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キース・ジャレット/ゲイリー・ピーコック/ジャック・ディジョネット 2013@オーチャードホール

2013.05.07(20:05)

ザ・ケルン・コンサート [SHM-CD]ザ・ケルン・コンサート [SHM-CD]
(2011/07/20)
キース・ジャレット

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 5月1日(水)

 会社にいき、家に帰り、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読んで眠った。


 5月2日(木)

 社会人生活をまる3年もやっているというのに、取引先との会議の際に取引先の会社を呼びすてにし、あとになって3人くらいからばらばらの場所、ばらばらの時間に、あれはまずいと思う、とぼそりと言われた。僕もまずいと思う。
 すき焼きを食べたいとはひとことも言っていないのにもかかわらず、このまえの飲み会のときに僕が遅れていってすき焼きのお肉を食べられなかった、ということで、AIさんがすき焼きを食べにいこうと言ってくれて、僕と、AIさんとSSさんとCKさんとHAくんとCMさんとCMさんの旦那さんですき焼きを食べにいった。すき焼きおいしい、と思った。机のうえによくわからないものがのっていて、AHくんがCKさんに訊いたら、もみじおろしでしょ、と言われた。僕はその1分まえにHAくんに、コンビーフだよねこれ、と言ったばかりだった。すき焼きを食べおわって、AIさんとSSさんは帰って、のこりのひとたちと2次会にいった。たのしかった。


 5月3日(金)

 実家に帰って「鋼の錬金術師」を読んだ。


 5月4日(土)

 なにをすることもなく「鋼の錬金術師」を読んでいて、夜中にようやく全巻読みおえることができた。
 はいり口、ということでは「鋼の錬金術師」はとてもおもしろいと思うけれど、けっきょく、最後までうまくいっていなかったように思う。というのは、やはり、登場人物がおおすぎること、錬金術のグロテスク性という意味での衝撃が最後まで持続できていないこと、戦闘場面がほんとうにはうまく描けていないこと、とか、いろいろあると思う。僕がいちばんもりあがったと思う戦闘場面はやはり大佐とラストとの戦いだと思う。それ以降の戦闘場面が映えない、という原因は、そもそもホムンクルスがつよすぎるということがまずあって、それにもかかわらず彼らはエドやアルが人柱であるがゆえに殺すことができない、ということから、全体的にもりあがりがたりないぬるい展開がどうしてもつづいてしまう。真理の扉のおくに平行世界という概念を持ちこんだアニメ版のほうがどこか後味のわるさをのこしていて上等だと思うけれど、それはおそらくはウィンリィをきりすててこそできる荒技じみたものだったと思う。原作としてはそういうことはできなかったんだろうと、たんじゅんに思う。ウィンリィとホークアイ中尉がかわいいのが最大の魅力なんだから。


 5月5日(日)

 朝6時におきて、TNの車にのって長野県の上高地までいった。上高地、という場所がいったいどういう場所なのかよくわかっていなかったけれど、それは山らしかった。山に歩ける道がつくられていて、ひたすらそこをてこてこと歩いた。まわりには雪がまだのこっていた。川の水は澄んでいて、川底にある藻が緑色にきらめいてとてもきれいだった。川の水はひどくつめたかった。株やろうよ、と言われて断った。スマホ買おうよ、と言われて断った。カメラがほしいな、と思ったけれど、けっきょくは買わないだろうと思った。
 帰りに特急電車にのって帰った。ドストエフスキー「悪霊」を読んだり読まなかったりした。
「カラマーゾフの兄弟」、「悪霊」とつづけて読んで、そもそも僕は無神論というものがどういうものかまるで理解していないと思った。僕が読んだかぎり、無神論というものは神がいる、いない、という問題ではなくて、そもそも、神がいるということから派生した道徳の問題のように見える。問題なのは、そもそも道徳ということが神、あるいはキリスト教からきているという認識をそもそも僕がまるきり持っていない、ということだ。だから、そういう考えにそってなにかを考えることは僕にはできない。それに、する必要も感じていない。イワンは無神論者である、と紹介文にはあたりまえのように書かれがちだけれど、僕が興味ぶかく思うのは、イワンが無神論者であるかそうでないか、あるいは神はいるかいないか、という問題ではなくて、無神論者はなにを考えどう行為するか、あるいは、神はいないと思ったにんげんがなにを考えどう行為するか、ということでしかない。けれど、「無神論者はなにを考えどう行為するか、あるいは、神はいないと思ったにんげんがなにを考えどう行為するか」ということを見るためだけにも、僕たちにはすくなからず知性というものが必要で、そして、問題はそれがキリスト教についての知識と関係があるかどうかすらもやはり恣意的に僕たちが決定できる、ということのように思う。それは、ドストエフスキーにかぎらず、「本を読む」という行為のなかで僕たちが日々やっていることだろうと思う。それがただしい読みかただなんて僕は思わないけれど。


 5月6日(月)

 渋谷のオーチャードホールまでいってキース・ジャレットトリオの公演を見た。とくに第2部がすばらしくて、どうしてこんなにすばらしいんだろうとずっと思っていた。暗闇のなかに楽器がおいてあって、それが光に照らされてぴかぴかと光っていた。ほかのジャズを知らないのでうまく言えないけれど、彼らの演奏のなかにはときどき跳んでいってしまうような感覚があって、跳んでいって、そして遠くへいかないその感覚みたいなものが、ほんとうにかっこうよくて、ほんとうに、かっこうよかった。
 聴いた音楽について文章であらわすことを僕はもうずっとできない。けれど、音楽の感想を文章で書く、ということはほんとうにはどういうことなんだろう。音のひとつひとつ、つまりその細部をとらえて表現し、その細部について自分の受けた感覚を書く、ということ、つまり、ピアノの音がどうでその音はこういう感じがしてそれを聴いたときわたしはこういう感覚を覚えた、ということを書くことじたい、高度な文章技術を要するだろうし、おそらく、それを書いているひとはほとんどいない。ここには音楽の細部をとらえる技術が必要だし、そのときに自分がなんらかの感覚を抱くという感性が必要だし、それを文章表現にたるまったくべつの表現として置換する強引さと文章技術が必要なはずだと思う。僕はそのどれをも持っていない。たとえば僕は大森靖子が好きだけれど、彼女の音楽について書きたいと思うとき、大森靖子が望んでいるしあわせは最低限のしあわせのように見える、というようなことしか書けない。それはつまり、彼女の音楽の細部について書くことを妥協し、彼女を彼女の音楽をも含めひとつの曖昧な全体としてとらえてその曖昧な全体について書いている、ということだと思う。そこにはもちろん彼女の音楽的細部は欠けているだろう。けれど、彼女の音楽的細部から出発し、その細部を論理的に探求することで「大森靖子が望んでいるしあわせは最低限のしあわせのように見える」という言説はひきだされえるんだろうか。僕にはよくわからない。
 僕がなにを書こうとしていまこの文章を書いているのか、僕はそれを明確にしようとしているわけじゃない。キース・ジャレットのピアノのひとつの音、それにつらなるドラムとベースの音、それを比喩的にでも比喩的にではなくても書くということはひとつの憧れだと思う。けれど、かりにそれをなしえたとしても、つまり、「音のひとつひとつ、つまりその細部をとらえて表現し、その細部について自分の受けた感覚を書く」ということを上質な技術でもっておこないえたとしても、それははたしてそのときの僕の感想を正確に表現できているんだろうか。もっといえば、僕ははたしてキース・ジャレットの音楽を聴いているときになにか言語的な感想を抱いているんだろうか。
 感想を書いたり言ったりすることはだれにでもできると思われているけれど、ほんとうにそうなんだろうか。その感想が言語的であるかぎりにおいてそれはすでに聴きおわった音楽とどんな関係があるんだろうか。音楽を文章で再現する、あるいは、その音楽というものを「描写する」ということはいったいどうやって可能なんだろうか。けっきょくのところ、僕たちがその音楽をすばらしいと言うのはその音楽が僕たちとは徹底的に無関係だからにすぎないからなんじゃないだろうか。
「感想」とはおそらくはその作品を鑑賞したあとの「わたし」について話したり書いたりすることで、「批評」というのはおそらくはその作品を鑑賞したあとの「その作品」について話したり書いたりすることだろう。けれど僕の考えでは感想も批評にもたいしたちがいはない。それらはけっきょくのところその作品以後に単一的に「わたし」を再構築するか「作品」を再構築するかのちがいでしかない。できあがったものや表現のありかたが異なったとしてもその過程でなされる作業は本質的に同一のものだ。それにたいして、「描写」とは「作品とわたしの関係」を再構築するということだと僕は思う。問題はつまりここに横たわっている「関係」というとりあつかいのむずかしいことがらについてで、そのことによって僕たちはようやく空間と時間を問題にすることができるようになる気がする。小説において「説明」と「描写」のちがいはなにかとか「説明」をするんじゃなくて「描写」をするんだということが狂ったように言われるけれど、「描写」とは「わたしがここにいるよ」ということだ。「わたしがここにいるよ」ということがないかぎり、僕はそれを描写することはできないだろう。「説明」というものが小説において一般的に退屈なのは「わたしがここにいない」からだ。
 これはおそらくは皮肉だろう。僕が描写をしたいと思うときすでにそこにキース・ジャレットの音楽は流れていない。あるいは「大森靖子が望んでいるしあわせは最低限のしあわせのように見える」と僕が言ったとき、すでに大森靖子と僕にはなんの関係もない。それならば描写ということはすでにすぎさってしまったなにかを現実として思いおこすだけの郷愁的な欲求にすぎないんだろうか。きっと、それはちがう。僕たちが、僕が描写をしたいと望むのはなによりも僕がそれらとは徹底的に無関係にすぎないということを知っているからだ。けれどそれはまだまだ悲劇的じゃない。すくなくとも僕はそれらを彼女たちを描写したいと望むくらいにはそれを愛しているからだ。





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