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それらに名づけられた別名

2013.04.20(23:43)

善悪の彼岸 (新潮文庫)善悪の彼岸 (新潮文庫)
(1954/05/18)
ニーチェ

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注 「箱庭物語 海の祈り」
  以上の物語について結末をふくめて言及しています。

 4月9日(火)

 オリジナルとコピーにかんする夢を見ておきた。どういう夢だったのかはわからない。
 SSくんとお昼休みにごはんを食べにいくとき、SSくんとAHくんはずっとストッキングの話をしていた。どういう話をしていたのかはきちんと聞いていなかったからわからなかった。さいきんはずっと5時に帰りつづけていたから、いったいどのタイミングをみはからって残業をしようかと虎視眈々とねらっているんだ、と僕は言った。お昼ごはんを食べた帰りの道で、AHくんが小学生の男の子に目をつけていた。小学生の男の子のランドセルからはなにかがびよんとのびていた。あれはなんだ、とAHくんが言った。みのむしじゃないか、と僕は言った。みのむし、とAHくんが言った。でももちろんみのむしではなかった。あぶなかった、とAHくんが言った。あんまりにもびよんびよんしているものだからあやうくつかみそうになっちゃったよ、あれつかんでたらぜったいびーって鳴ってたよ、あぶなかった。あれは罠だよ、と僕は言った。あぶなかったね。
 ひさしぶりに6時30分くらいまで残業をして帰った。モスバーガーにいってチーズバーガーを食べてコーヒーを飲んで、いま書いている小説とはべつの小説の最後の場面の途中までを書いた。いったいどういう話にしたらいいんだろう、と思った。「福音書」を読んだ。


 4月10日(水)

 会社にいった。
 家に帰ってニーチェ「善悪の彼岸」をすこしだけ読んであとはずっと眠っていた。


 論理的虚構を容認することなく、絶対者・自己同一者という純粋な空想的世界を規準として現実を計ることなく、数によって世界をたえず贋造することなくしては、人間は生きられないものである。さらに、誤れる判断を断念することは、生そのものを断念し生そのものを否定することである。非真実を生の要件として承認する――、これはもちろん、日常化された価値感情に危険な反抗をすることである。これをあえてする哲学は、すでにこの一事をもってはや善悪の彼岸にある。


 4月11日(木)

 ずっとうんうんうなっては生きた。会社にいった。お昼ごはんを食べにいったとき、HAくんがとなりのひとをまちがってさしちゃった、と言った。ドトールにいった。


 4月12日(金)

 会社に不思議なダンジョンのモンスターハウスにつっこんだら俺ぜったい詰むと思うんだけど、上級者は詰まないものなの、とHAくんに訊いた。上級者はモンスターハウスを探しもとめているからね、と言われた。
 組合員の資格を剥奪された。

 
 4月13日(土)

 夕方におきて、いったいなにをしようかと思った。「クソゲーまとめ@ウィキ」をずっと読んでいた。


 4月14日(日)

 午後遅くに起きて、さて、いったいどうしようかと思った。考えてみたらやりたいこともなしとげたいと思うことも、なんにもなかった。パソコンでフリーゲームを探してにゃんころ「SEAL FOREST」をしばらくやったけれど、こういう、ゲームのためのゲームのようなものはやっぱりどうにも好きになれないように感じた。そこにはRPGゲームとしてのひとつの洗練された形式というものがたしかにあるだろうと思うけれど、そもそも、形式というものが洗練されるということはどういうことなんだろうと思う。たとえば「ドラクエⅠ」にはたしかに形式しかなかったんじゃないだろうか。そして、あとのひとがそれにRPGゲームという名前をあたえただけだったはずだと思う。おなじように、初期のサイレント映画を見ればそこにはたしかに形式としての映画がうつっていると思う。それ以降に発達した雑多さのなかでたとえばデレク・ジャーマン「BLUE」のような「音声だけの映画」というものがあらわれたとしても、それを、内容を形式に還元したというありかたとしてとらえることはできないだろう。それはすでにひとつの形式ではなく、ひとつの内容としてしかたちあらわれないだろうと思う。おなじように「SEAL FOREST」のようなゲームもおそらくは物語や個性を持った登場人物を撤廃した、というような形式的なものでだけとらえることはできないだろう。それはすでにひとつの内容なんだろうと思う。
「Forest Sead」をやめてイヌハル「箱庭物語 海の祈り」を、朝までやった。


 4月15日(月)

 会社から帰ってイヌハル「箱庭物語 海の祈り」をやった。


 4月16日(火)

 会社から帰ってイヌハル「箱庭物語 海の祈り」をやった。


 4月17日(水)

 Bさんから、就職をしたからごはんをおごってくださいというメールをまえにもらい、はあ、と思ったのでごはんを食べにいった。待ちあわせの駅が会社からごくごく近いところだったので、待っていたらたくさんの会社のひとがとおりかかった。僕はそのたびにしたを向いていろいろなひとをやりすごした。ずっと待っていたけれどこないで、どうしたことだろうと思っていたら電話がかかってきて、目が見えなくなっちゃったので待ちあわせ場所がわかりません、と言われた。たいへんだなあ、と思った。でも待ちあわせできた。
 ピザを食べたりアスパラガスを食べたりした。なんの話をしたのかはまったく覚えていないけれど、キューバの話をしたことだけは覚えていた。キューバはアメリカのうえのほうにあったと思うけれど、なぜ熱帯なんだろうか、という話をした。キューバがアメリカのうえにあるのかも、暑い国なのかどうかも、僕たちはなにひとつ知らなかったけれど。

 
 4月18日(木)

 会社にいった。
 SSくんとHAくんとお昼ごはんを食べにいったとき、SSくんがいよいよ6月にはあれがあるねと言った。AHくんが梅雨だね、と言った。そうだね、もう梅雨だね、とSSくんが言った。うん、と僕は言って梅雨の話をした。30秒後にAHくんが気づいたようで、え、この会話こういう方向に持っていってよかったの、と言った。だめだ、とSSくんが言った。6月には全国かくれんぼ協会主催のかくれんぼ大会があるんだよ、と言った。僕とAHくんが黙っていると、あれ、そういう反応なの、とSSくんが言った。どこでやるの、とAHくんが言った。滋賀、とSSくんが言った。みんな行きたがるだろうと思って、もうすでに行きかたまで調べておいたのに、と言った。どうだろう、と思った。
 会社から帰ってイヌハル「箱庭物語 海の祈り」をクリアした。おもしろかったと思う。
 このゲームは意図的なバッドエンドとして終わってしまう。グッドエンドとバッドエンドの区別じたいにあまり関心はないけれど、このゲームはバッドエンドとグッドエンドの対比がありありと描かれてしまう。ティチェたちは最終決戦のまえに最終の敵であるエトスを倒したあとのことを理想として語る。そして実際に彼らはエトスを倒すことには成功するものの、時間をあやつるエトスの能力によって最終決戦直前までの時間までもどされ、ティチェたちに勝てないとさとったエトスはティチェたちをだまし、不意うちでスレンを殺してしまう。スレンを愛していたヴェルデルは敵を目前にして自殺、ボックは敵にとらわれ、ティチェは発狂、ただひとりのこったグーデンは発狂したティチェを逃がすためにエトスと1対1で戦い殺されてしまう。エンディングにおいて、ティチェは発狂したまま彼女の母親を殺した敵に世話をされ(おむつをとりかえる、という、わざわざなまなましい行為の描写がされる)、ボックは1000年間牢獄にとらわれることとなる(それは彼女たちの旅の途中で毒ガスを浴びて見た幻覚のなかでボックが「もっともおそれていること」としてひきだされた光景と一致している)。そしてそのままスタッフロールが流れてゲームは終了となる。重要なことは、可能世界としてたしかにありえたグッドエンドが意図的なバッドエンドに塗りかえられてしまっているということだと思う。これは、たとえば「タオルケットをもう一度2」で敵勢力が強大すぎてほとんどただ主人公たち、および人類が悲惨な死にかたをしていくということを描かざるをえないありかた、とは根本的にちがっていると思う。現に、ティチェたちの仲間であるナズキやアズマは何度もエトスを倒しておきながらもエトスを殺さなかった。それは、ナズキやアズマたち管理者がにんげんであるティチェたちを「にんげんとして」信頼しているから、というだけのことにすぎない。ナズキに至っては、自由市民に強姦されてはらんでしまったスレンが意図的に流産しようとしたのにたいし、むりやりに胎児とスレンの命をつなぎ流産できないようにさせてしまう。ティチェたちがエトスを倒せなかったのはそういったナズキやアズマにたいする信頼へのうらぎりとしてもとらえられ、この意図的なバッドエンドは、そういった意味あいもふくんでしまわざるをえない。ただ、どちらにしろこのバッドエンドはグッドエンドの塗りかえとしてしかない。そうである以上、このバッドエンドがしくまれた意図はただ作者の恣意的な理由によるものだろう。だからティチェたちをそういうことに追いやったのはそもそもエトスではなく、エトスにそういうことを「あえて」させた作者の意志だと思う。この作品には作品内における「意味」はおそらくはほとんどない。エトスは最終決戦でにんげんの醜さを語るけれど、それはただ作者が語っているにすぎない。ミールスミールやクレイがあきらかに作品内の登場人物としてなにかを意志し、意図しているのにたいし、エトスという人物はほとんど作者と作品をつなぐ装置あるいは機械としてしか機能していない。くりかえして言うと、この作品においてバッドエンドに至る必然性は僕の考えるかぎりひとつたりともない。そしてそれは両義的であって、バッドエンドに至る必然性がひとつたりともないのであれば、同様にグッドエンドに至る必然性もひとつもない。だから、どちらも恣意的に選べる。かりにマルチエンディングにしたところでこの問題はなにひとつ解決しない。それは、けっきょくのところプレイヤーが選ぶか作者が選ぶかという表面的な問題にすぎないからだ。作品外の問題が作品内の問題におそらくはひどく直接的に投射されてしまっているこの作品の意義は、すでに作品のそとにしかない。
 

 4月19日(金)

 会社から帰って幕の内弁当を食べてねむった。
 イヌハル「箱庭物語 海の祈り」というゲームは、インターネットで検索してもほとんどひっかかってこないため、おそらくはほとんどまともな評価をされてはいないと思う。もったいないことだと思う。
 この作品は15禁として規定されていて、中身はたしかに暴力描写がかなりおおいと思う。ティチェとスレンのいる世界は階級差別があたりまえになっていて、彼女たちは「奴隷」として「自由市民」から日常的に暴行、強姦されている。ティチェが朝おきたときからゲームははじまるのだけれど、一歩そとにでると彼女の知りあいが「自由市民」から暴行を受けている場面に直面する。そこに近づこうとしても「近づかないほうがよさそうだ」とメッセージがでるだけで、そのひとを助けることはできない。夜になってもどっておなじ道をとおると、そこにはぐちゃぐちゃになった死体のようなものだけぽつんと落ちていて、それにたいするフォローはほとんどない。
 SFCレベルのドット絵でこの手の残虐表現をはじめて意図的になしたのはおそらくは「タオルケットをもう一度」で、このゲームも、作者が「タオルケットに影響を受けている」と発言しているとおり、その系譜だと思う。僕が興味ぶかく思うのは、けっきょくのところ、その手の残虐表現のリアルさというものはそこに描かれているのが荒いドット絵だったとしてもなんらかのものに呼応としてしまう、ということだと思う。このゲームの登場人物たちはドット絵ゆえに記号的にならざるをえない。たとえば回想でスレンが自由市民に強姦されている場面が描かれるのだけれど、それは、いわばなまなましく描かれるわけではない(ドット絵だからたんじゅんに描けない)。ただ僕たちがその場の状況や台詞、擬音からして「強姦されている」と認識しているだけのことにすぎない。そして、プレイヤーにその手の認識を強要せざるをえないのであれば、それはひとつの表現たらざるをえない。そこにかりにリアルさを感じるとすれば、おそらくそこにある「認識」という行程になんらかの問題をおっているだろうと思う。3Dのリアルな登場人物がいかに内臓をぶちまけたとしても、そこになんらかの「認識」の作業は発生しない。おそらくは見たらそれとわかるからだと思う。たとえば「隠された意味」ということが僕たちを驚かすのであればそのとき僕たちはその「意味そのもの」に驚いているのではないと思う。そのとき僕たちはただたんにその「『意味』というものの出現」に驚いているにすぎない。そういう過程はもちろんふつうは隠されている。「意味」というものは隠されることはできないし、その「意味」にたいしてなんらかのことを思うのであれば、そのたびに僕たちがその「意味」を発生させているにすぎない。だから僕は「にんげんには(にんげんが生きていることには)意味がある」という言説はいっさい信用していない。そのときに想定されている「意味」とは「隠されている」ものであって、隠された「意味」はすでに「意味」ではないからだ。すくなくとも「にんげんには(にんげんが生きていることには)意味がある」という思想ではたとえばそのつどの表現の発生の連続である演劇やダンスなどの舞台表現では驚くことはできないと思う。
「箱庭物語 海の祈り」というゲームの表現が、たとえ「タオルケットをもう一度」の模倣であるとしても(模倣だと僕は思っているのだけれど)、そこになにかしら感じることがあるとすれば、それはただ記号が記号として自らを表現しているからだと思う。すくなくともこのゲームの残虐表現はリアルだと思う。「リアルだ」と僕たちが感じることはあきらかにそれが「現実的だ」と思うこととはちがうだろうと思う。すくなくとも「箱庭物語 海の祈り」のなかの残虐表現は僕が電車のなかで座ったときのとなりのとなりのひとよりもリアルだと思う。彼女たちはこの作品のなかで現実を模倣しているわけではない。この作品のなかで現実の模倣があるとすればそれは作者を模倣してしまったエトスだけだろう。最初に書いた、「自由市民」に暴行されごみのようにフィールドに放置されたあの死体、あの死体がリアルなのはたとえばそれがごみのようだからだと思う。にんげんの死体がごみのようであるかぎり、それはごみのようであるときにリアルなんだと思う。そして、かりににんげんの死体がごみのようでないと思うのであればそれはそこに「隠された意味」があると思っているからにすぎないだろう。


 4月20日(土)

 MYさんがやっている演劇を見にいくはずで、それは午後6時30分だったからなにがどうなってもまにあうはずだったけれど、おきたらすでに午後6時というありえない時間の流れかたをしていたので、むりだった。彼女にごめんなさいごめんなさいごめんなさいと言った。死のうかと思った。
 そとにでかけたら雨が降っていて寒かった。ドトールにいってニーチェ「善悪の彼岸」を読みおえた。


 現代人が本を読むときには、一ページの一つ一つの言葉を(いわんや綴りを)読みとることはほとんどなく、むしろ二十の字のうちからいい加減に五つくらいを拾って、この五つの字に属しているらしい意味を「推察」するのであるが、――同様に、われらがたとえば樹を見るときも、葉や枝や色や形を正確に完全に眺めることはない。われらにとっては、樹という漠然たる形を空想に描きだす方がやさしいのである。もっとも異常な体験の場合すら、われらは同じようなことをする。われらは体験の大部分を仮作する。そうして、「発見者」たらんと志すときのほかは、いかなる出来事をもわざわざ観察しようとは努めない。これによって見れば、われらは根本的にむかしから、――詐ることに慣れているのである。より上品に偽善的により快い表現を用いるならば、われらがみずから知るよりもはるかに芸術家なのである。――たとえば、活発な会話ををしながら、われらは相手の顔をとても肉眼が及ぶことのできないほどにはっきりと細かく見ることがあるが、これとても相手が述べる思想や自分が相手に喚び起したと信ずる思想がそう思わせるのである。この際の相手の顔の筋肉の動きや目の表情のこまやかさは、われらが想像して描き出したものなのである。相手はまったく別の表情をしていたか、または何の表情をもしていなかったのである。


 
 ニーチェは本を読むときのやりかたについて、ただそこに書いてあるいくつかの文字の意味を推察しているだけだ、と言っている。おなじように、どんな体験の表現すらもその大部分は虚構だと言っている。そして、そうであるかぎりひとは意図しない芸術家だと。こうなったときに、意図しない芸術家と意図する芸術家の差違はいったいどこにあるんだろう。意図する芸術家はただたんに自分が表現しているということを知っているだけにすぎない。けれど、やっていることは意図しない芸術家となにか変わるわけではない。
 僕は以前何度も「それが美しいと思うまえにそれを美しく思えるにんげんになりたい」と言ったことがあったと思う。それはいまも変わらない。


「発見者」たらんと志すときのほかは、いかなる出来事をもわざわざ観察しようとは努めない。

 
 僕がやりたかったことは、ただそこにあるものをそこにあるものとして見る、ということだった。でもそんなことはできなかった。できなかったとき、その隙間におよそ醜さと呼ぶものがはいりこんでくるように思った。ものごとのいちいちを意味として了解し描写していくことになんの価値があるのかと思った。だからこその逆転があった。僕ができることはもう、そうやってなされた「仮作」をほんとうのできごととして、それがほんとうの「気持ち」として僕のほんとうの気持ちとして塗りかえていくことだけだった。僕にとって日記とはそういう塗りかえの装置にすぎないだろうと思う。
 たとえば、日記をそうした装置として自覚的にとりいれていくとしたら、あったはずの「ほんとうの気持ち」や「ほんとうの体験」は忘れられ、消えていくんだろうか。おそらくそうではないはずだと僕は思う。「ほんとうの気持ち」や「ほんとうの体験」というものも「仮作」から反射されたものでしかない。「仮作」というものが考えられるから、そうではない「ほんとうのこと」があるにちがいない、と思いこんでしまう。そんなものがあると思わないほうがいいと僕は思う。「美しさ」と「醜さ」はそれらに名づけられた別名でしかない。




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