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あらゆる問いがあらゆる答えを導き、あらゆる答えがあらゆる問いを導くというのであれば、もう世界なんていりはしない。

2012.12.22(23:30)

魔法少女まどか☆マギカ 1 【通常版】 [DVD]魔法少女まどか☆マギカ 1 【通常版】 [DVD]
(2011/04/27)
悠木 碧、斎藤千和 他

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注 「すでに私たちは地獄のまっただ中でした。」
  「魔法少女まどか☆マギカ」
  以上の物語について結末をふくめて言及しています。
 

 12月13日(木)

 会社にいった。帰った。NICE☆GUY「PUNCH!」をやった。



 12月14日(金)

 会社にいった。帰った。NICE☆GUY「PUNCH!」をやった。


 12月15日(土)

 NICE☆GUY「PUNCH!」をやった。
 このゲームはやっていてとくにつまらないというものではないけれど、とくにこころにのこるものはないと思う。もうあんまり覚えてもいない。
 ブラック・ウルフ「人であらずんば」をやって、すぐにクリアした。完全なモノクロ、そして点と線でのみ描かれた特異なグラフィック、主人公は「ひと」、装備も「武器 Level.1」、「防具 Level.1」と徹底的にシンプルに実装されていて、それをひきがねにしてにんげんのこころの闇の部分に迫っていく、ということがおそらく作者のやりたかったことだと思う。序盤はそれにある程度成功していて、北の村のイベントまではわりあいよかったと思う。問題はそのあとで、世界がひろがりを持って「色のついたにんげん」がでてくるあたりから作品は一気に青くさく、自慰的に腐った青春ものめいたものにさらされてしまう。それはけっきょくのところ、ここで描かれた世界で現実的なにんげん環境のメタファとしてすべて吸収されてしまうような構造しか持っていないからだと思う。わたしはメタファ自体にそもそも懐疑的でいつづけようと思っていて、それは、たとえばフランツ・カフカのすばらしさが、あたかもあらゆる機構のメタファにすぎないようひしか見えないものがまったくそもそも現実的な「ただそこにあるもの」として描かれているというところにしずかに畏怖を覚えているからだと思う。カフカがおそろしいのはただそのてんにあって、Kが迷宮からぬけだせないのもそれらがじつのところメタファではないからだと思う。わたしの考えだと、メタファはそもそも関係性の複雑なつながりを示すものだと思う。メタファを読みとるとかいうことはそこに存在する探偵小説的な謎解きに還元されるようなものではなく、その「読み解き」が複雑にからまりあった(あってすらいないかもしれない)「まったくべつ」の諸要素を参照することによって生成される総体的なゆたかさを享受するという感覚的なものに還元されるものだと思う。だから、「『そのこと』が『あれ』のメタファになりえる」という問題をわたしは価値あるものとして感じることはできないし、感じようとも思わない。村上春樹の描く文章的比喩のように「『そのこと』と『あれ』」はまったく無関係であってもよくて、問題は、それを描くときに作者が志向する「『そのこと』と『あれ』」をつなぎあわせようとする意志としてあるんだと思う。資本主義社会においてたとえば貨幣、および資本はあらゆる物資のメタファとなりえるかもしれない。でもそれはそれだけでなんらかの価値を持つものではないと思う。価値は物資そのもの、あるいは貨幣および資本そのものに宿っていて、その関係性に価値を生みだそうとするならば、それはまったくべつの視点、あるいはその視点を獲得しようとするだれかのつよい意志が必要なんだと思う。だから、メタファというものの価値をはかるときに問題となるのはそのメタファが生みだす総合性とそれが示すゆたかさであって、「人であらずんば」という作品で展開されているメタファはあまりにも直線的すぎてゆたかさに欠けていて、わたしにはうまく評価することはできない。
 ローゼンクロイツ「すでに私たちは地獄のまっただ中でした。」をやった。

 
 12月16日(日)

 ローゼンクロイツ「すでに私たちは地獄のまっただ中でした。」をやった。やや物語が短いところが難点だけれど、「Knight Night」以来やったゲームのなかではものがちがうと思う。
 主人公マルクトは顔がいいだけの男の子で、父親がつくった莫大な借金を返すために男娼をしている。気狂いの貴族に買われた彼は牢屋に幽閉されるが、貴族の息子フェイ(ガチホモ)に助けだされ、ペニシアという謎の女のひとに出会う。逃避行の際にマルクトはカティクル病にかかっていることが判明する。カティクル病とは目にうつるものすべてが汚く歪んで見えるという病気で、末期になると身体が変質しておそろしい化物に変わってしまう(ゲーム画面はマルクトの視線を反映して、すべてが毒々しく、内蔵や血にまみれたグラフィックで描かれ、台詞は「ビッチ、クソ、キチガイ」などほとんどのゲームでは描かれない単語ばかりが頻出する)。彼らはマルクトの病気を治すために各地のパワースポットをまわり、その過程で、マルクトが父親にされたこと、およびペニシア、そしてカティクル病の真相を知り、この惑星の命運にまきこまれていく。ペニシアによれば、すでにこの惑星は滅亡しかけているという。原始の時代、人類は個性を持たずにすべて同一意志に基づいた思念を持って生活していた。カティカル病とは個性を持ってしまった人類を再び同一意志に基づいた集合的な個体に還元し、べつの惑星で再出発を営もうとする働きであり、マルクトはその代表者、新人類の王として選ばれた存在だった。新人類の王として、マルクトの父親はマルクトに幼少の頃から試練をあたえていた。それは、外面的にはおぞましい性的虐待にほかならなかった。
 ここで重要なのは、性的虐待と新人類誕生への希求がほとんど同一視されおなじあつかいかたをされていることだと思う。そしてもっと重要なことは、おそらくはマルクトの父親によるマルクトの性的虐待にはほとんど物語的必然性はないということだと思う。マルクトはただたんじゅんにその境遇の「不幸化」のためだけに性的虐待を受け、それが新人類の王へとつらなる通過儀礼へとまったく無意味にすりかえられている。だから、それは物語的要求とは関係なく、ただたんに作者の欲求にしたがっている。通常であればそれは「ご都合主義」と呼ぶべきもののように見えるかもしれないけれど、わたしの感触では、それはそう呼べるようなものではない。物語として、マルクトが性的虐待を受けていることと受けていないことにさして変わりはないからだ。おそらく、マルクトはただ不幸であるということによってのみ不幸なんだと思う。わたしの考えだと、これは「エヴァンゲリオン」、「沙耶の唄」などを下敷きにした、「タオルケットをもう一度」以降の作品だと思う。それは、はっきり言ってしまえば「世界はただそこにあるだけでグロテスクだ」というありかただと思う。それはひどくたんじゅんな考えであって、そのたんじゅんさゆえに、マルクトはただ「不幸化」への裏返しとして愛を選択できてしまう。この物語のエンディングはふたつに分岐する。ひとつは「マルクトがカティクル病を受けいれて新人類の王として新たな世界へシフトする」というもので、もうひとつが、「人類の愛へのありかたに賭け現人類を存続していく(ただし、その愛の可能性へのきっかけはフェイからマルクトへのホモ的なものだけれど)」というものだ。けれど、それはどちらを選んでもそう変わるものではない。フェイはただマルクトへの無邪気な愛からマルクトがどちらを選択してもただついていくだけだし、ペニシアにいたってはマルクトへの選択にすべてをゆだねているだけにすぎない。どちらを選んでもその選択肢があっさり可決され、世界はそれにそったかたちで実行され、物語は終わりを迎えてしまう。この選択には事実上なんらかの重みは存在していない。むしろ重みが存在するのはこの物語の途中、たとえば、ひとびとがただ無邪気に発狂し、そして内臓をぶちまけて死んでいくときに流れていくシガー・ロスめいた美しい音楽に世界が彩られたときだろう。そういったひとかけらの演出だけがただその世界のなかで重みを持ち、わたしの胸にせまっていくんだと思う。わたしは「魔法少女まどか☆マギカ」を思いおこした。マルクトは人類の救済と進化の代償を性的虐待というかたちで受けもっていた。いっぽうでまどかは「魔法少女にならないこと」というかたちであらゆる犠牲をすりぬけ、そしてそれまですべての代償をしはらうかたちで全魔法少女の代償として別概念にシフトしてしまう。まどかのおこなった選択はマルクトのおこなったものよりもなお重い、けれどまどかにはその選択をおこなうというたしかな意志があったはずだし、逆にいえばマルクトにはその選択をたしかにおこなうという意志がなかったはずだと思う。それは、かんたんにいえばマルクトがけっきょくのところ「なにをどうしたらいいのかわからない」からだと思う。そして、重要なのは「なにをどうしたらいいのかわからない」ということなんだと思う。だから、この物語で問題となるのはじつのところマルクトが最後に選んだ答えではなく、その中途にある「なにをどうしたらいいのかわからないという状況」、さっきわたしがつかった言葉をくりかえせば、「世界はただそこにあるだけでグロテスクだ」という状況なんだと思う。かつてゴダールはイスラエルとパレスチナの和解の可能性を問われ、「イスラエルとパレスチナが、600万匹の犬を招いて、一緒に隣人として散歩し、互いに言葉は交わさず、犬のことしか話さないとき」とに中東の平和がおとずれると答えたらしい。この問いと回答が実効性を持つものかどうかをわたしは問題にしたいとは思わない。問題にするとすれば、その問いにこういう回答があたえられたというひとつの状況、およびそれによってわたしたちが獲得できるひとつの美しい感情だろう。ジョン・レノンはただベッドのなかで平和について語っただけで「あいつはなにをやっているのかわからない」と言われた。もちろんそうだと思う。ただひとによっては価値をあたえる箇所がちがうということは認識しておいたっていいじゃないかと思う。あらゆる問いがあらゆる答えを導き、あらゆる答えがあらゆる問いを導くというのであれば、もう世界なんていりはしない。


 12月17日(月)

 会社にいった。帰った。もち「天使のうつわ」をやった。


 12月18日(火)

 会社にいった。
 今日はわたしのチームの忘年会だった。ふつうに飲んで食べて帰った。ごくごくふつうだった。帰りにYTさんとふらふらと駅の近くの喫煙所までいって、「今日の飲み会の反省会」をやった。席取りはどうでしたかねとか、今日はうまく話せましたかねとか、そういうことを話していたら、その途中でなぜかK課長もやってきて、ふたりで課長に「飲み会は戦いなんですよ」と訴えた。いったいなにをやっているんだろうと思った。


 12月19日(水)

 会社にいった。帰った。もち「天使のうつわ」をやった。


 12月20日(木)

 会社にいった。帰った。もち「天使のうつわ」をやった。


 12月21日(金)

 会社にいった。帰った。もち「天使のうつわ」をやった。


 12月22日(土)

 もち「天使のうつわ」をやった。
 わたしはRPGツクールのゲームは「タオルケット」シリーズとか「B.B.ライダー」とかをおもに褒めているけれど、それは物語面や演出面でのことがおおくをしめていると思う。わたしはそればかりをとりあげて語るということがゲームについて語ることの最良の語りかただとは思っていない。ただ、そうわたしが思うことは、わたしがなにかを語るときに最良の語りかたを意識しているということではないと思う。わたしはわたしの語りたいことを語りやすいかたちでほとんど無邪気なやりかたで書いているだけで、論理的になるようつとめているわけではないし、わたしが語ったものをだれかにもふれてほしくて書いているわけではない。もちろん、たとえば、西尾維新が好きなひとで「タオルケットをもう一度2」のことをぜんぜん知らないのだとしたらそれはもったいないんじゃないかな、という思いみたいなものはつねにあるけれど、問題は、わたしが「作品」というものを求めるようなかたちでは他者は「作品」というものを求めてはいないということだと思う。それはいつだってしかたのない問題だと思う。わたしはもしもわたしを好きでいてくれるひと(というよりもおそらくはわたしが好きでいるひと)がわたしが好意をもって語った作品にふれてくれればそれはとてもうれしいし、もしもわたしを好きでいてくれるひとがわたしが好意をもって語った作品にふれてくれなくてもなんとも思わない、たとえばわたしがそう書いたとしてもそれがわたしにとってほんとうのことであるかどうかはわたしにもうまくわかることができないけれど、すくなくとも、わたしはその程度でありたいと思う。その程度でいいと、その程度、なんらかのものをふくんだものを愛せれば、わたしはもうそれでいいと思う。
 ということと「天使のうつわ」はまったく関係ないけれど、と「天使のうつわ」は傑作だと思う。かわいらしいグラフィックに反して戦闘バランスはなかなか厳しく、ザコ戦をふつうに戦うだけで2、3ターンめくらいには(回復をしなければ)ほぼ確実にだれかが死んでいる。敵の攻撃が運わるくだれかひとりに集中しただけでもう死ぬからHPが全快でもぜんぜん安心できない。わたしは基本的に極端なバランスのゲームはストレスがたまるだけでほとんどやらないけれど(「魔王物語物語」とか2秒でザコに殺されてやめた)、「天使のうつわ」はかなり絶妙なバランスでつくられていると思う。きちんとザコを舐めないでMPをきちんと消費して弱点をついて殺しにいくとか、ちゃんと補助魔法をつかって行動させないようにするとか、そういうことをすれば、ちゃんと2ターンほどですべてのザコは倒せるようになっているし、もっと重要なことに、MP回復のポイントも得られやすく、敵の弱点も効果のある状態異常も図鑑を見ればひとめでわかるようになっていて、「そういうこと」がきわめておこないやすくなっていると思う。ものすごくかんたんに言えば、このゲームはとてもていねいにつくられているということだと思う。くわえて、ドット絵もかわいらしくて、レイスアールなんてひとこともしゃべらないくせにそのあらゆるかわいさが「仕草」というものに凝縮されていて、ちょっと、すごいことになっていると思う。彼女はすべて記号で表現されていることに、その仕草のほとんどにおいて記号化をほとんどまぬがれていく。こういうことが実際おこなわれている作品というのは、わたしの知るかぎりではほぼないと思う。傑作だと思う。




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