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私が理解できない領域

2013.04.29(01:36)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)
(1978/07/20)
ドストエフスキー

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 4月25日(木)

 AHくんとSSくんたちとごはんを食べにいったとき、モスバーガーでパンのかわりにレタスではさんであるやつがでたって聞いたけど、あれってほんとう、と聞いた。AHくんが、ほんとうだよ、と言った。SSくんはうそついてたんだね、と僕は言った。だって、なんか味がおいしくなるって言ってたじゃん。言ったけど、とSSくんは言った。おいしくなってると思うよ、牛肉の輸入がどうとかって言ってた気がしたから。牛肉のかわりにレタスをいっぱい輸入しはじめたのか、と僕は言った。ちがうと思うよ、と言われた。


 4月26日(金)
 
 MSくんが結婚したということだったので、結婚祝いの飲み会をした。7時からで、僕はさいきんちっとも残業をしていないので余裕でまにあうだろうと思っていたら、うっかりRCさんと話しこんでしまって、会社からでたときには7時をすぎていた。飲み会の席でAIさんが、すき焼きいこうね、と言ったから、いくいく、と言った。○○さん(僕の本名)と話すのは好きだよ、とAIさんは言った。ちゃんと話を聞いてくれるから、わたしが会社をやめるまでわたしの話を聞きつづけてね、と彼女は言った。うん、と僕は言った。


 4月27日(土)

 さいきん、休日はいつも夕方までねむっていて、そういうことはぜったいによくない、としんそこ思っていて、この日も、はやくおきよう、ぜったいにはやくおきよう、と誓ってさえいたのに、おきたらやっぱり夕方だった。時空間よ!
 ドトールにいって小説を書いて、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。ずっと向こうに座っていたかわいい女の子のふたりぐみが、いま彼氏とわかれようかどうか迷っている、という相談をずっとしていて、「カラマーゾフの兄弟」どころではなかったけれど、遠いせいでうまく聞こえなくて、しかたなく「カラマーゾフの兄弟」を読みつづけるしかなかった。ドトールが8時で閉店したので、モスバーガーまで歩いていって11時まで小説を書いたり「カラマーゾフの兄弟」を読んでいた。
 家に帰って、友達に、ホラー映画が見たい、あんまりこわくないのがいいけれど知りませんか、と言われて、僕はさいきん映画をほとんど見ていないせいでなんにも知らなくて、けれど、シアターN渋谷はホラー映画しかやっていないと思っていたのでそれを調べてみたら、閉館していた。映画館よ!
 TNに電話をして上高地にいついこうかを決めようとしたら、異動になった、やばい、と言われた。そうか、と思った。
 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を、なんの前提もなしに読むことは可能なんだろうか、と思う。読書メーターのコメントを読むと、「カラマーゾフの兄弟」を読んで、たとえば、「大審問官」の章が理解できなかった、とか、はんぶんほどしか理解できなかった、と言っているひとがいくらかはいた。同時に、キリスト教についての知識が必要だ、と言っていたひともいた。そうかもしれない、と思う。「福音書」なりを読まないと、「大審問官」で言及されるキリストと悪魔との3つの問答にたいする解釈はたしかにいきなりでてきたものとして受けとめられるかもしれない。でも、「福音書」を読んだとしても、それは、キリストと悪魔との3つの問答があった、という、あるできごとがおこったことを知る、という以上のことはわからないと思う。「福音書」にはできごとしか書いていない。
 問題は、たとえば彼らが、「大審問官」の章が理解できなかった、と言うとき、ほとんど無感覚に、私が理解できないことがらがここには書かれていて、私が理解できないことがらをもしもわたしが理解できたならば、きっと私はここに書いてあることを理解することができるだろう、と思っているだろうということだと思う。彼らは、あることがらについて、「私が理解できる領域」と「私が理解できない領域」というふたつの領域を設定して、その設定にしたがって、「大審問官」の章が理解できない、という、ありがちな言葉を口にだしてしまっているんじゃないだろうか。
 僕は「私が理解できない領域」という領域についてはいっさい考えないようにしたいと思う。以前の日記で「隠された意味」について書いたことがあるけれど、そこで僕は「隠された意味」とはすでに意味ですらない、と書いた。「隠された意味」というものが意味たりえるのは、それが隠された状態から隠されていない状態に遷移するときであって、それが隠された状態にあったとき、それは意味ではない。それは、その遷移によってとつぜんにあらわれた意味であって、たとえば、ある物語の裏設定を知った、ということによって出現するものだと思う。それ以前に、つまり、ある物語の裏設定の知覚以前の状態にあったときの僕たちには、それが意味だと呼ぶことはできない。僕たちがなんらかのことがらについて「隠された意味」と呼ぶとき、それはその意味が出現した事後からひるがえってそう呼んでいるにすぎない。だから、「隠された意味」ということがらは、そもそも「隠されていない意味」ということを前提にして言えることであって、同時に、それは「隠されていない意味」ということから僕たちが当然あるだろうと推察しているだけの幻想にすぎない。僕はいま、「隠された意味」、「隠されていない意味」という言葉をつかっているけれど、「隠された意味」が「隠されていない意味」から推察されたただの幻想にすぎないのであれば、「隠されていない意味」ということも、けっきょく、「ただの意味」にすぎない。
 そのとき、「隠されていない意味」と「ただの意味」のちがいはいったいどこにあるんだろうか。それは、僕の考えでは、「隠されていない意味」とは「私たちが理解できる領域とできない領域がある」という考えをもとに発生している、というてんにあると思う。
「私が理解できる領域」と「私が理解できない領域」ということを考えた場合に、うえで書いた「隠された意味」の話と同様に、そもそも、「私が理解できない領域」というのは「私が理解できる領域」ということから推察された幻想にすぎないし、「私が理解できる領域」と「私が理解できない領域」という二項対立も、その推察を前提にしてできあがった区分けにすぎない。そして、そうであるならば、そもそも、僕たちが「私が理解できる領域と私が理解できない領域がある」という考えかたをとる必然性はない。そして、そういう考えかたを放棄するのであれば、キリスト教の知識があれば「大審問官」について理解できる、ということもまた放棄される。
 これは皮肉だけれど、「大審問官」を語ったイワン自身、「私が理解できない領域」ということについて考えることを放棄している。イワンは神があるかどうかという問題を語るうえで、神がある、ということを無条件で認めている。それは、そもそも、にんげんが神の領域について考え理解できるように神につくられてはいない、からだ。神があるならば、すべての人類が許され、迫害者と被迫害者がたがいに抱擁しあうような永遠の調和もいつか訪れることも認める、と彼は言う。そして、そうであるからといって、彼はいまある世界を認めることはぜったいにできない、と。彼はヨーロッパ、およびロシアの子供にたいする数々の虐待事例について語りあげ、そうやって虐げられ、虐待をされ殺された子供たちの一滴の涙にはどんな調和もつりあわない、と言う。そうであるならば、子供たちを虐待し殺したというそのことを許す、そんな権利はだれも持ってはいない、と。アリョーシャは、そうではない、と言う。全人類の罪をせおって死んでいったキリストだけはそれを許すことができる、と。イワンはそれについて「大審問官」の話をはじめる。「大審問官」では15世紀、ふたたびキリストがひとびとのまえに降臨し、さまざまな奇蹟をなしていく。けれどキリストは大審問官に連行され、牢獄にとらわれ、大審問官はキリストをキリストと認めたうえで、なぜ我々の邪魔をしにきた、とキリストを批難する。キリスト教徒である大審問官がキリストを批難する理由は本文を読んでもらうしかないけれど、かんたんにいえば、そもそもキリストは天上のパンのために地上のパンを退けた、ということだと思う。それでは地上のパンを求める地球上の大多数のひとびとは救われない。だから、大審問官は地上のパンのために世界のひとびとを隷属させている。そのうえでなお、彼らの良心を満たせるよう、それがキリスト教徒のただしいありかただと教えている。大審問官は自分がすでに悪魔に魂を売ってしまっている(地上のパンを求めている)ことを認めている。と同時に、キリスト教徒たちに悪魔に魂を売ってしまっていることを気づかせないようにしている。それがキリスト教というシステム、ということだろう。大審問官は自分以外のすべてのにんげんを救うために自分だけを犠牲にしている。なぜなら、彼だけが自分が善ではないことを知っているからだ。彼はキリストにおまえに私を批難する資格はない、と言う。なぜなら、キリストは数百億ものにんげんを救うことはしなかったのだから。
 ここで語られていることは、おそらく、キリスト教徒は悪魔に魂を売りわたしながらなお神を信仰していると思いこんでいる、ということだと思う。そして、その思いこみを可能にしているのがキリスト教というシステムだ。
 イワンはそれでもなお神を否定していない。そもそも、キリスト教をひろめたのはキリストではない(ニーチェは、キリストは仏教徒だった、と言っている)。キリストとキリスト教徒が同一の考えをしている、ということじたいがそもそもおかしい。キリストは、奇蹟を示されなければおまえたちはなにも信じられないのか、と彼の使徒たちを何度も嘆いている。あたりまえのことだけれど、キリストの教えを守らなくてもそのひとはキリスト教徒でありえる。僕が言いたいのは、「私が理解できる領域と私が理解できない領域」というありかたがあらわれるとき、「私の理解できない領域」が「私の理解できる領域から推察される」というときの「推察」ということは「信仰」ということとほとんどひとしいよう見える、ということだ。イワンは(ドストエフスキーも)神を否定しているわけじゃないし、おそらくはキリスト教を批判しているわけではないと思う。イワンはただ「私が理解できる領域」と「私が理解できない領域」にわけへだてられていない世界について語っているだけだと思う。イワンの語ることがあまりにも美しく、そして感動的なのは、彼がそういう区分けをいっさいすることなく語っているからだ。
 そして「カラマーゾフの兄弟」という小説じたいがすでにそういう語られかたをしている。たとえば、ヒョードルもリーザも、彼らの行動原理を理解したとしても、彼らを理解することにはならないと思う。彼らの行動原理はいつも彼らが行動したあとにあらためて現れるものでしかないからだ。ヒョードルがゾシマ長老のもとで奇矯なふるまいをしてしまうのも、リーザがアリョーシャに愛の告白の手紙を書いたあとにすぐあれは冗談だったんですと言うのも、きっと、彼らが意図していることではないと思う。彼らが意図すらしていないことを、僕たちはどうやって理解すればいいんだろうか。そもそも、彼らを理解しようとするのは僕たちの傲慢さではないんだろうか。しょせんは小説のうえでの空想的な人物だから、ドストエフスキーがそれを描いた以上はなんらかの意図があるはずだから、そんな程度の「だから」で僕たちがなにかを理解しえると思いこんでしまえるのはどうしてだろうか。ゴダールは、字幕があるとひとは映画を見なくなってしまいます、ひとびとは字幕を読みときどき画面にブラット・ピットがうつっているかどうか確認しているだけです、と言った。おなじように、僕たちは「カラマーゾフの兄弟」を読んで、このひとはこういう理由でこういうことを言ったりやったりしているだけだな、と考えることしかできないんだろうか。そうではないと僕は思いたい。僕は、すくなくとも僕にかぎっていえば、ヒョードルの滑稽さや醜さ、カテリーナの気高さ、そしてなによりもイワンやリーザの美しさに驚きたい。理解したいわけじゃなくて、ただ驚きたいと思う。もしそれができないのであれば、僕はもう、小説なんて読まなくたってかまわない。


 4月28日(日)

 ほんとうに今日はおきよう、ほんとうにがんばろう、と思って朝の10時30分に携帯電話のアラームを設定しておいたのに、おきたら午後の3時だった。もう死のう、と思った。
 死ぬまえにクリーニング屋さんにいこう、と思ってスーツやワイシャツを持っていった。ワイシャツが1枚血まみれで、これは落ちないですね、と言われた。
 死ぬのはやめて、ドトールにいって日記を書いた。8時に閉店だったので、モスバーガーにいった。ほとんど昨日とおなじことばかりしているけれど、気づかないことにした。僕の家の近くのモスバーガーは日曜日だけビートルズがえんえんかかっていて、日曜日のモスバーガーはそれだけだけでもう偉大だと思う。音量が不安定で、「イエスタデイ」なんかギターの音がまったく聴こえないのがたまにきずだけれど。




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