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アミール・レザ・コヘスタニ「1月8日、君はどこにいたのか?」@東京芸術劇場

2012.11.05(23:19)

黄金の猿黄金の猿
(2009/07)
鹿島田 真希

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オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)
(1993/06)
エドワード・W. サイード

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 注 「009 RE:CYBORG」の物語について結末をふくめて言及しています。
    

 10月22日(月)

 会社にいった。
 あんまり眠かったので家に帰って、高橋源一郎「『あの日』から僕が考えている『正しさ』について」を読んだ。この本はおもしろくはないけれど、どうしておもしろくはないんだろう。それはたぶん、この本がだいたいすべてわたしが読みたいと思うもののまえでぱたりととまってしまっているからだろう。すべてはなにかが語られるまえにあらかじめ語られやめてしまっていて、言葉はなにかをあらわそうとする以前にかききえてしまう。おそらくはそれはそういう意図としてつくられたもので、だから、それはもうほとんど読みものですらない、ということだと思う。村上春樹と高橋源一郎について、わたしは、村上春樹は小説家を志向し、高橋源一郎は自身がひとつの小説になることを志向している、とずっとまえ書いたことがった。たぶん村上春樹ならばぜったいにこんなものを書こうとはしないだろう。
 もはや見たことすら忘れかけていたけれど、わたしは10月21日(日)にMOVIXまでいって「踊る大捜査線 The Movie Final」を見ていた。ふつうにおもしろかったと思う。「1」や「2」を見たときの感動みたいなものはあまりなくて、それでも、もはや青島たちがうつっていればなんでもいいみたいな感じでつくられたようにしか思えない「3」に比較すればわりあいまともにつくってあると思う。テレビシリーズからひきついでいた問題を物語的にはほとんど解決してしまった「2」で終わりにしておけばよったのに、という思いはそれでも拭いきれないけれど。


 10月23日(火)

 会社にいった。また油断していた。油断するとすぐに会社にいってしまう。わたしはだいたい1週間のうち5日くらいは油断しているから1週間のうち5日くらいは会社にいってしまう。なんてことだろう!
 会社にいってもとくにおもしろいことはなくて、帰って鹿島田真希「黄金の猿」を読んだ。もはやいったいなにがおもしろいのかさっぱりわからないけれど、そういう「わからない」という感触のそもそもの根元としてあるのは、これを読んでいるあいだにわたしはいったいこの作品をおもしろいと思っているんだろうか、ということだと思う。それはこの作品がびたびたの純文学だからというわけですらなく、たとえば探偵小説とかを読んでいるときですら、わたしたちはそれをおもしろいと思っているのか、思っていないのか、知っているんだろうか。そして、それはたとえば快・不快という感覚とどこかしらちがうものなんだろうか。わたしにはよくわからない。そもそも、たぶん、鹿島田真希がなにかを書いているようになにかを書いているようなひとは、いま現在にだれひとりいない。だから、わたしはそれを読んでいったいなにを思えばいいのかだってわからない。だからわたしにはそれを読むしかないんだろう。


 10月24日(水)

 会社にいった。それからK課長とNさんと面接をした。
 そのあとはわたしがはいっている保険の見直しをした。よくわからなかった。よくわからない保険がもっとよくわからない保険に変化したので、わたしはよくわからないなあと思った。よくわからないからわたしが死んだとき30億円くらいだれかがもらえるのかもしれない。
 帰りにドトールにいって小説を書いた。


 10月25日(木)

 会社にいった。
 帰りにモスバーガーにいって小説を書いた。

 
 10月26日(金)

 会社にいった。犀が空を飛んでいた。
 8時くらいにもうすべてをあきらめて帰って、帰りにモスバーガーにいって小説を書いた。
 家に帰ってサイード「オリエンタリズム(上)」を読みおえた。


 10月27日(土)

 おきたら午後の6時くらいだった。だいたい18時間くらいは眠りつづけていたことになる、にんげん、寝ようと思えば眠ることができるいきものなんだなと思った。ジェフリー・フォード「ガラスのなかの少女」を読みおえた。フォードはもっとがちがちの幻想文学を書くひとだと思っていたからこの手の小説を書くとは思っていなくて、それであんまり読みすすめてはいなかったけれど、読みおわったあとのさわやかさはわりあいここちよかった。
 わたしは皮膚病の飲み薬をもらっていて、それを飲むとすぐ眠くなれるからほとんど睡眠薬的な感じでつかっている。たいへん便利でうれしい。この日もあんまりにもなにもかもやる気がおきなくて、薬を飲んですぐに眠った。


 10月28日(日)

 おきたら午後の1時だった。そとの暗さから見ると夕方くらいだとしてもおかしくないと思っていたから、うれしかった。ごはんを食べて、インターネットでくだらないものを読んで、それから図書館にいってサイード「オリエンタリズム(下)」を借りてきた。そのあとクリーニング屋さんにいって、ドトールにいって「オリエンタリズム(下)」を読んだ。
 サイード「オリエンタリズム」は、もちろんなにが書いてあるのかはよくわからないけれど、わたしにとって興味深いてんは、東洋というのは西洋がつくりだしたものだ、とくりかえし語られているところだ。なにによってつくられるのか、といえば、それはもちろんテクストによって、ということになる。数あるテクストが東洋というものをこうであるもの(たとえば占領されるべきもの)として規定し、そして、テクストにのっとってひとびとは発言し、実際に旅行する。東洋は西洋に対置されて、西洋のひとびとにとってテクストの照りかえしとしてしか東洋は理解されえないし、そのように行動するしかできない。柄谷行人は「日本近代文学の起源」のなかで、「風景や内面は近代文学によって発見された」と語った。文学としてそれらが描写されることによってそれらはつくられ、そして、わたしたちが考えているようなありかたでは、近代以前の時代には風景や内面なんかありはしなかった、と。文学や言葉というものはそれらをどう描写しようと、必ずそのかたちを変えてしまう。たとえば夜の月が美しく描写されるとき、わたしたちはその月そのものを美しいと感じるわけではなく(描写された月なんてどの瞬間にも実在していない)、その描写によって想起されたなんらかの感情と実際の文章をまえにして美しいと感じているにすぎない。ゴダールは「ほとんどすべての映画は映画としてつくられるまえに、文章としてつくられおわっている」というようなことを言った。「私は文章としてつくられたものをもう1度映画としてつくりなおすことはやりたくない」とも。つくられおわってしまったものをつくりなおし、それを作品として提出することはほとんど転倒している。だからたぶん、大多数のものを書くひとはつくられおわってないものをなんらかのかたちでつくろうとしているんだろう。そしてそういう作品とそうでない作品を見わけることは、むずかしい。わたしはわたしの書くものがそういうものであってほしいとは思う。けれどわたしのやりたいことは、おそらくそういう事実を提示して「ほら、あんたたちはけっきょく真実なんて見ていないんだよ」と糾弾することではないと思う。ニーチェは「言語に関する真理」とは次のようなものであると言ったらしい。


 隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的な諸関係の総和であって、それが詩的にまた修辞的に高められ、転用され、修飾され、そして永い慣用の後に、ある民族にとって確固たるもの、規範をなすもの、拘束力のあるものと思われるようになったものである。すなわち真理とは、それが錯覚であることを忘却されてしまった錯覚……なのである。

 
 わたしにできるのはわたしの言説を普遍化させないことだ。そしてそこにたったひとつでもいいからにんげん的感情をともなわせること。ものごとの構造は、すでにつくりもので覆われたその表面をひっぺがすことでなかに確固たる真実が見つかる、みたいなありかたをしてはいない、とわたしは思う。まがいものだらけが無数に浮遊してしまったあとでわたしたちにできるのはそのひとつひとつに付加価値、そしてにんげん的にせつじつな感情をともなわせること、わたしはそういうありかた以外にもう、ものごとを美しく思う方法をたぶん知らない。


 10月29日(月)

 会社にいった。それ以外になにかをしただろうか、いや、していない!


 10月30日(火)

 会社にいった。そのあと、会社から帰った。
 会社からいちばん近いMOVIXまでてくてく歩いて、園子温「希望の国」を見た。おもしろくないとも言わないけれど、おもしろいとも言えないと思う。園子温がこの映画で描いている家族の共同体というのは、おそらくはひとつのユートピアみたいなものだと思う。というよりも、すでに家族というものはユートピアである、という前提みたいなものが横たわってしまっているように思う。ユートピア的なものがたやすく平行移動していて、べたべたで俗的な家族ものみたいになってしまう。わたしは「紀子の食卓」や「愛のむきだし」みたいなもうばらばらで壊れきってしまった家族が狂気的に家族を再生していくありかたのほうがずっとずっと興味を持つことができるように思う。なによりも、そもそもわたしはきっと家族というものにほとんど興味を持っていないんだろう。
 ティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」を読みかえしたくなった。


 10月31日(水)

 会社にいった。おおきな仕事がひとつ終わったので、親会社のひととうちあげをした。開始は7時からで、わたしたちはみんな5時すぎには帰ったので、2時間あまりどうしようかということになって、みんなでとりあえず0次会からはじめることにした。牡蠣をみんなで食べにいった。わたしは牡蠣は食べものではなくて宇宙生物だと思っているので食べなかった。わたし以外のひとは「ぐへへ、うめえぎゃー」と言いながら宇宙生物を捕食していた。Nさんは食べるときのこころえとして「断面を見ちゃいけないんだよ」と教えてくれた。わたしははまぐりを食べていた。はまぐりは宇宙生物ではない。
 7時ぎりぎりにいって、ふつうにはじめた。わたしはひとこともしゃべらないつもりで、まさしく前半はひとこともしゃべらなかったけれど、後半は途中からやってきたKさんといっしょに調子にのってしゃべっていた。たぶん次の日に「あいつ死ねよ」とうわさされることだろう。


 11月1日(木)

 会社にいった。昨日あんまりにも飲みすぎてほとんど眠れなかったがために、眠たくてしかたがなかった。だからしようがなく夜の8時に帰ってよるの8時30分に眠った。


 11月2日(金)

 会社にいった。ほんとうはわたしが説明しなければいけなかったことを、K課長がホワイトボードをつかってきゅっきゅきゅっきゅ説明しはじめたので、わたしは、そうです、そうです、とあいづちをひたすらうっていた。きっとみんなあとで「なんであのひとはずっと震えていたんだろう」とうさわされていることだろう。
 会社ちかくのMOVIXまでてくてく歩いて、神山健治「009 RE:CYBORG」を見た。物語の運びかたとして、後半はほとんどうまくいっていないように思えるけれど、とてもおもしろかったと思う。9.11以降、世界で高層ビルを標的にした自爆テロが頻発していて、実行犯たちに共通しているのは「彼の声を聞いた」という証言のみ。009はギルモア博士によって記憶を3年ごとに記憶を消去され、高校生活の3年間をそのあいだひたすらくりかえしている。この物語で重要なのは、009自身がこのあいだで「彼の声」を聞き、六本木の森ビルで自爆テロを起こそうとしていたことだと思う。直前で009は003によって記憶を呼びおこされ、彼自身が自爆テロをおこなうことはなかったけれど、あとになって彼はギルモア博士にたいして、「あの声はあなたのものではなかったのですか」と問いかける。正義の表徴としての009がその正義によって自爆テロをおこしかける、というひとつの転倒がここで描かれ、自爆テロのアメリカ陰謀説を敷衍しながら、アメリカ帝国主義を主張、そのあとに疑いを持ちはじめる002との確執をふくめて物語は進んでいく。気持ちがいいのは、おそらくこの作品がもともとの「009」をこえよう、という意識がないように見えることだと思う。ただ、わたしは「009」についてはアニメで見てすこし知っているだけでそれもほとんど覚えていないから、既存の「009」にたいして神山健治の「009」がどうであるかについて、うまく考えることはできない。それでもわたしは、「009 RE:CYBORG」という作品は既存の「009」とはちがうもののように見える。けれど、それは神山健治が自分のつくりたいと思う作品をつくるために「009」を利用した、というありかたともちがうように思う。むしろ、いま現代において、なんらかのリメイクをつくるならほとんどこういうかたちでなければならないという思いきったあらわれかたをしていると思う。アメリカ政府、および世界中の自爆テロを秘密裏にあやつってきたとされる巨大企業は、テロの罪すべてを009たちに押しつけようとする。ギルモア博士たちの拠点がその巨大企業の兵隊たちに襲撃され一般人たちが容赦なく虐殺されていくシーンは、「エヴァ」でNERV本部が襲撃されたときのように、ただただ、こわい。アメリカ政府、および巨大企業はたしかに直接の敵としてあるけれど、そうではない、人類の正統的な進化としての人類滅亡(再生)意識を009たちは最終的に相手にしなければならない。009はそこでご都合主義的な勝利と生還をたしかに果たす。でも、その後に描かれた世界は、ほとんど非現実的な美しさにたんじゅんに満ちていて、それが現実であるかどうかすらほとんど疑わしいままにこの物語は終わってしまう。正義なんてものはもう世界にどこにもなくて、それでもわたしたちはどうにかして生きていかなくてはいけなくて、その「どうにかして生きていかなくてはいけない」ということが、たとえば、ティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」で核戦争におびえて庭に穴を堀りつづけて家族を睡眠薬で眠らせその穴のなかに放りこんだあの男のありかたと一致してしまうなら、わたしたちはどうしたらいいんだろう。その男は自分の娘に「お父さんは気狂いね」と言われた。


 11月3日(土)

 お昼すぎに起きて、家のなかでうだうだしていた。あまりにもうだうだしていたおかげで脳味噌がぐずぐずになって溶けていった。それはあんまりにもひどいから、しかたなく、ドトールにいってサイード「オリエンタリズム(下)」を読んで、そして読みおわった。
 そのあと池袋までいって、東京芸術劇場でアミール・レザ・コヘスタニ「1月8日、君はどこにいたのか?」を見た。これはイランの演劇で、全編が携帯電話の会話だけでなされている。たとえば、ハロルド・ピンターの戯曲のように、どことなく不穏さと抑圧がただよっていて、演劇としてはとてもたのしめた。唯一わたしが気になったのは、字幕のだしかただった。はじめから同期をとるつもりもないのだろうけれど、実際に役者がしゃべっている瞬間と字幕がうつしだされる瞬間がほとんどすべてずれていて、たとえば、役者が相手の言葉をさえぎってつよい口調でなにか言ったときでも、うつしだされている字幕はそのまえの言葉であって、2、3秒のラグのあとに、ようやく発された言葉がうつしだされる。たとえばチェルフィッチュの演劇を1度見ればわかるように、とくに演劇は身体と言葉が密接にからみついていて、たがいに補完・運動しあいながらそこに質量を持ったみたいな演劇空間が発生するようにわたしは思っていて、それができない演劇はほとんどおもしろくない。アミール・レザ・コヘスタニはかなり高いレベルでそれを実現しているように思えたけれど、字幕を読もうとつとめればつとめるほど、いわば身体と言葉のリズムが崩されてしまって、どうにも、せっかくの緊迫感がまのびしてしまっているように思う。誤字もいくつかあった。こういう問題は今回の演劇にかぎっての話ではなくて、わたしは演劇で役者のせりふと字幕が一致しているのを見たことがないけれど、むしろ、なぜ映画の字幕がそうであるように役者のせりふと一致させようとしないんだろう。わたしにはそもそも一致させようとすらしていないようにしか思えない。それは、字幕を1度おおく表示させてあとは役者の演技に集中してもらおうと思うこころづかいなんだろうか。おそらくは手動でおこなわれている字幕の切り替えにおいては、映画ほどの一致はほとんどのぞめないんだろうか。わたしにはよくわからない。ただおそらく、あの字幕は演劇が実際におこなわれた場所でつくられてはいないんだろう。だから役者のせりふとあった字数で字幕がつくられていない。たぶん、ぴったりと字幕をだすには実際に役者たちの練習に字幕をだすひとが参加して、タイミングを念いりに調整、訓練しなければいけないんだと思う。そして、そんなことはおそらくおこなわれていない。だから、やってほしいなとわたしは思う。ただそれだけのことなんだけれど、やってほしい。
 家に帰って藤崎和夫「グッバイ、こおろぎ君。」を読んだ。のんきな小説だと思う。このひとは、ほとんど文章でなにかを表現しようとすることを放棄しているんじゃないかと思える。文章にその文章以上の価値が宿っていない。このひとはほとんどなにも書くことがないようにすら見える。けれど、わたしにはそのことじたいが小説としての価値の低さと一致しているのかどうかは、よくわからない。




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