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バットシェバ舞踏団「SADEH21」@さいたま芸術劇場

2012.12.03(22:33)

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林原めぐみ、緒方恵美 他

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注 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」
  「魔法少女まどか☆マギカ」
  以上の物語について結末をふくめて言及しています。 


 11月22日(木)

 うっかり会社にいった。いいかげんそろそろ残業しないと終わらないかなと思って、21時30分までひさしぶりにのこった。
 うちに帰って「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」のチケットをとって眠った。


 11月23日(金)

 なんとか、かろうじておきて、てくてくさいたま芸術劇場まで歩いて、バットシェバ舞踏団(オハッド・ナハリン演出)「SADEH21」を見た。すばらしかった。わりあいゆっくりと身体を動かして踊る場面がおおかったように思うけれど、その内側にははっきりとしたちからづよさみたいなものがあって、とても美しかったと思う。すてきだったから後半はだいぶん眠っていた。
 そのあと、MOVIXまでいって「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見た。どういうことになっているのかちょっとよくわからかったから、うちに帰ったあと2ちゃんねるの考察をまとめたサイトを読んでいたら、こういうことが書かれていた。「そもそも、これが『Q』なのかどうかわからない」。映画を見て、ふつうこういう感想はありえない。わたしたちは「北のカナリアたち」を見たら「今日、『北のカナリアたち』を見たよ」と言うし、「悪の教典」を見たら「今日、『悪の教典』を見たよ」と言うだろう。「ヱヴァQ」が「今日、『ヱヴァQ』みたいに見えるものを見たよ」としか言いようのない作品だったとしたら、いったい「ヱヴァQ」という映画にはなにがうつされていたんだろう。この作品を見たおそらく大部分のひとは「よくわからなかった」という感想をすくなからず抱くように思う。わたしもよくわからなかった。けれど、ここで言う「よくわからなかった」というのは、なにがどうよくわからないということなんだろう。物語や設定が複雑だからというのももちろんあると思う。けれど、わたしの考えでは、おそらく、そこには「いまわたしが見ているこの『ヱヴァQ』という作品はいったいなんなんだ? これはほんとうに『破』のつづきなのか?」という、作品そのものの根底にかかわるだろう疑問が横たわっていると思う。おそらくわたしたちは「ヱヴァQ」を見たことによって、「『エヴァQ』とはいったいなんだ? そもそも、この一連の『エヴァ』の新劇場版(それははっきり言ってただのリメイクのはずだ)という企画はいったいなんなんだ?」という、『序』や『破』ではほんとうには問われなかった疑問にぶちあたっているんだと思う。
「ヱヴァQ」は前作「破」から14年後の世界が描かれている。前作のゼルエル戦でエヴァと一体化したシンジは14年ぶりに肉体をとりもどし、ミサトたちのところにつれてこられる。ミサトたちはネルフと決別し、ヴィレという組織に新しく所属していて、アスカとマリもそこに参画している。ネルフはほぼ崩壊していて、ゲンドウ、冬月、そして綾波(シンジが前作で助けた(?)のとはべつの個体)、そして渚カオルが所属している。ミサトたちはサードインパクトの惨劇をくりかえさないように、シンジに首輪をつけ(感情に流されると死ぬ)、「もうなにもしないで」とつめたくつきはなつ。ミサトたちのところにネルフが強襲し、綾波が乗るMark.9がシンジをつれさる。シンジはゲンドウと再会するが、ゲンドウはつめたく、綾波もべつの個体だと知らされ、ほとんど絶望する。そのなかで彼は渚カヲルをよりどころとして日々をすごす。カヲルはシンジがひきおこしたサードインパクトによって世界が滅びかけたことを告げ(トウジやケンスケなどのほとんどのサブキャラクターは死んでいる様子)、シンジはさらなる絶望を抱えこむ。渚カヲルはシンジといっしょに13号機にのってリリスに刺さった2本の槍を抜けば世界を再生させることが可能だと告げ、シンジは自身の罪から逃れるため槍を抜きにいく。槍を抜きにいくとき、それを阻止しようとアスカとマリ、そしてミサト(ヴンダーという戦艦に乗っている)があらわれ、戦いをはじめる。その過程でシンジから首輪をひきうけた渚カヲルは死亡(なんで死んだのかよくわからないけれど、なぜか死んだ)、シンジは槍を抜きフォースインパクトが起きかけるがそれも阻止される(なんでフォースインパクトが起きるのか、なんでとまったのかもさっぱりわからない)。戦いの跡地にシンジ、、アスカ、レイがのこされ、3人はそこから歩きはじめる。そして「ヱヴァQ」はここで終わる。
 ここで問題になるのは、そもそもいまわたしが書いた「Q」の物語が「破」の最後で流れる予告編の内容とひとかけらも一致していないということだ。「破」の予告編をもう1度見てもらえばわかるように、予告編で流れた映像は実際の「Q」ではおそらくひとつたりとも使われていないし、ミサトが予告編で語った「Q」の物語と実際の「Q」の物語はぜんぜんちがう。むしろ、予告編の「Q」で語られたあとの物語を実際の「Q」では語っているようにすら見える。それに関する説明はいっさいない。「ヱヴァQ」ではたくさんの不可解なことがほとんどなんの説明もないまま進行していく。「破」のラストでカヲルがサードインパクトを阻止しているはずなのに、「Q」の世界ではサードインパクト(のせいかどうかすらもわからないのだけれど)によって世界はほとんど崩壊している。その説明はカヲルがシンジにあたえたものだけれど、その経緯をいっさい知らないわたしたちは、そもそもカヲルの説明をすなおに信じることすらうまくできない。
 それに関する考察については2ちゃんねるのまとめサイトでも見てもらえばいいと思う。わたしはそこに書かれた予想のいちいちを信じはしないし(そもそも考察ですらもなにを言っているのかよくわからない)、わたしが気になるのはもっとべつのてんで、それは、なぜ「Q」では「こんなことになってしまっているのか」ということだ。
「エヴァ」のリメイク(何度も言うけれど、新劇場版と制作者がいくら言ったとしても、これはただのリメイクという企画にすぎない)として庵野秀明がやりたかったこと、あるいは、彼がやりたかったようにわたしたちにとって見えたことは、「序」や「破」ではわりあい明確に示されているように見えたと思う。綾波をメインヒロインの座に据え、シンジをヒーロー的ポジションに据え、もともと陰鬱な世界として描かれていた「エヴァ」にたいして新しい希望をあたえた。それは、たとえば村上春樹が「ねじまき鳥クロニクル」の第2部のあとであらためて第3部を書いたように価値のあることだったとわたしは思う。終始受動的な役割を追いつづけた主人公がそこから1歩踏みだして、だれかのために戦うことを選択する。けれど、「Q」では、それをおこない、それのせいでたしかにハッピーエンドに向けられてもおかしくなかったシンジをまっこうからうらぎっている。ミサトはシンジに首輪をはめ、シンクロ率がゼロになった彼は「もうなにもしないで」とつめたくつきはなされる。アスカに敵意を向けられておびえ、とまどい、けっきょく綾波も助けられていないことに絶望し、世界が崩壊してしまったことに絶望する。そして、彼は13号機にのりこむけれど、渚カヲルがシンジの身代わりになって死ぬことで、彼はまたまえの陰鬱な世界のなかに閉じこもってしまう。ただ、シンジがエヴァに乗る理由はここですこしだけ変わりはじていると思う。彼ははっきりと世界の再生のためにという理由でエヴァに乗りこむ。それがけっきょくシンジが自分が犯した罪への償い、シンジが自分の罪からの逃亡的な思いからのことだとしても、おそらくそこには「破」でありえたひとかけらの希望はのこされていると思う。
「Q」で問題なのは、むしろ、上映時間があまりにも短すぎることだと思う。事実上第2部的な内容になっていながら、変更された組織体制、それぞれの人物の立場、および、行動理由についてなにも明確にされない。「Q」で「わからない」と感じるならば、そのわからなさは設定の複雑さ以上に彼らの行動原理からきている。たとえば、「SLAM DUNK」という作品において、海南の牧はとても重要な位置をしめている。わたしたちのほとんどはそもそも流川や桜木、あるいは沢北が試合のなかでどんなプレイをしたところで、そのプレイの直接的なすごさをおそらくはわかることができない。牧はプレイを解説し、その表情によって、彼らがどれだけすごいことをやっているのかを読者にわからせる、狂言まわしのような役割をしている。「Q」ではすくなくとも狂言まわしの役割をしてくれるひとはだれもいない。それ以前についてはミサトがすくなからずその役割を果たしていた。そして、重要なことは、ミサトがうながすシンジやアスカたちの行動原理とシンジやアスカたちの行動原理は見かけ上一致していた、ということだと思う。すくなからず、世界観としての行動原理(ミサトが語る作品単位として行動原理)と各人物の行動原理(ミサトにうながされることによって行動するシンジやアスカたちの行動原理)が見かけ上一致している場合には、その作品自体の難解さというのはおそらくは発露しない。ゴダールが難解なのはそもそも行動と行動原理というものが不一致になっている、というよりも、そもそも行動と行動原理というものがわたしたちの見かけ上一致していない、あるいは行動原理というものがそもそも示されていないからだと思う。「まどか☆マギカ」の狂言まわしはキュゥべえとほむらがつとめている。キュゥべえのうながす行動原理を前半のまどかやさやか、マミたちの行動原理は見かけ上一致していて、そのあいだは彼女たちはすくなくともしあわせでいられたはずだった。問題となるのはキュゥべえのうながす行動原理についてまどかたちが信じることができなかったときで、ほむらがべつの行動原理をまどかたちにうながすとき、そこに謎が発露し、しあわせが逆転されていく。「まどか☆マギカ」はけれど難解ではない。キュゥべえのおもての行動原理が崩壊したあとで、ほむらの過去編がはじまり、すぐに新しい行動原理を補完する運動がはじまるからだ。「まどか☆マギカ」はだから作品としてはとてもていねいにつくってある。その一方で、「Q」はおそらく意図的に難解につくられている。新しい用語がなんの説明もなしに展開され、ミサト、アスカ、マリ、カヲル、ゲンドウの行動原理はなにひとつ明かされないで、事実上それを補完する役割を持つひとはだれもいない。わたしたちが「わかる」ことができるのはシンジだけで、シンジは「なにもわかっていない」がゆえにわたしたちもほとんど彼とおなじ水準でしか「わかることができない」。
「わかる」作品をここまで「わからない」作品に変貌させた庵野秀明の意図についてはわたしにはわからないし、わかる必要もないと思う。書いているあいだにわたしは「Q」のわからなさについてなんらかのことがわかるかもしれないと思ったけれど、けっきょく、わからないままだった。わたしにはそれがそうなっている、と示すほかはない。そしてわたしにはたとえばある作品について「それは美しい」と示す以上のことがひとりの作品の受け手としてできるのかどうかをほとんど信じてはいない。




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