはそんな付加価値はない。その付加価値のない世界でわたしたちはどう生きていくのか、「まどか☆マギカ」は最後までその問いかけをすることはなかった。かんたんにいえば、「書きかえられた世界(システム)はわたしたちにとってしあわせな世界(システム)をわたしたちにあたえつづけてくれるのか」という問いを「まどか☆マギカ」はおそらく意図的に放棄している。「まどか☆マギカ」は21世紀の物語(「魔法少女的なありかたが通用しない世界」)を20世紀の物語(「魔法少女的なありかたが通用する世界」)に反転させ、それを根本的な解決としてすませてしまっている。けれど、いまを生きるわたしたちが求めているのはおそらくはもうすこしずれた場所にあるなにかだ。けっきょく、このやりかたではただの転倒にすぎない。「魔法少女的なありかたが通用しない世界」を「通用しない世界」に書きかえる、それは夢と現実を反転させただけにすぎない。続編の「新編」においても、わたしはほむらがまどかを探しもとめて再会する、という物語にしかならないように思う。わたしがいま求めるのは付加価値のない世界のなかでなにを思い、どう生きるかという問題だと思う。それを戦争を回避するようなやりかたでおこなうというのが、むしろわたしたちのこれからのありかただと思う。それはとてもとてもむずかしいことだ。わたしたちがこんなにも傷つき、こんなにもかなしみ、こんなにも希望を奪われ、こんなにもだれをも愛せず、それでもどうしてかわたしがしあわせであれるようなありかたを求めることしか、もうわたしは知れない。
「まどか☆マギカ」を見おわって、家に帰った。午後5時くらいだった。鹿島田真希「黄金の猿」を読みながらしかたなく眠った。
 夜の11時くらいに起きて、また眠った。


 10月20日(土)

 午後の1時くらいに起きた。納豆ごはんを食べて、眠くなったので寝ようと思って眠った。起きたら深夜の1時くらいだった。やれやれと思った。高橋源一郎「『あの日』から僕が考えている『正しさ』について」を読んで夜中の3時くらいに眠った。食べるものがなにもなくて、CKさんからもらったお菓子をばりばり食べて飢えをしのいだ。あぶなかった。


 10月21日(日)

 起きたら午後の1時くらいだった。昨日の活動時間が4時間くらいしかなく、これはほとんどわたしはごみ虫だなと思って、しかたなくそとにでかけた。ずっとごみ虫みたいに眠っていたから頭も足も痛かった死んでしまうんじゃないかと思った。仕事なんてやりたくない。
 ドトールにいって10月19日の日記を書いた。書いたけれど、わたしにはものごとを考察するちからがほとんどないことに愕然とした。端的にいって「いままでの作品ではこうだった」→「『まどか☆マギカ』はそれを越える新たな意味を示唆する作品となってほしかった」→「しかし、90年代的な結論にいきついた(くりかえした)だけで、そういう重要な作品には結果的になりえなかったような気がする」ということが言いたかったのに、なにを書きたいのかまるでわからなかった。書いたことはほとんどすべて無駄なんだけれど、無駄なことはいっぱい書いたほうがいいだろう。
 なんらかの歴史(正史)のなかに「まどか☆マギカ」を位置づける、というちからをわたしは持っていない。わたしはそもそも正史を俯瞰できるほどたくさんのものごとを見てきたわけではない。だからわたしはそれをやろうとはしない。アニメ・ゲーム史を構築するためにわたしはむしろカフカから出発しようとしてきて、それはむしろ、わたしのふれてきた作品たちからするとほとんど必然だった。歴史を構築しようとするとき、わたしはわたしがいままで見てきたものからそれをなそうとするよりほかにやりかたを知らない。それはわたしの個人的な歴史と重なるだろう。わたしはそれでいいとしか思っていない。それが、正史からしたらなんの関連もない作品同士をわたしの思い出がむりやりつなぎあわせただけのひどくゆがんだ歴史であっても、わたしはかまわないと思う。歴史は個人の数だけ無数につくられていき、そのなかでわたしにとって興味深いものをそのときどきで見ていけばいい。問題はわたしがおそらくは総体的なものを求めたいと思うことだ。


 現実はこんなに過酷で残酷なのに、ぼくたちはなんでこんなに幸福なのだろう。
           ――三角みづ紀「オウバアキル」



 たとえば、できうるならば「まどか☆マギカ」を見てきたひとには、悲劇的な世界のなかでリセット以外のやりかたをとらざるをえない悲劇すらをもしあわせだと呼びえる可能性を示唆した、三角みづ紀の詩集を読んでほしいと思う。作品同士はたがいを補完しあって、そのつらなりこそがわたしたちのありかたをゆたかにするだろうと思う。でも、「まどか☆マギカ」を見たひとにたとえば「オウバアキル」を手渡すだけの関係のありかた、あるいはそれをなそうと意志するありかたは、すくなくともわたしの知るかぎり日本のなかには、ない。ある作品をさしだすならば、必ずもうひとつ以上の作品をも明示的にさしだす、わたしはやさしさとはそういうものでありえてほしいと、しんから思う。




コメント
「ドン・キホーテ」、特に第2部(と言っていいのかしらん)の場合、「騎士道物語的システムにとらわれた人物を狂人として嘲笑して構わないシステムにドン・キホーテが敗北するシステムが機能している」と思います。有名な風車への突進なんかはまぎれもなく「騎士道物語にとらわれている」のですけれど。
【2012/10/25 16:59】 | ぐっしい #- | [edit]
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