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「フランシス・ベーコン展」@東京国立近代美術館

2013.04.30(22:25)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)
(1978/07/20)
ドストエフスキー

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 4月29日(月)

 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読みながら、竹橋までいって、東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」を見た。フランシス・ベーコンというひとは知っているような気もしたけれど、たぶん、知らなかった。フランスっぽい名前だと思っていたらアイルランド生まれだと書いてあってびっくりした。友達から肉の絵があると教えてもらっていて、ベーコンなんて名前で肉の絵なんて書かないでしょ、と思って、それはぜったいうそだ、と思っていたら、やっぱりうそだった。晩年の絵よりも初期の絵のほうが好きだと思った。暖色で、顔がぐにゅぐにゅになっている絵よりも、寒色の、静謐な印象を受ける絵のほうがずっと好きだった。顔はほとんどぐちゃぐちゃになって、それでいてべたべたに塗りたくったような激しさはどことなくおさえられていて、彼らの顔はほとんど化け物みたいになっているんだけれど、透明感を失ってはいないように感じられて、好きだった。「走る犬のための習作」という、犬を描いた絵が1枚だけあって、そこに描かれた犬はほとんど輪郭とその内部をぼかされたように塗られただけだったのに、どこか、それは犬の理想的な魂のような感覚さえあって、とても、好きだった。
 タイ料理を、というよりも、パイナップルチャーハンを食べたけれど、パイナップルチャーハンのパイナップル以外の部分が尋常ではないおいしさでびっくりした。あとはそのお店のタイ人の女の子が尋常ではないかわいさでびっくりした。そのあと、ヒューマントラストシネマ渋谷で見たアントニオ・チャバリアス「フリア よみがえり少女」というホラー映画のあまりのこわくなさにもびっくりした。
 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」が、時代を考慮したとしても、たとえば僕たちが現実でしているような仕草や言動をしている、とは思っていない。おそらくは、チェルフィッチュの演劇にしたところで、現実の僕たちがそうしゃべっているようにしゃべってはいないはずだ、とも思う。そして、リアリティという言葉が「僕たちが現実でしているような仕草や言動をしている」というありかたしかさししめさないと考えるのであれば、その考えは貧しいと思う。日本映画を見れば、そこにうつしだされているひとたちが「僕たちが現実でしているような仕草や言動をしている」ように見えるかどうかは、ある程度わかるだろうと思う。けれど、すくなくとも僕はロシア映画やフランス映画を見たときにそれをはかることができる尺度なんて持ってはいない。タルコフスキーの映画とカネフスキーの映画のいったいどちらが「僕たちが現実でしているような仕草や言動」に近いのか、僕にはまるでわからない。そして、そうであるとき、かりに僕がタルコフスキーやカネフスキーの映画を見て「リアルだ」とか「リアリティがある」と感じたとしたら、そのときに受ける、その「感じ」とはほんとうにはどういうものなんだろう。
 きっと、それを「リアル」とか「リアリティ」とかいう言葉で表現しようとしてしまう、僕の言葉のつかいかたに問題があるんだろうと思う。ベーコンの描いた化け物のような顔にもリアリティ、と呼びえるように感じられるものがあるだろうから。あるいは印象派の絵画も現実がそうであるように描かれているわけではない。あれはけっきょくはただの絵の具にすぎない。そして問題はただの絵の具にすぎないものがどうして僕たちになんらかのものをもたらすことができるんだろうかということだと思う。「どんな映画もどんなひとの1日よりも想像力に欠けています」と言った映画監督がさししめしたその映画を、どうして僕たちはときには現実よりもすぐれたものと前提して見にいくことができるんだろうか。
 映画も、小説も、あるいは絵画も、たとえ写実主義的であったとしても、きっと現実の写実ではないと思う。映画も小説も絵画も、現実を疑似体験する装置ではないはずだと思う。イワンは窓のそとを通りかかったアリョーシャに声をかけ、自分がモスクワへ旅だってしまう直前の話題として、神はあるかないかを語らなければいけない、と思い、そうしたはずだ。当時のロシア人が、かりにイワンのようなロシア人がいたとして、彼がわかれの際に現実的に神の話題をぜったいにしなければいけないことだと認識したかどうかについて、僕はそんなに興味はない。小説を読むとき、アリョーシャの立場にたとうが、イワンの立場にたとうが、そのとき、僕はアリョーシャやイワンの立場として現実がこうであったならば、という現実の疑似体験をしているんだろうか。そうではない、と僕は思う。かりに疑似体験があるとしても、それはおそらくは事後になってあらわれてくるものであって、それが事後ならば、その疑似体験がどんなに「疑似体験」と呼ばれようと、それはすでに僕たちがつくりだした現実だ。そうではなく、つまり事後ではなくその瞬間に疑似体験がたちあらわれてくるとしたら、僕たちが疑似体験として体験する「それ」はいったいだれの疑似現実なんだろうか。イワンあるいはアリョーシャか、それとも僕自身のだろうか。


 4月30日(火)

 お昼ごはんを食べにいったとき、AHくんとSSくんがMFくんに、MFくん、このまえの飲み会ではじつに輝いたよ、と言っていた。だっちゅーの、をやっていたらしい。




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