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そこにあるかなしみめいたものを表現する言葉はきっと

2013.04.01(22:21)

はなればなれに [DVD]はなればなれに [DVD]
(2001/12/22)
アンナ・カリーナ、サミー・フレイ 他

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 3月28日(木)

 会社の帰りにドトールへいくと、となりに座った女のひとが、わたし、好きってどういうことなのかわからないんだよ、と言っていた。淡い蜜色の光のなかでその空間はせまくて、カップとソーサーがふれあう高く金属めいた音がひびいていた。女のひとの金髪はそのなかでどことなくみじめだった。それに声もおおきくて、そのひとの世界へのたんじゅんな理解のなさがただただ空間から染みだし、いろいろなものをかきみだしているように思えた。だれかといないとさみしい、とそのひとは言っていた。だからだれとでも寝てしまう、ひとりの時間なんていらない。いっしょにいた男のひとは趣味でも見つければいいよと言った。なにか好きなものはないのかよ。ないよ、なんにもない、もうぜんぶどうでもいい、にんげんだって。そんなことないよ、にんげんはみんな生きてる価値があるんだよ。そうかもしれない、と僕は思う。でもみんな生きている価値があるということがたいしたことだとはずっと思えなかったし、これからも思えないだろう。ドトールのなかでそのふたりの声はひとしく残酷だったように思う。ほしいのはだれかのとくべつだし、価値とは僕たちがあたえるとくべつさだろう。きたなくたっていい、理解だっていらない、だれかを醜く思ったっていい、そういうふうにしか生きていけないのならそういうふうに生きていくしかないと思う。
 家に帰って金井美恵子「本を書く人読まぬ人 とかくこの世はままならぬ PART2」を読んだ。「のだし、」という接続詞の言葉がつかわれていた。「のだ」というのはおそらくは強意のための言いかたで、ふつう、これは文末につかわれるように思う。僕の知るかぎり、こんなふうに言いきりながらなおべつの要素をほとんどむりやりにつなげていくやりかたで文章を書くひとは金井美恵子と森山政崇さんだけだ。それがどうということはないけれど、それは、たとえばそこに言いきれないなにかがあるということなんだろうか。そうではないかもしれない、とも思う。言いきれないなにかがあるがゆえにその文章をつづけるのではなく、言いきらないという空白を抱えこむことによってなにかがむりやりにたちあがってくることもあるだろうと思う。そして、それはきっと知性を前提にしているように思う。知性を前提にしないかぎりそれはおそらく詩的に瓦解されていくだろう。そうでなければそれはたんじゅんな意味での文意に耐えることはできないと思う。彼女たちの文章がときどきおそろしいのはそこになんらかの切断をともなうことなく文意が成立し、言いきりをくりかえしながらその振動によってまたべつの多層的な文意があらわれてくることだと思う。それはたとえばベケットとも舞城王太郎とはちがう。金井美恵子の小説はベケットに近いと思う。でも、エッセイは、いっけんおなじような感じで書かれているように見えるけれどおそらく彼女の小説とはぜんぜんちがうように感じる。舞城王太郎の文章は1文が長いことも短いこともあるけれど、彼の小説の文章は圧倒的な文意を持ちながらなお切断をともなう。舞城王太郎の長い文章は並列的であって、そこには振動は生じない。だから、舞城の長い文章はほんとうは「短い」文章と変わらない。そこに表面的に相対的な意味があったとしてもその高さはまったく変わらない。


 3月29日(金)

 会社がすごしていると、AIさんがやってきて、手まねきされた。プリンタから出力された設計書を手にとってそれを見ながら近づくと、さいきん結婚する予定があるかどうかと訊かれた。だれが、と僕は訊いた。きみがだよ。まったくないよ、と僕は言った。まったくないよ!
 髪をきってからドトールにいって「デュシャンは語る」を1時間くらい読んで、帰った。ローソンへいこうと思って夜の道を歩いた。気づかれない小雨が降りつづいていて、車輪は湿った音をたてていた。ローソンの青色が中空に浮かびだしていて、封筒と煙草を買って、ぶらさげて家まで帰った。雨で封筒が濡れるかもしれないと思った。でもなにもしなかった。雨で夜がすこしだけ濡れていた。


 3月30日(土)

 朝おきて電車にのった。いくつかの桜が見えて、それと同時に、桜じゃないものもたくさん見えたような気がした。渋谷のイメージフォーラムでベルナルド・ベルトルッチ「ベルトルッチの分身」を見た。そとは寒くて冬みたいだった。冬もののコートはとてもひさしぶりにクリーニングにだしてしまったし、たとえ持っていても、もう冬ではなかったから着ないだろうと思った。だからずっと寒いままだった。
 アップリンクまででかけて七里圭「眠り姫」を見た。七里圭と福間健二がきて、ゴダールもiPhoneで映画を撮っているという話をしていた。「眠り姫」を見るのは2回めだけれどやっぱりとても好きだと思う。「なにかがたちあらわれてくる」という印象がつよい映画、というよりも、「なにかがたちあらわれてくる」という印象だけがある映画だと思う。「ベルトルッチの分身」は映像いっぱいになんらかのものがたちあらわれつづけていて、べっとりと映像が塗りつぶされているように思う。そういうあらわれかたはとてもゆたかで、奇妙な高揚感を覚えて心地がいい。「ベルトルッチの分身」ではすでに言葉は、言葉だけでなく、思想すらも映像のなかにふくまれているように思う。「眠り姫」はそうではなくて、むしろ言葉は映像から遠ざかっていってしまう。言葉と映像がかさなりあわない場所でぎりぎりの遅延をはかっていて、そのあやうい均衡がどことなく不思議に感じてしまう。
 そとにでてもやっぱり寒さがつづいていた。橙色のズボンを履いた、男のひとだとも女のひとだともよくわからないふたりが僕とは反対の道を僕とおなじ方向に向かって歩いていた。その色だけがただめだった。


 3月31日(日)
 
 うまくおきることができなかった。ひとりで新宿まででかけて、東口の紀伊國屋書店までいった。7階にサザンシアターがあると思いこんでいたけれど、なかった。うろうろして、きたない貼り紙についていた地図を見つけた。紀伊國屋書店が南口にあるということをはじめて知った。村上春樹の新刊を買おうかとも思ったけれど、まだ発売していなかった。 
 サザンシアターでゴダール「はなればなれに」を見た。「はなればなれに」を見たのはきっと5回めくらいだと思う。好きだと思う。アンナ・カリーナのダンスは何度見ても美しかった。サミー・フレーとクロード・ブラッスール がアンナ・カリーナの家に忍びこむところは異常だと思う。そこには「忍ぶ」という感覚がほとんど喪失されてしまっている。かといって、それは超然としている、というものでもないと思う。それがたとえばパリの英会話教室やカフェと地続きの場所としてある、というようなことでもない。彼らはただただリアルであろうとしているだけのように思う。そして、おそらくは僕がその光景を異常だと思うのなら、それはただただ彼らがリアルであろうとしているからだと思う。そこにあるかなしみめいたものを表現する言葉はきっと、ない。彼らがはなればなれなのは彼らがただただリアルであろうとしたからだと思う。でもそういうときに僕は僕がいったいなにを思えばいいか、そういうにんげんたちをまえにしてなにを言うことができるのか、ずっとわからないままだ。
 3階までおりて喫煙所で煙草を吸った。吐く息は白くはなかった。まだまだ寒くて、煙草を吸うと震えがとまらなかった。高島屋から紀伊国屋までつづく道は好きだった。どこことなく壊れそうな、旅の出発点や到着点であるかのような道だった。どこからかやってきた家族たちが家族写真を撮っていた。僕はそのなかにはいってしまうような気がしていたけれど、なんにも言われなかった。煙草を吸いながら眼下をゆきかう電車をずっと見ていた。手すりの銀色に鳥の影がうつっていた。とてもこまやかなちらつきだった。空を見あげると鳥はたしかに飛んでいた。鳥の名前は知らない。
 サザンシアターまでもどり、パーシー・アドロン「バグダッド・カフェ」を見た。この映画がミニシアター上映にもかかわらずそれなりにヒットをしたらしいのはこの映画がアメリカ映画であってそもそもミニシアターでやるような映画ではないからだと思う。ここにあるのはひとつのおおきな典型的な「かがやき」であるだろうし、そういうものを探せばざくざくでてくると思う。意味ありげなカットバックは意味を消失してしまう。特別視するようなものはないだろう。彼らの生きかたをたやすくくりかえすほど僕はなにかに耐えられるようには思えない。
 新宿でわくさんと会った。いつもだれかとなにを話しているんですか、と訊かれた。なにも話してないよ、と答えた。俺はだれともなにも話さないよ。ごはんを食べた。帰った。
 熊野純彦「レヴィナス入門」を読んだ。


 4月1日(月)

 朝、Twitterをながめながらエイプリルフールだということに気づいた。結婚しました、と書きこもうかと思ってやめた。
 会社のお昼やすみにHAくんとそとにごはんを食べにいった。大阪王将でチャーハンと餃子を食べた。このまえの金曜日に先輩たちと焼肉を食べにいったんだ、と彼は言った。レモンをぎょうざって言いまちがえたらそのあとずっとみんなぎょうざをすすめてくるんだよ、と彼は言った。ほらぎょうざ食べなって、ハイボールのなかにはいっているよって何度もすすめられた、もう、どうしたらいいんだろう。
 Mさんから電話がかかってきた。あの、メール送ってもらった件なんですけど。はい。あの、横に最大36文字はいるって書いてあったんですけど。はい。なんかいま数えたら38文字あって、ほんとうはどうなのかなって思って。38文字ありましたか、と僕は笑って言った。38文字あったんですよー、とMさんは言って笑った。それは38文字あるということですよ、ほんとうにごめんなさい、と思った。
 帰りにドトールによって日記を書いた。新入社員たちがかたすみにつどって、さわいでいた。とてもたのしそうでいきいきとしているから僕の会社の新入社員じゃないだろうと思った。
 スーパーにティッシュペーパーを買いにいったけれど売っていなかった。石油危機なのかもしれないと思った。




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