スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

水中、それは苦しい20周年! ジョニー大蔵大臣40歳スペシャルバースデーライブ!!@渋谷O-EAST

2012.12.31(19:42)

手をかえ品をかえ手をかえ品をかえ
(2011/09/07)
水中、それは苦しい

商品詳細を見る

 12月23日(日)

 朝起きて、てってこてってこ電車にのって渋谷で管城さんと待ちあわせた。「お茶をしましょう」ということでぷくぷく歩いていったけれど、渋谷はたいへんにひとがおおくて、彼女は「ここがアメリカだったら銃を乱射します」と言っていた。ただひとがそこを歩いているというだけで! お茶をしましょうということだったはずなのに彼女はセブンイレブンのなかにはいっていって、どういうことだろうと思ったらセブンイレブン人しかはいれない秘密の通路を通っていってしまったのでどういうことだろうと思った。地上を歩いていたはずなのに階段を降りて、降りたらまた地上でそこには喫茶店があって、いったいどういうことだろうと思った。なんらかのことを話して喫茶店をでて、それからカレーパンを買って食べながらO-EASTに向かった。その日はジョニー大蔵大臣の誕生日ライブで、O-EASTとはとてもとても思えないくらいにひとがいなかった。1Fなのにふつうに椅子がおいてあって、わりと開演間近の時間だったにもかかわらずふつうに座れた。ずっとまえにジョニー大蔵大臣のライブにいったとき、「1300枚チケットありますけれど、あと1200枚くらいはあまっています」と言っていたのもさもありなんと思った。彼はでてきて「この場所を押さえたとき、僕は頭が狂っていたんだと思います」といきなり言っていた。ふつうはこの規模のライブハウスは事務所をとおしておさえるらしくて、個人でおさえたのは史上初だと言っていた。でも最初思っていたよりもわりあいだんだんとひとが増えてきてよかったよかったと思った。
 最初は猫ひろしだった。おもしろかったと思う。あとは、ふつうのバンドとかふつうじゃないバンドのひとたちだったりした。ジョニー大蔵大臣のお父さんがでてきて、ふつうの手品をやっていた。あとはアイドルのひとたちもいた。ジョニー大蔵大臣に開墾を手伝ってもらったと言っていたけれど、わりあいちょっとよくわからなかった。千原せいじがやっているバンドもきていて、彼はなんだかほとんどやくざみたいだった。わたしのめあてはジョニー大蔵大臣と大森靖子で、大森さんは4番めくらいでちょうかわいかった。大森さんは4番めくらいでちょうかわいかった。大森さんは4番めくらいでちょうかわいかった。水中、それは苦しいは最後で、たのしかった。彼らはどうしてあんなにこの世界にとってなにひとつ役にもたたない歌をつくってうたえるんだろうと思った。彼らのまじめさのありかたというものすらすでにはかることはできないし、きっと、まじめであることがまじめであると受けとられないとき消失するのは彼らではなく、彼らをはかる価値観なんだと思うし、価値観なんてものは、だいたいつねにぐるぐる回転をつづけているくらいでいいんだと思う。
 アンコールまえに管城さんは「しゅうでんがー」と言って消えていった。かわいそうにと思った。クリスマスプレゼントにかわいいお財布をもらってうれしかった。わたしはなんにもあげなかったから今度死のうと思った。帰った。
 管城さんと待ちあわせるまえに本屋さんにいって「メフィスト」を立ち読みした。今回のメフィスト賞にわたしは応募していて、ふつうにまったくの選外だった。コメントに「望めるなら少しだけでもエンタメの方向に…」と書いてあった。重要なのは「望めるなら」という微妙な言いまわしだとわたしは思う。それは、あるいは望めないとなかば思っているように見えるし、わたし自身も望めない。ただ、「世界はわたしの顔面を見つめている」という作品はエンターテインメントであったとしてもわたしはべつにいいと思うし、そもそも、純文学的な長編小説はカフカやジョイスやプルースト、あるいはベケットやブランショみたいに明確にとくべつな書きかたをしていないかぎり、つまり、小説の軸を「物語」に置くというやりかたをとろうと志向しているかぎり、エンターテインメントに接近していくと思う。村上春樹「1Q84」やオースター「ムーン・パレス」や水村美苗「本格小説」がどうであってもいいはずだと思う。わたしが思う問題はただそれがエンターテインメントではないといういってんだけできりわけられていくことだと思う。すくなくとも、そこに論理はないだろう。そして、たんじゅんな話として、エンターテインメントは論理的だと思う。「彼はこうだからこうである」という線がとてもぴったりしていて、そのいっぽうで、純文学と呼ばれているものはそうではないように見える。たとえば、おそらく柴崎友香の小説には論理と呼べるように見えるものはひとかけらもふくまれていない。彼女が描いた街なみが彼女が描いた人物にとってどのように見えていても、彼女が描いた人物がそこに発生した行為についてどのように思えていても、それは「そう見えた」というだけのことでしかないし、「そう思えた」というだけのことでしかない。そして、それは反論理的であるわけでもない。彼女に比較すればよっぽどゴダールのほうが論理的だと思う。それにもかかわらず柴崎友香よりもゴダールのほうが純文学的、あるいは純芸術的だと考えてしまうとしたら、それは「難解なものが芸術だ」という誤解を持っているからで、もしかしたら、「ゴダールの論理をただたんに理解できていない」というだけのことかもしれない。「難解さ」みたいなものにもおおくのベクトルがあって、「そこにある論理的なつながりが理解できない」とか「論理が見あたらない」とかいろいろあるはずだと思う。だから「難解さ」はかならずも反論理と結びつくものではないし、論理性を線的なパラメータで評価しようとする方法からしてまちがっているかもしれない。パラジャーノフの映画を見て「難解だ」と思うのであればそれはおそらくそこに論理が描かれていないからだと思う。ただ、論理のつながりや発生をとおしてそこに描かれたことがらを理解したり享受したりすることがそれらの作品の見方としてかぎられているわけではないし、その逆が感覚的だというわけではないはずだとは思う。


 12月24日(月)

 犬と猫「レミュオールの錬金術師」をやって、そうしたら、日が暮れていた。


 12月25日(火)

 会社にいった。帰った。犬と猫「レミュオールの錬金術師」をやった。クリスマスだというのにずっと水を売ったり小麦粉を売ったりしていた。


 12月26日(水)

 会社にいった。帰った。犬と猫「レミュオールの錬金術師」をやった。


 12月27日(木)

 会社にいった。帰った。犬と猫「レミュオールの錬金術師」をやった。


 12月28日(金)

 会社にいった。帰った。犬と猫「レミュオールの錬金術師」をやった。

 
 12月29日(土)

 犬と猫「レミュオールの錬金術師」をやめた。実質やっていることは商品をクリックして、それからクリックをしているだけなんだけれど、どうして何十時間もそんなことができるんだろうと思った。ほとんど自動仕入れにしてお店に商品をならべて、そして所持金が際限なくあがっていくさまをぼうっと見ていると「よのなかはおかねじゃないよね…」と思う。


 12月30日(日)

 マテンロウ計画「停滞少女」をやった。おもしろかった。


 12月31日(月)
  
 夕方くらいに起きて、なんだかひさしぶりにドトールにいって日記を書いて、それからプーシキンを読みながら電車にのった。実家に帰った。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/1065-535f23fe
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。