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鳩は羽音を響かせながら水面につどう

2013.05.12(23:49)

日陽はしづかに発酵し・・・ [DVD]日陽はしづかに発酵し・・・ [DVD]
(2010/09/25)
アレクセイ・アナニシノフ、エスケンデル・ウマーロフ 他

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 5月7日(火)

 会社にいき、家に帰って「悪霊」を100ページくらい読んで眠った。
 
 5月8日(水)

 会社にいき、家に帰って「悪霊」を20ページくらい読んで眠った。
 ドストエフスキー「悪霊」を読むのは2回めだけれど、「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」と比較してエンターテインメント的な要素がかなりおさえられているので、それらの作品にくらべてしまうとかなり読みにくいと思う。登場人物も散漫に描かれているような気がして、前半はステパン氏とワルワーラ夫人のことばかり描かれるのに、後半はスタヴローギンやピョートルらのことが中心となってくる。というよりも、むしろ、ここで描かれているのは中心を不在とした得体の知れない群像劇なのかもしれない。後半にこの街でおきた事件にしたところで描かれかたがあいまいで、ピョートルらの組織にしても、すくなくとも僕にはその組織のありかたが、つまり、そんな組織がほんとうにあるのかないのか、たとえないと明言されていたとしてもうまくわかることができない。裏表紙にはスタヴローギンが組織を「背後で動かす」とはっきりと書いてあるけれど、これは僕の理解力が乏しいせいかもしれないけれど僕にはスタヴローギンと組織がどんなふうにかかわりあいを持っているかもよくわからない。彼らがなにを思い行動しているのかがわからないというところはけれど「カラマーゾフの兄弟」でもある程度はおなじことで、それにしたところで彼らの行動理由を論理的に解きあかすということが文学を読むことだなんてちっとも思ってはいないんだけれど。


 5月9日(木)

 残業なんてしちゃだめだよと言われていたから、僕きょう5時に帰りますよ、とたからかに宣言していたのにもかかわらず、気がつけば夜の8時まで仕事をしていた。Nさんに、ねーねー知ってる、きょう、○○(僕の本名)っていうひとがねー、5時に帰るって言ってたのにまだいるんだよーとにこにこしながら言われたので、あ、ばれましたか、と僕は言った。ふふーと笑われた。僕もふふーと笑った。


 5月10日(金)

 5時に帰って上野までいってYNとごはんを食べた。知らないあいだに転職していてびっくりした。空調器なんかをくっつけたりしているらしく、ふうんと思った。ほんとうはもっといろいろなことがあったけれど、それはあんまりにもおそろしくてここには書けない。


 5月11日(土)

 昼の3時くらいにおきて、自己嫌悪にとらわれながらも高田馬場まででかけて、アレクサンドル・ソクーロフ「静かなる一頁」、「日陽はしづかに発酵し…」を見た。
 とくに気にいったのは「静かなる一頁」のほうで、冒頭、なにかの建物らしきものがカメラにうつしだされて、画面のそとからひとびとの声が聞こえてくるだけで、カメラはそこから微動だにしない。数分後にカメラはひどくゆっくりしたのほうに流れるように移動し、同時に、煙がすこしずつたちあがっていく様子が見えるようになる。建物のすぐわきの水面がうつしだされ、鳩がカメラの直前を横ぎり、その鳩の数はすこしずつ増えていき、ばたばたと羽音を響かせながら水面につどっていく。冒頭の場面はこれだけにもかかわらず、すくなくとも僕はこの場面を見ただけで、とくに水面に鳩がつどう場面を見ただけで、そこにあらわれたあんまりにも神秘的な情景にこころをうたれて泣きそうになった。この映画を見て、というよりも、いままで映画を見てきてほんとうによかったと思った。原作はドストエフスキー「罪と罰」だけれど、この映画はおよそ80分弱しかない。ということはもちろん、「罪と罰」の物語を再現するなんて不可能で、そもそも、ラスコーリニコフは老婆をすでに殺してしまっているし、ソーニャも2回くらいでてきてちょっと話して終わってしまう。僕の考えでは、ここでうつされているのは彼らがそこに存在している世界であって、その世界をすっかり凝縮するかたちでラスコーリニコフとソーニャのやりとりが展開されていく。原作において彼らは狂気的に饒舌だけれど、映画において彼らは静かに静かに語りあう。とくにソーニャのしゃべりかたや動作は静謐さにおいて、その病的さにおいて極限的なあらわれをしていて見ていて不安になってしまうくらいだった。原作において彼らがそこにいる世界は彼らによって展開される。ドストエフスキーがすばらしいのは彼が一般的に「おおきな物語」を語っているとされながらも彼がラスコーリニコフやソーニャなどの個人を語ることにぜったいの重点をおいているからだ。ずっとまえに僕はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」について、けっきょくのところたかが一家の話にすぎないのにそれがロシア全土の問題を語っているように見える、と書いたけれど、それはきっとドストエフスキーが全ロシアを個人にたくして語っているのではなくて個人が全ロシアを内包しているようなおおきさを満たしたように描いているからだと思う。世界は、つまり僕がここで言う世界は全ロシアよりもちいさな領域かもしれないけれど、ドストエフスキーの描いた世界は個人としての領域がひどくいびつに拡大してしまったあらわれではないかと思う。彼らがいともたやすく狂い、熱病にかかり、痙攣し、青ざめ、紅潮してしまうのは、彼らがあまりにもおおきな世界的な問題をうちに抱えてしまっているからのように思う。かつて「セカイ系」と呼ばれたジャンルでは世界の問題がきみとぼく、個人対個人の問題と直接的に結びつけられていたけれど、それはけっきょくのところ世界を個人に還元したということだと思う。それは個人を拡大したわけではなく世界を縮小した、もっと言うのであれば、世界を個人とすりかえたということだと思う。そこで世界について語ることはもうできない。個人について語ることが世界を語ることと同意義であるならばもはや彼らは世界を語ることはできないからだ。村上春樹の小説は「セカイ系」という表現のひとつの元祖的なありかたとして描かれているけれど、問題は村上春樹の小説があらゆる方向に展開されるはずだった世界的直線を個人の孤独に向かわせてなお個人としての彼が孤独のままにとらわれつづけるということにあったと思う。彼の小説は全世界をいやおうなくふくんでしまうかもしれない、けれど、全世界を、つまりあらゆる他者をふくんでなおなぜ彼は孤独でいつづけなくてはならなかったのか。「セカイ系」はその直線のはんぶんを「きみ」にのばすことでひとつの脱獄をはかったのかもしれない。しかし、そこにはただの解決しかない。けれど僕はある問題にひとつの解決をはかることがその問題を消滅させる手段だとは思っていない。ドストエフスキーがおこなったことをいま現代の日本で唯一おこなっているのはたぶん岡田利規だと思うけれど、彼が語るのは神の問題ではなくてただの日常における問題だ。彼らはイワンやアリョーシャが神について語るのとおなじやりかたでもって日常について語っているように見える。その過程で、僕たちを圧迫する日常というものがありありと浮かびあがる。という話はソクーロフ「静かなる一頁」とはなんの関係もないけれど、とにかく、ソクーロフがこの映画でまず撮ったのはそもそもラスコーリニコフやソーニャという個人ではなくて彼らがただそこにいるという世界だった。ここにはどこかSFじみた終末世界的ななまなましい場面が流れるように展開されていく。ラスコーリニコフが歩き、そこで目撃していく世界というものはラスコーリニコフと関係があるものというよりもむしろ、カメラのフレームによって四角形にきりとられた世界として僕たちに積極的に提示されていく。ラスコーリニコフに群がる娼婦、そこらを歩きまわる犬、(なんでかはさっぱりわからないけれど)高いところからスローモーションで飛びおりていくひとびと、そういうものがひとつひとつの世界として躍動し、その躍動のひとつとして、あるいはそれへの反作用として、ラスコーリニコフやソーニャはあったように思う。なんてきれいな映画なんだろう。
「日陽はしづかに発酵し…」は2時間以上あってだれるのだけれど、「チェチェンヘ」を見たときにも思ったけれどそもそもソクーロフの映画は映像が持っているひとつひとつのちからがほかのどうでもいい映画とはぜんぜんちがう。たんじゅんにいって、ひとがいてひとつ部屋のなかでなにかを話している、というなんでもない場面の映像ですら、もはやそこの画面にうつしだされた映像のひとつひとつの粒子のさらなる構成成分がまるきりちがっているように見えて、どうにも愕然としてしまう。僕は映画についてはくわしくないからソクーロフがどうやってそういう映像を撮っているのか、それがそんなにもむずかしいことなのか、あるいは、ソクーロフではない映画監督がいったいなにを考えてきれいではない映像を撮っているのか、そういういっさいの問題がカメラの問題なのか、ロケーションの問題なのか、資金の問題なのか、美意識の問題なのか、知性の問題なのか、僕にはそういうことすらもなんにもわからない。でも、たとえば小説における風景描写ということについては僕は映画以上にはわかると思う。だれもが柴崎友香のようにはなにかを描写しない。僕は僕以外のほかのひとがなにを思って風景描写というものをしているのかは知らない。風景描写をしないといま登場人物がどんな場所にいるのかわからなくて読者がそれを想像できない、ということが一般的に描写をする必然性みたいにうたわれているかもしれないけれど、僕の考えだとまともなにんげんはそんなばかげた理由では風景描写をしない。そんなことを読者にわからせたいのであれば小説のあいまに写真でもはさみこんでおけばいいはずだし、そうでないのであれば、そのひとは写真をはさみこむのがめんどうくさいからそれなりの文章をその代替として書いているにすぎないだろう。そういうことはソクーロフを見たり柴崎友香を読めばわかるはずだと思う。その描写じたいが映画であって、小説だ。


 5月12日(日)

 クリーニング屋さんにって、ドトールにいって日記を書いたり「悪霊」を読んだりした。





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