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漂白される無限交換可能性

2013.03.09(22:44)

内省と遡行 (講談社学術文庫)内省と遡行 (講談社学術文庫)
(1988/04/04)
柄谷 行人

商品詳細を見る


注 「OtoZ」
  以上の物語について結末をふくめて言及しています。


 2月1日(金)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「昴の騎士」をやった。


 2月2日(金)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「昴の騎士」をやった。


 2月3日(土)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「昴の騎士」をやった。


 2月4日(日)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「昴の騎士」をやった。


 2月5日(月)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「昴の騎士」をやった。


 2月6日(火)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「昴の騎士」をやった。このゲームのいちばんすばらしいところはなによりもアルネが異常にかわいいということだと思う。傑作だと思う。


 2月7日(水)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「OtoZ」をやった。


 2月8日(木)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「OtoZ」をやった。


 2月9日(金)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「OtoZ」をやった。


 2月10日(土)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「OtoZ」をやった。


 2月11日(日)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「OtoZ」をやった。


 2月12日(月)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「OtoZ」をやった。「魔法少女」や「昴の騎士」と比較するとグラフィックの稚拙さがめだつけれど、それをさしひいてもやはりおもしろかったと思う。「えるまに」ではちがうけれど、この作者の描いている人物はかなり特異だと思っていて、それは、たとえば「OtoZ」ではチャコ、「昴の騎士」ではシリウスやティエラ、そして「魔法少女」においては千代子にもっとも端的にあらわれていると思う。わたしがこれらの人物を好意的に思う理由は、けっきょくのところ「彼らがいったいなにを考えているのかわからない」ということだと思う。
 ふつう、その「わからなさ」というのは作者の人物造形の稚拙さに由来すると思う。けれど、おそらく「OtoZ」や「昴の騎士」ではそうではないはずだ。たとえばわたしは「Moon Whisle」にでてくるXレンジャーがなにを考えてそういうことを言えてしまうのかがわからない。そしておそらくわたしがXレンジャーがなにを考えているかわからないということはほとんど絶望的なように思う。わたしは樹木や石ころがなにを考えているのかわからない。Xレンジャーがなにを考えているかわからないとわたしが言うときの位相は、樹木や石ころがなにを考えているわからないというときのそれとほとんど一致していると思う。つまり、そこにはにんげん的なものはなにひとつ発現していないということだと思う。おそらくはわたしは、樹木や石ころ、あるいは雨ふりや雪や陽の光というものを愛することはできないにんげんだと思う。根本的にそれらに無関心だし、それらのなかに積極的に美しさを見いだすという行為に自分をかりたてることはできない。わたしがそれらの美しさにかりに言及するときにはあきらかにそれはそれらを美しいと思うにんげんの美しさへの憧れだと思う。わたしが樹木を美しいと言ったときにはわたしは樹木を美しいと言っているわけではない。わたしはただ樹木を美しいと言ったわたしを美しいと言っているにすぎないだろう。そのまんなかにはあきらかに空虚なものがあって、そう言うとき、わたしは実体的な樹木を見ているわけではない。それは樹木ではなくもいいからだ。石ころでも雨ふりでも、べつになめくじやごきぶりであってもいい。空虚なものはそこに発生している無限交換可能性みたいなものに由来していて、このとき、言葉、そして美しいものはただわたしの内部にとどまっているということだ。けれど「美しさがわたしの内部にとどまっている」ということはあたりまえに「わたしが美しい」ということを意味してはいない。つまり、わたしは「樹木が美しい」と言っているふりをしながら「わたしは美しい」と言っているけれど、それはほんとうには「わたしは美しい」と言っているわけではないんだと思う。なぜなら、美しさは他者との関係のなかでしかあらわれでないと思うからだ。この場合にわたしの美しさを承認するような他者関係はありえていない。わたしはただわたしの美しさにかかわらず美しさに言及しているだけだと思う。柄谷行人はマルクスをとりあげてこういうことを言っている。「商品が交換されたとき、あたかも商品に価値が内在しておりその価値によって交換が成立したように見えるけれど、そうではない。交換が成立したあとで、その商品に価値があったように見えるだけだ」。もしも柄谷行人が言っていることが転倒に見えるとしたら、それはわたしたちが因果的にものごとを見ることになれすぎてしまっているからで、もっと言えば、線的に(過去から現在へと)時間が流れているという感覚になれすぎてしまっているからだと思う。けれど、原因があって結果がある(価値があったからそれは交換される)ということは数おおくある見かたのひとつであって、わたしたちがそれをえらばなければいけない理由はおそらくない。そして、この場合に重要なのはわたしたちがそれを「えらんだ」という事実すら忘却されているということだ。
 わたしがいま言ったことはもちろん「昴の騎士」や「OtoZ」とは関係ない。けれど、おそらくそれは最初からまるで関係がなかったことがらたちだ。だからわたしはこれから「昴の騎士」や「OtoZ」について書かなければいけない。それが関係あることがらだからなにかを書くのではなく、なにかを書いたからこそそれが関係するんだろう。
「昴の騎士」のシリウスやティエラ、あるいは「OtoZ」のチャコが「なにを考えているのかわからない」ということは、それは彼らが「なにかを考えているから」にほかならないと思う。そもそも、「登場人物たちになにかを考えさせる」ということはいったいどういうことなんだろうか。凡庸な作者は物語や人物に「深み」をあたえようと「この人物はこういう過去を持っていて、こういうことを考えているんだ」と「考える」。そして、「それがプレイしたひとにわからないとだめだから、人物の考えにそった行動をさせたりそれを明言させたりしよう」と「考える」だろう。わたしの考えでは、すくなくともこの一連のできごとのなかで「登場人物たちがなにかを考えた」ことは1度もない。このとき「考えている」のは登場人物ではなく作者であって、登場人物たちが考えていると「考える」のはプレイヤーでしかない。柄谷行人の考えを転用すれば、そもそもプレイヤーが「このゲームの登場人物はこう考え、そしてその結果としてこう行動した、あるいはこう明言した」と考えるのはただの因果律にしたがっているということだ。プレイヤーは「こう行動した、あるいはこう明言した」という「結果」から「こう考えた」という「原因」を導きだしているというだけにすぎない。プレイヤーは「結果」にさきだって「原因」があるように思いこんでいるだけだ。彼らは「結果」だけを見て「原因」をつくりだしている、「考えだしている」にすぎない。くりかえして言えば、これが転倒だと感じられるとすればそれが因果的にものごとを考えることになれすぎてしまっているからだ。そしてわたしたちがそう考えるのはおそらく「そう考えれば実質的になにも考えなくていい」からにすぎない。わたしたちは「なにかを考える」ということに必死で、ほんとうにはなにも考えてはいないんだろう。ここからひるがえって、「登場人物になにかを考えさせる」には「登場人物たちがなにを考えているのかわからない」という状況を生みだすことがおそらくまっさきに考えられる。そうなったとき、すくなくとも「登場人物たちがなにかを考えている」という余白が生じる。そしてその余白においてだけ、作者もプレイヤーもなにかを考えることができる。考えるときにこそ関係が生まれるとも思う。もちろんこの余白は根元的に消極的なもので、積極的な性質を持つものではないだろう。だからもしも関係というものが考えるときにしか発現しないものであればそれじたい消極的だろう。わたしはずっとまえに「そのひとを好きになるまえからそのひとを好きであればよかった」と言った。その感情はおそらく無限な遅延のなかにしかあらわれない。わたしたちはそれを通常絶望と呼んでいる。この絶望を回避するようなやりかたをすくなくともわたしはまだ知らない。
 TSが作成した「魔法少女」、「昴の騎士」、「OtoZ」はともに傑作だと思う。たんじゅんにこの3作品を比較して見た場合、「OtoZ」はかなり特殊な作品だと思う。基本的にこの3作品は「登場人物がなにを考えているかわからない」作品だけれど、「魔法少女」と「昴の騎士」は「登場人物がなにを考えているかわからない」ということを登場人物同士で解消しようとする働きを見せている。「昴の騎士」においてはシリウスの考えていることを唯一ティエラだけが受けとめるように動いている。アトリアですらシリウスの考えていることはけっきょく最後まで理解できなかっただろう。「ティエラだけが受けとめる」ということは唯一ティエラだけがシリウスの考えのわからなさを根本的に受けいれたということで、受けいれたからこそ、ティエラからシリウスへのコミュニケートが成立している。「魔法少女」の千代子、遙、烈についてもそれは同様だ。それに比較して「OtoZ」のチャコはあまりにも孤独すぎるように見える。この作品において、たとえばノイルはあきらかにチャコという存在を理解しようとしていない。そしてそれはシュロットにしても同様だと思う。シュロットはチャコに協力してチャコを妾にしようとしているけれど、基本的に最後までチャコにたいしてほとんど冷徹に接している。それはシュロットが基本的にチャコの美しさを承認しているからだと思うけれど、同時にそれは承認以上のものをあたえないということだと思う。この作品においてチャコへコミュニケートしようとひとはおそらくフレデリックと虎天しかいない。そして、フレデリックはそもそもチャコを必要とはしていない。虎天がチャコに好意を持ったのはおそらくそもそも彼女をわかることができなかったからだ。この物語の最終戦でチャコは魔剣にのっとられ、仲間たちに攻撃をはじめる。シュロットはこのとき冷徹にチャコを殺すことを選択する。おそらくシュロットは迷いもしなかっただろう。基本的にシュロットはチャコをにんげんとすら見なしていないからだ。けっきょく、チャコは自分で自分の右腕を切りおとさざるをえなかった。彼女がそうせざるをえなかったのは決して魔剣のちからのせいではなく、だれもチャコを理解できなかったからだ(虎天ですらも魔剣のちからにあやつられたチャコを自己解決するという発想すらなかったとあとで述べている)。その意味で、唯一魔剣をうちたおす聖剣を所持しているのが事実上ただの脇役にすぎない騎水だというのは示唆的だと思う。彼女たちが根本的に解決しなければいけないのは「魔剣」という問題ではない、おそらくはアクエスの死以降に彼女が抱える「だれも理解できない、だれにも理解されない」という現実だ。
 この物語は見かけ上たんじゅんな構図をしているけれど、そうではないと思う。たとえば、この物語の鍵となる部分は各登場人物に分散されている。この物語の状況として最大の情報量を持っているのはおそらく虎天だと思うけれど、虎天は超越者たりえていない。なぜなら虎天は事実上チャコに敗北しているからで、もっと言えば、この戦争で最大の勝利をおさめたのはこの戦争に便乗して領地を独立させたシュロットだからだ。虎天はシュロット以上にすべてを知っていたけれど、シュロット以上になにかを手にいれたわけではない。むしろ、エンディングの虎天にとっておそらくはチャコを手にいれられなかったほうが重要なんだと思う。おなじように、「魔剣 VS 聖剣」というありふれた構図もほとんど見せかけでしかない。この物語において聖剣は重要ではなく、むしろ重要なのは「聖剣の不在」だと思う。魔剣を龍音に奪われることで、実質的にチャコは存在価値を失う。ゲームとしての戦闘性能にしてもチャコはかなり悲惨で、すくなくとも後半は出撃するだけでほとんど役にたたない。そしてそれを回復する手段はない。魔剣をうちたおす聖剣はチャコとはほとんどなんの関係もない騎水の手にはいり(もっと言えば騎水はほとんどだれとも関係がない。この登場人物はあまりにも人物として、また立場として(聖騎士であるがゆえに自分の領地以外で戦闘はできない)独立しすぎてしまっていて、虎天をふくめほとんどだれとも関係を持っていない)、彼女は魔剣をうちたおすための囮としての立場を余儀なくされる。虎天たちをふくめた仲間たちはもちろんそれをよしとしない。ただ彼女だけがそれを了承する。そして彼女がそのやりとりのなかでいちばん気にかけるのはなぜ虎天たちまでもが自分を助けようとするのかということだった。ここからはじめて彼女の孤独の回復がはじまる。
 この物語はチャコたちと虎天たちの戦いをずっと描いているけれど、けっきょく、虎天たちと和解することで最終的に終わりを迎える。それはこの物語が憎しみを描いているのではなく、孤独を描いているからだ(作者は「怒」をテーマにしていると言っているけれど)。チャコの孤独は虎天との一騎うちで解決へ向かう。虎天が彼女を殺さず、彼女が虎天を殺さなかったのは彼らが彼女の、あるいは彼の孤独を問題にしていたからだ。そして、そのことを理解できるのはこの作品において本人たち、そして冷徹なシュロットだけだっただろう。


 2月13日(火)

 会社にいった。
 会社にいったことをまるで覚えていないということは、会社にいったということなんだろう。 
 TS「えるまに」をやった。
 どうしてわたしが日記を書いているんだろう。わたしの日常において日記に書くべきことがらなんてほとんどない。問題はやはりそうではないんだろう。わたしは以前「わたしはわたしの日常を美しいと錯覚させるために日記を書いている」と言ったことがあると思う。なにか美しいことがあったから日記を書くのではなく、日記に書いたことが美しくなるんだと思う。重要なのはなにを書くかではないだろう。ただ日付と文章をならべることが重要なんだと思う。あとでふりかえったとき、わたしがかつて書いた日付と文章の羅列はまるでそのときのわたしがそうであったかのように未来のわたしに錯覚をあたえるだろう。そしてわたしはそのときたしかに現実を生きたんだと確信させるだろう。それが虚構だからこそわたしは確信をえることができるんだろう。日記を書くことは毎日おこったできごとを書きつづけることではない。未来のわたしにとっての現実をせっせとつくりあげているということだ。




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