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Beat Happening! ~SHIMOKITAZAWA R&R PANIC!@下北沢GARDEN

2013.04.24(20:33)

魔法が使えないなら死にたい魔法が使えないなら死にたい
(2013/03/20)
大森靖子

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 4月21日(日)

 ずっとまままむしていた。あんまりにもまままむしすぎたせいで頭のなかまですっかりまままむになってしまったかのようだった。夢のなかまでまままむをしていた。気がつけば世界はまままむに満たされていた。


 4月22日(月)

 会社にいってお昼ごはんを食べてキーボードにべたべたとさわり、帰ってきた。それからドトールにいって小説を書いた。冷蔵庫がほしい、と思った。


 4月23日(火)

 会社をでて下北沢へ向かった。ひさしぶりに降りた下北沢の駅は僕がいままで知っていた下北沢の駅とはまったくちがっていて、構内のひろさもおおよそ20倍くらいにふくれあがっていた。いままで壁だったところに巨大な穴があいていて、そこは地上と駅の改札をつなぐ通路になっていた。僕はニュースも見ないし新聞も読まないので知らなかったけれど、きっと地殻変動がおこったんだろうと思った。
 下北沢GARDENというライブハウスでTHEピンクトカレフのライブを見た。大森靖子さんはなんだかわりあいふつうの女の子みたいなかっこうをしていて、それはかわいかったけれど、彼女は楽屋に男のひとしかいなくてざんねんだと思っていると言った。かわいい女の子が好きだから、と言った。わたしだってかわいくなりたかった、かわいくなれないから天才になるしかなかった、けれどわたしはただの平凡だった、平凡だという思いも平凡にすぎないんだけれど、と言っていた。
 平凡だとか天才だとか、という言いかたには興味は感じないけれど、それは、けっきょくは相対的な考えかたにすぎないからだと思っていて、たとえば、太宰治は天才だ、という言いかたと、太宰治の書く小説はおもしろい、という言いかたになにかとくべつな差違があるとはどうしても思えないからだと思う。それは、けっきょくそれを言うひとがそれを言いたがっているだけのことであって、だとすれば、それはだれかを天才だと呼ぶひとのありかたについてのことで、すでに、太宰治のありかたについてとはほとんどなんの関係もないように思う。天才とそうでないひとのありかたをわけるものの明確性を僕は知らないし、たとえば、感性がするどい、とか、理解力が高い、とか、あるいは他者よりもすくない努力でなんらかの水準に達する、とか、そういうことはけっきょく同一の次元での高さ低さを競いあっているだけで、そういう場所に明確な差違なんてないと思う。その次元での指標が数値化できてもできなくても、そんなものは関係ないと思う。数値化できてもできなくても、おそらくはなんらかのものを比較するときにだいたいのひとは、蒼井優よりも満島ひかりのほうがかわいい、とか、疑似数値化をしていて、だから、僕がかりになんらかのものを比較したいと思うのであれば、きっとそれはそのときの比較対象がともになんの関係も持っていないことがらについてだろう、となんとなく思う。というよりも、そうでないときの比較というものは、一見比較しているようでありながらもけっきょくはそれらが同一のものだと言っているにすぎないようにすら思う。ランボーをその早熟性を理由にかりに天才だと呼んだとして、そしてもしも天才だと呼びえないひとがその40歳のときにランボーと同水準の詩を書くことができるようになったとしたら、当人たちはともかく、すくなくとも僕にとってランボーは天才じゃないと思う。僕にとってはだれがどんな年齢ですぐれた詩を書こうとそんなものはぜんぜん関係ないと思う。おなじように、ランボーの早熟性が同時にそれ以後のどんなひとがどんな年齢をもってしても達しえないようなありかたをしていたとしても、きっと、もうそのときにランボーを天才と呼ぶことにほとんど価値はないと思う。それは、ランボーはほかのひととはちがう、というだけのことであって、それは、言おうと思えばこの世界のすべてのひとにたいして言うことができることだから。
 だから、きっとひとがだれかにたいして天才だとか平凡だとか言えるときの、その、だれか、というのは、けっきょくのところ自分自身なんだろうと思う。すくなくとも僕は大森靖子さんが天才か平凡かなんてどうだっていいと思う。僕が考えたり、それについてなにかを思ったりしたいと思うのは、天才になりたかった、と言う大森靖子さんのありかただと思う。というよりも、僕は音楽はあんまり聴かないしくわしくもなくて、だからここ何年かあたらしく聴いたなかでほんとうにいいと思った音楽は大森靖子さんとtobaccojuiceぐらいしか思いうかばないんだけれど、そんなふうになにかしら思うところのある大森靖子さんが、天才になりたかった、と言いえてしまうような世界と彼女とのおたがいのありかたかもしれない、と思う。
 ただ、そこからさきはもうなにかを言うことはほとんどできない領域だろうと思う。たとえば、けっきょく七尾旅人や毛皮のマリーズにはなれない、あるいはなれなかったバンドばかりだったとして、そうしたうえで、大森靖子さんについて、彼女はそのほかのバンドとはちがう、と言ってみたところで、それはきっとほとんどなにかを言ったことにはならない。僕が彼女についてなにかを言いたい領域はもう僕がなにかをたんじゅんに言うことでとどく領域ではきっとなくて、そこからさきにあることについてなにかを言うこととひとしい質量を持った行為をすくなくとも僕がするには小説をひとつ書かなければいけないはずで、そうでないのであれば、映画を撮ったり、恋愛をしたりしなければいけないはずだと思っていて、そういうことができないとしたら、僕たちにはきっとなにかを言ったり比較したりすることしかできないんだろう、と思う。
 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」をまた読みはじめた。おもしろいと思う。この小説がたんじゅんにおもしろいのは、きっと、ここでなされている会話がおもしろいということだと思う。どういう小説がおもしろいのか、ということはたまには話されているようには思うけれど、小説のなかのどんな会話がどうおもしろいのか、ということを話しているひとを僕はほとんど知らないように思う。ほとんどの小説家はきっと小説を書くのに必死でそこでなされている会話をおもしろくしようなんてぜんぜん思ってなんかいないんだろう。


 4月24日(水)

 会社にいってひとの話を聞いたりひとと話したりした。




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