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ひとつのおおきな花のまわりにわいたぶつぶつした奇怪な芽のようなもの

2013.01.20(23:57)

魔法少女まどか☆マギカ 6 【完全生産限定版】 [Blu-ray]魔法少女まどか☆マギカ 6 【完全生産限定版】 [Blu-ray]
(2011/09/21)
悠木 碧、斎藤千和 他

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注 「魔法少女」
  「魔法少女まどか☆マギカ」
  以上の物語について結末をふくめて言及しています。


 1月20日(日)

 TS「魔法少女」をやった。
「魔法少女まどか☆マギカ」について、わたしはまどかたちが根元的に悲劇的であるのは「敵の不在性」だと言ったと思う。悲劇の円環構造をなしているのはたしかにワルプルギスの夜ではあるけれど、ワルプルギスの夜を倒す方法はまどかを犠牲とするやりかたしかありえず、それを受けいれることができないほむらはその解決をよしとしないで、時間をまきもどしてしまう。たしかに悲劇的なのは「魔女」ではなく「魔法少女⇒魔女」となるプロセスであって、それができあがってしまったシステムではどうあがいても彼女たちがしあわせになる手段は存在しない。ただ、おそらくそのシステムを無期限に留保しているのはまどかが死ぬたびに時間をまきもどしていたほむらであって、べつの観点にたてば、「魔法少女⇒魔女となるようなシステムを内包した世界」をもっとも肯定的に行為していたのもほむらということになるだろう。ほむらのやっていたことは、彼女自身意図していないとしても、インキュベーターたちの目的に適っているし、その意味でシステム改変後にほむらとインキュベーターが妥協的なかたちではあるものの和解しているのは象徴的ではあると思う。この物語は「敵の不在性」ゆえにまどかがシステムを改変することで終わりを迎えている。「敵の不在性」ゆえにまどかはシステムを「最終的な敵」と見なして物語に決着をあたえたけれど、可能性としては、ほむらを「最終的な敵」と見なして決着をあたえるやりかたもありえたはずだ。物語ではその終わりかたも示唆されている。ほむらがまどかを救うことをあきらめ、時間をまきもどすことをやめたならばほむら自身は魔女になってしまいまどかたちもワルプルギスの夜に殺されたかもしれないけれど、いちおうの決着はつくはずだった。悲劇的なシステムにグロテスク性をつけくわえていたのがほむらだったとしたら、すくなくともグロテスク性を排除するというかたちでの決着もありえたはずだった。それは彼女たちが、ほむらがつむいだ円環としての日常のありかた、「魔法少女⇒魔女」というシステムとしてのひとつのありかた、そのふたつのありかたがかさなりあったという意味で「終わりなき日常」を生きているということだと思う。「魔法少女まどか☆マギカ」が特徴的なのは、そのふたつの日常のありかたになんらかの希望を見いだすことすらも拒否しているということだ(「魔法少女まどか☆マギカ」という物語はまどかたちが住むちいさな街のなかですべてのものごとがおこなわれていて、そのそとに逃げだすということがまったく考慮されていない。だから、ワルプルギスの夜がやってくる、そしてそれを倒せないことは彼女たちにとって世界の終わりとひとしいかたちであたえられる。一般のひとびとにはワルプルギスの夜は巨大な自然災害としてうつるから、それをたとえば「津波」みたいなものとしてとらえなおすこともできるだろう。「くるとわかっている『津波』をどうとめるか」という物語としてとらえなおしたとき、この物語の異常性があらためてあきらかになるように思う。そんなものは最初から逃げればいいだけの話だ)。そして、そのいっぽうで、わたしの考えだとチェルフィッチュや濱口竜介らは多重にかさなりあった日常のなかで発露する一瞬の貴さを描いている。彼らがおそらくはあるものごとにたいして肯定的であるのは、つまるところ世界システムがどんなに悲劇的であったとしてもそのなかでにんげんの行為、あるいは行為と呼べもしないかすかなものに、細分化された希望をどうしようもなく見いだしているからだ。「魔法少女まどか☆マギカ」にはすくなくともその視線はない。「まどか☆マギカ」は究極的には「なにを『最終的な敵』とするか」を問いつづける物語であって、そこに細部は描かれない。たとえばおそらくは細部である美樹さやかの恋愛も世界システム的な範疇のなかで描かれる。本人の言葉で言えば、彼女が恭介に思いをうちあけられなかったのも彼女自身が魔法少女化(実際すでに死んでいる)したからだし、その恋愛の結果としても彼女自身が魔女化するという一連の世界システムのまさしく体現としてあらわれざるをえない。わたしはまどかたちがしあわせになれない理由に「敵の不在性」をあげたけれど、むしろ、その裏側には、彼女たちが「最終的な敵」をなんらかのものに求めてしまうからということもあるかもしれない。そして、世界はいつだってなんらかのものを「最終的な敵」として規定してそれを打倒することをなんらかの解決としてもたらすとはかぎらない。
 TS「魔法少女」というゲームは「魔法少女まどか☆マギカ」とほとんどおなじ内容でもってほとんどおなじ時期に作成されている。「魔法少女」では主人公、千代子の住む街に突如としてワームホールがつくられ、そこからバイオモンスターという未知の生物が襲来してくる。バイオモンスターはべつの惑星から送りこまれたモンスターで、それらを倒せるのはべつの惑星からやってきた異星人(フィー、タウ)に選ばれた魔法少女たち(小学校高学年から高校生、おおくは中学生)だけだ。彼女たちはべつの惑星の技術で魔法少女(マジカロイド)としてワームホールが閉じる1ヶ月間戦いつづけることを決意する。「まどか☆マギカ」と比較して語るのであれば、このゲームでもやはり「敵の不在性」がきわだっている。彼女たちが戦う相手は根本的に「最終的な敵」は不在であって、彼女たちはただやってくる「ふつうの敵」を受動的に倒していくしか手段がなく、終わりは「1ヶ月」という時間的な期間しかない。問題は彼女たちに時間的な解決手段しか提示されていないというてんで、たとえば「エヴァンゲリオン」がそうであったように、「通常のやりかたでは勝てない敵」(しかも「最終的な敵」ではまったくない)の登場を機に悲劇的になっていく。最初は「鳥型」とか「蛙型」とかごくごくふつうのよわい敵で、そのあたりまでは「まどか☆マギカ」と同様に通常の「魔法少女もの」とおなじような展開を見せている。性格的にまわりから浮いていた主人公の千代子は「友達が増えてうれしい」とすら言っているし、魔法少女(マジカロイド)になることを肯定的にとらえている。ここまでが「まどか☆マギカ」でいえばマミが死ぬまでの行程をなぞっている箇所だと思う。マミが死んでからの行程は「人型」登場以後からなぞることになる。「人型」と戦ったとき、主人公千代子はじつの母親を巻きこんで大技をつかい、結果的に母親をその手で殺してしまう。仲間のひとり、八島唯は魔法少女(マジカロイド)のちからをつかって街に住んでいる性質のわるい銀行強盗や暴力団員たちを殺害しはじめ、その行為を危険視した異星人(フィーやタウ、千代子たちを魔法少女(マジカロイド)にしたひとたち)は仲間のひとりをつかって彼女を殺害しようとする。このあたりから「そもそもワームホールをつかってバイオモンスターたちをこの街に送りこんできているのはいったいだれか」といった問題がおもてにでてきて、異星人に疑いがかかる。異星人はふたりいて、どちらも出身の星がちがい、彼らは「おまえの星の連中がやったことだ」とおたがいを疑いはじめる。さらに、異星人が彼女たちを魔法少女(マジカロイド)にしたシステムの本質的な意味も暴露される。魔法少女(マジカロイド)とバイオモンスターとはほとんど存在としては変わりなく、彼女たちも意味的にはバイオモンスター化されていた。魔法少女(マジカロイド)のシステムとは彼女たちに「とくべつなちからをあたえる」というものではなく、「完全に理性を失うバイオモンスターになる直前でその生成を抑止する」というものだった。彼女たちが倒してきた「人型」がもともと彼女たちとおなじただの一般人であったことが明らかになる。これを機に千代子たちと異星人たちの関係は悪化し、たがいに疑心暗鬼にとらわれる。「魔人型」の登場によって事態はさらに悪化し、千代子の親友の遙が「魔人型」によって惨殺され、千代子は発狂してしまう。仲間たちも「魔人型」のつよさに絶望し、一部の仲間をのぞいて戦線離脱してしまう。治癒能力を持ったリリーはちからのつかいすぎで失明する。それでも、彼女たちはなんとか1ヶ月を戦いぬく。千代子はそこで「ワームホールをつかって異星にいき、真犯人と対峙する」と決断する。そのあとは実際に異星にいき、これ以降は、いろいろな悲劇や葛藤もあるが比較的王道的な展開をとって、黒幕を倒して終了となる。
 この物語は、すぐにわかるように「魔法少女まどか☆マギカ」と酷似している。魔法少女(マジカロイド)を魔法少女、バイオモンスターを魔女、異星人をインキュベーターとして考えれば、物語の筋はほとんど一致しているといっていいと思う。問題は、というよりも、わたしが問題だと浮かびあがらせたいのは、「魔法少女まどか☆マギカ」と「魔法少女」という作品ではなにがちがうかということだ。わたしは「魔法少女」という作品は「まどか☆マギカ」よりも現実的だと思う。「魔法少女」で千代子たちがやろうとしていることはどこまでも現実的な範疇におさまっていて、「まどか☆マギカ」でなしたようなシステムの改変は見られない。「魔法少女」でも最終的に千代子は絶対的なちからを体得し、そのちからをつかえば時間をまきもどすこともでき、そのちからによって「魔人型」に惨殺された遥を生きかえらせることも可能だと言われるけれど、エンディングで彼女はそれを拒否する。かんたんにいえば、「魔法少女」という作品は「エヴァンゲリオン」や「まどか☆マギカ」でなされた「敵の不在性」という要素を内包しながらなお、「最終的な敵」を「現実的」に見つけだし打倒するという王道的な展開に回帰するという方法をとっている。それはすくなとも「エヴァンゲリオン」や「まどか☆マギカ」を見てきたわたしにとっては衝撃的なことに思えた。それを可能にしているのは主人公の千代子という特異なキャラクターだと思う。千代子というキャラクターがどういう性格をしているかということを説明するのはむずかしい。それは、「性格が充分に描かれていない」ということではまったくなくて、むしろ「性格が深く描写されているぶん、うまく書くことができない」ということだと思う。それについてわたしは作者がきわめてすぐれているということしか言えない。それでも、わたしはどういう性格をしているかをすぐに説明できるキャラクターよりもどういう性格をしているかをすぐに説明できないキャラクターのほうが好きだと思う。「まどか☆マギカ」の物語の特異点はまどかが魔法少女にならないこと、言いかえればまどかが魔法少女になることそのことじたいに重要性がおかれていたのにたいして、「魔法少女」で千代子は最初から率先して魔法少女になる(ほんとうに厳密にいえば、千代子たちが最初になったのはマジカロイドというもので、彼女たちは物語の最後の最後に絶望的な状況におちいったときに「魔法少女」にようやくなって最後の敵にたちむかう、ということになるのだけれど、「まどか☆マギカ」ほどに「魔法少女になる」ということへ重きがおかれているわけではないので、ここでは無視する)。ここで気にかかるのは千代子がなんらかの責任を解決するようにたちまわっていることだと思う。彼女が「人型」を倒すために母親を殺すとわかっていながら大技をつかったとき、彼女は親友の遙から叱咤される。千代子はそれについて「あのときはあれしか手段がなかった。わたしがやられなければ街のひともみんなも死んでいた」ときわめて現実的に説明する。わたしが気にかかるのは彼女の現実性についてで、魔法少女(マジカロイド)という非現実的な世界のなかでなお、彼女はひたすら現実的であろうとする。思えば、八島唯が性質のわるい一般人を殺害しはじめたことも現実に根ざしたところでおこなわれていて、その現実性は、いいかえれば土着性は「まどか☆マギカ」ではおそらく意図的に排除されている。システムができあがってしまっている「まどか☆マギカ」の世界では現実性はほとんど価値がなく、非現実性だけが問題になっていくからだ。「魔法少女」が「まどか☆マギカ」でおこなわれたこととは別種のグロテスク性を発露していると見るならば、その根底には「まどか☆マギカ」では見られなかった現実性、くりかえしていえば、それはどことなく地に足がついたような土着性が見られるからだと思う。千代子が母親をその手で殺したあと、彼女は遙の家の養子となる。その展開はおそらくは「まどか☆マギカ」のような「世界」だけが問題になっている作品ではでてこないと思う。それは、「まどか☆マギカ」では、戦い以外の日常生活をどう生きるかという現実的問題はまったく無視されているからだ。この現実性は「魔人型」に惨殺された遙というキャラクターがうまく体現している。彼女と千代子の関係をレズビアン的な関係として見ているひともいるけれど、おそらく遙はそうではなくもっと千代子を欲望的に、べつの言いかたでいえば物質的に見ていると思う。遙は千代子を自分のものにしたい、彼女の庇護者としてありたいけれど、千代子はずっとずっとさきに進んでしまう。千代子が母親を殺したときに遙が千代子を叱咤したのは、もちろん彼女自身の千代子の母親への思いもあったろうけれど、むしろそれによって千代子自身が傷つくことへの強迫観念みたいなものがあったと思う。千代子がバイオモンスターによって負傷したとき、ちからのつかいすぎでよわっているリリーにたいして、遙は「いま治療しないと殺す」とまで言いきっている。ここにあらわれているのはおそらく千代子にたいするゆがんだ欲望であって、たんじゅんな青春や恋愛めいた感情ではないと思う。その関係は千代子たちが課された「魔法少女対バイオモンスター」というシステムにおいて、直接的な関係はない。直接的関係がないからこそ、それはよりいっそうグロテスクなんだと思う。ひとつのおおきな花のまわりにわいたぶつぶつした奇怪な芽のようなもの、そういうもので「魔法少女」の世界は、世界自身が気づかないようなやりかたでおおわれているように見える。ここでわたしが気づくのはにんげん的な欲望に根ざしたグロテスク性で、それは、たとえば「まどか☆マギカ」が特異な魔女の結界の耽美的映像のなかに本質的におおいかくしてしまった部分だろう。ほむらがまどかに抱く感情は遙が千代子に抱く感情に酷似しているように見える。ほむらにとってまどかだけがとくべつで、すくなくとも美樹さやかにたいしてはきわめて冷淡だ。ほむらは実質、美樹さやかが魔女になることを黙ったまま見のがしている。それは、美樹さやかが魔女になることをとおしてまどかに魔法少女になることを積極的にあきらめさせようとした意図もあるだろう、どうにもならないことだとあきらめていたこともあるだろう。けれど、基本的にまどかいちばんの親友であるさやかにたいしての嫉妬がなかったとも言えないと思う。ほむらはまどかのとくべつになりたかったのであって、そして、最終的にその願いはかなう。まどかは「ほむらちゃんはわたしのさいこうの友達だったんだね」とほむらに告げる。わたしはそれは欺瞞だと思う。すくなくとも世界のあらゆる魔法少女を救ったまどかがほむらにたいして順位づけをするのは世界的に夢見るかたちでしかありえないだろう。あれはほむらの願望の具体化にすぎない。ほむらだけがまどかを覚えていることもそうだ。もっとおそろしいことをいえば、最後にかなったのは「まどかの願い」ではなく「ほむらの願い」だったかもしれない。
「まどか☆マギカ」の物語についてどう言おうと、それはそれぞれの解釈にすぎない。ある物語について「隠された本質的な意味」を見いだすことに価値を感じているわけでもない。けれどそこにはなんらかのグロテスク性がおおいかくされているはずだと思う。そして「魔法少女」はそこを根本的に暴きだしている。その意味だけでも、わたしは「魔法少女」という作品はもっと積極的に評価されていいはずだと思う。




コメント
なるほど、そんな興味深いゲームが存在するのですね。私が健康で職についているのならやってみたいゲームです。今の私は発病以来23年にもなるのにいまだに作業所にも行けず、通院と自宅静養を繰り返す日々ですから。内職はしてますが、月5千円ですからねえ。作業所に通所できれば月に1万円もの大金が手に入るのですが・・・。あ、「月」ですよ、「週」じゃありません。
それはともかく、「まどマギ」における敵の不在ですか。私自身は敵はいないけど、不条理な、もしくは過酷な現実はあると思うのですが。その象徴がインキュベーターが関わる魔法少女ルールだと考えています。
・・・いや、23年も障がい者やってると23年間悪い意味で時間が止まって苦しいんですよ。23年間、自分だけほむらのように足踏みしてる気分・・・。
【2015/05/25 00:55】 | ぐっしい #- | [edit]
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