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作品を親和する暴力

2013.01.19(21:59)

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(2010/04/23)
アリソン・ローマン、ジャスティン・ロング 他

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注 「B.B.ライダー」
  「正義の味方ギガトラスト」
  以上の物語について結末をふくめて言及しています。
  とくにこれらの作品の物語を事前に知ることは
  おおくの場合プレイ時のたのしさを激減させます。


 1月1日(火)

 実家で寝ていた。起きてお雑煮を食べて、「カイジ」を読んだ。


 1月2日(水)

 実家で寝ていた。そのあと親戚のうちにいってすき焼きを食べて、帰って寝ていた。あとの時間はだいたい「カイジ」を読んでいた。


 1月3日(木)

 TNとYNとMAとKMととてもひさしぶりにあって、飲み会をした。焼き肉だった。網のうえにお肉がいっぱいのっていた。KMに「なにしてんの?」と訊いたら「かぶとむし育ててる」と言った。そうなんだと思った。たのしかった。帰った。
 眠ろうと思ったけれどやめてサム・ライミ「スペル」を見た。ほとんどギャグと変わらない圧倒的なB級感覚のすばらしい映画だったと思う。


 1月4日(金)

 父親が「無線LAN…無線LAN」とぶつぶつ言っていたので無線LANした。そのあとアパートへもどった。ゴリッチュ「正義の味方ギガトラスト」をやった。


 1月5日(土)

 ゴリッチュ「正義の味方ギガトラスト」をやった。


 1月6日(日)

 ゴリッチュ「正義の味方ギガトラスト」が終わった。
「短編」だと明記してあったからすぐに終わるだろうと思っていたけれど3日やりつづけてようやく終わった。とてもとてもすばらしい作品だったと思う。
「B.B.ライダー」の作者がつくったゲームで、「B.B.ライダー」でやらなかったことをおおくやっていて、そして、そのぶんおそらくこの作品は失敗していると思う。アダルトゲームを意識しているぶん、主人公の塩彦は冒頭からハーレム状態におかれて、ライザー、雛子、ラゼットからかなり直接的な好意を受け、その枠からはずれていた黒耀もその枠からはずれていたがゆえに後半はメインヒロインとして立場を確立していく。このゲームはルートが分岐するものではないため塩彦は結果としてその女の子たちのなかからだれかを選んでいくしかないけれど、各話によって分断された状態にあるために、同時に各話によってその都度だれかをメインヒロインとして据えていくことができている。1話、2話でいえばそれはたしかにライザーであって、ユーリが襲撃した回ではそれはラゼットであったりしたと思う。ただ、作者は「B.B.ライダー」が結果として最後の最後で手放した物語の収束、言いかえれば、つまりはたんじゅんできれいさっぱりとしたハッピーエンドを「ギガトラスト」ではおそらくやろうとしていて、だれかとだれかの思いがたがいに重なりあわなければいけないハッピーエンドでは塩彦は各話のたびにヒロインを変遷していく立場に最後まで立ちつづけるわけにはいかない。2話でその時点での事実上のメインヒロインとしての立場にたったライザーは話が糖姫へと変転してからあからさまに出番を失っていき、その埋めあわせをするようにギャグ的な要素を露出させていき、ときには敵対し、塩彦とのヒーロー・ヒロイン的関係が役割的に終わって以降は白陰との絆をあきらかにさせていく。ハッピーエンドの片割れとしての役割をおった黒耀とのつながりを求める意味でラゼットは登場し、そして、結果として死んでいく。唯一関係性をはっきりさせない雛子については、終盤の種あかしの際にようやく立場をあきらかにし、過去編のメインヒロインとしてその役割を確立するとともに、塩彦の過去と現在をつなぐ、ある意味超越的な存在としての立場があかされる。
 この作品ははっきりいって西尾維新の亜流にすぎない。こういう作品のありかたは西尾維新「戯言シリーズ」ですでになされているとわたしは思う。けれど問題はやはり「正義の味方ギガトラスト」が西尾維新と比較してもなお、どういう作品でありえるかということだと思う。
 この物語の伏線のはりかたやそれを回収させるやりかた、探偵小説ではないものの叙述トリックやいれかわりトリックをつかって読者をだますやりかた、そしてたんじゅんにプレイヤーに涙を流させるやりかた、そういうさまざまなやりかたを見たとき、わたしの知るかぎり、ほとんどいまあるどんなエンターテインメントよりもよくできていて、なおかつ「おもしろい」と思う。それはたんじゅんな意味で登場人物と物語がかなり密接にかかわりあっているということだと思う。「脇役がひとりもいない」というのはこのゲームによく言われているように見えることだけれど、実質的な意味で、「脇役がいない」ということはどういうことだろうか。ひとつは、「どんなに些末に見える登場人物であったとしても、じつはだれかひとり以上の登場人物とつよい相関関係をもっている」ということで、もうひとつは、「どんなに些末に見える登場人物であったとしても、じつは物語上で重要な立場にある」ということだと思う。作者はほとんど妄執的とも見えるやりかたでそれをおこなっている。たとえば、八津賀は当初はただ公園に住んでいる浮浪者としか見なされていなかったけれど、過去編の重要な登場人物、琥珀であることが終盤であかされ、同時に、白銀であったことがあかされるユーリとつよい結びつきが発言される。これはもっともたんじゅんな例であるけれど、この例は、作品中で随所に見られている。
 森博嗣は自身の探偵小説の書きかたとして「まず事件を起こす。そしてそれを自分で解いてみる。それでどうしても解けない謎がのこったら、その謎についての部分は削除する」とどこかで書いていたと思う。ここにはかなり根本的な転倒が見えるように思う。そして、その転倒は物語の書き手である作者、物語の読み手である読者という二項対立のなかで神秘的に作用している。重要なことは、読み手が森博嗣の探偵小説を読んで「だまされた!」と思ったとき、おそらく読み手はそんなことは意識しないとしても、二重の意味でだまされているということだと思う。ひとつはたんじゅんに作中のトリックにだまされ、そしてもうひとつは、そのトリックが正当的、無矛盾だと思わされているという意味で。けれど、おそらくは読み手がそう感じるのは探偵小説に内在された神話への希求のようなものだろう。そのトリックが無矛盾であるというのは、ただたんに作者が矛盾することがらを後天的にとりのぞいたというだけでしかない。そのトリックが無矛盾性を内在しているのではなく、ただたんにそのトリックが非矛盾的であるというだけのことだ。森博嗣の書きかたは内在的に後期クイーン問題とかあやつり問題(その事件の犯人がその人物であるということを作中で証明することはできない)という問題をはらんでいるように見えるけれど、それは、形式的であるとすればするほど決定不可能性を露呈するはずのコンピュータが見た目には正常に動いているとわたしたちが認識しているように、表面的な問題ではおそらくないんだろう。森博嗣についてだまされている(それはすでに「だまされている」という表現で呼べるものではないけれど)のとおなじ作用が、おそらく「正義の味方ギガトラスト」をやって「脇役がいない!」と思ったひとに働いているように思える。「正義の味方ギガトラスト」の作者がこの物語を構成するうえでおこなったことは森博嗣がおこなった「どうしても解けない謎がのこったら、その謎についての部分は削除する」ということと本質的にはおなじことだと思う。森博嗣は「謎を削除した」けれど、この作者は「人物を削除して」いる。うえにあげた例であれば、作者は八津賀と琥珀、ユーリと白銀が同一人物であることをあかしているけれど、これは「脇役としての八津賀、ユーリ」を削除しているということだと思う。作者はこのやりかたを徹底している。エクスカリバーはライザーと白隠、ハガーマンは雛子、オメガダウトは塩彦であり糖姫、塩彦の兄は麻男と、各キャラクターの同一性をあかすことで脇役を徹底的に削除している。「正義の味方ギガトラスト」という作品はこの意味で「脇役がいない」作品ではなくて「脇役が排除された」作品なんだと思う。この作品をやったひとはそこにだまされていると思う。「脇役」はたしかにいた、けれどそれは作者によって巧妙に削除されて、もうすでに見えなくなってしまっただけのことだと思う。
 たしかに作品としては西尾維新の亜流にすぎないつくりをしているけれど、この作品が根本的につきぬけているのは、物語と登場人物をほとんど暴力的、あるいは殺人的ににつきあわせているところだと思う。それはじつは森博嗣の書きかたがそうであるように純建築的ではなく、むしろ暴力的なやりかただと思う。登場人物を好きな場所に配置し、巧妙な「脱力」と人物的魅力で小説を書くことができる西尾維新とは、そのてんで決定的にことなっていると思う。
 この作者のこの暴力性は「B.B.ライダー」では見られなかったもので、「正義の味方ギガトラスト」であらたにでてきたことだと思う。けれど、おそらくその暴力性は塩彦と黒耀のふたりをとらえてはいないと思う。個人的にいちばんすばらしいと思ったのは過去編のラストの塩彦と雛子の関係性が提示された瞬間であって、それ以降はどことなくおぼつかない感覚さえあった。それはハーレム状態のうらがえしとしてできたであろう塩彦の貧弱な性格であって、そして、すくなくともわたしにとって人物的にまったく魅力のない黒耀の物語へと収束していく過程だと思う。各話ごとにメインヒロインを変えていく構成をとったこの物語では塩彦は各話ごとにメインヒロインを変えていけるような性格づけをせざるをえなかったんだと思う。そのせいで「B.B.ライダー」においてニトスとロウリィという1対1のたんじゅんにおたがいを思いあう関係であった、ニトス、ロウリィにはっきりとした性格づけをあたえる要素が消えているように思える。物語の構成としては、ニトスも塩彦も記憶喪失者で、過去のできごとがあかされることで物語はおおきく動く。その過去があきらかにされる仮定で重要な人物がでてくる必要があって、「B.B.ライダー」の場合それはマギスン、「ギガトラスト」の場合は雛子だった。前者の場合、事実上マギスン=ロウリィであるというやはり暴力的なまでのやりかたで過去から現在へ至るまでのニトスの、こういってよければプレイヤーからの感覚としての同一性を保持させたのにたいして、後者の場合、過去編では雛子、現在編では黒耀と分裂している。そして、物語のすべてが黒耀をメインヒロインとして確立するように動いている現状として、塩彦は黒耀を選ばざるをえないし、それをハッピーエンドとして規定せざるをえない。作者はやろうと思えば雛子=黒耀とすることもできたはずだと思う。やろうと思えばなんだってやることができなければすくなくともこの作者にとってすでにそれは作者ではないという認識としてうつるだろう。おそらくは雛子と黒耀の分裂を埋めあわせるものとしてエンディングで「家族」という関係が生まれたんだと思う。「家族」というのは無矛盾であって、そして遠くへとすぎさっていってしまった、もうその手にとることができないひとつの帰結ということだ。どんなに遠くはなれていってしまっても、わたしはそれをただ見つめつづけることしかできない。


 1月7日(月)

 会社にいった。おそろしいことに、会社にいってしまった。
 TS「魔法少女」をやった。 

 
 1月8日(火)

 会社にいった。おそろしいことに、会社にいってしまった。
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月9日(水)

 会社にいった。おそろしいことに、会社にいってしまった。
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月10日(木)

 会社にいった。おそろしいことに、会社にいってしまった。
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月11日(金)

 会社にいった。おそろしいことに、会社にいってしまった。
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月12日(土)

 会社にいった。土曜日だというのに! おそろしいことに! 会社にいってしまった!
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月13日(日)

 そとにでなかった。
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月14日(月)

 そとにでなかった。
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月15日(火)

 会社にいった。おそろしいことに、会社にいってしまった。
 TS「魔法少女」をやった。 
 

 1月16日(水)

 会社にいった。おそろしいことに、会社にいってしまった。
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月17日(木)

 会社にいった。おそろしいことに、会社にいってしまった。
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月18日(金)

 会社にいった。おそろしいことに、会社にいってしまった。
 TS「魔法少女」をやった。 


 1月19日(土)

 そとにでなかった。
 TS「魔法少女」をやった。 




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