スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

BATIK「おたる鳥を呼ぶ準備」@世田谷パブリックシアター

2012.12.03(22:32)

秒速5センチメートル 通常版 [DVD]秒速5センチメートル 通常版 [DVD]
(2007/07/19)
水橋研二、近藤好美 他

商品詳細を見る

 11月18日(日)

 朝起きて、ちゃらちゃらと三軒茶屋に向かおうと思って電車にのったら京浜東北線が途中でふつうにとまって、どうしよう、と思って、すごくもどって埼京線でなんとか渋谷までいくことができて、あやうく死んでしまうところだと思った。パブリックシアターでBATIK「おたる鳥を呼ぶ準備」を見た。ほんとうに正直いってしまえばわたしは前作の「あかりのともるかがみのくず」のほうが好きで、それはたぶん今回の作品がいままでとはだいぶ方向性を変えたからだと思う。「あかりのともるかがみのくず」はおそらくは暗い胎内をイメージしてつくられていて、たんじゅんに、そこには生と死が同居していた。彼女たちはそのなかであがき、もがいて、絶叫しながら、いた。彼女たちはそのなかに閉じこめられていて、そして同時に再生をくりかえしたがっているように見えた。わたしたちは胎内で生成されたのか、それとも、そもそものはじめから閉じこめられていたんだろうか、いままでずっとわからなかったけれどわかっていなかったことにすら気づいていなかったことが、あらためてわからなくなった。「おたる鳥を呼ぶ準備」は「あかりのともるかがみのくず」にあった、そもそものはじめからあった内側の痛みというものは消去されて、どこか白痴的にすら思えるあっけからんとした「あかるみ」みたいなものがあった。こういう言いかたが適切だと思うわけではないけれど、「おたる鳥を呼ぶ準備」は「あかりのともるかがみのくず」よりもはるかに難解で、前衛ですらあったと思う。とはいえ、「あかりのともるかがみのくず」はわたしがいままで見てきたダンスのなかでもっともすばらしかった作品だから、それと比較してなにかを言ったり書いたりするのはすこだけさびしい感じがしてしまう。「おたる鳥を呼ぶ準備」だってさいきん見たダンスのなかではもちろんいちばんすばらしかった。
 その劇団なりカンパニーなりがいままでとはちがうものをつくりだそうとしているとき、たとえば、ままごと「わが星」が「ファンファーレ」をつくったような瞬間を見て、そしてわたしがそれに満足できなかったとき、というのはだいたいいつだってやるせなくなってしまう。どうしてこのひとはこんな作品をつくって満足そうな顔をしているんだろうと思ってしまって、いろいろなことがよくわからなくなってしまう。それがひとつの流れさるものだとして、小説や映画みたいな複製芸術は流れさることをなかば消してしまって、そういうなかで、「わが星」をつくった柴幸男、「ディスコ探偵水曜日」を書いた舞城王太郎、そして「あかりのともるかがみのくず」をつくった黒田育世を好きでいつづけるにはどうしたらいいんだろう。きっと、なにかを好きでいつづけるということそのことじたいが間違ったことだという、とてもとてもさびしいありかたに耐えしのぶことすらしないように耐えることでしか、そのさびしさをやりすごすことはできないんだろう。
 終わったあとうちに帰って、神無月サスケ「Moon Whisle XP」をやった。


 11月19日(月)

 会社にいった。わたしは会社のなかで仕事をして、そのあと会社からうちに帰った。神無月サスケ「Moon Whisle XP」をクリアした。
 このゲームは最初からMPが高めに設定されていて、回復アイテムも安価で手にはいりやすい。電車ごっこ(ルーラ)がつかえるおかげで回復ポイントにももどりやすく、その反面エンカウント率は高い。だから、たぶん強力な特技(魔法)をがんがんつかってさくさく敵を倒していくのがきっといちばん爽快感をもって進めていけるやりかたで、それに気づいてからはだいぶたのしかった。フリーゲームのなかでは名作と呼ばれているけれど、ストーリー面や演出面についてはわたしはよくわからなかった。ここには大人と子供の対立があって、敵対する大人たちは子供に理解のない存在としてあつかわれ、子供の夢を体現しているXレンジャーはその大人を成敗していく。ただ、Xレンジャーはその大人たちにたいして「おまえたちはわるいからわるい」という言いかたしかしない。子供たちのなかにもわるい大人にまどわされている子がいて、彼らは大人たちになにか言われると毒のエフェクトがかかって、邪悪なことを言いだす。そしてそのあと、Xレンジャーが「いや、大人のやりかたはまちがっている。だまされちゃいけない」と言うと、子供には回復のエフェクトがかかって「そうだ。やっぱり大人がまちがっている!」と2秒で言いだしてしまう。それは、わたしの考えだとにんげんをにんげんとあつかってはいないやりかただと思う。けっきょく、敵側の大人とXレンジャーたちは子供たちの洗脳合戦をくりひろげているだけで、そして、このゲームがその手の洗脳合戦のありかたを認めている以上、正義としてのXレンジャーが子供たちの洗脳をすることを「世界がよくなること」だとほぼなんの留保なしに見なしている。Xレンジャーはタイムマシンをつかっていて、そのことを時の神官に「時空間をゆがめている」と咎められても、「世界がよい方向に向かっているからいいじゃないか」としか言わない。このゲームのなかにあるのは幼児的無邪気さで悪をおこなう大人たちと幼児的無邪気さで悪を成敗するXレンジャーと主人公たちしかほぼ存在していない。それらの枠からはみでるひと(生きもの)たちもたしかに存在しているけれど、それらはサブイベント、隠し要素としてしかでてきてはいなくて、うがった見方をすれば、物語の邪魔物として隅に追いやられてしまったように見える。わたしはなんらかの行為に正義だとか悪だとかと名づけたいとは思わない。ひとはやろうと思えば「正義のために」と言いながらいくつもの国々に爆弾を落としにいくことだってできる。そこで問題になるのは「正義のために」という言葉なのか、あるいは「爆弾を落とす」という行為なのか、わたしはいつだってわからなかったし、これからもきっとわかることはないんだろう。それらのことがらにさらに名前をつけることでなんらかのものが許されると思うのならば、世界のあらゆる事象あらゆる言葉に名前をつければいい。ただ、わたしはそんなものがたいせつなことだとは思わない。

 
 11月20日(火)

 会社にいった。わたしは先週の金曜日にCKさんと「ねらわれた学園」を見にいく約束をしていたような気がしていたので、とりあえずMOVIXにいった。CKさんと約束はしていたようだった。MOVIXでは映画を見るたびにポイントをもらえる制度があるということで、「俺、いつももらえないよ」と言ったら「会員にならなくちゃね…」と言われた。そうだったのか。
 中村亮介「ねらわれた学園」はびっくりするくらいにおもしろかったのでびっくりした。なによりもすばらしかったのはカホリ(のおっぱい)があまりにもかわいかったことで、たぶん今年見た女の子のなかではいちばんかわいかったと思う。そういうかわいい女の子がいてただしゃべっているだけでそれはもうこの映画がすばらしいと確定しているということなので、この映画はすばらしかった。端的にいってこの映画は「青春もの」にはちがいないけれど、男の子と女の子の青春がこれでもかというくらいに描きこまれていて、この映画のすべてが青春というものにささげれれているようにすら思う。背景の描きかたについていえば、新海誠に近い。彼らはただそこにあるだけの校舎を白く染め、夕暮れに染め、樹々があればあちこちに緑色の陰影を書きこみ、夕暮れの空には印象派が描いたような桃色を塗りこみ、夜の空はほとんどオーロラがでているのかと疑いたくなるほど緑と青を絶妙にいれこんでいく。桜もそこにただ存在しているよりも遙かにおおくの花びらを散らし、シャボン玉もひとが吹きだせる限界を遙かに凌駕した数が画面全体をおおっていく。世界を、そして世界についての背景を過剰に美しく描いている。新海誠とちがうのは、きっと、そうやってつくりだされた背景が言葉のなかに吸収されていかないことだと思う。「ほしのこえ」や「秒速5センチメートル」の1部や2部に顕著なように、新海誠の背景はそのなかで語られる言葉を過剰に純化する作用をもたらしている。新海の作品にはほんとうの意味では背景はないと思う。それは新海の背景がすべて言葉に結びつけているからだと思う。新海の作品のなかのひとたちはおそらくは背景がなければなにもしゃべれはしないだろう。彼らの言葉が孤独なのは彼らが背景を背負ってしまっているからだとわたしは思う。彼らは相手がいなくてもしゃべることができる、それは、彼らがだれに向かってしゃべりかけることができなくても背景に向かってだけはしゃべることができるからだと思う。「ねらわれた学園」ではもうすこし背景と言葉が分離されている。それは、「ねらわれた学園」で描かれている世界が複数人での青春を描いているからだと思う。だから、彼らはひとりで言葉を発するほどに孤独にはどうしてもなれない。「秒速5センチメートル」の1部で遠野に電車にのって明里に会いにいく場面があって、その場で遠野は雪を背景にして独白をつづける。それは、いわば心内語と呼べるほどなまなましいものではなくて、ほとんど小説的描写になっている。「ねらわれた学園」ではその言葉が文学的に内側へ内側へと螺旋を描いて深くもぐっていくことはない。それは彼らが文学というものを決定的に問題にはしていないからで、彼らにとって文学というものがありえるとしたら、それは、京極が「夏の夜の夢」のパックに自分を照らしあわせたように、彼ら自身がいま生きている青春の諸要素として自分たちに照射できるようなものとしてしかたちあらわれない。演出の面で衝撃的だったのはナツキの動作で、彼女は日常として飛んだり跳ねたりしている。ふつうに歩きながら空中で2回転してすたっと着地したりをしていて、それは日常としてごくふつうに描かれ、吸収されている。そこにリアリティの問題というものはほぼない(ギャグですらない)。わたしの考えだと、新海の作品であるならば女の子をそんなふうに何気なく飛ばすことはできない。それは女の子を飛ばすということが青春のひとつの日常的行為として処理されてしまうような世界観とキャラクターデザインをあらかじめ構築していなければいけないからで、いっぽうで、新海の作品では孤独と言葉の重さが人物のそれぞれにしっかりとのしかかっているためにナツキのような「軽さ」を獲得することがどうしてもできない。
「まどか☆マギカ」を見たとき、わたしは「もしも『まどか☆マギカ』の風景が美しいとしたら、その風景ににんげんが描かれていないからだ」と言った気がする。たとえば押井守ならこういう背景はぜったいに描かないだろう。「ねらわれた学園」の風景にも、青春を生きる彼女たちの世界にはほかにだれもいない。ナツキとカホリが塔にのぼったとき、ナツキとカホリと京極とケンジの4人で海にいったときも、そして、カホリが神社で京極たちにおそわれたときにも、他者はいない。その風景は彼らのためだけにある。彼らのためにだけある風景、彼らのためにだけある青春、彼らのためにだけある生、けれど、わたしが言えるのはただそれがそうなっているというだけで、それ以上のことは言えない。それがただ美しかったとしか、わたしには言えない。


 11月21日(水)

 会社にいった。ドトールにいって日記を書いて、帰った。
 さいきんはずっとフリーゲームばっかりやっていて、それはそれはとてもたのしい充実した時間だったと思うけれど、けっきょく「タオルケットシリーズ」や「B.B.ライダー」をこえるほど衝撃的な作品はないのかもしれないと思いはじめてしまうと、なんとなく不安になってしまう。そろそろやめて、また小説を書いたり、本を読んだりしようかなと思った。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/1060-09aec5a0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。